本場米国では1940年代に既に登場していたポップバンパーが国産のフリッパー・ピンボール機に初めて導入されたのは1971年のことで、実現したのは国内最大手メーカーであったセガでした(初期の国産フリッパー・ピンボール機:カーニバル(セガ、1971))。
やはり部品数が格段に増え電気回路も多少なりとも複雑になるであろうポップバンパーの導入は、技術的には可能だとしても、まだ発展途上にあった当時の日本のAM機メーカーにとっては冒険だったのかもしれません。
セガに次いでポップバンパーを備えたフリッパー・ピンボール機を開発した国内メーカーは、今ではその名前をほとんど聞く機会がない「関東電気工業」で、1972年のことです。まだブームの余韻が残るボウリングをテーマにしたその機械は「ターキー(ターキーボール)」と名付けられました。
アミューズメント産業1972年5月号に掲載された関東電気工業の「ターキー」の広告。
レジャー産業の老舗業界誌「レジャー産業資料」の72年10月号は、「あたらしい室内ゲームマシン」という特集記事の中で、「このほど開発された「ターキー」(関東電気工業)では、ボウリングに関連したイラストや名称が使われている。ボウリング・ブームがこうしたところにまで反映している」と紹介し、記事の最後ではセガの「サーフィン」と並べて筐体の画像を紹介しています。
「レジャー産業資料」72年10月号の記事「あたらしい室内ゲームマシン」で、大手セガの「サーフィン」と並んで紹介される関東電気工業の「ターキー」。
「ターキー」の広告とそのバックグラスには「Turkey Bool」と記述されており、「ターキーボール」とするのが正しいようですが、しかし、ボウリング用語の「ボウル」であればそのつづりは「Bowl」だし、百歩譲って「ボール(球)」の意味だったとしても「Ball」になるはずで、「Bool」が何を意味しているのかが謎です。
ワタシはこの「ターキー」を、1975年、オープン間もないダイエー碑文谷店7Fのゲームコーナーでしばしば遊びましたが、それはたしか、料金が他のピンボール機よりも若干安かったからだったように記憶しています(関連記事:さよならダイエー碑文谷店)。
ゲーム内容は残念なことにはっきり覚えておりません。ただ、ポップバンパーの形状がセガのものとそっくりであったことと、かなり単純なゲームだった印象が残っています。得点表示も、他社では5桁が標準となっていた時代であるにもかかわらず、まるで60年代の機械のように4桁です。
セガのポップバンパー(左)と、他の米国製ピンボールのポップバンパー(右)の比較。「ターキー」のポップバンパーは、セガのものと同じと思われるほどよく似ていた。
セガのポップバンパーのスタイルは、フランスのゲーム機メーカー、Rally社が1966年以降にリリースしたピンボール機のポップバンパーと同じ原理であったものと思われます。
Rally社のポップバンパーの原理を説明する図の一つ。機械に付属するマニュアルの部分だが、こんなところに帽子をかぶった小人さんが描かれているのがなんだか微笑ましい。
関東電気工業は、「ターキー」の後にもフリッパーピンボールを少なくとももう一つ作っていたはずと思う(確かアメリカンフットボールテーマ)のですが、資料が見つかりません。(2023年8月16日追記:ここで述べているピンボールは、「三共」が1976年に発売した「アメリカンフットボール」(関連記事:「三共」についての備忘録(5) 三共精機と三共のAM機)のことと思われます。関東電気工業と三共との間には何らかのリレーションシップがあったと思しき節が窺えるのですが、関東電気工業がこの「アメリカンフットボール」にどの程度関係しているのかそれとも全く関係していないのかは不明です。)
ターキーボールの広告には、今も多くのオールドゲームプレイヤーの記憶に残るガンゲーム「チューハンター」も製造していたともあり、60年代から70年代にかけての期間は活発に活動していたと思われるのですが、残念ながら会社は存続していないようです。
私はセガ以外の国産ピンボールでポップバンパーを持つマシンをプレイした事がありません(スピニングバンパーはあったと思う)。このターキーボールはセガと同様のポップバンパーを持っていたのですか、1度はプレイしてみたかったです。
国産ピンボール(セガ製除く)が本家ピンボールよりも小型だったのは、日本の狭いゲーセンに並べなければならなかったからでしょうか。
スピニングバンパーは、日本展望娯楽の「ウルトラアタック」などいくつかありました。それらが米国製のピンボールより小型だったのは、いたずらにフィールドが広くなりすぎてゲームとしての妙味が出なかったからと考えるのは意地悪過ぎますでしょうか。