◆前回の概要
・1934年、ジム(13歳)と兄のアルフレッド(17歳)の兄弟が、既存のピン・テーブル機をコインマシンに改造して初めてのゲーム機商売を始めたところ、1週間で元を取った。その後も古いピン・テーブルを買っては改造してロケーションに設置する仕事を続ける。
・1940年、ロンドン大空襲が始まり、以降第二次大戦の間を通してゲーム機商売をしている場合ではなくなる。
・戦後すぐに商売に戻り、商機ありと見た1947年に「クロンプトン・リミテッド」社を設立する。この年を以てクロンプトン社の始まりとなる。
・1955年、少額のペイアウトのあるゲーム機「フィルム・スター」が大成功する。これ以降、クロンプトンはペイアウトのあるゲーム機を精力的に開発する。
・1963年、10人用センターピース「ホイール・ア・ウィン」発売。コインプッシャーという、かつてない全く新しいコンセプトのゲーム機であったが、ハズレ穴が丸見えな構造のため成功はしなかった。
・1966年、「ホイール・ア・ウィン」の欠点を見直して新たに開発した12人用センターピース「ペニー・フォールズ」が大成功し、「コインプッシャー」というジャンルが確立される。
******************** ここから今回の記事の始まり **********************
◆プッシャーゲーム確立後
1969年 法改正により、AWP(注・「Amusement With Prize」のこと。少額の払い出しがあるゲームの一カテゴリー)など払い出しのあるゲーム機のオペレーションに対して法外な税が課せられた。その結果、国のあちこちで、機械を海岸に引っ張り出して(注・ゲーム機を設置するロケーションは海沿いの行楽地が多かった)火を放つ抗議がオペレーターたちによって行われた。業界の懸命なロビー活動が功を奏し、税制の見直しが行われ、税額は従来のレベルまで大幅に下げられた。
1971年 英国通貨に10進法が導入されたことに伴って硬貨が改鋳され、それまでのプッシャーがそのままでは使えなくなるため、数千のプッシャーの改造が必要になった。「ペニー・フォールズ」に次いで人気となっていた「ケイク・ウォーク」は、新硬貨に対応した最初の機械である「ダブル・フォールズ」に造り替えられた。
ダブル・フォールズ。70年代の日本のメダルゲーム市場でもたいへんポピュラーな機種だった。
1973年 日本への輸出が20万ポンドに及ぶ記録破りの取引となる(注・この頃、日本では「ジャパン・オーバーシーズ・ビジネス」社がクロンプトンをはじめ英国のゲーム機メーカーの輸入総代理店となっていたので、その取引と思われる(関連記事:プッシャーに関する思いつき話(2):日本におけるクロンプトン))。「ペニー・フォールズ」や「スクリューボール」にはさらに10万ポンドの価値があった(注・日本で生産する場合のライセンス料の意味だろうか? なお、「スクリューボール」は相手のゴールにボールを打ち合う対戦型のフリッパーゲームのようなものだが、ワタシはこれを日本で見たことは無い)。
1974年 米国のトレードショウで、「ペニー・フォールズ」が紹介される。米国にとっては初めて見るコインプッシャーで、大反響を呼び、ほどなくして米国への輸出が始まった。余談だが、この時、スタッフの一人が宿泊したホテルで黒人のポーターの幽霊と出会う。
1976年 今やクロンプトンが発明したコインプッシャーは、北米のみならず、欧州、更にはイスラム圏にさえ外国人観光客専用の娯楽センターで使用するためとして購入され、地球上に行き渡った。
******************** 有料記事の抜粋はここまで **********************
元の記事の全容は、1921年のジム・クロンプトンの誕生から1976年までの出来事ですが、英国の国内的な話や日本では紹介されていないゲーム機の話が多く、ここではその中からクロンプトン社の歩みの概略と、プッシャーに直接関係する部分に絞って抜粋しました。本来ならば翻訳全文を掲載したいところですが、有料で公開している情報を無断で無料公開することの是非に不安があるのと、そもそも長いうえに翻訳が拙いということもあるので、もし興味がございましたら原文を当たっていただければと思います。有料(5英ポンド)の原文は、こちらの掲示板でのやり取りのうち、「JC」と名乗る方のメッセージ中の「company's history」のリンク先にあります。
ワタシにとっては、世界初のコインプッシャーはクロンプトン社の「ホイール・ア・ウィン」であり、その失敗を教訓に1966年に開発した「ペニー・フォールズ」によってコインプッシャーというジャンルが確立されたという事実が明らかになったことが大きな収穫でした。これは、現代リールマシンの基本要件を規定したチャールズ・フェイの「リバティ・ベル」に匹敵するエポックメイキングな出来事であり、もっと広く(そしてもっと詳しく)知られて然るべきストーリーだと思います。
また、1973年の日本への輸出が記録破りの取引だったという話にも大いに興味を惹かれます。世界のゲーム機業界にとってまだ新ジャンルと言っても過言ではないコインプッシャーと、黎明期にあった日本のメダルゲーム市場との邂逅は、両者にとって大変な幸運だったと思います。もしプッシャーと言うジャンルが無かったら、日本のメダルゲーム市場は案外早く衰退していたかもしれません。特に90年代半ば以降の日本では、プッシャーは、オペレーターとメーカーの双方から、困った時に何かと頼れる手堅いジャンルとされ続けてきたように思います。もっとも、それが嵩じて、現在のメダルゲーム業界は大型プッシャーばかりに客が付くようになってしまっており、これはこれで危機的状況であるとは思います。
クロンプトンについては、次回にもう1回だけ、1977年以降から現在に至るまでについて、判明している分を記録しておきたいと思います。
(つづく)
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