のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

人身売買

2010-03-30 | Weblog
しばらくご紹介をさぼっておりましたが
女性や子どもたちの人身売買について、Avaazからのメールでございます。

以下、メール本文(和訳文責:のろ)

Dear friends,

アミータは家族を愛する9歳の女の子でした。ある日彼女は誘拐され、故郷から遠く離れた街で、檻の中に監禁されました。そこで沢山の男性とのセックスを強要され、泣いたり、拒んだりすると酷く殴られました。恐ろしい5年間を過ごし、性病に苦しんだのち、彼女は殴られた傷がもとで亡くなりました。14歳でした。

アミータの物語は想像を絶する悪夢です。しかし国連の推定によると、毎年何百万という女性や少女たちが、強姦目的で売り買いされているというのです。これは今日の世界における最も深刻な問題の一つです。この問題に対処する最上の策は、人身売買業者の実体を白日の下にさらし、彼らが利益を得られないようにすることです。今年の1月、Avaazのメンバーは、私たちが取り組むべき課題の優先順位について投票をしました。その結果、今年のトップに上がったのはこの問題でした。そこで私たちは世界中の専門家や、各地の活動家、セックス・ワーカー(性労働従事者)、調査官に対して、こうした暴力的で実体の曖昧なビジネスを廃止するよう呼びかけてきました。

1分たりともこの問題を長引かせてはいけません。私たちはアミータを取り戻すことはできませんが、今も世界のどこかで、1分につき2人のアミータが売り飛ばされているのです。こんなことは今すぐ止めさせなければなりません。下のリンクから、どうぞご寄付をお願いします。

Fight the Rape Trade

(のろ注:寄付のしかたは当記事の*****以下をご覧下さい)

1月の投票ではAvaazメンバーの約90%が、2010年の最優先課題として、強姦目的の人身売買問題への取り組みを挙げました。私たちが計画しているアクションは以下の通りです。

・汚職というかたちで人身売買に関わっている政治家を調査・公表する。公共広告上で彼らの名前を挙げ、辞職を迫る。
・強制売春を行っている施設の前で広義活動を行い、被害者が売り飛ばされ、強姦されている現場を世界中に告知する。このショッキングな暴力行為は往々にして、一般的な住宅地や学校からそう遠くない場所で行われています。
・セックス・ワーカーの活動家たちと提携する。活動家たちはこのビジネスについて深く理解しており、暴力性を暴露することや人身売買業者を取り締まるのに必要な知識を持っています。
・主要な人身売買ルートを探知し、取引場所に運ばれる被害者を乗せた船をブロックする。
・各国の指導者たちに、この問題を政治の優先課題とすること、被害者を保護するためのよりよい法を整備することを求める。
・人身売買業者を、彼らのコミュニティにおいて公表し、お尋ね者として追跡する。

これまでAvaazのメールを受けて多くの人々が、ミャンマーや気候変動やハイチ救援の問題に対して立ち上がりました。こうして集められるみなさんの力があってこそ、人身売買を止めることができます。金額は問題ではありません。いかに多くの人が関わるかが重要なのです。今この瞬間にも、少女の人生が恐怖のどん底へ引きずり込まれようとしています。それを阻止するために、私たちにもできることがあるのです。

このメールを読んでいる間にも、4人もの少女が犠牲になっています。時間を無駄にはできません。

希望と決意とともに。
Ricken, Alice, Paul, Raluca, Graziela, Paula, Benjamin, Milena and the entire Avaaz team.


*****
寄付の方法

1 Enter your Details
First Nameに名前、Last Nameに姓、Emailにメールアドレスを入力。
CountryでJapanを選んでProvince/Stateに都道府県、Cityに市区町村、Postcodeに郵便番号を入力。

2 Choose currency and amount
Currency(通貨)でyen(円)を選ぶ。
金額にチェックを入れる。またはOther(Numbers Only)に希望の金額(半角数字のみ)を入力。

3 Enter your credit card details
Type でカードを選んで、Card Numberにカード番号を入力。Verification Number にカード裏側の名前欄に印字されている番号の下3桁を入力。Expiration Dateで有効期限を選んで、その下にあるピンクのDONATEボタンを一回クリックしますと「◯◯円募金するけどいいんですね?」という確認のウインドウが出て来ます(多分)。いいよという方はOK、やっぱやめようという方はキャンセルを。

送信後、ご寄付ありがとうございますページに移動します。入力したメールアドレスにはご寄付ありがとうございますメールが届きます。

『ライムライト』

2010-03-26 | 映画
生は避けられない。死が避けられないのと同じだ。

TOHOシネマズの午前十時の映画祭 何度見てもすごい50本で『ライムライト』を観てまいりました。
あのもの悲しくも美しい「エターナリー(テリーのテーマ)」が頭から離れませんです。この旋律を聴きますと、老道化師カルヴェロの熱い言葉や何とも言えない表情、そしてテリーの可憐な舞姿が思い出されて、鼻の奥の方に熱いものがこみあげて参ります。

charles chaplin limelight soundtrack candilejas



波乱の生涯を経て来たチャップリンだからこそ、人生を肯定する言葉のひとつひとつに計り知れない重みがございます。初めてこの作品を観た時はバラはバラに、石は石になろうとしている。という台詞がいたく心に滲みたものでございますが、この度は上に挙げたひと言がずーんと参りましたですよ。
これから歳を経たのちまたこの作品を観たならば、また別の台詞に心打たれることでございましょう。名作とはそういうものでございます。

思えば、酒で失敗して落ちぶれた喜劇役者がうら若い美女と出会って再起する、という部分はチャップリンよりもキートンの実人生に近いものがございます。そのキートンを迎えて映画史に残る共演をしてくれたチャップリンにはもちろん惜しみない拍手と笑いを捧げるものでございます。しかし贅沢を言わせていただければ、キートンにメガネと口ひげを付けさせてあの表情豊かなストーン・フェイスを隠してしまったことは、キートンファンとしてはちと残念でございました。
聞く所によるとこの共演シーン、実はもっと長尺だったものの、可笑しすぎて作品のムードを崩すという理由でカットされたんだとか。そのカットされた分、どこかに残っておりませんかねえ!ぜひとも死ぬ前に見てみたいものでございます。

ともあれ。
いつまでも色あせない、そしておそらく年齢も国籍も問わずあらゆる人の心に訴える、まさに不朽の名作と言うべき映画でございます。
よって、テリーが「私歩けるわ!」と言う感動のシーンで『博士の異常な愛情』を思い出して危うく笑いそうになったことや、テリーの舞台化粧を見て「サムソンとデリラ」を歌うクラウス・ノミを思い出してしまったことは



ごくごくこっそりと告白せねばなりますまい。

『シャーロック・ホームズ』

2010-03-19 | 映画
ソーターさん!
セプティマス!
ブラックウッド!
やっほう!!

というわけで
去年のドイル忌から待ちわびていたガイ・リッチーの『シャーロック・ホームズ』を見てまいりました。

いやあ、面白かった。
飽くまでもミステリとしてのホームズものを愛する方々や、厳密を期するシャーロッキアンにとっては色々と不満な作品ではございましょうが、のろは大きに満足いたしました。まあ、そもそも監督がガイ・リッチーなのでございますから、重厚さや深刻な人間ドラマを求めるのは間違いというもの。その点は譲れないという方は、目をつむって黙殺なさった方がいい作品ではあります。

「アクションありのミステリ映画」というよりも「ミステリ仕立てのアクション映画」となっておりますので、謎解きの部分はかなりあっさりしております。またアイリーン・アドラーが犯罪者として登場したのには驚きましたけれども、パスティーシュとしては全然許容範囲。むしろ(世間では高評価ですが)ネッシーの出て来るアレですとか、ホームズ先生が重度のコカイン中毒になっちゃって云々というアレよりもワタクシは好きでございます。

かく申すのろもキャスティングおよびトレーラーが発表された時にはエッと思ったものでございます。しかし蓋を開けてみれば、あのホームズらしからぬ風貌-----即ち人懐っこそうな顔やぼさぼさ頭や、決して「ひょろ長い」とは言えない中背の体格-----やアクションがちなストーリ展開にもかかわらず、意外なほどにホームズらしさが感じられるキャラクター造形となっておりました。

即ち、誰もが見落としているような小さなことをバッチリ観察し、かつ後々まで覚えている。
状況を素早く把握して的確に対処する。
他人の感情には無頓着。
わりと迷惑かけまくり。

こうした性格的特徴と、ホームズ先生に要求される知的・身体的能力とが、型破りではあるもののしっかり描かれていたからでございます。
それどころか、奇人変人で「ロンドンで最悪の下宿人」-----特に事件がなくて退屈している時は-----である一方、超スピードで回転する頭脳と断固たる行動力の持ち主でもあり、頑固で気難しくて冷笑的だけれども情に薄いわけではない、というホームズの様々な顔が生き生きと、かつ説得力を持って演じられており、たいへん好演でございました。雑踏をすり抜けながら変装していくシーンや脳内シミュレーションなど、アクティブな頭脳活動の描写も新鮮でございます。

ジュード・ロウ演じる美貌のワトスン君は、無二の親友、欠かせない相棒、そして頭痛の絶えないお守り役という役どころ。これは「ブルース・パーティントン設計図」*1や「悪魔の足」*2でのホームズ-ワトスン関係を展開させたものと申せましょうか。
もっとも本作のホームズはワトスン君への依存度がずいぶん高めでございまして、その分ワトスン君の頭痛は甚だしいものとなっております。ベーカー街を去って新婚生活を始めようとするワトスン君に対してダウニーjrホームズ、あからさまにすねた態度をとったり、手の込んだ嫌がらせをしたり、自分を追って来るようそれとなく仕向けたりと、やること自体はいたって子どもじみております。しかもこれを明晰な頭脳を駆使してやるもんだから始末が悪い。ため息をつきながらも行動を共にしてしまうワトスン君もワトスン君であり、まさに腐れ縁の仲でございます。二人のかけあいは「仲良くケンカしな」って感じでございまして、可笑しくも微笑ましい。

*1「ブルース・パーティントン設計図」...捜査のため不法侵入の手助けをしろと言われて、初めは渋るものの結局引き受けるワトスン。一瞬だけ嬉しそうにするホームズ先生。
*2「悪魔の足」...事件の鍵を握る毒物の効果を実証するため、(ワトスン君を巻き込んで)自ら体験してみるホームズ先生。毒物の効果で危険な状態に陥った所を間一髪でワトスン君に助けられる。NHKで放送していたグラナダTV版では、錯乱から覚めたホームズが思わず「ジョン!」とワトスン君をファーストネームで呼ぶのが有名な見どころ。幻影シーンで出て来るウィリアム・ブレイクの絵が怖くて怖くて。




そして、そう、悪役ラヴァーとしてはこの人に言及しないわけにはまいりません。
ソーターさん、もといマーク・ストロング演ずるブラックウッド卿でございます。
頭のご様子からして、てっきり彼はモリアーティ教授役かと思っていおりましたがさにあらず、映画のオリジナルキャラクターであるオカルトな人物を演じておられました。黒いコートの襟立てたソーターさんに「私に従え」なんて言われた日にゃあ、ワタクシ喜んで従っちまいますとも、ええ。『スターダスト』のセプティマス(第七王子)の時も、黒いライディングコートがよく似合ってたっけなあ。ほれぼれ。

高い鼻梁にとんがった耳、薄い唇、ノーブルな物腰、細長い体型にぴっちりきれいに撫で付けた髪。こう並べてみるとロバート・ダウニー・Jrよりもむしろソーターさんの方が、ホームズ先生の風貌イメージに近いようでございます。しかしこの人が絞首刑から3日の後に生き返ったり、世界の終わりを予言したり、黒魔術じみた儀式殺人を次々と犯して行くんだから素敵ではございませんか。
もちろん観客には、これには何かケミカルな仕掛けがあるのだろうこと、そしてそうした仕掛けの数々は、映画が終わるまでにホームズがきれいに解き明かしてくれるであろうことが分かっております。そうと分かっておりましても、苦しみもだえつつ死んで行く生贄たちを冷ややかに見つめるブラックウッド卿は不気味で憎々しく、眉間のあたりから邪悪なオーラを発しているようで、そりゃもうとってもナイスな魔術師ぶり。死に行く人から抜き取った指輪を自分の指にはめて眺めるシーンなんて、実によろしうございます。

こんなキャラクターを世の中の悪役ラヴァーが放っておくはずもなく、Youtubeには既に5つを下らないファンビデオが投稿されておりました。惜しむらくは終盤の渡り合いで、もう少し粘っていただきたかった。ようやっとの直接対決でございましたし、ロンドンの曇り空を背景に剣をぶん回す姿が何しろかっこよかったので。あの、いともキモ可笑しい死体ファイトを披露したセプティマス王子と同じ人とは、とても思われませんです、はい。
死体ファイトって何だとお思いの方はぜひ『スターダスト』をご覧下さいまし。公開時はあまり話題にもならず、のろ自身もあまり興味が湧かなかった作品ながら、観てみたらファンタジー好きのツボを付く意外な良作でございました。恐ろしく豪華な俳優陣(ピーター・オトゥール、イアン・マッケラン、ロバート・デ・ニーロ、ミシェル・ファイファー、ルパート・エヴァレット、クレア・デーンズ他)のいとも楽しげな演技も見もの。
超映画批評『スターダスト』70点(100点満点中)

閑話休題。
難を申せば、アイリーンにはもう少しレディ然とした風格が欲しかった。
また、始めにも申しましたが、謎解きがあっさりしすぎた感は否めません。ミステリをもっと作りこんでいてくれたらより多くの原作ファンを喜ばせることができたのではないかと思うと、これまた惜しいような気がいたします。

「異色なホームズ像」であることは間違いなく、こんなもんホームズじゃねーとご立腹になる方のお気持ちも分かります。ワタクシもいまだに『レッドクリフ』に腹を立てている人間でございます故。
しかし古典を題材にして新しいものを作ろうとしたら、大なり小なり改変を含まずにはいられないものでございます。その上、ドイル忌の記事でも申しましたが、かの完璧なジェレミー・ブレット・ホームズが世に出てしまったあとでございます。今までのホームズ像に追従するものを作ったらどうなるか。断言させていただきますが、ブレット・ホームズに負けるに決まっております。
それを鑑みましても、よくぞこれだけ新しいホームズ像を、しかも根本的なホームズらしさを残しつつ作ってくれたものよと、のろは感歎するものでございます。

海の向こうでは既にヒットを飛ばしている本作、続編の話もチラと聞こえてまいります。常ならば続編というものをあまり好まないのろではございますが、これにはちょっと期待しております次第。
だけどもし続編が作られても、ソーターさんは出ないんだろうなあ。がっくし。
モリアーティ教授を「袖から武器が出て来る」つながり*3でチャールズ・ダンスが演ってくれたら、のろとしてはとっても嬉しいんでございますけれども、ホームズ先生より頭一つぐらい長身のモリアーティというのはさすがにちょっと難しいかしらん。

*3『ラスト・アクションヒーロー』で演じた悪役ベネディクト。そういえば劇中でホームズのセリフを引用していましたっけ。


THE ハプスブルク展4

2010-03-11 | 展覧会
3/5の続きでございます。

ドイツ絵画と聞いて「軽やか」とか「あっさりさっぱり」という言葉を連想するかたもおりますまい。
肖像画の間に続くドイツ絵画の展示室がやたらと狭く感じられたのは、空間の問題というよりも、展示作品のえも言われぬ濃ゆさゆえであったかもしれません。
ともあれ、デューラーの瑞々しい作品若いヴェネチア女性の肖像に再会できたのは嬉しいかぎりでございました。
問題はその隣でございます。


ヨハンネス・クレーベルガーの肖像

ううむ。
デューラーさん、シュルレアリズムに目覚めたんでございましょうか。
あるいは、肖像画を描くついでに空間表現の実験をしてみたらこうなったのでございましょうか。
緻密に描き込まれた肌はそんじょそこらの「写実」を通り越し、生々しさの域にまで達しております。その迫真の描写ゆえに、図像の奇妙さがいっそう際立つ恰好になっているような気も。
デューラーにせよクラナッハにせよ、あるいは本展には来ておりませんがアルトドルファーグリューネヴァルトにせよ、ドイツ・ルネサンスの絵画は「何でそこまで...」と首を傾げたくなるような過剰さがよろしうございますね。

さて、マルガリータは拝んだし、エリザベートも拝んだし、ゴヤにもデューラーにもお目通りがかなったし、これで目玉商品は出尽くしたかなと思いきや、このあとには大御所のフランドル・オランダ絵画が控えていたのでございました。
ヴァン・ダイクの素晴らしい肖像画に吸い寄せられてよろよろ歩いて行きますと、背後から何かとてつもなくよいものの気配が漂って来るではございませんか。これはと思って振り返ると、向かいの壁にティトゥスさんがおりました。
ああ、以前にもこんなことがあったっけ。


読書するティトゥス

明暗のバランスの妙。左手の指の間から、光のあたっている手のひらをちらりと見せている所なんかも実によろしうございますね。
レンブラントはもちろん肖像画の名手でございますが、中でも息子ティトゥスを描いた作品は特別でございます。あるいはまっすぐにこちらを見つめ、あるいは視線を斜め下方に落として、親密な人に見せる気取りのない表情をたたえたティトゥス。柔らかい光に包まれたその姿からは、画家が対象に寄せる深い慈しみが感じられるではございませんか。

机の前のティトゥス(1655)
ティトゥス(1658)
修道士に扮するティトゥス (1660)

解説文によるとこの作品、幼さの残る容貌から判断して、モデルが当時(1655年頃)すでに20代半ばであったティトゥスであることを疑問視する説もあるとのこと。
しかしワタクシは学者先生が何と言おうと、ティトゥスに違いないと思っております。
第一、そんなに幼くは見えませんけれどねえ。

絵画部門のあとには工芸品セクションがございました。これはこれで見事なものではあるのですが、いかんせん「こんなのも持ってるのよ」というチラ見せ感が強うございまして、いっそこのスペースを絵画に割いてくれた方がよかったなァと、のろは思った次第でございます。

ともあれ、国もジャンルも幅広いハプスブルク家コレクション、その一端をかいま見られたのはまことに幸せなことでございます。上に挙げたティトゥスやヴェネチア女性の肖像を始め、国内の展覧会でお目にかかったことのある作品もちらほら。そうした作品には、いやあお久しぶり、と知己に会ったような心地で語りかけつつ、欧州に名を馳せた華麗なる一族に思いを致してみるのでございました。




THE ハプスブルク展3

2010-03-05 | 展覧会
3/1の続きでございます。

スペイン絵画セクションの最後に展示されておりますのが、大きな作品ではないのにやたらと存在感のある、ゴヤのカバリェーロ侯ホセ・アントニオの肖像 。ここから次の中央展示室へと、圧巻の肖像画コレクションが展開いたします。

本展の呼び物であるベラスケスの肖像画2点と、「11歳の女帝マリア・テレジア」がひとつの壁面に並んでおります。



21歳でみまかる王女、4歳で逝く皇太子、そして16人の子を産み、政治的手腕を振るって国を繁栄に導いたのち、63歳で往生を遂げることになる「女帝」。その三様の運命が、作品の中に描き込まれているかのようではございませんか。


左端のマルガリータ王女はラス・メニーナスと同じドレスをお召しでございますね。
その隣で、豪奢な家具に囲まれてぽつねんと立っているのはマルガリータの弟、皇太子フェリペ・プロスペロ。可愛らしいお守りや護符をいくつもぶら下げた姿は、何ともはかなげでございます。眉毛の薄い、青白い顔の皇太子は、この絵が描かれた2年後に亡くなったということでございますから、椅子の上に描かれている犬の方が長生きであったかもしれません。実際の所、主役である皇太子よりも、脇でふざけている犬の方がはるかに生き生きとした表情を見せているのでございました。

それにしても、こう、小さな画像にしてみますと、まるで繊維の一本一本まで描き込んでいる緻密な絵のように見えますね。しかしご存知の通りベラスケスの作品は、実際にはかなり荒めのタッチで描かれております。
そうと分かってはいても、作品の近くに寄って、ばさ、ばさ、とほとんど無造作に置かれたかのような筆跡を目の当たりにすると、やはり驚きを覚えずにはいられません。

そして右端で自信に満ちた微笑みを浮かべているのは、表情といいしつらえといい、どことなく少女マンガ的なマリア・テレジア11歳。ぎらりと輝くつややかなドレスをまとった少女は、既に大物然とした風格を漂わせております。
技巧にも観察眼にも卓越したベラスケスと並べられるのはなかなかのハンデでございます。そのハンデを埋め合わせておりますのは、精緻な質感表現よりもむしろ、モデル自身の自信満々の表情でございましょう。

スペインの落日とオーストリアの繁栄を生きた3人の真向かいには、マリア・テレジアの時代から約一世紀の後、ハプスブルク家の黄昏を生きたエリザベートが薄暗い空の下で微笑んでおります。
この両壁の間に立って、時代を彩ったお歴々の肖像画をぐるっと眺めますと、栄枯盛衰という言葉が頭に浮かんでくるのでございました。



あと一回だけちょろっと続きます。

THE ハプスブルク展 2

2010-03-01 | 展覧会
2/26の続きでございます。

第5室はスペイン絵画の間でございまして、グレコ、リベーラ、スルバラン、ムリリョにゴヤにベラスケスと、そうそうたる顔ぶれがこの一室にひしめいております。

グレコの「受胎告知」は大原美術館にあるものと全く同じ構図。服の皺までそっくり同じでございます。しかし、ブダペスト国立西洋美術館には悪うございますが、これは大原蔵の方が優品。



その隣にはおなじみのフランチェスコさんが。


聖痕を受けるアッシジの聖フランチェスコ

ううむ、明るい。明るいけどリベーラなんでございます。
背景の広々とした青空、そして遠くに青霞む山並みからは、いとも素朴で晴れやかな印象を受けます。
フランチェスコは異なる布地を縫い合わせた粗末な修道服(ごわごわした質感表現が素晴らしい)に身を包み、磔のポーズさながらに両手を差し伸べ、敬虔な面持ちで天を仰いでおります。その顔立ちはやつれてはいるものの、いかにも善良そうで、小鳥に説教したというエピソードの持ち主にふさわしい素朴な清らかさの漂う相貌でございます。
広がりのある背景と、フランチェスコの曇りのない表情、善きも悪しきも全てを受け入れんとするかのようなポーズが相まって、見ているこちらまで、何かこう、すっきりハレバレとした気分になってまいります。

さらにその隣にはスルバランの「聖家族」、これがまたびっくりものでございまして。



ヨセフが若い!
驚きの若さでございます。
マリアの夫ヨセフは、老齢の姿で描かれることが多うございます。大抵、旦那さんというよりもむしろ、おじいちゃんにしか見えない。時には母子から離れた場所や陰になっている所に描かれたりして、ちょっと不憫なお方でございます。何せイエっさんは「神の子」でございますから、ヨセフがイエスの実の父親のように見えてはイカンのでございますね。
しかしこの絵のヨセフは、年齢も位置関係も、そして乳児イエスへと注がれる愛情深い眼差しも、まさしくイエっさんのお父ちゃんという感じがするではございませんか。
そんなヨセフ像に呼応するように、イエスもまた(悟りきった顔の新生児と言うやや不気味な生物ではなく)、ごく普通の赤ん坊として描かれております。新生児らしいくりくりとした頭、ちんまりとした鼻。何も知らぬげに一心に乳を飲む横顔は実に可愛らしい。
それを愛おしげに見つめるマリアも、後光まぶしい聖女というよりも、我が子に愛情を注ぐ若い母親として描かれております。授乳する姿勢の不自然さは少々気になりますが、乳児イエスの上にかがみ込む2人の姿勢によって、安定感のあるアーチ状の構図が作り出されております。
「聖なる家族」というご大層なものというよりも、若い夫婦とそのみどり児を描いた風俗画のように見える絵でございます。決して世紀の大傑作というわけではないのでございますが、描かれた三者を包み込む親密な空気がたいへん印象深く、心に残る作品でございました。



もう一回続きます。