◆巻きメダルという運営手法
sigmaは、プッシャーのプレイフィールドに、25枚、あるいは50枚のメダルを棒金状に巻いた「巻きメダル」を置き、これを落とすことを目標とさせる営業戦略を、少なくとも70年代半ばには既に行っていました。その「巻きメダル」の包み紙は、金と赤のストライプの地にスロットマシンのシンボルを散りばめたデザインで、かなりのプレミアム感を感じたものでした。
この手法をまねるオペレーターも多くいましたが、たいていは色セロファンに5枚~10枚程度のメダルを包んだ「おひねり」と呼ばれるものをプレイフィールドに数個置くというやりかたで、あまりおトク感はなかったように思います。「シルクハット」というゲームセンターを運営するマタハリーは、sigmaのように棒金状の巻きメダルを置いていましたが、その包み紙は質素だったので、気持ちの盛り上がりに欠けました。
余談ですが、80年代、sigmaは「The Derby MKIII」を購入したオペレーターに対してメダルゲーム場運営のノウハウを指導するというサービスを行っていました。マタハリーがこれを積極的に利用したのか、あるいは徹底的にsigmaを模倣したのかはわかりませんが、まるでsigmaの弟子のように見える時期がありました。
その後、プレイフィールドにメダルを積み上げて円形のタワーを作るオペレーターも現れました。見た目のインパクトは大きいのですが、タワーの作成にはかなりの時間がかかるので、後にタワーを簡単に作れるツールなどと言うものを売りだす関連業者も現れました。セガは、2016年に機械がタワーを自動的に作る「バベルのメダルタワー」というプッシャーを開発し、ヒットしています。
◆国産プッシャーの変遷
初の国産プッシャーは、セガが19741973年(2024年8月5日訂正)に発売した「シルバー・フォールズ」になると思います。1983年には「ペニー・オーシャン」を発売していますが、この間に他のプッシャーは見当たりません。ただ一つ、「マジックミラクルハット」というプッシャーが1980年代の前半頃に出しているはずではありますが、残念ながら資料が見当たらず、詳しいことが思い出せません。メダルをプランジャーで発射し、搖動する帽子型のチャッカーに入るとプレイフィールド中央に配された帽子型のメダルプールから大量の(当時のレベルで)メダルがプレイフィールドに払い出されるというものでした。
左からシルバーフォールズ、ペニーオーシャン。
タイトーも、1975年に「ギャラクシー・フォールズ」、1982年に「ミステリー・ホールズ」、1986年に「ドリーミー・フォールズ」と、ポツポツとプッシャーを開発しています。
左からギャラクシー・フォールズ、ミステリー・ホールズ、ドリーミー・フォールズ。
タイトーは他にももう一つか二つのプッシャー作っていたと思うのですが、これも資料がなく、思い出せません。記憶にあるのは、おそらく80年前半~中ごろで、筐体上部の投入口からピンパネルに投入されたメダルはまず階段状のプレイフィールドを落ちていくのですが、場合によってはメダルはそこで滞留し、最下段の本来のプレイフィールドまで落ちないというものです。滞留したメダルは、以降に投入したメダルに押し出されることがあるので、場合によっては1枚投入したメダルで複数のメダルがメインのプレイフィールドに落ちるというところがミソでした。
90年代の初期、セガは「ゴールデン・ウェーブ」と「ウェスタン・ドリーム」を発売しました。左右に動くスタートチャッカーとすごろく形式のジャックポット機能を持つ「ウェスタン・ドリーム」は大ヒットしました。また、後からスタートチャッカ―の動作を利用したオリジナルのジャックポットギミックを作るオペレーターも多くいました。これ以降、日本のメーカーが開発するプッシャーは、「スタートチャッカー」と「(電光ルーレットやビデオスロットなどの)抽選機構」による「ジャックポット機構」が搭載されるのが標準となっていきました。
左より、セガのゴールデン・ウェーブ、ウェスタンドリーム。
1997年、コナミが発売した「ドラゴンパレス」は10席の大型プッシャーで、メダルが左右に動く櫛の歯状のチャッカ―を通るとビデオスロットが始動するという抽選機構を持っていました。ドラゴンパレスにはプログレッシブジャックポットが搭載され、最大で1000枚と言う、従来のプッシャーには例のない大量のメダルがプレイフィールドに払い出されることで、大きな人気を集めました。しかしドラゴンパレスには手持ちのメダルが少ないと十分に遊べないという欠点があり、やがてお金を払ってメダルを借りるプレイヤーは寄り付かず、大量の預けメダルを持っているプレイヤーだけが残るという状況になってきたため、この頃からメダルの値下げを行うロケがぽつぽつと出てくるようになっていきました。
コナミのドラゴンパレス。従来のプッシャーには無い破格のジャックポット機能を持っていた。
ジャックポット機構が一般化しても、プレイフィールドに巻きメダルやおひねりが置かれるオペレーションは相変わらず続けられていましたが、巻きメダルやおひねりの作成と補充は、オペレーターにとっては負担でした。そのため、某メーカーでは、巻きメダルを自動的に補充するプッシャーが提案されたこともあったとのことですが、巻きメダルの運営ポリシーは店舗ごとに異なるので汎用性が低いなどの理由で実現に至ることはありませんでした。
コナミが2001年に発売した10人用大型プッシャー「フォーチュン・オーブ」は、その問題に対するソリューションを搭載していました。すなわち、プレイフィールドに、巻きメダルの代わりにアクリル製のボールを置き、これを落とすと、落としたボールを使った物理的なルーレット抽選を行うというものです。ボールは自動的に機械内に回収され、ボールの補充はビデオスロットの結果によって自動的に行われるシステムは全く画期的で、オペレーターの利便性だけでなく、物理抽選が楽しいゲームとしてプレイヤーにも熱狂的に受け容れられ、爆発的にヒットしました。
「フォーチュン・オーブ」は、「チャッカ―めがけてメダルを投入する」という「ドラゴンパレス」のスタイルを踏襲しており、この2機種が立て続けに大ヒットしたため、その後に開発される大型プッシャーも、類似のゲームシステムを採用するようになっていきました。その結果、日本におけるプッシャーは、コインをチャッカ―に通してビデオスロットを回すことを目的とする、パチンコのセブン機と何ら変わることの無いゲームへと変貌しました。
プッシャーを楽しむためには大量のメダルを必要とするようになると、多くのロケーションは客を繋ぎ止めるためにメダルの値下げを始めました。もともと1000円で50枚が相場だったメダルの貸出料金が、はじめのうちこそ1000円で80枚くらいに留まっていましたが、ライバル店舗と差を付けるために、やがて1000円で100枚、120枚、150枚と値下げ競争が始まり、そのうち3千円で1千枚、1万円で1万枚などと言う店まで出てきてしまいました。
メダルの単価が下がっても、メダルを湯水のように投入するプッシャーならばなんとか帳尻は合います。しかし、投入枚数に限界があるスロットマシンやビデオポーカーなど他のジャンルの機械では採算が取れません。その結果、オペレーターはプッシャー以外のゲーム機を買ってくれなくなりました。メーカーも、売れないとわかっている機械は開発できません。この状態がここ10数年ほど続いてきて、今、メダルゲームの新機種は殆どプッシャーか、現金を併用できる4号転用機(パチンコ、パチスロ)ばかりになっています。これは全く危機的な状況と言えます。
これに対するソリューションとして、例えば異なる単価のメダルを使用するなどの方法も理論的には考えられますが、ロケーションにとっては新たな設備投資を要し、負担は避けられません。また、プレイヤーの意識が追い付いてくるものかどうかという不安もあります。
プッシャーは、メダルゲームという市場を確かに発展させましたが、それは同時にカタストロフへの進行を加速させたようにも思います。業界が打てる次の一手は何になるのでしょうか。
(おわり)
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いつも懐かしく拝読させて頂いております。
1980年代のSEGAのプッシャーの機種名は、"ミラクルハット"だったかと記憶しております。
1970年代の機種のご紹介、感涙物でした。
また懐かしいお話をお聞かせください。今後ともよろしくお願いいたします。
Sigmaの棒巻きメダルは私が物心ついた時点で小サイズ20枚、大サイズ35枚だった記憶です。なお、大サイズ巻は紙のデザインを販売版にすることにより自動貸出機(棒巻をそのまま1本払い出す方式だった)に投入できるという2WAY仕様だったと記憶しております。1000円35枚のファンタジア店舗で、BINGO-INなど単価が異なる店舗は残念ながら記憶にありません(ただしロンゴロンゴは1000円25枚だったが棒巻きメダルは20枚だった)。
マタハリーはマシンにおいてもオートレースを題材にしたMk3のような機種「HURRY RACER」(最高倍率200倍という点まで一致:リアルフィギュア利用のオートレースを題材にしたメダルマシンはこれだけではないだろうか)を独自に導入していたり、フォーチュンオーブが出た前後には「SUPER Xsight BOATRACE」というボートレースをモチーフにしたマシンを複数店舗で設置するなど、気合いの入っていたオペレーターで、今も本拠地である川崎はシングルマシンのバランスを壊さないように努力している跡が見受けられると感じます。
sigmaの巻きメダルについて、詳しいお話をありがとうございます。ワタシ自身、sigmaがメダル貸出料金を値上げしていたことをすっかり失念しており、記事中で何も触れていなかったのは手落ちではありました。sigmaも当初は1000円で50枚を貸し出しており、その頃の巻きメダルの大サイズは50枚だったと記憶しております。また、BINGO-INの貸出料金は最終的には1000円50枚に据え置かれましたが、一時的に1000円35枚となったことがあったように思います。sigmaでは、メダル貸出料金と共にメダル預かり期間を改定する時期に、若干の混乱と言うか右往左往があったような覚えがあります。ただ、それがいつのことだったかの記憶は曖昧で、たしか1980年代の初期頃だったようにも思いますが、はっきりとはしません。
「ハリー・レーサー」は、マタハリーのロケが多かった川崎、蒲田界隈ではよく見かけましたね。「レース物は馬以外は受けない」と言う認識が当時の業界では一般的だった中で、そういう意味では意欲的とも言えますが、やはりオートレースは日本独自のものでメジャー性に欠ける上、ボートレースよりもさらにニッチなテーマで、広く普及したとは言えなかったように感じます。
知恵袋でのパレスステーションのご報告が出来ていなかったようで恐縮です。
(私がパレスは初来訪なので比較が出来ないのでした…)
80年代初頭ですと、私はあいにくメダルゲームの存在を知る前でして、Xさんと私の間でズレが出るのは必然かと思いました。
マタハリーオリジナルは、今になって考えてみれば「遊べるのは自社系列だけ!」で、普及なんて考えてなかったのかもしれません。
どこかに作らせていたのは間違いないのですが、その「どこか」さえもわからないという謎だらけマシンでもあります。
(でも時期とシグマとのつながりを鑑みるに富士電子とかなのかなぁ)
「ハリーレーサー」自体は、端的に言ってしまえばオートレース版「マーク3」でありまして、遊びやすかったかな、という印象はおぼろげに存在します。
p.s. Boydの会員ランク、帰宅後の査定見直しで470ptまで下がったのでサファイアに上がれませんでした。次回はランク上げるところから始めないと…
マタハリーは、一度sigmaとつるんで、ヘンなビデオポーカーを出してませんでしたっけか。コンピューターと対戦するポーカーで、ハンフリー・ボガート風の目が光ったりして相手の手を推理するような内容だったように思います。sigmaとマタハリーの店にやたらとたくさん設置されていたように思います。いわゆるクソゲーでしたが。
B Connectedは最近システムが変わり、tierポイントは毎年12月31日で期限切れとなるとのことです。ただ、一度取得したステイタスは、翌年一杯まで有効のようです。ワタシは今回、来年いっぱいまで有効のプレイヤーズカードをもらいました。ただ、ダウンタウンのプロパティの駐車場がタダになる以外では、バフェイの僅かな割引くらいにしか役に立たないので、そんなに必死にならなくてもいいのかな、とは思います。
そういえば、昔GFだったかビンゴインだったか忘れましたが、イベント的に大きなゴールドメダル(1枚で5枚分だったか、10枚分だったか忘れた)が使われた時がありましたね。
プッシャーの客を増やすためにメダルを値下げして、結果的に他の機種の販売、開発が進まなくなったのは、困ったものですね。
私にとってのプッシャーとの出会いは中高生くらいの時期の箱根のホテルで、ほぼそれがメダルゲームとの出会いじゃないかなあ・・・と思います。ただ、プッシャーは私にとっては時間を潰す程度の遊びでした。
性格的にはゆっくりメダルが減っていくゲームで、先ず大きく増える事があまりない、魅力としては今一の遊びでした。
常連が喜んで遊ぶ機種じゃなかったような印象があります。そして継続性の少ない一見の客が時間つぶしに楽しむ様な感じ、いかがでしょうか?
オペレーターがプッシャーで客を増やそうと思った時点で衰退がはじまっていたのかもしれませんね。
そういえば、先日「マツコ有吉かりそめ天国」で有吉がメダルゲームにハマった話をすると、久保田直子さんが、女子アナに成りたての頃、仕事がうまくいかなくて、メダルゲーム(プッシャー)をしていた。気が付くと手が真っ黒になってしまった・・・というエピソードを公開していましたが、なんだか身近に感じてしまい嬉しくなりました。
プッシャーは、メダルが一気に大きく増えることはありませんが、結構根強い人気がありました。
ジャックポットなんてものが無かった時代のプッシャーは、今にも落ちそうな一枚2枚は、自分が投入したメダルが作り上げた状態なので、そこでゲームをやめてしまうのがくやしくて続けてしまうのですね。クロンプトンがどこまで計算していたかはわかりませんが、ヤメどきというものが見極められない、絶妙なゲームでした。
はい、ありましたね。コピーライトがMATAHARI/Sigma併記だったやつ。
「POKER FACE」。
コンピューターとの今で言うヘッズアップによるセブンスタッドポーカー。
3枚目から順番にベットラウンドがあり、7枚目のベットがまとまり次第ショーダウン。
ぶっちゃけ時代にそぐわない、本格的なセブンスタッド。カードの配りを弄っていたかどうかは不明。
ANTE1枚、BET1枚から5枚、RAISE1枚から5枚というルール。コミッションなしなので、恐らくカードを弄ってるか、COMはプレイヤーに配られたカードを知っているアクションをするかのどちらかじゃないとペイが調整できません。
ゲームルールが本格派過ぎて、COMもRAISEしてくるために「メダル切れで泣く泣くDOWN(FOLD)」というプレイヤーが多発して不評だった記憶。
勝つとダブルアップが出来るのもSigma製作らしいのですが、このマシンでは先にディーラーカードに対してプレイヤーの4枚を見せてからシャッフルして並べて選択、そして「勝ちカードは1枚から3枚」と、勝ち確定も負け確定もないという独自ルールでした。
勝った時のSEが結構しっかりとした作りだったのを覚えています。というか、それくらいしかまともなメロディを鳴らす機会がなかったとも言える(笑)。
そうでした、マタハリーとsigmaのアレは「Poker Face」でしたね! 何年ころのことでしたっけ?
GF渋谷には、10台か、ひょっとするともっと設置されましたが、すぐに姿を消していったように思います。
それにしてもよくご記憶でしたね。おかげさまでいろいろ思い出させていただきました。ありがとうございました。