仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

やまぼうしの生命力

2010年08月25日 | 浄土真宗とは?
西方寺の墓地を増設している。その増設地に、やまぼうしを5本植えた。一本は土を替えて植樹したので、青々と茂っている。4本は、コンクリートに囲まれた中に、土壌も水はけの悪い場所に植樹した。その4本は2カ月経った8月初めには、葉をすべて落として、枯れ木状態になってしまった。なにしろ今年の日照りです。

植木の購入元は「大丈夫、来年には葉をつけます」という。それでも懐疑心は去らず、直接会って話を聞くと、植物の本を何冊か出版している大家で、細かく説明してくれた。

「環境が悪いので、木は自分で葉を落としたのです。葉が落ちるときに紅葉して葉を落とした。これは木に力がある証拠です。」という。

10年くらい前、ある出版社から「お寺の掲示板」という本を出すことになり、私も5点、法語を作って掲載した。その中に上記に通じる言葉とその解説を書いた。

“枯れた木の葉は散らない。落葉は生きている証です”

 裏庭に赤い花をつけるさるすべりの木がある。昨年、台風の為か、気がついたときには太い枝が折れ、ぶら下がっていた。冬が来て、木の葉は落葉しても、折れぶら下がった枝の葉は、運命共同体のように、折れた枝と共に枯れていき落葉することがなかった。落葉は木が生きている証なのです。
「木はおしっこをする」と、生物の先生から聞いたことがあります。おしっことは排泄物を身の外に出すことです。落葉樹でない木も、排泄物を葉にため、その葉を落葉させることによって排泄するのだそうです。落葉は、木が生きているいのちの営みなのです。
 私たちも無常の命を生きています。無常という自然の道理からいえば、死は必然であり、生こそが偶然の営みのようです。死ぬときが来たら、すべてを阿弥陀さまにゆだねて、握りしめている手をパッと開いて、落葉する葉のように終わって往けたらいいですね。どのような落ち方をしても、そこは阿弥陀さまのみ手の上なのですから。(以上)

やまぼうし、また葉をつけてくれたら見事です。
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