のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

メニエル賛歌

2018-05-03 | Weblog
ちょっと今日のGoogle Doodleが素晴らしすぎて…!

360 Google Doodles/Spotlight Stories: Back to the Moon


ジョルジュ メリエスを称えて

メリエス作品への愛と敬意に満ちたアニメーションの何と素敵なこと。またマウス操作で視野を360度動かせるという、いわば最新のテクノロジーを駆使した遊び心、これ自体がメニエルの精神を引き継いでいるように感じます。最新のテクノロジーってものがそれほど好きな方でもないのろさんも、これは心から楽しめました。

『ヒューゴの不思議な発明』 - のろや

マーク・ストロング映画勝手にガイドその2

2018-01-20 | Weblog
1/19の続きでございます。

さて、マーク・ストロングの出ているものなら何でも見たいという気になって来たあなたに、満を持してオススメしたいのが『リボルバー』(2005)。そう、ガイ・リッチーの失敗作として名高い一本でございます。

リボルバー 予告編 -Revolver-


スタイリッシュな映像と、進むにつれて加速度的に観客置いてけぼり感を高めていく展開、独特といえばそうではありますが、アートフィルムと呼ぶには俗っぽく、エンタメ映画と呼ぶには不親切という宙ぶらりんな作品でございます。暗転と沈黙のうちにエンドロールが終わったあと、観客の頭にこだまするのは「何これ」と「でもソーターはよかった」という声でございましょう。見た人100人が100人とまではいわずとも、およそ98人くらいは賛同してくださると思います。
「情緒不安定な殺し屋」、ソーター。冴えないサラリーマンのような風貌に、吃音でつっかえつっかえ話すうつむきがちなおっさん。この人物が有能なヒットマンであるとは見た目からはとうてい信じがたい。ところがどっこい、ひとたび銃を構えれば(そして気分が悪くなければ)素早い判断と正確無比な狙いでターゲットを確実に葬るハイパー凄腕でございます。しかもたとえ雇い主の意向であっても、拷問や子供の犠牲といった残酷な仕打ちは許せないという、案外に熱い心の持ち主でもあります。ちょっとネタバレになりますけれども、映画の終盤でソーターが女の子を助けるシーンときたら、まさしく 胸 熱 でございます。男性だろうと女性だろうと、あの一連のシーンを見てソーターに惚れない人類なんて存在するのかしらと思いますよ、ええ。
失敗作ではあろうとも、この映画はワタクシがマーク・ストロングという俳優を知るきっかけとなった作品でございます。それにワタクシ、ソーターというキャラクターが本当に大好きでございますので、当ブログにおいてはマーク・ストロングのことをしつこくソーターさんと呼び続けております。いちいちマーク・ストロングと打つのが面倒くさいからでもありますが。
ジェイソン・ステイサム演じる主人公の心の声と映画の中の現実が錯綜して話がわかりにくく、よほどの物好き以外には薦めにくい作品ではございますが、マーク・ストロング好きなあなたにならば自信を持って言えます。今すぐ見ましょう!今すぐ!マーク・ストロング好きなら決して損はしません!ソーターの勇姿を見ないでうっかり死んだら、人生無駄骨でございますよ!!


というわけでワタクシがマーク・ストロングを発見したのは『リボルバー』においてであったのですが、世間一般で言うところのソーターさんの出世作といえばBBCの4話ものドラマ『The Long Firm』(2004)でございます。

Mark Strong - The Long Firm video


原作の小説は『暗黒街のハリー』のタイトルで日本語訳されております。またDVDは英語字幕が出るように設定できますので、リスニングが苦手でもセリフは追えます。
1960〜70年代のロンドンを舞台に、才覚とカリスマ、そして非情さを武器に裏社会で頭角を現していくユダヤ人、ハリー・スタークスの生き様を描いた本作。ドラマの方は時系列に進みますが、小説ではいきなりハリーが熱した鉄棒を手に「ショウほど素敵な商売はない」を口ずさみながら、椅子に縛り付けたもと恋人の青年(ハリーは同性愛者)を拷問しようとしているショッキングなシーンから始まったのち、青年の回想のかたちでハリーとの馴れ初めが描かれます。そののち語り部がハリーと関わりのあった仲間や友人へと章ごとに交代して行き、一人称でナレーションすることのないハリーという人物を外部の視点から描いていくのはドラマも小説も同じ構成。
相手を屈服させることを好み、「俺はこの手で椅子に縛り付けられないような人間とはビジネスをしたくない」と言い放つハリー。脅迫に拷問に殺人と極悪非道なことも平気でやるくせに、妙に夢見がちでナイーヴな側面があるハリー。母親思いで、恋人には優しく(もちろん裏切らないかぎりは)、抗鬱剤を手放せないハリー。ショービジネスに憧れ、ジュディ・ガーランドを崇拝し、ちょっとセンスが時代遅れのハリー・スタークス。

ハリーは凶暴さの中にも魅力があり、人々は吸い寄せられるように集まった。いやでも引きつけられてしまう強引なほどのカリスマ性を持ち、そのカリスマ性が放つオーラの中にいれば安全だと思わせた。ちょうど鮫にぴったり近づいて泳ぐ小魚のように、ハリーのスリップストリームの中にいると守られている感じがするのだ。(byテリー、p.22)

ハリーは人を脅して従わせる稀有の才能を持ち合わせている。「ただの心理的な駆け引きさ」とハリーは言う。そういうむずかしい話はおれにはわからない。しかし、極悪非道であることは確かだ。そしてハリーは、極悪非道以外の何物でもない。(byジャック、p.143)

ショービジネスのことになると、ハリーはセンチメンタルな思い込みが激しい。ちょうど魔法の世界に憧れる子供のように、エンターテイメント業界を無邪気な目で見ているのだ。(byルビー、p.257)

私は上の空でうなずいたけれど、そのとき突然、ハリーのいおうとしていることがわかった。人殺しの罪をかぶってやろうといっているのだ。この私の罪を。(byレニー、p.376)

この人物をソーターさんが演じているというだけでワクワクしませんか?しますでしょう。面白いことに当初ドラマの制作陣の間では、マーク・ストロングでは「いい人そう」すぎて、凶悪さや深みを持つハリーの役は務まらないのではないかと懸念する声もあったとのこと。どっこい、蓋を開けてみればソーターさんの演じるハリーがあまりにも素晴らしかったので、その後の数年間ソーターさんには悪役のオファーが殺到することとあいなったのでございました。なおこの時プロデューサーであったリザ・マーシャルさんとソーターさんはのちにご結婚されるわけですが、彼女のアメリカ側の親戚、つまりソーターさんの非・悪役時代をよく知らない方達から「あんな怖そうな人と結婚して大丈夫なのか」と心配されたんだとか笑。
しかし上記のようにハリーはただ凶暴なだけのキャラクターではございません。時々露わになる素朴さやもろさ、虚栄、友情、傷つき、そうしたものが折り重なった複雑多岐な側面を、文句なしの説得力で演じきったソーターさん、英国アカデミー賞主演男優賞ノミネート&放送報道組合賞の主演男優賞を受賞されました。


ここで『The Long Firm』以降のソーターさんの悪役&悪党遍歴をちょっと見て見ましょう。すごいですよ。2014年のジャガーのCMほか - のろやも含めると、10年間毎年欠かさず、なにがしかの悪党を演じた作品が公開されております。

2005
『オリヴァー・ツイスト』トビー・クラキット:ゴロツキ
『シリアナ』ムサウイ:二重スパイ
2006
『トリスタン+イゾルデ』ウィクトレッド:裏切り者
2007
『サンシャイン2057』ピンバッカー:狂信者
『スターダスト』セプティマス:冷酷な王子
2008
『バビロンA.D』フィン:裏切り者
2009
『ヤング・ヴィクトリア 世紀の恋』ジョン・コンロイ:威圧的な野心家
『シャーロック・ホームズ』ブラックウッド卿:テロ扇動者
2010
『キック・アス』フランク・ダミーコ:ギャングの親玉
『ロビン・フッド』サー・ゴドフリー:裏切り者
2011
『ザ・ガード 西部の相棒』コーネル:麻薬密輸犯
『グリーン・ランタン』シネストロ:悪役予備軍
2012
『ジョン・カーター』マタイ・シャン:神かなんか
2013
『ビトレイヤー』スターンウッド:大物犯罪者


そんなわけで、次回はソーターさんが悪党を演じた映画について取り上げさせていただきたく。

続きます。

年賀状2018

2018-01-14 | Weblog
あけて久しくなりました。



いちおう右側のヒエログリフで「あけましておめでとう」と書いております。

デザインの方は年々出来が悪くなっているような気がいたします。
どうせ10人くらいにしか出さないしなあと思うと、あんまり頑張って制作するのもバカバカしくなって来るのです、正直。

それはさておき
年末年始は京都みなみ会館のタルコフスキー特集上映に通い詰めておりました。
そう、今年で閉館することが決まっているみなみ会館 でございます。

なにせ相手がタルコフスキーですから半分くらいは眠気との戦いであったわけですが、大晦日も元日もこの小さな老舗映画館と共に過ごせたこと、そして正月一日からわざわざ『惑星ソラリス』を観にアクセス悪目の映画館までやって来る病膏肓な映画ファンの皆様と時間を共有できたことは、幸せな体験でございました。

完全閉館ではなく移転後の営業再開を目指していらっしゃるとのこと、そして3月末までは今の建物での営業を続けてくださるとのことで、少しでも移転費用の足しにしていただきたいという願いと、20年来のつきあいであるこのミニシアターへの惜別を込めて、閉館までできる限り足を運びたいと思います。
などと言いながらも今日はTOHOシネマズに『キングスマン2 ゴールデン・サークル』を観に行ってしまいましてまあぁぁぁぁりいぃぃぃぃぃぃぃん!!!!! 


いや知ってたけどさ…のろさん年始からつらいわ…

untitled

2017-08-18 | Weblog
いやあまあ、皮膚炎が酷うございまして。
メインは結節性痒疹というやつのようなんですが、その他にも痛いのやらガサガサのやらじくじくのやら、もうめいっぱい。
前世でいったいどんな悪行をやらかしたんでしょうねワタクシは。
村中のヒキガエルを集めて生きたまま籠に詰め込んで火をつけたとか、その様子を、貧乏なお婆さんがやっとの思いであつらえたぼた餅をふんだくって頬張りながら笑って見ていたとか、そういうレベルの鬼畜行為におよんだ報いとして今の人生でこんなに頭から足先までぶつぶつだらけ血まみれ汁まみれの身体に苦しめられているんじゃないかと、うっかり信じそうになるくらいな惨状なわけです。

皮膚炎で死ぬ人ってのはたぶんあんまりいらっしゃらないのであって、そういう意味で「皮膚以外の身体は元気」なわけです。そんなわけで人前ではけっこう快活に振る舞ったりするんけれども、実を言いますと死ぬほどつらくて常日ごろ樹海のこととか割と考えてたりしますので、身近に皮膚炎まみれの人がいたら明るい顔をしておりましても「こいつも大変なんだろうな」などとちょっぴり思っていただけると幸いです。

普通の肌が欲しいですな。
別にきれいな肌じゃなくていいんで、普通の肌。
半袖を着て外を歩けるような。
夜は普通に眠れるような。
朝は寝具が血まみれ落屑まみれになっていないような。
うっかり制汗剤を塗って痛さに身悶えしなくていいような。
薬を塗ったり貼ったりするだけで1時間もかかったりしないような。
いやあもう、そんだけ。

ツラ報告

2017-01-15 | Weblog
熱と頭痛で動けず、咳もできない衰弱ぶりで、振り返ってみればインフルエンザだったような気がします。
食べられないわ動けないわで、ジーンズの上から掴んでも両手の輪の中に納まるくらい腿が痩せてしまいました。
また、好きなこととはいえあまりといえばあまりな激安案件に今後半年ほど関わるというか没入することになり、ちょっと色々ツライです。

ミュージカル『わたしは真悟』

2016-12-25 | Weblog
ミュージカル『わたしは真悟』を観て参りました。

ミュージカル「わたしは真悟」公式サイト

美術も振り付けも音楽も何もかも結構でしたが、何より素晴らしかったのは「真悟」その人です。
時には重さを持たないように軽やかに、時には壊れた機械のように痙攣的にと、流麗で力強く、自由自在に展開される迫力の身体表現、目が釘付けになりました。
そして、あの声。
万感の思いを込めて「母」であるまりんに呼びかけ、自分の存在の全てをかけて「父」であるさとるに呼びかける、あの痛切な叫び声を思い出すだけでも涙が出てきます。
自我を宿した機械である「真悟」の精神は、原作の漫画の中では一貫して幼児の姿で描写されておりました。これをいったい演劇でどうやって表現するのかと期待半分不安半分で鑑賞に臨んだわけですが、蓋を開けてみればいくら拍手を送っても足りないぐらい素晴らしい真悟像でした。精神としての真悟を演じる成河氏、そして機械としての真悟を操る/演じる方々が、その全身で表現する無邪気さ、一途さ、そして残酷さ。原作からかなりのプロットが削られているにも関わらず、原作のそれにも迫るほどに切実で真摯な真悟の「在りよう」は、ストーリーの中に自然に流れ込む歌の旋律よりも、映像を巧みに使った舞台装置よりも美しいものに思われました。

筋の省略や表現媒体の違いを克服するためでありましょう、原作とは少し異なる、舞台オリジナルの場面もいくつかありました。例えば真悟が埠頭でしずかの名前を呼んだり、さとるが電気店のPCで思いがけなく真悟にアクセスするなど。その中で最も印象深かったのは、最後の最後の終幕シーン、即ち、真悟が「終わる」その瞬間に、子供のままので遊ぶ父と母=さとるとまりんの永遠の姿を見るという胸に迫る場面への、真悟自身の参加です。原作では楽しそうにこちらに走って来るさとるとまりんの姿が描かれ、次の瞬間に真悟はこと切れるのに対し、舞台ではさとるとまりんが天空から降ろされたような長いブランコに座って互い違いに漕いでいる所へ真悟(の精神)がやって来て、二人の背中を押して同じタイミングで漕げるようにしてあげるという演出がなされておりました。
さとるとまりんの子供時代は、現実の時間的流れの中では二人の成長に伴って「終わる」一方で、決して汚されることなくきらめく存在として永遠の中に留まっております。それと同じように、彼らの「子供」である真悟もまた「終わる/死ぬ」のと同時に永遠の世界(=子供としてのさとるとまりんのいる世界)へと旅立って行ったのでしょう。そのことが詩的に、かつより明確に描かれた、切なくも優しい演出でありました。

少しだけ欲を言うなら、真悟がかつては万能であった自身のエネルギーと能力、そして記憶までも犠牲にしながらさとるの元へと辿りつくくだりを、もう少し時間をかけて描いて欲しかったとは思います。それから「そしてアイだけが残った」の一文も、できれば聞くなり見るなりしたかった。

真悟以外のキャストについても少し。
さとる役の門脇麦さん、所作や台詞回しが実に自然で説得力があり、本当に10歳ぐらいの男の子が舞台に立っているように見えました。
しずか役の大原櫻子さん、原作の登場人物では最年少なのに時々大人びたことを言う、かつ中盤までかなりのウザキャラであるしずかは難しい役どころではないかと想像しますが、チャーミングに演じておられました。情感のこもった歌もお見事。


さて本作はミュージカルであって、印象的な歌も色々とあったわけですけれども、NHK-FMのラジオドラマで初めてこの作品に親しんだワタクシとしては『わたしは真悟』といえば何をおいてもこの曲なのです。最初の「ジャ〜ン」だけでもうグッと来ますね。

佐野元春 『レインボー・イン・マイ・ソウル(ライブ 1993)』

とどこおり中。

2016-09-28 | Weblog
さくさく投稿して旅行記をいいかげん終わらせたいのですが、この所Macさんの具合がたいへん悪くて。
5年目だし、冬は激寒・夏は極暑の劣悪環境だし、寿命かしらん
何もかもままなりません。

長野行その1

2016-09-05 | Weblog
今年は1週間連続で休みがありましたので遠出をしようという気にもなり、長野県は飯田市の川本喜八郎人形美術館へ行くことにしました。長いこと行きたい行きたいと思っていた美術館です。

飯田市川本喜八郎人形美術館

鉄道では行きにくい所なので長距離バスを利用しようとしましたが、帰省ラッシュのせいか京都→飯田便はすでに満席となっておりました。そこで青春18きっぷで名古屋まで出て、名古屋→飯田便に乗ることに。バス席の確保もビジネスホテルの予約もネットでさくさく完了。いやはや便利な世の中です。
20年来使っている旅行用のリュックサックを久し振りに引っ張り出し、最近は持っている人をあまり見かけなくなったデジカメのバッテリーをめいっぱい充電し、化膿しているできものの痛み止めに秘蔵のロキソニン5錠を携え、最寄りのJR駅から7:40発の便でのんびりと出かけます。

ラッシュ時ほどではありませんがそこそこの混みようで、大きなスーツケースを携えている人もちらほら。米原で乗り換えてからは座席に座ることができ、10:30に名古屋駅到着。午前中とはいえ太陽はかんかん照りで、京都に勝るとも劣らない暑さでございます。桜通口改札からてくてく歩いて名鉄バスセンターへ行き、中のコンビにで買った鮭おにぎりを頬張りつつ11:00の発車を待ちます。バスの中でご飯を食べるのは嫌ですからね。
バスは定刻通りに無事出発。斜め後ろに座っているおばさまと、そのお隣の席の飯田市出身らしいおばさま、たまたま乗り合わせた他人同士のようですが、早速なごやかに世間話を始められました。しばらくはおばさまがたの会話をBGMに窓外を眺めておりましたが、バスが高速に入ってしまうと両面壁ばかりで面白くありませんので寝てしまいました。

目が覚めると、交通事情で20分ほど遅れているとのアナウンスが。ともあれ、昼過ぎには飯田市に着きました。斜め後ろのおばさまがたは既に10年来の知己のように親しげなご様子。しかし片方が目的地に着いたこととて、親戚一同へのお土産らしい紙袋を手に、爽やかに別れの挨拶を交わして降りてゆかれました。ワタクシも後に続きます。

ほぼ真上から照りつける太陽の下、徒歩で美術館へと向かいます。
マンホールにはリンゴがあしらわれております。


ゆるい坂道を下って、上って、10分ほどで到着。ああ、ここに皆さんいらっしゃるのですね。
川本人形といえば、まず誰をさし置いてもまず孔明先生でございましょう。代表作なだけあって、至る所に顔を出して来館者を迎えてくださっております。


よく見ると他の面々も。上から『平家物語』の清盛、『三国志』の関羽、『花折り』の小坊主、『死者の書』の郎女(いらつめ)。

階段を見れば「川本喜八郎」と「人形美術館」の間には三国志人形のシルエットが描かれております。
しかも一つ一つ違う。

方天画戟を構えているのは呂布ですね(賈華だったらびっくりだ!)。その上の段にいるのは貂蝉。ううむ、実に正しい位置関係です。

階段を上り切ると、おや、奥の方に誰かいらっしゃるようです。


次回に続きます。

お久しう。

2016-08-19 | Weblog
どうも、長らくご無沙汰でございました。

頭のてっぺんから足の裏まで様々な皮膚疾患まみれでそりゃもう死にたさMAXな日々ではあります。
しかし今年は1週間も連続で休みがあったので、怠け心に鞭打って旅行に行って来ました。
写真を色々と撮って来ましたので、次回から写真入りレポをUPして行こうと思います。

年の瀬

2015-12-31 | Weblog
今年はしんどかった。
明日からしんどくなくなるかしらん。
そうだといいなあ。

来年は身体がよくなりますように。
新しい役目をきちんとこなせますように。
素敵な悪役に出会えますように。

皆様よいお年を。

ピーナッツ化

2015-09-23 | Weblog
世間並みに5連休でございました。

家の用事を片付けて過ごすつもりだったのですが、振返ってみれば京都市美術館に『マグリット展』と『院展』を観に行き、京都シネマに『さよなら、人類』と『ルック・オブ・サイレンス』を観に行き、今日はTOHOシネマズにソーターさん、じゃなかった『キングスマン』を観に行き、と、遠出をしないなりに結構遊んで過ごしたようです。
これらの鑑賞レポートはまた後日書ければと思います。ただ『ルック・オブ・サイレンス』については、『アクト・オブ・キリング』同様、適切に語る言葉を見付けられそうにありません。ひとつだけ申しますならば、加害者が被害者に向かって「過去の事だ。俺達はもう忘れた、お前ももう忘れろ」と言いつのる、そのことの醜悪さに吐き気すら覚える、前作同様に凄まじい作品でございました。


さておき。

しばらく前から、TOHOシネマズでは上映前に『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』のプロモーション映像を流しております。アメリカでは11月6日、日本では12月4日に公開なのだそうで。何なんでしょうね、この微妙なタイムラグは。
とにかく、それに先立つ宣伝企画のひとつなのでございましょう、「自分をピーナッツのキャラ化してみよう」というサイトが公開されております。

Get Peanutized | Turn Yourself into a Peanuts Character

女性と男性で選べるパーツが違うようなので、両方やってみました。
女の子モードでやってみた結果がこちら。


うーん、まあ、高校くらいまではだいたいこんな感じでした。
パーカーも着ていたし眼鏡も丸かったし。髪は長かったけど。

男の子モードでやってみた結果がこちら。


そっっっくり!!

高野山行3

2015-09-07 | Weblog
金剛峰寺を後にして、壇上伽藍へ向かいます。

大会堂とその軒下の龍。金網は鳥よけでしょうが、躍動的な龍が飛び出さないように押さえているように見えて面白い。


この一角には昭和になってから再建されたというピカピカの建造物もあり、少々面食らいました。
大会堂の前あたりで、さっき金剛峰寺で見かけたようなかなぶんが二匹揃ってひっくり返り、わきわきともがいておりました。ひっくり返ったかなぶんを見かけたら、もれなく助け起こして差し上げることにしております。指を差出すとご両人ともどうにかこうにか立ち直り、「ああ、えらい目に会った」とでも言いたげな後ろ姿で去って行かれました。ころんとした体型といい、いささかどんくさい所といい、かなぶんぶんは可愛いですね。ゴキ諸氏もこれくらい可愛かったら共存できなくはないんですが...。

さておき。

弘法大師の肖像が安置されているという御影堂と、その隣のこぢんまりとした准胝堂。深緑に灯籠がきらきらと映えて、とてもきれいです。


金堂の方へ行くと、少し離れた所で子供たちがわいわい騒いでおります。どうやら可動式になっている塔を回しているようです。ううっ面白そう。普段だったら一人でも塔回しに挑戦する所ですが、炎天下を歩きづめでいいかげん疲れておりましたので、遠くから見守るに留めました。後で調べてみましたら、経蔵であるとのこと。

六角経蔵 - 壇場伽藍(壇上伽藍)の見どころ - 高野山名所図会

横から見た金堂。びゅうんびゅうんと立派な垂木が延びています。


金堂の正面には数年前から再建が勧められ、今年の4月に落成したばかりの中門が立っておりました。柱の緋色も鮮やかな中門を抜け、霊宝館へ。
展示品ごとに丁寧な説明が付いており、ライティングもよろしく、大変結構な展示でした。またワタクシが行った折は名宝展開催中ということで、修復されたばかりのお市の方の肖像画も見ることができました。感想メモを取らなかったので、個々の展示品についての感想は省きます。仏像についての説明書きを読んで驚いたことには、全山の仏像・画像を数え上げてみると、一番多いのは大日如来ではなく阿弥陀如来の像なんだそうです。

霊宝館を出、いいかげんくたくたではありましたが、地面から立ちのぼるような午後の暑さの中を歩いて大門へ向かいます。
↑写真中央は大門を東側から見たところ。写真右端は西側から見たところ。本来なら駅からここまで歩いて、この門をくぐったのちに散策を始めるべきだったのしれません。最後に来ちゃいましたが。

さて時間は午後3時前、夕方までに京都に帰るためにはそろそろケーブルカーに乗らねばなりません。今日3度目のバスに乗り、かつて女性はここまでしか来られなかったという女人堂をすっとばして駅へ。満員のケーブルカーで下界に下りる途中、山腹に「ここがスカイツリーと同じ高さ」という内容の看板が立っているのが目に入りました。へええと思う情報ではありますが、こういうのを得意気に押出してきてしまうあたり、やっぱり何だか俗っぽい。南海高野線に乗ってからはまた『夏への扉』を開いてごとごと帰ります。

『夏への扉』はとても面白かったものの、主人公にとって全てがえらい都合よく終わったな、とは思いました。え、同い年くらいじゃなくて一回り下なわけだ、とも思いました。しかし最終的に猫のピートが幸せになったので何もかも良しとします。
高野山も期待したような静謐な場所ではありませんでしたけれど、奥の院の杉がなにせ素晴らしかったので、良しとしようと思います。


高野山行2

2015-09-04 | Weblog
奥の院を出てもと来た道を引返します。途中、分かれ道がございました。
↓大木の手前を左に折れると杉木立から出るルートになります。太陽さんさんでちょっと暑そう。しかし来た時とは別の道をたどってみるのもよかろうと思って出てみたわけです。


まあ暑いのなんの。
正午前の強い日差しが遮るものもなく降り注ぎ、石畳で目玉焼きくらいは作れそうな勢い。
木立の中の道とほんの数メートルの隔たりしかないのが信じられないような温度差でございます。ああ、植物は偉大なり。
できればもとの参道に戻りたかったのですが、枝道になっているのは先程の一カ所だけらしく、仕方ないので汗を吹き拭きバス停へ向かいます。

程なくやって来たバスで市街地へと向かう途中、苅萱堂(かるかやどう)前で下車。お堂に入って行きますと、堂守の御老人が話しかけていらっして、あれよあれよという間にろうそくを買わされました。もっともこれは単にワタクシが断り下手だからであって、何も買わなくても拝観できます。
お堂の中では高野山ゆかりの僧、苅萱道心とその息子石童丸 - Wikipediaの物語を、彩色された木彫レリーフ(あまり芸術性が高いものとは思われませんでした)と解説文によって辿ることができます。現代の価値観で見ると「そもそもおめーが妾を囲い入れた上に家庭放棄したのが悪いんじゃねーか!」と苅萱道心をしばき倒したくなるようなお話ではございましたが、謡曲や説教節において、道徳的なお話として長らく語り継がれて来た説話なんだとか。

お堂を出てからてくてく歩いて行くと、立派な構えの史跡らしい建物がございます。(↑真ん中の写真)おずおずと入ってみても門前を掃いているお坊さんがたに呼び止められることはなく、これは拝観できる所なのかなと思って玄関口のスリッパをお借りしてぺたぺた上がって行きました。ところがこれが宿坊だったらしく、奥から出ていらっしたお坊さんに「ちょっとそこの人!声もかけんと勝手に上がってもろたら困りますよ!」と指さしで怒られました。

もう寄り道はしないことにして、黙々と金剛峰寺へと向かいます。

蝉しぐれの金剛峰寺。

境内の一角に、何か現代アートじみた素敵なものが立っております。
近づいて説明書きを読んでみると、実際に現代アートでございました。美術作家の崔石鎬氏による、護摩木を積み上げた作品とのこと。
詳しくは↓こちら。
artpot - ホーム

悼みや祈りのひとつひとつが丁寧に積み上げられて、天に昇せられる時を待っております。周囲と調和しながらもしんと自己完結した、厳かで美しい空間でございました。

金剛峰寺の中を拝観。枯山水を望める廊下から。

窓辺では可愛いかなぶんぶんが涼んでおります。

廊下の突き当たりは大広間になっており、煎茶のお接待をいただけます。雲を食べるような白くて軽い煎餅がお茶菓子に付いて来ました。
ひっきりなしに人が来るので、まかないの皆さんは大忙し。「はい~お二人様~」「はい~次の方どうぞ~」とこの一角だけやけに威勢がいい声が飛び交っていて、ちょっと可笑しかった。

お茶をいただいて一息ついてから廊下を少し戻り、枯山水を左手に見ながら進んで行きますと、しまいにお台所へ着きました。小さな天窓からいい具合に外光が降り注いでおります。見える場所に段ボールとか積んでなかったらもっとよかった。


力尽きたので、次回に続きます。

高野山行1

2015-09-01 | Weblog
ふと思い立って高野山へ行ってまいりました。
ふと思い立ったことなので下調べはほぼ無し。

行ってみればバスやケーブルカーの中ではいかにも観光地めいた音楽つきのアナウンスが流れ、お寺とお寺の間にはお土産屋さんとお茶所がぎゅうぎゅう詰まっており、コンビニなんぞもあり、ゆるキャラ「こうやくん」の看板が所々に立っており、お坊さんがたはお客をさばき慣れている、というか、さばき倦んでいる感じで、もう少し俗離れした所を期待していた身としては少々がっかり。
しかしまあ、循環バスは使いよく、公衆トイレはとてもきれいであって、要するに観光客が快適に過ごせるように整えられているというわけで、観光目的で行ったワタクシごときに文句を言われる筋合いはないこってございましょう。

遠出のおともには本が不可欠。あまたのつんどく本を尻目に、数日前に買ったばかりのハインラインの『夏への扉』、そして万がいち途中で読み終えてしまった時の予備として、遠藤周作の『沈黙』をカバンに入れます。変な組み合わせですが別に意味はありません。二冊とも「そういえば読んでなかった名作」というだけの繋がりでございます。

JRの最寄り駅から京都→梅田→難波まで出て南海電鉄に乗り換え。関西に20年いながら初めて乗った南海。ワタクシが乗った車両はきれいな青い座席でクッションの固さも程よく、乗り心地はいたって快適でございました。
しばらく市街地が続いたのち窓外の景色はだんだんと山がちになり、橋本駅で極楽橋行きに乗り換えてからは本当に山の中を進んで行きます。右手には鬱蒼とした木々がせまり、左手には深い谷を見下ろし、よくまあこんな所に鉄道を敷いたもんだと驚くばかりの山奥をごとごとと揺られておりますと、『夏への扉』をちょうど半分くらいまで読んだ所で極楽橋に到着。悪漢たちのせいで「ぼく」から引き離され、過去に取り残されてしまったピート(猫)の運命がものすごく気になる所ではありますが、ここで一旦本を閉じねばなりません。

真っ赤な車体が可愛らしい、二両編成の車両。

ホームからケーブルカーの乗り口まで、風鈴がたくさん吊り下げられております。
このケーブルカーというのがまあ、おっそろしい角度の傾斜をゴンゴンと上って行くんでございます。写真は高野山駅に着いた時に撮ったもの。いやどうです、この斜めっぷり!

改札を出ますと、はちすをかたどった何やらありがたげな器が置いてあります。蓋を開けてみると粒子の細かい茶色の粉末が入っておりました。塗香(ずこう)というもので、聖地に踏み込む前にこれを両手にまぶして身を清浄にするんだそうです。つまんで両手にもみこむと、スパイシーないい香りがたち上ります。いささか『注文の多い料理店』気分ではございます。


表へ出るとすぐバス乗り場があり、ちょうど一番遠い奥の院口行きのバスが出る所でございました。勢いで一日乗車券(¥830)を買って乗り込みます。
奥の院口から奥の院までの参道には、歴史的有名人やら作家やら大企業やらの供養塔やお墓やがぎっしり並んでおりまして、親切なことに参道入口にはお墓マップが掲示されておりました。織田さんやら豊臣さんやらはすっとばしてもいいけど、熊谷直実のお墓には手を合わせておこうかな…と思っていたのですが、周りの杉の木ばかり見ていたらいつの間にか通り過ぎてしまいました。

何せ素晴らしいんですもの、杉の木が。年月を経た大木がしんしんと空に向かって延びており、朽ちかけた株からは可愛らしい新芽が育ちつつあり、複数の株が根元で一体化したものや、大きな洞にこんもりとシダや苔を擁しているもの、幹の途中から別の木が生えているもの(↑右端)もございました。

根元には様々な種類の苔が豊かに育っております。


知人に勧められて尾崎翠を読んだばかりだったのろさん、苔たちのたたずまいにも何となく心惹かれます。



↓下の方に見えている赤いものはお地蔵さんの前掛け。ご立派なお墓や供養塔だけでなく、名も無き小さなお地蔵さんも無数にありました。


8月なかばの暑い盛りであったにも関わらず、杉木立の中はひんやりと涼しく、歩きづめでも汗が流れることはありませんでした。

ちいさなちいさなキノコを発見。

さて、奥の院の手前までやって来ました。橋を渡った向う側は撮影禁止でございます。なんせ聖地ですから。
なんでも、橋の所まで弘法大師さんが参拝者を迎えに来てくだすって、帰る時も橋までお見送りしてくださるんだとか。
こんなにお客さんが多いと弘法さんも大忙しだろうなあと思うほどの人出ではございましたが、遠慮する義理もないので、一応襟を正してお堂をぐるっと一巡し、誰へともなくお線香をあげてみたりなんぞいたしました。


次回に続きます。