のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

ノミ話10

2006-09-30 | KLAUS NOMI
ワタクシごとで恐縮でございますが
ノミ記念日なんでございます。

まあ 単に
ちょうど一年前のこの日に初めてクラウス・ノミのCDを購入した
というだけの話でございます。

これに一週間ほど先立つある日のこと
京都のミニシアター「みなみ会館」のHP ”COMING SOON” 欄にて
なんとも変なタイトルの映画を発見し
何これ と クリックしたが
運のつき。

↓ 初めての方はお気をつけください。音が出ます

NOMI SONG


のろはモノゴコロついた時分から ずぅううう っと 一貫して
「ひとめぼれ」という現象を馬鹿にして生きてまいりましたが
この日を境に考えを改めましたとも。
ああ神様、ワタクシが間違っておりました。

と いうわけで
ノミ記念日。
誰も頼んじゃおりませんが
この一年間にのろが収集したノミ関連グッズを
どーん と一挙公開。

それっ。




ひとつひとつのモノについて、
いちいち くどくど 解説していきたい所ではございますが
これから新たなグッズが発売されるという見通しは甚だ乏しうございますので
ここはぐっと我慢して、おいおい、小出しに語らせていただくことにいたします。

幸いなことに、これで全てのグッズを買い尽くしてしまったわけではございませんで
まだこれから入手すべきものが残されております。

アレとか 
ソレとか 
コレ ↓ とか。

E-Pins.com - Cool Custom Pinbacks, Magnets, and Clocks


何故 ホラー映画のモンスターと同じ並びで売られているのでしょうか。


ともあれ。
本日は個人的に
いと めでたい日 なんでございます。
ひとつ、ヤツお得意のライムタルトでも作って
ひとり祝いでもいたしましょうかねえ。


『変身』

2006-09-26 | 
『変身』カフカ 新潮文庫 1952 を改装しました。


吹き流しでランダムに模様をつけた薄手の和紙を、模様が 濃い→薄い の順で数枚重ねました。



タイトルはシャーペンで手書き。



これも11月の展覧会に出品いたします。

NPO法人 書物の歴史と保存修復に関する研究会


はるか以前
この作品を初めて読んだ時は
「こんなにも徹頭徹尾、救いのない、暗い話がこの世にあっていいもんだろうか」 と
はなはだ とまどったものでございます。
自らの存在について罪悪感を持たずにおられた当時のこと。
今はもう
ハハハハ。

こちらは ↓ 『知的常識シリーズ 3 カフカ』 D・Z・マイロウィッツ/ロバート・クラム著 1994 交心社 より、『変身』の一場面。



MOMAにその作品が収蔵されているアングラ漫画家、ロバート・クラム。
執拗で
猥雑で
意地悪なまでの人間観察と
シニカルな戯画化に手腕を振るうクラムのイラストは、
カフカの小説世界と それはもう恐ろしいほどマッチしております。


copyright : David Zane Mairowitz Robert crumb 

うーむ素晴らしい。
大変残念なことに、もはや発行はされていないようです。
net通販でも「在庫切れ」表示が多うございますね。
しかしこれはもう 見たら即買い のハイクオリティ本でございますよ。

MAN-MACHINE

2006-09-24 | 音楽
今更でございますが
クラフトワーク にはまっております。

動くお姿はこちら。
YouTube - kraftwerk - the robots

おっと失礼、これはロボットでした。本物はこちら。
YouTube - Kraftwerk - The Robots

たいして変わらないですね。
むしろロボットの方がよく動いております。

電話かけてみたり。
YouTube - Kraftwerk - Radioactivity
「モシモシ、放射能漏れ中なんですが」


日本語で歌ってみたり。
YouTube - pocket calculator / dentaku
♪ ボクハ オンガクカ デンタク カタテニ ♪
曲はダンサブルなくせに本人らは棒立ち。

神社もあります。
The Kraftwerk Shrine ~クラフトワーク神社~

つーる ど ふらーんす  つーる ど ふらーんず
こっれは ↓ めちゃめちゃカッコイイですよ。
本人らはほとんど出ませんが。(しかも静止画像)
YouTube - Tour de France 2003 / Kraftwerk

ラルフ・ヒュッター、自転車大好きなのだそうで。
多いに親近感を覚えます。
TOSHIBA-EMI INTL IMPORT - KRAFTWERK 特集

↓いちおうオフィシャルサイトらしきもの。所々で遊べます。
Kraftwerk

『ジャコメッティ展』2

2006-09-19 | 展覧会
ドイツ人美術学生、西安の兵馬俑に扮するも御用 ロイター - goo ニュース

いいぞ、 いいぞ、 若者。
アーティストとしての君の将来を、のろは多いに嘱望しているぞ。
いや、本当に。


さておき。9/18の続きでございます。

「君の顔は確かにそこに存在し、充実している。
しかも空虚の中に漂い、物であることを拒否している。
存在と空虚、これを同時に捉えなければならない、ここに困難があるのだ」

『芸術と芸術家』 矢内原伊作 1987 みすず書房 より、ジャコメッティの言葉

前回、矢内原を描いた作品群について「苦闘の痕」と申しましたが
ことジャコメッティの彫刻作品においては、戦いは痕跡にとどまるものではなく
今もって進行中でございます。
それはもはやジャコメッティの手を離れ、
見る・見られる というフィールドから 
在るもの と、それを取り囲む空間 という、私達を直接巻き込んだフィールドへと移行しています。
彫像たちは、彼らを 取り囲み 押し包む 空間との
せめぎ合いのただ中に、立っております。

極限まで細く削られた身体を持つ彫像たち。
あるいは、モデルの面貌を留めながらも、左右からぐっと圧迫されているかのようなフォルムを保ち
緊張感に満ちた表面をさらす彫像たち。



その肌は、今しも周囲の空虚から浸食を受けているが如く、荒々しく波立っています。
細い身体は、ゆるぎない存在感を持つと同時に
他のものから完全に孤立したよるべなさ、いやむしろ孤絶感を発しています。

世界の中に、確かに存在している----むしろ、生み出されたものとして、否応なく存在してしまっている
けれども同時に
世界の中で、ある個別な存在として孤立し、その存在を誰も保証してはくれない。
自分の身体さえ、自分自身を守ってはくれなさげです。

それでも、いる からには、 いなければ ならない。
彼らの姿はまさに、世界の中にわけも分からず生み出され、存在している
私たちそのものではございませんか。

何のために存在しているのかさっぱり分からなくても
すでに存在してしまっているからには
消滅の時が来るまで、存在し続けねばならない私たち。

存在していていいのか、いけないのか?
答えなど無いことはわかっていても、
その問いを抱かずにはいられない私たち。

空虚にとりかこまれ、拮抗しながらも
確かに存在している私たち。

ジャコメッティの作品がかくも強烈に人の心を惹き付けるのは、
あの異様なフォルムの中に
「存在していていいのか、いけないのか?何故、私は存在しているのか?」
という、答えの無い問いを抱えたままなお存在し続ける
人間の宿業が凝縮されているからではないかと
のろは思うのでございますよ。

『ジャコメッティ展』1

2006-09-18 | 展覧会
-----「見えるがままに表す」ことに取り組みつづけた-----

この言葉が、例えばクールベについてのものだったら
のろは何の疑問も持たなかったことでしょうけれども
ジャコメッティについての言葉となると、正直、とまどいました。

あの痛ましいほどに細く引き延ばされ
極限まで削られた人物像が
「見えるがまま」とは?

しかし、振り返ってみるとのろは
針金のような身体の彼らに、何故こんなにも心惹かれるのか ということも
彼らがいかなる意図のもとに制作されたのか ということも
恥ずかしながら、考えたことがございませんでした。

さて、「見えるままに表す」とは
どういうことなのか?

と いうわけで
『アルベルト・ジャコメッティ展--矢内原伊作とともに』へ行ってまいりました。



兵庫県立美術館-「芸術の館」-【展覧会】

本展では、例の極細人間たちはもちろんのこと
油彩やスケッチ、初期の作品なども展示されており
ジャコメッティの生涯を通じた不断の取り組み(あるいは苦闘)と、多角的に接することができます。
その中で見えて来たことは、
ブロンズ像にしろ 油彩画やスケッチにしろ
また、描かれているのが芸術家自身の妻や弟といった身近な人物にしろ 全く無名の人間にしろ
彼ら、ジャコメッティによって造形された人物は、みな一様に
せめぎ合いのただ中に置かれている ということです。
それは、ひとつには 見るもの と 見られるもの のせめぎ合いであり、
他方には 存在しているもの と それを取り囲む空間/世界 とのせめぎ合いです。

見る・見られる。
そもそも「見る」って何なのでしょうか。

目をあける。目を向ける。
何も識別できない混沌の中から-----焦点の定まっていない、全てが芒洋とした状態から-----
何かが立ち現れて来る、
目を凝らし、焦点を合わせる。
ある時点で突然、その「何か」が何者であるのかが認識される。

この「見る」という 混沌→→認識 作業を、私達は日常、全く無意識に
ものすごいスピードでこなしています。
ジャコメッティの作品は、この作業を超スローモーション化して
認識の瞬間の像を、即ち
現実にある「もの」と、見る者の視線がぶつかってせめぎあい、
見る者が見られるものの首根っこをとらえて「これはかくかくのものである」と
認識した瞬間の像を、画布やブロンズの上に定着させようという試みではないでしょうか。




見る・見られる と言っても、実際の所
私達はそれほどよくものを「見て」はいません。
毎日会っている人の顔でも、毎日見ている風景でも
いざ記憶を頼りに正確な像を描こうとすると、困難を極めます。

なるほど私達は、身の回りのあらゆるものに視線を投げかけはしますが
おおざっぱな像を捉えるや、あとは「こうであるはず」「こうなっているべき」という既存の知識で
実際は「見て」いない細部をおぎなってしまいます。

しかし「見えるがままに表す」ことを自らに課したジャコメッティには
この近道は許されません。

「こうであるはず」という既存の知識やイメージの侵犯を許さず、
彼の眼差しが、そのあくまで主観的な尺度でもって把握した「もの」の姿を
そのままに再現しなければならないのです。

しかし一体、そんなことが可能なんでしょうか?
見る主体も、見られる客体も
刻々と変化し続け、一瞬として同じ状態にはないというのに。



哲学者 矢内原伊作をモデルにした連作は、ジャコメッティが
捉まえようとするたびに指の間からすり抜けて行く「見たまま」の像を、かたちに定着させようと
もがいて もがいて もがきたおす 凄絶な軌跡となっています。
もがき、つかまえ、消し、壊し、塗り込め、また もがく。
ピュンピュンと鞭打つような筆致が幾重にも重なる油彩画にも、また
新聞紙といわずレストランの紙ナプキンといわず、手当り次第に描いた無数のスケッチにも
ジャコメッティが、「見えるがままに表す」という不可能な課題と取っ組み合った
苦闘の痕が刻まれておりました。

次回に続きます。

『プラド美術館展』後

2006-09-15 | 展覧会
と いうわけで

現在、のろのパソコンまわりは


こんなことになっております。








ぎゃ は は は。


「プラド美術館展」で検索しておいでになった方は
右の方の人物(人間ですよ一応)はご存知ないやもしれませんね。
そんな方はどうぞこちらを。

YouTube - The Nomi Song trailer

あるいは、こちらを。

Klaus Nomi Le Site

あるいは、こちらを。

THE NOMI SONG The KLAUS NOMI Film by Andrew Horn

あるいは、当のろや の  KLAUS NOMIカテゴリをご覧下さいませ。


ええ、いいんです。
どう思われたって。

『プラド美術館展』2

2006-09-14 | 展覧会
9/13の続きでございます。



「道化ディエゴ・デ・アセド(エル・プリモ)」 ベラスケス

残念ながら、こんな小さな画像ではもちろんお分かりいただけないのでございますが
意外なほど勢いのある、素早いタッチでえがかれているのですよ。
無造作と言いたいほどに思い切った筆致で
対象のかたちや質感をこんなにも正確にとらえ、
その存在感をこんなにもリアリスティックに表現できるとは。
恐ろしいほどの技量でございます。

もちろん、ベラスケスの 恐るべき腕前 とは
かたちを写し取ることに長けているという点だけではなく、
モデルの心情や内面までも、時に残酷なほどありありと
画布の上に表してみせる、という点にこそ、最もよく現れているのでございますよ。




「フェリペ4世」 ベラスケス

国の弱体化を止めることができないフェリペ4世の、疲れきった、弱々しい表情。
(ちなみにあだ名は「無能王」。そりゃあんまりですよ、別になりたくてなった王でもないのに。ねえ、徽宗さん。)

徽宗 - Wikipedia

約200年ののち、印象派のエドゥアール・マネをして「画家の中の画家」と呼ばしめ
破壊者ピカソをして「本質を描き出す、真の画家」と言わしめたベラスケスの肖像画は
もはや ある人物の面貌(または、こうであれかしという容貌)の記録 という、肖像画の機能を超えて
歴史上のある一点に存在した人物の息づかいをとどめる、怖いほどに生々しい存在証明となっております。

グレコもベラスケスも一番最初のセクション、「スペイン絵画の黄金時代」の展示品でございます。
公式サイトを見ていただければお分かりのように、展示はゴヤの登場する第5セクションまであります。
中間のセクションはフランスやオランダ絵画が多く
時代的にもやはり、ちと ロココ ロココ しておりまして
スペイン絵画独特の 熱さ暗さ重厚さ といったものがあまり見られませんので
のろ的には まあ ふーむ そうですか それもよかろう・・
といった具合でございましたが
全くのところ、
前回ご紹介したエル・グレコと、このベラスケスの作品を見られただけでもう
この展覧会へ行った価値がございました。

そうそう、こんな興味深い作品もございましたよ。



「アランフェス宮殿の眺望」 バッタリオーリ

何が興味深いかと申しますと
「18世紀の有名なオペラ歌手ファリネッリの注文によって描かれた」 という点でございます。

ファリネッリといえばそう、かの カストラート  でございますね。
映画はこちら。  カストラート  DVD

こう、思いがけない所で名前が出て来ますと
「おお。本当に存在していたのだなあ」と、これもなにやら生々しい感じがいたしますね。


『プラド美術館展』1

2006-09-13 | 展覧会
本日は
フェリペ2世の命日です。

というわけで
『プラド美術館展』へ行ってまいりました。




ちなみに ↑ この人はフェリペ2世の妹さんです。

プラド美術館展

絵画のみ81点の展示と申しますと、企画展の規模としてはまあ、中ぐらいでございましょうか。
とはいえ
エル・グレコのキリスト像を見ては ガラにもなく経験な気持ちになり
深く大胆な黒使いのリベーラに ハッとさせられ
卓越した筆致と人物描写のベラスケスに ウ~~ムと唸り
ムキムキ&ムチムチの裸体が画面に躍るルーベンスに オエッとなり
(失敬、しかしルーベンス作品の、ぼっ かーん とこちらに飛び出して来そうな迫力と量感が、のろはどうにも苦手なのですよ)
リアリズムを通り越してシュールレアルな感さえあるメレンデスに「ようやる」と感嘆し
かわいらしい少年なんぞ描いているゴヤには「アンタはやっぱりダークな世界の方が似合ってるよ」とつぶやいてみたり

とまあ、近代スペイン絵画の巨匠さんたちとけっこうまんべんなくお目にかかれます。

(ルーベンスはスペインじゃございませんが)


ちらしではムリリョがわりと大きくフィーチャーされておりますね。
ポストカードもムリリョの『無原罪の御宿り』の売り上げNo.1ということですが
のろが最も印象深く拝見したのは
エル・グレコとベラスケスでございました。




エル・グレコ 『十字架を抱くキリスト』

自身が磔されることになる大きな十字架を背負って、ゴルゴタの丘まで歩かされるキリスト
の、はずなのですが

この場面を説明し、かつ悲劇性を高めるために通例描かれるものもの----キリストを追い立てる刑吏や、
沿道で揶揄する人々、嘆くマリア(×2)と弟子たちなどなど----は、全く描かれていません。
いばらの冠を戴いたキリストの顔にも、苦しみの表情は見えません。
そして唯一の登場人物であるキリストは、タイトルに示されているように
十字架を 負わされている のではなく、 抱いているのです。

嘆くでもなく、苦しむでもなく、いたって穏やかな表情です。
うるんだ目は天を向き、頭上にわずかに描かれた青い部分から
視線の向こうに、暗雲の切れ目にのぞく青空があることが暗示されています。
上空の一点をみつめるその眼差しは、十字架を抱くポーズとあいまって
天上の「父」に向かってこう語りかけているようです。

「この運命を受け入れましょう。それがあなたの意志なら」

その運命たるや、全人類の引き受けて贖罪の山羊として死ぬ、という
なんともはやオソロシイものなのですが。

ここでキリストがいともやさしく腕に抱えている十字架とは即ち、
彼自身の 死 であり、 全人類の罪業 でもあるのです。
エル・グレコは画面から物語的な要素を排して、ポーズと眼差しによって
全ての罪を引き受けるキリストの慈愛を表現しております。

「かのギリシャ人(=エル・グレコ)」が描く宗教画の特色として
このキリストも細長い身体にデフォルメされ、ぎらぎらとした非現実的な光彩の中に置かれています。
(十字架にまわした二の腕の異様な長さをご覧下さい、アングルもびっくりです。)
こうした、客観的・数学的なリアリティよりも主観的・心的リアリティを重視した表現ゆえでしょうか
のろは別にキリストさんのファンでもなければキリスト教のファンでもございませんが
絵の中のひとは不思議に親密な感じを発しているように見え
何か悪いことを考えていると、うるんだキリストの瞳から
涙がこぼれるような気がいたしましたよ。

もう ちょろっと
他の展示作品についても触れたいのですが
長くなりましたので次回に。


「フリーダム」

2006-09-12 | Weblog
9.11 の跡地に
建てられるのが
「フリーダム・タワー」。

この「フリーダム」が
あまりにもしらじらしい響きを伴っているのは
アメリカのえらいさんたちが掲げる「自由」とは、つまるところ
「アメリカの独占的自由」の意でしかないということが、昨今
あまりにもはっきり見えてきてしまっているからです。
より正確には、「アメリカの富裕層と、彼らの利益に資する人たちによる、自由の独占」でしょうか。

何にしても
自由を獲得するためとて、その手段に暴力を用いたのでは
彼らがまるで 純粋悪 のように言い立てるテロリストたちと
全く同じ土俵の上に立ってしまっています。

9.11で命を落とした人は 約3000人。
数の問題ではありませんが
このテロへの報復のためーーーあるいは「自由と民主主義を守るため」ーーーの戦闘で
いったい今まで
何万人の命が失われたのか。

数の問題ではありませんが
私がこう考えずにいられないのは
アフガンおよびイラク戦争の犠牲者と、今もかの地で生活している人たち、即ち
米政府の掲げる「自由」の範疇には含まれない人たちの、生命と自由が
9.11で亡くなった人たちの生命と自由とは全く違うはかりの上に置かれていること
あまりにも軽んじられ 「やむを得ぬ犠牲」としてほとんど無視されているということが
こうした数字に表れている と
思えてならないからです。

イラク戦争の民間人犠牲者は最初の7ヶ月だけで少なくとも37,000人を超える


『一千一秒物語』

2006-09-09 | 
『一千一秒物語』 稲垣足穂 2005 ちくま文庫 を改装しました。



ミゾ(ハードカバーの本は背表紙と表紙の接続部分にミゾがありますね、あれのこと)無しのデザイン。
に したはずなのに、なんとなくミゾができてしまっておりますね。




見返しには銀の不透明水彩でスパッタリングを。




『一千一秒物語』、どういう作品かと申しますと
こういう作品でございます。

流星と格闘した話

ある晩オペラからの帰り途に 自分の自動車が街かどを廻るとたん 流星と衝突した
「じゃまするな!」
と自分は云った
「ハンドルの切りかたが悪い!」
と流星は云いかえした 流星と自分はとッくんで転がった シルクハットがおしつぶされた ガス燈がまがって ポプラが折れた 自分は流星をおさえつけた 流星はハネ返って 自分の頭を歩道のかどへコツンと当てた
自分は二時すぎにポリスに助け起されて家へ帰ったが すぐにピストルの弾丸をしらべて屋根へ登った 煙突のかげにかくれて待っていた しばらくたつとシューといって流星が頭の上を通りすぎた ねらい定めてズドン! 流星は大弧をえがいて 月光に霞んでいる遠くのガラス屋根の上に落ちた
自分は階段をかけ下りて 電燈を消して寝てしまった

無気力症

2006-09-05 | Weblog
ずびばせんねぇ。(今は亡き桂枝雀師匠風に)

はい。
すみません。
当のろや、最近はなはだ とどこおっております。
何のことはございません、常から無気力性ののろが更に無気力症に見舞われているというだけでございます。
こんな時は自転車のぺダルを踏むことさえおっくうになります。
普段はけっこう優良サイクリストなのでございますが、本日は交差点での左右確認をおっくうがって
軽トラックにひかれかけました。いやー惜しかったネ。
こうした状態には故なく落ち入るものでございますから、やはり故なく、じきに回復するものと思われます。
そうしましたら先日観た『プルートで朝食を』について、絵なり文なりお届けできると思いますので
しばし御猶予をいただきたく。

しゅー がー  べいーべ  らーヴ ♪