のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『ボストン美術館展』3

2013-04-25 | 展覧会
4/22 『ボストン美術館展』2の続きでございます。

さて、目的であった絵巻を見てしまうと、一仕事終わったような心地になりまして、狩野さんの金屏風やら長谷川等伯の竜虎図やらを眺めつつぶらぶらと進んでまいります。
こういう散漫な見方をするのはたいへん勿体ないことでございます。しかし年々歳々、一目見て気に入らなかったものにはそれ以上の時間とエネルギーを費やしたくない、というけちくさい心性が強まっておりまして、パッと見てグッと来なかったものの前ではつい歩みが速くなってまうのでございました。
こういう鑑賞方法は実際、省エネではあるのですが、毛嫌いしていたものを改めて見直すとか、自分からその作品や作者に歩み寄ってみるとか、せめてどうして嫌なのかという点をじっくり考える、という機会をはなから放棄しているということであり、とても誠実な鑑賞態度とは申せません。
いつまでも生きられるわけではないからには、せめて好きなものに時間とエネルギーを集中させるべきか。
あるいは、いつまでも生きられるわけではないからこそ、せめて今目の前にあるものとできるだけ誠実に対峙するべきか。
てなことをうだうだ考えている間に死んじまうんだろうなあ。

さておき。
そんなぐあいでちょっとだれて来た所へ颯爽と、ではなくむしろ飄々と、いとうさん登場。
のろさんがいとうさんと言ったら伊藤若冲さんのことでございます。



いとうさんの生き物愛をひしひしと感じる、なんとも可愛らしい鸚鵡図でございます。
くく~っと立ち上げたトサカの固いような柔らかいような質感もさることながら、尾羽の付け根にふさふさとかぶさる下腹部分の羽の繊細な描写がたまりません。
ボストン美術館はいとうさんの作品もけっこう持ってらっしゃるようで、鸚鵡図といえば、本展には来ておりませんけれどもこんなのもございます。
きゃっ。
もう卒倒しそうな愛らしさ。
やっぱり、いかに華麗でも想像で描かざるをえなかった鳳凰の絵なんぞより、実物の観察に基づいたこういう作品の方がずっと魅力的だと、ワタクシは思いますよ。

今回来日しているのはこの一点だけかと思いきや、何と珍しい、人物画(羅漢図)があるじゃございませんか。

しかし主役の羅漢たちよりも、添え物である木の描写がのびのび&独特すぎて、ついそちらの方に目が行ってしまいます。
いとうさん、絶対人物よりも楽しんで描いてるでしょう。わかりますよ。

後半の展示品の中では、宗達派の絵師による『芥子図屏風』も印象に残りました。
これが左隻、こっちが右隻
金地の背景にポポンポンポンと心地いいリズムで芥子の花が立ち上がり、赤、白、緑のミニマルな装飾性が醸し出す味わいは、セリのおひたしのように爽やかでございます。
あまりにも後味爽やかなので、いっそこのまま帰りたい所ではございました。ところがどっこい、この後には怒濤の蕭白部屋が控えているのでございます。

さあ、東の蕭白、西のルーベンス。
何の番付かって。
「すごいけど好きじゃない画家番付」でございます。ちなみに大関は梅原龍三郎とウィリアム・ブレイクあたり。
それでも中盤あたりで鑑賞できたら、もっとじっくり向き合う気になれたと思うのですが、今回はそろそろほうじ茶でしめたいタイミングでビーフストロガノフ バターライス添えを出されたような心地であり、ぐったり疲れて早々に退散してしまいました。
大作ぞろいだったのに、なんてもったいない。こういうことをすると5年越しくらいでじわじわと後悔が押し寄せるんでございます。そうはいっても、あの押しが強くアクも強くケレン味も強い作品群にぐるりを囲まれるのは、おしくらまんじゅうの中心でぎゅうぎゅう押しまくられるような感じで、なかなかにしんどかったのでございますもの。

そんなわけで
例によって昼食抜きで夕方まで入り浸っていたわけでございますが、気分的には芋粥をよばれた五位のごとくお腹いっぱいで、とはいえ五位とは違って幸福な満腹感とともに美術館を後にし、食後酒代わりにピーター・バラカンさん著『ラジオのこちら側で』を読みつつ、いい気分で帰路についたのでございました。



『ボストン美術館展』2

2013-04-22 | 展覧会
BBC World Service でボストン爆破事件の続報を聞いておりましたら、ウォータータウン在住の記者が「これは普通の発砲(ordinary gun shooting)ではないと思って外に飛び出し...」と言っておりまして、ああ、アメリカには「普通の発砲」と「普通じゃない発砲」というのがあるんだなあと、ぼんやり思ったことでございました。


それはさておき
4/19 『ボストン美術館展』1の続きでございます。

大阪市立美術館は、ワタクシがあまり足しげく通う美術館ではございません。
ロケーションにも建物にもいまいち馴染めず、地下鉄の空気も苦手なため、行き帰りだけでなんだか疲れてしまうからでございます。
そんなわけで、大規模な展覧会があっても、よほど魅力的なものが出ていないかぎりは足が向きません。
本展におけるよほど魅力的なものとは何だったかと申しますと、『吉備大臣入唐絵巻』と『平治物語絵巻 三条殿夜討巻』でございます。
冒頭の仏教美術セクションが終わった所で、満を持してのご登場。

小さい画像ですが、展覧会の公式HP↓で絵巻の一部(解説付き)をスクロールで見ることができます。
第二章 海を渡った二大絵巻|特別展 ボストン美術館 日本美術の至宝

いやっ
もう、
すごかったですよ。
何がすごいって、7世紀以上の時を経ても色あせない娯楽性と芸術性がでございますよ。
娯楽要素が強いのは『吉備大臣入唐絵巻』の方でございまして、登場人物のユーモラスで生き生きとした表情や動作は、まるっきり漫画でございます。ご老体がエッチラオッチラ階段を上がるのを手伝っている人物には「さあ爺さん、上がった上がった」、口を開けて眠りこけている従者には「ムニャムニャもう食えません」てな感じで、思わず吹き出しをつけたくなります。

楼閣の上に閉じ込められた吉備真備の前に表れる幽鬼(どう見ても赤鬼)が実は先輩遣唐使である阿倍仲麻呂の亡霊でした、という展開は、ちょっと仲麻呂さんが可哀想すぎるような気がいたします。でもまあ、その後は吉備大臣を助けて超能力ばんばんの大活躍をなさいますから、まず当の仲麻呂さんも絵師たちをたたったりはなさらず、草葉の陰で苦笑いするくらいで許してくだすったことでしょう。
いつの時代であろうとも、主人公のサポート役というのはなかなかおいしいポジションでございますもの。

笑いどころ満載のこの絵巻において、ワタクシにとって一番ツボであったのは、唐の偉いさんたちから与えられた難題を吉備大臣が楽々とクリアしたために「帰り道で驚きのあまり自ら傘を持ってしまう使者」でございました。
キャプションがなければ気づかない所ではございましたが、確かに少し前の、吉備大臣のもとを訪れた場面の絵ではこの使者殿、大きな日傘を従者に持たせているんでございます。それが帰り道では使者自らが傘をさし、呆然のていでぽくぽく馬を進めております。

ちなみにこんな絵。



いえ、もちろん吹き出しはありませんでしたが。
おそらくは傘持ち係だった従者の「えっ俺どうしたらいいの?」と言いたげな表情もナイスでございました。

さて”吉備大臣の大冒険 ☆ in China”の絵は内容に即してわりとユルめであるのに対し、『平治物語絵巻』の方はそりゃもう文句なしのうまさでございます。黒をたくみに配する引き締まった色彩センス、場面の緩急、自然な群像表現、当時の風俗を伝える精緻な描写、まさに国宝級というやつでございます。国宝なるものがどういう基準で選ばれているのかは存じませんけれども。

とりわけ燃え上がる三条殿の表現は圧巻でございました。
国立国会図書館のサイト↓で全巻見ることができます。かなり拡大できます。

国立国会図書館デジタル化資料 - 平治物語〔絵巻〕. 第1軸 三条殿焼討巻

絵巻物なので場面は右から左へと展開してまいります。
事件を聞きつけて、左へ左へと馳せ参じる牛車や検非違使や野次馬たち。実際の事件が起きてから絵巻が描かれるまでに、約100年の隔たりがあるのでございますが、不安げな視線を交わす人々や、飛ばされないように烏帽子を抑えて走る人物など細部の描写には、報道写真のような迫真性がございます。
激しい動きを伴って右から押し寄せて来た群衆は、画面左端に表れた規則的な縦のラインと涼やかな緑色の御簾によっておだやかにせき止められ、事態は一旦落ち着くかに見えます。


© 2012 Museum of Fine Arts, Boston

...と、画面の左上に、かすかな白い煙と火の粉が。
続いて炎の先端がちろちろと桧皮ぶきの黒い屋根の上を這い回ると見るや、その黒色はたちまちもうもうと吹き上げる煙の黒と混ざり合い、気づけば画面はもう半分以上が炎と煙とに覆われております。さらにその炎煙の下では武者たちが火の粉をかぶりながら、馬上で矢をつがえたり、逃げ遅れた官人の首を切ったり、隠れている者はないかと床下を覗き込んだりと、生々しい襲撃シーンが繰り広げられております。

さらに左へ進みますと、火の粉まじりの赤黒い煙と爆発のような激しい炎が建物を舐め尽くして地獄絵図のような様相を呈してまいりまして、おいおいこれどう収拾つけるのよ、と不安になって来た頃合いにふと炎がとぎれ、漂う黒煙の中からダダっと駈け出て来た二人の騎馬武者が左方向への推進力を引き取った所で、火事の場面は終わり。
炎や煙の向きから、風が左から右へと吹いていることが分かるので、ここで炎が急に途切れることには何の違和感もございません。
クライマックスで吹き荒れる炎の激しさは、武者たちや逃げ惑う女房たちの騒然とした動きに引き取られつつ次第にフェイドアウトして行き、拉致された上皇の牛車をかこむ群像によって今一度、やや穏やかな盛り上がりを見せた後、黒馬に乗った一人の武者(源義朝?)へと自然に集約して終幕を迎えます。
なんと見事に構築されたスペクタクルではございませんか。
引いて見ても寄って見てもすごいの一言。まさに至宝というべきでございましょう。

また保存状態が素晴らしく、つい最近描いたかのような鮮やかさは驚くばかりでございます。大正12年(1923年)に売りに出されるまでは、どこの誰が所蔵していたのか確実には分かっていないようですが、昭和7年(1932年)にボストン美術館に購入されてからは、同館で適切に大切に保存していただいているようです。しかしこの大傑作に9年も買い手がつかなかったとは。その間に変な所へ流れて行ったり、「死んだら一緒に棺桶に入れてくれ」なんてことを言う個人の蔵に収まってしまわなくて、本当によかった。
ブログ等を見ますと「日本に返してほしい」というご感想をしばしば見かけますけれども、別に強奪されたわけではないのですから、「返して」というのはちょっと違うのではないかしらん。


次回に続きます。

『ボストン美術館展』1

2013-04-19 | 展覧会
大阪市立美術館で開催中の特別展 ボストン美術館 日本美術の至宝へ行ってまいりました。

狩野派も曾我蕭白もさして好きではないワタクシにとっては、見どころが前半に集中した展覧会でございました。
しかしその傑作密度の濃いことといったら。

まずのっけから、本展の目玉のひとつである『馬頭観音菩薩像』が三面六臂に憤怒の形相でお出迎えくださるわけです。仏画のよさがあんまりわからないのろさんにしても、これはもうBOSSの名作CMのごとく「ガツンと!」来るものがございましたとも。



描かれたのは平安時代末期とのこと。貴族社会の趣味を反映してか、真っ赤な身体に恐ろしい風貌でも、荒々しい印象はございません。
菩薩の顔や身体をふちどる強靭な輪郭線に対して、光背や蓮台や衣の装飾はなんとも繊細優美で、剛柔併せ持つ荘厳さを醸し出しております。強いシンメトリーを手や足の表情でわずかに崩しつつ、菩薩の胸部を中心として何重もの円を描くよう配慮されたポーズや、赤・金・緑を効果的に配した色彩のバランス、どこを切り取っても画工のセンスと力量の高さがほとばしる傑作でございます。

そのちょうど向かいに展示されていた、平安~鎌倉時代作の『毘沙門天像』もたいへん結構なものでございました。
炎をなびかせ衣をひるがえし邪鬼を踏んづけて颯爽と立つ、いわゆるドヤ顔の毘沙門さんも、一人一人個性的な顔立ちをした取り巻きの夜叉たちも、表情豊かで面白い。向かって左下の吉祥天はまあ普通の、無個性な美人さんでございますが、夜叉たちは身近な人をモデルに描いたのではないかと想像されるほど個性豊かで、愛嬌がございます。
絵本『かいじゅうたちのいるところ』でモーリス・センダックがしたのと同様に、約700年前にこの作品を手がけた絵師もまた、何食わぬ顔で親戚のおじさんやおばさん、あるいは同僚の顔を化け物風にアレンジして描いたのかもしれないと思うと、祇園精舎の鐘がごんごん波の下にも都がございますぼちゃんぼちゃんでいいくにつくろうの時代もぐっと近しく感じられるのでございました。
腰紐が蛇だったり、居眠りしている奴がいたり、踏んづけられた邪鬼が困り顔をしていたりといったディテールも楽しい。装束や持ち物にはそれぞれ象徴的な意味があるのかもしれませんけれども、そうした仏像ウォッチングの知識がなくても、充分楽しめる作品でございました。

さて仏教美術が続きます。
狩野さんたちの良さが分からないのと同じくらい、金ぴか大耳しもぶくれな仏さんのありがたさもいまいち分からない、ばちあたりのろではございます。しかし、なんだなんだこれはやけにイイじゃんかと遠目にも惹き付けられ、寄ってみたらば快慶の作でございました。

Miroku, the Bodhisattva of the Future -Kaikei, Japanese, active 1189?1223 | Museum of Fine Arts, Boston

衣の表現の流麗なことといったら。少し身体から浮かせてあるあたりがニクイではございませんか。また肩から腕にかけての写実性がものすごく、特に右腕は今にも動き出しそうでございました。
ほんの少し反らした指先、ほんの少し踏み出した右足、緩やかなS字を描く体躯、いやもう気品の極みでございます。色々な角度からじっくり見られるよう、独立した展示ケースに収められているのも嬉しい。
「現存作品中で最初期の作品」なのだそうで。最初期というのが何歳ぐらいのことなのか分かりませんが、こういうのを見ますと、やっぱり天才ってはじめから天才なんじゃろうなあと思わずにはいられません。


次回に続きます。

『交差する表現』展2

2013-04-09 | 展覧会
何故だかよく解りませんが、急に他HPへのリンクが貼りづらくなりました。
とりあえず、リンクできないものはアドレスを本文中にそのまま記載することといたします。

というわけで
4/4の続きでございます。

4階は京都近美のコレクションのみで構成されておりまして、よくここでお目にかかるおなじみの面々から-----他の作品とのバランスがとりにくいためかはたまた収蔵庫から出すのが大変だからか-----、普段あんまりお見かけしない作品まで、おのおの個性的な顔を並べておりました。

通常は写真と版画が並んでいる中央の展示室では、中央の分厚い仕切り壁は取り払われ、もともと白一色の壁は暗めのグレーに塗り直され、薄暗い室内で、個々の作品がスポットライトで照らし出されており、いつもとかなり違う雰囲気の中でジュエリーやガラス作品を鑑賞することができます。ト音記号のように優美な曲線を描くブローチを、分厚いアクリルの台に置いて、下に映るシルエットまで鑑賞できるようにしてあるなど、まことに心憎い演出でございます。

ペーパーウェイトのコレクションが展示されていなかったのはちと残念でしたが、ワタクシが近美収蔵のガラス作品の中でもとりわけ好きなマリアン・カレル(http://www.mariankarel.cz)の『立方体』(アーティストのHP左端の項目”SKILO”→左から3列目・上から3番目の画像)と『ピラミッド』(同ページ『立方体』のすぐ下)を普段とは違う光の中で見られたのは嬉しいことでございました。いつもならばかたちそのものストイックさとは裏腹に、周囲の光を惜しみなく受け入れては虹色の豊かな表情を見せてくれるこの二作品、今回の展示ではダークグレーの壁や展示台に光を吸収されて、輝きは最小限に抑えられ、神殿のような荘厳さを醸し出しておりました。
逆に今回の展示で印象深かった作品が、この次、明るい光のもとであった時に、どんな表情を見せてくれるかも楽しみな所でございます。

さて70年代以降の作品になりますと、鞄や革ジャンを型取りしてそのまま焼いたらしい陶芸作品に、『唇のある靴』やら『色ぐすりをかけたハムつきの選りぬき肖像写真』やらと、ユニークで人を食ったような作品が多くなり、時代の推移というものを感じさせる所でございました。そして上記の作品などと比べると「八木一夫とか堀内正和のユーモアって粋だよなあ」と改めて思ったことでもございました。堀内正和は残念ながら本展では見られませんでしたけれどね。

ピエール・ドゥガン作『木製のカヌー型手袋』あたりまではるばるやって来ますと、もはや工芸とは美術とは何ぞや、という問いかけも、しゃちこばりすぎてあほらしいような心地がしてまいります。
友禅の掛け軸や七宝の煙草入れから始まって、振り返ってみれば随分遠くへ来たもんだ、としみじみいたします。
ならばこれからはどこへ向かうのか、という点はとりわけ示されないまま、鑑賞者は放り出される恰好になりますが、これはこれでよかろうとワタクシは思います。「これから」の方向性を示すのは必ずしも美術館の役割ではなく(もちろんは示してくだすっても結構ですが)、むしろ期待や反発や構想というかたちで、鑑賞者おのおのに委ねられているものではないかと。

最後にもうひとつ、本展で面白かったことを。3階から4階へ向かう階段前のスペースに、過去の展覧会のポスターがずらりと展示してあるんでございますよ。
おやまあココシュカ展なんてやったのか、モランディ展はもう1回やってくれよう、『COLORS ファッションと色彩』は楽しかったなあ、『痕跡』展は刺激的だったっけ、中でも一番の衝撃はちっちゃいパネル展示の榎忠さんだったけど、おおお何でヨハネス・イッテン展に行かなかったんだのろさんのばかばかばか、カンディンスキー展は2002年だったかあ、石澤アナの『日曜美術館』に池辺さんの『N響アワー』、思えばいい時代だった...いようモホイ=ナジ!...
とまあ、ワタクシがこちらに来る前に開催されたらしい数々の展覧会に思いを致し、また行ったもの、行かなかったもの、行きそびれたものなどなどを振り返り、しみじみとしたわけです。
ポスターを見ただけでも、会場の様子や印象深かった作品のことがさあっと脳裏に浮かんでまいりまして、かくも多くの出会いを提供してくれた近美に感謝しつつ、これからも長く思い出に刻まれるような展覧会を開催していただきたいものだと、期待を新たにしたことでございました。


『交差する表現』展1

2013-04-04 | 展覧会
「甲状腺異常」全国に広がっている ゲンダイネット

米国西海岸5州でも2011年3月17日以降に新生児の先天性甲状腺機能異常が過剰発生 - 原発問題

疑われる被ばくの影響 岩手県で脳卒中5倍以上に 税金と保険の情報サイト


さておき。

京都国立近代美術館で開催中の京都国立近代美術館 開館50周年記念特別展 『交差する表現---工芸/デザイン/総合芸術』へ行ってまいりました。

いやあ
開館50周年大感謝祭・コレクション大放出+α・夢二もあるよ!
てな感じでございまして、予想以上に見ごたえがございました。近美のコレクションをたいがい見慣れたつもりでいたのろさんも大満足でございます。

「工芸に焦点をあてた特別展」と聞いた時は壷やら皿やら籠やらばかり並んでいる光景を想像いたしましたが、蓋を開けてみれば壷やら皿やらはほんの一部でございまして、オブジェ・家具・テキスタイル・版画・テーブルウェア・建築・壁紙・ジュエリー・その他商業デザインと、バラエティに富んでおります。
作品の年代も1893年(明治26年)作の平安神宮建築図面に始まり、夢二の千代紙やウィーン工房のコーヒーセット、散歩するザムザ氏やじっと黙ってたたずむハンス・コパーの壷、それに1980年代の突飛なジュエリーやガラスオブジェの数々を経て、人間国宝北村武資氏による2010年作の古代織まで至る、それはもう幅広いものでございました。

これだけ広範囲なものを一堂に並べてあっても、バラバラの寄せ集めという感じがしなかったのは、巧みな展示構成ゆえでございましょう。作品をただ年代順に並べたるだけではなく、作品同士、そして前後のセクション同士が緩くつながりを持つよう配慮された展示というのは、あるいは基本的なことなのかもしれません(ワタクシは博物館学を勉強しなかったので実際の所は存じませんが)。そうだとしても、本展のように射程が広く、散漫にもなりかねない展示を、アクセントを挟みつつスムーズに見せる構成に仕上げられたのは、美術館の力量というものでございましょう。
おかげさまで工芸という大きな括りの中で、素材・技法・概念におけるグラデーションを辿って行く小旅行のような体験をすることができました。

ただ、ですねえ。
京都近美がなぜか個々の作品に解説をつけたがらない美術館であることは、もはや諦め気分で承知しておりますけれども、素材や技法の表記まで省略してしまうというのは、甚だ納得がいきません。出品リストの方に書いてあるのかと思いきや、それもなし。
何だってんです。ゆくゆくは作家名や制作年代の表記も引っ込めてしまうおつもりでしょうか?
よけいな情報を頭に入れずに自分の感性だけを頼りに鑑賞してほしい、という館側の意図なのかもしれませんが、手描きか木版か銅版かぐらいのことが記してあっても、別に鑑賞の妨げにはならないと思いますよ。むしろ今回展示されているジュエリーなどは、かたちだけでなく素材の意外性・革新性も面白いところでしょうに。
京都近美はワタクシ大好きな美術館ではあります。しかしライトユーザーに対して不親切と申しますか、「解る人だけ解ればいいんだよ」という排他的な姿勢を感じることが少なからずございます。客に媚びろというつもりはございませんが、美術ファンの裾野を広げようという気はないのかしらん、とは常々思う所でございます。

まあ文句はこれくらいにいたしまして、印象深かった作品などを挙げてみますと。
やっぱり八木一夫作品がどれも面白うございましたよ。独特の「抜け」感と申しましょうか、深刻になりすぎない感じがよろしうございますね。
それから越智健三氏の金工(たぶん)によるオブジェ『植物の印象』は、上へ上へと向かうシャープな動きと、ふわりと空中に留まる軽やかな浮遊感のバランスがなんとも素晴らしい作品でございました。遠くから見た時は、植物というよりも、どこにもない場所へと飛び立とうとする船かと見え、ハッと心を掴まれました。

さて、のろさんがあの世で出会ったらとりあえず手を合わせて拝みたい人リストには、ウィーン工房のコロマン・モーザーとヨーゼフ・ホフマンの名前が並んでいるわけでございます。本展ではそのヨーゼフ・ホフマンがデザインした家具やテーブルウェアも展示されておりまして、中でも白磁(たぶん)のコーヒー・セットは感涙ものでございました。

かたちはこれ↓と同じものですが、展示されていたものには黒いラインはなく、よりいっそう清楚な趣きでございます。

Mud Babies
Fine arts, porclain/china, coffee cup, milk jug, mocca cup, design by Josef Hoffmann 1870 - 1956. INH-543066 � INTERFOTO

模様ひとつない白磁の肌にうっすらとつけられた縦方向の溝、上下対照の取っ手、ペトリ皿のように寡黙で慎ましいソーサー、いやもううっとりでございます。カップもポットも中央がほんの少しふくらんでおりまして、古代ギリシャ建築の円柱が連想されます。個人的な好みを申せば、ストンとした取りつく島のない円柱形でもよかったと思うのですが、この柔らかなふくらみのおかげで、それ以外の点では禁欲的なデザインのこのコーヒーセットに、おっとりと優しい雰囲気が醸し出されております。この繊細な膨らみは、無愛想な大量生産品でもなく、お高く止まった超高級品でもない、普段使いの美を目指したウィーン工房の理念に沿った、暖かみのひと匙とも申せましょう。


次回に続きます。