のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

2011年その他の映画

2011-12-31 | 映画
大晦日の午後になってからおもむろに大掃除を始めるのろ。
ワンルームマンション暮らしが向いている人間だとつくづく思います。

それはさておき
振り返れば3.11以前にあったことが遥か昔の出来事のように思える年の瀬でございます。『白いリボン』も『ハーブ&ドロシー』も『ウフィツィ美術館自画像コレクション展』も、鑑賞したのが今年のことであったとは信じられません。ともあれ1年締めくくりということで、鑑賞はしたもののブログで紹介できなかった映画を思い出せるかぎり以下に並べてみようかと。

『100000年後の安全』
反原発を声高に訴える映画ではなく、「原発を利用するということは、こういう問題と向き合うということです」と淡々と述べて行く作品。しかしその「問題」の時間的・空間的規模たるや、あまりにも遠大で目がくらみます。しかも廃棄物処理という問題ただ一点に絞ってさえ、このとほうもなさ。

『赤い靴』デジタルリマスター版
ヒロインが愛とキャリアの間で引き裂かれるのに対して、男たちがその点については全く葛藤しないらしいのが腹立たしいことではありました。

『バンド・ワゴン』
ミュージカル映画の傑作に数えられる作品ではあり、アステアの代表作でもありますが、ワタクシは『イースター・パレード』や『パリの恋人』、古い所では『トップ・ハット』あたりの方が好きなのです。

『ヤコブへの手紙』
和解の物語。「赦し」の物語と表現することもできますが、赦す者と赦される者、という二者間一方通行の関係ではないと思うのですよ。

『光のほうへ』
本当は、悪というものは存在せず、ただ「そうなってしまったもの」があるばかりなのです。本当は、全て。
犯罪や暴力それ自体は醜悪なものとして描かれるものの、そこへ至らざるをえなかった背景を丁寧に描き、しかも当事者を悲劇のヒーロー的に持ち上げることはしない。『ヤコブ~』もそうですが、「罪」とその当事者の描き方にうならされる作品でした。

『ヤバい経済学』
軽いノリかと思いきやテーマは非常に重たいものだったりして、その落差がちょっとしんどかった。

『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』
もうひたすら、快作。こんなに面白くて、しかも現代アートについて深く考えさせられる映画というのは他に類を見ないのではないかと。バンクシーをはじめストリート・アーティストたちの戦術や舞台裏も間近に見られて、一粒で何度もおいしい作品。

『エッセンシャル・キリング』
生きる、ということは、生き延びようとし続ける、ということと同義でございます。

『メタルヘッド』
面白くないわけではないのですが、語り方次第でもっと痛快な作品にもなりえたよなと思うのです。そうは言っても「ばあちゃんと散歩」の所で不覚にも泣いてしまいました。

『クリスマスのその夜に』
ベント・ハーメル監督ってけっこうビターな所をビターなままに出して来ますよね。ビターはビター、スウィートはスウィートで別のものよ、という感じがいたします。人間のダメさに対するまなざし、その絶妙な距離感がなんとも。

『パレルモ・シューティング』
今年の見納め作品。去年の見納め作品であった『ソフィアの夜明け』と色々似ているな、と思ったら、去年の『ソフィア~』の記事でブルガリア版『ベルリン 天使の詩』みたいだ、と書いておりました。
死は内在ではない、しかし生の必須条件ではあります。そういう意味で、デニス・ホッパー演じる死神が繰り返す「死は自らの中にある」という言葉は正しいのでございましょう。
「ここに出口はない。私が唯一の出口だ」
「誕生を司る者は喜ばれるが、私は嫌われる。同じことなのに」

以下はDVD鑑賞。

『カラヴァッジオ』『エドワードII』『ヴィトゲンシュタイン』『テンペスト』
はい、デレク・ジャーマン祭りでございます。毎週1本のペースで見たらしまいに疲れました。

『オルランド』
はい、ティルダ・スウィントン繋がりで。あとで気付きましたがサンディ・パウエル繋がりでもありました。
特典のドキュメンタリーも含め、いろいろと面白かったです。

『TATARI』
心霊ホラーは大嫌いなワタクシでも全く問題なく楽しめました。要するに、ぜんぜん怖くないということですね。ホラー映画としてはどうなんだって所ではありますが、作品としてはなかなか面白かったですよ。いやほんと。何で嫌いなジャンルの映画をわざわざ見たのかって。ヴィンセント・プライス風ジェフリー・ラッシュを見てやろうと思って。

『ヒックとドラゴン』
やっと観ました。傑作すぎて何と言っていいのかわかりません。
↓とりあえずご参考までに。
超映画批評『ヒックとドラゴン』97点(100点満点中)
そもそも「友達のドラゴン」というものに弱く、10代前半の愛読書のひとつが『恐竜の飼い方教えます』であったワタクシではございます。そうした個人的な好みを差し引いたとしても、語りといい、メッセージ性といい、アニメーションといい、本当に素晴らしい作品でございます。
もしうまく文章がまとまったら、また別の機会に語らせていただこうかと。

そうそう、そういえば『英国王のスピーチ』についてきちんとした感想を書いておりませんでした。この作品については色々考えたのですが、思い入れが強過ぎてうまくまとめられないのですよ。ひとつ驚いたのは「淡々としている」という感想をよく見かけたり、耳にしたりすることでございました。冒頭からジョージに感情移入しまくって観ていた身としては、ちっとも淡々どころではなかったのですが。

とまあこんな感じでございます。
だらだら書いているうちに今年も残す所3時間をきりました。
では、富める人も貧しき人もよいお年を。

『イケムラレイコ展』

2011-12-30 | 展覧会
冬休みにはベン・シャーン展を観に神奈川まで行ってやろうと意気込んでおりました。
が、来年2月には名古屋市美術館に巡回して来るとを知ってあっさり取りやめ、まあその代わりというわけでもないのですが、三重で開催中のイケムラレイコ展に行ってまいりました。
三重県立美術館/イケムラレイコ うつりゆくもの 2011.11.8-2012.1.22

図書館で借りたカレル・チャペックの『山椒魚戦争』を片手に、例によって青春18きっぷでごとごとと、京都よりも暖かいといいなあと期待しつつ。
米原行き快速の途中で草津線に乗り換え、柘植(つげ)→亀山と進んで行きますと、車窓の風景がずんずんとのどかになってまいります。両側に針葉樹の山が迫る谷あい、映画のワンシーンにもってこいの風情のあるトンネル、風が吹いたら車両がころんと転がり落ちそうな吹きさらしの線路。ワンマン単車両運行で、運転士さんの指差し・声出し確認の声も間近に聞こえます。
意外なほどこぢんまりとした津駅を出て西側の坂をてくてくと上って行くと、看板どおり10分で美術館に着きました。

展覧会情報サイトで名前を見たときはフーン誰だったかいのう、としか思わなかった、イケムラレイコというアーティスト。『芸術新潮』12月号で展覧会場の写真を見て、はたと思い当たりました。ああ、これは「ドローレス」を造った人にちがいない。
5年ほど前になりましょうか、ワタクシがかの心地のいい豊田市美術館を初めて訪ねた時、白い明るい階段の下にたたずんでいた女の子が「ドローレス」でございます。台座も含めてせいぜい高さ140cmほどの異形の少女像、そのわびしいたたずまいは強烈に心を惹き付けるものがあり、作り手の氏名はさておき作品の像/イメージはしかと記憶に刻まれたのでございました。
今はなきサントリーミュージアム天保山での『レゾナンス 共鳴』展でも絵画作品を見ていたことが後で判明したのですが、この時の作品はそれほど心に響くものではありませんでした。

さて美術館にたどり着き、変な導線にとまどいつつも第一室へ。
主にドローイング作品が展示されております。ぶっきらぼうながらもどこかユーモラスな線画の数々、シンプルなものほど魅力的でございました。マチスピカソを引き合いに出すまでもなく、うまい人は一本の線をひいてもうまいもので、シンプルな画面ほど、そうした基本的な技術の高さや造形センスをよく味わえます。
Leiko Ikemura - Past Auction Results

透明感溢れる色彩が美しい風景画(というよりほとんど抽象画)の第二室を抜けると、一転してブロンズやテラコッタの作品が登場いたします。「うさぎ寺」「キャベツ頭」などタイトルはそらっとぼけているものの、台座の上に鎮座しているのは、目鼻立ちのハッキリしない、人とも動物とも、あるいは植物ともつかない異形の者たちでございます。またその形体がいたって有機的であるだけに、ふと動き出しはしまいか、口をききはしまいかと思わしめる奇妙な存在感があり、いずれも可愛らしさとほんの少しの不気味さが共存しております。

目鼻立ちがハッキリしないといっても、例えばブランクーシの新生児眠れるミューズを見てもちっとも不気味とは感じません。それはブランクーシの造形が、それ自体できっぱりと動かしがたく、美的に完結しており、それによって一種の安心感・安定感がかもし出されているから、また鑑賞者である「有機体としてのワタクシたち」のありようと、この上なく研ぎすまされ美的に完結した作品との間に、はっきりとした隔絶があるからではないでしょうか。
それに対してイケムラ氏の立体作品には、完成しているといえば完成している、しかし欠けているといえば欠けている、「ここで完成、でもまだ途中」という何とも奇妙な印象を受けます。そのありようは、時の流れの中で常に変化のただ中にありつつも、今というこの瞬間においてはこの上なく完成されている存在(最善説ではなく、単に「今」が時間軸における突端であるという意味で)であるワタクシたちのありように、ことさら似ております。そのありようの共通性が、鑑賞者に思いがけず鏡を突きつける格好となり、見る者の心をざわつかしめるのではないかと。

てなことを考えつつ次の展示室に入ると、幻想的な色調の油彩画にかこまれて「ドローレス」がたたずんでおりました。

artnet Galleries: Dolores (Einbeinige) by Leiko Ikemura from Galerie Karsten Greve, Cologne

dolore(s)とは一般的な女性の名前である一方、スペイン語で痛み、苦しみ、哀しみを意味する名詞(英単語で相当するのはpain)なのだそうで。↑のサイトではドイツ語の「Einbeinige 一本足」というタイトルになっておりますが。
うつむいた顔、奇妙なヘアスタイル、棒ぐいのような手に、長く垂れたしっぽ。末端のかたちの不鮮明さゆえ、このブロンズの女の子は未完成のまま打ち捨てられたようにも、あるいは長い間地中に埋もれていたために欠けてしまった古代の遺物のようにも見えます。極端に短い両腕を顔の前に持って来て、片手を強く右目(とおぼしき場所)に押し当て、というよりも、めり込ませております。
手首から先を切り落とされたかのような短い腕と、言いがたい哀しみに耐えているようなそのポーズは、グリム童話の中でもワタクシがとりわけ好きな『手のない娘』を連想させます。うかつにも悪魔と取引した父親によって両手を切り落とされた娘は「すりこぎのようになった両腕を目に押し当てて一晩中泣いた」のち、これから先は苦労はさせないから、と引き止める両親を退け、自ら進んで家を出て行くのでございました。
「ドローレス」と「手なし娘」の間に関係があるかどうかはさておき、そのよるべなさ、いたましさ、「世界中から見放された」かのような孤独感と、それでもくずおれることなく、また泣き叫ぶこともなくじっと耐えている内省的なたたずまいは、「手なし娘」さながらの哀しみの強度を持って迫ってまいりまして、何かこう、見ていてたまらないような心地がするのでございました。

山水画風の作品や海を連想させる油彩画を経て、最後の展示室には「ドローレス」と同様に腕の短く頭の大きい、5体の少女像が展示されておりました。しかし彼女たちには「ドローレス」のような沈痛さはなく、夢見るように身を横たえ、うつろなスカートに風をはらませてどこかへ飛んで行く途中、あるいは流れて行く途中の姿ように見えました。その中で唯一身を起こしている像には頭部がなく、何かで満たされるのを待っているかのように、中は空洞でございました。
完成しているけれども完成していない、常にうつろい変わって行く存在を表現するアーティストのひとつの到達点とも見えます。しかしこの到達点も単に時の突端である「今」という場所で見るからそう呼びうるだけであって、イケムラ氏の表現世界はここからなおうつろい、展開して行かれることでしょうし、そう期待しております。

とまあそんなわけで
期待したほど暖かくはなかった三重で、期待した以上に充実した年末の一日を過ごし、オカシイコワイ『山椒魚戦争』を引き続きひもときつつ帰路についたのでございました。
18きっぷでは年内に滋賀県立陶芸美術館へも行ってやろうと画策しておりましたが、寒いわしんどいわで結局とりやめ、年末はおうちでゆっくり過ごすことにしました。
歳をとってますます出不精になりつつあるなあ。

インタヴューwithゲイリー・オールドマン&マーク・ストロング その2

2011-12-26 | 映画
現在、室温6度。

それはさておき
昨日の続きでございます。



10:25から。

悪役にタイプキャストされることについては、そういうのは俳優として避けられないことだけれども、役選びに気をつけることで観客の先入観を緩和できるよとゲイリーさん。言われてみれば2001年の『ザ・コンテンダー』以降、この10年間は悪役を演じていないんですね。その年月の間に、いわば観客の世代交代が行われるというわけです。

そのコメントを受けてソーターさん、アンソニー・ホプキンス、ジェレミー・アイアンズ、アラン・リックマンの名前を挙げて、「ハリウッド映画で英国人俳優が悪役を演じるというのは一種の”名誉ある伝統”のようなものだし、つい最近見た映画の出演者を似たような役にキャスティングしたくなるのは自然なこと。それに長年この仕事をやっている身としては、この5年ほど悪役ばかり演じたからって何も大騒ぎするようなことじゃない」と。

ゲイリーさん、「長年この仕事をしている」という所に反応して「君、『主任警部モース』にチョイ役で出てたよね?」とニッチなご指摘。
感じ入ったようなソーターさんの表情がまたよろしい。この時が初めてのTV出演だったようです。

ちなみにそのチョイ役シーンはこれ。


おお、若い。
若い頃はあんまりかっこよくないソーターさん。
いいのよ。

閑話休題。
役づくりの仕方について、「スタニスラフスキーを読もうとはしたけど...、その役についてリサーチするべきか否かは演じる役柄によるね」とゲイリーさん、リサーチが有効に働いた例として『JFK』のオズワルド役を挙げてらっしゃいます。(17:18)撮影に先立ってオリバー・ストーンから飛行機のチケットと電話番号のメモを渡され、ダラスへ飛んでこれこれの人物に会って来い、そしてオズワルドがどういう人物かを探って来い、と指令を受けたとのこと。

22:15から22:38、ゲイリー・オールドマンがリドリー・スコット監督を演じております笑。
アクション!を言う前からずっとカメラを回し続けるのだそうで。
トーマス・アルフレッドソンはせいぜい2、3テイクしか撮らないのに対して、自分は5回は撮りたい方だ、とゲイリーさん。クリストファー・ノーランとの仕事の時も、予算も使って大通りに照明をつけて、こんな機会はもうないんだからもう一回ぐらい撮っとこうよ、という感じだったのだそうで。『ダークナイト』でジョーカーさんを逮捕するシーンのことでしょうか。

その後は『ティンカー、テイラー、ソルジャー,スパイ』の出来映えをひとしきり褒めたのちインタヴュー終了の模様。ここでゲイリーさんが挙げているクリスマスパーティーのシーンは原作にはないもので、ネット上でレヴュアーの評判もたいそういいシーンですので、ワタクシ見るのをたいへん楽しみにしております。
本作でのソーターさんのヘアスタイル(即ち、かつらスタイル)はそりゃもう最悪ですけどね。
いいのよ。




インタヴューwithゲイリー・オールドマン&マーク・ストロング その1

2011-12-25 | 映画
期待していました。
いつか誰かがこういう企画を実現してくれるんじゃないかと。



いやあ、眼福眼福。
ぜひここにアラン・リックマンとジェレミー・アイアンズも加わっていただきたい所。
ワタクシの乏しいリスニング力では聞き取れない所も多いというのが残念でございます。冒頭の変な固有名詞をめぐる話なんて、話しぶりからするとずいぶん楽しそうなのですが。

1:33の所、インタヴュアーからの質問に「貴方からどうぞ」と肘でゲイリー・オールドマンをこづくソーターさんが何やらとってもツボ。

「こんな素材とハイレベルなキャスト、それにトーマス・アルフレッドソンほど独創性のある監督に恵まれる仕事はめったにない」とゲイリーさん。「この作品のために現在活躍する素晴らしい映画人たちが結集しましたが、みなさん顔見知りでしたか?」という質問には「いや、でもみんなお互いの作品のファンだったね」と。

2:47の所もいいですね。
G「”コントロール”のオフィスは『ハリー・ポッター』の6年生クラスみたいだったよ。みんなあのシリーズに出てたからね。で、君だけが...」
M「この惑星上で『ハリー・ポッター』に出演してない唯一の英国人俳優でした」
G&M(笑)
インタヴュアー「クリス・コロンバスに嫌われるようなことでもしたんですか?」
M「いや、何がいけなかったのか分かりません。何かとんでもない手落ちがあったんでしょう」
G&M(笑)

小説とドラマで長年親しまれたこの素材に取り組むことに対してリスクは感じなかったかという質問に、主役スマイリー(ドラマでの配役はアレック・ギネス)を演じたゲイリーさんは、まあハムレットを演じるようなもので、以前の作品と比べられる恐れはあるが、張り合いもある、と。一方ジム・プリドー役のマーク・ストロングは、最近悪役ばかり演じていたので、プリドーのような共感できる人物を演じられたのはよかったし、リスクやプレッシャーも特になかったとの事。

ひところ悪役にばかりタイプキャストされるていたゲイリーさんと同じ境遇にあるということか、という指摘に対してはソーターさん、「(同じと言っても)私の方はずっと低いレベルですが...」と断った上で、主役には物語を牽引する役割や鑑賞者に好かれる必要があるのに対して、悪役にはそうした制約がない分、キャラクターの個性を表現する余地があって面白いとのお答え。
その流れでソーターさんの新作『ジョン・カーター・オブ・マーズ』と『ブラック・ゴールド』の話も出ておりますね。そして『ブラッド・ダイヤモンド』と『ワールド・オブ・ライズ』を間違えるゲイリーさん(8:15)笑。いわく、マーク・ストロングのことは以前から知っていたものの、『ワールド・オブ・ライズ』(ソーターさんはヨルダンの諜報局長ハニ役)では彼とは気付かず、ハニを演じているのは外国人の俳優だと思っていたので、エンドロールで名前を見て驚いた、と。

コスチュームやメーキャップの助けをかりて変身して、「あの俳優」とは分からないようなキャラクターになって人々を驚かせるのは俳優業の醍醐味だよね、という点で一致した所へ「それがそもそも俳優になった動機ですか?」と尋ねられ、
G「基本的にはね...グラスゴーのパブで飲んでた時、あんたら、なりわいは?って聞いてくる奴がいた。劇場の者だと答えたら奴さん、『ああ、王様やら王妃様やらの格好して金をせびるんだな』だってさ。実際その通りなんだな。I love it.」
うーむ、実にお茶目です。

次回に続きます。

『夢二とともに』展

2011-12-17 | 展覧会
選挙やらヘルペスやらドライアイやら寒さやらルパンやら世の中で起きているもろもろのことやらで気力がすかり萎えきっているうちに師走も半ばとなってしまいました。
王国をやるから馬をくれと言ったのはリチャード三世。
王国も馬もいらないからやる気をくださいと言うのはのろ。
ちなみに馬と王国とどっちかくれるんなら馬がいいですね。
もれなくセシルとウォルシンガムがついてくるんなら王国もらってあげてもいいけど。

それはさておき
京都国立近代美術館で開催中の川西英コレクション収蔵記念展 夢二とともにへ行ってまいりました。

竹久夢二がそんなに好きではないのろではございます。
それはひとえにあの、のっぺりとした瓜実顔に下まつ毛、眉間の広い下がり眉に厚めのおちょぼ口、そして猫背になで肩で「なよなよ」を絵に描いたようなポーズの、いわゆる夢二風美人と呼ばれる人物像にワタクシが魅力を感じないからというだけであって、つまりは単に好みの問題でございます。
まあ、のろごときが好こうと好くまいと、竹久夢二が稀代のデザイナーであることには変わりがございません。本展には冊子の表紙を飾るイラストから油彩画、夢二デザインの装丁や千代紙、はてはうちわに風呂敷まで、個人でよくぞこれだけ集めたものだと感心するばかりのものものが並んでおりました。
上記の理由もあって、ワタクシ絵画作品にはそれほど心惹かれませんでしたが、装丁やイラストに見られる配色、モチーフのデザイン的処理、空間の取り方など、それはもうみごとでございまして、つくづくと見入ってしまいました。

また夢二以外の同時代の作家による作品も多く展示されており、川西氏の確かな審美眼とコレクター魂とを伺わせます。安井曾太郎の版画なんてワタクシ初めて見ました。
川上澄生、山本鼎が見られたのも嬉しいことでございましたが、中でも圧巻の素晴らしさであったのが芹沢銈介の手によるカレンダー(1946年)でございます。
こちら↓の29番をクリックすると全月の絵柄を見ることができます。
芹沢けい介美術工芸館

隅々まで気の入った装飾性と手仕事の温かみ、月を示す漢数字が周囲の装飾の中に組み込まれているという洒落っ気、芹沢独特の鮮やかでありながらも落ちついた色彩。日付を表すアラビア数字のタイポグラフィもいちいち素晴らしい。デザインに重きを置きすぎて見にくいカレンダーというのはままございますけれども、こんなにも装飾に埋めつくされておりながらなお、たいへん見やすく、目に心地よく、じっくり鑑賞するのにも耐える、それどころかいつまで見ていても見飽きないカレンダーというのはすごいではございませんか。生活とともにある美、という民藝運動の理念の、最も美しい結実を見るようでございました。

本展は川西コレクション”収蔵記念展”ということですから、今回展示された品々は今後も常設展示室の方でお目にかかる機会がありましょう。ありがたいことでございます。
京都近美は本展終了後、来年4月まで改修工事のため休館するとのこと。この次に足を運ぶ時には見慣れた常設展示室も様変わりしているかもしれません。


ああ、たったこれだけのことを書くのに何だってこんなにかかるかな。
気力はないし能力もないしこんなのが王国なんかもらってどうするのかって。
有能な家臣たちに政治を任せて自分は趣味に明け暮れるに決まってるじゃないですか。
国庫をすっからかんにしたすえに徽宗さんかルートヴィヒ2世みたいな末路を辿ること必至ですな。
やっぱり馬がいいや。

『ルパン三世 血の刻印』(追記あり)

2011-12-03 | 映画
注意:以下、愚痴のみです。
追記も愚痴のみです。



ルパン三世TVスペシャル製作スタッフの皆様にお願いです。
どうかもう新しい「ルパン三世」は作らないでください。

なおも新作に取り組むおつもりなら、問題は声優にあるのではなく脚本にあるのだということにどうか気付いてください。カリオストロを踏襲するのもいかげんにやめてください。「巨悪を挫いて世界を救い、ついでに可哀想な美少女を助け、結局一文も盗まずに退散するルパン」はもう結構です。
後半で人質になることが見え見えな勝ち気少女に「ルパン先生!」と連呼させることや、ジブリ映画をはじめ他の作品を容易に連想させる台詞やシーンを(オマージュです、という言い訳にも無理があるほどのレベルで)わんさか寄せ集めた展開、そうしたものが面白いはずだと、本気でお思いになったのですか。

(追記1:そもそもオマージュやパロディというものは、本筋にはさして影響のない、いわば”遊び”の部分でやるものでございましょう。『ルパン対複製人間』では1stシーズン『魔術師と呼ばれた男』を連想させる台詞がありましたが、知っている人がニヤリとするぐらいのささやかなものでございます。2ndシーズンの名作『追いつめられたルパン』ではチャップリンの『独裁者』のパロディシーンが長々とございましたが、これは30分の時間を埋めるためのお遊びでもあり、また2ndシーズンの中では比較的シリアスなこの話におけるコメディリリーフでもあり、いずれにしてもストーリーの流れとしては別に必要なシーンではございません。
ところが今回のTVスペシャルときたらいよいよ大詰めという差し迫った場面で、悪役のナントカ社長が「実は私はそこの特別な少女と同じく、コレコレの末裔なのだ!」と重要なぶっちゃけ話をなさったりするわけです。タイミングも設定もあまりにもラピュタ。あまりにも。一瞬、ナントカ社長のギャグかと思いましたですよ。いやむしろその方がよかった。こういうものはオマージュとは呼べませんし、パロディのつもりだとすれば、あまりにも場違いでございます。)

ゲストキャラ少女のお涙頂戴話などいりません。そもそもあの弟子入り少女、ストーリー的に全く必要ないのでは。宝石探しも逃走劇も、ルパンとその仲間がやればいいことではございませんか。ゲストキャラの大活躍など見たくないのです。人々が『ルパン三世』を見るのはルパン三世とその一味(&銭形)のファンだからなのであって、リンダやクラリスやコーネリアのファンだからではないのですよ。いや、まあ、コーネリアは好きですが。
ルパン次元五右衛門不二子ちゃんそして銭形の騙し騙され丁々発止や追いかけっこが『ルパン』シリーズのキモなのであって、ゲストキャラの背景は台詞でさらっと説明するぐらいで充分でございます。『ルパン対複製人間』や『お宝返却大作戦』がそうであったように。ゲストキャラの回想やら何やらを抜きにしたら2時間弱の尺をもたせられないというのですか。ならばどうか3年でも5年でもかけて、盗み&謎解き&追っかけっこメインで2時間弱をきっちりもたせられる、いい脚本を作ってくださいましよ。

少女が登場した時点でもう先の展開が何となく読めてしまう、そんなお話でいいのですか。
少女奮闘、悪役自滅、ルパン人助け。
たまにはお宝をごっそり頂いて大笑いのルパンで締めたっていいじゃございませんか。それじゃ泥棒賛美になるから駄目ですって。そんなの、最後の最後で不二子ちゃんが全部かっぱらって行けばいい話じゃございませんか。それをやっても許されるのが不二子ちゃんというキャラクターでございましょう。逃げる不二子を追いかけて行ったら向こうから銭形登場、Uターンして逃げるルパン、お前のせいだかんなと毒づく次元と五右衛門、まぁ~てぇ~と追うとっつぁん。申し分ない終幕ではございませんか。

(追記2:”お約束”というのは先の読めない展開の中にふと現れるからこそ効果的な、一種の安心要素であり、送り手である制作者と受け手である鑑賞者の間に交わされる目配せのようなものでございます。これだよな、そうそう、これだよ。目配せであるからには一瞬顔を上げてちらっと、というぐらいが適当なのであって、終始真っ正面を向いて「さあウインクするぞ、ウインクするぞ、そら注目、ばっち~ん!どうだい!じゃあもう一丁!」という具合にやられたのでは、受け手としてはげんなりせざるをえません。本TVスペシャルは
ルパン三世としても、あるいは一般的なエンターテイメント作品としてもお約束まみれで、まさに上記のくどすぎる目配せのように、見ていて嫌になりました。
お約束、王道、というものは、味付けしだいで素晴らしい効果を発揮するものでございます。またパターンが決まっているからこそ、それをどう料理するかということが制作者の腕の見せ所なのではございませんか。例えば五右衛門のお約束といえば「またつまらぬものを斬ってしまった」という台詞でございますが、『お宝返却大作戦』では五右衛門が敵のヘリをまっぷたつにして例の台詞を言った直後に、メイン敵キャラの一人であるミーシャがヘリから脱出しながら放った銃弾を背中に受けて、ストーリーの終盤にまで関わる重傷を負っております。これはお約束のパターンを適度にずらし、かつ視聴者がこの敵キャラに対して「こやつ、なかなかできる」と一目置くことに資する見事なシーンでございました。そう、敵ながらアッパレというぐらいの相手でなければ、どんなに派手な死に方をしようとも、そこにはカタルシスもへったくれもないのでございます。)

ルパンに自分探し的な台詞や相田みつを風ポジティブメッセージを吐かせるのもやめてくださいまし。薄っぺらなシリアス演出には心底がっかりします。カッコよくないのですよ、端的に言って。いっそ無茶すぎるガジェットや神出鬼没すぎるとっつぁんといったハチャメチャな展開で押し通して、最後の最後だけぴりっと締める、ぐらいのバランスでもいいのではないでしょうか、と申しますか、現状ではそれ以上のものを期待できません。

あと五右衛門の殺陣がちっともカッコよくないのはどうしたことですか。1stおよび2ndのTVシリーズではいちいちコマ送りしたくなるほどの美しさがあったというのに。敵の用心棒を斬るくだりも「修行が足りない→修行した→斬れた」というあまりにもひねりの無い展開。思わず「は?」と声が出ましたですよ。まあ「女に騙される五右衛門」というこれまたうんざりなキャラクター造形を退けてくだすった点だけは大いに評価したい所でございますが。

それから悪役に魅力がございません。全くございません。
悪役loverののろがもう一度申しますが、全くございません。
大物のオーラもダンディズムも茶目っ気もない、ただ残虐で欲深いだけの悪役ほどつまらないものはございません。そんな奴が最後に怪物化したところで、マモーのような哀愁もなければどうやっても倒せないという緊張感もなく、結局あの穴から一歩も出ないまま自滅。ええ、自滅でしょうあれ。
むしろ冒頭でルパンに盗みを指示した和服のおばちゃんが、終盤までサブ悪役として活躍してくれたらよかったのに。メイン悪役のナントカ社長とはひと味違う、骨董品を愛する矜持ある悪党として、ルパンたちと手を結んだり裏切ったりと三つ巴の展開を見せてくれた方が、可哀想な少女の思い出語りで所々ぶったぎられる劣化版インディ・ジョーンズよりもよっぽど面白かったのではないかと。

何だかんだあって結局最後は超常現象が解決、というアプローチそれ自体が悪いわけではございません。ただ、「それルパンである必要があったの?」という疑問が、話が進むにつれてふつふつと沸き上がってきたのでございます。あっ さり見破られる変装で敵陣に乗り込んで来たり、賢さや機転や常人離れした発想ではなく身体能力だけが突破のカギとなるトラップ(=仕掛けは『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』そのまんま、ただし謎解き要素もタイムリミットも欠落したやつ)に踏み込んでいったり、クライマックスではほとんど役に立たず傍観者の立場に終始する人物が、世界一の大泥棒である必要がどこにあったのかと。

そうした点から見ると、初代ルパンを絡めた最終盤の演出は、唐突ではありましたがなかなかによいものでございました。旅客機はおろか飛行機もろくすっぽ飛んでいなかった時代、船で何十日もかけて日本に来るなんてよっぽど暇だなアルセーヌ、というツッコミもにわかには浮かばないほど、このくだりには『ルパン三世』としての魅力と説得力がございました。そう、どんなに荒唐無稽であろうとも、その無茶さを補ってあまりあるほどの魅力、渋さ、痛快さが『ルパン三世』の醍醐味なのではございませんか。

とまあいろいろ申しましたが
「近年の作品群に比べれば断然マシ」との声もある本作。ワタクシは最も酷かったという過去数年間のTVスペシャルを見ておりませんので、相対的に辛い点数をつけてしまっているのかもしれません。
また本作は40周年記念作品、しかも声優陣が一新ということで、きっと気合いの入った作品を作り上げてくれたことだろう、と(それなりに)期待を寄せてはおりました。その期待を満たしてはくれなかったという失望が、ワタクシをしてかくも長々しい愚痴を吐かしめたのでございましょう。




しはすのたより

2011-12-01 | Weblog
はや師走ですと。

今年は随分色々なことをしたはずなのに、さてと振り返ってみると何もしないでここまで来たような気がするのは何故かしらん。ワタクシができる範囲でちまちまとささやかな行為に従事する一方、世の中ではあまりにも大きなことが起きすぎたからかもしれません。



きっとワタクシを含め同時代の人々は、後世の歴史家たちが反省とともに振り返るぶんには非常に”面白い”時代に生きているのでございましょう。しかし個人的には、いつ死んでも「ああ、世の中がこれ以上悪くなるのを見ずにすんでよかった」と安堵しながら逝けそうな気がする今日この頃ではございます。