のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

ドイツ写真の現在2

2006-01-11 | 展覧会
1/9の続きでございます。
Andreas Gursky アンドレアス グルスキー でございます。

抽象絵画を見るときならいざ知らず
写真を見る時、通常、私たちは「そこに何が写っているのか」に、まずもって関心を向けます。
ああ花が写っているのだな、とか ああ人物が写っているのだな、と。

ところがGursky氏の作品は、被写体が何であるのか、ということに先立って
まずは美しい色面として目に飛び込んで来ました。

あるいは くすんだ白とまぶしいようなグリーンの 簡潔なボーダーの色面として。
あるいは 広がる赤い空間にリズミカルに散りばめられた、白と黒のスポットとして。

眺望のある風景を理屈抜きで楽しむように、目の前の色面の美しさ、面白さ、そしてバランスの妙は
それだけで充分に、目の喜びでありました。
ぜひとも、まずは 作品から離れた所からぼんやりと眺めて見ることをお勧めいたします。

しかし
そこに写されたものが何であるかをよく見るにつれ、
「ああ この現象は一体何なのだろう?」という思いに捕われました。

そこに写し出された現象とは、
あるいは 赤い絨毯を敷きつめた大部屋で、四辺を壁に囲まれ、蜂のように働く人々であったり
あるいは 無数のゴルフボールが転がるグラウンドのはるか向こうで、厩舎のような空間におのおの収まって、打ちっぱなしに興ずる人々であったり
あるいは 人っ子一人いない曇天のもと、まぶしい緑の草地の中を、たゆまず流れる白い川であったり。

巨大な作品です。
どの作品も、タタミ何畳という大きさです。
単純に「大きいなあ!」という感想を持つ一方、あることに思い至り、ぎょっとしました。

ここに写っている現象そのものは、この写真よりもよほど巨大ではないか。
この現象そのものの巨大さに比べたら、目の前の写真の大きさなど、取るに足りないではないか。

まるで、映画のスクリーン上で 接写をしていたカメラがさあっと引いて行き
巨大な風景を捉えたその中に いつの間にか スクリーンを見ている自分までが映し込まれている のを 発見した かのような 空恐ろしさを感じたのです。

私たちは常に、こんなにも巨大な現象の一部に組み込まれて、(そして、写真の中の人々同様に、その事実を意識することがなく)存在しているではないか。

一体、これは何なのか?
一体、この巨大な現象は何なのか?

その美しい色面は
わたくしを、答うる者とて無い問いの海に突き落としたまま
沈黙しておりました。


実を申せば
まだ続きます。
というわけでまた後日。