のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『カポディモンテ美術館展』3

2010-11-30 | 展覧会
もっと頑張らなくてはなあと思う一方で頑張るのは嫌だなあとつくづく思うのでございます。
頑張ってみたところでたいした結果にはならないということはつくづく分かっております故。
といったひねた言い訳ならば幾らでも思いつく自分という者がつくづく嫌になる今日この頃。


それはさておき
11/24の続きでございます。

アンテアさんにお別れして食器やランプといった工芸品のセクションを抜けると、いよいよバロックの世界に突入いたします。
そりゃもう聖母子からキューピッドまでバロック三昧なのでございます。


バルトロメオ・スケドーニ 『キューピッド』

いや、しかしこの愛らしさといったら。
幼児らしいぷくぷく体型のキューピッド、暗い背景の前に、白く輝くようなすべすべの肌をさらし、猫っ毛の髪をふわりと空になびかせて、思案顔のませた表情で小首をかしげております。そのポーズのせいで顔には柔らかく影がさして、-----ご夫婦で鑑賞していらっした年配の男性の言葉をお借りするならば-----「また何か悪いことたくらんどるんちゃうか」と言いたくなる風情をかもし出しております。かなり粗いタッチで描かれた羽根の表現も見事でございますね。

さて、青年のヌードを描いたらピカイチなグイド・レーニのアタランテとヒッポメネスの前でベンチに腰掛けて、しばし休息。壁一面を覆う大きな作品を眺めつつ、金のリンゴ欲しさに勝負を投げ打つなんてアタランテも浅はかな女だ、ヒッポメネスを殺してリンゴを奪えば一石二鳥だったろうによ、などと考えたのち、階段をたんたん降りて3階の展示室へ。

3階展示室入ってすぐの壁面には、ハプスブルク展でお目にかかってすっかりファンになりましたバッティステッロの作品が2点展示されておりました。
その内の一点、『カルヴァリオへの道行き』は、ゴルゴタの丘へと向かうイエスとマリア(お母ちゃんの方)と弟子のヨハネ(多分)の3人だけが描かれた作品でございます。重たい十字架をしっかり支えるイエスの細い手、訴えかけるように広げられたマリアの手、そして憤りと悲嘆を耐え忍ぶように固く握りしめられたヨハネの手と、三者三様の手の表情が、顔の表情以上におのおのの心情を雄弁に語っており、道具立ては地味ながらも素晴らしい作品でございました。

しかしその横の『ヴィーナスとアドニス』は、.....ううむ。
作品の芸術性にケチをつけるつもりはございませんけれども、ヴィーナスがちっとも美の女神に見えないのはどうしたことか。ゲッセマネの天使はあんなにもうるわしかったのに。キューピッド聖セバスティアヌスの描写に見られる妙な色気から察するに、この人も同性愛者だったのかもしれません。

そしてこの展示室の中央には、本展のもうひとつの目玉と言ってよろしうございましょう、美術史上に初めてその名を残したとされる女性画家、アルテミジア・ジェンティレスキによる『ユディトとホロフェルネス』が鎮座ましましております。



ユディトは旧約聖書に登場する美しい未亡人でございます。てっとり早く申せば、異教徒の軍に包囲された街を救うために侍女一人だけを従えて単身敵陣へと乗り込み、大将であったホロフェルネスを籠絡したすえ、泥酔した彼の首を切り落として持ち帰るという荒技をやってのけたかたでございます。
重大なミッションを胸に秘めた美女が男を美酒と美貌でべろべろに酔わせておいて寝首をかくというお話は何とも妖しく血なまぐさく、かつドラマチックでございます。旧約聖書の時代にハリウッドがあったならアンジェリーナ・ジョリーあたりを主役に据えてさっそく映画化されていたことでございましょう。

まあそれは冗談としても実際、ユディトのエピソードは画題としてたいそう人気があり、クラナッハからクリムトまで、時代を通じて多くの画家が特色あるユディト像を残しております。中でもおそらくクリムトと並んで最も有名なのがカラヴァッジオのユディト。

Caravaggio: Judith Beheading Holofernes
(本展の展示品ではありません)

血しぶきびゅーん。
アルテミジアのユディトに先立つこと十数年、伝統的には斬首シーンではなく、事が済んだ後、即ち生首を誇らしげに掲げるユディトや、彼女が侍女とともに街へと凱旋する姿が描かれていたこの主題において、今まさに斬っておりますという場面を生々しく描いたこの作品が人々に与えた衝撃はいかばかりであったことか。アルテミジアも大いに刺激をうけた画家の一人であったに違いございません。

しかしアルテミジアのユディトに比べると、カラヴァッジオのユディトはずいぶんとへっぴり腰でございますね。顔にはいかにも嫌々やってるという表情が浮かんでおりますし、侍女のアブラも(ここは伝統にのっとって)首袋をたずさえて控えているだけの老女として描かれております。
それに対してどうです、アルテミジアのユディトのたくましいこと。侍女もここではユディトと同年齢かそれ以下というぐらい若々しく、もがくホロフェルネスを上から押さえつけて、頼りになる協力者として描かれております。
ホロフェルネスは滝のように血を流して今しも息絶えんとしております。その断末魔の表情に対して、ユディトと侍女のまったく落ちついた、冷徹な、ほとんど事務的なまでの眼差しは、その冷たさゆえにかえってリアルで恐ろしいようでございます。
また剣を握りしめたユディトの力のこもった様子はどうです。左腕はホロフェルネスの頭にしっかり突っ張って、右腕に渾身の力を込めた上で、さらに体重を後ろへ傾けて刃を首に食い込ませております。一刀のもとに切り落とせないとあれば、握った剣をギーコギーコと挽くことでございましょう。

聖書によると、ユディトが神に祈りを捧げてから斬りつけると、ただの二振りで首が落ちたということでございます。が、アルテミジアのユディトはこの力仕事にあたって、神様のお力なんぞにすがっているようにはとても見えません。彼女を助けるのは、天にまします父なる神様ではなく、側にいて力を貸してくれる侍女なのでございます。
この作品が描かれた17世紀初頭はケプラーやガリレイが活躍し、科学が少しずつ神学を脅かしはじめた時代でございます。アルテミシアが無神論者だったなどと申すつもりは毛頭ございませんが、この作品に見られる現実的な表現も、ひそやかに神離れが進行していた時代であるからこそ生まれ得たものではないかと想像する次第でございます。

ちなみにアルテミジアは齢18のとき、師匠であった画家のタッシから結婚の口約束をされて性的関係を持つのでございますが、タッシが実は既婚者であることが判明し、それが父オラツィオ(やっぱり画家)の知る所となって裁判沙汰にまでもつれこみ、被害者なのに拷問までされるという心身共にしんどい経験をしております。このあたりの経緯は映画『アルテミシア』に詳しく描かれていることと存じます。ワタクシは未見でございますが。
『ユディトとホロフェルネス』が描かれたのはこの事件直後のこと。彼女のこうした辛い経験が本作を描く動機およびその表現に影響したのであろうとは、つとに語られる所でございます。

またアルテミジアはユディトを主題とした作品をいくつも残しており、本作と全く同じ構図のものがウフツィ美術館に所蔵されております。

Judith Slaying Holofernes, Uffizi

小学館の『世界美術大全集』によるとこの作品、アルテミジアの名が記されているにも関わらず、ウフィツィに来たときはカラヴァッジオの作品ということにされており、その前のピッティ美術館にあった時は作者名なしの扱いになっていたのだとか。女性であるというだけで生前も死後も不当な扱いを受けるとは、まったく酷い話ではございませんか。


まあそんな具合で
カポディモンテという固有名詞を聞いてもいまいちピンと来なかったのろではございましたが、蓋を開けてみればなかなかどうして充実した展覧会でございました。

京都文化博物館はリニューアル工事のため、本展のあとは来年7月まで閉館するとのことでございます。年末には大阪のサントリーミュージアムが閉まってしまうというのに、こんなタイミングで工事せんでもいいじゃないかと落胆している美術ファンはワタクシだけではございますまい。そんな人々も、ああこれは良いものにしてくれた、半年我慢したかいがあったなあ、とつくづく思えるような、ステキな新生文博を期待しておりますですよ。



『カポディモンテ美術館展』2

2010-11-24 | 展覧会
削り屑まみれになりながら本の小口のヤスリがけをしていたら、玄関のチャイムが鳴るではございませんか。慌てて部屋着をかぶってドアを開けるとそこにはNTTの調査員さんが。

調「どうも。お休みの所すみません」
の「いえいえ」
調「はあ」
の「えー、どういったご用で」
調「光回線の普及状況調査です」
の「はあ。左様で」
調「左様でと来ましたか」
の「はあ。すみません」
調「いえいえ」

振り返ってみると何だか妙なやりとりでございました。

それはさておき
11/20の続きでございます。

角を曲がるとそこはもうマニエリスムのお部屋。グレコ、ティツィアーノに挟まれて、本展の目玉であるパルミジャニーノの『貴婦人の肖像』が佇んでおります。



はい、パルミジャニーノ、『長い首の聖母』の人でございますね。

Madonna with Long Neck - Parmigianino

うーむ。気持ち悪い。
実を申せば、パルミジャニーノはあんまり好きな画家ではございません。歪んだプロポーションを特徴とするマニエリスムの画家の中でも、人体の歪みぐあいがとりわけ気持ち悪いからでございます。薔薇の聖母なんてもう、あちこちえらいことになっております。

今回来日した貴婦人はドレスをしっかり着込んでおりますので、身体の歪みはあまり目立ちません。それでも、右肩から腕にかけてのプロポーションがおかしいことは一見してお分かりになりましょう。顔や手といった部分部分の描写の確かさや、みごとに描き分けられた布や毛皮の質感からは画家の卓越した技巧が伺われます。それだけに、明らかに歪んだ人体のプロポーショはいかにも奇妙であり、背景の暗さも相まって、不気味な凄みのある作品となっております。

歪んだ身体の上には、首長の聖母にそっくりの冷たく整った顔が乗っかっております。ちょっときれいすぎるような卵形の輪郭に、笑っているようないないような微妙な表情の口元。黒いひとみは遠目にはきりっとこちらを見据えているかに思えたものの、近づいてよくよく見たらば「きりっと」を通り越してあまりに冷たく、どこにも焦点を定めずただ宙に見つめているだけのような気がしてまいります。
仮に「アンテア」と呼ばれてはいるものの、本当の名前も身分も来歴も知られていないこの女性は、果たして現実に存在したのだろうか。おそろしく整い、かつ明らかに歪んでいるこの肖像を前にして、そんなことを考えたのでございました。

さて、見るからに歪んだプロポーションや現実離れした色彩、奇抜な演出や極端な遠近法という特徴を持つマニエリスム絵画でございますが、いったい何故このような美術様式が流行したのでございましょうか。美術史の本をひもときますと、いくつかの理由が挙げられております。
曰く、レオナルドやラファエロといった数多くの天才を輩出したルネサンスを経て、自然そのものから直接学ぶことよりも、こうした過去の巨匠たちの手法や様式(マニエラ)を模倣することがもてはやされたため、表現における現実性が失われていった。
曰く、この時代が経験した諸々の精神的危機の反映として、現実よりも主観や幻想に重きを置く精神文化が醸成された。
曰く、宮廷などの閉鎖的な社会において享受されたことから、極度の洗練や奇想へと傾いた。

手法と形式の模倣と、現実からの退避と、閉鎖的サークル内での享受。
ううむ。400年前の美術様式について述べたことなのでございますが、何だか昨今流行りの「萌え絵」についての分析のような気がしてまいりました。してみると今から400年後には、村上隆氏の作品あたりが「第二のマニエリスム」として美術の教科書に紹介されているかもしれませんて。


次回に続きます。

『カポディモンテ美術館展』

2010-11-20 | 展覧会
ノロウイルス真っ盛りでございます。

それはさておき
京都文化博物館で開催中のカポディモンテ美術館展 ルネサンスからバロックまでへ行ってまいりました。

作品保護のためでございましょう、照明はだいぶ落とされております。暗い場内の所々にスポットライトによって光のサークルが作られ、会場全体がバロック的陰影に包まれておりました。

とはいえ展覧会のサブタイトルどおり、まずはルネサンス絵画から始まるのでございます。冒頭を飾るのは、あの画期的な死せるキリスト像を描いたマンテーニャのルドヴィコ・ゴンザーガの肖像(とされているもの)。当時流行した横顔肖像画という取り澄ました形式も手伝ってのことでございましょうか、モデルの個性やまだあどけなさの残る表情を捉えながらも、マンテーニャ独特の硬質な画風が伺われる小品でございます。

さて、マンテーニャやコレッジョや、かなーりレオナルドなルイーニの聖母子像といったルネサンス的な作品を眺めつつ進んで行き、ふとふり返るとそこにはもう、調和と静謐のルネサンスとは趣を異にする作品が待ちかまえておりました。


キリストの復活

作者は『美術家列伝』の著者ジョルジョ・ヴァザーリ。ええっこの人ぁ物書きじゃなかったんかい、と思ってあとで調べてみましたら、画家としても有名である上、ウフィツィの設計者でもあるとのこと。ううむ、全く存じませんでした。自らの浅学を恥じるばかりでございます。解説パネルを読みますと、この絵はフレスコ画を共同製作していた画家の助けを借りて描かれたものなのだそうで。

はりつけにされ、脇腹を刺され、亡くなって埋葬されてから三日の後に、なんと元気に復活するイエッさん。さすが神の子、タフにできております。墓の周りには遺体の盗難を防ぐために番兵が配置されていたのでございますが、聖書自体には復活シーンの記述がない(=目撃証言がない)ことから、番兵さんたちはイエッさん復活の時には眠りこけていたのだという解釈で描かれます。
それにしてもこの作品、兵士たちの眠りこけかたがすごいではございませんか。暗い背景のもと、兵士たちが死体と見まごうばかりにごろごろ折り重なって倒れているのを見て「いや、この絵怖いわ~」とつぶやきながら早々に立ち去って行かれるお客さんも少なくはございませんでした。
しかしこちら側に頭を向け、体をひねったポーズで横たわる人体を(手前の兵士の右足がちょっと変な感じではありますが)目立った破綻なく描いているあたり、見事な技量であると申せましょう。えっ。兵士たちはフレスコ画家さんが描いたんですか。そうですか。

寝転がる兵士たちの上に墓室の扉を蹴り倒してお出ましんなるイエッさん。聖火ランナーよろしく颯爽としたポーズは、扉の下敷きになっている番兵さんたちの体たらくとギャップがありすぎて、ちょっと笑えます。
イエッさんの均整のとれたプロポーションはルネサンスの名残りを留めておりますが、画面全体の暗さや、兵士たちがぐにゃぐにゃと眠りこける姿は、この作品の描かれた1545年にはすでに絵画がマニエリスムの時代に突入していることを伺わせるのでございました。


次回に続きます。


いたたた

2010-11-13 | Weblog
寒くなってきたせいか、右肘の腱鞘炎がぶり返してまいりました。
うーむ痛い。痛いってばさ。うんうん。
腱鞘炎には安静が一番ったって、仕事や日常生活できき腕を使わずに済ますなんざそもそも無理なこってございます。
来年3月の展覧会に1点でも新作を出せるよう企画進行中なのでございますが、こりゃ無理かもしれませんです。
でも出せなかったら悔しいぞ。うーむ。
いたい。

『ブリューゲル 版画の世界』2

2010-11-11 | 展覧会
11/9の続きでございます。

前回の記事では農民画のことばかり申しましたが、本展の目玉は何といっても寓意画の中に登場する魑魅魍魎たちでございましょう。
とりわけ圧巻だったのが7つの大罪をモチーフとしたシリーズでございまして、罪深い人々や怪物たちが画面の中に所狭しと跋扈しております。パネルによる解説が割と充実しておりますので、描かれた動物や怪物が象徴しているものの読み解きはそれなりにできます。しかし中には「そのテーマとこの怪物の間にいったい何の関係が?」と思わず首を傾げてしまう意味不明のクリーチャーも。しかもこれがやたらと可愛いときております。よちよち歩いている鳥(みたいのもの)やら、ヨイヨイ躍っている蛙(みたいなもの)やら。
テーマ自体には教訓や戒めという真面目な意図が込められているとしても、地上と言わず空中と言わず至る所に跳梁する怪物たちの生き生きとした姿は、まるっきり楽しんで描かれているとしか思われません。
特に公式HPのキャラクターギャラリーにおいて「琴ペン」の名で紹介されているやつの愛らしさといったらございません。思わずグッズを買ってしまいました。



それにしても怪物たちの元気なこと。ルネサンスの間に教会の装飾や写本の余白から追い出されたグロテスクな者たちが、やっとここに所を得たかのような騒ぎようではございませんか。


ここにもやけに可愛いのがおりますね。

思えば奇妙な、この世ならぬ、とはいえちょっと心惹かれるような存在というものは、妖精や妖怪や、動物プラスαといったかたちで、洋の東西を問わず描かれたり語られたりしてきたものでございます。あるいは今巷で流行っている「ゆるキャラ」の面々も、この奇妙なクリーチャーの系譜に連なるものなのかもしれませんて。

会場内では、展示されている「誰でも」「大きな魚は小さな魚を食う」をもとに作られた短いアニメーションも見ることができます。そして入ってすぐの壁面では、さまざまなクリーチャーたちが本展のタイトルの周りで戯れる作品が映し出されております。現実にはありえない姿かたちをした奴らがいやに現実的な動きをする、その気持ち悪さと愛嬌のバランスが何とも申せません。DVDがあったら購入しようかと思っておりましたのに、残念ながらショップにはございませんでした。調べてみますと、新潟会場では販売していた模様。 『PARABLE 寓話』の商品名で検索してみた所bunkamuraのネットショップに行き着いたものの、現在は残念ながら在庫切れでございました。

まあそんなわけで
16世紀の風俗の一端をかいま見、構成や描写や想像力におけるブリューゲルの力量に舌を巻き、クリーチャーたちの放縦ぶりになぜか心なごまされと、色々と見どころが多うございます。もとよりけっこう期待を高くして行ったのでございますが、それ以上に楽しめた展覧会でございました。


『ブリューゲル 版画の世界』1

2010-11-09 | 展覧会
美術館「えき」KYOTOで開催中の、ブリューゲルの版画展に行ってまいりました。

なかなか凝った公式HPはこちら。音が出ます。
ベルギー王立図書館所蔵 ブリューゲル 版画の世界

ブリューゲルの作品だけかと思いきや、同時代の版画作品も多数展示されておりました。当時流行していた主題を知るという点でも、ブリューゲルとの比較という点でも、これがなかなか面白いものでございました。

例えば、お祭りで浮かれ騒ぐ農民たちを描いた一連の作品。
農民の姿を多く描いたことから「農民のブリューゲル」とも称されるピーテル・ブリューゲル。(長男で父と同名のピーテルと次男ヤンも画家であり、それぞれ得意とした画題にちなんで「地獄のブリューゲル」と「花のブリューゲル」というニックネームがございます。)が、ワタクシこれまで、老ピーテルの農民画がとりわけ「暖かいまなざし」のもとに描かれていると思ったことはございませんでした。はるかな高みから見下ろしたような俯瞰の構図や、生々しいまでのこと細かな描写は、共感や好意といったものよりも、人間の生態を引いた視点から観察する冷徹なまなざしによるものと思われたからでございます。

しかし本展で他の作家による農民画と比較して見て初めて、ブリューゲルの視線が決して冷ややかなものではなかったことが分かりました。
同時代の作家が描いた農村の祝祭風景は、あちらでは酔っぱらいがよろめきながら嘔吐し、こちらでは喧嘩がおっぱじまり、その向こうでは好色そうな表情をうかべた男女が抱き合っておりと、農民たちの粗野な部分や猥雑さがとりわけ強調されておりまして、いささか見世物小屋的な様相を呈しております。
それに対しブリューゲルの作品は、引いた視点で描かれてはいても見世物的なところはなく、農民たちの姿をことさら「悪い見本」として提示する意図も感じられません。むしろ晴れの日を楽しむ農民たちの浮き浮きとした雰囲気を表現することに心を砕いているようでございました。

もちろん自身も顧客も都市住民であったブリューゲルが、農民たちを「我々とは異なるもの」として観察していたであろうことは想像に難くございません。しかし小さな画面いっぱいに展開される、いとも人間的な彼らの姿からは、「異なるもの」に対して向けられた非難や軽蔑ではなく、愚かでもあれば単純でもある、同じ人間としての愛着が感じられました。また、ワタクシが「冷徹なまなざし」と考えていたブリューゲルの観察眼は、農民たちにのみ向けられたものではなく、自らを含めた人間というもの全体に対して向けられたものであったことが本展を通じてよくわかりましたし、その冷徹さや皮肉も決して単に厭世的なものではなかったということが、輪になって躍る農民たちの屈託ない姿を通じて表現されているようでございました。

ちなみに粗野で卑俗な「悪い見本としての農夫たち」の図像は、もっと洗練された形で17世紀オランダの風俗画へと受け継がれるわけでございますが、本展で見られる農民画は時代的に、15世紀の時祷書などに見られる理想化された農村の風景と、17世紀に流行した風俗画とのちょうど中間に位置しており、その点でも興味深いものでございました。

次回に続きます。


stop石打ち

2010-11-04 | Weblog
Avaazからイランで石打ちによる死刑を宣告されたサキネ・アシュティアニさんの助命に関わるメールが届きました。
間に合うかどうか分かりませんが、関連記事と合わせてご紹介します。
以下、メール本文。転載自由です。(訳責:のろ)

Dear Friends,
イランでは明日、アシュティアニさんの処刑が計画されています。
今年7月には国際的な非難の声を受けて、この不当な石打ち刑の執行は回避されました。彼女の命を救うために、あと24時間残されています。

頼みの綱は、イランの同盟国と国連の主要各国です。こうした国々は、世界的に注目を集めているアシュティアニさんの処刑によってイランがこうむる政治的損害を説いて、処刑をやめるようイランを説得することができるはずです。下のリンク先から、各国に緊急の行動を求めるメッセージ送信にご協力ください。私たちは彼女の最後の希望なのです。

24 Hours to Save Sakineh

(のろ注:参加のしかた、送られるメッセージなどは当記事の*****以下をご覧下さい)

アシュティアニさんの「姦通罪」にまつわる一連の事件は、いくつもの人権侵害を伴う、酷い茶番劇です。彼女は石打ちによる死刑を宣告されましたが、裁判はアシュティアニさんが話せない原語を使って執り行われました。しかも彼女が男性と関係を持ったのは、夫が亡くなった後のことです。彼女の子どもたちによる呼びかけに応じて、世界中からこの馬鹿げた裁判に対する非難が集まったため、イラン政府はこの宣告を一旦撤回しなければなりませんでした。

その後、彼女の弁護士は亡命を余儀なくされ、検察は彼女が夫を殺害したという新たな容疑をでっちあげました。しかし彼女はすでに共謀罪を課せられて刑に服しているため、殺害容疑による起訴はダブル・ジョパディー(二重処罰の禁止。ひとつの犯罪で被告を二度裁判にかけることを禁ずる)に抵触しています。アシュティアニさんは拷問され、国営テレビ放送での「自白」を強要され、有罪判決を下されました。その後、イラン政府は2人のドイツ人ジャーナリストと、アシュティアニさんの担当弁護士、そして、母の命を救うために勇敢にも国際的キャンペーンを行って来た彼女の息子を逮捕しました。彼らは今も投獄されたままです。外国人の2人以外は拷問を受け、弁護士との接触も許されていない状態です。

イランの人権活動家によると、イラン政府は明日付けでアシュティアニさんの死刑執行を発令したとのことです。

私たちの根気づよいキャンペーンにより、イランは石打ち刑の執行を一旦は止めましたし、トルコやブラジルといった、イランに対して影響力のある国々の指導者たちの注意を喚起することができました。彼女の処刑をくい止め、彼女や捕えられている人たちを非人間的な扱いから解放するため、声をあげましょう。どうぞ請願にご参加のうえ、ご家族やお友達にも呼びかけてください。

希望と決意と共に。
Alice, Stephanie, Pascal, Giulia, Benjamin and the whole of the Avaaz team

*****

↓送られるメッセージ(リンク先右側の Your Message 欄のもの。書き換え可能)↓

イランに対して影響力のある指導者の皆様へ。
サキネ・モハマディ・アシュティアニさんの命を救うため、できるかぎりのことをしていただけるようお願いいたします。彼女は今日にも処刑されるとの情報が流れています。今年の7月と8月にも実現したように、皆様のお力があれば、イラン政府を動かすことができるはずです。
彼女の処刑をくい止めるため、イラン政府に対する皆様の早急な行動をお願いいたします。
(のろ注:以下の部分は書き換えてください。ただし必須ではないので、メールアドレスの行などは単に削除していいと思います)
[名前]
[国]
[メールアドレス]

以上

リンク先画面右側に出ております水色のバーと数字が、現在署名に参加している人数です。のろがこの記事を書いている時点で、56万6060人が参加しています。

署名のしかた
水色のバーで出ております Enter your detail 欄

Name:お名前
Email:メールアドレス
Country:国籍(選択)
Postcode:郵便番号
を入力の上,右側のYour massage欄にあるピンク色の Send:送信ボタン をクリックすると参加できます。

入力したアドレスにはご署名ありがとうメールが届きます。
その後も署名を呼びかけるメールが随時届きます。
それはちょっと...という方は、送られて来たメール本文の一番下にある go here to unsubscribe.(青字)という所をクリックして、移動先の空欄にメールアドレスを入力→SENDをクリックすれば登録は抹消されます。

CNN.co.jp:石打ち刑のイラン女性、「当局が執行通告」と支援団体

なお、こちら↓のサイトでも署名をつのっています。参加者リストにはキャサリン・ゼタ・ジョーンズやブルームバーグNY市長、ヒュー・ジャックマンやピーター・ゲイブリエル、オノ・ヨーコさんの名前もあります。
Free Sakineh

最新情報はFACEBOOKで。
Save Sakineh Mohammadi Ashtiani from being Stoned to Death in Iran, by Donya Jam | Facebook

臆病と怠惰

2010-11-01 | Weblog
メールの設定をいじった覚えもないのに、しばらく前から迷惑メールフォルダにばかり届くようになっていたAvaazからのメールが、このごろまたきちんと受信箱に届くようになりました。ありがたいことでございます。
しかし鯨のことを書くとファナティックな人がやって来そうでおっかないので、臆病者ののろは先日来たメールのご紹介を控えさせていただきます。ご関心がおありのかたはこちら↓をご覧下さい。
Days left to stop mass extinction

臆病は人間の欠点のうちで最も恐ろしいものだと言ったのは誰だっけ。
ブルガーコフだ。『巨匠とマルガリータ』だ。あのくだりは本当に美しくて悲しいんだ。

それにしても、近くを見ても遠くを見ても気の滅入るようなニュースばかりでございます。『ノーカントリー』のベル保安官じゃございませんが、ニュースを読むのが嫌になります。
タイミングよくというか悪くというか、原爆についてのパネル展で、東海村の原発事故で亡くなった方の写真に今さらながらショックを受けて帰ってみれば「日本がベトナムで原発建設受注」のニュース。
ちなみに上記の写真をご覧になりたい方は「東海村 写真」のキーワードで検索なさってくださいまし。
写真は嫌じゃという方はせめてこちら↓をお読みいただければと存じます。テキストのみですのでご安心を。
原発がどんなものか知ってほしい(全)

ああでもなんかもうどうでもいいや。どうせ人類なんてそう長続きしないし。そのうち地球もなくなるし。太陽も死ぬし。人類や地球や太陽の末路を見るより先に自分が死ぬし。どうでもいいや。
と思う一方、ワタクシが何かしたせいで、あるいはしなかったせいで、次の世代を生きる人々や、今この同時代を生きている人々が辛い思いをするのは、やっぱり嫌だとも思うのでございます。
だからといって何ができるんだろう。無力である以上に無気力であるのろのような人間に何ができるというんだろう。

怠惰を大罪のひとつに数えたのは誰だっけ。
トマス・アクィナスですか。えらいひとだ。まいったな。