のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

竹内栖鳳展

2012-08-27 | 展覧会
何やら島のことで大騒ぎですが
双方とも他にすることはないのかいと申し上げたい。

それはさておき
松伯美術館で開催中の没後70年 竹内栖鳳展へ行ってまいりました。

40点ほどの作品が2期に分けて展示されておりますので、一度に見られる作品はその半分ということで、まあ正直こんな大仰なタイトルつけていいのかしらんという規模ではございます。まあなにせ美術館の建物自体が小さいので、いたしかたのない所ではあろうかと。
そもそも、本来なら京都市美術館あたりで大々的にやるべき企画だとは思いますけれどね。
以下、引用は全て展示の解説パネルより。

そして画家というものは常習的に、絵を以て輪郭を描こうとするが、そもそも輪郭というものは、線などあってもなくても、明瞭でも不明瞭でも、そんなことはどうでもいいことで、若しその画家が形というものをしっかり掴んでさえいれば、美術としての見事な輪郭は自然に見ゆるものであろう。そこが画家としての仕事であろうと思う。
「栖鳳藝談」 東西朝日新聞 昭和11年1月

画家自身のこうした言葉に触れ、またその作品を前にしますと、私たちは普段ものを見ているというよりも、見たつもりになっているだけなのだということに、つくづくと思い至ります。脳ブームのさきがけ本『脳のなかの幽霊』では、脳がいかに視覚の穴や切れ目を補って、実際には見ていないものを「見せて」いるか、ということが論じられておりましたっけ。実際私たちはほとんどの場合、サッと視界を横切らせただけで、もうその対象を見たつもり・分かったつもりになっているようでございます。

中学校の美術の先生が言っていた言葉を今も思い出します。そこらで拾った小枝をデッサンするという授業で、「小枝だと思って描いてはダメだ。今までの人生で初めて目にする物体だと思って描きなさい。君は宇宙飛行士で、他の星にやって来て、今まで全く見たこともないものに遭遇した。その未知の物体の姿を、地球の人たちに伝えるために描きとめる、そういうつもりで描きなさい」と。

栖鳳といいますと配色におけるメリハリの妙というパッと見の印象もさることながら、素早いタッチで対象のかたちを描き出す筆さばきの巧みさ、手技の正確さ、という技術的な面にまずはハハーと恐れ入ってしまうわけでございますが、上に引用した画家自身の言葉からは、そうした高い技術や色彩感覚に先立って、もののかたちを本当に捉えようとする眼差しがあったということが改めて分かります。初めて出会ったものを見るかのような真摯な気持ちで対象を把握しようと努め、そこに「画家としての仕事」を認めるという心持ちをずっと保ち続けた人であったのでございましょう。

ボタ、ボタ、ササ~っとほとんど無造作に置かれたかのような筆致で、対象のかたちが恐ろしく的確に表現されているのを見るにつけ、栖鳳のかたちを捉える目の厳しさが思われます。とはいえ、作品そのものから伝わって来るのは、謹厳さというよりもむしろ「絵にすることの喜び」であって、紙の上を疾走する素早い筆致や顔料のにじみを目で辿って行きますと、「しっかり掴んだ形」に基づいて自分の絵をどんどん作り上げて行く画家の喜びを追体験するような心地がして、こちらまでわくわくと嬉しくなってまいります。

しかし、画家というものも、その閑静な、自由な生活に於いて、自然に構想が浮び出て、さて画筆を執る時の心境というものは、他に比べようのないほど楽しいものである。その点、他の画家のことはよく知らないが、私なんか、作品が仕上がった時の悦びよりも、いざ制作に取りかかろうとする時の方が、希望に燃えていて、つらつら画家という仕事の有り難さを感ずる。
同上

そんなわけで
印刷物を含めてたった20点ほどの展示ではございましたが、「描く悦び」のお裾分けをいただいたようなお得な気分を味わえたことこそ、有り難いことでございました。絵を描くって、ほんとは楽しいことだったよなあ、としみじみした次第。


『ニーチェの馬』2

2012-08-16 | 映画
なんもかんもくたびれた。
くたびれるようなことはなんもしてないのに。

それはさておき

8/1の続きでございます

希望もなし、解決策もなし、アツいヒーローもケナゲなヒロインもなし、明日に役立つ人生訓も、心温まるちょっといい話も、感動のエンディングもあっと驚くどんでん返しもなし、その単調さゆえにほとんど儀式のように見え、またその苛酷さゆえに刑罰のようにさえ見える父娘の日常がひたすら淡々と描かれたのちに虚無の中に折り畳まれるようにパタリと終わる本作。
エンドロールがつきて場内が明るくなっても、映画を観きった、というスッキリ感もなければ、ああ何もかも終わってしまった、というカタルシスもなく、『未来世紀ブラジル』のように突き抜けた、いっそ爽やかな絶望感すらもございません。

重いテーマを扱った映画なら巷にいくらでもございます。いかに重苦しい作品でも大抵の場合は、未来に活かす戒めや社会に対する警鐘を読み取ることができ、その点において希望を見いだす余地があるものでございます。
ところが本作ときたら、世の中の不正に対する告発やスクリーンの中の寓話として遠くから眺め、そこから教訓や希望を引き出す、という都合のいい、そしてちょっと心地がよくもある見方を許しません。終幕に向かってつのる圧倒的な虚無感は「鑑賞」というよりむしろ重々しい「体験」として、鑑賞者の中でくすぶり続けます。

予告編その2(英国版)

The Turin Horse - Official Trailer


いや予告編というか何というか。


この映画の幕切れからまず連想したのは、かの暗鬱な宇宙の終焉シナリオでございます。全ての天体が冷えきってブラックホールに飲み込まれ、最終的にはそのブラックホールすらも消滅して、暗黒の中を素粒子が飛び交うだけの状態が永久に続くというアレ。今の宇宙物理学ではこれが一番有力なシナリオとされているのだそうで。こんな話を聞かされた日には中島敦でなくたって嫌になろうというものです。

そりゃあね、神様やらブッダ様やらがとっくの昔に死んでしまったにしても、私たちが宇宙の一部分であることには違いありませんし、同一のものは二つとないという意味では、かけがえがない存在であるとすら言えましょうよ。しかしその宇宙の行き着く先がこんな未来であるとすれば、今私たちが存在してることっていったい何なんでしょうか?まあのろさんごときがどういう最期を迎えようともザマアミロとしか言いようがないわけですが、人類全体はおろか、存在しているもの全てが、こんなにも無意味で絶望的な終末を迎えるとしたら。かけがえがあろうとなかろうと、どっちみち無意味じゃございませんか?存在していようといまいと、同じ事じゃございませんか?いやいやそんなことはそれこそとっくの昔から分かってることなのであって、むしろ全て無意味だということは分かっているのに、何故なおも意味を求めてしまうのかという点が問題なのだ。

何の話でしたっけ。
そうそう、ビッグリップだかビッグフリーズだかミスターフリーズだか、まあ名称はどうでもいいんでございますが、こういう心の底からうんざりするような終焉図を前にしてみると、救いを見いだせる場所は宗教や神秘主義以外にほとんどないような気がいたします。
そこでやっぱり宗教に向かう人もおりましょう。従来の神様は死んでしまったらしいので、新しい宗教、新しい神様仏様にすがる人もおりましょう。それについて考えないようにする、いわば見て見ぬふりをする人もおりましょう。あるいは先がどうであろうと、今ここに存在しているというただそのことに、絶対的な肯定を見いだせる人もおりましょう。

ニーチェの唱えた超人というのは、世界の無意味さを認識しつつも強靭な意志の力で絶対的肯定に達し、自ら価値を創造する人間のこと、と理解しておりますが、超人の誕生は永劫回帰(=究極の無意味さ)の認識に基づいているわけでございますよね。永劫回帰というのは全く同じものが全く同じ仕方で繰り返す世界なわけで、当然、個人の意識のありようも全く同じ仕方で繰り返されねばならず、ということは、ある人物が強靭な意志でもって絶対的肯定に達するということも、すでにその永遠の循環の中に織り込み済みなわけで...それってカルヴァンのくそつまらない予定説とどう違うの??
などと思うのは、まあワタクシが不勉強なせいでございましょう。そもそも永劫回帰は例え話ぐらいに受け取っておいたらいいものなのかもしれません。

ちなみに映画には永劫回帰のえの字も出て来ませんし、ニーチェの名前も映画の筋とは特に関わりのない冒頭のナレーションで触れられるだけでございます。
そのナレーションというのは、ニーチェがトリノの街角で、御者に激しく鞭打たれる馬にすがりついて泣き、その後狂気に陥って二度と回復しなかったという逸話であり、「その後、馬はどうなったのか?」という疑問がタル・ベーラ監督をしてこの作品を撮らしめたということでございます。



トリノで倒れた後のニーチェは崩壊した精神の中に退き、死ぬまでの約10年間を母親と妹の保護下で過ごしたのち、故郷に埋葬されました。狂気に陥ってからは意思疎通もままならなかったというニーチェが何を考えて過ごしたのかは知る由もございませんが、ピアノを即興でいつまででも弾いていたとか、泣いている妹に「何故泣いているんだね?私たちはこんなに幸福じゃないか!」と言ったという逸話(信憑性はともかく)からは、外界とのつながりは壊滅したにせよ、その内面は穏やかで自足したものだったのではないかと想像されます。いさかいも失恋も経済的な心配も、理解されず売れもしない本を書きまくってますます孤独になることもない。神が死んだことだって、きっと忘れちゃったことでしょう。

でも、馬は?
昏倒したニーチェが運び去られたあと、おそらくはまた同じように御者から鞭打たれたであろう馬は?
苦役から逃れるすべもなく、神の救いも期待できず、狂気という隠棲の地もなく、ただひたすら外界の命ずる所に耐え、従い、死んでいくしかない馬は、その後どうなったのか?
ニーチェが路上でかき抱いた馬とは、とりもなおさず私たちのことでございます。馬との違いがあるとしたら、存在の無意味さ、虚しさ、そして大なり小なりの終末(宇宙やら人生やら)を意識しているということでありましょうか。まあこれだって怪しいものでございます。少なくとも映画の中では、この点で人と馬との間に違いはございません。前回の記事の繰り返しになりますが、存在の無意味さや暗澹たる終焉に対して取られるであろう様々な態度は、馬を含めた登場人物たちによって、寓意的に示されます。



取りうる態度の選択肢は色々あるにしても、おおかたは、黙々と生活を続ける父娘のように、儀式のように決まりきった日常を、できるかぎり今までと同じように続けようとするのではないでしょうか。現にそんなふうに生きておりますし。
私というおそらく無意味な存在の、これまた無意味な死を想い、どんどん破滅的な方向に向かっているような気がするこの「くに」のありさまをおおむね傍観し、同じくどんどん破滅的な方向に向かっているような気がする人類(どっちみちあらゆる生物は絶滅の途上にほんの一瞬間だけ存在しているだけなんでしょうけど)をあーあという思いでこれまた傍観し、永遠の闇が支配する宇宙の終焉図にうんざりしつつも、朝になれば起き、ものを食べ、仕事をし、そして寝る。要するに映画の中の父娘と全く同じように生きているわけでございます。

だって、他に何ができるんでしょう?

というわけで
生の無意味さに思いを致さざるを得ない、といいますか他に行き着く先がないようなものすごい映画であり、映像の力強さひとつを取っても傑作には違いないのですが、日々幸福で心楽しい生活を送っている方は観ない方がいい作品のような気がいたします。


中島敦『狼疾記』
三造は怖かった。おそらく蒼くなって聞いていたに違いない。地球が冷却するのや、人類が滅びるのは、まだしも我慢ができた。所が、そのあとでは太陽までも消えて了うという。太陽も冷えて、消えて、真暗な空間をただぐるぐると誰にも見られずに黒い冷たい星共が廻っているだけになって了う。それを考えると彼は堪らなかった。それでは自分は何のために生きているんだ。自分は死んでも地球や宇宙は此の儘に続くものとしてこそ安心して、一人の人間として死んで行ける。それが、今、先生の言うようでは、自分たちの生まれて来たことも、人間というものも、宇宙というものも、何の意味もないではないか。本当に、自分は何のために生まれて来たんだ?それから暫く、彼は-----十一歳の三造は、神経衰弱のようになって了った。父にも、親戚の年上の学生にも、彼は此の事に就いて真剣になって訊いて見た。すると彼らはみんな笑いながら、併し、理論的には、大体それを承認するではないか。どうして、それで怖くないんだろう?どうして笑ってなんかいられるんだろう?五千年や一万年のうちにはそんな事は起りやしないよ、などと言ってどうして安心していられるんだろう?三造は不思議だった。彼にとって、これは自分一人の生死の問題ではなかった。人間や宇宙に対する信頼の問題だった。だから、何万年後のことだからとて、笑ってはいられなかったのだ。
中島敦全集2 p.236 ちくま書房 1993年

もろもろ×4

2012-08-06 | Weblog
以下、おおむね言い訳に終始いたします。
では。

もろもろ1

何といってもクラウス・ノミの命日なわけでございますが、情けないことに記事が用意できておりません。
こうやってだんだんものぐさになっていくのかしらん。全般的に気力が低迷しているとはいえ、ああ、ヤツに対して申し訳ない。
とはいえノミの追っかけをやめたわけでは全くなく、数ページにわたってヤツについての記事がある雑誌をキープしておりますので、追ってその内容などをご紹介できればと思っております。

そうそう、今年のヤツのバースデー記事で、ヤツの誕生日である1月24日は歴史的に宇宙科学関係のイベントが多い日でもある、ということを申し上げましたけれども、2004年1月24日に火星に着陸したNASAの探査機「オポチュニティ」に続いて、後継機の「キュリオシティ」が何とヤツの命日である今日8月6日、無事火星に着陸したというニュースが入ってまいりましたね。
いやはや、何と素晴らしいタイミングなんでしょう。
狙ってるんですかNASAさんったら。狙ってるんでしょう。わかりますよ。うふ。

もろもろ2

公開前にさんざん騒いでおきながら今に至っても『裏切りのサーカス』についての記事がないのは、観に行かなかったからでもなければ、作品がつまらなかったからでもございません。ぜひとも何か書きたいのでございます。が、何せ鑑賞したのが外に出るのもおっくうという最大限にやる気のなかった時期であり、鑑賞ノートを開いてみても3行しか書き付けがございません。DVDで鑑賞しなおしてから、またゆっくり記事にしたいと思っております。
ところでマーク・ストロングが「自分の悪党生活にうんざりしているワル」を演じているという微妙にメタな『The Guard』は日本で劇場公開されないんですかね?!すごく面白そうなんですが。

もろもろ3

京都国立近代美術館で開催中のKATAGAMI Style|世界が恋した日本のデザイン もうひとつのジャポニスムはたいへんよい展覧会でございました。京都での会期は8月19日までであり、うかうかしていると紹介しそびれてしまいそうですので、とりあえず点数内容ともに充実した展覧会であった、ということだけでもご報告しておこうかと。文化博物館の『ヴェネツィア展』とどっちに行こうかなと迷っておいでのかたには、型紙展の方を強くお勧めいたします。

もろもろ4

『ダークナイト ライジング』を観てまいりました。
いやあ
映画ってほんとにいいもんですね!
と、劇場の暗闇の中でそっと涙を拭いつつ、のろさんは思ったわけでございますよ。
が、この作品、ネタバレなしにはほとんど何も語れそうにありません。
まだ封切られたばかりではありますし、これももう少し経ってからネタバレ感想を書かせていただきたく。(こればっかりだ)
おそらくバットマンについての知識がなくても楽しめる前作『ダークナイト』と違い、多少の予備知識がないと戸惑う部分もあろうかと思います。しかし何についての予備知識があればいいかということを言うとそれ自体がネタバレに繋がってしまうのであって、もどかしい所でございます。

ともあれ、展覧会にせよ映画にせよ、本当によいものに出会うと「生きるってのも悪くないよなあ」と思いますね。
嬉しいので久しぶりに花を買ってしまいましたよ。



ちなみに「バットマン」の悪役でジョーカーさんの次に好きなのはポイズン・アイビーでございます。

こんな日は夕日もことさらきれいだ。




『ニーチェの馬』1

2012-08-01 | 映画
長くなりそうですので、二回に分けます。
以下、完全ネタバレ話。まあネタバレしたからどうこうという映画でもございませんが。

『ル・アーヴルの靴磨き』とどっちにしようかなあと迷った所で、気分的にこっちだなと選んだわけです。
予想にたがわず、厳しく美しく圧倒的かつ観客にひとかけらの希望も与えないような作品でございました。
別に悲惨な事件が起きるでもなく、それどころか事件らしい事件はほとんど何も起きないまま、主人公である父娘の日常が淡々淡々ひたすら淡々と描かれ、終末の予感がじわりじわりとつのってふと終劇を迎える、言ってみればただそれだけのお話でございます。何となく不穏な日常と終末感と突然の幕切れ、という点では『日陽はしづかに発酵し...』に似ていなくもない。あれほどわけわからない話ではございませんが。
わけがわからないどころかストーリーも構造もごくごくシンプルでありながら、作品について考えているとどんどん作品自体から離れて行ってしまうという妙な映画ではあり、だからこそあえて何も語らないというかたもいらっしゃいましょうし、「映画の極点」という形容もふさわしいものと思われます。当鑑賞レポも話が映画から離れてあっちこっち行くことがあるかもしれませんが、どうぞご了承のほどを。

映画『ニーチェの馬』公式サイト

映画『ニーチェの馬』予告編


暴風が吹き荒れる痩せた土地で、父と娘が貧しく単調な生活を送っております。起きて、着替え、仕事をし、帰って、着替え、食べて、寝る。食事はジャガイモのみ。彼らの生活の単調さや物質的な貧しさの描写も妙にすごみがあるのですが、おそらくその乏しさ自体は映画において重要なことではなく、人間が生きるということ、生活するということを極限まで切り詰めて描いた結果でございましょう。
生活にまつわる諸々だけでなく、台詞も最小限に切り詰められております。劇中で唯一饒舌なのは、一度だけ登場する隣人(といっても、多分かなり遠い)の男であり、ニーチェよろしく、神の死と高貴なものの没落をまくしたてるように語ります。絶え間ない暴風の音と父子の生活音だけに慣れていた耳にとって、それはあたかも志賀直哉がぶらついている城之崎にいきなりドストエフスキーの登場人物が現れて神の不在にまつわる大演説を始めたかのようなギャップでございます。それだけにこの部分は作中の強力なアクセントとなっておりますが、脳みそを音モードから言語モードに切り替えるのがちと大変ではございました。
この人物が語る「人間はあらゆるものを手に入れ、それらを全て堕落させてしまった」というくだりからは、あらゆるものの価値がマネーの多寡へと還元されてしまう行き過ぎた資本主義のことがちらと連想されましたが。しかしこの映画の行き着く所から顧みれば、この言葉はもっと深い部分への言及のように思われます。

神の死、と言ったとき、それはもちろん世界のはじめにあらゆるものを造った造物主としての神でございます。ところがその唯一絶対にして至高の神さんときたら「六日間かけてこのクソみたいな世界を造った」(監督談)あげく、その後の事は被造物自身に丸投げにしていつの間にやらお亡くなりになってしまったわけです。

なんてこったい。
おかげで私たち被造物は誰にも庇護してはもらえず、恩寵やら復活やら天国やらといったステキな何かを取りはからってももらえず、絶対的に正しい価値観を示されることもなく、先行きも全く分からないまま、圧倒的に巨大で強力な外界(「私/我々」ならざるもの)に取り囲まれて存在せざるをえないときております。
外界があまりにも強い力で個を打ちひしぐ時、個にできることはただ、その苛酷な状況に耐えつつ何らかの精神的態度を取る事だけでございます。 ちょうどこの映画において、狂ったように吹き続ける暴風や、突然枯れる井戸、消え行く火種に対して父娘がなすすべを何一つ持たず、それでもひたすら黙々と生活を続けるように。これをフランクル風にひっくり返せば、全てが奪われたとしても何らかの精神的態度を取る自由だけは残されている、ということにはなりましょうが。これを人間性に対する希望あるいは尊厳の表現と見るか、あるいは人間の無力さ、存在のよるべなさの表現と見るかで、この作品に対する最終的な印象はだいぶ異なることでございましょう。

かくて六日間に渡って描かれる、世界の緩慢な終末。
そこには宇宙人の襲来や迫り来る隕石群のようにドンパチ劇的スペクタクルな絵は何もございません。ただ毎日少しずつ、何かが失われ、毎日少しずつ、生きる事が困難になって行きます。その中で、おそらく総勢10人にも満たないであろう登場人物たちが見せる様々な精神的態度は、おおかたの人間がとるであろう態度の寓意的な縮図となっております。
神の死を語った饒舌な隣人は、洞察と締念とを抱えつつ、酒をあおってのしのしと歩み去ります。
荷馬車でやって来た一団は、水の備えすら持たずに、浮かれ騒ぎつつこの土地を離れて行きます。
終末を感じ取った娘と馬は、もはや食べることさえ放棄します。
そして水も、火も、光さえも失われた終幕においても、父親は言います。「食え。食わねばならん」

暗闇の中でじゃがいもをかじる父親のように、もはや希望などないことを悟りつつ、生きる努力を淡々と続けることもできましょうし、馬や娘のように、静かな絶望とともに状況を受け入れることもできましょう。荷馬車の連中のように浮かれ騒ぎながら、見えない希望(らしきもの)に向かって闇雲に進んで行く事もできましょう。あるいは隣人のように滅んで行く世界を見つめ、分析することもできましょう。
これらの態度の間で尊厳の有無を問うても意味のないことでございます。
神もなく救済もなくただ何もかも消えて行く世界において、すべてはひとしく虚しいのですから。

次回に続きます。