オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

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プッシャーに関する思いつき話(3):クロンプトン社の歴史1・「ペニー・フォールズ」誕生まで

2018年09月16日 19時35分51秒 | 歴史

前回の記事で言及したジム・クロンプトン氏によるクロンプトン社の歴史を読み終えました。翻訳文をマイクロソフト・オフィスのワードに記録していったところ、全16ページ、文字数約2万の大作になりました。英語能力がかなりお粗末な方であるワタシはたいへん疲れました。

この記事は、読み物としては興味深い部分も多々あるのですが、今回のテーマであるプッシャーの話はあまり多くはありませんでした。そして、プッシャー以外のクロンプトン社のゲーム機は我々にはほとんどなじみがなく、またここに貼り付けられるような画像もないこともあって、大幅に省略してまとめたいと思います。今回は前半部分として、まず創業者の一人であるジムの誕生から、ゲーム機の開発とオペレートに携わる過程と、ペニー・フォールズができるまでの概略です。なお、文中の敬称は省略します。

◆会社設立前
1921年 1月12日、ジム・クロンプトン誕生。兄にアルフレッド(以下、アルフとする)とデニスがいた。

1934年 ジム(13歳)とアルフ(17歳)は、「シルバーカップ」というピン・テーブル(バガテルゲーム)を30シリングで購入し、これにコインスロット、ボール挙上器、プランジャーを取り付けた。まだ商売の経験が無かった二人は母の魚料理レストランに設置させてもらい、1ゲームの料金を1ペニーで営業したところ、1週間で元を取ってしまった(注:この時代の英国の通貨は、12ペンスで1シリング、20シリングで1ポンドだった。30シリングは360ペンスになる)。その後の数年間、兄弟は古いピン・テーブルを10シリングで買い付けてコインマシンに改造するという仕事を続けた。電源は、乾電池か、またはカーバッテリーを使用していた。

1939年 あり合わせの材料で「Jig Ball」というゲームを作って人気を得たが、翌年からナチス・ドイツによるロンドン大空襲が始まってゲーム機商売どころではなくなり、短い成功に終わる。

1945年 第二次大戦が終わると、二人の兄弟は倉庫に保管していたゲーム機を修理、修復して、すぐに商売に戻った。この頃、あるオペレーターから請け負った修復作業のために作業場を借り、ゲーム機だけでなく折り畳み式のテーブルを作ったりもした。

◆会社設立からペニー・フォールズの誕生まで
1947年 当時の機械の殆どは、入手が困難な米国製だったので、自分たちもメーカーになれる絶好のチャンスだと考え、「クロンプトン・リミテッド」社を設立する。この頃のジムは、アルフを手伝う傍ら、市場でも働いていた。

1951年 アルフはロンドンからラムズゲートに引っ越して機械の製造を行ったが、ジムはロケに設置済みの機械のメンテナンスのためにロンドンに残った。

1955年 コインマシン初のマルチプレイヤー機「フィルム・スター」発売。8人用のセンターピース(注・フロアの中央に設置するタイプのゲーム機)で、1ゲームの料金は1ペニーだった。当時の有名な映画スター数名がフィーチャーされ、ゲームに勝つと2~6ペンスが払い出された。
「フィルム・スター」は大ヒットしたので、アルフはジムを呼び寄せて機械の宣伝を手伝わせた。「フィルム・スター」は、1960年まで生産が続けられた。

1959年 パッカーズレーンの広い作業場を購入し引っ越す。このプロパティは今もジムが所有している(注・本記事執筆時。それがいつなのかは不明だが、2000年代と思われる)。この後、クロンプトンは、「フィルム・スター」のようにペイアウトのあるゲームを多く開発する。

1963年 10人用の円形筐体のセンターピース「ホイール・ア・ウィン」発売。これが史上初のコインプッシャーだったが、ヒットはしなかった。クロンプトンはこの理由を、ハズレ穴がプレイフィールドの真ん中にあって機械がお金を掠め取る仕組みが丸見えだったためとしている。

1966年 アルフ死去(39歳)。銀行から会社に社長がいないと指摘されたためにジムが就任して「ホイール・ア・ウィン」の改良版と言える「ペニー・フォールズ」を発表する。「ペニー・フォールズ」のプッシャーは直線的に動き、ハズレ穴はプレイヤーの視野から隠された。こうして従来のゲーム機にない全く新しいコンセプトであるプッシャーゲームが定着した。


ペニー・フォールズの筐体(左)。


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3 コメント

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小涌園のプッシャー (道草亭ペンペン草)
2018-11-11 20:55:29
1968,69年頃だと思いますが、家族で箱根小涌園(もしかすると伊東のハトヤだったかもしれません)で、ペニーフォールだと思うのですが、遊んだ記憶があります。
母が夢中になっていて面白かった。
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Re:小涌園のプッシャー (nazox2016)
2018-11-11 23:39:11
68年か69年ですか?
まだ日本にメダルゲームというジャンルができる前ですが、まさかそんな時代に温泉旅館が独自にプッシャーを輸入していたのでしょうか。
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曖昧で御免なさい (道草亭ペンペン草)
2018-11-12 05:56:16
あの当時の記憶が曖昧で何ともはやなんですが、1967年に妹が生まれたので、3-4歳になった頃だったかもしれません。そうなると1970-71年頃になるけれどね!
曖昧で御免なさい!
こんど母に聞いてみますね!
ただあの日は生まれて初めてメダルゲームを遊んだ日で非常に面白いと思いました。
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