オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

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きっと誰も覚えていない大型メダル機「The Great Ocean Cup(恵通商事, 1975)」の記憶

2019年03月03日 21時25分40秒 | スロットマシン/メダルゲーム
その機械を見たのは、新宿歌舞伎町の「ジョイパックビル(現・ヒューマックスパビリオン)」でした。ただ、それがいつの事だったのかがはっきり思い出せません。おそらくは1977年かその前後1年のいずれかの事だったと思います。

それは、ボートレースをテーマとした大型メダルゲーム機でした。メカニカルな多人数用レースゲームと言えば1974年に既にセガの「ハーネスレース」(関連記事:初期の国産メダルゲーム機(3) 競馬ゲームその1・ハーネスレース(セガ, 1974))がありましたから、新奇性という点ではイマイチでしたが、しかし、競争するものが馬ではなくボートという事で、レーストラックが青々たる水で満たされている点が目新しい印象を与えました。なにしろメダルゲームがブームとなっていたころの事でもあって客付きが良く、ワタシはサテライトに座ることすらできませんでした。

そのボートレースゲームは何という機械で、どこが作ったのかが、ワタシにとっての長年の謎でした。当時、多人数用のメダルゲーム機を作っていたところと言えば、セガ、ユニバーサル、タイトーの他、sigmaが初の自社開発ゲーム機「ザ・ダービーマークΦ」を、任天堂が「EVRレース」、「EVRベースボール」を作っているくらいでした(関連記事:初期の国産メダルゲーム機(4) 競馬ゲームその2・1975年の競馬ゲーム)。他にも、「フジ・エンタープライズ」がセガや任天堂のコピーを作ったり、ジャパン・オーバーシーズ・ビジネス社が英国のゲーム機を供給していました(関連記事:プッシャーに関する思いつき話(2):日本におけるクロンプトン)が、現在確認できるそれらの資料を見ても、ボートレースのペイアウトゲームは影も形も見えません。

ところが先日、古い業界誌のページをめくっていたら、コインジャーナル誌の1976年6月号に「ウワサのマシン追跡 The Great Ocean Cup」という記事を見つけました。それによれば、ボートレースをテーマにした5000万円の「ザ・グレート・オーシャン・カップ」というゲーム機が1975年12月に設置され、土日は順番待ちまでできるほどの人気機種であるとのことです。どうやらこれが、ワタシが歌舞伎町で見かけた機械ということで間違いなさそうです。

 
コインジャーナル1976年6月号に掲載されている「ザ・グレートオーシャン・カップ」の筐体とサテライトの画像。どうでもいいことだが、ドリンクホルダーに置かれている缶入り飲料が250mlサイズなのが時代を感じさせる。

記事を読み進むと、「この機械、恵通商事(株)(株)野村電機に特別発注したもの」と記述されています。「恵通商事」と言えば、「ジョイパック(Joy Pack)」というブランドでゲーム場や映画館、キャバレーなどを運営する総合娯楽サービス企業で、後に「ヒューマックス」とその名を変えた恵通グループの一つであろうと思われます。そう言えば、かつて都立大学駅にあったゲームセンター「キャメル」も、このグループによる運営でした(関連記事:柿の木坂トーヨーボール&キャメル)。しかし、「野村電機(株)」については、ワタシは聞いたことがありません。どなたか野村電機についてご存知の方がいらっしゃいましたら、情報をいただければありがたく存じます。この業界は表に名前が出てこない事業所も多く、かねてからAM機器を製作していた企業である可能性も感じます。

コインジャーナル誌の記事では、「『採算よりもメイン商品としての客寄せ効果を狙った』もの」と、恵通グループが他店との差別化のために作ったと読める記述もあります。奇しくも同じ5000万円をかけたというsigmaの「ザ・ダービーマークΦ」を開発したsigmaは、その目的が自分が理想とするところのメダルゲーム場を実現するためであったことといくらか通じるところがあるように思います。

1980年代の中ごろ、蒲田駅西口に今もある「シルクハット」というゲームセンターで、「ザ・グレートオーシャン・カップ」と思しき機械が稼働しているところをちらっと見かけたことがあるのですが、今となってはそれを確かめる術がありません。あの時しっかり確認しておけばよかったと今にして思うのですが、もう後の祭りです。「シルクハット」をオペレートする「マタハリー」は、やはり他店との差別化を図って、90年代以降にオートレースとボートレースをテーマとする大型マスメダル機を自社開発しましたが、現在は開発からは手を引いているようです。

オペレーターが元気だったころは、このように、オペレーター自身がメーカーに頼らず自力で機械を作ってしまうということが行われ、それはそれで業界に活気を与えていたものでした。今でも、オペレーター自身が欲しいと思う機械を独自に作ってAM業界に新たな方向性を示すなどという事があっても良いとは思うのですが、市場の縮小が言われて久しいこのご時世では、やはりそんなことは望むべくもないのでしょう。何ともさびしいことです。

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11 コメント

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Unknown (道草亭ペンペン草)
2019-03-29 04:01:15
私も見たことがあるなあ!
それがジョイパックビルだったか、蒲田のシルクハットだったかは全く記憶がありません。
水の色が釣り堀屋の様に紫色の様な濃い色で水中の構造が見えない様になっていて、船の色も生々しい色で、何となくゲーム機としてのデザイン洗練度が低かった様な印象しかありません。
私が一人でメダルゲームをする様になったのは1982年前後なので、その頃見たものだと思います。
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Unknown (nazox2016)
2019-03-29 22:20:15
「The Great Ocean Cup」のご記憶がありますか!
おっしゃる通り、着色された水は不透明で、構造は見えませんでした。
ワタシが知る限り、ボートレースをテーマとするメカのメダル機は、
1994年の「エキサイティングボートレース(セガ)」より前には
他にないはずなので、同じもので間違いないと思います。

ワタシが蒲田で見たのは1986年前後でした。
しかし、それがいつまで稼働していたのかが不明なのが
残念です。
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Unknown (道草亭ペンペン草)
2019-03-30 05:09:58
そう言えば、自分の他県、海外常駐のタイミングを思い出すと案外短期間集中して遊んでいた事が多くて、
私が蒲田のシルクハットに行った年代は1986-7年頃だった気がします。
当時メダルゲーム仲間が居て、通勤先まで車で迎えに来てくれていたっけ
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Unknown (TOM)
2020-06-18 17:26:47
メダルゲーム、レトロゲームに関する数々の素晴らしい記事、ありがとうございます。
同じく、レトロゲームなどで調べ物をする者です。

野村電機について。
ゲームマシンアーカイブによると、1976年7月に倒産した、とあります。
(この記事や他の号の記事でも、野村”電気”だったり”電機”だったり表記がゆれます)

そして、社長の名前を見ると、知っている人ならば知っている方。
のちのデータイーストの創業者だったのですね。
https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19760815p.pdf
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Unknown (nazox2016)
2020-06-18 22:17:10
いきなり変な確認で申し訳ありませんが、TOMさんは、いつもコメントを下さる「tom」さんではありませんよね?

改めまして、TOMさん、情報をありがとうございます。実を言うと、少し前にこのゲームマシンの記事には気づいていたのですが、社長の名前までは意識していなかったので、今回TOMさんに教えていただいて驚きました。それにしても、国産メダルゲームが出始めて間もないころに、これだけの大型メダル機を作っていたとは。

データイーストとセガは浅からぬ付き合いがあったようですが、福田氏はひょっとして既にこのころから、例えばハーネスレースの下請け業務でセガと付き合っていたのかもしれないとの疑念が湧いてきてしまいました。このあたりについて、何かご存知のことはございませんでしょうか。
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Unknown (TOM)
2020-06-18 23:33:39
ワタクシも気になりましたが、大文字小文字違いで、別のヒトです。
福田氏の名前で検索すると、今はとある会社の代表で、何かシステムを作っている記事が出ますが
経歴に野村電機が出てくるので、倒産を報じたゲームマシン誌の記事は間違いないと思います。

野村電機時代の話は詳しくは存じていません。
もう少し調べると、1974年の時点でボウリング場システムで有名な会社と共同で
光線銃ゲーム機を開発した、とあるので、ある程度大きい工場を持ち、技術力があり
そういう依頼が舞い込むコネクションがあったと考えられます。
(一番最後のページに記載があります)
https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19741110p.pdf

以下は、かもしれない話 なので、スルーしていただいてかまいませんが
上記の記事で、福田氏ではない社長の名前があり、調べると
目黒区で事業をしていたとありました。(現存しないようです)
いわゆる街の電気屋さんではなく、当時と同じように電子機械製造もできるとあります。
もしかすると、同一人物だった可能性が。
https://www.city.meguro.tokyo.jp/kurashi/shigoto/kogyo/navi/na_gyo/nomura.html
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Unknown (nazox2016)
2020-06-19 21:33:36
TOMさん、続報をありがとうございます。野村電機はアメリカの大企業ブランズウィックと協業していたこともあるんですね。

これも全くの憶測ですが、野村電機の所在地、目黒区駒場は、ひょっとして、かつてセガの社長を務めていた中山氏が興した「エスコ貿易」のすぐ目と鼻の先であることも何か関係しているのではないかと妄想が膨らみます。そのエスコ貿易は、1976年にメーカー不明の「ザ・グレートレーサー」という8Pマスメダルゲーム機を売り出しているので、ひょっとしてそれも野村電機製だったのかも? この謎がいつか解明する日が来るといいのですが。
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Unknown (TOM)
2020-07-06 23:56:22
こんばんは。
福田氏がご存命のうちに自伝を出してくれるとか、誰かがインタビューしないと、野村電機時代は解明されませんね。
エスコとの関係は不明ですが、たまたま同じだっただけと思います。

ゲームマシン紙での野村電機に関する記事はおそらく上記で全部だと思います。
しかしながら、1976年倒産時点での所在地がわかりません。

登記から住所を調べて、商工会の議事録や工場紹介の記事などを
その地域の図書館の郷土資料で見つけるほかないですね。。。
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Unknown (nazox2016)
2020-07-07 21:45:21
TOMさん、こんばんは。
データイーストは日本のゲーム産業に大きな足跡を残しているのですから、福田氏の回想録は出すべきだとワタシも思います。
どなたか福田氏に聞き取りをしてくれないものでしょうか。なんて人任せなのがいかんのですね。ワタシのきわめて細いコネを辿り続けてなんとかできるかなあ。
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Unknown (たっちゃん)
2023-06-07 23:26:08
西部警察エピソード1第28話横浜ベイブルース4分ゲームセンターで見えてて、なんだろうと思い、ggったらこの記事がヒットしました。ありがとうございました。
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