のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

カルマジーノフ

2006-10-28 | 
本日は
ツルゲーネフの誕生日です。(1818年 新暦では11/9)  おめでとうございます。
明後日は
ドストエフスキーの誕生日です。(1821年 新暦では11/11)  おめでとうございます。

ツルゲーネフとドストエフスキーといえば、『悪霊』 でございますね。

ドストエフスキーは長編『悪霊』の中に、西欧かぶれの文学者カルマジーノフなる人物を登場させております。
この人物は、ツルゲーネフの戯画でございます。
ドストさんの筆はいたって辛辣です。
こんな具合に。

こういう中どころの才能しか持ち合わせないくせに、存命中天才扱いをされる先生がたは、たいてい死んでゆくと同時に、世間の記憶から跡形もなく消えてしまうのはまだいいほうで、どうかすると、まだ生きているうちから、新しい世代が生長して、大家連の活動していた時代に取って代わるが早いか、不思議なほど早く人から忘れられ、度外視されてしまうものである。・・・またこうした中どころの才能を持った先生がたが、年功で尊敬される人生の下り坂にかかる頃には、普通、自分でもまるで気のつかないうちに、意気地なく書きつくして種切れになるのは間違いのない話である。久しい間、きわめて深い思想を抱いているものと信じられ、社会活動に対する大きい真面目な影響を期待された作家が、とどのつまり自分の根本思想の稀薄で瑣末なのを暴露し、意外に早く種切れになったからといって、だれひとり惜しがってくれない、というようなことも、往々にして見受ける習いである。ところが、かしらに霜をおいた老作家はそれに気がつかないで、腹を立てている。彼らの自負心は、まさにこの活動の終わりに近い頃、ますます大きくなっていて、時としては、驚嘆を禁じ得ないことさえある。いったいこの連中は、自分をなんと心得ているのか知らないが、少なくとも神様くらいには思っているのだろう。 
ドストエーフスキイ全集 9 悪霊 米川正夫訳 1970 河出書房新社 p.81

カルマジーノフが『メルシィ!』という作品を朗読し(ツルゲーネフ作『足れり!』のパロディー)、
聴衆から大不興を買うという場面まであります。

同時代で交流もあった作家を、ここまで露骨にこきおろしかつおちょくる、というのは
はなはだ大人げない感じもいたしますが
ドストさんに「大人げ」だの「分別」だのいうツマラナイものを期待するのがそもそも間違いかもしれません。
だって
ぎらぎら輝く悪と
嬰児のごとき無垢と
その間でのたうち苦しむあこがれ
を体現したキャラクターたちこそが、ドスト氏の真髄ではございませんか。
なんつって。

『悪霊』は、話が終わる頃には主要登場人物のほぼ全員が死に絶えているという
大筋だけ見るとなんとも陰鬱な小説でございますが
どっこい、笑いどころが大変多うございます。のろはゲラゲラ笑いながら読みました。
カルマジーノフ氏も、本作の喜劇性におおいに寄与しておいでです。
ツルゲーネフは「死んでゆくと同時に、世間の記憶から跡形もなく消えてしまう」ことはございませんでしたが
こんなかたちでまで後世に残ろうとは、予想もしなかったことでございましょうね。


*『悪霊』に笑いどころが多いと言うのは、あくまでのろの個人的な感想です。
「つまらなくて、中盤まで読むのが苦痛だった」というご意見もまま目にいたします。
いずれにせよ、『悪霊』はドスト氏の作品中、のろが最も愛好する作品です。
その喜劇性においてではございません。
無垢なる無神論者にして世界を愛する自殺哲学者、キリーロフがいるからでございます。

すみません

2006-10-27 | 音楽
ご紹介できるような面白いネタが無いんでございます。
いつも面白くないって。まあそうなんですが。

某N氏の話だったら たんまり あるんでございますがね、ええ。
今月はもう2回もヤツ話をしてしまいましたので、自粛いたそうかと。

しかたがございませんので
クラフトワークのアルバムコンピューター・ワールド のライナーノーツから
IT'S MORE FUN TO COMPUTE のすてきな歌詞でもご覧下さいませ。




これだけなのですよ。
素晴らしいですね。
感動いたしました、のろは。
律儀に訳をつけてくれているのが、またよろしうございますね。
まあ他の曲もおおむねこんな感じでございまして
NUMBERS なんて、ひたすら1から8までの数字を連呼しているだけなんでございます。
そのほか
♪ 僕らはロボット 僕らはロボット ♪ とか
♪ つーる ど ふらーんす つーる ど ふらーんす ♪ とか
♪ アウトバーンを 走るよ 走るー アウトバーンを 走るよ 走るー ♪ といったぐあいで

キャパシティの狭いロボットみたいな所が、とっても素敵でございますね。

♪ みゅーじっく のんすとーっぷ  みゅーじっく のんすとーっぷ ♪

『カポーティ』

2006-10-23 | 映画
地獄の蓋を開けて
上からのぞき込んでいるはずだったのに
気がつくと自分自身が地獄のただ中に立っていた
そんな作家のお話です。

『カポーティ』を観てまいりました。
ソニー・ピクチャーズ - カポーティ

!WARNING!以下、映画の内容に触れています。かなり触れています。浜村淳です。さてみなさん。



まずもって、10月14日の15:00から京都シネマで本作をご覧になっていた皆様に、わたくしは謝らねばなりません。
ペリーが絞首台から吊るされた瞬間、盛大に咳をしてしまったのはわたくしです。申し訳ございませんでした。
あの瞬間、ペリーの、この世への愛惜と悔恨、そしてカポーティの、ペリーに対する愛惜と悔恨、その他言葉にならぬ諸々の感情がいっぺんに胸に押し寄せて来て、息が詰まったのでございます。

映画『カポーティ』は、『ティファニーで朝食を』などで知られる作家トルーマン・カポーティが、文学史上に残る傑作『冷血』を完成させるまでの数年感をつづったものです。ごく押さえられた演出で、見かけはあくまで淡々と。しかし同時に、悪が生まれ、それが実行されるさまをつぶさに描いた、むしろ凄絶な物語でもあるのです。
殺人犯ペリーが捕われた「暴力」という悪。否、それよりも、カポーティが我知らず捕われた「エゴイズム」という悪の物語です。



華やかなパーティに明け暮れる人気作家カポーティ。ある日、片田舎の町で起きた一家4人惨殺事件の記事に興味を引かれ、幼なじみで作家志望のネル・ハーパー・リー(「アラバマ物語」の作者)を伴って取材へと赴きます。
舌足らずの甲高い声で話し、なかなかに鼻持ちならない態度のゲイの小男に、田舎町の人々は冷たい視線を投げ掛けます。その視線をひしひしと感じながらも、彼と違って「まとも」なハーパー・リーの協力と、彼自身の、人の心を捉えるたくみな話術によって、カポーティはしだいにより深い情報へと触れて行きます。

ほどなく、別の町で2人連れの犯人が逮捕されます。
当初は「犯人が捕まるかどうかはどうでもいい、事件が町の住人に与えた影響を知りたいんだ」と言っていたカポーティでしたが、犯人の1人でネイティブ・アメリカン・ハーフであるペリー・スミスの中に、彼にとってなじみ深い2つの感覚-----疎外感と深い孤独-----を見いだします。
この時から、作家の高揚と苦悩の6年間が始まるのです。

「例えて言うなら、僕とペリー・スミスとは同じ家で育ったようなものだ。ある日彼は裏口から出て行き、僕は表玄関から出たんだ」

不幸な少年時代を抱えた性的マイノリティであるカポーティ。
孤児院で育った人種的マイノリティであるペリ-・スミス。
共に、母親は彼らが子供の頃に離婚し、男性との遍歴を重ね、アルコール中毒に陥った末に自殺しています。
カポーティは、ペリーが首まで埋まっている強烈な孤独と疎外感を、単なる同情ではなく自らの体験として知っています。
その上で、この”共有する孤独感”を、ペリーから話を引き出すために利用します。

2人にいい弁護士をつけてやり、死刑執行を先に延ばす一方、ペリーが最も求めているもの即ち愛情を要所要所で小出しに与える、その手段とタイミングは絶妙です。さもあらん、カポーティ自身、身をもって知っているのですから。孤独で絶望に陥っている時に何が一番「効く」のかを。

作品を書き上げるために、いわば地獄に糸を垂らしてやり、すがりつくペリーを利用する。
その利己性をハーパー・リーやパートナーのジャック・ダンフィーはそれとなく指摘しますが、カポーティ自身は、彼の行為に醜悪なエゴイズムが含まれていることに、全く気付きません。
というのも、この画期的な作品を何としても書き上げたいという、作家としてのエゴイスティックな欲求があることも真実なら、ペリーへ寄せる共感や親愛の情もまた、人間カポーティとして嘘偽らざるものだからです。

劇中のカポーティはいろいろな場面で「僕は嘘なんかつかない」と何度も口にします。
嘘はない、しかし、作家カポーティと人間カポーティの間に、大きな矛盾があるのです。
その矛盾はのちにあらわになり、激しいジレンマとなってカポーティを襲います。

ペリーの話しをもとに書き進められる『冷血』は、雑誌掲載時から大好評を博します。
しかし獄中のペリーに、カポーティは言い続けます。まだ何も書けていない、タイトルすら決まっていない、君が事件の夜のことを話してくれないんだもの、書きようがないだろう?・・・
4年に渡るインタヴューの間、ペリーは、カポーティがどうしても聞き出したい「あの夜」のことについてだけは固く口を閉ざしていたのです。

作家は賭けに出ます。
君がどうしても嫌なら、あの夜のことは話さなくてもいいよ。僕は君と友達になりたかっただけなんだ・・・
最後の一押し。心を許したペリーは、とうとう語り始めます。

あの夜、子供の頃から少しずつ彼の心に溜まって行った「悪」が、見ず知らずの一家を惨殺するという恐ろしいかたちで発露するに至った、その経緯を。

「あの人に手出ししたくはなかったんです・・・あの人たち(被害者のクラッター一家)はおれを傷つけたりはしなかった。ほかのやつらみたいには。おれの人生で、ほかのやつらがずっとしてきたみたいには。おそらく、クラッター一家はその尻拭いをする運命にあったってことなんだろうな」『冷血』p546 佐々田雅子訳 2005 新潮文庫

こうして肝心かなめの「あの夜のこと」までも、作家の手に入りました。『冷血』が空前の傑作になることは、もはや保証済みです。
ここに至って、ずっと無視されてきたあの矛盾がカポーティに牙をむきます。

作品が完成を見るには、当然、結末が書かれねばなりません。
そしてこの場合の結末とは即ち、主人公である犯人2人の死刑執行に他なりません。

癒しがたい孤独を共有する人間として、ペリーに愛情を抱きながらも、作家としてはこの「友人」を冷徹に利用しつづけたカポーティはついに、作家として、「友人」の死を望まねばならない所まで来てしまったのです。
それと知らずにカポーティが振るっていたエゴイズムという剣は、今さら鞘に収めることもできず、今やカポーティ自身を切りさいなみます。

「結末を書きたいのに、結末が見えない」
ほとんどノイローゼ状態のカポーティ。面会に行くこともなくなり、上告のための弁護士を見つけてほしい、というペリーの手紙には「残念ながら見つからなかった」と即答します。
それでも2人が上告して、死刑がさらに延期されると「彼らが僕を苦しめる」とはなはだ身勝手な文句を垂れます。最初の判決のあと、数週間で執行される予定だった2人の死刑を今まで先延ばしさせたのは、他ならぬ彼自身だというのに。

先には利用し、今ではその死を祈っている。
人の命をもて遊んではばからないエゴイズムに、カポーティ自身はまだ気付きません。あるいは、意識的に目をそらし続けます。死刑執行の、ほんの数分前まで。

最後の最後になってカポーティは、2人の死刑が確定して以来ずっと避けてきたこと-----2人との面会へと赴きます。
あと数分で絞首台からぶら下がる「友人」を前にして、カポーティは取り乱します。
愛情を抱きながらも、むしろ作品のソースとして利用したこと。
友人顔で2人の刑死を先延ばしにした末、結局はそっと後押ししたこと。
彼自身のなしたもはや取り返しのつかない「悪」。その帰結が、拘束具に縛られた2人の姿となって、作家の前につきつけられます。

涙を抑えることができない「友人」カポーティの姿とはうらはらに、彼の口をついて出たのは「作家」カポーティの言葉でした。
「できるだけのことはやった。・・・・・本当だ』



2人の死刑が執行された翌年の1966年1月、『冷血』は出版されました。
「ノンフィクション・ノベル」という新たなジャンルを文学界に作り出し、今なお読み継がれるこの作品は、出版後の4カ月間に毎週5万部を売り、25カ国語に翻訳され、つまるところ「出版界における最大の成功に数えられる」大ベストセラーとなりました。

『冷血』発表ののち18年間、カポーティは一冊の本も完成させることなく、
鬱病とアルコール中毒に苦しんだ末、58歳で世を去りました。


映画はあくまでドライな描写を保ち、最後まで、カポーティに対してとりわけ糾弾も同情もあらわに示すことなく語られます。
それ故にかえって、カポーティやペリーや、その他の当事者の語られぬ感情が、スクリーンから自然にしみ出して来るような心地がいたしました。
実に秀作でございました。

『MyBookの薦め』展

2006-10-19 | 展覧会
再三申しておりました、改装文庫本の展覧会。
案内ハガキができました。



会期は11/13(月)~11/18(日)
開催場所は ↓ こちら。

■ギャラリーさんびいむ

当ブログで御紹介したものも出品いたしますが
「あの程度だったら見に行かなくてもいいや・・」とお思いんならないでくださいまし。
上のハガキでもごらんになれますとおり、多くの出品者はのろとちがってセンスがよく
たいへん創造性のある皆様です。きっとお楽しみいただけると思います。
物販もございます。お時間のあるかたは、ぜひお運びくださいませ。

『プライス・コレクション展』2

2006-10-16 | 展覧会
10/15の続きでございます。

さて、さて!
イトーさん でございますよ!
四郎ではございませんよ!
若冲でございますよ!

本展はこのひとが主役と申してもさしつかえありますまい。
イトーさんと言えば誰もが思い浮かべるであろう、
あの画面から飛び出して来そうな鶏たちをはじめ
一筆入魂の感のある、シャープな水墨の鶴や
なんともとぼけた雰囲気で居並ぶ、布袋さんの伏見人形などなど
イトーさんの、並び無きセンスと技量が冴え渡る作品の数々とまみえることができます。

「日本画には興味が無いので、プライス・コレクションには行かなくてもいいや」と思っておいでの貴方、
貴方は間違っている。
イトーさんに、1300円お払いなさい。
決して損はございませんから。
それどころか、せっかく日本に暮らしているのに、イトーさんを見逃すようなことがあるならば
それは、貴方の人生における大きな損失でございます。
イトーさんの作品は、貴方の思っているような「日本画」ではございません。
例えば、ごらんなさいまし、この意匠化されたライチョウを。


Copyright:Etsuko&Joe Price Collection

アール・デコもウィーン分離派もかかってきなさい。

しかし、大胆にして奇抜な手法や、モチーフの料理法にのみ目を奪われてはなりません。
モチーフのひとつひとつ、鳥や植物や風景や架空の動物までも、
何と愛情のこもった筆で描かれていることか。
丹念に重ねられた、執拗な ひと筆 ひと筆 にせよ
息を溜めて一気呵成にひかれたであろう、大胆な ひと筆 の見事さは
単に忍耐や技術といったものだけではなく、
対象の生命をいつくしむ、イトーさんの愛情深いまなざしと
紙の上に下ろす ひと筆 ひと筆によって、その生命を紙上に再現しようという気概に支えられております。
それがあるからこそ、彼の絵は
あんなにも生き生きとした輝きを放っているのでございましょう。

『プライス・コレクション』展1

2006-10-15 | 展覧会
『プライス・コレクション 若冲と江戸絵画展』へ行ってまいりました。

京都国立近代美術館 The National Museum of Modern Art Kyoto

プライスコレクション 若冲と江戸絵画展

いやっ  こ れ は 素 晴 ら す ぃ。
プライスさん、ありがとう、ありがとう。
こういう展覧会には、仕事を休み授業をサボってでも行かねばなりません。
先生にとがめられたら、アゴに手をあてて



ぐらい言っておやんなさい。
殴られても知りません、そこは自己責任で。

お向かいで開催中のルーヴル美術館展と同様、11/5までとなっております。
両方へは行かれないのでどちらにしようか迷っている、という方には、
のろは強くお勧めいたします、『プライス・コレクション』にいらっしゃい。
なんとなれば、『ルーヴル』の展示品は本家ルーヴル美術館へ行きさえすれば
まあ必ずとは申しませんが出会えるひとたちでございます。
一方、『プライス』は個人コレクションでございますから、どこそこへ行けば見られるというものではございません。
美術館に管理委託しているものもございましょうが、
この、揃いも揃ってハイクオリティな作品たちと、こんなに大きな規模でまみえる機会は
おそらく二度とないこってございますよ。

内容も素晴らしい上に展示数がかなり多うございますから
時間と体力には十分余裕を持って行くことをお勧めいたします。
京都国立近代美術館は通常、3Fで企画展、4Fでは常設展を催しておりますが
今回は4Fの一部および1Fまでもが企画展に割かれております。

プライス氏が、画家の 名前 ではなく、あくまで作品の 美的価値 を見据えて
セレクトし、購入した江戸絵画の数々。丸山応挙あり、酒井抱一あり、無名氏の見事な作品あり。
曽我簫白の偽物なんてものもございました。
プライス氏は偽物だということを知りつつも、作品として面白いので持っておいでなのだそうです。

コレクションにはいきおい、コレクターの好みが反映されるものでございますね。
プライス氏の場合、収集のポイントは「生き生きとした」というキーワードにあるのではないかと思いました。
氏が美術品を蒐集するきっかけとなった作品、
伊藤若冲の『葡萄図』の、見る者の胸をつく生命感とみずみずしさは言わずもがな
技法も題材も様々な作品たちは、絵の中に息づく生命感(時には生々しさ)という点において共通しております。

それから、確かな技術とセンスに裏打ちされておりながらも
何かこう オヤッ と アラッ と 思わせるような、「奇想」の要素が含まれているものや
ユーモラスな雰囲気のものも多うございましたよ。
ひと部屋に、全員すし詰めになっているような『三十六歌仙図屏風』ですとか。
縦長の画面にぎっしり描かれた小さなお多福さんが、さまざまな仕事に従事している『百福図』ですとか。
なぜか遊女の格好をした、三頭身くらいの達磨禅師と
なぜか達磨禅師の格好をした美人の遊女が仲良く並んで歩いている図ですとか。
長沢芦雪など、特に面白いものを描いているわけでもないのに何やらユーモラスなんでございます。
『白象黒牛図屏風』(上記公式HPの”京の画家”で見られます、かなり小さいですが)の、
牛のかたわらに横座りしている子犬の顔なんてもう、ええ、何と言ってよいやら
見ているこちらまで ふにゃふにゃ~ と脱力してしまいます。

伊藤若冲については次回に語らせていただきます。

ノミ速報

2006-10-14 | KLAUS NOMI


みゅ

ミュッ

ミューーーーーージカル化企画ですと!!!

何のって 貴方、
のろがこんだけあほみたいに大騒ぎするのは
もちろんヤツのことでございますよ。

映画『ノミ・ソング』にも出演していたアーティスト、アン・マグナソンによると、
クラウス・ノミの、 ミュージカル形式伝記映画 の企画が持ち上がっているらしいのです。
詳しくは ↓ こちらを。

PAPERMAG BLOGS

↑『ノミ・ソング』ではカットされたエピソードについても触れておられて、興味深い記事でございます(のろとしては)。

主演つまりノミ役の候補にはアラン・カミングが挙がっているとか。
『タイタス』で、ダメダメな皇帝を演じたあんちゃんでございますね。

ふーーむ ふむ。
で ございます。
ヤツがこうして表舞台に取り上げられるのは非常に嬉しいことではございますが
上にご紹介した記事の中でマグナソン女史も言っておられるように、

Gosh, who would make a good Klaus Nomi? ・・・で はございませんか?

果たして実現する企画なのやらわかりませんが
とりあえず速報まで。



えっ
『プライス・コレクション』レポートはどうしたって?
あの、
夜書きます・・・。

Radioactivity

2006-10-13 | Weblog
『プライス・コレクション 若冲と江戸絵画展』のレポートをするつもりでございましたが
明日に延期させていただきます。

本日は放射能の話でございます。

9/24にご紹介したクラフトワークの”Radioactivity”(放射能)という曲では、冒頭にこんなセリフが入っておりました。

「チェルノブイリ・・・ハリスバーグ・・・セラフィールド・・・ヒロシマ・・・」

チェルノブイリとヒロシマはともかく、真ん中の2つがどんないわくのある地名なのか
のろは存じませんでした。
昨今の、放射能関係トピックの高まりを受けて
ハリスバーグが、放射能流出事故のあったスリーマイル島近隣の都市であったこと、および
セラフィールドが深刻な放射能漏れ事故と、大量の放射性物質紛失の舞台であったこと、および
セラフィールドの事件が、日本ではほとんど報道されていないという事実を知りました。

英セラフィールド再処理施設から漏れ出る放射能汚染1 青山貞一

こうしたことに触れるのは、基本的には当ブログの主旨ではございませんが
こうした情報に接しながらなお黙っているというのは、わたくしが
(ごくごくわずかながら)保持せる倫理観に反することでございますので
この場で紹介させていただきました。

ピアフ忌またはコクトー忌

2006-10-11 | 忌日
伝説や噂ではなく本当のことだったのですね
ジャン・コクトーがエディット・ピアフの訃報を受けてショック死したというのは。

というわけで
本日はエディット・ピアフおよびジャン・コクトーの命日です。

昨年、神戸の大丸ミュージアムにてコクトー展が催されました.
コクトーにあまり興味の無かったのろは、当初は行くつもりではございませんでした。 
しかし、京都五条は増田屋ビルの素敵な古書店 砂の書 さんにてタダ券をいただきましたので
のろの活動テリトリーからは甚だかけ離れた、お洒落な神戸元町界隈へと
足を運ぶ気になったのでございました。



それまで何故か注意を払うこともなかった、コクトーのデザインやドローイング。
いやあ、その何と素晴らしかったこと。
闊達に引かれた線を目でなぞりながら、これを知らなんだとは今まで損していたなあと
のろはつくづく思った次第でございました。
何が言いたいかと申しますと
要するに、食わず嫌いはモッタイナイということでございます。


くわえ煙草でピアノに向かうコクトーの写真がございました。
横顔が美しうございましたよ。正面から見るとなかなかに縦長顔なんでございますが。

で。
ピアフ忌でもある本日。夜中の2時に目が覚めてラジヲをつけると、
それに合わせたものか「NHKラジオ深夜便」では、シャンソン特集を放送しておりました。
それに合わせたものか.普段めったに夢を見ないのろが
今朝はガレージシャンソンショーの山田晃士氏が御登場の夢を見てしまいましたとも。
「シャンソン」でこの人を引っぱって来るとは、のろの脳味噌もなかなかにヒネリがきいているではございませんか。
ノミのCDがどうとかこうとか おっしゃっておいででした。
いやあー いい夢でしたー。内容は忘れましたが。

何が言いたいかと申しますと
夢見さえよければ、その日いちにち、心楽しく過ごせるということでございます。
そうですとも!
たとえ通勤時間に合わせたように雨が激しく降り始め
職場に到達するまでにびしょぬれになり
帰宅時間になってもなお、靴下が乾かないような日であったとしても。

ところで

2006-10-10 | Weblog
なにゆえ
日本の美術館では、小さな手帳にごく簡単なスケッチをすることすら
禁止されているのでしょうか。
何も、イーゼルを立てて画材一式を広げて展示室に陣取るわけでもなく
作品の真正面に、テコでもうごかぬという”気”をランランと発しながら立ちつくしているわけでもなく
他の鑑賞者の邪魔にならぬよう気をつけながら
2500年ほど前に著作権の切れた作品の大まかなかたちを
小さな手帳に描きつけるだけのことだというのに
なにゆえ一律にとがめられねばならないのか、のろには納得がいきませんプンスカ。



お黙んなさい。

スケッチ全面禁止 というならば、その代わりに
全展示作品をポストカード化していただきたいものでございます。
展示室出口の売店で売られているポストカードは往々にして-----何者がセレクトしてらっしゃるものか存じませんが-----、
チラシやHPに掲載されているような、見栄えのする目玉展示品だけ と相場が決まっておりますからね。

展覧会に出かけて
素晴らしい作品に出会って
別れるのは名残惜しいけれども、
せめてポストカードを手元に置いてこの姿を記憶にとどめよう と思っても
会場を出てしまってから
その作品は商品化されていないと分かって がっくり という事態がしばしば起こります。

図録を買えということなのかもしれませんが
気に入ったひとつふたつの作品のために、全作品の載ったごっつい図録を買わねばならぬ というのは
なかなかに酷な話ではございませんか?
プンスカ。

『ルーヴル美術館展』2

2006-10-07 | 展覧会
10/6の続きでございます。
先にも申しました通り、彫刻がメインの本展ではございますが
装身具や子供のおもちゃといったものも、ちらほら展示されておりました。
関節部分が動くようになっているテラコッタの人形なんてものも。
体長は15センチほど。紀元前5世紀のG.I.ジョーでございます。

メインが彫刻なら、サブは 絵皿に絵壷 といった所。
描かれている題材も様々でございました。
競技をくり広げる男たち、身づくろいする女たち。
神々の間の闘い、きれいなおねえさんに言い寄っている男、
そして輪遊びに興じるガニュメデス。




ガニュメデスは神話に登場する美しい少年でございます。
その美しさゆえにゼウスに誘拐され、天上でお酌係をするはめに。
ほんとにこのオヤジは・・・・

瓶の側面に描かれた美少年ガニュメデスは
ポーズといい、体格といい、半円の空間への納まり具合といい
いかにも古代ギリシア的な均整にみちみちております。

瓶の反対側には誘拐者ゼウスが。




追いすがるように一歩踏み出し、少年に向かって片手を差し伸べるその姿、
大神には失礼ながらのろは『ヴェニスに死す』のアッシェンバッハを連想してしまいました。


(↑これはルーヴル所蔵ではありません。よって本展には来ておりません。
なおかつポセイドンなのかゼウスなのかはっきりしていない像でございます・・・)

王女メディアを描いた壷絵も印象的でございました。
いたって冷静な眼差しで、我が子に剣を突き立てておいででした。


本展の主役、アルルのヴィーナスはと申しますと
いっとう最後の展示室に、京都市美術館特有の自然光を浴びて燦然と輝いておられました。
比喩ではなく、実際、表面がチラチラと光っているのですよ。
詳しいことは存じませんが、大理石に雲母でも混じっているのやもしれません。

やんわりと起伏を描く腹筋の美しさもさることながら、注目すべきは
繊細かつ大胆に造形された 腰布 でございます。
左肘にはさまれて くしゃくしゃっ とした部分の、いかにも軽やかな表現を眺めつつ
左回りにヴィーナスの背後へと廻りますと
その左肘から足下へかけて ざあーっ とナナメに流れ落ちる腰布の
なんとも思い切りのいい動きに目を奪われます.

そうそう、全身像、特に裸像はぜひとも、後ろの方からも鑑賞してあげねばなりません。 
往々にして、背中が美しうございますから。
本展では、「酒を注ぐサテュロス」の中性的な背中が、たいへんよろしうございましたよ。
のろ的には本展で一番の見ものでございました。
頭部と腕は大きく欠けておりますが
欠けたるものの美しさにかなうものなど、無いのではないかと
のろは思うのですよ。
ミロのヴィーナスも、サモトラケのニケも
もし十全なかたちであったなら、あんなにも美しくはないだろうと思うのですよ。

最後に。
例によって会場はお寒くなっておりますので
1枚なり2枚なり、多めに着込んで行かれることを強くお勧めいたします。



君はパンツぐらいはかせてもらいなさい。

『ルーヴル美術館展』1

2006-10-06 | 展覧会
歳ふるごとに
生きることも生活することも面倒くさくなってまいりますが
そうこうしているうちに はや10月でございます。
これは だらついている場合ではございません。
ルーヴル美術館展へ行かなければ。

ルーヴル美術館展 ~古代ギリシア芸術・神々の遺産~

本展の目玉はもちろん
アルルのヴィーナスと、石膏像でおなじみのボルゲーゼのアレスでございますね。
ちなみに愛人関係なお2人。



有名人なだけあって、あちこちで遊ばれておりました。

会場入り口では作品リストを持たされ



さらに売店ではこんなことに。




古代ギリシアの彫刻がメインでございますので、絵画はありません。悪しからず。
ほとんどの展示品はガラスも柵も無い状態で置かれておりますので
ものすっごく 近寄って見ることができます。
からみ合う巻き毛の造形、口元の繊細な表情、身体にまとわりつく布の表現などなど
塑像ならいざしらず-----陳腐な言い方で申し訳ございませんが-----ひたすら石を彫って作ったとは、
とても信じがたいほどでございました。

「ギリシャ彫刻のような」とは、美しい顔立ちを形容する常套句でございまして
なんとも一面的な美の基準値であるようにも思われるのですが
あるいはうつむき、あるいは正面を見据えたギリシャの神々の姿は
実際、ぎょっとするほど美しいのでございますよ。
それは肖像彫刻の見せる、モデルの人間性がにじみ出るかのような美しさとは、また違うものでございます。
神々の、なんぴとにも属さない、理想化されたその面差しがたたえているのは
えもいわれぬ 冷たさ でございました。



アリストニケの墓碑

墓碑が多うございましたねえ。
なんとも立派なお墓を作ったものでございます。
もちろん、お墓に入ることもなく野辺で朽ちた人だって、大勢いたんでございましょうがね。
特別な身分ではない市民や職人も、墓碑に生前の姿や、職業を示すものを刻んでおります。
死者の像と言いましても、中世後期に流行したトランジ* のような脅迫的な雰囲気はみじんも無く
穏やかで威厳のある姿で表されております。
死後の闇ではなく、生前の美しい姿にフォーカスしている点、いかにもギリシア的という感じもいたします。

*トランジ=腐敗し、あるいはひからびた死体を表現した墓碑像。時には、ひきがえるや虫がまとわりついた非常におぞましい姿で表され、見る者に生あるうちの悔悛を促した。 
Transi - Wikipdia
Gnalogie des Vanits
Catherine de Medicis en transi

次回にちょっと続きます。


『狂王ルートヴィヒ』

2006-10-03 | 
『狂王ルートヴィヒ』ジャン・デ・カール著 2002 中央公論新社 を改装しました。




総革装丁。
だってルートヴィヒ2世ですから。




留め金付き&全小口彩色。
だってルートヴィヒ2世ですから。



見返しはマーブル紙。
だって(以下略




本書は
6/13の狂王忌でもご紹介したバイエルン王ルートヴィヒ二世の、詳細な伝記でございます。
手紙や日記といった一次資料、当時のプレス、身近な人々の証言などを綿密にあたる一方、
あくまで 読み物 としてまとまっておりますので、とっつきにくい所は全くございません。
始めからおしまいまで、大変面白く読みました。
もっとも
取り上げている人が人なだけに、出来事を時系列に並べただけでも
かなり面白い読み物になりそうではありますが。

邦題は『狂王』とうたっておりますが、仏語の原題は単に『バヴァリアのルイ2世』(=バイエルンのルートヴィヒ2世)。
ルートヴィヒが狂っていたというスタンスでは書かれておりません。
実際、ルートヴィヒは相当な人嫌いであり、
今で言うならひきこもりであり
オペラおたくであり
太陽王ルイ14世マニア ではございましたが
その気まぐれも浪費も、
狂気と断言できるほどすさまじいものではなかったようでございます。
築城への情熱がエスカレートした晩年においても、決して正常な判断力を失ったわけではなく
ただただ、
美と物語の世界に浸っていたいという望みだけを見つめ
煩雑で殺伐とした現実世界には背を向けていたがために
国政に関する文書も、破産寸前の財政からも目を背け、つまる所、自らを追いつめてしまったのでございましょう。
-----王を唯一理解した女性、タカラヅカでおなじみのオーストリア皇妃エリザベートの言葉を借りるなら

「王は狂ってなどいなかった。ただ夢を見ていただけだ」

著者は一貫してルートヴィヒに好意的な眼差しを注いでおります。
言葉のはしばしに、ルートヴィヒに寄せる愛情と同情が伺われます。
一方、王をいわば食いつぶす大作曲家ワーグナーを描く筆は、ちと、いじわるでございます。

歴史的事件には関わりのない、小さな、心なごむエピソードを
(とりわけ、王が悲劇的な死を迎える終盤に)紹介しているのも
ルートヴィヒ個人に対する、著者の敬愛の念からでございましょう。

エピソードを語るのは
王の御者や、城の職人や
王の在任当時はまだ子供だった、城の管理人の娘(「スパーバー夫人」!ひぇぇどっかで聞いた名前だ)など、
実際に王の身近にいた人たち。
彼らの語るルートヴィヒ像は、人物辞典や Wikipediaの記事からは伺えない
人間性や温かみを伝えております。

さて
そんなルートヴィヒ2世、なんとファンサイトがあるんでございますよ。

ドイツ語版 Knig Ludwig II. von Bayern

英語版 King Ludwig II. of Bavaria

↑ ドイツ語版トップページの一番右下の写真を写真をクリックすると
ルートヴィヒご幼少のみぎりから、湖で謎の死をとげる42歳までの
肖像画や写真がずらっっ と出てまいります。
よくぞこれだけ集めたものよ。
青年時代のルートヴィヒ、軍服姿の何と凛々しいこと。
身長192センチの長身痩躯に整った顔立ち
ということで
彼を「落とそう」とするご婦人方は後を絶たなかったのだそうでございます。
もっとも
ルートヴィヒが同性愛者であることは、当時すでに公然の秘密であった
ということでございますが。

・・・あきらめろよな。