のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

怒りをこめて、ハデスのこと

2013-08-22 | 映画
前回の記事、 When You're Evil の最後の所で、ディズニー映画の悪役たちが登場するAMVのことをちらっと申しました。それらの中に、『ライオン・キング』のスカーや『ノートルダムの鐘』のフロロなんかと並んでよく登場するのが『ヘラクレス』のハデスでございます。
ワタクシはディズニー映画の『ヘラクレス』を観ておりません。未鑑賞の作品についてとやかく言うのはワタクシの主義にいささか反しますけれども、ことこの作品におけるハデスの扱いに関しては、ぶつぶつ言わせていただこうかと。
(ちなみに『美女と野獣』のガストン同様、『ノートルダムの鐘』のフロロは”悪役”ではあっても”邪悪”ではないので、このWhen You're Evilという曲にはそぐわないとワタクシ思うのですが、それはひとまず於くことといたします)

もう10年以上前ということになりますけれども「ディズニーの次回作はギリシャ神話が舞台、悪役は冥界の王ハデス」と聞いた時、ワタクシはずいぶん腹が立ちました。今でも腹が立っております。と申しますのも、ゼウス、ハデス、ポセイドンのクロノス3兄弟のうちハデスは最も、いや他を引き離し断トツで、身持ちがよくて性情の穏やかな神だからでございます。

ディズニーの映画では、どうやら好色で横暴かつコミカルなキャラとして描かれているようですが、好色といったらゼウスの方が断然上でございますし、怒りに任せて人間を酷い目に会わせるのは、ハデスではなくポセイドンのおはこでございます。
それから映画ではハデスが幼いヘラクレスを殺そうと試みるシーンもあるようですけれども、これはとんでもない濡れ衣であって、赤ん坊のヘラクレスに蛇を差し向けたのはゼウスの正妻ヘラでございます。それどころか、ハデスとヘラクレスが敵対的な関係になったことは一度もございません。

そもそもハデスのやった「ひどいこと」なんて、ペルセフォネ略奪くらいしか思い浮かびません。それだって、母親のデメテルがつむじをまげたもんだから、1年のうち4分の1の間だけ地下で一緒にいることにして、あとの4分の3は親元に返してあげるんですよ。聞き分けのいい旦那じゃありませんか。さらにその略奪自体も、実はゼウスにそそのかされたからだって話もあります。
本妻以外の女性によろめいたという話も、たった1回だけ。...いや、今Wikipediaで確認したら2回でした。それだって、ゼウスとポセイドンの放埒ぶりに比べればぜんぜん可愛いもんです。逆に細君のペルセフォネの方が、夫の数少ないよろめきの対象に嫉妬して、彼女を雑草に変えてしまったり、美少年アドニスをめぐってアフロディテとの間で泥仕合を繰り広げたりという修羅場を展開してらっしゃいます。

それに対して、ゼウスなんかどうです。
ガニュメデスを引っ掠い、エウロパを誘拐し、最初の正妻メティスさえも、予言怖さにお腹の子供ごとごっくんと飲み込んじまう始末。
ここにヘラの嫉妬が絡むと、さらに悲惨でございます。
セメレーは一瞬で灰になり、イオは牝牛に変えられ、カリストは熊に変えられ(拒否のすえ騙されて犯されたのにこの仕打ち!)、レトは出産する場を求めて身重の身体を引きずって世界をさまよわねばならなかったわけです。それからおしゃべり好きだったニンフのエコーが相手の言葉を繰り返すことしかできない身になったのも、もとはといえばニンフたちと遊んでいたゼウスがヘラから逃げるのを助けてあげたせいですから、彼女もこの浮気夫と嫉妬妻コンボの犠牲者に数えられましょう。

ポセイドンもたいがいですよ。
姉のデメテルを手込めにし、また一説では美女だったメドゥーサが怪物に変えられる要因を作り(所もあろうにアテナの神殿で彼女と交わった)、ニンフといわず人間といわず、あまたの愛人をこさえております。
オデュッセウスがあんなに長旅をしなくちゃならなかったのも、要するにポセイドンが怒ったからですね。
それからとりわけひどいのが、皆様ご存知とは思いますけれども、ミノタウロスの出生をめぐるお話でございます。ここで怒りを被ったのは、生け贄に捧げるはずだった牡牛を惜しんだミノス王ですが、ポセイドンはこの生け贄横領事件にはなーんの関与も罪もないはずの、ミノスの妻パシパエを狙うんでございます。しかもただシンプルに罰するのではなく、彼女がくだんの牡牛に対して情欲を抱くよう仕向けて牛と交わらせるんでございますね。その結果パシパエは体は人間・頭は牛のミノタウロスという怪物を生むわけでございますが.....海神、ちょっとやることが陰険すぎませんか?

陰険といえば、ゼウスがプロメテウスに与えた罰も相当なもんでございましょう。人間に火を与えた罰として、岩山に縛り付けられてハゲタカたちに生きながら肝臓をついばまれる日々。これが永劫に続く予定だったんですぜ。それだけじゃ飽き足らず地上にパンドラを遣わして、世界に災厄大拡散ひゃっはあ。

それに対して、ハデスが人間に対してしたことといったら、ええと。
亡き妻エウリュディケを慕って冥界まで追って来たオルフェウスに、エウリュディケを返してあげた.....



いいひとじゃないですか!
しかもオルフェウスが奏でる竪琴に感動したペルセフォネのとりなしを受けて...って、微笑ましいほど妻にべた惚れじゃないですか!
ペルセフォネも、さらわれた相手がハデスでよかったじゃありませんか。これがゼウスがポセイドンだったら、まず遊んでポイですよ。2人とも、猛アタックかけてた女性(テティス)すら「彼女の生む子は父より偉大になる」という予言が下されるや、双方さっと手を引いて彼女を他の男にあてがってしまうようなひとたちですもの。

クロノス3兄弟のみならず、ギリシア神話に登場する主要な神々の中でも、ハデスは一番穏やかで公正な部類に入ると申してよろしうございましょう。アレスは流血や戦闘を好む荒々しい神であり、アフロディテは浮気性な上に息子の恋人に対しては陰険な鬼姑であり、ヘルメスは平気で嘘をついたり狡猾に立ち回ったりするのが常のトリックスターでございます。アポロンもアルテミスも、また知恵の女神アテナでさえも、怒りに任せて人間を動物や怪物に変えるなど、時には理不尽で残酷な罰を下すことが知られております。ヘパイストスはまあ、あんまり派手な噂は聞きませんけれども、アテナを手込めにしようとして失敗するという、かなりイタいエピソードの持ち主でございます。

それに比べてハデスのなんと温厚なこと。しかも愛犬家でもあったりして。(ヘラクレスが12の試練を達成するため、冥府の番犬ケルベロスを地上へと引っ張り出す許可をハデスに求めた時、ハデスは愛犬の連れ出しを「武器を使わないこと=傷つけないこと」を条件に許可してあげたのでした)
もっとも、ハデスは冥界から出て来ることがほとんどないので、他の神々、特に兄2人のように遊び回る機会が圧倒的に少ないということもございましょう。なんだか遊び人の長男、暴れん坊の次男、引きこもりの三男という構図を思い浮かべてしまいます。

などというひどい例えを申しておいてナンではございますが、ディズニー映画のハデスのような、本来のパーソナリティを改変してしまう創作物というのは、ギリシア神話やその中に登場する神々へのリスペクトを甚だ欠くものであると、ワタクシは思うのですよ。
冥界の王だから悪、という短絡的なキャスティングもいただけません。オシリスや閻魔様が悪ではないように、ハデスもまた、悪ではございません。畏怖すべきものと忌み嫌うべきものを一緒くたにしてはイカンでしょう。imdbのレヴューに「ハデスとサタンを混同するな」と怒ってらっしゃるかたがおりましたけれども、全く同感でございます。

当のろやご常連の皆様はご存知の通り、元来ワタクシは悪役というやつが大好きでございます。このディズニーの「ハデス」にしても、ギリシア神話の冥王とは全然関係のないただの悪役として見たならば、おそらくかなり好きな部類に入るキャラクターでございます。
しかし神話の中のハデスとは似ても似つかぬこのキャラに、3000年以上の長きにわたっていかめしくも穏やかな神として知られて来た冥界の神の名前とステイタスを与えるのは、甚だ冒涜的なことであり、ギリシア神話ファンを馬鹿にする行為でもあるのではございませんか。


またこれはディズニーに限った話ではございませんが、主人公をカッコ良く見せ、正当化するために、神々をおとしめたような作品がたまにございますね。あれも本当に嫌なものでございます。
ワタクシ、漫画『アリオン』は終止ぷんぷんしながら読まねばなりませんでしたし、中学生の時に友人が「面白いから」と貸してくれた藤本ひとみの『王女アストライア』シリーズに至っては、歯を食いしばるようにしてなんとか1巻だけ読んだものの、それ以上は無理でございました。もっとも、この作品において堪え難かったのは神々の扱い云々というより、テーマや文体だったかもしれませんが。

反対にギリシア神話やギリシア古典文学へのリスペクトを感じる創作物といいますと、まっきに思い浮かぶのは『アルテウスの復讐』『ミノス王の宮廷』『冒険者の帰還』という3冊シリーズのゲームブックでございます。
ゲームブックったって、今の若い人はご存知ないかもしれませんけれども、要するに書籍版RPGゲームでございます。
本作は「もし英雄テセウスがミノタウロス殺しに失敗したら」という所から始まります。田舎で母と共に暮らす主人公・アルテウスのもとに、兄テセウスがミノス王の迷宮で命を落とした、という知らせが届き、アルテウスは兄に代わってミノタウロスを倒すために旅立つわけです。

旅のはじめに、今後庇護を受けることになる神を選ぶことができまして、選んだ神によって、旅の間、つまりゲームの途中で受ける特典が異なるんでございます。たしかヘラ、アポロン、アレス、アフロディテ、ポセイドンの5択だったと思いますが、ワタクシはいつもアポロンばかり選んでおりましたので、他の神々の特典がどんなだったか思い出せません笑。とにかくそれぞれの神の特性を生かした特典でしたので、たしかアレスの庇護は戦闘の時に有利だったはずです。アポロンから下される恩恵は予言の力で、戦闘時以外の不測のダメージを回避することができる、というものでした。

ダメージといっても体力だけの問題ではございません。主人公はそんじょそこらの冒険者ではなく、英雄テセウスの弟でございますから、やっぱり英雄らしい振る舞いが求められるわけです。そのため「名誉点」と「恥辱点」というポイントが設けられておりまして、プレイヤーがさもしい行為におよぶとこのポイントにおいて容赦なく罰を下されます。
たまに守護神や他の神々と話をすることもできる一方、うっかりすると敵対関係に入ってしまうことも。ワタクシのご贔屓守護神アポロンは、いつも閃光とともに現れてはささっと神託を告げ「じゃ、私はこれから妹と一緒に狩りに行くんで、これで」とか何とか言ってまたささっと消えてしまうのでございました。

これだけでもお分かりかと思いますが、大筋からも細部からも、ギリシャ神話に対する制作者の愛と理解とリスペクトがふんだんに感じられる作品でございます。ワタクシはあっちこっちに指をはさみながら遊び倒したものでございました。
えっ。前のページに指を挟みながらやるなんて卑怯じゃないかって。
だってえ。うっかりすると、プロクルステスに足を切られたり、ロータス・イーターの島でのんびりしすぎて帰れなくなったり、シュムプレガデスの大岩に船が挟まれたり、生け贄の子犬を助けたばかりにヘカテの怒りを買ったりするんですよ!

それから、映画ではパゾリーニの『王女メディア』が思い浮かびます。(『アポロンの地獄』は未鑑賞)
初めて見たときはケンタウロスの姿に爆笑してしまいましたけれども。

あとは、そうですねえ、山岸凉子の漫画「パエトーン」とか。
あれはギリシア神話がメインではないだろうって。まあそうなんですが、世界を寓意的に語るという神話の機能を現代に適用したという点で、正しい解釈のなされた作品と呼びうるとワタクシは思います。しかし1988年に世に出たこの作品が今なお、いや残念ながら、今だからこそいっそう重々しい意味合いを持っておりますのは、神話という普遍的な物語に取材しているからではないのでございました。

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いやはや、思わず知らずこんな長話になってしまいました。
積年のモヤモヤを吐き出した恰好のお目汚しでございます。
しかし地球上において、ディズニー映画でのハデスの扱いに憤慨しているギリシア神話ファンは決して少なくないこととと思います。ワタクシもその一人として、この機会にちともの申しておかねば気が済まなかったという次第でございます。



When you're evil

2013-08-16 | 音楽
送り火の支度




とは全然何の関係もない話でございます。

先日のノミ話でvoltaire(ヴォルテール)と名乗るミュージシャンについてちと触れましたけれども、それで終わりにするのもなんだか悪うございますので、もうちょっときちんとご紹介しておこうかと思ったわけです。
といっても『Devil's Bris(悪魔の割礼)』というアルバム1枚しか持ってないんですけれども。
ワタクシが購入したのは発売13周年記念盤とかで、何とご本人のサイン入りカードがついて来ました。

voltaire氏がどんなミュージシャンかと一言で申しますと、ゴスなシンガーソングライターでございます。
別に世の中を風刺したような曲を書いてらっしゃるわけでもないのに、何でこの芸名なのだろう、と思いましたら、本名の一部(ミドルネーム)がvoltaireなのだそうで。ちなみに『カンディード』の作者であるヴォルテールは本名ではなく、ペンネームでございます。本名はフランソワ=マリー・アルエ。いやはや、どうも可愛らしすぎて、かの喧嘩っ早い皮肉屋には似合わないようでございますね。

さておき。
ワタクシは別にゴス音楽のファンではございません。
クラウス・ノミが好きでも80年代カルチャー全般に興味があるわけではなく、クラフトワークが好きでもテクノファンなわけではなく、フランシス・ウォルシンガムが好きでも政治的タカ派を支持しているわけでは全くないのと同様でございます。要するに、ものごとをピンポイントで好きになる傾向があるのでございます。

で、ゴス好きでもないのろさんが、voltaire氏の10年以上前に出たアルバムを購入するに至ったのは、その中の『When You're Evil』という一曲がのろさんのピンポイントなツボにすっぽりとはまったからでございます。

何がいいって、歌詞がいい。
悪役loverの心をわしづかみでございますよ。




勝手に訳してみました。
国内版は出ていないようですし、商業目的ではないのでフェアユースの範疇だと思いますが、怒られたら引っ込めます。

When the Devil is too busy
悪魔は忙しすぎ
And Death's a bit too much
死神ではちょっとやりすぎって時には
They call on me by name you see
俺にお呼びがかかる
For my special touch
俺の特別なタッチを求めて

To the gentlemen I'm Miss Fortune
殿方にはミス・フォーチュン(「ミス・幸運」と「ミスフォーチュン(不幸)」をかけている)
To the ladies, I'm Sir Prize
ご婦人方にはサー・プライズ(「素晴らし卿」と「サプライズ(驚き)」をかけている)
But call me by any name
だが好きなように呼んでくれ
Any way it's all the same
いずれにしても同じこと

I'm the fly in your soup
俺はスープの中の蝿
I'm the pebble in your shoe
お前の靴の中の砂利
I'm the pea beneath your bed
お前のベッドのえんどう豆(アンデルセン『えんどう豆の上に寝たお姫様』から)
I'm a bump on every head
全ての頭にできたこぶ
I'm the peel on which you slip
お前が滑って転ぶ皮
I'm a pin in every hip
全ての尻にささるピン
I'm the thorn in your side
俺はお前の心配の種
Makes you wriggle and writhe
そのためお前は身をよじる


And it's so easy when you're evil
それもこれも簡単なことさ、邪悪な者にとってはな
This is the life, you see
これが人生ってものさ、そうだろ
The Devil tips his hat to me
悪魔も俺に挨拶するよ
I do it all because I'm evil
それもこれも俺が邪悪だからさ
And I do it all for free
全部タダでやってやるよ
Your tears are all the pay I'll ever need
報酬はお前の涙で充分さ

While there's children to make sad
悲しませるべき子供がいるなら
While there's candy to be had
取られるべきキャンディがあるなら
While there's pockets left to pick
すられるべきポケットがあるなら
While there's grannies left to trip down the stairs
階段を転げ落ちるべき婆さんがまだ残ってるなら
I'll be there, I'll be waitin' round the corner
俺はそこにいる、すぐそこに
It's a game, I'm glad I'm in it
これはゲームなんだ、参加できて嬉しいね
'Cause there's one born every minute
カモはいくらでもいるからな(注:以前の訳から訂正しました 11/3)

*繰り返し

I pledge my allegiance to all things dark and dire
俺は忠誠を誓う、全ての暗く恐ろしい者どもに
And I promise on my damned soul
俺の呪われた魂にかけて誓う
To do as I am told, Lord Beelzebub
指令通りにやることを。ベルゼバブ様も
Has never seen a soldier quite like me
俺ほどの戦士はご存知あるまい
Not only does his job, but does it happily
仕事をこなすだけでなく、喜んでやるのだからな

I'm the fear that keeps you waked
俺はお前を眠らせない恐怖
I'm the shadows on the wall
俺は壁に落ちる影
I'm the monsters they become
その影から生まれ出る怪物
I'm the nightmare in your skull
お前の頭蓋の中の悪夢
I'm a dagger in your back
お前の背中に刺さったナイフ
And extra turn upon the rack
拷問台では追加のひと締め
I'm the quivering of your heart
俺はお前の心臓の震え
A stabbing pain, a sudden start
突然に襲う、刺すような痛み

*繰り返し

It gets so lonely being evil
邪悪でいると孤独がつのる
What I'd do to see a smile
どうしたら微笑む顔を見られるのか
Even for a little while
ほんの少しでもいいんだ
And no-one loves you when you're evil...
誰も邪悪な者を愛してはくれない...

I'm lying through my teeth!
な~~~んちゃんてな!
Your tears are all the company I need!
俺のツレにはお前の涙で充分さ

以上

And extra turn upon the rack(拷問台では追加のひと締め)ってのが実にいいですね。この拷問台というのはウォルシンガム話5でご紹介した人間引き延ばし機のことでございます。

他の収録曲は、元恋人の今の彼氏を殺して川床に埋めることを妄想する男の歌(Ex Lover's Lover)や、「頼むよ、上の階に住んでるうるさい馬鹿を殺してくれよ、お前俺の友達だろ」と迫る(The Man Upstairs )、恋人への猜疑心と嫉妬にのたくる男の歌(Snake)、妄想の恋人を妄想の中で殺したのちにおそらくは自殺する男の歌(The Chosen)などなどでございまして、要するに、ゴスです。「毎日が僕らの記念日みたいだ」と歌う2曲目の『Anniversary』だけは、なぜか5月の風のような直球さわやかラヴソングなのですが。

ご本人はこんな人。相棒の無言のツッコミが笑けます。




わっはっは。面白いあんちゃんです。
「北米版山田晃士」と思った人、手を挙げて。
この30秒足らずのラヴソング(?)も『Deil's Briss』に収録されております。

ご本人の言葉によると、彼の歌は「電気が発明されず英国の女王がモリッシーであるパラレルワールドのための音楽」なだそうです。Wikipediaによると音楽活動の他、コミックを描いたりアニメーションを作ったり小説を書いたりなさっているようです。
HPはこちら。

Voltaire | voltaire.net

うーむ、こういうの、好きな人は大好きだろうなあ。冒頭で申しましたように、ワタクシはとりわけゴス好きというわけでもございませんので、今の所『When You're Evil』以外の作品にはあんまりのめりこんでおりません。もっと何回も聴けば、より好きになるかも知れませんが。年を取るにつれ、そういうこともあるのだと分かってまいりました。
昔、ニック・ケイヴの『マーダー・バラッズ』というアルバムが出た時、テーマに惹かれて購入し、3、4回聴いたものの、あんまり好みじゃないやと判断して、洋楽好きの飲み仲間にあげてしまったことがございました。あれももう少し聴き込んだら、また評価も変わったかもしれないと思うと、ほのかに残念ではあります。
後日そのお返し(ということだったと思う)に、当の飲み仲間が菅井君と家族石...ではなくスライ&ザ・ファミリー・ストーンの『暴動』をくれました。「なんか好きそうだから」と。正直言いますと、これも3、4回以上は聴いておりません。久しぶりに聴いてみたら以外とよかった、というケースもあることですし、この機会にまた引っ張り出して聴いてみようかしらん。

さてもさておき。
他の作品はともかく、『When You're Evil』は文句なしにのろごのみの一曲でございます
のろさんのと同様、世界中の悪役loversの心もまたがっしりと捕らえたようで、youtubeにはこの曲と映画やゲームやアニメーションに登場する悪役の映像を組み合わせたクリップが、そりゃもうたくさんupされております。ざっと数えただけでも100以上。ディズニーの悪役のみをフィーチャーしたものだけでも、少なくとも20本ございます。また媒体は様々ながら、キャラクターとしてジョーカーさんのみをフィーチャーしたものは、さすがと言うべきでございましょう、少なくとも21本ございます。

こんなナイスな曲にのせて、ステキな悪役たちがその全身で生き生きと悪を表現しているのを見ますと、のろさんはもう世の中の憂さを忘れるほどに嬉しくなってしまうのでございました。

でも別にゴス好きってわけではないんざんすよ。

『泥象  鈴木治の世界』展

2013-08-12 | 展覧会
東電幹部の皆様が「気温40度くらいまで猛暑になれば、議会、世論ともに再稼働容認になるだろうとか、つい期待して」「あがれ、あがれと新聞の天気図に手を合わせて」いらっしゃる効果でしょうか、このところ猛暑が続いておりますね。(しかし今年はちっとも電力足らん足らん言いませんなあ)
驚愕! 東電幹部 原発再稼働へ向けて猛暑を念じ、経産省幹部へメール(dot.) - goo ニュース

ワタクシ暑いのは好きな方ですけれども、何せ育ちが北国なので、最高気温37℃ととか38℃と聞くとちょっとひるみます。
で、避暑がてらにという軽いノリで『泥象(でいしょう) 鈴木治の世界』へ行ってまいりました。
軽いノリで出かけたのではございますが、これがまた、たいへんいい展覧会でございました。

京都国立近代美術館 | The National Museum of Modern Art, Kyoto

避暑がてらなら涼しいうちに行っとけばいいのに、なんだかんだで結局いいかげん日が高くなってからおうちを出ることに。のろさん絶対こうなる。風景がゆらゆらする中、正午前ごろに美術館に到着し、哀れな自転車君を炎天のもとに残して館内へ。コインロッカー室でdakara500mlを一気飲みしてひとまず涼を取り、汗がひくのをしばし待ったのち、いつもののごとく白い階段をとんとん上がってまいります。

3階の展示室入り口に立ちますと、一見して展示作品数がかなり多いこと、しかもバラエティに富んでいることがわかります。その上に遠目から見ても心惹かれる、面白そうなかたちたちが大勢いらっしゃるじゃございませんか。チケットを切っていただきながらあたりを見回して、ああ来てよかった、と早くもほくほくしたものでございます。

冒頭を飾るのは1950年代、即ち鈴木氏20代~30代半ばの作品でございます。それぞれ作風はかなり異なるものの、「まだまだ実験中」という未熟な感じはいたしませんで、それぞれの方向で完成の高いことに驚くわけでございます。植物などの具象的なモチーフを描いた色あいも肌あいも優しい花器もあれば、ポロックが絵付けしたようなジャジーな柄の壷もあり、八木一夫に通じる軽やかさのあるオブジェもあり。そのどれもがいいんですな。
お父上が千家御用達のろくろ職人で、早くからろくろ使いの手ほどきを受けられたとのこと。陶芸家を志したころにはもう技術を充分身につけていらっして、そのぶん初めから自在な表現が可能であったということでございましょうか。

さらに進んで行きますと、仮名を模様として扱った作品や、洗練された土偶や埴輪を思わせるヴォリューム感のある作品、「走れ三角」といったユーモラスなオブジェもあれば、吸い込まれそうな色合いの青磁の茶碗といった直球な作品もあり、なんとも多彩でどんどん楽しくなってまいります。
ときにこの「走れ三角」、造形的にものすごく優れているというわけでもないのですが、不条理なタイトルも、短いパイプみたいな”足”でえっちらおっちら走る三角錐というヘンテコなモチーフも、たまらなくのろごのみな一品でございました。青磁でなかったのはちと残念でしたが、もう少し小さかったらひとつ机上に欲しいぐらいでございました。
持っててどうするんだって。眺めてにこにこするんですよ。



ところで本展で特筆したいことは、展示の構成やライティングがとてもいいということでございます。全体を見ても部分を見ても、空間的なバランスや色の対比がとても心地よく、ワタクシは移動するたびに立ち止まってぐるりを見渡したり、展示室間を行ったり来たりして、視界が変わった時のハッとする感覚を味わったりしたのでございました。

部分ということで言えば、例えば「寿盃(じゅっぱい)」と題された青磁の盃セット(もちろん全部で10個)。別の展覧会のチラシですが、作品の写真をこちらで観られます。
普通のぐい飲みサイズから、リカちゃんのサラダボウルぐらいの大きさのものまで、少しずつ大きさの違う、マトリョーシカみたいな盃でございます。本展ではこれをただ一列に並べるのではなく、一番大きい盃を中心として、だんだん小さいものへと、くるりと螺旋を描くように並べてあるんでございますね。これが各々の盃の表面につけられた、ゆるく旋回する縦方向の溝に呼応しておりまして、作品の清楚な魅力をいっそう高めているようでございました。

全体ということで言えば、例えば、大きめの陶作品を展示室の片側に集めた、思い切って広々とした空間の次に、101個もの手のひらサイズの青磁たちが迎えてくれる小部屋が控えておりまして、これなどは思わず、わあ、と声を上げたくなるような素敵な演出でございます。

さて、展示後半になると作品の抽象度、といいますか削ぎ落し度、が高くなってまいります。もの柔らかな輪郭、温度を感じさせるグラデーション、おおらかなヴォリューム感に、円みやトンガリの風情など、ちょっと絵本『もこ もこ もこ』でおなじみの元永定正氏の造形を彷彿とさせます。
いかにも前衛陶芸という感じがするわけですが、その一方で酒器や香盒といった実用品も作ってらっしゃるのですね。息抜き的に細作されたものか、遊び心が感じられるものも多く、実にかわいらしい。
また、ずっと作品を見てまいりますと、こちらも鈴木氏の造形言語に慣れてくるわけです。そうすると展示も後半になりますと、ほとんど抽象にしか見えないような形態をした作品でも、あ、これは鳥ですね、こちらは蝉ですね、とモチーフを判じるのが容易になっているんですね。これまたなかなか面白いことでございました。

”「使う陶」から「観る陶」、そして「詠む陶」へ”という本展のコピーが語る通り、後半へ行くに従って、氏の作品はほんのり文学的な様相を帯びてまいります。といっても文学作品がテーマに掲げられるということではございませんで、作品そのものが、語られない物語をはらんでいるような、あるいは前後の時間の流れ、即ち来し方・行く末を含んでいるような、ひそやかな文学性でございます。あんまりひそやかで、藤平伸氏(奇しくも同じく京都五条坂出身)の静かな詩情と比べてさえ、寡黙すぎるくらいなものでございます。藤平作品が宮沢賢治の『やまなし』あたりだとすると、鈴木作品は八木重吉の四行詩あたりになりましょうか。

第一室の眺めからは、どういう方向にでも進みうる人と見えましたが、振り返ってみますと、ほのかに文学性をまといつつ抽象と具象のあわいを行くかたち、というのは、この上なく自然な着地点のように思われるのでございました。
着地点といっても、そうした表現形式がもとから確立されていたわけではなく、八木一夫らと共に戦後の現代陶芸を牽引していらっした鈴木氏が、模索を経て開拓されたものでございます。
しかし氏の作品を前にしますと、牽引とか開拓といった大仰な言葉は、いかにも似合わないような気がいたします。
それは簡潔に、しかし暖かみを持って造形されたかたちたちが、寡黙な表層の奥から、ほんのりしたユーモアや、ひそやかな詩情でもって、観る者に親しく語りかけて来るからかもしれません。

30th anniversary 2

2013-08-07 | KLAUS NOMI
30th anniversary 1 の続きでございます。

3月30日 ネットラジオでノミの番組が。
Epstein Bar - Klaus NOMI SPECIAL BaR 30.03.13 Radioshow

約1時間。ありがたいことに、まだ聴くことができます。
まあひたすら音源をつなげただけの番組ではあるのですが、普段一緒には聴かないものが隣り合っていたりしますと、新鮮な感じがいたします。とりわけ「あなたの声に我が心は開く」→「Ding Dong the Witch Is Dead」の流れが素晴らしいですね。この二曲を歌っているのが同じ人であると、いったい誰が信じるであろうか笑。
最後の「Cold Song」は例の1982年ミュンヘンでのライヴの音源(プレイリストでは1983年となっていますが、これは誤りでしょう)。ワタクシこの音源を映像ぬきで聴いたのは初めてでした。こう改めて聴いてみますと、崩壊しそうな音程や声量を必死に保っているのが、いっそう如実に伝わってまいりまして.....つ、つらい。

ところでネットラジオにしても伝統的なラジオにしても、ワタクシは上記の特集番組以外では、ラジオでクラウス・ノミの曲を聞いたことが一度もございません。先々週の『世界の快適音楽セレクション』(NHK-FM土曜日9:00-11:00)は「七色の声の音楽」というテーマでございましたので、当然ヤツの『Cold Song』か『The Twist』あたりがかかってしかるべきと思われたのですが、結局かからずじまいでございました。なんでえ。



4月25日
「ゲイリー・ニューマン VS クラウス・ノミ」
Numan vs Nomi - Gary Numan replicants, GNUMAN occupy space with Mar...

本人たちが出演するわけでは(もちろん)なく、ゲイリー・ニューマンの曲をカバーするシカゴのコピーバンド「Gnuman」と、同じくシカゴを拠点とするアーティストMarc Ruvoloがノミへのオマージュとして立ち上げたバンド「Aspic Tines」が共演するショーだったようです。ちなみにAspic Tinesというバンド名の由来は、アスピック(肉や野菜のゼリーよせ)がノミの好きな食べ物のひとつであったからということです。

ショーとは関係がございませんが、こんなページを見つけました。
「ニューマンとノミ、どっちが凄い?」
Taking Sides: Gary Numan vs. Klaus Nomi

傑作なのは一番下のコメント二つでございます。
「ニューマンは変人になろうなろうと頑張ってたけど、ノミの方は実際に変人だったもんね」
「変人度について言えば、ノミはニューマンよりずっと真性だ」

評価されるのはそこか!と笑



それからこれは2012年末の記事なのですが、たいへん美しいのでご紹介しておきます。
「クラウス・ノミ・ミーツ・イサドラ・ダンカン」
GoSee loves ISSEVER BAHRI. Klaus Nomi meets Isadora Duncan. The avant-garde emotional moving image study of the Berlin based fashion label’s new collection - News - GoSee

ベルリンに拠点を置くファッションレーベルが制作した、2分に満たない短編フィルムでございます。こういうのをファッションフィルムと言うのだそうで。ちょっぴり怖く、どこかユーモラスで、ほどよく無機質で、楽しいわざとらしさもあり、ノミへの直接的な言及はなくともノミっぽいエッセンスを感じさせる、素敵な作品でございます。

なんでまたイサドラ・ダンカンとクラウス・ノミという時代も分野も異なる二人にまとめてオマージュを捧げようという運びになったのか分かりませんが、古典とアヴァンギャルドの融合という点で共通しているということでございましょうか。



分からないと言えば、これまた何だかよくわからないながらも楽しいプロダクトが。

その1
謎のフィギュア。
SpankyStokes.com | Vinyl Toys, Art, Culture, & Everything Inbetween: "Klaus Nomi 1944-1983" custom Android for Mikie Graham's "Mechanized Mad Men" blind box series.

歴史上の偉大な変人たちを、彼らにふさわしい乗り物と共にフィギュア化したもの、らしいです。
ノミ以外にどんな「変人」たちが取り上げられたかといいますと、ダ・ヴィンチ、ウォーホル、ドン・キホーテ、ニコラ・テスラ、ラヴクラフト、それからジョシュア・ノートン 。この面子と比べると間違いなくダントツで知名度の低いノミが、何故あえて選ばれたのかは謎。何故頭がちょんまげみたいになっているのかも謎。でもまあ、かわいいのでよしとしましょう。ノミ以外では、ウォーホルのキャンベルスープ・マシンがなかなかよろしい


その2
生えて来るノミ。
Klaus Nomi ? Best Animated Album Covers

いいと思います。とっても。



さて、ヤツを巡る最近の言説の中で、ワタクシがたいへんしみじみとしましたのは、Art in Americaという雑誌の2011年12月号に掲載された、造形作家Vincent Fecteau氏のインタヴューでございました。記事のタイトルは『TILTING AT CHAOS』。
現代アートには、意味付けや意図の曖昧さという側面がございますけれども、そのことの重要性を語るくだりでノミの名前が出てまいります。

あるアート作品において、その動機や意味が曖昧であることや、価値付けがなされていないこと、時にはふざけているようにさえ見えるということ、そうしたことこそが、鑑賞者がその作品と真剣に向き合うきっかけとなりうる、と述べた後、インタヴュアーから「( Fecteau氏が以前から興味を寄せて来た)クラウス・ノミは、彼自身がどんなにクレイジーに見えるかを自覚していたと思うか」と尋ねられ、こう答えてらっしゃいます。

「自覚していたと思う。彼の歌とパフォーマンスには真摯さがある。ライ・バワリーLeigh Bowery とは対照的だ。バワリーも真摯で美しいけれども、それを攻撃性によって守ってもいた。ノミはもっとvalnerable(もろい、傷つきやすい)な存在だったと思う。花のように。ほんの短い時間でしおれてしまう。そして、人々はそれをどのように受け止めたらいいのか分からない」

ねー。もー。
そーよそーよそーなのよ!って思いません?ワタクシは思います。
あんなぶっとんだ恰好をして、あんな奇矯なパフォーマンスをしているにも関わらず、ヤツには「ああヘンだよ、分かってるよ、だからどうした」といった、開き直った所がございません。「ヘンなことやってまーす☆」というおちゃらけもございません。それどころか、共演した他バンドのメンバーがとまどってしまうほどに、真剣なのでございます。
そこまで真摯だからこそ、ヤツのパフォーマンスには表層の奇矯さを圧倒する美しさがあり、そこまで真摯だからこそ、舞台上での無表情な仮面でも隠しきれないもろさ、危うさをはらんでいるのでございます。

もろさということで言えば、ノミ本人、といいますか「ノミの中の人」クラウス・スパーバー本人の危うさ、繊細さ、傷つきやすさということもあったことでございましょう。

身体を危険に晒すのはやめなさい、という友人からの忠告を聞かずに、行きずりの相手と関係してしまう無防備さというのもありますけれども、ステージで歌っている時の、目を見開いた無表情な仮面からは全く想像がつかない、あの普段のはにかんだ微笑みひとつ取りましても、いかにも繊細で、何か危ういような感じがするわけです。特にTVのインタヴューでニコニコと喋っている映像なんかを見ますと、高い台の上にガラスの人形が置いてあるのを見るような心地がいたしまして、ワタクシは微笑ましく感じる反面、何だかそわそわするのでございますよ。
また「子供の頃は、他の子たちからからかわれるのを恐れて、レコードに合わせて歌うという趣味を誰にも内緒にしていた」というドド伯母さんの証言や、客層が異なったニュージャージーでのライヴがひどい不評に終わった後、「彼は数日間、僕らと話もしなかった」という、バンドメンバーであったペイジ・ウッド氏の証言からも、彼が図太さからはほど遠い神経の持ち主であったことが伺われます。

ときに、映画『ノミ・ソング』では、この「klaus didn’t speak to us a couple of days after that but he'd actually get over 彼はその後数日間、僕らと話もしなかったけれど、どうにか立ち直った」という部分に「彼は何日か僕らを無視した」という字幕がつけられております。ううむ、この字幕、どうなんでしょう。これではまるで、ノミがライヴの失敗をバンド仲間のせいにして怒っているみたいでございませんか。
ノミの最も近しい友人の一人であったマン・パリッシュ氏はこちらでヤツがいかにsweetな人物であったかを語ってらっしゃいます。こうしたメモワールからしても、また他の友人・知人の証言からしても、ノミが(少々エキセントリックではあったにせよ)不機嫌だからといって友人たちをあえて無視するような人物であったとは、とうてい思われませんのですよ。

ともあれ、
もしヤツが、攻撃性や開き直りやおちゃらけといった盾によって身を守っていたなら、あんなに危うい感じはしなかったことでございましょう。そしてその方が、当人にとっては楽だったかもしれません。少なくとも、ショーがたった一回不評をこうむったからといって、何日もふさぎこんだりせずに済んだのではないかと。
一方、もしそうしていたなら(実際のノミがそうであるような)時代やジャンルを超えてカルト的に愛される存在には、なり得なかったかもしれません。



そんなこんなで。
ここ30年というもの、地球を留守にしているノミではありますが、広い宇宙のどこかで、ヤツの小さな宇宙船が、ワタクシたちが日々こうして捧げるオマージュを傍受してくれていたら嬉しいですね。
シャイなくせに目立ちたがりであったというヤツのことですから、今もこうして人々をインスパイアしていると知ったら、きっと喜んでくれるのではないかしらん。



まあ、貴方が知ろうと知るまいと、ワタクシどもは勝手に貴方を愛し続けますから。
これからも楽しい旅を続けてね、クラウス・ノミ。



30th anniversary 1

2013-08-06 | KLAUS NOMI
1983年8月6日にクラウス・ノミが小さな宇宙船に飛び乗って星々の彼方へと旅立ってから、地球時間でちょうど30年が経過しました。
それを記念してということでございましょうか、今年はノミ関係のイベントが色々催されております。
まとめて記事にしようと思ったのですが、思いのほか長くなりましたので、二回に分けてお届けいたします。
では。

2月8日~3月7日
ヤツの生と死と芸術を描いたダンスパフォーマンス「Do You Nomi?」が、スコットランド各地で巡回上演されました。



で、DVDの発売はいつですか?
主な出演者は俳優2人とダンサー2人で上映時間は約1時間10分、動画を見るかぎり、わりとコンパクトな舞台のようでございます。
ディレクターのグラント・スミーソン氏(51)はノミの生前からのファンでいらっしたとのこと。

「ノミは1983年に亡くなったけれども、いまだに謎の存在だ。彼についてはよく知られていないし、書かれたものも多くはない」
「でも音楽通の人なら当時からクラウス・ノミを知っていた。ここグラスゴーでさえ」
「パンクやニューウェーヴのファンだけでなく、オペラ好きの人たちにも愛されていた」
「冷戦終盤、そしてレーガン、サッチャーの時代だったあの頃、核戦争で世界が終わるかもしれないという雰囲気を皆が感じていた。ノミの異世界性(otherworldliness)はある意味、そういう現実からの逃避の試みだった」
「彼は70年代末から80年代初頭を象徴するようなキャラクターだった。つまり、まだポップスターが商品化されていなかった時代だ」
「80年代を通して、ポップスターのパッケージ化が進んだ。パンクからニューウェーヴへの移行期にあたる1983年前後は、ミュージシャンにとっても、実験的な活動という面でも、実りの多い時期だった。クラウス・ノミの世代はその最後にあたる」
「彼が生きたのは変化の時代でもあった。彼は私が聞いた中で初めてのエイズによる死者だった」
「 individualism(個人主義、独自性、個性の発揮)の問題。素晴らしい才能の持ち主であったにも関わらず、彼はとてもシャイな人物だったのだと思う」
「小柄で、子供の頃はいじめられたんじゃないだろうか。同性愛者でもあったし、あの時代に彼が自分らしく生きるのは大変だったろう。そこで彼はニューヨークへ逃れた。そこでなら安心できるし、なりたい自分になれると感じたのだろう」
「そこから彼の舞台上のペルソナは、彼自身を表現するための仮面となった」
「私は今でも彼の曲を聴く。彼の声にも、存在全体にも魅了される。(この劇によっても)謎の根幹に達することはないだろう。だからこそ彼の物語は魅力的なんだ」


原文は↓こちら。画像はこの劇におけるノミとボウイ。

THEATRE - Do You Nomi, at the Tron | Evening Times

それにしても。
以前にも申したかもしれませんが、こういう画像を見ますと、あの「教会へ行く火星人」のような恰好が似合う風貌というものが、いかに特殊な存在であるかがよーく分かりますね。
子供のように頭でっかちな体型、人形のように細い首、目も鼻も頬骨も顎の線もこぞって鋭角な顔立ち、むやみに秀でた額、そしてあの、思いがけなく無防備な微笑み。どんなにそっくりの衣装やメイクをまとったところで、これらを真似ることはできませんもの。

スミーソン氏のコメントの中で、’70末~’80初という時代の社会的な雰囲気と、そこからの逃避としての「異星人ノミ」について語られておりますね。ノミの友人で『Total Eclipse』や『After the Fall』を作曲したクリスチャン・ホフマン氏も、同様のことをおっしゃってましたっけ。

「彼の歌の中でも一番バカバカしいもの(『Lightnin' Strikes』)にしても、震えが来るほど荘厳な曲(パーセルの『Death』)にしても、差し迫った黙示録への意識があって、それが曲に説得力を与えている。クラウスにとって、黙示録は浄化のメタファーだった。シニカルな無関心やあきらめが蔓延している中で、彼は風変わりな楽天主義者として、あえてよりよい世界を信じたんだ」

原文はこちら。
Klaus Nomi Home Page Keys Of Life

ワタクシ自身は核戦争の恐怖というのを身近に感じたことはない世代でございます(世代というより、地域によるものかもしれませんが)。物心ついた頃にはまだベルリンの壁はありましたけれども、核ミサイルは「飛んで来るかもしれないもの」というよりも「とんでもないお荷物」であり、核戦争というのはあくまでも『最後の子どもたち』『風が吹くとき』といった深刻なフィクション作品の中だけのものでございました。ですから上記のコメントのように、当時漂っていた終末感との絡みでノミについて語られても、そういうものか、ぐらいにしか思っておりませんでした。

2011年3月11日以来、つまり日本がこんなことになってみて初めて、あの時代にあのフザケタ恰好で『Total Eclipse』や『After the Fall』を歌うということが、どんなにとんがった行為であったかが、少し分かったような気がしております。
”人類に警告をしに来た宇宙人”が、「放射性降下物ばんばんでもう誰も残ってないや」とか「原子に還りながら身体がばらばらになるまでラストダンスを踊ろうよ!」とか「何百万年もかけて築き上げた文明を、ぼくらは電気椅子にかけちゃう!」とか「放射能まみれでミュータントだらけだけど、大丈夫、明日は来るさ!」とか歌うんですぜ。...

それでも人類がきちんと警告を聞いて来なかったもんですから、ノミの眷属たちが今もこうして↓出張して来てくれているのでございます。

原発ナシデ暮ラスノミ - Kai-Wai 散策



2月23日
以前の記事でもご紹介したDJヘル氏が『COLD SONG』のリミックス版をリリースしたのに合わせて、ベルリンのナイトクラブでPV上映およびライヴイベントが開催されました。
SHIFT: Klaus Nomi x DJ Hell x Voin de Voin&Kinga Kielcynaska

DJヘル版『COLD SONG』のPVはYoutubeで見ることができます。が、あえてここには貼りません。ワタクシには残念ながら、あんまり素敵な仕上がりとは思えませんでしたので。とりわけ映像の方ですが、頽廃的な雰囲気ですとか、荘厳さと隣り合わせのキッチュ感といったものを醸し出そう醸し出そうとはりきりすぎて、いささかダサめなものになってしまっているような気が。
ダサめなんて言い過ぎかしらん。原曲に思い入れがありすぎるため、見方が厳しくなってしまっているのかもしれません。いやいやしかしノミファンたる者にとって、この曲を思い入れなしに聴くことなんて不可能ではございませんか?

映像を制作されたVoin de Voinさんによると「オペラ(パーセルによる『アーサー王』)のストーリー、特にアーサー王が魔の森に入って行く場面をベースにした。だからここには死を免れない普通の人間と、魔法使いや死の天使といった別世界の存在が登場して、互いに混ざり合う。常に視点を変えることで、物質と非物質、天国と地獄、見えるものと見えないものなどのテーマを巡って、色んなコミュニケーションの道筋が開けるようにしたんだ。いわば、決して達成されることのない精神的な探索だ」...とのことです。

映像の制作者自身による詳しい解説(英語)はこちらで聞くことができます。
DJ Hell presents: Klaus Nomi - Cold Song // Image Analysis by Voin de Voin & Kinga Kie�czy�ska on Vimeo

ともかく、こうしてヤツに新たなスポットライトを当てていただけるのは嬉しいことでございます。これを通じて原曲を知るかたもいらっしゃるかと思いますしね。



3月15日~4月27日
ジェンダーの曖昧さを扱った小展覧会『Ladies & Gents, Unsexed』開催。
イースト・ヴィレッジにおけるノミの貧乏アーティスト仲間であり、ヤツの作るパイやケーキに日常的にありついた友人の一人でもある写真家、マイケル・ハルスバンド氏によるノミの写真が展示されました。
どうもサイト名で自動的に弾かれるらしく(商業用サイトとみなされるため?)、記事へのリンクはできませんでした。上記の展覧会タイトルで検索すると出て来ます。別に怪しいサイトではございません。トップには映画『ノミ・ソング』でも紹介された、真正面向きのアイコニックな写真が。

ハルスバンド氏もコメントを寄せてらっしゃいます。
「彼は人目につくけれど、とてもあか抜けて(refined)いた。ここで着ているプラスチックの奇妙な衣装は、彼が自分でデザインしてブロードウェイの業者に作ってもらったもの。この撮影の時に始めて身につけたんだ。ポーズを少しずつ変えながら20ロール分撮影した」とのこと。
つなげたらアニメーションができそうですな。
それにしても例のプラスチックタキシード、この時初めて着たとは信じられないようでございますね。だってあれ、この世に生まれて来た時から身につけ続けているかのような似合いようじゃございませんか。

ハルスバンド氏はrefined(洗練された、あか抜けた、上品な)とおっしゃておりますけれども、同じく友人の一人であったアン・マグナソン女史も、普段のノミを描写するにあたってsophisticated(洗練された、あか抜けた、しゃれた)という言葉を使ってらっしゃいますね。具体的にどんな風だったのかを、ぜひとも知りたい所でございます。同女史の「いつも黒服を着ていて、すごくドイツ人っぽかった」という証言もありますが、「ドイツ人っぽい」ってどんなんだ笑。

話はそれますが、少し前にVoltaire(ヴォルテール)と名乗るキューバ系米人ミュージシャンの『The Devil's Bris』というアルバムを買ったのです。ちなみに『カンディード』の作者とは無関係。黒地にちっちゃい白抜き文字で印刷された、いかにもゴスで甚だ読みづらいライナーノーツをよくよく見たらば「cover photo: Michael Halsband」とあるではございませんか。
ををををを!これノミのお友達じゃんか!!と、ミュージシャン本人とは関係ない所で興奮してしまいました。


次回に続きます。