「関西精機」や「中村製作所(後のナムコ)」、三共ベンダー(後の三共精機→三共)など日本のコインマシンメーカーの古いところは1950年代後半に登場していますが、それらが創業した当時、コインマシンは温泉などの行楽地や百貨店の屋上遊園など他の施設の付帯施設に設置されるものでした。日本に単独の遊戯場である「ゲームアーケード」が現れたのはいつごろでしょうか。
去る5月、拙ブログではお馴染みのカナダのCaitlynが、自身のブログに「exploring the arcade in this 1961 gun corner photograph(1961年のガンコーナーの写真でアーケード探訪)」を掲載しました。そこには、米国のエンターテインメント業界誌「Cash Box」1961年4月15日号に掲載された日本のゲームセンターの記事が紹介されています。
Caitlynのブログより、「Cash Box」1961年4月15日号掲載の日本のゲームセンター事情の記事。
(記事の超訳)
日本人、米製アーケードゲームにハマる
(東京、日本) アーケードの経営者が、合衆国の様々なコインマシン機器輸出業者から機械を輸入した後に、米国製のアーケード及び娯楽機器への関心が高まっていると報告した。日本の家庭は夕食後の楽しみの延長に夜も開いているアーケードを楽しんでいる。国内(注・米国内)の多くの大手AM機器輸出業者は、新規ロケのオープンが継続している日本が成長市場であることに気付いている。
1961年の日本と言えば、まだ十分に豊かとは言えません。いや、むしろ「まだ貧しい」と表現する方が適切でしょう。「夕食後の楽しみの延長」も、当時のテレビ受像機の世帯普及率が63%とまだまだ低かったこともあろうかと思われます。とは言え、高度経済成長期の只中ではあり、1950年代末に始まるレジャーブームに見られるように、衣食住以外に多少の出費ができる程度の余裕が生まれていたことは確かなようです。
web版業界紙「ゲームマシン」2012年2月15日号のフロントページでは、「ローゼン・エンタープライゼス」(関連記事:ローゼン・エンタープライゼス1961(1)アーケードゲーム)が「1960年6月に日本で初めて開設したアーケード」として東京・日比谷の「日比谷ガンコーナー」を紹介しています。
web版業界紙「ゲームマシン」の2012年2月15日号に掲載されている、日比谷ガンコーナー。この写真自体は1980年夏に撮影されたものとのこと。
ローゼン・エンタープライゼスが1961年頃に頒布したカタログに掲載されている日比谷ガンコーナー。1980年の画像とは設置機種は違っても建物自体は同じなので雰囲気はよく似ている。
日本にゲームアーケードができ始めたのは1960年の事のようですが、「Cash Box」1961年6月24日号の「Coin Machine Condition In The Far East(極東におけるコインマシンの状況)」と題した記事では、ローゼン・エンタープライゼスは100軒近くのロケを運営しているとあり、ゲーセンが猛烈な勢いで広がっていたいたことが窺われます。
ローゼン・エンタープライゼスが1961年頃に頒布したカタログに掲載されている大阪・梅田のゲームセンター、「ゲーム・オ・ラマ」。これも当時の最新の娯楽スポットだったのだろう。夥しいガンゲームに人が群がっている。
さらにこの記事では「ジュークボックスの大手輸入業者」の「ミハイル・コーガン」もアーケード分野にも進出していると報じています。「ミハイル・コーガン」が「タイトー」の創業者であることは、拙ブログをご高覧くださっている方々には今さら言うまでもないことでしょう。
ワタシはこれまで、1960年代初頭の日本の映画やTV番組でゲームセンターが写り込んでいるシーンを見かけると、そんな時代からゲーセンなんてあったのかと訝しく思っていたのですが、実はアーケードは当時の流行であったことが今回の調査で判明して疑問が晴れました。
ただ、初期の日本のゲームアーケードに並んでいた娯楽機の殆どは米国からの輸入品です。国産品は従来のロケーションに設置されましたが、アーケードに置かれるようになるまではまだ少し時間を要していたようです。
吉祥寺にも似たような形式のゲーセンがありましたね
父親と2回ほど行きました
1980年前後ですね
そこでやった任天堂のサブマリンとセガのエレベーターが未だに記憶に残ってます
任天堂の機械はおそらく「デッドライン」ではないでしょうか。ゲーセンで稼働しているシーンは今も鮮明に思い浮かんで、ワタシにはさほど昔の事とも思えないのですが、数えればもう45年ほども昔のことになってしまうんですね。若い人との意識のギャップが出るはずです。