のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

続・70周年だというのに

2014-01-25 | KLAUS NOMI
はい、そんなわけで
1/24の続きでございます。

始めに、ノミ情報というわけでもないのですが、映画の話を。
京都シネマで2月22日から3月7日にかけて特集上映 知られざる映画の巨匠 モーリス・ピアラという企画がございます。その中で『愛の記念に』が上映されるのですよ。そう、クラウス・ノミの『Cold Song』が主題曲に使われているという映画でございます。ワタクシ「15歳の少女の奔放な男性遍歴と成長」には全くと言っていいほど興味がないんでございますが、ヤツの歌が流れるというだけでも、劇場へと足を運ぶには充分な理由でございます。
ただ、こういうものの常として、ほんの数日間しか上映されないことが予想されます。そして丁度その頃に副業が死ぬほど忙しくなりそうな気がしているという悲しさよ。

さて、では本格的にノミ話でございます。
まずミュージシャンによるノミ評をひとつ。

POZ BandsOnBands: Sworn In On Klaus Nomi - PropertyOfZack

語ってらっしゃるのは去年1stアルバムを発表した「Sworn In 」というデスメタルバンドのドラマー、クリス・ジョージ氏。クラウス・ノミについてはいろいろなジャンルのアーティストが語って来たわけでございますが、これほど手放しで絶賛したものはあんまりないように思います。嬉しいのでクリス氏の語りの部分だけ全訳しました。怒られたら引っ込めます。

クラウス・ノミほど人の心を捉えるパフォーマンスをする奴は、世界にひとりだっていやしない。誰もが彼のことを、文字通り、宇宙からやって来たエイリアンだと信じた。彼のビデオを30秒でも見れば、君もそう思うだろう。クラウスは音楽の世界に、他の誰もが夢にも見なかったものをもたらしたんだ。しかも、決して真似のできないようなやりかたでね。彼はずば抜けてた。ひとたびパフォーマンスをすれば、その場にいる者を一人残らず釘付けにした。僕らがまだバンドを組んでいなかった頃、僕らを結びつけたのもノミだったし、直接的にじゃないにしても、僕らがいつも尊敬すをこめて見上げるものという意味で、音楽的な影響も受けた。彼の音楽は僕らのとは全然違うけど、僕らがショーをやる時に、異世界的なをものを創造しようと頑張るのは、何よりも、クラウス・ノミが象徴していたものとか、音楽パフォーマーとしての彼の姿勢があったからこそなんだ。

クラウス・ノミの『シンプル・マン』の最後の2曲からも影響を受けたよ。彼のアルバムでも、僕らの『The Death Card』でも、アルバムの終盤で主人公は死を経験してから、その経験について語るために戻って来る。僕らのアルバムも、最後の2曲のタイトルは「Death」と「Return」。これは僕らがこのアルバムを作るにあたって活用したコンセプトなんだ。いわば僕らからのノミへのトリビュートでもあるし、長年彼から受けて来た影響を、僕らが世界に送り出したファーストアルバムの中で表現したものでもあるんだ。クラウスがそうしたように、僕らはできるだけ自分自身の人格を取り払って、むしろ単なる存在物になろうとしている。目の前のパフォーマーも結局は自分たちと同じような人間だ、なんて誰も思い出したくないからね。観客を飲み込んで、パフォーマーが普通の人間だということを忘れさせてしまうぐらいのショーをやらないといけないんだ。


彼らのPVをYoutubeでちょっと見てみましたが、確かに直接的にノミっぽいことはないですね笑。
しかしノミのパフォーマンスやありようを中途半端に援用したり、そのうわべだけ真似するのではなく、彼ら自身のものとして咀嚼した上でトリビュートを捧げるというのは、たいへん真摯でスマートなやりかたではないかと思います。
まあ、単にうわべだけがノミっぽいものを見ても、わりと嬉しくなってしまうのろではありますが。

お次は展覧会。

KLAUS NOMI ? 2013 ? Neuer Aachener Kunstverein

去年の9月15日~11月24日、ドイツのアーヘン新美術ギャラリーで開催されたものでございます。
「回顧展というよりも記録と視覚媒体の研究によってクラウス・ノミという現象にアプローチ」した展覧会であり、「クラウス・ノミは30年前に亡くなったが、その自己演出の手法は今もなお意義深い」と。
また、ヤツの奇抜な衣装やシアトリカルな舞台装飾は、現代のミュージシャンやパフォーミングアーティストの先触れである、と。

記録、反応、そして現代美術における位置づけという三つの側面にフォーカスしたという本展、同時代の人の証言やノミから影響を受けた人へのインタヴューがこの展覧会のために収録され、会場でエンドレス上映されたのだそうです。いいですなあ。
証言者には現代芸術家のヴォルフガング・シュテーレや2008年の舞台「Hommage à Klaus Nomi」を手がけた映像作家ウルリケ・オッティンガー Chicks on Speedというベルリンのバンドのメンバーや、写真家ユルゲン・クラウケといった名前が挙がっております。いやあ、どなたものろごのみな香りがぷんぷんと...何ですと、ユルゲン・クラウケは滋賀県立美術館で展覧会をやったことがあるんですと!?
...しかし1997年かあ。その頃はワタクシ、クラウス・ノミの存在すら知りませんでした。これをもって、どんな展覧会でもなるべく足を運んでおくものだという教訓としようと思います。

「ノミとその芸術は、自己演出とパフォーマンスという問題を巡って現在も続く議論において、重要な役割を持っている。それと対応して、本展はプロセス(過程、進行、方法)という要素を含んでいる。クラウス・ノミという現象の様々な受け止め方を提示すると共に、この現象をアートと言う文脈の中に位置づけるものである」

記事の中で何度も「クラウス・ノミという現象」という言葉が用いられておりますね。ワタクシはその表現に出くわす度ににっこりしてしまいました。「クラウス・ノミ」とはひとりの人間であると同時にひとつのアート作品でもあり、同時代のみならず時代と場所を超えて影響を及ぼして行くひとつの現象でもある、という捉え方を、きっとヤツ自身も喜んだことであろうと思うからでございます。
会期中にはギャラリーでのライヴパフォーマンスや、アンドリュー・ホーン監督を迎えての、映画館での『ノミ・ソング』の上映などが行われたとのこと。
嬉しいですね。これをきっかけに、ノミに興味を持つ人がますます増えたに違いありません。

↓「Hommage à Klaus Nomi」の映像。




最後に。
昨年末に出会って、ああ、なんだかノミみたいだなあ、と思ったものをひとつ。
傑作グラフィック・ノベル『アライバル』の作者、ショーン・タンによる小さな絵本でございます。




いえいえ、そうではありません。
主人公の頭が三方向に尖っているからではございません。

他の国、たぶん遠い所からやって来て、
普通にしていても、ちょっと変わっている。
何を考えているのかよく分からない。
たいして目立ちもしない場所に、
奇妙でささやかで素敵な贈り物を残して、
ある日ふと、帰って行ってしまう。

そんなありようが、なんだかとてもノミっぽいや、と思ったのでございます。

そんなわけで
本当にふがいないファンだけれども、せめてお祝いの言葉を言わせてください。

70回目のお誕生日おめでとう、クラウス・ノミ。

70周年だというのに

2014-01-24 | KLAUS NOMI
せっかくの70周年記念だというのに
何も特別なものが用意できていないのですよ。
ああ情けない。ああ情けない。
これでよくファンを名乗れたもんだ。

何の70周年記念って
クラウス・ノミの生誕70周年に決まってるじゃございませんか!

そんなわけで、自らのふがいなさに心がぎちぎちと痛むわけでございますが、besser als gar nichts ええつまりベターザンナッシングなのではあり、常のごとくネット上で見つけたものをご紹介することでお茶を濁すことといたします。
ああお茶を濁すだなんて最低だ。
こんなんでよくファンを名乗れたもんだ。
ああ情けない(以下、永遠ぐらい続く)

さておき。

まずはファンアート。

Klaus Nomi by ThePilgrimArt on deviantART

いやあ素晴らしいですね。
アレンジにも色彩にも高いセンスを感じるではございませんか。
後光がノミマークになってるなんてのも、実に巧いですね。クラウス・ノミの(あるいは、クラウス・ノミという)芸術の一端である、荘厳さと奇抜さ、わざとらしさと真摯さの融合という側面が見事に表現されております。


それから、こちらにはワタクシが今まで見たことのなかった写真が。

Jolly Joker`s Ohrenbalsam: KLAUS NOMI, AUSSTELLUNG, NAK, 2013

なんか普通にかっこいいノミ。珍しい。
美脚きわだつぴっちりパンツでございます。

ファッションのことを言えば、N.Y.にあるファッション・インスティチュート・オブ・テクノロジー(FIT)のミュージアムで、ヤツが着ていたあのプラスチックタキシードを展示中の模様。

↓リンク先一番下の画像でございます。
Untapped Queer Potential of Fragrance | Part Two
↓拡大図はこちら。
Klaus Nomi | Charenton Macerations

何だかドキドキしますね。レプリカではなく、ノミ本人が着ていたものですよ。ブーツがないのは残念ですが。
有象無象の中に埋もれさせないで、専用のお立ち台を用意して頂きたいもんだ...と思いましたが、マレーネ・ディトリッヒが実際に着た衣装さえも特別扱いされず他の衣装と並べて展示されたようでございますから、まあ贅沢は言えません。

プラスチックタキシードはFITの収蔵品ではなく、ノミの遺品を管理しているジョーイ・アリアスから借り受けたものであるとのこと。常設で展示されていたら素敵なんですけどね。

ああ、いつかかの地に「クラウス・ノミ・ミュージアム」が設立されないかしらん。
大仰なものじゃなくてよいのですよ。アパートの一室だってよいのです。

そこはヤツの遺品であるとか、ヤツにまつわるものものが集められていて、ちょっとしたノミワールドが展開されているのです。ガイドブックに載るほどメジャーなスポットには決してならないけれども、きっと世界中から、色々な年代の、ちょっぴりヘンな人々が、赤いバラや白いカーネーションを携えて巡礼に訪れるのですよ。芳名帳を開けば様々な書体のサインとともに、そこを訪れたノミファンたちの思いのたけを読むことができるのです。リピーターを確保するために、年に一回くらいはミュージアム主催で「ノミに着てほしい衣装デザインコンテスト」とか「Pony Flier デザインコンテスト」をやって、優秀作を展示するというのはどうでしょう。

それからミュージアムショップでは、毎年商品ラインナップに新デザインのピンバッジがひとつずつ増えて行くというのはどうでしょう。通販はしないで、そこでしか買えないようにするのです。グッズといえば、年にひとつ以上は何がしかのノミグッズ(これとか)が世に出ておりますから、そういうのを扱うのもいいですね。舞妓さん体験みたいにノミメイク体験があってもよろしいかと。白黒バージョンと、『シンプル・マン』のジャケ絵バージョンで。(ネイルは別料金。)ささやかな喫茶スペースがあって、昼はお茶とノミレシピのライムタルト、夜はイェーガーマイスターとカンパリが飲めるのです。時々ミニライヴなどがあると、なおよろしい。
スタッフは男女または中間を問わず、蝶ネクタイ着用で。そして受付には、やはり蝶ネクタイをあしらった、エイズ撲滅チャリティ募金箱があるといいですね。

とまあ、「真っ赤なバラと白いパンジー 子犬の横にはあなた」みたいな勢いで妄想は膨らむわけでございますが、まず無理だろうなあ。頑張っても採算取れなさそうだもんなあ。

ああ妄想を書き連ねているうちにこんな時間になってしまった。
日付が変わらないうちにとりあえず投稿いたします。
ああ、ああ、ほんとに情けない。

明日に続きます。



30th anniversary 2

2013-08-07 | KLAUS NOMI
30th anniversary 1 の続きでございます。

3月30日 ネットラジオでノミの番組が。
Epstein Bar - Klaus NOMI SPECIAL BaR 30.03.13 Radioshow

約1時間。ありがたいことに、まだ聴くことができます。
まあひたすら音源をつなげただけの番組ではあるのですが、普段一緒には聴かないものが隣り合っていたりしますと、新鮮な感じがいたします。とりわけ「あなたの声に我が心は開く」→「Ding Dong the Witch Is Dead」の流れが素晴らしいですね。この二曲を歌っているのが同じ人であると、いったい誰が信じるであろうか笑。
最後の「Cold Song」は例の1982年ミュンヘンでのライヴの音源(プレイリストでは1983年となっていますが、これは誤りでしょう)。ワタクシこの音源を映像ぬきで聴いたのは初めてでした。こう改めて聴いてみますと、崩壊しそうな音程や声量を必死に保っているのが、いっそう如実に伝わってまいりまして.....つ、つらい。

ところでネットラジオにしても伝統的なラジオにしても、ワタクシは上記の特集番組以外では、ラジオでクラウス・ノミの曲を聞いたことが一度もございません。先々週の『世界の快適音楽セレクション』(NHK-FM土曜日9:00-11:00)は「七色の声の音楽」というテーマでございましたので、当然ヤツの『Cold Song』か『The Twist』あたりがかかってしかるべきと思われたのですが、結局かからずじまいでございました。なんでえ。



4月25日
「ゲイリー・ニューマン VS クラウス・ノミ」
Numan vs Nomi - Gary Numan replicants, GNUMAN occupy space with Mar...

本人たちが出演するわけでは(もちろん)なく、ゲイリー・ニューマンの曲をカバーするシカゴのコピーバンド「Gnuman」と、同じくシカゴを拠点とするアーティストMarc Ruvoloがノミへのオマージュとして立ち上げたバンド「Aspic Tines」が共演するショーだったようです。ちなみにAspic Tinesというバンド名の由来は、アスピック(肉や野菜のゼリーよせ)がノミの好きな食べ物のひとつであったからということです。

ショーとは関係がございませんが、こんなページを見つけました。
「ニューマンとノミ、どっちが凄い?」
Taking Sides: Gary Numan vs. Klaus Nomi

傑作なのは一番下のコメント二つでございます。
「ニューマンは変人になろうなろうと頑張ってたけど、ノミの方は実際に変人だったもんね」
「変人度について言えば、ノミはニューマンよりずっと真性だ」

評価されるのはそこか!と笑



それからこれは2012年末の記事なのですが、たいへん美しいのでご紹介しておきます。
「クラウス・ノミ・ミーツ・イサドラ・ダンカン」
GoSee loves ISSEVER BAHRI. Klaus Nomi meets Isadora Duncan. The avant-garde emotional moving image study of the Berlin based fashion label’s new collection - News - GoSee

ベルリンに拠点を置くファッションレーベルが制作した、2分に満たない短編フィルムでございます。こういうのをファッションフィルムと言うのだそうで。ちょっぴり怖く、どこかユーモラスで、ほどよく無機質で、楽しいわざとらしさもあり、ノミへの直接的な言及はなくともノミっぽいエッセンスを感じさせる、素敵な作品でございます。

なんでまたイサドラ・ダンカンとクラウス・ノミという時代も分野も異なる二人にまとめてオマージュを捧げようという運びになったのか分かりませんが、古典とアヴァンギャルドの融合という点で共通しているということでございましょうか。



分からないと言えば、これまた何だかよくわからないながらも楽しいプロダクトが。

その1
謎のフィギュア。
SpankyStokes.com | Vinyl Toys, Art, Culture, & Everything Inbetween: "Klaus Nomi 1944-1983" custom Android for Mikie Graham's "Mechanized Mad Men" blind box series.

歴史上の偉大な変人たちを、彼らにふさわしい乗り物と共にフィギュア化したもの、らしいです。
ノミ以外にどんな「変人」たちが取り上げられたかといいますと、ダ・ヴィンチ、ウォーホル、ドン・キホーテ、ニコラ・テスラ、ラヴクラフト、それからジョシュア・ノートン 。この面子と比べると間違いなくダントツで知名度の低いノミが、何故あえて選ばれたのかは謎。何故頭がちょんまげみたいになっているのかも謎。でもまあ、かわいいのでよしとしましょう。ノミ以外では、ウォーホルのキャンベルスープ・マシンがなかなかよろしい


その2
生えて来るノミ。
Klaus Nomi ? Best Animated Album Covers

いいと思います。とっても。



さて、ヤツを巡る最近の言説の中で、ワタクシがたいへんしみじみとしましたのは、Art in Americaという雑誌の2011年12月号に掲載された、造形作家Vincent Fecteau氏のインタヴューでございました。記事のタイトルは『TILTING AT CHAOS』。
現代アートには、意味付けや意図の曖昧さという側面がございますけれども、そのことの重要性を語るくだりでノミの名前が出てまいります。

あるアート作品において、その動機や意味が曖昧であることや、価値付けがなされていないこと、時にはふざけているようにさえ見えるということ、そうしたことこそが、鑑賞者がその作品と真剣に向き合うきっかけとなりうる、と述べた後、インタヴュアーから「( Fecteau氏が以前から興味を寄せて来た)クラウス・ノミは、彼自身がどんなにクレイジーに見えるかを自覚していたと思うか」と尋ねられ、こう答えてらっしゃいます。

「自覚していたと思う。彼の歌とパフォーマンスには真摯さがある。ライ・バワリーLeigh Bowery とは対照的だ。バワリーも真摯で美しいけれども、それを攻撃性によって守ってもいた。ノミはもっとvalnerable(もろい、傷つきやすい)な存在だったと思う。花のように。ほんの短い時間でしおれてしまう。そして、人々はそれをどのように受け止めたらいいのか分からない」

ねー。もー。
そーよそーよそーなのよ!って思いません?ワタクシは思います。
あんなぶっとんだ恰好をして、あんな奇矯なパフォーマンスをしているにも関わらず、ヤツには「ああヘンだよ、分かってるよ、だからどうした」といった、開き直った所がございません。「ヘンなことやってまーす☆」というおちゃらけもございません。それどころか、共演した他バンドのメンバーがとまどってしまうほどに、真剣なのでございます。
そこまで真摯だからこそ、ヤツのパフォーマンスには表層の奇矯さを圧倒する美しさがあり、そこまで真摯だからこそ、舞台上での無表情な仮面でも隠しきれないもろさ、危うさをはらんでいるのでございます。

もろさということで言えば、ノミ本人、といいますか「ノミの中の人」クラウス・スパーバー本人の危うさ、繊細さ、傷つきやすさということもあったことでございましょう。

身体を危険に晒すのはやめなさい、という友人からの忠告を聞かずに、行きずりの相手と関係してしまう無防備さというのもありますけれども、ステージで歌っている時の、目を見開いた無表情な仮面からは全く想像がつかない、あの普段のはにかんだ微笑みひとつ取りましても、いかにも繊細で、何か危ういような感じがするわけです。特にTVのインタヴューでニコニコと喋っている映像なんかを見ますと、高い台の上にガラスの人形が置いてあるのを見るような心地がいたしまして、ワタクシは微笑ましく感じる反面、何だかそわそわするのでございますよ。
また「子供の頃は、他の子たちからからかわれるのを恐れて、レコードに合わせて歌うという趣味を誰にも内緒にしていた」というドド伯母さんの証言や、客層が異なったニュージャージーでのライヴがひどい不評に終わった後、「彼は数日間、僕らと話もしなかった」という、バンドメンバーであったペイジ・ウッド氏の証言からも、彼が図太さからはほど遠い神経の持ち主であったことが伺われます。

ときに、映画『ノミ・ソング』では、この「klaus didn’t speak to us a couple of days after that but he'd actually get over 彼はその後数日間、僕らと話もしなかったけれど、どうにか立ち直った」という部分に「彼は何日か僕らを無視した」という字幕がつけられております。ううむ、この字幕、どうなんでしょう。これではまるで、ノミがライヴの失敗をバンド仲間のせいにして怒っているみたいでございませんか。
ノミの最も近しい友人の一人であったマン・パリッシュ氏はこちらでヤツがいかにsweetな人物であったかを語ってらっしゃいます。こうしたメモワールからしても、また他の友人・知人の証言からしても、ノミが(少々エキセントリックではあったにせよ)不機嫌だからといって友人たちをあえて無視するような人物であったとは、とうてい思われませんのですよ。

ともあれ、
もしヤツが、攻撃性や開き直りやおちゃらけといった盾によって身を守っていたなら、あんなに危うい感じはしなかったことでございましょう。そしてその方が、当人にとっては楽だったかもしれません。少なくとも、ショーがたった一回不評をこうむったからといって、何日もふさぎこんだりせずに済んだのではないかと。
一方、もしそうしていたなら(実際のノミがそうであるような)時代やジャンルを超えてカルト的に愛される存在には、なり得なかったかもしれません。



そんなこんなで。
ここ30年というもの、地球を留守にしているノミではありますが、広い宇宙のどこかで、ヤツの小さな宇宙船が、ワタクシたちが日々こうして捧げるオマージュを傍受してくれていたら嬉しいですね。
シャイなくせに目立ちたがりであったというヤツのことですから、今もこうして人々をインスパイアしていると知ったら、きっと喜んでくれるのではないかしらん。



まあ、貴方が知ろうと知るまいと、ワタクシどもは勝手に貴方を愛し続けますから。
これからも楽しい旅を続けてね、クラウス・ノミ。



30th anniversary 1

2013-08-06 | KLAUS NOMI
1983年8月6日にクラウス・ノミが小さな宇宙船に飛び乗って星々の彼方へと旅立ってから、地球時間でちょうど30年が経過しました。
それを記念してということでございましょうか、今年はノミ関係のイベントが色々催されております。
まとめて記事にしようと思ったのですが、思いのほか長くなりましたので、二回に分けてお届けいたします。
では。

2月8日~3月7日
ヤツの生と死と芸術を描いたダンスパフォーマンス「Do You Nomi?」が、スコットランド各地で巡回上演されました。



で、DVDの発売はいつですか?
主な出演者は俳優2人とダンサー2人で上映時間は約1時間10分、動画を見るかぎり、わりとコンパクトな舞台のようでございます。
ディレクターのグラント・スミーソン氏(51)はノミの生前からのファンでいらっしたとのこと。

「ノミは1983年に亡くなったけれども、いまだに謎の存在だ。彼についてはよく知られていないし、書かれたものも多くはない」
「でも音楽通の人なら当時からクラウス・ノミを知っていた。ここグラスゴーでさえ」
「パンクやニューウェーヴのファンだけでなく、オペラ好きの人たちにも愛されていた」
「冷戦終盤、そしてレーガン、サッチャーの時代だったあの頃、核戦争で世界が終わるかもしれないという雰囲気を皆が感じていた。ノミの異世界性(otherworldliness)はある意味、そういう現実からの逃避の試みだった」
「彼は70年代末から80年代初頭を象徴するようなキャラクターだった。つまり、まだポップスターが商品化されていなかった時代だ」
「80年代を通して、ポップスターのパッケージ化が進んだ。パンクからニューウェーヴへの移行期にあたる1983年前後は、ミュージシャンにとっても、実験的な活動という面でも、実りの多い時期だった。クラウス・ノミの世代はその最後にあたる」
「彼が生きたのは変化の時代でもあった。彼は私が聞いた中で初めてのエイズによる死者だった」
「 individualism(個人主義、独自性、個性の発揮)の問題。素晴らしい才能の持ち主であったにも関わらず、彼はとてもシャイな人物だったのだと思う」
「小柄で、子供の頃はいじめられたんじゃないだろうか。同性愛者でもあったし、あの時代に彼が自分らしく生きるのは大変だったろう。そこで彼はニューヨークへ逃れた。そこでなら安心できるし、なりたい自分になれると感じたのだろう」
「そこから彼の舞台上のペルソナは、彼自身を表現するための仮面となった」
「私は今でも彼の曲を聴く。彼の声にも、存在全体にも魅了される。(この劇によっても)謎の根幹に達することはないだろう。だからこそ彼の物語は魅力的なんだ」


原文は↓こちら。画像はこの劇におけるノミとボウイ。

THEATRE - Do You Nomi, at the Tron | Evening Times

それにしても。
以前にも申したかもしれませんが、こういう画像を見ますと、あの「教会へ行く火星人」のような恰好が似合う風貌というものが、いかに特殊な存在であるかがよーく分かりますね。
子供のように頭でっかちな体型、人形のように細い首、目も鼻も頬骨も顎の線もこぞって鋭角な顔立ち、むやみに秀でた額、そしてあの、思いがけなく無防備な微笑み。どんなにそっくりの衣装やメイクをまとったところで、これらを真似ることはできませんもの。

スミーソン氏のコメントの中で、’70末~’80初という時代の社会的な雰囲気と、そこからの逃避としての「異星人ノミ」について語られておりますね。ノミの友人で『Total Eclipse』や『After the Fall』を作曲したクリスチャン・ホフマン氏も、同様のことをおっしゃってましたっけ。

「彼の歌の中でも一番バカバカしいもの(『Lightnin' Strikes』)にしても、震えが来るほど荘厳な曲(パーセルの『Death』)にしても、差し迫った黙示録への意識があって、それが曲に説得力を与えている。クラウスにとって、黙示録は浄化のメタファーだった。シニカルな無関心やあきらめが蔓延している中で、彼は風変わりな楽天主義者として、あえてよりよい世界を信じたんだ」

原文はこちら。
Klaus Nomi Home Page Keys Of Life

ワタクシ自身は核戦争の恐怖というのを身近に感じたことはない世代でございます(世代というより、地域によるものかもしれませんが)。物心ついた頃にはまだベルリンの壁はありましたけれども、核ミサイルは「飛んで来るかもしれないもの」というよりも「とんでもないお荷物」であり、核戦争というのはあくまでも『最後の子どもたち』『風が吹くとき』といった深刻なフィクション作品の中だけのものでございました。ですから上記のコメントのように、当時漂っていた終末感との絡みでノミについて語られても、そういうものか、ぐらいにしか思っておりませんでした。

2011年3月11日以来、つまり日本がこんなことになってみて初めて、あの時代にあのフザケタ恰好で『Total Eclipse』や『After the Fall』を歌うということが、どんなにとんがった行為であったかが、少し分かったような気がしております。
”人類に警告をしに来た宇宙人”が、「放射性降下物ばんばんでもう誰も残ってないや」とか「原子に還りながら身体がばらばらになるまでラストダンスを踊ろうよ!」とか「何百万年もかけて築き上げた文明を、ぼくらは電気椅子にかけちゃう!」とか「放射能まみれでミュータントだらけだけど、大丈夫、明日は来るさ!」とか歌うんですぜ。...

それでも人類がきちんと警告を聞いて来なかったもんですから、ノミの眷属たちが今もこうして↓出張して来てくれているのでございます。

原発ナシデ暮ラスノミ - Kai-Wai 散策



2月23日
以前の記事でもご紹介したDJヘル氏が『COLD SONG』のリミックス版をリリースしたのに合わせて、ベルリンのナイトクラブでPV上映およびライヴイベントが開催されました。
SHIFT: Klaus Nomi x DJ Hell x Voin de Voin&Kinga Kielcynaska

DJヘル版『COLD SONG』のPVはYoutubeで見ることができます。が、あえてここには貼りません。ワタクシには残念ながら、あんまり素敵な仕上がりとは思えませんでしたので。とりわけ映像の方ですが、頽廃的な雰囲気ですとか、荘厳さと隣り合わせのキッチュ感といったものを醸し出そう醸し出そうとはりきりすぎて、いささかダサめなものになってしまっているような気が。
ダサめなんて言い過ぎかしらん。原曲に思い入れがありすぎるため、見方が厳しくなってしまっているのかもしれません。いやいやしかしノミファンたる者にとって、この曲を思い入れなしに聴くことなんて不可能ではございませんか?

映像を制作されたVoin de Voinさんによると「オペラ(パーセルによる『アーサー王』)のストーリー、特にアーサー王が魔の森に入って行く場面をベースにした。だからここには死を免れない普通の人間と、魔法使いや死の天使といった別世界の存在が登場して、互いに混ざり合う。常に視点を変えることで、物質と非物質、天国と地獄、見えるものと見えないものなどのテーマを巡って、色んなコミュニケーションの道筋が開けるようにしたんだ。いわば、決して達成されることのない精神的な探索だ」...とのことです。

映像の制作者自身による詳しい解説(英語)はこちらで聞くことができます。
DJ Hell presents: Klaus Nomi - Cold Song // Image Analysis by Voin de Voin & Kinga Kie�czy�ska on Vimeo

ともかく、こうしてヤツに新たなスポットライトを当てていただけるのは嬉しいことでございます。これを通じて原曲を知るかたもいらっしゃるかと思いますしね。



3月15日~4月27日
ジェンダーの曖昧さを扱った小展覧会『Ladies & Gents, Unsexed』開催。
イースト・ヴィレッジにおけるノミの貧乏アーティスト仲間であり、ヤツの作るパイやケーキに日常的にありついた友人の一人でもある写真家、マイケル・ハルスバンド氏によるノミの写真が展示されました。
どうもサイト名で自動的に弾かれるらしく(商業用サイトとみなされるため?)、記事へのリンクはできませんでした。上記の展覧会タイトルで検索すると出て来ます。別に怪しいサイトではございません。トップには映画『ノミ・ソング』でも紹介された、真正面向きのアイコニックな写真が。

ハルスバンド氏もコメントを寄せてらっしゃいます。
「彼は人目につくけれど、とてもあか抜けて(refined)いた。ここで着ているプラスチックの奇妙な衣装は、彼が自分でデザインしてブロードウェイの業者に作ってもらったもの。この撮影の時に始めて身につけたんだ。ポーズを少しずつ変えながら20ロール分撮影した」とのこと。
つなげたらアニメーションができそうですな。
それにしても例のプラスチックタキシード、この時初めて着たとは信じられないようでございますね。だってあれ、この世に生まれて来た時から身につけ続けているかのような似合いようじゃございませんか。

ハルスバンド氏はrefined(洗練された、あか抜けた、上品な)とおっしゃておりますけれども、同じく友人の一人であったアン・マグナソン女史も、普段のノミを描写するにあたってsophisticated(洗練された、あか抜けた、しゃれた)という言葉を使ってらっしゃいますね。具体的にどんな風だったのかを、ぜひとも知りたい所でございます。同女史の「いつも黒服を着ていて、すごくドイツ人っぽかった」という証言もありますが、「ドイツ人っぽい」ってどんなんだ笑。

話はそれますが、少し前にVoltaire(ヴォルテール)と名乗るキューバ系米人ミュージシャンの『The Devil's Bris』というアルバムを買ったのです。ちなみに『カンディード』の作者とは無関係。黒地にちっちゃい白抜き文字で印刷された、いかにもゴスで甚だ読みづらいライナーノーツをよくよく見たらば「cover photo: Michael Halsband」とあるではございませんか。
ををををを!これノミのお友達じゃんか!!と、ミュージシャン本人とは関係ない所で興奮してしまいました。


次回に続きます。

HGzG!

2013-01-24 | KLAUS NOMI
うわあ
のみぐるみ。

FRESH CITY | Klaus Nomi Sculpted in Felted Wool

というわけで
本日はクラウス・ノミの誕生日でございます。
ちなみにタイトルのHGzGはドイツ語のHerzlichen Glückwunsch zum Geburtstag(お誕生日おめでとう)の略。
いちいち単語が長いんだからもう。

さて今回は以前の記事でちらっと言及しましたサブカル系雑誌、COILHOUSEの記事をご紹介いたしたく。
紙面はイラストを提供されたアーティストのHP↓で見ることができます。
Klaus Nomi drawings in Coilhouse magazine | Hormazd Narielwalla

ノミへの手紙という形式をとって、ヤツの生と死と芸術について綴った、いわば小ノミ伝といった文章でございます。内容はおおむね映画『ノミ・ソング』を要約したようなものであって、特に目新しい情報というのはございませんでした。しかし、愛とリスペクトに満ちつつもヤツの存在に間に合わなかった無念さを忍ばせるその書きぶりは、ワタクシのような遅まきながらのファンの気持ちを代弁してくれているかのようで、たいへん心なごむものでございます。

あなたがまだここにいてくれたら。カーネギー・ホールで3度目のアンコールに応えて歌うあなたの足下に、温室育ちのユリの大きな花束を投げることができたらよかったのに。テルミンで”宇宙船ここに到来”みたいなノイズを奏でて、あなたに喜んでもらえたらよかったのに。でなければ、この手紙があなたにちゃんと届くように、もっと確実なアドレスを見つけられたらよかったのに。(p.43)

どうです、ここでカーネギー・ホールを持ち出して来てあげる温かさ。
実際の所、ヤツがたとえ69歳となる今日まで生きたとしても、カーネギーで歌う機会があったかどうかは甚だ怪しいもんだとは思いますけれども、ヤツにはこういう、ちょっぴりオーバーで、優しくて、可笑しいくらいに楽天的な語りがとっても似合うんでございますね。
片目をつぶってニッコリ笑って、そういうことにしておこうよ、と小声でささやき合うような、可愛らしい嘘。小さな子供に「あなたは宇宙から来たの?」と問われれば、真顔で「そうだよ」と答えてあげる、優しい嘘。そんなすてきな嘘の上にこそ成り立つのが「歌う変異体クラウス・ノミ」という存在であり、それは例えばサンタクロースの存在形態にも似ております。

もっとも、サンタクロースはご親切にも、冬の夜空を駆けめぐってワタクシたちの所までプレゼントを持って来てくれるというのに、ヤツときたらこの30年というもの、宇宙を気ままに飛び回るばっかりで、ちっともワタクシたちの所に立ち寄ってくれる気配がございません。しょうがないので、地球に張り付いているこちらとしては、せっせとこういうラヴレターを書き飛ばしては、いつかヤツのPony Flyerが信号をキャッチしてくれるのを心待ちにするよりほかないときております。
いけずなんだからもう。

そんなわけで
誕生日おめでとう、クラウス・ノミ。


1月24日

2012-01-24 | KLAUS NOMI
本日は
クラウス・ノミの誕生日でございます。
もうね、1月24日って書くだけでも嬉しいのです。あほだ。

さておき
調べてみるとこの日は宇宙科学関係のイベントが、けっこう色々と起きているんでございます。
1985年、スペースシャトル「ディスカバリー」打ち上げ&米国防総省の機密ミッションにて情報収集衛星を軌道上に乗せる。
1986年、ボイジャー2号、天王星に最接近。またこのちょうど7年前の1月24日には、先輩のボイジャー1号が木星の全体写真を撮影しております。
1990年、日本初の月探査機「ひてん」打ち上げ。
そして2004年には、NASAの火星探査機「オポチュニティ」が火星に着陸。オポチュニティさんは現在もあちらで火星の風土観測を続けていらっしゃるそうです。いつかスリー・ポイント・ヘアの火星人が散歩しているスナップ写真が送信されて来てくれることを、心待ちにいたしましょう。

そう、見てくれは奇抜、発想はヘンテコリン、真剣さはこの上なく、天上の歌声に、思いきってチープな舞台装置と、全体としてわりと常軌を逸しているノミではございますが、ただやみくもに目立ちそうなことをしていたのではなく「宇宙からやって来た歌うミュータント」というきちんとしたコンセプトがございました。そのコンセプトは「クラウス・ノミ」としてステージデビューした時から一貫しており、残された2枚のアルバムにおいても貫かれております。

「ナチからエジプトの奴隷まで」、とにかくパフォーミングしたい奴をかき集めたという「ニュー・ウェーヴ・ボードヴィルショー」の何でもありな空気のただ中で、クラウス・スパーバーがあえて宇宙人というペルソナを選んだのは、もちろん自身や友人たちのSF好きのせいでもありましょうが、彼の世の中への「馴染まなさ」ゆえでもあると思えてなりません。
馴染まない、といっても社会不適応ということではございませんで、自分では普通にしているつもりなのに、なぜか周りから浮いてしまう、ということでございます。異常ってんじゃないけれど、悪い人ではないけれど、あの人、ちょっと変だよね。私達はそういう人物のことを、宇宙人、と呼ぶのでございました。

映画『ノミ・ソング』から当時Adix誌のアラン・プラット氏に証言していただきましょう。

After talking him a while, you realize overwhelming feeling that "What a nice person", and y'know, "What a nice guy". It ws just nice to sit in his apartment which was an ordinary little place and watching him being ordinary guy. But he never really very ordinary.
しばらく彼と話してみたら、僕はすっかり感じ入ってしまった。「何て気持ちのいい奴なんだろう」って。彼のアパートはごく普通の、こぢんまりとした部屋で、そこでごく普通の人として振る舞う彼と一緒に入るのは、とても楽しかった。もっとも彼は普通にしていても、やっぱり少しヘンだったけど。

また皆様ご承知のとおり、ヤツは性的にも音楽的にも、いわば2つの異なるものの中間地帯におり、どちらの領域にも属しつつ、どちらにも属しきってはいない存在でありました。
子供の頃はからかわれることもあったという高いデコをあえて強調するようなあのヘアスタイル同様、日常における微妙な「ヘン」さ、馴染まなさといったものをあえて極限まで押し進め、属さない者、馴染まない者が演じる自己パロディ像として昇華したものが「宇宙人ノミ」という存在だったのでございましょう。



↑「2ヶ月ほど前に亡くなったクラウス・ノミ」と言っていることから、おそらく1983年秋に収録された番組でございますね。3:07~3:25、4:01~4:12、そして4:56~6:00にノミの姿が垣間見えます。
しかし80年代ニューヨークのイケイケな風俗がレポートされる中、ひとりLightning Strikesを絶唱するヤツの見事なまでの浮きっぷりといったらどうです。

テクノ・ポップ (THE DIG PRESENTS DISC GUIDE SERIES)でも「こんな格好が流行っていた訳ではけっしてなく、この人は始めっからこの姿だった」と書かれているように、ヤツのヘンさは「今見るとヘンだけど、80年代にはわりと馴染んでた」などという生半可なものではございません。ヤツの存在は80年代であろうと70年代であろうと2010年代であろうと、ひとしくヘンであり、ひとしく衝撃的で、ひとしくもの悲しく、そしてひとしく、奇妙に美しい。
それはあの、「教会へ行く火星人」のような格好をした、ちっぽけな人物、誰も見たことのないようないでたちで、誰も聴いたことのないような歌を歌うこのひとが、時代も場所も関係なく、全ての「属さぬ者・馴染まぬ者」たちの面影を宿しているからなのでございましょう。


というわけで
お誕生日おめでとう、クラウス・ノミ。



8月6日

2011-08-06 | KLAUS NOMI
本日は
クラウス・ノミの命日でございます。

ここ数年80年代リバイバルがなんとなく進行中なのだそうで。ファッションにせよ音楽にせよ、ひと昔前のものはダサいだけですが、ふた昔前ともなるとティーンの皆様にとっては未知の世界であり、それ以上の人々にとっては懐かしい時代ですから、振り返るにはちょうどいいだけの時の隔たりなのかもしれません。

アート界でも振り返り現象が起きているのか、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館ではこの9月から『ポストモダン:様式と破壊 1970-1990』と題された展覧会が開催されます。
ここで何と、ノミのマネキンが展示されるらしいのですな。

Designing Postmodernism, Part 1: Concept Drawings | Victoria and Albert Museum
↑ The page you are looking for is temporarily unavailable.(一時的に見られない状態です)と突っ返されるかもしれません。時間をおいて試してみてください。

ああ、ものすごく売れたというわけでもないアルバムをたった2枚残して逝ってしまった人が、80年代を飾るアイコンの一人としてこうして取り上げられるなんて、嬉しいではございませんか。キュレーターさんの慧眼に、熱い拍手をさし上げなくては。
ところで80年代アートといえば最近ネット上で「ジャン・ミシェル・バスキアはクラウス・ノミとロマンティックな関係にあったが、バスキアがノミに何度も淋病をうつしたので関係が悪化した」という情報をしばしば見かけるんですが、本当なんでしょうかね?!

さて音楽の方ではくだんのDJヘル氏が、この5月に発売されたコンピレーションアルバム『Coming Home』で『Cold Song』を取り上げてくだすっております。記事にする順番が前後しましたけれども、そもそも『TEUFELSWERK』を買うはめになったのはAmazonで『Coming Home』をチェックした際、お勧め商品として紹介されていたのが目に入ったからでございまして、つまりは”ついで買い”させようというAmazonのもくろみにまんまと引っかかったわけでございます。



ジャーマン・ニューウェイヴの楽曲を集めたこのアルバム、いきなりクラフトワークの『Ohm Sweet Ohm』から始まって、かなりポップな曲の合間にニナ・ハーゲンの雄叫びや、いとも厳粛な『Cold Song』が挟まり、愛らしいシャンソン風の『Gute Nacht Freunde』から切れ目なくクラウス・キンスキーのライヴ・パフォーマンス(一人芝居?)に突入し、フェードアウトで幕、という何とも変態的な構成でありながら、これが意外と聴きやすかったり。ニナ・ハーゲンの所は少々音量を下げないといけませんけれどね。さもないと「隣室から異様な叫び声が聞こえる」って通報されそうなので。

ニナ・ハーゲンといえばドイツのポップデュオRosenstolzとオープンゲイの英ヴォーカリスト、マーク・アーモンドと一緒に『Total Eclipse』をカバーしておいでですね。そのPVがYoutubeで見られなくなって久しい...と思ったら、こちら↓で見ることができました。

nina hagen + rosenstolz + marc almond + - total eclipse on melcebu's Videos - Buzznet

終末的でたいへんよろしいですね。恐いです。いやほんとに。

ノミにリスペクトを捧げる、あるいはヤツからインスピレーションを受けるアーティストも、主に音楽とファッションの分野において、年に一人以上の割合で継続的に見受けられます。
昨今話題のレディ・ガガさんについては言わずもがなとして、今年メジャーデビューなさったらしいBLITZKIDS mvt.というドイツのバンドはヴォーカルの女性がNomiと名乗っており、ファッションもメイクも明らかにヤツを意識したものとなっております。童顔に眉無し恐顔メイクかつ無表情というのがよろしい。お人形さんのようでございます。

しかし残念ながら、楽曲や歌唱にはそれほど際立った個性は感じられません。決して悪くはないのですが、ノミの後継者をもって任ずるならば、もっとガツンとはじけた個性を打ち出してくれなくては。曲が耳に残らないというわけではない、しかしそれは心に残る一節があるとか、歌唱が印象的であるという理由からではなく、むしろ単純でキャッチーなフレーズが何度も繰り返されているからであり、またファッションも、奇抜ではあるけれども飽くまでも安全圏内での奇抜さという感じがいたします。以上の二点はガガ嬢にも当てはまることとワタクシ思うのですが。

えっ
クラウス・ノミと比べたらそりゃ誰でも安全圏内に見えるだろうって。
まあ、そうなんですが。そもそもヤツは大気圏外のひとでございますしね。

BLITZKIDS mvt.は2曲目シングルの『Water』で歌詞を確信犯的に無意味なもの(◯◯も◯◯もいらない、ただ水がほしい...の繰り返し)に切り詰め、かつPVでは前作よりもいっそう無表情になっているあたり、なかなかイイではないかと思います次第。このままずんずんロボット的な方向に邁進していただきたいものよと期待をかけつつ、これからの展開を見守りたく。

またファッションにおいてはZarah VoigtというジュエリーデザイナーがNomi collectionというシリーズを売り出しておいでのようです。

Zarah Voigt - NOMI Collection

おお、ノミっぽい。
そう、スリー・ポイント・ヘア、目もと、唇、ボウタイ、プラスチックタキシードの上下そしてトンガリ靴と、頭から爪先まで、モノクロームの三角形が大きさを変えながら縦に反復するヤツの”正装の火星人”ルックは、実は「かたち」としてはとてもカッコイイと思うですよ。
もちろん、変な衣装に変なメイクをまとって裏声で歌う男性、という点のみに注目すればヤツはいたって奇矯な存在ではあり、またその奇矯さがどうしても目につきがちであるということは否めません。しかしただただ奇矯なだけだったら、あるいは、その表現様式が80年代といういち時代にのみ訴えるものであったなら、これほど継続的に、また多くの表現者に、インスピレーションを与え続けることはございますまい。80年代リバイバルが起きているといっても、80年代のあらゆるものがやみくもに再興しているわけではないのです。

バイエルン出身のアーティスト、クラウス・スパーバーは1983年の今日、亡くなってしまいました。それはどうにも否定しようがございません、残念ながら。
しかし宇宙から落ちて来た歌う変異体クラウス・ノミは、少々ひねた人々のためのエンターテイナーとして、そして創造的な人々のためのインスピレーションとして、表舞台からは一歩退いた場所で-----例えるならばお客が出払ったあとのオペラ座、貧乏アーティストが集う安アパート、あるいは街路灯を浴びる夜の雪だまりの上で-----生き続けてまいりましたし、これからもきっとそんな、わびしくも輝かしい場所で、生きていくことでございましょう。


1月24日

2011-01-24 | KLAUS NOMI
今年のNHKニューイヤーオペラコンサートでは「あなたの声に我が心は開く」を聞くことができました。
黒豆とかまぼこでボトル598円のワインを飲みながらうすぼんやりと番組を見ていたのろではございましたが、この曲が来た時には思わずTVの前に正座いたしましたとも。
しかしあれでござますね、やっぱり最後は轟音とピコピコ電子音の入り交じったフェードアウトで締めくくられないと何かもの足りませんね。
何のこっちゃとお思いの方はこちらをご覧下さい。

Klaus Nomi on TV Party


というわけで

本日は
クラウス・ノミの誕生日でございます。

話はまたちと遡りますが、去年の年末美術館「えき」京都で、生誕100年を迎えたキューピーちゃんの歴史と展開を辿る展覧会誕生100年 ローズオニール キューピー展 というものが開催されておりました。今ではマヨネーズとご当地グッズの販促が専門職みたいなキューピーちゃんの様々な側面を見ることができまして、なかなか面白い展示でございました。
ピエロやカウボーイ、水兵さんなどいろんな衣装を着たキューピー人形も展示されておりまして、アクリルケースの中にずらりと並んだ面々を眺めながら、ワタクシは思ったわけです。
ここには何としてもノミキューピーがいるべきであると。
つまり、こういうのが。



まあ、実物のかわいらしさには到底かないませんけどね。

そも、ヤツほどキャラクター化しやすい人もいないではございませんか。スリー・ポイント・ヘアに黒いクチビル、そして巨大なボウタイさえあれば、いや、ボウタイすら必須ではなく、あのヘアスタイルとクチビルさえあれば、それだけでもうまごうかたなきノミの出来上がりでございます。ちょうど長いもみあげとびらびら付きのジャンプスーツさえ備えていれば、それが猫であろうと熊であろうと亀であろうと「エルヴィス・プレスリーの真似をしている◯◯」になってしまうように。
しかも「レトロ風味のSF」というしっかりしたコンセプトが基本にあるので、そのベースの上でいろいろ展開することが可能でございます。そう、オペラにロックにテクノポップにマレーネ・ディートリッヒの持ち歌と、ジャンルも曲調もあんなにもバラバラな曲を収めたアルバムに統一感を待たせることができたのは、「遠い星からやって来た小さな宇宙人NOMI」というコンセプトと、それを演じきるヤツの存在があってこそでございましょう。

やはり映画『ノミ・ソング』でマン・パリッシュらが語っているように、メジャーデビュー以降、そうしたもともとのコンセプトを顧みない売り出し方をされたというのはまことに残念なことでございます。アングラ時代のライブ映像に見られるようなレトロSF路線で展開することができていたら、今も昔もアーティストとしてもっと真面目に評価されたのではないかしらん。

ところで先日劇場にて往年のフランス映画『地下鉄のザジ』を鑑賞したのでございますが、ノミが生前、他のどの国よりもフランスにおいて高く評価されたということに、この映画を見ていて何となく納得がいきました。画面いっぱいに繰り広げられる、わざとのわざとらしさと申しましょうか、型にのっとりつつそれを極端に誇張して崩す、という大真面目なおふざけ精神は、ノミ的スピリットに大いに通じる所があると思われるからでございます。

でも案外、本人に聞いてみたら「アーティストとして見られようとゲテモノとして見られようと、楽しんでもらえるならそれでいいよ」と言ったかもしれませんね。例のはにかんだ笑顔を見せながら。

そんなわけで
お誕生日おめでとう、クラウス・ノミ。




ところで本当は↑のようなキューピーを、実際に作りたかったのですよ。しかしノーマルなキューピー人形をどこで入手したものかわからぬままに今日を迎えてしまいました。キューピーノミを作りたい作りたいと思っていたら、夢にまでキューピー人形が出てまいりました。
いや、出て来てほしいのはそっちじゃなくて。



8月6日

2010-08-06 | KLAUS NOMI
本日は悼む日でございます。

もちろん1945年の広島の劫火のただ中で、そして黒い雨の下で、地獄を見ながら死んでいった人たちを。
そして1983年のニューヨークの隔離病棟で、謎の病に蝕まれてひっそりと死んでいったアーティストを。
前者については世界中の皆様に悼んでいただきたい。後者については、ほんの一握りの危篤な方々に悼んで頂ければ結構かと存じます。そして今これをお読みんなっているあなたもその一人であるならば、ワタクシはとても嬉しい。

本日は
クラウス・ノミの忌日でございます。

このごろ版画づいておりますのろ、ノミで蔵書票を作ってみましたよ。
今年はワタクシにとって映画『ノミ・ソング』の鑑賞5周年でもあることですし。



絵具の固さを調整するのが難しく(なにせこの暑さでたちまち乾いてしまうのです)、残念ながら多色刷りの方はあまり綺麗にできませんでした。もう少し涼しい時期にまた挑戦してみようかしらん。
ともあれ、比較的うまく刷れたものをさっそく『完全演技者』に貼ってみました。



うっとり。

さて、当ブログにて、ヤツの半生の映画化企画について取り上げたことが何度かございました。
その後この企画はヤツの親友であったジョーイ・アリアスが進めているようでございます。

Klaus Nomi Movie In The Works! - New York News - La Daily Musto

ノミ役にはやはりアラン・カミングを念頭に置いているとのこと。企画が持ち上がった時点ですでにノミの年齢をこえていたカミング氏、そうこうしているうちにもう45歳になってしまったわけですが。去年かおととしにDVDで『ヘドウィグ・アンド・ザ・アングリーインチ』を観た時は、ジョン・キャメロン・ミッチェルって理想的なノミ候補ではないかと思ったのですが、この人も今や47歳なのでございますね。ワタクシとしては以前にも申しましたように、ドイツ語、ギョロ目、そしてデコの高さからキンスキーJrを推したい所。またデコという点で言えば『The Long Firm』で男娼を演じていたロバート・ボウルターという若いのも、なかなかよいデコの持ち主でございました。



どうです。
しかしまあ、この中で最も抵抗なくノミを演じてくれそうな人はアラン・カミングでしょうね、やっぱり。

それから、なんとフランスでもミュージカル化企画があるようでございます。

Klaus Nomi! - Tartuffe's Folly
A biographical musical fantasy, “You Don't Nomi”, is currently being developed and written by French playwright Baptiste Delval with no information about when it should hit the stage.

現在、フランスの劇作家Baptiste Delvalによって伝記ミュージカル・ファンタジー“You Don't Nomi”の企画が進行中。しかし目下の所、いつ舞台にかけられるかについては情報がない。


いつになるかは未定とのことですが、映画とあわせて2013年に完成・公開されるといいなあと、のろは思っております。
なぜって、2013年はヤツの没後30周年にあたるんでございますもの。
ヤツを追悼し、改めてそのぶっ飛び加減と美しさと愛らしさを評価するのには絶好の年ではございませんか。

ぶっ飛び加減と美しさといえば、最近こんな素敵なブログ記事と巡り会いましたですよ。

What Power art thou, who from below...:・葡萄庵 道草双紙--l'annexe--:So-netブログ
dido's lament:・葡萄庵 道草双紙--l'annexe--:So-netブログ

ヤツのことを真面目に語ってくださっている文章と出会うのは、本当に嬉しいことでございます。まあ、真面目であろうとなかろうと、語ってくれるだけでもありがたいんですけれども。特に浅学なのろは音楽を語る言葉を持ち合わせませんので、こちらさんのようにヤツの音楽性について延べておられる記事に出会いますと、ナルホドと感服する一方、ヤツがこの評価を聞いたらさぞ喜んだであろうに、てなことを思わずにはいられないのでございました。


1月24日

2010-01-24 | KLAUS NOMI
音楽は家で聴く派でございますので、いわゆるMP3プレイヤーの類は持っておりません。
こんなのがあったら欲しいんだけどなあ。10個ぐらい。
ずらっとならべてTotal Eclipseを輪唱してもらうの。



というわけで
本日はクラウス・ノミの誕生日でございます。

さて、相も変わらず日々ノミサーチに余念のないのろ、先日ヤツの名前でブログ検索をしておりましたら、こんな論文にぶちあたりましたですよ。

Project MUSE - Women and Music: A Journal of Gender and Culture - "Do You Nomi?": Klaus Nomi and the Politics of (Non)identification

本文はこちら。
"Do You Nomi?": Klaus Nomi and the Politics of (Non)identification | Women & Music | Find Articles at BNET

「クラウス・ノミと(脱)同一化の政治学」。
早速読んでみますというと、以下のような内容でございました。

まずは導入。
ノミが同時代の人々を魅了した要素というのは、ひとつには、本来なら全く異質な世界に属しているもの同士を組み合わせたようなその容貌(ステージ上でもプライベートでも)、ひとつには幅広い声域とオペラからシンセポップまで及ぶレパートリー、そしてもうひとつには、彼が既存のアイデンティティモデルに依らない、自由な自己像を創造したという点で、このことは今もファンの心を惹き付けてやまない、しかしここにはもっと複雑な問題がからんでいる、と。

そして「アイデンティティ」という広義に使われる言葉を、ここで論じられる文脈に沿って「個々人が、既存のある社会的グループに所属していると認めうるような、文化的帰属感覚」(例えば、そのグループの成員と似たような恰好をする等の行動を伴う)と定義する。価値観を共有するグループに身を置くという点で、アイデンティティとは優れて社会的・政治的な観点を含む上、ちょうど言語がその使い手の思考や行動様式を規定するのと同様に、アイデンティティはそれをまとう人物を規定し、ある型に押し込める側面を持っていると論じる。
ここで再びノミ登場。ヤツがいかにあらゆるアイデンティフィケーションから逸脱した存在であったかを、同時代人の証言を引きつつ論考したのち、思想家ジュディス・バトラーによる以下の言葉を引用。
If we are not recognizable, if there are no norms of recognition by which we are recognizable, then it is not possible to persist in one's own being, and we are not possible beings; we have been foreclosed from possibility.
「それが何者であるかを認識/承認できないようなもの、つまり、それによって認識/承認されうるような名詞(のろ注:例えば犬、鳥、人間、男性、女性...等)を持たないものが存在を継続することは不可能だ。存在とは可能性ではなく、可能性からの阻害なのだから」という訳にでもなりましょうか、こなれない日本語で恐縮でございますけれども。

続いて、ノミのようにラディカルに既存のアイデンティティを拒否する存在は、つまる所、他者からの承認を得られず、阻害される運命にあるのではないかと述べる。
結論としては、既存のアイデンティティモデルに組み入れられるのは窮屈だが、かといってノミのように徹底的にアイデンティフィケーションを拒むことは、即ち他者からの承認を望めない、社会的に阻害された存在となることであり、いずれ立ち行かなくなる生き方である、そこで我々が取りうる道は、脱同一化、即ち既存のアイデンティティを新たなものへと作り替えていくことである。

...といった論旨。
うむ、そうですね。そうはそうではございますが。
脱アイデンティティを論じるのに、ノミというモデルはあまりに極端ではございませんか。極端だからこそ彼を選んだのかもしれませんけれど。
それから、映画『ノミ・ソング』の美的な終幕に即して、ヤツの早すぎる、しかも悲惨な死は、アイデンティフィケーションを拒む者に下される間化と社会的阻害の象徴のようだ、という述べるくだりは、論文としてはあまりにも情緒的なおっしゃりようでございます。たとえ象徴的に見えたとしても、ヤツが「歌う変異体クラウス・ノミ」というキャラクターに託して社会的同一化を拒否したことと、謎の流行病だったエイズによって早逝したことの間には、何の因果関係もございません。

思うにノミの早すぎた死について、ファンが取りうる観点とはおおむね以下の2つに大別されましょう。
a.もっと生きていたらもっといろんなことをできただろうに、不慮の死によってその可能性が断たれてしまった。
b.あまりにも不器用なその生き方ゆえ、居場所のないこの世からそっと退場していくより仕方がなかった。
のろは前者なんでございますが、この論者は後者の観点をとりつつ、人をある型に押し込めるアイデンティフィケーションへの対抗者としてのノミを論じていらっしゃるのであり、その意図の誠実であることには疑いの余地がございません。
また、人が他者を認識するにあたって性識別は重要な要素であり、人は常に他の人間を「女性である人間」あるいは「男性である人間」として認識しようとするため、ステージ上でもプライベートでも性的に曖昧な存在だったノミに対して、人々が「そもそもあれは人間なのか」といういささか突飛な疑いを抱いたのも無理からぬことである、と論じたくだりはなかなかに興味深いものでございました。

何より、ヤツのことを真面目に、しかも好意的関心を持って論じてくださるというのは、まことに嬉しいことではございませんか。
ここ数年、ファッション界ではノミにインスパイアされた作品が毎年のように発表されておりますし、巷で話題のレディ・ガガさんをはじめ、音楽界にも、ヤツからの影響を公言しているアーティストが登場しております。
単なる時代のあだ花、一発屋の奇形的人物としてではなく、リスペクトに値するアーティストとしてヤツの名が語られるのは、全くもって正当なことと申せましょう。もっともレディ・ガガについては、ノミファンからの「形だけ真似てもダメなんだよ!」というお叱りの声を耳にしないではございませんが。のろは彼女についてはあまり存じませんので、何とも申せませんけれども、彼女のおかげでクラウス・ノミというの名のメディア露出度が上がったという点だけでも、たいへんありがたいことと思っております。

そんなわけでノミ、
あなたが聴いていようといまいと、今日は世界のあちこちで、あなたのためにハッピーバースデーが歌われることだろうよ。

お誕生日おめでとう、クラウス・ノミ。


ノミにインスパイアされた作品
2006年の記事↓(ジバンシーなど有名ファッションブランドへの影響が言及されています)
Alien Status - New York Times

2009年春↓
Runway Review: Jean Paul Gaultier Couture Spring 2009 : Glam Damn It New York

00010m.jpg (image)

2009年秋冬↓
+JOE: GARETH PUGH / KLAUS NOMI

Men’s Fashion | The Ghost of Klaus Nomi - T Magazine Blog - NYTimes.com

↑の Gareth Pughとノミの関連についての記事↓(2010年)
Gareth Pugh Spring 2010 Ready-to-Wear Collection

2010年春↓
IS MENTAL: Do You Nomi?

8月6日

2009-08-06 | KLAUS NOMI
ちと遡った話をいたしますと。
6月25日は朝鮮戦争勃発の日であり、モザンビークの独立記念日であり、サザンオールスターズのデビューの日でもあるわけでございますが、今年からはマイケル・ジャクソンの命日としても記憶されることになりました。
彼のセカンドソロアルバム「スリラー」が世界を席巻したのは1982年。その年同じくセカンドアルバムながら万人受けしそうにもないレコードを出し、世界がムーンウォークに熱狂している時にマンハッタンの片隅でひっそり死んで行ったアーティストがおります。

本日はその人の命日でございます。



クラウス・ノミもたいがいではございますが、マイケル・ジャクソンも非常につくりものめいた人でございました。
いえ、、よく取りざたされた風貌のことよりもそのステージ上のありよう、および生活の諸々が「世紀の大スター」かくあるべしとばかりに、あまりにも常人離れしていたからでございます。
奇抜な衣装にロボットのような動き、甲高い声での、ぽそぽそといかにも繊細そうな喋り方、ディズニーランドの貸し切りやネバーランドに見られるぶっ飛んだ金銭感覚、世界規模の慈善事業、そしてプレスリー嬢との結婚・離婚など数々のゴシップ。

Newsweek の追悼記事では、
He did his best to construct an alternate reality on top of what must have been an initially miserable life
惨めだったであろう子供時代の上に別の現実を築くため、彼は最善を尽くした

と書いております。別の現実。まさにそんなイメージなのでございます。マイケル・ジャクソンという人は確かにこの世に存在してはいたものの、それは「マイケル・ジャクソン・ワールド」とでも呼ぶべき異世界においてであり、ワタクシどものいる現実とはちょっとずれた場所にあるような感じでございました。スターというのは概して浮世離れした所があるものではございましょうが、この人の場合は離れようがちょっと桁外れだったように思います。

異世界の住人よろしく、生前からよくピーターパンに例えられておりましたし、本人も自身をピーターパンになぞらえる所があったようでございます。老いも汚れも知らない永遠の少年にして大スター。そんな人物の顔にはほんのわずかな醜さもあってはならず、その住まいは畢竟、ネバーランドでなくてはならなかったのでございましょう、


話をノミに戻しますと。
確信を持って申しますが、たとえノミが1983年の今日に逝ってしまわずに、ずっと長生きしていたとしても、マイケル・ジャクソンのような世界的大ヒットを飛ばすことは決してなかったことでございましょう。それでもマイコーさんのように、と言っても彼に比べたら遥かに慎ましい収入が許す範囲で、「ノミワールド」を作り続けたことでございましょう。
それはきっと、公私に渡るヘンテコなファッションやステージ上の小道具といった程度のごくチープなもので作られる世界であり、領土のほとんどを-----ビバリーヒルズやサンタバーバラではなく-----大気圏外という名の想像の世界に保有しているような王国でございます。
そして世界的大ヒットにはあえて見向きもしないような、ほんの一握りのひねくれ者たちが、マイケルファンが彼に寄せるのと代わらないほどの愛情と熱狂を持ってその王国を讃えたことでございましょう。
そうなっていたら、本人は「どうしてマイナー受けしかしないんだろう?」といぶかしく思っていたかもしれませんがね、なかなかに変な感性の持ち主だったようでございますから笑

それにしても
のろは残念ながらあの世ですとか天国ですとかそういうものを信じることができないタチなんでございますが、あの世ってのは、あったら実に面白い所でございましょうね。だって、みんないるんでございますよ。



マイコーさんがムーンウォークを始めて披露したのは1983年5月のことなのだそうでございます。
その頃ノミはすでに集中治療室に入院して(その頃のニューヨークにはエイズ専門病棟は無かったようです)、免疫系統が破壊されやせ細った身体でさまざまな病苦と格闘していたはずでございます。今や知らぬ者とてないかのムーンウォークを、ノミは見ることもなく死んで行ったのかもしれません。
「あちら」で、初めて見る奇妙な動きに魅せられているヤツの姿なんぞを想像いたしますと、それなりに心安らぎます。
げにも、「あの世」とは生者のためにこそある場所なのでございましょう。




ロボットなひと

2009-06-10 | KLAUS NOMI
本日は
ロボットの日なんだそうでございます。
ロボットみたいな人の話をいたしましょうか。

PATRICK WOLFというシンガーソングライターが新曲"HARD TIMES"のPVでプレスリーとクラウス・ノミへのトリビュートをしてらっしゃるのだそうです。

PATRICK WOLF - "HARD TIMES"


おおっ
確かにちょっとノミっぽい!
でもって、いますよ、いますよ、何かカクカク動いている逆三角形のものが!
ああして両側にずらりと並んでいる様はなかなかに壮観でございますね。
ロボット風にカクカク動いているけれどもどう見ても人間がやってます的な動きの荒さというか不揃いさですとか、オブジェのように静止していてもゆらゆら動いてしまう「うそっこオブジェ」感もよろしうございます。蛍光色ともども微妙に安っぽく、とてもノミ的でございます。
CGで何でもできる昨今でございますから、完璧にロボットのような動きを再現することもやろうと思えばできたはず。それはそれで面白いものになったかもしれませんが、あまりノミ的とは言えないような気がいたします。

そう、あんな人間離れした恰好でカクカク動いてはいるものの、ノミはちっ とも本物のロボットには見えません。ロボットダンスが下手っぴいだからでございます。ヤツをこよなく愛するワタクシとて、「あれはわざと下手に躍っているのだ」などと言うつもりはございません。あれが精一杯だったのでございましょう。
そして、それでよかったと思います。当のろやで再三申しておりますように、あのみえみえな作り物感、まがいもの感はヤツの魅力のひとつだからでございます。

”COLD SONG”を始めとしたオペラナンバーは別として、ヤツのパフォーマンスはどれもこれも、昔のB級SF映画のようにわざとらしく、うきうきするほど馬鹿馬鹿しく、滑稽で、突拍子もなく、そしてほんの少し、もの哀しい。
本日のノミ話はヤツがうそっこロボットであることと絡めて、この「ほんの少しのもの哀しさ」にフォーカスしてみようかと。

ノミのことを知った当初は、のろがヤツの歌にもの哀しさを感じるのは、何を聴いてもその早すぎる死を思ってしまうからかしらん、と考えておりました。しかしノミが元気で歌っていた当時のプレスですでに「哀しき道化師」という言葉が一度ならず使われていることから考えても、ヤツのパフォーマンス、ひいては「歌う変異体クラウス・ノミ」という存在そのものが、演者の運命とは関わりなくそれ自体のもの哀しさを宿していると見てもよろしいのではないでしょうか。
そのもの哀しさは、ひとつには周りの世界とあまりにも馴染まないがゆえの孤立感の哀しみと見ることができましょう。
またひとつには、フランスのリベラシオン紙などが正しく表現しているように、道化師の哀しみであると申せましょう。
演者自身は決して哀しみを意図しておらず、それどころか観客を楽しませることに全力を傾けているにもかかわらず、観客の心に、いわば勝手に湧いてしまう哀しみ。

その哀しみとは一体何でございましょうか。
笑いを誘う挙動は、本当は観客を喜ばせるための真剣な演技であるということ。
そして観客の反応がどうであろうと、人目にさらされている限り、道化師の役を降りることは許されないということ。
いずれにしても、道化の顔の裏側にある、道化ならぬ人間の存在が哀しみと結びつくのでございます。

ノミのロボットと言うにはあまりに人間らしい動き、あまりに人間臭い歌声は、白塗りの顔とプラスチックのタキシードの向こうで一生懸命、大真面目にロボットを演じるひとの存在を示さずにはおきません。
だからこそヤツの歌もPVも、しばしば爆笑に値するくらい可笑しいにもかかわらず、一抹のもの哀しさをたたえているのではないでしょうか。

TH(トーキングヘッズ)叢書編集長の沙月樹京(鈴木孝)氏はヤツのロボット姿についてこうおっしゃっています。

なら彼は、人間性を捨てて機械になろうとしていたのか-----おそらくそれは正しくないだろう。彼は「シンプル・マン」なのだ。「シンプル・マン」は自分ができる範囲内のシンプルなことをするんだ、と彼は歌う。複雑で回りくどいことを目論んだりせず、歌を歌いたいならただ歌を歌っていようという単純な考えであり、その愚直さがロボット的な容姿に託されているのではないだろうか。 TH叢書No.18 p.99

ロボットが愚直さの象徴であるなら、それを更に愚直に、一生懸命に、それでもなおちょっと下手っぴいに演じざるをえなかったひと、そしてそんなナイーヴな姿でもって人々に大きなインパクトを与え、今もって与え続けているひとを何と呼んだらいいのでございましょう。
ヤツはその姿恰好のみならず、そのありよう自体が道化的であり、破壊的な可笑しさと、ほんの少しのもの哀しさを兼ね備えた存在であった/あるのであろうと思います。

ノミ自身がこうしたもの哀しさを意識していたかどうかは不明でございます。
しかし”SIMPLE MAN”の終盤あたりを見ますと、ああこのひと分かってやってたのかな、とも思うのでございます。

Klaus Nomi - Simple Man






楽町楽家’09

2009-05-10 | KLAUS NOMI
やりたくない病
そんな病気はないんだちくしょうめ


それはさておき

今年も楽町楽家のポスターイラストを描かせていただきました。



2005年から始まったこのイベント、5年計画計画でいらっしたということでございますので、今年でひと区切りでございます。来年以降開催されるのかどうかは存じません。開催されるとしても、のろがポスターイラストを描くことはおそらくございますまい。のろには力量も引き出しも無いということがこの4年でとくとお分かりいただけたと思いますから。

ところで
毎年恒例クラウス・ノミ、今年もいるのかって。
ほっほっほ。もちろんおりますとも!
ほらっ



今年は思い切ってスリー・ポイント・ヘアにしてみたんでございますが、出来上がったポスターでは残念ながら頭頂部にロゴがかぶさって、このヘアスタイルも隠れてしまいました。
Ach, schade(あー残念)!
まあ、デザイナーさんが意識的に隠されたのかもしれません。
そもそもイラストレーターはこういう変な物を描いてはいかんのです。
しかしはっきりとお咎めがないのをいいことに、あの人やらこの人やら、密かに描きこませていただきました。

バスター・キートンとロスコー・アーバックルとアル・セント・ジョン



クラウス・キンスキーとヴェルナー・ヘルツォーク



天国からお忍び来日 フリードリヒ・グルダとカルロス・クライバー



↑ちなみに共通点は別にございません。単にのろが好きだというだけで。

この他にも鞍馬天狗さんやら川端康成さんやら東山魁夷さんやらいらっしゃいますので、暇で暇で死にそうだという方は探してみてくださいまし。




1月24日

2009-01-24 | KLAUS NOMI
*1/29 なぜか前半部分が消えてしまいましたので、再度UPいたします。少々初めとは文面が違うかもしれません、あしからず*



日食を2日後に控えて 本日は クラウス・ノミの誕生日でございます。 ええ、もう。せっかくの日食でございますよ! 2日くらい早めてくれたってよさそうなもんですのに、お天道様も不粋でございます。

さておき。 ノミがこの世にやって来て、今年で65年でございます。
ううむ、のろよりずいぶん年上なんだなあ。当たり前だけど。
ヤツの年齢は39で止まっておりますが、それにしたってだいぶ年上でございますし、残っている映像の中のノミも、たいがいは今ののろよりも年かさか、せいぜい同じぐらいでございます。ところが妙なことに、約3年と4ヶ月前に映画『ノミ・ソング』でヤツの存在を知って以来、のろは一度もそのように感じたことがなのでございます。むしろヤツはのろよりもずっと若い人のような気がしているのでございます。

そう感じるのは、ヤツのぶっとんだ歌やパフォーマンスから受ける「ものすごく真剣な悪ふざけ」とでも形容したい印象ゆえか。
あるいはクリスチャン・ホフマンが言う「ママの服でドレスアップするみたいな」ちょっと子供じみた狂騒をはらむ、時代が要請した演出術をヤツが体現しているからか。
それとも、ヤツが見せるはにかんだ子供のような笑顔ゆえか。



ちょうど去年のノミバースデーでご紹介したページではジョーイ・アリアスがこう語っておりますね。
私達は親友でした。彼はすごく楽しくて、セクシーでスマートな人でした。それに子供みたいな好奇心で何でも取り入れました。私より10歳も年上だったんですけどね。

また、当のろやで何度かご紹介しております『ノミ・ソング』英語版トレーラー
には、子供の声でナレーションが入っております。学芸会の口上のようなつたなくて生真面目な口調は、昔のSF映画や70-80年代のディスコの画像に奇妙なほどマッチしております。

誰しも、実年齢とは関係のない「子供性」のようなものを、心の内に持っているものでございます。
「子供性」という言葉で何が言いたいかと申しますと、
既成の価値や意味といったものから逸脱した発想や、とても真剣な遊び。
何もそこまでと思うほどのやんちゃ。
面白そうなものはとにかくやってみる好奇心。
そして、どこにも属していないボーダーレスな感じ、などでございます。
そういった「子供性」から出て来るのは、まあ、その性質からして、とんでもないアイディアだったりするわけでございます。例えば、テクノとロックとオペラ---しかもカウンターテナー---とバウハウスとレトロなSF映画と時々マレーネ・ディートリッヒを融合させてみようか、とか。

そういうとんでもないアイディアを、とんでもなく生真面目に実現することで、あのノミのステージができあがったのではないかしらん。だからこそ「いい大人がバカバカしいことをして」と思う人もいれば、のろのようにすっかり魅了されてしまう人もいるのではないかしらん。
もちろん「子供性」というひとつの言葉だけでノミのパフォーマンスを説明するつもりは、毛頭ございません。
ただ、思うのでございますよ。
もしもヤツが1983年8月6日にどっかへ行ってしまわないで、今もこのへんにいたとしたら、齢65を数えたとしても、やっぱりこういう際立った子供心を持ち続けていたのではないかしらん、と。

いずれにしても、本日はヤツのハッピーバスデーでございます。
ノミ、今年もイースト・ヴィレッジやフランスやドイツだけでなく、世界のいろんな所で、君のファンたちが今日を祝うことだろうよ。ロシアでも、中国でも、日本でも。そういう時代になったんだ。君には間に合わなかったけれど。



誕生日おめでとう、クラウス・ノミ。



あの話は

2008-11-01 | KLAUS NOMI
どうなったんでございましょうねえ??
ええ、映画化の話でございますよ。
クラウス・ノミの生きざま、そしておそらくは、死にざまについての。
「映画化決定」というニュースを忘れた頃になってようやく公開、なんてのは、まあ、よくあることではございます。
しかしこの企画についてはそもそも映画化が決定したのかどうかも定かではございませんし、あんまり資金が集まらないやもしれません。題材が題材なだけに。
気長に、かつ、あまり期待は抱かずに続報を待つべし、と自らに言い聞かせるのろではございますが、やはり気がかりなのでございます。題材が題材なだけに。

ああ、せめて制作が本決まりしたのか否かを知りたい所なんでございますがねえ。
で、もし制作が決まったとしても、全身タイツにプラスチック製タキシード、白塗り顔に黒い唇にスリー・ポイント・ヘアという恰好をしてくれる俳優が、はたして見つかるんでございましょうか。それを役者魂でクリアしていただいたとしても、あの恰好をして似合う人間がクラウス・ノミ以外にいるとはなかなか思えません。まあ、いないでしょう。
それでも、それでも、作っていただきとうございますねえ。
それによってヤツの知名度が上がり、ホーン監督のドキュメンタリー以外の観点からのノミ像が描き出され、またワタクシのような遅れて来たファンに、ヤツの更なる足跡が-----それがどんなに些細なものであっても!-----知らされるのであれば。

俳優については、以前アラン・カミングの名前が挙がっておりましたね。
風貌や芸風にはとりわけ不満はございませんが、今年で43歳でございましょう。
すでにノミより年上になってしまってるんでございますよ。
彼で撮るんなら、ちと急いでいただかなくては。

のろの読み間違いかもしれませんが、以前お見かけしたある海外のブログではイライジャ・ウッドがノミを演じるんじゃないかと危惧していらっしゃいましたっけ。
イライジャ・ウッドですと???
いやいやいやいやいやいやいやいや、いくらなんでもそれはありますまい!
別にイライジャ・ウッドに恨みはございませんけれども、このキャスティングはどうあっても、どうあってもいただけません。
そりゃまあ、目は大きいですし鼻はとんがってますし、身長もいいぐらいかもしれませんよ。
しかし、あの首の太さではクラウス・ノミはつとまりますまい。
ええ、つとまってたまるもんですか。

じゃあ誰ならいいんだって話になりますが、そうですねえ。
例の『クリムト』で神経質で子供っぽい雰囲気のシーレを好演したニコライ・キンスキーなんかどうでしょう。
あの濃いぃ眉毛を抜き払ったらわりといいノミに(単に許容範囲という意味ですが)なるんじゃないかと。
背もそう高くはなさそうですし、もちろんドイツ語もできますし、親爺ゆずりのいいドイツデコをしてらっしゃいます。鼻はちとネックではございますが、まあ、これも親爺ゆずりってことで仕方ございません。ただ親爺さんと違って、変態、いやエキセントリックさで売っているわけではないようでございますので、はたして全身タイツにプラスチックタキシードを着込んでくださるかどうかは甚だおぼつかない所でございます。

そうそう。話は変わりますが映画と言えばノミ、在りし日のインタヴューで「サロメ」を映画化したいって言っておりましたねえ。
サロメと言えばモローさんでございます。



ノミのサロメってどんなのかしらん。
こんなのかしらん。



いっそサロメだけでなく、登場人物全員ノミで撮ってほしい所でございました。
ヘロデもヘロデヤもヨハネもナラボスも全部ノミ。
おおっ
これは見たい!
いや、見たかった…。