のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『ラグジュアリー』展

2009-04-23 | Weblog
京都国立近代美術館で開催中の『ラグジュアリー ファッションの欲望』展へ行ってまいりました。
美術館のHPで会場内の様子が見られます。↑

ものは考えようとはよく申しますが、「贅沢」も捉えようでございます。
「ラグジュアリー/贅沢」って、何なんでございましょう。
モノの多さ?手間の多さ?犠牲の多さ?希少価値?あるいは単に、心地よさでございましょうか?
冒頭に飾られているいとも荘厳な上衣は、かのエリザベス一世に献上されたものということでございます。びっしりと刺繍の施された豪華な衣装。しかしそれは果たして、イングランドを治める女王にとって「贅沢」なものであったのでございましょうか?


前半には18世紀から現代にいたる、まさしく贅を尽くした感のあるドレスやスーツが展示されております。
ロココ時代の王侯貴族のお召し物についで,19世紀のブルジョワさんたちが社交界でまとったであろうドレス,いい素材や職人の手間を惜しみなく注ぎ込んだ一点ものがずらりと。ロココの衣服はさすがと申しましょうか、男物も女物も絢爛・華麗でございます。濃い青とエンジのストライプ生地に白糸で刺繍をあしらったスーツなど、どこの王子様が着るのやらと思うほどに優美なものでございました。



もっとも、こういうものが本当に似合う人間がゴロゴロいたかというとそれはまた別の話でございますね。おおかた映画『アマデウス』に見られるような出っ腹のおっちゃんたちが着ていたのかなぁと、想像すると若干げんなりでございます。

近~現代ものでは、たった今空から舞い降りたかのように軽やかでダイナミックな動きを見せるヴィクター&ロルフのドレスが印象的でございました。
ちなみにのろは数年前に彼らをキュレーターに迎えて開催された『COLORS ファッションと色彩』展を見て、ファッションという分野に対する考えを変えたものでございます。長らく、ファッションショーで披露されるような---というよりファッションショーでしか着られないような---奇抜なデザインの衣服について、何でこんなもの作るんじゃろうと思っていたのでございましたが、あれは衣服という媒体を介した一種の表現活動なんでございますね。
たぶん。



バルビエやエルテのイラストレーションそのままのアール・デコの香り漂うドレスや、全身これ金ぴかのドレスも面白うございましたが、何と言っても驚いたのは、玉虫の羽をあしらったドレスでございます。
ごく淡いクリーム色の生地の上,光を受けて青に緑に紫にと輝くさまはまさしく宝石のようでございます。
玉虫の羽はもともとインドでマハラジャの婚礼衣装などに使われていたとのこと。本展に展示されておりますのは植民地時代、イギリスの業者が西欧向けに輸出したもののひとつで、2着のドレスに約5千匹もの玉虫が使われているのだとか。業の深いドレスもあったもんでございます。もちろん業が深いと言えばあらゆる絹製品の影には、煮殺されたたくさんのお蚕様がいらっしゃるわけで。何でも絹の着物一着作るのに約2700のお蚕様が必要なのだとか。
ああ、なんまいだぶ。なんまいだぶ。

さておき。
後半はガラッと雰囲気が変わりまして、素材や見た目の豪華さよりも服そのもののかたちのよろしさに目を引かれる、シンプルなデザインのものが並んでおります。
高価な装飾や制作の手間をあえて誇示しない、シックな贅沢。デザイナー川久保玲氏の作品を集めたセクションでは、左側にはドレスやコートをまとったマネキンが並び,右側の壁にはその服を平面に広げて撮影した、まるで立体の展開図のような写真が展示されております。



複雑な立体の展開図を想像すること---あるいは、展開図から、立体になった姿を想像すること---が難しいように、身につけられた服の姿から、着られる前のかたちを想像すること(あるいはその逆)は困難でございます。デザイナーの想像力の羽ばたきを感じさせる一室でございました。

最後のセクションでは、なんともユニークな作品が展示されております。
ドリンクの王冠やトランプを加工して作られたベストに、クリスマス飾りの金モールで作られたドレス。素材はごくチープなもの、もっと言えば廃品でございますが、デザイナーが感性と手間とを注ぎ込んで作った,まぎれもない「一点もの」でございます。
廃品で作られた衣服が「ラグジュアリー」と題された展覧会のもと、美術館のアクリルケースの中に鎮座している。
『メテオール(気象)』
のアレクサンドル叔父さんなら、これを見て何と言ったかしらん。6都市の家庭ごみのかけらをベストのポケットに忍ばせて(いわく「ごみという聖遺物で身を飾り」)、愛用の仕込み杖を片手に街を闊歩する捕食者、いつも地球の自転と反対方向へ回る「ごみのダンディー」たる彼なら。
ともあれ、ここで鑑賞者は改めて問われるのでございます。「ラグジュアリー/贅沢」とは何なのか?私達の価値観、美意識のなかで、時とともに何が変わり,何が変わっていないのだろうか?

「ラグジュアリー/贅沢」は、生きて行くのに必要なものではございません。不必要であるからには、そこには大なり小なり、時間や物の浪費が含まれております。にもかかわらずラグジュアリーなものは所有者を陶酔せしめ,彼/彼女と価値観を同じくする人々にとっては、憧れをかき立てるのでございます。
あるいは浪費こそが、贅沢というもののキモであり、陶酔と憧れの対象なのかもしれません。
風呂桶の中で釣りをする男を指して「身を噛むような贅沢」と呼んだ人もおりましたっけ。
浪費という言葉が悪ければ遊びと申してもよろしうございます。廃品を材料に、何時間もかけて作られた一着のベストは、王侯貴族がまとったドレスと違って、物質的には何ら贅沢なものではございませんが、遊びの精神という点では実に贅沢な一品でございます。
もちろん現代でも物質的に贅沢な服はございますし,そういうものばかりを展示してもよかったのだろうと思います。しかしあえてそうはせず(予算の都合かもしれませんが)「ラグジュアリー/贅沢」とは何だろうか,と考えさせる構成にしたあたり、美術館の心意気としてまことによろしいではございませんか。


 「風呂桶の中で釣りをしている狂人というよく知られた物語がある。精神病の治療法に独自の見解をもっている医者が「かかるかね」とたずねたとき、気違いの方はきっぱりと答えた。「とんでもない、馬鹿な、これは風呂桶じゃないか」。なんとも奇妙な話だが、不条理な効果が過度の論理性とどれほど結びついたものか、この話からはっきりと理解できる。じつを言えば,カフカの世界とは、何も出て来はしないと知りながら風呂桶で釣りをするという身を噛むような贅沢を人間が自分にさせている言語を絶した宇宙なのである。」 『シーシュポスの神話』 カミュ 清水徹 訳 新潮文庫 p.229-230



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2009-04-19 | Weblog
何やらくたびれておりまして。

くたびれるようなことを何ひとつしていないのにくたびれるというのは
我ながらなかなかに器用なことではございます。
この特殊能力を活かして何か起業できないかしらん。

『インシデンタル・アフェアーズ』2

2009-04-11 | 展覧会
前回の記事がいきなり「それはさておき」で始まっていることに昨日気づきました。
単なる消し忘れでございます。
気に入ったのでそのままにしておくことにいたします。

それはさておき

4/8の続きでございます。
本展でのろに最も強い印象を残したのは、イスラエル出身のアーティスト、ミシェル・ロブナーの映像作品でございました。
黒いカーテンで仕切られた暗闇の中へ入って行きますと
三方の壁に横長のスクリーンがあり、白黒の映像が流れております。
向かい合わせになっている二つの映像はほとんど同じもの。
あるいは、タイムラグがあるだけで全く同じ映像なのかもしれません。
白い、横長の画面の左右から、一列また一列と黒い人影が現れ、画面の中央へと進んで行きます。
一人一人の歩調は不揃いでございますから、決して軍隊風にピッシリ整った列ではございません。
にもかかわらずそこには、一見してそれと分かる、異常なほどの規則性がございます。
左右から互いに近づいて行った人影は、画面の中央で真っ黒なかたまりになるまで密集したのち、再び異常な規則性をもって左右へと分かれて行きます。
何が異常かと言いますと、左右の人の動きが、寸分たがわず完全に同じなのでございます。
つまり一方の映像を鏡像のように反転したものを、つなげてひとつの映像にしているのでございます。
白い背景に黒い人影が、ランダムかつ規則的に近づき、交わり、離れて行く。
さながら、人影がおりなす白黒の万華鏡でございます。

一方真ん中のスクリーンでは、やはり白い背景の中、人影が円をなして『刑務所の中庭』よろしく、ぐるぐると回っております。
と、突然人々はてんでばらばらに、画面の外へと走り出します。
ちょっとおかしいぞと思うほど多くの人影が、画面の中央から外へ、蟻のように散って行きます。
ところがひとしきり画面を騒がせた人影がいなくなってみると、白いスクリーンの中央では相変わらず人々がぐるぐる回り続けているのでございます。何事もなかったかのように。
↓この映像はこちらの2:03から見ることができます。
Bienal de Veneza 2003


どの映像でも、体格や歩き方は一人一人異なっているものの、個々の人影は文字通りシルエットでございます。
その中に表情や個性を読み取ることはできません。
しかし、その体格や歩き方といったわずかな不規則性が、繰り返される規則的な動きの中にランダムな要素を持ち込み、視覚的な面白さを際立たせる彩りとなっております。
と同時にこの不規則性こそが、無意味な動きをひたすら繰り返すこの黒いかたまりは、蟻の群でもなく、コンピューターで形成された模様でもなく、確かに人間の集まりなのだ、という不気味な事実を見る者につきつけるのでございます。

個性や表情の見えない人間の群によって、同じ動きがひたすら繰り返され、無意味な模様が形成されては、散って行くさま。
視覚的な面白さとはうらはらに、そこにはそら恐ろしいほどの不毛感と、冷え冷えとした絶望がございました。
この黒いかたまり、自分を動かす大きな因果を見通すこともできぬままやみくもに歩き続け、ただ偶発的にあるかたちを形成してはまた別れていく、無意味なかたまりは、人間の歴史というものへの絶望を表現しているように思えたのでございます。
「インシデンタル」---瑣末な、偶発的な---という言葉の、暗い側面を思わせる作品と申せましょう。
その点で、ひたすら物質的に、インシデンタルなものごとの持つ美しさを捉えたティルマンスの作品とは対照的でございます。

のろは基本的に展覧会のテーマそのものにはあまり注意を払わないたちでございまして、個々の作品を個々に楽しんで、よしとしてしまうのが常でございます。
本展もそんな感じで甚だのほほんと楽しませていただきましたが、振り返って「インシデンタル」という言葉を軸に考えますと、作品に対する新たな視野が開けて面白うございます。またテーマに掲げられている言葉の方も、作品によってさまざまなニュアンスを帯びてまいります。

ゴム長靴や扇風機、トイレットペーパーや霧吹きといった日常的なものものに大注目して、そうしたものものの動きや音、ものとしての存在感をアートに仕立ててしまった田中功起氏の『everything is everything』では、インシデンタルなものごとはとことん日常的な場所でありつつも、その中にハッとするような美しさや可笑しさや非日常性を秘めております。
小さな木馬たちが洗面台や本棚やピアノの上を旅する、さわひらき氏の『Going Places Sitting Down』では、「インシデンタル」はささやかでノスタルジックなイメージを帯びております。

現代美術はとかく難解と思われがちでございますけれども、とりあえず目と耳で感覚的に楽しんで、作品の意味やメッセージはあとから考えればいいのじゃないかしらん、とも思うのでございます。
難解だから、という理由(あるいは先入観)でもって感覚を閉ざしてしまったり、体験することをはなから拒否してしまう人がいるとすれば、甚だ残念なことでございます。
前回にも申しましたように、本展では作品の魅力を引き出し、見る者の感覚に訴えるためのさまざまな工夫がなされております。
現代美術ということで二の足を踏んでいらっしゃる方にも、ぜひ足を運んでいただきたいと、思う次第でございます。







『インシデンタル・アフェアーズ』

2009-04-08 | 展覧会

それはさておき

サントリーミュージアムで開催中のインシデンタル・アフェアーズ うつろいゆく日常性の美学へ行ってまいりました。

いやー、面白いうございましたよ。
入り口のごあいさつ文にいわく、
「美術館という空間でしかおそらくは展示が不可能であろう、大規模な作品や、念入りな準備が必要となる作品をあえて選びました」と。
よい作品をよいコンディションで味わってもらいたい、という美術館の熱意と心意気が伝わって来るではございませんか。

17人もの現代アーティストの作品を集めた展覧会ともなれば、写真あり、立体あり、インスタレーションあり、作品のトーンも明るく軽妙なものから不気味なもの、ファンタジックなものまで様々でございます。限られたスペースの中で、毛色の異なる各々の作品の魅力を最大限に引き出すため、展示空間にはさまざまな工夫がこらされておりました。展示されている作品はもとより、キュレーターさんたちが心を砕き知恵を絞ったであろう展示空間も、たいへん心地よいものだったのでございます。
ある作品は、カーテンで仕切られた暗闇の中に。
ある作品は、海を望む明るい展示室のそこかしこに散らばり。
またある作品は、閉塞した空間を背にして、意味不明な言葉を ぽつり ぽつり とつぶやいております。
移動するたびそこに独特の作品世界が展開しておりますので、のろは「サア次はどんな世界が待っているのやら」とワクワクしながら先へ進み、美術館という場所が存在してくれることのありがたさを、いつにもまして痛感したのでございました。

例えば始めに展示されている、ヴォルフガング・ティルマンスの作品。

入り口でチケットを切ってもらい、視線を手元に落として手帳を開きながら歩き出しますと、突如、視界の上の方から真っ白い床面が現れました。
白い床ですと。サントリーミュージアムの床は木目調のベージュのはずでございます。



こは何事ぞと視線を上げますと、
床、壁、天井を白で囲まれた空間の中に、大判のシリーズ作品「freischwimmer(遊泳者)」が、三方の壁に展示されておりました。



この空間に踏み込んで行き、水中を漂う赤と緑の粒子に三方を取り巻かれるのははまさに、作品の中に溶け込んで行くような体験でございました。この作品とは何度か出会っているにもかかわらず、初めて出会ったもののように新鮮な印象を受けたのでございます。

本展のタイトルにある「インシデンタル」とは、偶発的な、ありがちな、瑣末な、といった意味を持つ言葉でございます。
水に放たれた粒子の流れやにじみという、全く偶発的で些細な動きに目を向け、そのうつろう姿の美をとらえたティルマンスの作品は、本展の冒頭を飾るにはうってつけと申せましょう。

この他に印象深かった作品については、次回に述べさせていただきたく。