のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

カーミットのこと

2012-05-18 | 映画
そもそも食べることが面倒くさいので、食べるものを作ることはそれに輪をかけて面倒くさいのです。
電池交換で生きられたらどんなにいいだろうかとは常々思う所です。
最近は食べるのはおろかきちんと座るのも口を開くのも面倒くさいという始末で、そのうち呼吸するのも面倒くさくなるのかなあ。

それはさておき

映画『マペッツ』は5月19日封切りでございますか。どうせならジム・ヘンソンの命日である16日公開にすればよかったのに。
マペットといえばジム・ヘンソンでありジム・ヘンソンといえばマペットなわけですが、ヘンソンさんが生み出した数々のマペットの中でも最も有名なのはこのかたでございましょう。


ヘルベルト・ブロムシュテット

おっと間違えた


カエルのカーミットでございます。

「マペット・ショー」のレギュラー出演者であるカーミット、当然映画版の『マペッツ』の方にも顔を出しているようです。しかしワタクシにとってカーミットといえば、大人向け長寿番組のホストではございません。ワタクシの知るカーミットは、中折れ帽子にトレンチコート姿のレポーターであり、優しくまろやかな声でAfrican AlphabetやThis Frogといった、時には渋く時にはゴキゲンな歌を口ずさむ名シンガーであり、グローバーやカウント伯といった超絶マイペースな面々によって翻弄される常識人であり、要するに「セサミストリート」の看板マペットとしてのカーミットでございます。

Sesame Street: African Alphabet


ところが。
ワタクシが少なからずショックを受けたことには、現在アメリカで放送されている「セサミストリート」にはカーミットが登場しないというのでございます。何でも、ディズニーがジム・ヘンソン・カンパニーから「マペット・ショー」およびそこに登場するマペットたちを買収したため、セサミの制作会社であるCTW(Children's Television Workshop)は、今やディズニーキャラとなったカーミットを番組に登場させることができないのだとか。

ふざけんなディズニー!!
と一人吠えてはみたものの。
そもそもディズニーによる「マペット・ショー」買収以前に、CTWがセサミに登場するマペットたちの使用権をジム・ヘンソン・カンパニーから買い取った折、その移籍マペットたちの中にカーミットが含まれていなかったというのが今の事態に繋がっているようです。レギュラーマペットたちの中でなぜカーミットだけが買収契約から外されたのかは分かりませんが、おそらくは彼が「セサミ」のみならず「マペット・ショー」においても看板スターであることが問題だったのでありましょう。
とにかく、CTWにはカーミットを自陣に引き入れる機会があったのに逃してしまったという経緯が存在するのであり、単純に「ディズニーがカーミットを金で囲いやがった」という話ではない.....のかもしれません。

そうは言っても、ディズニーキャラになってしまったカーミットというのは、なんだか寂しいのでございますよ。あちらではディズニーランドにカーミットグッズが並んだりしているのかしらん。ヘンソンさんが生きていたら何とおっしゃるやら。

寂しいといえば、実写の俳優と、フルCGで作られた生物との共演など珍しくもない今日、もはや『ラビリンス 魔王の迷宮』や『ジム・ヘンソンのストーリーテラー』のようにマペット大活躍のファンタジー作品なんて作られる事はないのでしょうね。あの「リアル」と「つくりごと」のワクワクするようなバランスが、ワタクシはたいへん好きだったのですが。

『ブリューゲルの動く絵』

2012-05-10 | 映画
気がつけば劇場で鑑賞してから二ヶ月も経っておりました。
気がつけば二ヶ月だなんて何と恐ろしい。こうやってのんべんだらだら生きていて、明日も明後日もその次の日も同じように生きるつもりでいる時にふと思いがけず死んでしまうんだろうなあ。

それはさておき。



ルトガー・ハウアーの映画をあんまり観ていないせいか、寝転がっているブリューゲルが年とったレプリカントに見えてしかたありません。

一言で言ってしまうと「ブリューゲルの絵の中に入って行く作品」なわけでございますが、単に描かれている通りの風景の中にカメラが入って行くということではございません。むしろ一枚の絵に託された16世紀フランドルの人々の精神と、それを見つめる画家の精神の中へと分け入って行き、ひいては近世ヨーロッパという枠組みを超えて、受苦のイメージ(像)-----侮辱されるイエスや十字架の道行き、悲しみの聖母、処刑される殉教者たちといったイメージ-----を信仰の重要な一部として保持してきた人間の心性を覗き込む映画でございます。
原題は『The Mill and The Cross(風車と十字架)』。こんな地味なタイトルではお客が入るまいという配給会社の心配は分かります。しかし何か楽しく心地よいアニメ的作品を連想させる『ブリューゲルの動く絵』という邦題や「不思議の世界に迷い込む」といったコピーを繰り出して来る予告編は、本作の主題からするといささか表面的すぎ、ミスリードのもとではないかと。副題くらいにしておけばよかったのに。実際、観賞後の場内では「もっと楽しい映画かと思ってたのにね...」という声も聞かれました。

それもさておき。

映画が始まっても、しばらくの間は何も起きません。台詞も全くございません。
ある村が朝を迎え、人々が寝床からはい出し、身支度をしておのおのの生業に取りかかる様子が生活音のみをBGMに淡々と、ごく淡々と描かれ、牧歌的この上ない風景が展開されます。子供たちは寝床の周りでふざけあい、風車小屋をのぞむ青々とした草地には慎ましい売り物を携えた村人が三々五々と集まり、単純な角笛の音色に合わせて、田舎染みた男女がステップを踏み、そうこうするうちに次第に朝もやも晴れ。
平和そのものでございます。
調和のとれた色彩と穏やかな生活音が醸し出す心地よさにうっとりとしておりますと、風車小屋の足下に広がるのどかな風景の中、突然鮮やかな赤い服をまとった騎馬の一隊が現れ、草地の市に来ていた若い男を追い回し、激しく鞭打ちます。観ているこちらがえぇおいちょっと、と思う間に打ち殺される男。死体はその場でさらし台に上げられ、カラスのついばむままに放置されます。さらし台の足下でなすすべもなく泣き崩れる男の妻。突然の惨劇を前に、ただただ沈黙する人々。

舞台は16世紀、スペイン支配下のフランドル。近くの某島国の国務長官殿が、女王様に「スペイン勢力追い出すためにあのへんに派兵しましょうってば!」と進言しては却下される日々を送るのより、およそ20年ほど前のことでございます。
圧政下で理不尽な運命を強いられる庶民の姿、のどかな農村の中でカラスについばまれる死体、その傍らで淡々と生きて行く人々、これらは16世紀フランドルのいち情景ではありましょう。しかし大ブリューゲルの作品並みにぐぐーんと引いた視点で見るならば、これはある時代のある場所に限られた出来事の描写ではございません。襲いかかる不条理な暴力と突然の死、という、人間にとって常に親しく、またこれからも様々な規模で繰り返されるであろう悲劇の光景でございます。

こうした悲惨さを前にしてブリューゲルのパトロンは問いかけます。これら全てを描ききることができるのか、と。「できる」ときっぱり答えて、画板を小脇に抱えたロイ・バッティもといブリューゲルは同時代人の苦しみ、悲しみを聖書の物語に託して描き始めます。辱められ、傷つけられ、不当に迫害されるイエス。遠くから見守ることしかできない聖母。悲嘆にくずおれるマグダラのマリア。無慈悲な迫害者。これらは聖書の一場面であると同時に、見るものの感情を託されることによって、人が受けるあらゆる不条理な苦しみ、悲しみの肖像ともなるのでございました。

無意味で、悲惨で、突然で、納得のいかない受苦、そして死。それは「神の子」たるイエスや聖人たちの受苦に投影され、重ね合わせられることによって、ようやくいくばくかの肯定的な意味と、救いを獲得することでありましょう。
何といっても、神が全てを見ていてくれるはずなのです。何もしてはくれないけれども。イエスの苦しみと死を黙って見ていたように。あるいは、高台にそびえ立ち、人々の苦しみを見下ろしながら悠然と回り続ける風車のように。


「十字架を担うキリスト」1564年 ウィーン美術史美術館

それにしても、こんなにも”引き”で描かなくたってよさそうなもんではあります。イエっさん小さすぎ。
広大な眺望とあまたのギャラリーに埋もれて、ゴルゴタの道行きという「世界を変えるような大事件」が、風景の中の単なる一点に成り下がってしまっているではございませんか。また、あまたのギャラリーといったって中央のキリストにとりわけ注目するでもなく、むしろ斜め後ろで起きている悶着の方に気を取られている始末。

英語版公式サイトで、この絵の拡大図と映画の中のシーンとを比較してみることができます。
THE MILL & THE CROSS movie

普通はもっと主役らしく描いてもらえるもんですのに、このイエっさんの扱いはいったいどうしたことか。
劇中のブリューゲルは言います。「人々は大事件の傍らを通り過ぎる」
実際、ある事件(天災も含めて)がどんなに重大なものであったとしても、その重大性をほんとうに理解し、語ることができるのは、まさにその事件によって苦しみを受けた当事者と、全てを見通す神の視点にある者だけなのかもしれません。結局の所、人はどんなに共感しようと頑張ってみても他人の苦しみ、悲しみを肩代わりすることはできず、起きた事の全ての相関を見渡すこともできないのですから。

かくて直接の当事者でもなく、また神でもない私たちのうち、ある者は遠くの大事件よりも卑近なスペクタクルに目を奪われ、ある者は事件など存在しなかったかのように、おのおのの日常を送り続けるのでございました。
大事件のあと、永遠に変わってしまった世界の中で、なおも日常は続いて行く。
劇中のブリューゲルはそのことを不誠実と責めるのではなく、愚かしい事と嘆くのでもなく、ただ「そういうもの」として、「大事件」と同じ画面のなかに描き込んだのでございました。

震災を経て「そういうもの」のただ中を生きている私たち、というものを思わずにはいられません。
大事件は確かに起き、無数のイエス、無数の殉教者、無数の聖母、無数のマリア・マグダレナが確かにいるわけです。
その傍らで、食べ飲み歌い遊び、映画を観に行ったりなんぞして日常を送る私たち。
聖書の物語と、16世紀フランドル、そして現在の世界が、ブリューゲルの絵画を通じて繋がります。

本作は『モンパルナスの灯』のように画家の半生を描いたものでもなければ、『真珠の耳飾りの少女』のように、ある絵にまつわる物語を綴ったものでもございません。言うなれば、象徴に満ちたブリューゲル絵画の読み解きを、本やTVの教養番組ではなく映画という媒体を通じて行った作品でございます。観客はその絵が描かれた時代の社会的・精神的状況や、画家自身の思想と洞察、そしてその洞察の現代性(普遍性)を、スクリーンを通じて目撃するという稀な体験をいたします。
教養ドキュメンタリーでもなく劇映画というわけでもない、なかなかに独特な位置づけの作品であり、美術ファンのワタクシとしては、今後もこういった作品が作られて、いちジャンルとして確立したら面白いんだがなあ、などと思った次第でございます。