のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『ミヒャエル・ゾーヴァ展』

2009-06-29 | 展覧会
朝の納豆をかきまぜていたら、複葉機もかくやとばかりの爆音をたてて窓からばかでかいスズメバチが入ってきました。
のろは天井の低い七畳ワンルームにはいつくばり、船室でエイリアンに遭遇したリプリーの気分をしばし味わいました。

それはさておき

美術館「えき」京都で開催中のミヒャエル・ゾーヴァ展へ行ってまいりました。

「えき」でのゾーヴァ展は2005年についで二度目でございます。
今回はのろが氏を知るきっかけとなった『ちいさなちいさな王様』の挿絵原画も展示されており、大変嬉しいことでございました。
そして今さらながら、原画の小さいことに驚きました。
『ちいさな~』をはじめ、氏の挿絵を使った本はわりに小さいものが多いので、原画が小さいのも驚くにはあたらないはずではございます。
しかし本を開いていると何とはなしに、原画はもっと大きな作品であるような気がするのでございます。あるいはより大きな作品の一部をトリミングして使っているような印象を受けるのでございます。
おそらく氏の作品が、その小ぢんまりとした画面の向こうに「あちら側の世界」の広がりを感じさせるからでございましょう。
大きなタブロー作品もございますが、サイズの如何にかかわらず、氏の絵の向こうには、私たちのいるこの世界と同じだけの広がりを持った世界があるように思われるのでございます。



作品のサイズは小いものが多くとも、そこに描かれている人間は大抵がビヤ樽状に大きなサイズの人々でございまして、それが絵の雰囲気を妙になごやかなものにしております。
氏の手にかかれば受胎告知の天使ガブリエルさえも、頭頂部の禿げ上がった丸っこいおっさんになってしまうのでございます。かくのごとく
これは聖書の物語をテーマとした絵本の原画なんでございますが、一般的な受胎告知の絵とは似ても似つきません。画面の手前に、中空を舞うくだんのおっさんガブリエルの後ろ姿が大きく描かれ、その向こうの草原には熊手を持って野良仕事をするマリアが描かれております。読者はガブリエルより少し高い所からその光景を見ている恰好になるわけで、受胎告知としてはなんとも独創的な構図(と天使像)。マリアの向こうではホルスタインが一頭、白黒ぶちの背を見せてすたこら逃げ出しております。こんな怪しいおっさんがちっこい羽根をぱたつかせながら天から舞い降りて来た日にゃ、そりゃ牛も驚くことでしょう。

ゾーヴァ氏の明快な、しかもおしつけがましさのないユーモアは、時にシニックな笑いへと、時にほのぼのとした微笑みへと見る者をいざないます。あからさまで開けっぴろげな笑いもあれば、じんわりと滲みてきて片頬でニヤリとしたくなる笑いもございます。
後者は例えばこれ
広がる田園風景と、分厚い雲がとぎれとぎれに飛んで行く空。その中に、一件の家がたたずんでおります。
葉もまばらな木々は枝を強い風になぶられ、あたりは薄暗く、家の窓に明かりがないことから鑑みるに、初冬の早朝でございましょう。
カポーティの『冷血』を連想させなくもない、ちょっと陰鬱な、とは言え何てことのない田舎の風景でございます。
しかし家の前を通って画面の外ヘと続く道に、何か白いものが。
よく見るとそれは、一羽の白いガチョウなのでございます。
ガチョウ君は羽根を広げて、家と反対の方向へと走って行きます。
作品のタイトルは『祝祭の前に』。
そう、彼は逃げているのでございます。
ディナーテーブルに乗せられてなるものかと、祝祭の日の早朝に、家人の寝込みをついて逃げ出したのでございます。
しっかりとした赤屋根の家は吹きすさぶ強風も知らぬげにしんと静まり返り、メインディッシュの脱走に気付く気配もございません。
まんまと脱走に成功したガチョウ君の必死な(しかし律儀にも道路を行く)走りっぷり、あとでそれに気付くであろう家の人々の騒ぎを想像すると、ふっと片頬に笑みが浮かぶではございませんか。

当のろや2月8日の記事にて、前回のゾーヴァ展では思わず噴き出してしまう作品があったことを申しましたが、今回も可笑しさのあまり肩を震わせずにはいられない作品がございました。
いわゆる「空耳」をあつかった本、つまり「パン作ったことある」を「パンツ食ったことある」と思ったとか、赤い靴履いてた女の子は「ひい爺さんに連れられて行っちゃった」のだと思っていたとか、そういった類の体験談を集めた本の挿絵でございます。
その中のひとつで「子供にNachzieh-Ente(ごろごろ引っぱるアヒルのおもちゃ)を買ってあげた」というのを「子供にNazi-Ente(ナチスダック)を買ってあげた」と聞き違えてギョッとした、という話につけられた挿絵。
↓の一番下の絵がそうでございます。
Bildergalerie ? Wumbabas Blog
こりゃまさしくナチスダックだ。
ナチスネタと申しますと映画『プロデューサーズ』のようなどぎついのもまあ結構なんでございますが、こういうスマートな茶化しかたは実に恰好いいですね。

ちなみに上の方でリンクを貼りましたゾーヴァ氏作品画像の元サイトはこちら
いやに沢山ございます。しかし画像が荒いこと。
今は実物が見られるせっかくの機会でございます、京都近隣にお住まいの方はぜひとも京都駅降りてすぐ、伊勢丹内の美術館に足を運ばれることをお勧めいたします。損はしませんよ。



桜桃忌でした

2009-06-20 | 忌日
中村晋也さんは大好きでございます。
いつか鹿児島の中村晋也美術館も訪れたいと思っております。
が しかし
太宰治の銅像プロジェクトというのはいかがなものかと。
もう建っちゃいましたけどね。

NIKKEI NET(日経ネット):社会ニュース-内外の事件・事故や社会問題から話題のニュースまで

銅像ぶっ建てられて喜ぶ人でもないんじゃないですか。


太宰治はいろいろと嫌いでございます。
生き方はもとより、自虐自慢みたいな作品群も。
しかし、あのぐんぐん読ませる巧みな文章とユーモアには唸らざるをえません。
でもって人間性も作品も全部嫌いだったらそれはそれでよかったんでございますが、短編「駆け込み訴え」だけは激烈に好きでございまして。
好きなら全部好きがいいし嫌いなら何もかも嫌いがいいんですのに、こう、どっちつかずの状態でいるものですから、逆恨み的にますます嫌悪感がつのるのでございまして。
ああ、厭でござんすねえ。

太宰治 駈込み訴え



『家の記憶』展

2009-06-17 | 展覧会
ギャラリーテラで開催中の『家の記憶』展に行ってまいりました。



時代ごとの町家、歴史感じて  中京 ギャラリーで写真展:京都新聞
ギャラリーテラ「家の記憶」と家垣鹿之助 - マン・レイと余白で

ギャラリーテラは寺町通にたたずむ竹紙専門店兼ギャラリーでございます。
大正時代に建てられたと見られる建物は、そこかしこにモダン建築の趣を残しております。
かつては写真館だったというこの建物が生まれた時から、戦中、戦後を経て現在に至るまで、そこに暮らした人々の写真、そしてその人たちが撮った写真をもとに「家の記憶」を辿る、小規模ながら味わい深い展覧会でございました。

初めの家主で建物を建てたのは銀行家の家垣鹿之介氏。↑右端にいる丸眼鏡の人でございます。
ライカを愛用し、公募展で何度も受賞するなど写真に造詣が深かったそうで、氏の作品も数点展示されております。
これが素晴らしい。
瓦屋根やカフェーのテーブル、道ばたに並んだ柵など、日常的で具体的なモチーフでございますが、写真として切り取った時のかたちの面白さ、光と影の作り出す造形的な面白さが、洒脱な視線で捉えられております。
1992年にアメリカ人コレクターがご家族を訪ねて来られ、氏の写真を多く譲り受けてNYで個展を開いたというのこでございます。氏は有名な写真家でも何でもないわけでございまして、その作品が海外の美術愛好家の目を引いたというのは、作品そのもののクオリティを物語るものではないでしょうか。

御本人のポートレイトを見ますと、ピンストライプのスーツをパリッと着こなし、いかにもモダンボーイといった風貌でございます。
氏の家族写真もございまして、こちらは時代の流れを感じさせる印象的なものでございました。
一枚は昭和15年頃、長男が慶応に入学した時に撮影したと思われるもの。
ご母堂を中心に家垣夫妻、娘さん、そして2人の息子さんがきちんとフレームに納まっております。
細身にパリッとスーツの家垣氏は自分より背の高い長男の隣で、いかにも写真慣れしているような気楽な姿勢で誇らしげに微笑んでおります。
もう一枚は昭和18年頃、長男の出征前に撮ったと思われるもの。
氏は「国民服」に身を包み、こわばったような「気をつけ」の姿勢で、その顔に微笑みはありません。
ひとつの額に収められた二枚の家族写真。
一見あまり代わりばえのないその二枚の間に、暗さを増して行く時代の空気が深い溝となって横たわっておりました。

寺町界隈に古くからお住まいの方々も展覧会を見にいらっしたようで、写真を指差しながら思い出語りをする声も聞かれました。古参の皆様も、のろのような新参者も「家の記憶」をおのおのの視線で受け取ることができる本展。
のろはなにか無口な人の打ち明け話を聞いたような、しみじみとした気分でギャラリーを後にしたのでございました。

T-1000ばなし

2009-06-14 | 映画
いやあ!
昨日はT-1000が見られて幸せでございました。
のろはT-1000がとっても大好きでございます。
どのくらい好きかと申しますと、エージェント・スミスと同じくらい好きでございます。
困るなあ、どっちかひとつだけあげるって言われたら。

何です。
T-1000をご存じない?
またまたご冗談を。
これですよ、これ。


ちっちっち。

はい、昨日放送された『ターミネーター2』の悪役、液体金属殺人マシーンT-1000でございますよ。
放送時間の関係か、カットされまくりで若干腹が立ちましたけれども、まあ~T2は何度見てもよろしうございますね。ストーリーもアクションも結構でございますが、のろにとっては何を置いてもT-1000でございます。

そう。
無表情で走って車を追いかけるT-1000!
顔面にショットガンくらっても元気に無表情なT-1000!
ジョンの養母に化けて台所に立つT-1000!お料理のスキルをいったいどこで身につけたんだ!
カマキリ姿でエレベーターに襲いかかるT-1000!
撃たれまくってよろめきながらも無表情だけはしっかり保つT-1000!
全身でヘリにへばりつくT-1000!
悪役らしくばかでかいタンクローリーで主人公たちを追いつめるT-1000!
細おもてのくせにやることがT-800知事より荒っぽいぞT-1000!
ボキンボキン折れ壊れながら無表情に迫って来るT-1000!
知事に突き刺した棒を無表情で ぐ り ぐ り するT-1000!
サラ・コナーの肩をこれまた無表情にぶっ刺しながらも「痛いのはわかってる」T-1000!うひゃあ極道!
サラ・コナーに化けてジョンを呼び寄せるT-1000!何て卑劣なんだ!惚れぼれだ!
どうでもいいけどリンダ・ハミルトンてちょっとクラウス・キンスキーに似てるなあ!
けっこう追いつめられてたくせに相手が弾切れと見るや余裕で ちっちっち やってしまうT-1000!
それまでの冷静さとうって変わって盛大に苦しみながら消滅していくT-1000!
ああ素敵だなあ。

何です。
無表情が好きなのかって。
そうですよ。
『エイリアン』2と3のビショップとかね、大好きでございますよ。

閑話休題。T-1000を見ておりますと、悪役はこうでなけりゃなと思うのでございます。
善玉たる主人公たちを無慈悲に、徹底的に、手段を選ばず追いつめ、追いつめ、痛めつけ、死闘を繰り広げたそのすえに無惨かつ華々しい最期をとげる。ああ素晴らしい。
何度やっつけても平気で追いかけて来るぐらいタフな一方で狡智に長け、冷酷無比でありつつ若干お茶目というのもポイント高しでございます。一作目のターミネーターも無慈悲でタフなのはけっこうなんでございますが、力で押しまくる感じでございましたんでねえ。主人公の親近者を装ったり、善良な人間のふりまでするT-1000の狡猾さがいいんでございます。「かわいいお子さんだ」だの「いいバイクに乗ってるな」だの気の利いたことも言うくせに無敵の殺人マシーン。あっはっは。
一見強そうに見えないのに不死身というのも、不気味でよろしうございます。『マトリックス』のスミスも一見普通のおっちゃんのくせにやたらめったら強い、というのがポイントでございますね。2作目ではエージェントたちがやけにごつくなっておりましたけど、あれはいけません。強そうな人が見たまんま強いんじゃ、面白くございません。そんなこともあってのろは『ターミネーター』は2の方が好きなんでございます。

ちょうど昨日から『ターミネーター4』の上映が始まりましたけれども、何でもすでに5および6の制作が決定しているんですってね。既存の設定とネームバリューで稼げるだけ稼ごうというやりかたは本当に嫌になります。とはいえ、T5にはT-1000ことロバート・パトリックが科学者役で出るかもしれない、という話は大いに気になる所でございます。公開中のT4ではなんとCGでT-800、もといシュワ知事の姿を再現しているということでございますから、T-1000の復活も夢ではないやもしれません。のろはT3は観ませんでしたしT4も観に行くつもりはございませんが、もしもT-1000が大きなスクリーンで見られるなら、どんなに駄作の呼び声高くっても劇場に足を運んでしまいそうな気がいたします。


ところで久しぶりにTVを見て思ったんでございますが、TVの中というのは本当に「今のあなたはOKじゃない、こうでなくっちゃ、これを買わなきゃ、素敵じゃない/安全じゃない/かっこよくない」というメッセージで溢れておりますね。
CMというものそれ自体はいろいろと面白いので嫌いではないんでございますが、久しぶりにさらされて、ちょっとしんどくなりました。

ロボットなひと

2009-06-10 | KLAUS NOMI
本日は
ロボットの日なんだそうでございます。
ロボットみたいな人の話をいたしましょうか。

PATRICK WOLFというシンガーソングライターが新曲"HARD TIMES"のPVでプレスリーとクラウス・ノミへのトリビュートをしてらっしゃるのだそうです。

PATRICK WOLF - "HARD TIMES"


おおっ
確かにちょっとノミっぽい!
でもって、いますよ、いますよ、何かカクカク動いている逆三角形のものが!
ああして両側にずらりと並んでいる様はなかなかに壮観でございますね。
ロボット風にカクカク動いているけれどもどう見ても人間がやってます的な動きの荒さというか不揃いさですとか、オブジェのように静止していてもゆらゆら動いてしまう「うそっこオブジェ」感もよろしうございます。蛍光色ともども微妙に安っぽく、とてもノミ的でございます。
CGで何でもできる昨今でございますから、完璧にロボットのような動きを再現することもやろうと思えばできたはず。それはそれで面白いものになったかもしれませんが、あまりノミ的とは言えないような気がいたします。

そう、あんな人間離れした恰好でカクカク動いてはいるものの、ノミはちっ とも本物のロボットには見えません。ロボットダンスが下手っぴいだからでございます。ヤツをこよなく愛するワタクシとて、「あれはわざと下手に躍っているのだ」などと言うつもりはございません。あれが精一杯だったのでございましょう。
そして、それでよかったと思います。当のろやで再三申しておりますように、あのみえみえな作り物感、まがいもの感はヤツの魅力のひとつだからでございます。

”COLD SONG”を始めとしたオペラナンバーは別として、ヤツのパフォーマンスはどれもこれも、昔のB級SF映画のようにわざとらしく、うきうきするほど馬鹿馬鹿しく、滑稽で、突拍子もなく、そしてほんの少し、もの哀しい。
本日のノミ話はヤツがうそっこロボットであることと絡めて、この「ほんの少しのもの哀しさ」にフォーカスしてみようかと。

ノミのことを知った当初は、のろがヤツの歌にもの哀しさを感じるのは、何を聴いてもその早すぎる死を思ってしまうからかしらん、と考えておりました。しかしノミが元気で歌っていた当時のプレスですでに「哀しき道化師」という言葉が一度ならず使われていることから考えても、ヤツのパフォーマンス、ひいては「歌う変異体クラウス・ノミ」という存在そのものが、演者の運命とは関わりなくそれ自体のもの哀しさを宿していると見てもよろしいのではないでしょうか。
そのもの哀しさは、ひとつには周りの世界とあまりにも馴染まないがゆえの孤立感の哀しみと見ることができましょう。
またひとつには、フランスのリベラシオン紙などが正しく表現しているように、道化師の哀しみであると申せましょう。
演者自身は決して哀しみを意図しておらず、それどころか観客を楽しませることに全力を傾けているにもかかわらず、観客の心に、いわば勝手に湧いてしまう哀しみ。

その哀しみとは一体何でございましょうか。
笑いを誘う挙動は、本当は観客を喜ばせるための真剣な演技であるということ。
そして観客の反応がどうであろうと、人目にさらされている限り、道化師の役を降りることは許されないということ。
いずれにしても、道化の顔の裏側にある、道化ならぬ人間の存在が哀しみと結びつくのでございます。

ノミのロボットと言うにはあまりに人間らしい動き、あまりに人間臭い歌声は、白塗りの顔とプラスチックのタキシードの向こうで一生懸命、大真面目にロボットを演じるひとの存在を示さずにはおきません。
だからこそヤツの歌もPVも、しばしば爆笑に値するくらい可笑しいにもかかわらず、一抹のもの哀しさをたたえているのではないでしょうか。

TH(トーキングヘッズ)叢書編集長の沙月樹京(鈴木孝)氏はヤツのロボット姿についてこうおっしゃっています。

なら彼は、人間性を捨てて機械になろうとしていたのか-----おそらくそれは正しくないだろう。彼は「シンプル・マン」なのだ。「シンプル・マン」は自分ができる範囲内のシンプルなことをするんだ、と彼は歌う。複雑で回りくどいことを目論んだりせず、歌を歌いたいならただ歌を歌っていようという単純な考えであり、その愚直さがロボット的な容姿に託されているのではないだろうか。 TH叢書No.18 p.99

ロボットが愚直さの象徴であるなら、それを更に愚直に、一生懸命に、それでもなおちょっと下手っぴいに演じざるをえなかったひと、そしてそんなナイーヴな姿でもって人々に大きなインパクトを与え、今もって与え続けているひとを何と呼んだらいいのでございましょう。
ヤツはその姿恰好のみならず、そのありよう自体が道化的であり、破壊的な可笑しさと、ほんの少しのもの哀しさを兼ね備えた存在であった/あるのであろうと思います。

ノミ自身がこうしたもの哀しさを意識していたかどうかは不明でございます。
しかし”SIMPLE MAN”の終盤あたりを見ますと、ああこのひと分かってやってたのかな、とも思うのでございます。

Klaus Nomi - Simple Man






『スラムドッグ$ミリオネア』

2009-06-02 | 映画
やっとこさ『スラムドッグ$ミリオネア』を観てまいりました。

うーむ面白かった。
そしてこれまたいい作品でございました。
スクリーンいっぱいに溢れるエネルギーと鮮烈な色彩感覚に圧倒されました。
観る前は何となく、『世界最速のインディアン』のような「痛快な、いい話」かなと思っていたのでございますが、蓋を開けてみればインド社会や人間の心の暗い側面がほとんど間断なく描かれており、R指定になっている理由が分かりました。
しかしそんな暗さをもぶっちぎる疾走感で、躍り出したくなるインドポップスに乗せて映画はガンガン進んで行くのでございます。

スラムに暮らす3人の孤児、主人公ジャマールとその兄サリーム、初恋の人ラティカは、貧困、犯罪、宗教対立といった社会的な闇、そして嫉妬,金銭欲、利己心といった人の心の闇に否応なく呑み込まれ、その中でしたたかに生き、成長して行きます。
巨大で混沌とした闇の中を、希望とラティカへの思いを胸に一心に駆けるジャマール。
苦いあきらめを抱いて、闇のただ中で躍るラティカ。
そして時に悪辣な手段を使って、如才なく闇の中を泳いで行くサリーム。
「運命」に翻弄されたのは、さて、誰だったのか。

ジャマールたちを呑み込む闇は所々で目を背けたくなるほどのどす黒さを呈しますが、その中を突っ走る兄弟のパワフルさからは目が離せません。
また、回想シーンの疾走感に対して、クイズ場面の緊張感はまさに手に汗握るハラハラもの。
スクリーンの中で、見ず知らずの無学な「スラムドッグ」、ジャマールを応援する観衆と一緒に、スクリーンの外ののろも両手を握りしめ、祈るような気持ちで彼の一答、一答を打ちまもったのでございます。
私は「クイズ・ミリオネア」を見たことがございませんので、クイズの仕組みも知らなかったんでございますが、そのことが場面の緊張感を削ぐことはございませんでした。

映画は、不正手段でクイズを勝ち抜いたという疑惑をかけられたジャマールが留置所で取り調べ(というか拷問)を受ける場面から始まり、留置所、クイズ場面、そしてジャマールの回想シーンが交錯しながら進んでまいります。
時系列が行ったり来たりするにもかかわらず見づらさを全く感じさせず、ラストの数分で、それまでに語られたことごと-----ジャマール,サリーム,ラティカに降り掛かった運命、そして3人の選択-----が、ひとつの終幕に向って加速度的に収斂していくその描き方は実に見事でございました。

インドの暗い側面ばかりを描いてけしからん、というインド国内の反発もあるようでございます。しかしインドが長い歴史と独自の文化を持っていることや、昨今目覚ましい経済成長をとげていることが言わずもがなの事実なら、依然として世界最大の貧困人口を擁する国であることも隠しようのない事実なのであっって、そういう側は描くなと言うのもいかがなものかと。
それよりもこの清濁合わせ呑んで疾走するエネルギーを、これぞインドパワーじゃー と誇ってやればいいのじゃないかしらん。
映画を批判したところで、社会問題を解決できるわけでも隠せるわけでもございませんし。

Jai Ho