のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

冥王元素が

2011-03-29 | Weblog
終息の見通しが全く立たない中で「すぐに人体に影響のあるレベルではない」と言われても、正直あんまり慰めに感じられない今日この頃。

とうとう原発敷地内の土壌からプルトニウムが検出されました。
プルトニウム239の半減期、つまり放射線量が半分になるまでにかかる時間は2万4千年なのだそうで。半永久的と言われるゆえんでございますね。

ごく素朴な疑問でございますが「いつ起きてもおかしくない」と言われて久しい東南海地震が今このタイミングで起きて浜岡原発が破損したら、じりじり悪化の道を辿っているように見える福島原発に対処しつつ、同時に浜岡に向かうだけの人員や資材がワタクシたちにはあるんでしょうか。
そうした事態になっても、原発関係者や”識者”諸氏はやっぱり「今回が想定外だっただけ。原発そのものはクリーンだし安全だし必要だし」と言い続けるんでしょうか。
それとも福島原発だけがそれはもう特別にもろかっただけで、他の原発はいかなる天変地異に襲われてもびくともしないほど頑丈なつくりになっているのでしょうか。そんな建造物がこの世に存在するとはどうもワタクシには信じられないのですが。

職場からの帰り途に「地方こそ原点」というコピーの入ったぴかぴかの政党ポスターを見かけましたが、その地方に何十年もに渡って原発をどんどこ建てさせてきたのはハテ一体どなたさんたちじゃったかいのう。




最近こんな記事ばかりですみません。
映画&展覧会鑑賞レポ(&ノミ話)という当ブログの基本路線を変えるつもりはございません、念のため。

『本をなおす、本を残す』展および『魔の山』

2011-03-18 | 
そのかたわらで
日常は続く。


先週8日から来週21日(月・祝)まで、奈良県立図書情報館NPO法人 書物の歴史と保存修復に関する研究会の共催で、情報館にて『本をなおす、本を残す、もうひとつのエコ 』が開催されております。

修理・修復事例や西洋書物構造史の年表、現代製本・古典製本のサンプルほか修復に用いる道具や材料についてのパネル展示等のほか、NPOの教室生らによる作品の展示もございます。
のろが出品したのは去年個展に先立って制作した豆本3点と、『魔の山』の改装本。



中身は岩波文庫でございます。花布と見返しの接続部分には同じ革を使いました。背のタイトル部分のプレートははアルミ缶を切り、手芸用ニードルで引っ掻いて文字を入れたもの。



上巻(白い方)はこの作品の主な登場人物の一人で、陽気な人文主義者セテムブリーニ氏、下巻(黒い方)はその論客である陰鬱な神学者ナフタ氏をイメージしました。二人は共に主人公のハンス・カストルプ青年を自らの陣営に引き入れようと、物語の後半を通じて熾烈な精神的バトルをくり広げるのでございます。

ナフタは近代文明や民主主義を嘲笑い、一握りの宗教的エリートが絶対的命令と恐怖政治によって愚民たちを統治するべきだと唱える全体主義者で、ワタクシは大嫌いでございます。しかし一方をセテムブリーニ装丁にした以上、もう一方をナフタ装丁にしないわけにはいかないのでございました。そしてセテムブリーニ氏のイメージを取り入れずにこの作品を装丁することは、ワタクシには全く問題外だったのでございます。

セテムブリーニさん。彼は色々な点で滑稽な人物であり、彼の主張には承服しかねる所も少なからずございます。とはいえハンス・カストルプ君が言うように、少なくとも彼は善意の人ではあり、生を愛し、人間全般を(おおむね)愛する人であり、その論旨にいささか無茶で楽観的で理性信仰に過ぎる所があるにしても、ワタクシは彼を嘲笑う気にはなれませんのです。

「ああ、-----そんなことをわたしはお話しようと思ったのではありません」と、ゼテムブリーニは眼を閉じ、日に焼けた小さい手を空中に振りながら遮った、「それにあなたは天変地異を混同しておいでです。あなたが言われるのはメシーナの地震です。わたしが言うのは、1755年にリスボンを見舞った地震のことです」
「それは失礼しました」
「そのときヴォルテールはそれに反抗しました」
「と言いますと.....どうしたんです?反抗したんですね?」
「ええ、反抗しました。かれはその残忍な運命と事実とを甘受できなかったのです。これに屈服するのを拒みました。繁華なこの都市の4の分3と、幾千という人命とを破壊した自然の恥を知らない暴虐に対して、彼は精神と理性の名において抗議しました......。びっくりされるんですか?微笑なさるんですか?びっくりされるのはご随意ですが、微笑なさるのは、失礼ながらご遠慮ねがいます!」


筑摩書房世界文学大系61 トーマス・マン p.187


これに続けて「これこそ精神の自然に対する敵愾心、...(中略)...自然とその邪悪な非理性的な暴力に対する高邁なる主張です」なんて言い出すから滑稽になってしまうんだろうなあ、この人は。
精神と理性にはもっと建設的な使い道があるはずですし、ヴォルテール自身だって、数々の災厄に見舞われたカンディード青年に、最終的にこう言わしめているではありませんか。「しかし、ぼくたちの庭を耕さなければなりません」と。









雑記

2011-03-15 | Weblog
地震が起きた時、ワタクシは京都駅ビル7階の美術館「えき」で『ラファエル前派からウィリアム・モリスへ』展を鑑賞中でした。
お客さんたちが「何か揺れてる?」「揺れてるよね」「地震だ」と顔を見合わせ初めてから、かなり長い間、ぐらあり ぐらあり とゆっくりとした周期的な揺れが続きました。船酔いを引き起こしそうな嫌な揺れ方で、どうやら揺れが収まってからもしばらくめまいが残りました。どこか遠くで大きな地震があったのだということは漠然と知れたものの、まさかあのような大惨事になっているとは思いませんでした。

展覧会の内容は、ロセッティとバーン=ジョーンズの手がけた作品が中心で、その他に同時代の画家や、モリス商会によるテーブルやタイル等の工芸品もちらほらといった所。ケルムスコット・プレスのヴェラム装本も一点展示されておりました。ラファエル前派独特の濃いい世界にお腹いっぱいになりましたが、最後にウォーターハウスの油彩2点を見られたのは嬉しかった。





黒澤明監督の『夢』というオムニバス映画に、富士山の噴火に原発事故が重なって、あたり一面放射能に汚染された焼け野原になるという話がありました。さまざまな色に着色され視覚化されたカラフルな放射性物質の霧が主人公たちに迫って来る、不気味な終幕でした。
20年ほど前にこの作品を見た時、黒澤明という名前の持つイメージと、SF的な絵と話のギャップにとまどいました。そしてそれ以上に、放射能の霧を避けようと必死に上着を振り回しながらも霧に呑まれて行く主人公の姿に、ぞおっとうそ寒い気分になったことを覚えております。
2000カ所以上の活断層を抱えた島の上に55基もの原発が据えられているという現状を鑑みれば、これはそれほど「SF的」な話ではないのだということに、その当時は思い至りませんでした。

↓以前の記事でも紹介させていただいたサイトです。

原発がどんなものか知ってほしい(全)

被災地の原子力発電所において、被曝の恐怖と闘いながら作業にあたっていらっしゃる方々、避難を余儀なくされている住民の方々が、放射能による被害を受けないよう、せめて祈るばかりです。





昨日函館の実家からメールがありました。父親が宮城県の栗原市に、地震の二日前までいたとのこと。今回の地震で震度7を観測した所です。宮城県で介護施設の代表をしていらした知人がこの年初に亡くなったため、氏を偲ぶ会に足を運んだのです。ワタクシも施設のオリジナルカレンダーに毎年カットイラストを描かせていただいており、うっすらとながらも繋がりがありました。父親はたった2日の差で何事もなく帰宅できたわけですが、昨日の時点で、施設との連絡はまだついていないということです。


地震

2011-03-13 | Weblog
なぜ私ではなくあの人たちが
と考えずにはいられないのです。意味はないと分かっていても。

とにかく、生きている身としてはできることをしなければなりません。

すでに各種の支援団体が寄付を募っております。
こちら↓のサイトにそれぞれの支援内容や団体のHPへのリンクがまとめられております。

東北地方太平洋沖地震 寄付受付団体|緊急支援|Think the Earthプロジェクト

とりあえず、昨日いち早く募金呼びかけメールをくれたワールドビジョンと、すでに物資とともに現地入りしているらしいAMDAに募金しましたが、他の被災地同様、これからも継続的な支援が必要になってくることでしょう。特に今回は原発事故がからんでいることもあり、被災された方々の生活が今後どうなるのか、たいへん気がかりな所です。

『白いリボン』

2011-03-10 | 映画
ミヒャエル・ハネケを映画館で観るのってしんどそうだなあと思いつつも、観てまいりました。

恐ろしい作品でございました。

映画「白いリボン」公式サイト

長尺の作品ながら、冴え冴えと美しい白黒の映像と張りつめたストーリーにただただ引き込まれ、鑑賞中に時間が気になったことは一度もございませんでした。次第に暴力の度合いが高くなっていく犯人不明の事件と、一見平穏なようでその下に様々なものが抑圧されている小さな村の人間模様が絡まりつつ描かれ、とにかく面白かった。
そんなわけで鑑賞中はその面白さに目をくらまされたような所がございましたが、エンドロールが音もなく流れ、劇場内の照明がつき、日常の世界に立ち戻った時、映画の中に描かれていた悪の重さがずっ しりと身にこたえました。それは、ここに描かれた悪や欺瞞の風景が、(この作品についてよく言及されているように)ナチス時代の到来を予感させるというだけではなく、人間の根源的な負の部分をさらけ出すものであり、その射程には当然、21世紀に生きている私たちも含まれているからでございます。

映画『白いリボン』予告編


舞台は第一次世界大戦前、とりたてて大事件もなければ大人物もいないドイツの片田舎。
その穏やかさはしかし、住民である大人たち、そして子供たちの怒りや鬱屈を欺瞞と抑圧の重い垂れ幕で幾重にも覆い隠した上での平穏であることが、不気味な小事件の重なりによって次第に明らかになってまいります。

社会や家庭内における権力の激しい偏り。各々の場において”権力者”である富豪や父親から、肉体的にも精神的にも理不尽な扱いを受ける”弱者”たち。彼らは”権力者”にたてついて辛い状況を打開することも、あるいは単にそこから逃げることも-----死という方法以外では-----不可能であるがために、抑圧された憎悪の矛先をより弱い者へと向けざるを得ない。

かくて夜中に納屋が炎上し、小鳥の喉にはハサミが押し込まれ、小さな子供が縛られ鞭打たれるのでございました。



一方、裕福な男爵や厳格な父親といった権力者たちは自らの”統治”の正しさを露ほども疑わず、現実から目をそらし続けます。彼らが富者として、夫として、あるいは父親として君臨している場に、その一方的な統治のありようゆえに恐ろしい歪みが生じていることを、彼らは決して認めようとせず、歪みの出どころを個々人の心がけの問題にすり替えるのでございます。

不満や鬱屈のない家庭や社会というものはまずめったに存在しないものではありましょう。一人一人が違った人間である以上、それは仕方のないことでございます。忌むべきは、その不満のもととなる状況や力関係が、-----この映画の中での男爵と村人たちや厳格な牧師とその子供たちの関係のように-----絶望的なまでに固定化され、弱者の側からは全く動かし難いものとなること、またそうした弱者の鬱屈と絶望が、より弱い他者への暴力という形で吐き出されることでございます。

その「吐き出し」がナチスドイツ下でのユダヤ人迫害のように国家的規模で行われる場合もございます。
しかしこの作品の中が描き出している人間の根源的な悪、そして理不尽な暴力の発動を促す構図は、もちろんある時代のある国に限ったものではございますまい。今の日本でわりとよく耳にする通り魔事件や子供の虐待事件の背景にも、同じものがあると思われてなりません。
そして新聞沙汰になる所まで行かないものも含めれば、こうした悪の発動は至る所に、日常レベルで転がっているものなのではございませんか。そして日頃とりわけ意識することもなく、大なり小なりその悪に参与しているのではござませんか。ワタクシも、多分、あなたも。

本作で唯一の救いは語り手である教師と彼の恋人が、無力ではあるものの好感の持てる人物として提示されていることでございました。不穏な緊張が続く中に二人のほのぼのエピソードが挟まっているおかげで、所々でホッと一息つくことができました。まあ、語り手なんだから自分と恋人を善人にするのは当たり前、という穿った見方もできますけれどもさ。



『英国王のスピーチ』(とりあえず報告のみ)

2011-03-04 | 映画
ジェフリー・ラッシュがわりと好きで
コリン・ファースはわりとどうでもよく
へレナ・ボナム・カーターがわりと嫌いなワタクシとしては
観に行くか行くまいか微妙な所ではございました。

が、予告編を見たかぎりとっても面白そうだったので、本日鑑賞してまいりました。

いやーーーーーー、よかった。
ほんとに、よかった。

こういう映画を観られるから、生きてるのもいいかなって思えるのでございます。
あとあとになって思い出しても幸せになれるような作品でございました。

先にレポートするべき作品が控えておりますので、とりあえず本日はご報告まで。

『山荘美学 日高理恵子とさわひらき』展

2011-03-01 | 展覧会
というわけで

快適ブレーキが復活した自転車を駆って大山崎山荘美術館で開催中の山荘美学:日高理恵子とさわひらきへ行ってまいりました。
ここ数日の暖かさに正しく反応したものと見え、道中あちこちで梅の花がほころんでおりました。梅には鶯というわけで、まだへたっぴいながらも ホー ケキョ の声も耳にしましたですよ。

さわひらき氏と日高理恵子氏、日常的な事物に表現の足場を置きながらもまったく異なる方向性を持った現代芸術家でございます。
台所やバスルームといった日常生活の場から発して、ノスタルジックで幻想的な世界へと見る者をいざなうさわ氏。
下から見上げた木の枝ぶりという、これまたごく日常的な風景の中にある硬質な美をモノクロームで描き出す日高氏。

前者の作品は、もともと実業家加賀正太郎氏の山荘として使われて、まさに生活空間でもあった本館に展示されております。窓際にひっそりと立てられた本のような液晶パネルや、古い木製の小箱の中、あるいは暖炉の上の壁面といった、ふとした場所に展開する繊細な映像作品は、大正~昭和初期に立てられたこの建物に違和感なく溶け込んでおります。その展示空間との相乗効果によって、時間と空間の尺度をあいまいにさせるような作品の不思議な魅力がいっそう高められております。

氏の作品とは、今は無きサントリーミュージアム天保山で開催された『インシデンタル・アフェアーズ』でお目にかかって以来でございました。今回展示されていた8作品もまた、いずれも詩的で繊細、かつそこはかとないユーモアが漂い、たいへんよろしうございます。

『インシデンタル・アフェアーズ』2 - のろや

とりわけのろごのみだったのは「spotter」という8分弱の作品でございます。
家の中をゆっくりと飛びかう、たくさんの小さな飛行機たち。それをバスタブのへりや洗濯機の上や植木鉢の側に寄り集まって、双眼鏡で喜々として追いかける”spotter-飛行機見物好き”たち(ほとんどがいいトシのおっさん)。廊下や台所といった背景の生活感、部屋の中で離発着するちっちゃなジャンボジェット機というメルヘンなモチーフ、そしてspotterという何とも少年じみたおっさんたちの存在が相まって、何とも微笑ましい映像でございました。
↓の作品の発展形とも申せましょう。

dwelling


また本館ではさわ氏の映像作品の合間に、収蔵品のバナード・リーチや河井寛次郎やルーシー・リーの作品も展示されております。彼らもまた、アプローチの方向は違っているものの、「日常」と「美」との接点を模索した芸術家でございます。皿や花瓶といった実用的な焼き物と映像作品とが同じ空間に展示され、お互いに当たり前のような顔で調和しているというのも、「もと生活空間」たるこの美術館ならではのことではないかと。

一方、ご存知打ちっぱなしコンクリート安藤氏設計の新館に展示されている日高理恵子氏の作品は、白い画面の上に黒々と鋭く禁欲的な線を張り巡らせ、厳しさをたたえながらも、厳しさに圧倒されるというよりは、むしろ近よって行ってその前に佇みたくなる、巨木のようなたたずまいを持っておりました。

というわけで
美術館を後にしたのろも、ふと上を見上げて日常的な事物の持つ美に目を凝らしてみましたですよ。



意外とバラエティに富んでおりますね。