のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

馬六明 Ma Liuming

2009-02-23 | 展覧会
この寒空の下、アイスバーをもりもりかじりながら歩いているお兄さんを見かけました。
今からあれじゃ夏場はどうするのかしらん。

それはさておき

前回の記事「アヴァンギャルド・チャイナ」展レポートのおしまいの所でちょっとだけ触れました、馬六明/マ・リウミン/Ma Liuming 氏がいろいろと気になりましたので、その後ネットや図書館を漁って調べてみました。
やはりなかなかに興味深い人物でございます。

Ma Liuming | ArtZineChina.com | 中国?志
What Happened to Fen-Ma Liuming? | ArtZineChina.com | 中国?志
Ma Liuming bei artnet
Ma Liuming

以下、経歴など。

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1969年、湖北省黄石市に生まれる。
湖北美術学院で油彩を学んだのち「北京東村 *1」に設立メンバーとして参加。
1993年にイギリスのアーティストギルバート&ジョージが東村を訪れた際、彼自身の企画によるパフォーマンスを始めて公開。*2これがきっかけでパフォーミングアーティストとして活動することになる。
芬-馬六明/フェン-マ・リウミン/Fen-Ma Liuming*3と題された一連のパフォーマンスで、馬は化粧をした美しい女性の顔と引き締まった男性の身体を持つ両性具有的な人物として現れる。
架空の人格である「芬-馬六明」は常に全裸、常に無表情で、魚を生きたまま調理するなどの過激なパフォーマンスをとり行う。
あるいは、天井からつり下げられた魚たちが苦しそうにあえぐただ中で,黙々とシャワーを浴び続ける。
あるいは、睡眠薬を飲んでステージに上り、無防備な姿を観客にさらして眠り続ける。
裸で行うパフォーマンスのため1994年、馬は猥褻のかどで当局に逮捕され、2ヶ月もの間勾留された。
釈放された直後にも、極寒の屋外で、生きた魚を真っ黒になるまで揚げる全裸でのパフォーマンスを行った。
1996年以降、東京を皮切りにニューヨーク、ロンドン、トロントほかヨーロッパ・アジア各地で観客参加型のパフォーマンスを行う。
2002年の福岡での公演を最後にパフォーマンス活動を辞め、現在は絵画と彫刻において表現活動を展開している。

*1若手前衛アーティストの活動の中心地となった 北京郊外の村。安い家賃と自由な芸術的活動を求めて、地方から出てきた貧しい芸術家たちが集まったということです。英語表記はニューヨークのそれを彷彿とさせる East Village。

*2その時の写真
Ma Liuming - Asian Art Documentation

*3「芬」は「香り」の意味で、普通は女性の名前に使われる漢字。男性的な名前である「馬六明」と併記することによってジェンダーのあいまいさを強調する意図があります。また、fenという音は分離の「分」と同音であることから、現実の馬自身と、パフォーマンスの素材としての自らの存在を区別する意味もあるということです。実際に馬氏は、インタヴューでは「芬-馬六明」を自分とは別の人格として「彼あるいは彼女」と呼び、「私が◯◯した」とは言わず「芬-馬六明に◯◯をさせた」と言ったりもしています。
*****


女装ですとか過激なパフォーマンスですとか、裸のせいで捕まったとか聞きますと、我が敬愛する 榎忠さんを連想してしまいますが、この類似はあくまでも外面的なものでございます。
エノチュウさんのアートが、ひとつのテーマをすっと追いかけるといった類のものではないのに対して、馬氏のテーマは一貫しております。
即ち、「境界のあいまいさ」というテーマでございます。
アーティストと観客の境界、大人と子供の境界といったモチーフも扱われるものの、中核をなしておりますのは何と言ってもジェンダー、男性と女性の境界でございます。

馬氏がジェンダーのあいまいさをテーマに選んだ訳は、子供の頃からその風貌のせいで男か女かと尋ねられることがしょっちゅうだった、という、氏自身の体験によっております。

なぜ人々は見かけだけで、男らしいとか女らしいとか決めつけてしまうのだろうか?
男性と女性の明確な境目はいったいどこにあるのか?
そもそも、そんな境目など存在するのだろうか?
何が男を男たらしめ、女を女たらしめているのだろうか?
馬氏は実体験にもとづくそうした疑問から、自分自身の中性的な身体を活用して表現することを思いついたということでございます。

生をあらゆる制度から解放せよ。私達は往々にして衣服から受ける印象や、社会的地位などの外的条件のみを基準として、互いを判断してしまう。---馬六明(「デ・ジェンダリズム/回帰する身体」展図録より)
全裸になることで服装も社会的地位も剥奪され、さらには顔に化粧を施すことで男性と女性の特徴を併せ持ち、何者にもカテゴライズされない人物として現れる「芬-馬六明」。
彼/彼女は、そのいわばどっちつかずの姿によって、私達の無意識的で日常的な判断基準に揺さぶりをかけます。

私達は「◯◯のように見えるものは、実際に◯◯である」という定式に基づいた暗黙のラベル付けを、日常的に行っております。そして自分自身もまた「◯◯のように見える」という外面的な印象によって、他者からラベル付けをされております。
そのラベルとは当然、ある種の固定観念に基づいたものでございます。
化粧をしているから女性だ。
男っぽい体つきだから男性だ。
立派な服を着ているから偉い人だ。信用できる。
ボロい服を着ているから貧乏人だ。怪しい人だ。
対象が実際に何者であるかを見極めるという作業をすっ飛ばし、定式化された枠に当てはめて、カテゴライズし、ラベルを貼る。
この意味でラベルとは便利なものではございますが、その同じ意味で、見る者にとっては認識作業の怠慢であり、見られる者にとっては一種の牢獄、拘束具であると言えましょう。

そうしたラベル付けの一切を拒否する「芬-馬六明」はカテゴライズできない存在に対する私達のとまどいや、批評家のお歴々による自己愛的だという非難に対して、そのひたすら無表情で端麗な顔によって、無言のまま答えます。

「だったら、どうなのさ」

げにも
「芬-馬六明」の姿は有無を言わせぬ、妖しいほどの美しさが備わっております。
この人物が男性であるか女性であるか、などということは、彼/彼女の蟲惑的な美しさの前にはどうでもいいことでございます。
ほっそりとした平らかな身体、鋭い眼差し、全く感情を表さない、無表情な顔。

今年50歳を迎え、すでに7年前からパフォーマンス活動を辞めている馬氏は身体をさらすパフォーマンスからの引退について、インタヴューでこう語っておられます。

私は「芬-馬六明」が年老いることなく、いわば永遠に美的なものとして留まっていてほしいと思います。残念ながら私の身体言語はもはや「芬-馬六明」の特徴を備えてはいないのです。

けだし、馬氏が自身の身体によって「境界はあいまいなものであり、ラベルなどは定式化された瑣末なものにすぎない」というメッセージを伝達するには、あの美しい肢体の放つ有無を言わせぬ説得力が、必須だったのでございましょう。
ああ、のろはまたしても、現場に間に合わなかったというわけか。

幸い馬氏はアート活動自体は続けておいでですし、絵画や彫刻作品もたいへんのろごのみでナイスなものでござます。
絵画・彫刻作品なりとも、パフォーマンスの記録映像や写真なりとも、もっと日本で見る機会があってほしいものだと、のろは切に願う次第でございます。


おまけ
馬氏のかなり長いインタヴューをこちらから読むことができます。(英語)
Performing bodies: Zhang Huan, Ma Liuming, and performance art in China - Interview | Art Journal | Find Articles at BNET

ambiguity(あいまいさ、両義性)という言葉をしきりに使っているのが印象的でございます。


『アヴァンギャルド・チャイナ』

2009-02-14 | 展覧会
ピーター・バラカンさんの隣で
炊きたてご飯とお味噌汁の朝食を食べている夢を見ました。

わん とぅー さん しゃいん
た た た た た た た た
ずっちゃずちゃちゃっ ずっ ちゃっちゃたららったーん

それはさておき
国立国際美術館で開催中の『アヴァンギャルド・チャイナ 中国当代美術20年』へ行ってまいりました。



絵画、映像、インスタレーションにパフォーマンスと、表現形態も題材も様々でございます。
その多様な表現のひとつひとつから、力強い印象を受けました。
力強いと申しましても、経済成長を反映したイケイケな活力という意味ではございません。
文革終了後の急速に変化する社会。そのただ中で、流されたり丸め込まれたりすることを拒み、自分と周囲の世界を見つめる誠実なまなざし。そこに見いだされる閉塞感や虚無感、グロテスクなゆがみを臆せず表現する、碓とした反骨精神。
そういう力強さでございます。

絵画作品では、明るい色彩なやわざとらしい笑顔の人物像で強烈な虚無感を表現した方 力釣 ファン・リジュン fang lijunや、古い家族写真をモチーフに、過去と現在の否応のないつながりと断絶とを表現した張 曉剛 ジャン・シャオガン Zhang Xiaogangの作品がとりわけ印象的でございました。

それ以上に印象深かったのは、映像を使った作品でございます。
世界10カ国の市井の老若男女が、おのおのの母語でカメラに向って「私は死にます」と言っては白くフェイドアウトしていく、楊 振中 ヤン・ジェンジョン Yang Zhenzhongの
I will dieには時間を忘れて見入ってしまいました。

洗面器で延々とニワトリを洗い続けたり、壊れた鏡の破片を延々とつなぎ続けたり、身体の一部を延々と掻き続ける映像をテレビに映す張 培力 ジャン・ペイリー Zhang Peiliの作品には、その「延々と◯◯し続ける」っぷりに馬鹿馬鹿しさとそこはかとない可笑しさがございますが、じっと見ていると不安をかき立てられる作品でもございます。
それはこの映像の中の行動が、テレビ等が提示するイメージにあおられるままに行動する私達の戯画であることに、見ているうちにじわじわと思い至るからでございます。本当に必要なものかどうかの判断を放棄して、ひたすら清潔さや完璧さや快楽を求め続ける現代社会。その滑稽で不気味な部分にぐぐっとクローズアップしたこの風刺は、中国の社会だけでなく、世界に向けられたものと言ってよろしうございましょう。

一方、仙人ヒゲの爺様やメガネのおばちゃん、工事現場の兄ちゃんに駐車場の誘導員など、ごく普通の人々が、その人なりにノリノリのヒップホップを躍る軽快な映像作品もございましたし、古き良き上海といった雰囲気のモノクロ映像が、観客をとりかこむ大画面にゆったりと展開するいとも風雅な作品もあったりして、中国現代美術の幅と奥行きを感じさせてくれる展示でございました。

こうした映像作品の中でもとりわけ、ほとんど苦行僧のような 張 洹 ジャン・ホアン Zhanghuan.と両性具有的な馬 六明 マ・リウミン Ma Liumingによるパフォーミングアートの記録映像は強烈でございました。

馬 六明氏のパフォーマンスにのろは大変興味をひかれましたので、氏についてはまた時を改めて取り上げさせていただきたく。

以上、全体としてたいへん充実したいい展覧会だったのでございますが、来場者のあまりの少なさにはちょっと驚いてしまいました。
そりゃ、のろが行ったのは平日ではございましたよ。でもね、同じ平日でもゴッホ展やらルーブル展にはどっから湧いて出たかと思うくらいに押し寄せるあの人たちは、一体いずこへ消えたんでございましょうか?学生だってもう春休みに入っていましょうに、若者たちよ、いったいどこにいるのか?
人の少ない静かな美術館というのは、鑑賞者にとってはもちろん喜ばしいことではございます。
けれども、内容は素晴らしいのにお客さんの入りがあまりにも少ない展覧会にやって来ますと、ちょっと悲しいというか腹立たしい気分に、ならずにはいられないんでございますよ。




ちなみに冒頭でずっちゃずっちゃ言っておりましたのはNHK FMのラジオ番組Weekend Sunshineのオープニング曲、
即ち↓これでございます。

YouTube - Sunshine Day - OSIBISA

途中で「おはようございます、ピーター・バラカンです」って声が入って来ないとなんだか妙な気がします。




untitled

2009-02-09 | Weblog


きっとできない きっとできない という恐怖のあまり
せっかく打診のあったお仕事をお断りしてしまいました。
こうやってますます何もできない人間になっていくのかなあ。
と こう自覚があるからといって駄目さの度合いが軽減されるわけでもなし。

『さて、大山崎』

2009-02-08 | 展覧会
『さて、大山崎~山口晃展~』へ行ってまいりました。

山口晃という字面が山田晃士と似ていてハッとしてしまうのろ。ガレシャン活動再開してくれないかなあ。

それはさておき。
山口氏の作品、のろは本の表紙や雑誌などで間接的にちらほらお見受けしていたものの、実際の作品と対面するのは始めてでございましたので「お噂はかねがね」という心持ちで行ってまいりました。

いやあ、こんな面白いかたでいらっしたとは。
絵画作品はもちろん、折りたたみ式の携行用茶室や電柱の鑑賞指南「華柱道」、壁のしみを作品に見立ててしまうというおそらく大山崎史上初の企画、そして作品に寄せられた作者コメントまで、みなたいそう面白うございました。通常は作家の人となりにはあまり興味を持たないのろではございますが、今回ばかりは予定をおしてでもトークイベントに参加しとけばよかったなァと思った次第。

面白いと申しましても、例えば森村泰昌さんのように押しの強い、ややもすればグロテスクな面白さではございません。ごく淡々とした、ちらと見ただけでは見過ごしてしまうような面白さでございます。
例えば、ポスターに使われている「野点馬圖(のだてうまず)」。



一見すると伝統的な日本画の手法で描かれた、楚々とした趣の作品でございます。
しかしよくよく見ると、馬のボディにはなにやらメカらしきものが仕込まれているではございませんか。しかも何と、そこにはお茶道具一式が収納されているではございませんか。これぞ即ち、いつでもどこでも野点が楽しめる「野点馬」。
作者コメントに曰く
「便利なお馬さんだこと・・・」
そ、そうですね。

一見「正当な・普通な◯◯」に見えるものの中に、その正当性の文脈においてはどう考えたって異常なものになってしまうような事物が折り込まれ、作品として違和感なく存在してしまっている。そういう一種不敵な面白さがございます。
具体的に申しますと、「折畳式携行用茶室」ではプラスチックのスダレや波板といったチープな素材でこさえられた一畳弱の小屋が、確かに茶室として文句のつけようのない体裁を持っており(床の間まであったりして)、掛け軸風の作品「土民圖」では戦国時代の剽悍な農民たちが軽トラックやロケットランチャーのかたわらで憩っております。凛とした空気のただよう明智光秀の食卓「最後の晩餐」には、キッコーマンの醤油差しやワイン、ポテトチップの袋までもがさりげなく置かれているのでございます。

どれもこれも、普通に考えれば何とも無茶な組み合わせ。
こう申しますと奇をてらった作品のような印象をお持ちになるかもしれませんが、氏の作品の面白さは組み合わせの突飛さそのものの中にあるのではございません。
むしろ無茶なはずの組み合わせが全く無茶に見えないほどの説得力と申しましょうか、違和感の無さ、整合性こそが面白いんでございます。その整合性を支えているのは、氏の高い技術と端正な色彩のセンス、そして緻密な構成力-----あるいは妄想力でございます。
本展には、てらいのない、ひたすら技量の確かさに唸らされる作品もございましたし、その逆に技量はうっちゃってひたすら妄想力で押し切った感のある作品もございました。そのどちらも実にのろごのみでございまして、のろは大いに楽しませていただきました。

また、今回の展覧会に先立つ取材の日々を漫画風につづった「すずしろ日記 大山崎版」なるものも展示されておりました。
こちらは間(ま)の取り方がそりゃもう、絶妙でございましてねえ。新館に展示されている「邸内見立 洛中洛外図」ともども、のろはこらえきれずに ふッ と鼻吹き出ししてしまいました。
展覧会で本気で吹き出してしまうことなんざ、4年前のミヒャエル・ゾーヴァ展以来のことでございました。

まあそんなわけで
端正な色彩と前田青邨を連想させる巧みな線、そしてどこへ連れて行かれるやらわからない妄想力を併せ持った山口晃さんの作品世界に、のろはすっかり魅せられて何かこうわくわくとした心持ちで大山崎を後にしたのでございました。

ちなみにその時のろをして吹き出さしめた作品とはベックリン作「死の島」パロディー作品 でございます。




のろホセ

2009-02-04 | 音楽
2晩続けてカルロス・クライバー指揮『カルメン』のDVDを見て寝たら
ドン・ホセになった夢を見ました。

・・・カルメンじゃなくてドン・ホセなのかね、のろよ。いいけどさ。

主人公。セビリアの衛兵だったが、美しいジプシー女カルメンに恋して婚約者も生活も何もかも投げだしたあげく、嫉妬と絶望に駆られて彼女を殺す。


思うにドン・ホセの過ちはカルメンに恋したことではなく-----その点は責められません、恋に落ちるということを誰が責められましょうか-----、自らの価値観と実際の行動の間に大きな乖離が生じているのに、そのどちらをも修正しようとしなかった点でございます。
そもそもドン・ホセは竜騎士としての勤めを果たし、許嫁である清純な村娘と結婚して、母親に孝行するこそまっとうな人生だと考えておりました。それがカルメンに心を奪われてからは、脱走兵として、密輸などの犯罪に手を染める身となったわけでございます。
お上の命令には従わない暮らし。そうした暮らしはカルメンにとっては「自由」である一方、ドン・ホセにとっては、卑しいもの、恥ずべきもの、自分の価値観に背くものでございました。そして自らがそうした暮らしを送るようになってもなお、もともとの倫理観・価値観を変えることはなかった。即ち、もとの価値観は保持したまま、生活だけを変えることで、カルメンの心をつなぎ止めようとした。ここにドン・ホセの過ちがございます。

*以下、「善」とか「悪」とか申しますが、絶対善や絶対悪という意味ではございません。全て「ドン・ホセが善と思うもの:例えば竜騎士としての生活、許嫁との結婚、親孝行など」および「ドン・ホセが悪と思うもの:例えば脱走兵としての生活、密輸業への加担、親不孝など」の意でございます。

ドン・ホセは、カルメンへの執着ゆえに行動においては不名誉や悪の領域に踏み込みつつも、心の内には善への忠誠心や憧れを抱いたままでございます。しかし実際に悪を行っている以上、心の内にしか存在しない善でもって自らを責めさいなむことは、その責めがどんなに激しいものだったとしても、偽善にすぎないではございませんか。
行動において(しかも自覚的に)悪である以上、善なる自己イメージなんか捨ててしまえばよかったのに。
逆に、善を志す思いがどうしても捨てられないならば、カルメンとの生活は諦めて、善なる志に即した行いをとればよかったのに。
そのどちらも選ばないまま「田舎の母はどう思ってるだろう」なんてことをうじうじ言ってちゃあ、そりゃ、振られますよ。その上救いなど全然必要としていないカルメンに向って「お前を救いたい、そして俺のことも救ってくれ」なんてトンチンカンなことを言い出す、ああ、まったく、哀れなドン・ホセ。

善きものにあこがれるなら、それに即して行動すればいいし、そのように行動できないならば、善き自己イメージなんか捨てちまった方がいいんだ。そうした方が、自分にとっても他人にとっても断然いいんだ。
中途半端に心の片隅にだけ善を置いておこうなんて、そして自責することで善なるものの裾にぶら下がっていようだなんて、そんな魂胆は実にみっともないことだ、わかっているのかね、のろよ。
じゃない、ホセよ。


ちなみに、のろがタワレコのワゴンセールからひっ掴んで帰った(いや、お金は払いました)カルロス・クライバー指揮フランコ・ゼフィレッリ演出の『カルメン』、例によってYoutubeには全編UPされているようでございます。
字幕はございませんが、とりあえず前奏曲だけでも御覧下さいまし。

指揮台に上るなり、観客の拍手も無視して全力疾走のカルロスさん。
いやあ、かっこいいですね。
ほれぼれでございます。

オリビア・ハッセー主演の『ロミオとジュリエット』や『永遠のマリア・カラス』の監督。