のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

ドイツ写真の現在1

2006-01-09 | 展覧会
馬鹿なので風邪をひきません。
今年もひかぬ予定でした。
ところがどっこい、ひきました。
ああ のろも 風邪をひきうる程度には賢くなったのか と思うと感慨深いですなあ。ゴホゴホ。

さておき。
『ドイツ写真の現在』展に行って参りました。
京都国立近代美術館にて2/12まで開催中です。
「ドイツ写真の現在 かわりゆく「現実」と向かいあうために」

これは非常に面白うございました。
長くなるので、数回に分けてレポートいたします。

セクションは写真家ごとに区切られておりまして、第1室がこの方々でございます。

Bernd & Hilla Becher ベルント&ヒラ・ベッヒャー
モノクロームの静謐な画面に写されているのは、
かつては採掘産業を担っていたであろう巨大な施設や
採掘場の煙突を遠景にして立ち並ぶ、似たような形の家々。
あるいは、ポートレイトのようにきちんとフレームに収まった、さまざまな採掘塔たち。
あるいは、時を追って(かなり無計画に)建て増ししていったことがありありと分かる、なんとも個性的な面持ちの小屋たち。

被写体は全て、「機能」を目指して造られたものばかりです。
美的価値や、造形的な面白さを目指して造られたものではありません。
にもかかわらず、こうしてフレームに収められた彼らの姿は、確かに 美 や 面白さ を発しているのです。
機能性を求めただけなのに、ふと気付けば、そこに 美 が発生している。

バウハウスの創始者、グロピウスによれば
「目的合理性(のろ注:手段と目的とが適合していること)は、対象の美しさの一つの要素である」と。
(『キッチュの心理学』A・モル著 叢書ウニベルシタス 1986 p.173)

グロピウスさんに言わせれば、機能的なものが美しいのは当然のこと と、なりましょうか。

では、どう見てもあまり「機能的」には見えない建て増し小屋の面々、
謎の出っぱりや、無理矢理なはり出しや、意味不明の傾斜で身を飾り
柱一本折れたら全倒壊しそうな アンバランスな構造の彼らが発する 美 は何なのでしょうか。

合理主義・機能主義的な考えでバウハウスに影響を与えたテオ・ファン・ドゥースブルフは、その著作において、このようなことを言っております。
例えばここに一頭の雌牛がいる。その牛を、人が見る。
その人が獣医なら、彼が見るのは牛の 健康状態 であり、
その人が肉屋なら、彼が見るのは牛の 商品価値 であり、
そのひとが芸術家なら、彼が見るのは牛の 造形的・美的な側面 である と。
(『新しい造形芸術の基礎概念』 バウハウス叢書6 中央公論美術出版 1993 p.15~16)

つまり芸術家の目は、「もの」の持つ一般的な機能とはまた別に、その「もの」の中に 美的な価値 を認めうるのだ と。

「もの」を、もはや機能から自由になった美的存在として 見る。
あるいは、「もの」を、その合目的的、機能的な美を宿した存在として 見る。

どちらの方向をとるかは鑑賞者にゆだねつつも、ベッヒャー夫妻の作品群は
「もの」を 美 という視座からとらえてみることを、鑑賞者に提案しているように思います。

続きはまた後日。