eラーニングの現状と展望

ネットラーニングHD、ネットラーニング、WIWIW、Phoenix Consulting、各代表取締役 岸田徹

1960年代の寮生活

2012-04-08 09:56:49 | Life in Tokyo
寮の部屋は、サークルごとにわかれていた。わたしはワンダーフォーゲル。1部屋に6人の大部屋が6つある大きなサークルだった。寮全体では800人がいた。それでも希望者全員がはいれたわけではない。

1人には、ベッドと机のスペースがある。本箱とカーテンで自分の空間を区切って閉じこもる者も、オープンにしている者もいた。

消灯はない。それに、朝までだれかは起きている。白い壁が黒くなるほど落書きがあった。戦前にかかれた反戦の落書きや哲学的な落書きも多かった。

深夜のティータイムには、ジャンケンでみんなの湯をわかす。紅茶のティーバッグは使ってはぶらさげて乾かして1週間はひとつでまにあわせる。

定期試験になると大変だ。誰かが窓をあけて向かいの寮にむかって大声をだす。ただただ大声を張り上げる。そうすると、向かいの誰かが怒鳴り返す。こちらも味方がふえる。いつの間にか、3階建ての寮のすべての窓が開け放たれて、すべての寮生がこえをかぎりにうっぷんをはらす。30分もすると疲れはてて終息する。

ときには、「ストーム」と言って、サークルごとなどで寮内を嵐のごとくねりあるく。寮生は部屋から出て歓迎するのがならわしだ。もしそれを怠ると、ストームの連中が廊下側の窓ガラスなどをつぎつぎに叩き割る。ストームのうしろには寮委員が必ずついてきて、割ったガラスをメモして、あとからストーム側に修理の請求書がくる。

半年に1回、部屋替えがある。その前日は、どの部屋でも深夜まで全員が飲みつぶれるほど飲みまくる。荒れ放題の部屋は、あたらしく入ったものが掃除するので、お互いさまだ。その日は、夜常駐している医師もやすむひまがない。

銭湯の4倍ほどもある大きな風呂があった。湯は茶色ににごり、底には砂がたまっている。寮生でない運動部の連中が、入浴するのだ。湯に浸かりながら、「偶然性と必然性」の議論に夢中になったりした。

朝食は、「止食」といってすべてキャンセルしておく。昼食はなんとか食べたいのだが、13時までに起きられないこともある。3食宿付きで、1か月5,000円ほどだったと思う。

大学の構内に寮があったので、授業には5分でいける。寮はまた、学生運動の拠点でもあった。

そんな寮生活を共にした7人があつまった。遠く、鹿児島や福岡、岡山、群馬などからもやってきた。

「ただひとつ」は、そのころ、みんなが一番好きだった応援歌だ。カラオケへ行って肩を組んで歌った。さまざまな寮歌から、「アカシヤの雨が降るとき」「神田川」なども。

その寮は、もうない。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿