昨日の男の子の「きれいだね」はどこに消えてしまうんだろう。大人になるにつれ、大概、そう思っても、言うことが出来なくなる。あの子がそうなるって事ではなく、自分の周りを見回したとき、自分を含めどれほどの人たちがそんな思いを表現してるだろか。答えはほとんど否だ。何がそう表現させなくするのだろう。
社会は、教育と称し、子どもたちに空を指差し「青」と呼ぶ。クレヨンや絵の具を与え、「青い」とマークする。それを使って空をかけば、大きな笑顔を返す。そうでなければ渋い顔。こんな具合に空は「青く」なる、なってしまう。
色、これをホントに理解しているのは子どもだと言う。しかも、幼ければ幼いほど色を知っている。なぜなら、彼らは知識と言うフィルターをかけず見るからだ。分類などもしない。
ちょっとでもズレたら…。自分の見たものを自分の言葉で表現したら…。そこに無意識に恐怖に近い躊躇が生まれてしまうのではなかろうか。だから、表現できなくなる。正しい正しくない、ではない。一人ひとりが感じたままではなく、社会が感じるであろうように表現をせさせる。だから、面白くない。となると、一体、教育は何を目指しているのだろう、「知る」ってなんだろう。
《冴え返る 街が田畑が 朱に染まる》
今日の一枚:5時30分ころ、切り通しに向かう畑の中の一本道にて。
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