のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

20年その2

2015-03-29 | 美術
こちらで初めて訪れた展覧会は大丸ミュージアム京都で開催されていた『ブライアン・ワイルドスミス展』でしたが、これは確かワタクシの入学&一人暮らし準備のためこちらに来ていた母親と一緒に行ったもので、一人暮らしを始めてから行った最初の展覧会が何であったかは思い出せません。京都の大丸ミュージアムは、この頃はサッパリなりをひそめてしまいました。かつては質の高い展覧会を年に何度も催してくれたものですが。ミュージアムと言えば、郷里の函館にはこぢんまりとした市立美術館がひとつあるぐらいなものでしたから、京都では市内に美術館が幾つもあることにも、大規模な展覧会がデパートの一角で開催されることにも、いちいち驚いたのでした。

この20年で京阪神の美術館事情も大分変わりました。京都ではミュージアム「えき」京都細見美術館が開館し、まだ行ったことはありませんが、京都国際マンガミュージアム もできました。苔寺にほど近い池大雅美術館へは、自転車で2度行ってみたものの、開館している雰囲気が全くございませんで、ワタクシもたいがい小心者なので中へ声をかけることもできず、2度ともすごすご帰って参りました。そうこうしているうちに美術館は一昨年閉館してしまいまして、コレクションは京都文化博物館へ寄贈されたとのことです。

その文博も、また京都国立博物館も、近年大きな改修を経て色々と変わったわけですが、この3年ほど、年初の3ヶ月は改修工事の為に閉館してしまう京都国立近代美術館は、外観も内装も特に変わっていない様子。何でも空調設備関連、つまり見えない所の工事なのだそうで。「改修工事のため閉館」のニュースを聞いたときは、てっきりあの妙な位置にあるエレベーターを正面階段の横あたりに持って来るんだろうと思ったのですが。3階の会場へどうぞ、と案内されて、エレベーターから出たらいきなり最終展示室、ってどうしたって導線がおかしい。
お向かいの京都市美術館も大きな変化はありませんが、あの寒々としていたトイレが上下階とも改善されたのはたいへん嬉しいことです。それにしても1933年築、つまり今年で82歳になる市美は年月を経ても全然変わらないように見えますのに、1986年築で今年29歳の近美の方は、この20年でずいぶん老け込んだような印象があります。不思議なものです。

大阪では、国立国際美術館が吹田の万博記念公園から中之島に移転したのが、何といっても大ごとでございました。展示室が全て地下になると聞いたときは気に入りませんでしたが、この美術館が街中に引越して来てから、行く機会がグンと増えました。何せ万博記念公園は行くのが大変でした。
というわけで万博記念公園時代の国立国際美術館には、決して足しげく通ったとは言いがたいのですが、行った展覧会の中で一番印象に残っているのは20世紀版画の巨匠 浜口陽三展です。点数、内容ともに素晴らしく充実していて、今思い出しても幸福になるような展覧会だったのです。にもかかわらず、平日だったとはいえお客さんがごくまばらであったのは、やはり場所がよろしくなかったのでしょう。リンク先の「入場者総数」を見ますと、中之島に移転した2004年とそれ以前とでは入場者数が文字通り桁違いですもの。

それからもうひとつ、大阪美術館事情における大事件と言えば、サントリーミュージアム天保山の閉館でございましょう。これについては以前の記事で書きました。

さよならサントリーミュージアム - のろや

ここも京都から行くとなるとちょっと大変ではあったのですが、海に面したロケーションはとても気持のいいものでしたし、わざわざ足を運ぶだけの価値のある展覧会を開催してくれたものです。現在は大阪文化館・天保山という看板に架け替えて、影絵の藤城清二や人気漫画といった、お客入りのよさそうな企画をやってらっしゃる模様。5月10日までの『魔女の秘密展』にはワタクシもぜひ行きたいと思っております。企画展のラインナップを見て、何だか俗っぽいというか媚びた感じになったなあと、うっすら残念に感じた頃もありましたけれども、またあの建物を訪れることができるのは、何にしても嬉しいことです。

閉まったのがある一方で新しくできたのもあり、去年あべのハルカス美術館が開館しました。地下鉄の駅からすぐというロケーションは、まあ行きやすいと言えば行きやすい。建物まで着いてから美術館のある16階に上がるまでの道のり(というかエレベーターの場所)が判りにくくて難儀しましたが、入ってしまえば普通のビル内美術館ではあります。開館以来コンスタントに展覧会を開催してらっしゃいますし、テーマも幅広く、なかなかに意欲的な美術館なのではないかと。
ただワタクシは大阪の街中の喧噪と地下鉄の空気がどうにも苦手なものですから、おそらくこの新しい美術館はワタクシの中で大阪市立美術館と同様の位置づけ、即ち、よっぽどよっぽど見たいものが出ている時のみ足を向ける場所になるような気がしております。

街中の美術館といえばキリンプラザ大阪およびそのギャラリーの閉館も、おそらくは大きな出来事だったのでしょう。『日曜美術館』で取上げられたくらいですから。ワタクシはたった1度、『その男・榎忠』展に行ったきりですので、ここについて語れるような思い出はございません。TVのない今ではもちろん『日曜美術館』を見ることもなくなりました(何でいまだに受信料払ってるんだろう)。ちなみに桜井洋子アナ&大岡玲時代と石澤典夫アナ&緒川たまき時代が好きでした。というかずっと石澤さんでよかったのですが。

さて2002年に開館した芸術の館 兵庫県立美術館は導線が悪いともっぱらの評判ですが、ワタクシの好きな美術館のひとつです。何といってもあの、企画展示室前の階段がよろしい。まずチケット売り場斜め前の、外光の明るく差し込む階段をたんたん上り、角を曲って一転、四方を壁に囲まれた吹き抜け階段をまたたんたんと上っていくにつれ、ワクワクと期待が高まります。「たどり着くまでのワクワク感」ってのは大事なもんです。それだけに、ホドラー展を観に行った折、かつては船のデッキのような板張りで、歩くだけでも楽しかった美術館前の歩道橋が、のっぺりしたコンクリート張りになっていたのにはガッカリしました。かなりガッカリしました。木材の腐食が進んで、張り替えるだけの予算がなかったということなのでしょうけれども。


そんなこんなで20年も経ってしまいました。そんなこんなったってこんなに長生きをするつもりではなかったのですが、何せ怠惰な上に意気地がないので何となく生き延びてきてしまったわけです。何という罰当たりであろうとは自分でも思うのですけれども、何故か今日まで罰に当たりもせずのうのうと暮しております。

そんな次第です。



20年

2015-03-20 | Weblog
一人暮らしを始めてから、今日でちょうど20年になります。
うららかで天気のいい日でした。朝のうちに16インチのテレビデオが部屋に届き、配線を繋いでスイッチを入れ、最初に映し出された映像が地下鉄サリン事件で騒然とした霞ヶ関駅出口の様子でしたから、日付は間違えようがございません。

あの当時は三条河原町に駸々堂が、もう少し南には丸善が店を構えておりました。函館から出て来たのろさんは、本屋さんといえば基本的にデパートの一角にあるもの、という認識でしたから、「建物まるごと本屋さん」である丸善やジュンク堂には眼もくらむ思いでしたし、駸々堂のフロアの広さを見ては、別世界に来たような心地がしたものでございます。
その年に駸々堂で購入したグスタフ・ヤーノホ著『カフカとの対話』(ちくま学芸文庫)と、丸善で購入したオリビエーロ・トスカー二著『広告は私たちに微笑みかける死体』は各々の書店でかけてもらったカバーもそのままに、今もワンルーム拙宅の書棚に納まっております。丸善の洋書部門でスティーブン・バーコフの朗読カセットテープ付『Franz Kafka The Transformation and Other Stories』を見付けたときのワクワク感も忘れられません。まあ特装本でも何でもない、造本はおろか紙質も良いとは言えないペンギンブックスのペーパーバックなんですけれども、何せバーコフの朗読が素晴らしいのです。今も時々、作業のBGM的に聞いております。今の三代目ラジカセ氏にはカセットデッキがないので、MP3に変換したやつを。こんな所にも時代の変遷を感じます。


京都に来て初めて観た映画が何であったかは思い出せませんが、公開日の日付からして『レオン』かもしれません。スカラ座だったかしらん。観た時は感動しました。観た時は。
映画といえば、繁華街に大きな映画館がいくつも密集しているのにも驚きましたが、ワタクシにとって何といっても新鮮だったのは、ミニシアターなるものの存在でございました。特に今はなき「朝日シネマ」には何度も足を運んだものですが、これについては以前の記事で書きました。

なくなった映画館2 - のろや

今もしばしば足を向ける「みなみ会館」で、人生で初めてオールナイト上映を体験したのもおそらく1995年のことであったかと。シュヴァンクマイエルの『アリス』に始まり、『ヘンリー ある連続殺人鬼の記録』、『不思議惑星キン・ザ・ザ』、そしてルネ・ラルーの『ファンタスティック・プラネット』で締めというカルトな企画、その名も「ファンタスティック・カルト・ナイト」。春に近所の自転車屋さんで購入した7000円くらいの自転車(初代琵琶湖一周チャリ氏。数年後、うっかり鍵をかけ忘れた夜に盗難される)を飛ばして時間に余裕を持って行ったつもりが、着いてみれば何と劇場の外まで──階段を降りきってパチンコ屋さんの前まで──続く長蛇の列。「夜中に映画を観に来る人たちがこんなにいるなんて!」とカルチャーショックを受けたものでございます。
予想外の盛況に、どうにかこうにか会場には入れたものの、始めの2本は立ったまま観なければなりませんでした。これで座ったらたちまち寝てしまうのではないか、と少し不安だったものの、何しろ『キン・ザ・ザ』は眠気など跡形もなくぶっ飛ばす大傑作でしたし、あの頃のみなみ会館の椅子はクッションは固いし背もたれは低いしで、あんまり眠気を誘うような代物でもありませんでしたので、そのおかげもあってウトともせずに完徹することができました。あのいかにもレトロでちょっと無愛想な椅子、ワタクシはわりと好きでした。

振り返れば、この20年でみなみ会館も色々と変わりました。足が遠のいた時期もあり、手放しで全てがよくなったとは言えないかもしれません。しかし運営体制や上映作品の傾向が多少変わろうとも、マイナーな作品の上映や特集上映を積極的に企画してくれるという点でたいへん貴重な映画館であることは疑いを容れません。それにあの無理矢理感のあったトイレが近年大幅に改善されたのは、本当にありがたいことと思っております。

何となく続きます。

ばたばた×3

2015-03-18 | 
4月から別の職場で働くことになりまして、気分的にちとばたばたしております。


それとは全然関係ないことですが、今月から、ワタクシが翻訳させていただいた『The Bone Folder』という作品がNPO法人 書物の歴史と保存修復に関する研究会のHPで順次公開されることになりました。

「製本家と愛書家の架空対話集」である本作、原作は1922年にドイツで出版されたものでございます。それを米国在住の製本・修復家であるPeter D. Verheyen氏が2010年に英訳し、Web上で公開されていたものにワタクシが偶然行き当たったことから、この度の日本語訳公開の運びと相成りました。全くの無名&見ず知らずのワタクシごときの申し出に快く応じて下さり、色々とご協力いただいているVerheyen氏には厚く御礼申上げる所でございます。

書物の保存・修復のための研究室 laboratory for preservation, conservation, restoration

お読みいただいた皆様、対話にしてはいやに文章が堅苦しいなとお思いんなったかもしれません。言い訳を言わせていただければ、もともとの原文が「書かれた時代の作文傾向を反映して、魅力的ではあるがいささか堅苦しい教科書調のトーンで書かれている」(Verheyen氏いわく)のです。しかしもちろんワタクシの悪文力のせいが大きいことは否定しようがないのであって、その点、原作者ならびに英訳者に対してまことに申し訳ない思いでおります。ちなみに原作者のErnst Collinについては、最終回にご紹介する予定になっております。英文でお読みになりたいかたはVerheyen氏のサイトでどうぞ。

で、翻訳は一応全部できているのですが、一緒に掲載する画像の準備がそれなりに大変だったりして、これまたちとばたばたしております。


それとはまた全然関係のない話なのですが、何故かこのタイミングで青空文庫の入力作業に携わることになりました。何でだ、何で今なんだのろ。だって思い立ってしまったんですもの。というわけで水滸伝ファンの皆様、じきに弓館芳夫の痛快名調子に小杉放庵の飄逸な挿絵のついた70回本『水滸伝』がWeb上で読めるようになりますによって、乞うご期待のこと。

『ホドラー展』1

2015-03-13 | 展覧会
野良上がりのデブネコたちがごろごろしている所でロッキンチェアをゆらしているキアヌ・リーブスの膝に乗って人生相談めいたことを話している、という夢を見ました。いやそこはむしろヒューゴ・ウィービングでお願いしたいんですが。

それはさておき

フェルディナント・ホドラー展  兵庫県立美術館へ行って参りました。
展示室に入ってすぐの壁面には、画家自身や同時代人の言葉とともに写真が掲示されております。その内の1枚に、山高帽を被り、小太鼓を肩からぶら下げ、ばちを高々と構えた画家のおどけた姿が。どういう状況で撮られたものなんだかサッパリわかりませんが、なんとも微笑ましい。こんなお茶目な方だとは思いませんでしたとも。

冒頭に展示されているのはアルプスの夕景色を描いたドイツロマン派っぽい風景画でございまして、ええとホドラー展でしたよね,とちょっと戸惑いますけれども、これは土産物用の風景画工房で働いていた頃の作品なのだそうで。お茶の間のフリードリヒとでも言いましょうか、ご家庭の居間や書斎に飾ってありそうな観光絵葉書風の作品で、後年のホドラーを予感させる要素はほとんどございません。
しかしそこから振り返ると、向かいの壁には小品ながらすでにかなりホドラーホドラーしている『小さなプラタナス』tが。澄明な青空を背景にパキッと切り抜いたように描かれたか細いプラタナスと、遠近がある筈なのに妙にフラットに見える地面。坂崎乙郎氏のお言葉を借りれば「自然を描きながら、どこかしら非自然を感じさせる作品」(『夜の画家たち』p.79 平凡社ライブラリー)でございます。

その後リアリズム寄りの人物画や風景画を経て第三室へ進みますと、いきなり『傷ついた若者』やら『オイリュトミー』やらが現れまして、これよこれこれホドラーさん来たああ!と一気にテンションが高まります。


『傷ついた若者』(1886年)

陰鬱な岩山と野原を背景にパキッと切り抜いたように描かれた若者像。この人、のちの作品『夢』分離派展のポスターにも、なんとも唐突な感じで登場なさいますね。

右足の下に陰がなく、不自然なほどくっきりと内股のラインを見せているせいで、体の右半分が地面から浮いているように見えます。画家がそれに気付かなかったわけはないと思うのですが。いや気付かないどころか、右足と地面とが接しているきわの部分が、ことさら双方の境界を縁取るかのような筆致で描かれているのを見ますと、あえて不自然さを醸し出そうとしたのかとすら疑われる所です。
不自然と言えば、正面からフラッシュでもたいたような陰影の浅さもちょっと不自然。それに若者のかたわらに描かれていて、この絵の文脈を説明するはずだった「よきサマリア人」の姿を、画家はわざわざ塗りつぶしてしまったというのです。

その結果、絵としてのまた現実の風景としてのリアルさも、物語性も剥ぎ取られた「頭から地を流して草原に横たわる裸同然の若者」という奇妙な絵が成立することになりました。この絵の向かいには、「さまよえるユダヤ人」という物語性と「苦難の道を歩み続ける芸術家」というとりわけこの時代にありがちな象徴性とを背負わされた作品、『アハシュエロス』が展示されているのですが、この二作品、モチーフもその料理の仕方も、同じ年に描かれたとは思えないほど対照的でございます。


だらだら書いてまた途中で挫折しそうな雰囲気になって来ましたので、ここで一旦投稿します。