世界初のフリッパー・ピンボール機は、一般には米国のGottlieb社が開発し1947年に発売された「Humpty Dumpty」とされています。以来、米国ではGottliebをはじめBally、Williams、Stern、Chicago coinその他のゲーム機メーカーが競ってフリッパー・ピンボール機を作ってきました。
一方、我が国で初めて作られたフリッパー・ピンボールについては、ワタシは時期や機種を特定できていません。しかし、遅くとも1960年代には作られていたことを確認できる資料はあります。
60年代の日本は高度経済成長期と言われていますが、日本のAM業界はまだ発展途上の段階にあり、米国製品のように複雑で多彩なゲーム性を持つ機械を開発することは困難でした。それでもいくつかの日本のメーカーは、その当時の技術で工夫を凝らして、いくつものフリッパー・ピンボール機を世に出しました。
「クレイジー15ゲーム」もそんなゲームの一つです。このゲームは、プレイフィールド上に1~9の番号が振られた9つの穴があり、ボールが入った穴の番号がバックグラスに描かれている3X3のビンゴカード上に点灯し、最終的に一直線に並べば再ゲームができるというものでした。そのゲーム性は米国Bally社のビンゴ・ピンボールに似ますが、フリッパーが付いている点が決定的に異なります。
日本出版企画制作社による「遊戯機械名鑑 '74/'75」に掲載されている「クレイジー15ゲーム」。
ビンゴカード上の数字は、縦、横、斜めいずれの線上でもその合計が15となるように配置されており、これがゲーム名の由来となっています。1ゲームは6球でしたが、フリッパーよりも下に落ちたボールはアウトとなるので、ゲームを成功させるのは思うほど簡単なことではありませんでした。しかし、ワタシが子供のころに遊んだ記憶がある「クレイジー15ゲーム」は、フリッパーボタンとフリッパーが単純に機械要素だけで連結されていたようで、お金を入れなくてもボタンを押せばフリッパーが作動したので、小遣いが乏しい子供にとっては極めて僅かながらもゲームをした気分にさせてくれたものでした。
ワタシの手元にある、「クレイジー15ゲーム」を確認できる最も古い資料は、「全日本遊園協会」が出版した「遊戯機械年鑑 '69」です。ただ、それが発売年を意味するものではないことは留意しておく必要があるでしょう。また、他の資料によれば「こまや製作所」と「中村製作所(後のナムコ)」の二社から同名のゲーム機が発売されているようなのですが、本書にはメーカーの記載がなく、それがどちらの製品であるかはわかりません。
こまや製作所はその後も継続して「クレイジー15ゲーム」の製造を続け、1977年にはサウンド演出などを強化した「ニュークレイジー15ゲーム」をAMショウに出展しており、ロングランシリーズとなっています。
過去の「遊戯機械年鑑」に記載された「クレイジー15ゲーム」。左から69年版、74/75年版、78年版。
1970年代半ば以前の日本のAM業界関連の資料は乏しいため、それほど多くのことを語れるわけではありませんが、ともすると永遠に忘れ去られかねない歴史の記録を残しておくために、今後も継続的に初期の日本製フリッパー・ピンボールに言及していきたいと思っています。もし、資料やエピソードなどがございましたら、ご提供いただければありがたく存じます。
一方、我が国で初めて作られたフリッパー・ピンボールについては、ワタシは時期や機種を特定できていません。しかし、遅くとも1960年代には作られていたことを確認できる資料はあります。
60年代の日本は高度経済成長期と言われていますが、日本のAM業界はまだ発展途上の段階にあり、米国製品のように複雑で多彩なゲーム性を持つ機械を開発することは困難でした。それでもいくつかの日本のメーカーは、その当時の技術で工夫を凝らして、いくつものフリッパー・ピンボール機を世に出しました。
「クレイジー15ゲーム」もそんなゲームの一つです。このゲームは、プレイフィールド上に1~9の番号が振られた9つの穴があり、ボールが入った穴の番号がバックグラスに描かれている3X3のビンゴカード上に点灯し、最終的に一直線に並べば再ゲームができるというものでした。そのゲーム性は米国Bally社のビンゴ・ピンボールに似ますが、フリッパーが付いている点が決定的に異なります。
日本出版企画制作社による「遊戯機械名鑑 '74/'75」に掲載されている「クレイジー15ゲーム」。
ビンゴカード上の数字は、縦、横、斜めいずれの線上でもその合計が15となるように配置されており、これがゲーム名の由来となっています。1ゲームは6球でしたが、フリッパーよりも下に落ちたボールはアウトとなるので、ゲームを成功させるのは思うほど簡単なことではありませんでした。しかし、ワタシが子供のころに遊んだ記憶がある「クレイジー15ゲーム」は、フリッパーボタンとフリッパーが単純に機械要素だけで連結されていたようで、お金を入れなくてもボタンを押せばフリッパーが作動したので、小遣いが乏しい子供にとっては極めて僅かながらもゲームをした気分にさせてくれたものでした。
ワタシの手元にある、「クレイジー15ゲーム」を確認できる最も古い資料は、「全日本遊園協会」が出版した「遊戯機械年鑑 '69」です。ただ、それが発売年を意味するものではないことは留意しておく必要があるでしょう。また、他の資料によれば「こまや製作所」と「中村製作所(後のナムコ)」の二社から同名のゲーム機が発売されているようなのですが、本書にはメーカーの記載がなく、それがどちらの製品であるかはわかりません。
こまや製作所はその後も継続して「クレイジー15ゲーム」の製造を続け、1977年にはサウンド演出などを強化した「ニュークレイジー15ゲーム」をAMショウに出展しており、ロングランシリーズとなっています。
過去の「遊戯機械年鑑」に記載された「クレイジー15ゲーム」。左から69年版、74/75年版、78年版。
1970年代半ば以前の日本のAM業界関連の資料は乏しいため、それほど多くのことを語れるわけではありませんが、ともすると永遠に忘れ去られかねない歴史の記録を残しておくために、今後も継続的に初期の日本製フリッパー・ピンボールに言及していきたいと思っています。もし、資料やエピソードなどがございましたら、ご提供いただければありがたく存じます。
これはまた懐かしいゲームですね。私は中学生になっていたかな。フリッパーとボタンが機械的結合だったかどうかは覚えていません。ある時、6個のボールがすべて穴にはいったのにリプレイできずに悲しかった事がありました。つまり、斜めの1列を除いた6つのライトが点灯した訳です。
これとは違いますが、子供向けの日本製ピンボールをプレイした記憶があります。スコア表示はリール式で1の位は0固定、ロールオーバーが100点、スリングショットが10点だったと思います。アメリカ製ピンボールに比べると小ぶりでバックパネルと盤面の絵が妙に日本的で面白く感じました。残念ながらそのマシンの名称が思い出せませんが、車のレースがモチーフだったと思います。
「クレイジー15ゲーム」を実際に遊んだ記憶がある方がいらしてうれしいです。6個入って何もなしはツイてませんでしたね。
ワタシも60年代に百貨店の屋上でいろいろな国産ピンボール機(フリッパーが付かないものが多かった)を遊んでいるのですが、資料が無いため記事にできないのが残念です。