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オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

史上最も期待された「クソゲー」:「与作」の記憶

2019年02月17日 19時01分41秒 | ビデオゲーム
タイトーの「スペースインベーダー」ブームが始まったのは1978年の事です。しかしそれもさほど長くは続かず、1979年の夏ころには陰りが見え始めます。ビデオゲームというもの(当時は「テレビゲーム」と呼ぶのが一般的だったが)が一般に広く認知された今となっては、「ポストインベーダー」は社会一般の興味となりました。そしてこの時、世間の耳目を最も集めたタイトルは、「与作」であったように思います。

「与作」は、もともと1978年に北島三郎さんが歌い、ジャンルは違えどスペースインベーダーに匹敵する大ブームとなった歌謡曲でした。ゲームメーカーはこの人気に目をつけ、便乗しようと考えたのでしょう。実際、当時のTVの取材番組でも、「与作」が期待を担うタイトルとして紹介されたこともあります(関連記事:それはポンから始まったのだけれども(5) ポストスペースインベーダーの頃)。

しかし、「与作」人気に目を付けたメーカーはいくつもあり、「与作」を名乗るビデオゲームは複数作られました。その「与作」には全く奇妙なストーリーがあります。業界誌「コインジャーナル」1979年6月号の編集後記に、こんな一文があります。

「▼ポストインベーダーをめざして各社とも10月のAMショーに向けて新機種開発に余念がないことと思われるが今、静かに、また、時には熱っぽく語りつがれているマシンがある。その名も『与作』。ところがこのヨサクゲーム、誰も見たことがないというから業界七不思議の一ツ ▼福岡で見たとか高松で見たとか言われるが問い詰めれば謎に包まれたままだ。噂話に尾ヒレがついて、遊び方もインベーダーの変形だの、木こりが木を切るだのとかまびすしい論議の割に実態がつかめぬのだ(後略)


コインジャーナル1979年6月号の編集後記。「与作」を幻のように述べている。

ところが、コインジャーナル誌はその翌月号に、「遂に見つけた 『与作』ゲーム」という続報を掲載しました。しかもタイトルの冒頭には「大々スクープ」とまで銘打っています。


コインジャーナル1979年7月号の与作に関する続報。3本の木が表示されているゲーム画面が紹介されている。

この記事によれば、その正体は(株)オーエムが開発したもので、4月末から東京、大阪を中心にロケテストを実施しており、本格的な生産は8月から、月産二千台を目標にしているとのことです。さっそく資料を探してみたところ、コインジャーナルの更に翌月号(8月号)にその広告を発見しました。


オーエムの「与作」の広告。コインジャーナル1979年8月号に掲載。「ついにヴェールを脱いだ幻のマシン」と謳っているのは、以前のコインジャーナルでの取り上げられ方を意識しているのかもしれない。

オーエムはさらに、コピーが当たり前だったこの時代、同業他社を牽制する広告も同時に掲載しています。


権利を主張する社告。なぜか「株式会社藤興産」が筆頭に挙がっているが、オーエムが製造元という事になっている。

だがしかし。コインジャーナルの同じ号に、「株式会社ウイング」が、「幻のテレビゲーム与作とドン平ウイングより登場」と称して、「与作とドン平」を発売する広告を打っています。そのコピーには、「かねてテストロケーションでご好評をいただきました【与作とドン平】を、下記の日程で一般販売いたすことになりました。この【与作とドン平】は、ポストインベーダー・マーケットを考慮し、インベーダーで高度なテクニックをマスターした人にも初心者にも、満足していただけるように「高度なゲーム内容プラス、コミックな絵と音」に構成いたしました(後略)」と謳っており、まるでコインジャーナル誌が言っていたのは実はこの「与作とドン平」のことであると主張しているかのようにも見えます。


ウイングによる与作とドン平の広告。コインジャーナル1979年8月号に掲載。「イタズラカラスを撃て!!」とあるように、オーエムの与作とは異なるゲーム性のようだ。

さらにさらに。この1979年8月号には、「株式会社西日本販売」による、前述2機種とはまた異なる内容と思われる「与作」の広告も掲載されています。


第3の「与作」の広告。「コントロールレバーで与作が上下・左右と歩きます」とあり、オーエムの与作とは異なるゲームであることが伺われる。

この西日本販売が扱う「与作」については、コインジャーナル1979年10月号に続報があり、大、中、小9本の木を切るゲームであると説明されています。


西日本販売の与作の説明。どんなゲーム画面なのかわからない。

西日本販売の「与作」はどんなゲーム画面なのかがわかりませんが、ワタシはこのゲームを渋谷のセンター街で一度だけ遊んだ覚えがあります。しかし操作の方法がまるで分らず、インストラクションには「ボタンを押して木を切れ、コツは第六勘に頼れ」というような趣旨の事が書かれており、結局1回か2回、偶然斧をふるうことができただけで、まるでゲームになりませんでした。

もう一つ付け加えると、ウィキペディアによれば、新日本企画(後のSNK)も「与作」というタイトルのビデオゲームを出したことになっています。また、セガも「与作」をリリースした記録があるとも記述されていますが、ワタシはこれらを把握しておりません。いずれにしろ、業界がどれだけ「与作」の名に依存しようとしていたか、そして「与作」という歌がいかに日本国民に浸透していたかがうかがいしれます。

しかし、ビッグネーム「与作」に便乗したゲームは数々出たにもかかわらず、ヒットしたと言えるものはただの一つもありませんでした。結局、ポストインベーダーとして実際に業界に貢献したと言えるのは、これら複数の「ヨサクゲーム」が乱発されていたころと同時期に出てきたナムコの「ギャラクシアン」でした。まだビデオゲームプレイヤーの意識はそれほどマニアックではなかった時代だったはずですが、名前に騙されるプレイヤーは多くは無かったようです。

テトリス秘話:セガはいかにしてテトリスの開発に踏み切ったか

2018年08月12日 21時54分24秒 | ビデオゲーム
少しだけ昔、ゲームメーカーのセガでのこと。とある上級管理職が、「海外でこんなゲームを見つけてきたので参考にしてくれ」と言って、アーケードゲーム開発部門のメンバーに一つのビデオゲームを紹介しました。それを見ていた開発者の一人は、ずっと後になってから、ワタシに「プラットフォームはわからなかったがPCベースだったらしい」と語ってくれました。

今回は、拙ブログで扱うには少し新しすぎるかもしれない「テトリス」(SEGA,1988)の話です。「テトリス」はもともと、ソ連のコンピューター技術者アレクセイ・パジトノフ氏が、「ペントミノ」と呼ばれるパズルゲームをベースに考案したビデオゲームであることは有名な話ですが、ワタシは「テトリス」が初めて商品化されたのがいつで、どんなハードで動いていたのかは知りません。ワタシに冒頭の話をしてくれた人が見たものがそれだったのかもしれませんが、その人もその正体まではご存知ではありませんでした。

セガが1988年に発売したAM用ビデオゲーム「テトリス」は、病的なまでに耽溺する中毒者を多く生み出し、その後も様々な混乱を経て任天堂からコンシューマソフトに移植されただけでなく、海賊版として得体のしれないアジア製の液晶ポケットゲームも多数現れ、社会現象にまでなりました。更には、「落ちモノパズル」などと呼ばれる新たなゲームジャンルを業界にもたらしてもいます。


テトリスのフライヤー。片面のみで、裏面は白紙だった。当時のセガは、よほど力を入れて売り込みたいタイトルでなければ、経費を抑えるために片面印刷で済ませる傾向が強かった。

テトリスが市場を席巻していた当時、ワタシの知り合いの、セガを含むいくつかのゲームメーカーの社員は、「テトリス」を評する上で、「もし、セガのテトリスが世に出る以前に、社内で誰かがこれと同じゲームを提案したとしても、没になっていただろう」と口を揃えていました。「テトリス」は、ことほど左様に地味で、セールスポイントをアピールすることが難しいゲームでした。

そんなゲームをセガはなぜ商品化したのか。ワタシは以前、セガの一開発者から、冒頭のエピソードで始まる大変興味深い話を伺っていました。今回はその「テトリス開発秘話」を記録しておこうと思います。

セガの社内で「テトリス」が紹介された時、それを見た多くの開発者たちは、「(技術的には)簡単なソフトだな」と思ったそうです。そして、その一人だったAMソフト開発部門のある中間管理職は、社長や役員が出席する大きな定例会議の末席に制度上やむなく出席している最中に、退屈しのぎとして、ソフト開発者たちが使用している開発機材上で動作する「テトリス」のプログラムをさっと組みあげてしまいました。

この「なんちゃってテトリス」のプログラムは、初めは数人の物好きなソフト開発者の開発ツールにインストールされ、「業務の合間の気分転換」として遊ばれ始めたのですが、「やってみると案外ハマる」という評判が広まり、すぐにほとんどのソフト開発者のツールにインストールされ、遊ばれるに至りました。

そして、そこはさすがに本職のゲームプログラマーだけあって、「なんちゃってテトリス」を遊んだソフト開発者の中には、自分なりにフィーチャーを考えてオリジナルのプログラムを改変する者も現れ、そうしてできた新しい「なんちゃってテトリス改」も、またすぐに他のソフト開発者の間に広まっていきました。

こうして、セガのソフト開発者の多くの手元に「なんちゃってテトリス」が行き渡り遊ばれるようになった結果、「なんちゃってテトリス」は「業務の合間の気分転換」では済まず、本来の業務に支障をきたす、別の意味での「キラーソフト」に成長してしまっていました。

この事態は上層部にも伝わり、開発部内には「テトリス禁止令」も出たのですが、しかし、こんなにみんながみんなハマるゲームなら商品化すればヒットするに違いないという発想も当然のことながら出て来て、ついに業務用ゲームとしてのテトリス開発チームが組まれました。この時のチーム構成は、企画、デザイン、ソフト、サウンドの全部を併せて10名に満たない程度の、ごく小さなものだったそうです。名著「それはポンから始まった」では、開発担当者の一部の実名が記載されていますが、彼らは「なんちゃってテトリス」をはじめに作った中間管理職とは別の人であったとのことです。

「普通に提案されていたならきっと没にされていたであろう」と複数の業界人が評するゲームは、こうして世に出ていきました。その結果「テトリス」は、大きなブームを起こしたのみならず、一つのジャンルにまでなって、その後も多くのフォロワーを生む、一大タイトルとなりました。

ゲーム業界の中では、この経験から、自分の常識で理解できるものしか評価しないことに対する反省の機運が生まれたところもあったそうです。しかし、最後にはなんらかの判断を下さなくてはならないことに変わりはなく、そしてそのソフトがヒットするかどうかを正確に予見することなどできるはずもないため、結局のところ、提案段階での間口が若干広がった程度の変化があったくらいで、いつの間にかその反省も忘れられて行ったということでした。

【小ネタ】「ERASE」(セガ・1974?) 金鉱脈のすぐ隣を掘っていたゲーム

2017年10月22日 19時55分12秒 | ビデオゲーム
今月上旬にラスベガスで開催されたG2Eショウの記録は、写真の整理が追い付かないため、今回は小ネタでしのがせていただきたいと思います。もし、楽しみにされていた方がいらっしゃいましたら申し訳ありません。

ワタシは、拙ブログの記事「それはポンから始まったのだけれども(3) スペースインベーダー以前のヒットゲーム」で、1976年に米国ATARI社から発売されたパドル&ボールゲーム「BREAKOUT」(別名ブロック崩し)に言及いたしました。そこでワタシは、BREAKOUTが「熱中してやり込む中毒者が発生した初のビデオゲーム」と述べ、そのヒットとなった要因のひとつに、「従来は二人で対戦するゲームが多かったが、BREAKOUTは一人で遊べるゲームであった」ことを挙げています。

しかし実は、「BREAKOUT」に先立つ1974年に、ブロック崩しとよく似た発想を含んだ「CLEAN SWEEP」というパドル&ボールゲームが米国RAMTEK社から発売されており、日本ではセガがライセンスを受けて「ERASE」というタイトルで売り出していました。ワタシは1975年頃に一度だけ、目黒駅近くのゲームセンターで「ERASE」を遊んだことがありますが、その頃のワタシはまだパドル&ボールのゲームが滅法下手だったので、ろくに遊べないうちにゲームオーバーとなってしまい、以降二度と遊ぶことはありませんでした。

 
セガの「ERASE」の画像。どちらも1975年頃に発行されたセガの総合カタログより。アップライトと、今でいう「ミディ筐体」に近い筐体の2種類が発売されていたことが窺われる。元ネタであるRAMTEK社の「Clean Sweep」のフライヤーはこちら

「ERASE」も一人で遊べるゲームで、ボールをパドルで弾き返して画面いっぱいに表示されているドットに当てて消すというゲーム性も、ブロック崩しと通じるものだったのですが、それほど普及することもなくいつの間にか姿を消し、今の時代にこの機種を記憶されている人は世界に一体何人残っているだろうかと思うようなタイトルとなってしまっています。それはおそらく、「ERASE」では、ボールはドットに当たっても反射することなくただ直進し、フィールドの壁でのみ跳ね返るというものだったため、ブロック崩しと比較するとゲーム展開の変化に乏しいゲームだったことがその大きな原因ではないかと思います。

しかし、動画サイトにアップされている「CLEAN SWEEP」を今見ても、これが「BREAKOUT」のヒントとなっていた可能性は否定できないように感じます。あるいは、RAMTEK社やセガが、ここからもう少し粘り強く思考を掘り下げていれば、ブロック崩しに発展できていたかもしれません。そんなわけでワタシは、「ERASE(CLEAN SWEEP)」を、ブロック崩しに先んじて鉱床の近くに辿り着きはしたものの、掘り進む方向が少し違ったために鉱脈を逃してしまい、歴史に名を残すこともなく埋もれて行った不遇なゲームだと思っています。

それはポンから始まったのだけれども(5) ポストスペースインベーダーの頃

2017年09月03日 21時04分14秒 | ビデオゲーム
1979年の晩夏頃には、スペースインベーダーのブームも沈静化します。しかし、この一大ブームに乗ってビデオゲームに参入するメーカーが増え、第二のスペースインベーダーを狙ったタイトルが続々と世に送り出されるようになっていたこともあって、ビデオゲーム人気は一定の水準を保ち続けます。

当時のビデオゲームメーカーとしては、アイレム シグマ ジャトレ セガ タイトー ナムコ ユニバーサル レジャック(後のコナミ) 新日本企画(後のSNK) 電気音響 日本物産 任天堂レジャーシステム 豊栄産業(後のバンプレスト)などが記憶に残っています。この他にも、表には名前が出ない、もしくは目立たぬまますぐに消えて行ったメーカーも少なからずあります。また、アタリ(ATARI)をはじめ、グレムリン(Gremlin)やエキシディ(Exidy)といった米国メーカーの製品もまだ多く残っていました。

ワタシはインベーダーブームがそろそろ終焉を迎える頃、TVで「ポストインベーダーを探る」という趣旨の報道を見ました。マスコミがゲーム業界の動向を取り上げた例は過去にもなかったわけではありませんが、今ほど社会に認知されていなかったゲーム業界がこれほど注目されるということはやはりまれなことです。

その報道では、ポストインベーダー候補の一つとして、「与作」(新日本企画・1979)(フライヤーはこちら)というビデオゲームを紹介していました。

この当時、日本国内では北島三郎さんが歌う「与作」という歌が大ヒットしており、これにかこつけた企画であったことは間違いないでしょう。そして時期をほぼ同じくして、「与作とドン平(ウィング・1989)」(フライヤーはこちら)や、「与作とゴン平(ジャトレ・1989)」、「与作吾作(ショウエイ・1989?)」など、たいへん紛らわしいタイトルのゲームもありました。

当時のワタシは、繁華街に行けばゲームセンターを虱潰しにハシゴするくらいゲームに耽溺していましたが、しかし、これら「与作」を名乗るゲームが設置されていないロケも珍しくなく、実際、遊んでも面白いわけでもありませんでした。これを取材したTV局(確かNHKだったように思いますが不確実)は、ゲームの良し悪しがわからないまま大ヒット曲のネームバリューに騙されただけだったように思います。

結局のところ、スペースインベーダーに並ぶようなブームは日本では二度と起きませんでしたが、それでも今では想像もつかない規模のヒット作と言ってよいタイトルはいくつか出てきました。

◆「ヘッドオン(Head On)」(Gremlin/SEGA・1979)
後に「ドットイート」と呼ばれるジャンルの嚆矢となる「ヘッドオン」は、米国グレムリン社が開発し、日本ではセガが扱っていたゲームです。「パドル&ボール」でもなく「シューティング」でもない、新たなゲーム性を持ったヘッドオンは多くのプレイヤーが熱中しましたが、ワタシは滅法ヘタだったので、もっぱら上手な人のプレイを後ろから見て満足していました。

 
元祖のフライヤーを持っていないので、これは続編のHEAD-ON PARTⅡのフライヤー。

◆「ギャラクシアン(Galaxian)」(namco・1979)(フライヤーはこちら
namcoはこれ以前に「ジー・ビー(GEE BEE・1978)」(フライヤーはこちら)、「ボムビー(BOMB BEE・1979)」(フライヤーはこちら)というパドル&ボールゲームを作っており、ギャラクシアンは同社が開発した三作目のビデオゲームであるにもかかわらず、初めて100%RGBカラーのオブジェクト(ビデオゲーム用語で、画面上を自在に移動させることができる表示物、またはそれを実現する技術のこと。パソコン用語の「スプライト」は同義語)を採り入れ、それによって実現した滑らかな動きを見せる美麗なカラー画像はnamcoの技術力の高さを見せつけるものでした。一つのロケーションに何台も設置されるほど大ヒットし、ポストインベーダーの最右翼と目されたこともあったように思いますが、社会に与えた影響と言う点では、スペースインベーダーに肩を並べたとまで言えるものではありませんでした。

◆「平安京エイリアン」(電気音響・1979)(フライヤーはこちら
東京大学の学生が開発したとして注目されましたが、そのような話題性だけでなく、碁盤の目に区切られた区画を行き来するエイリアンを、プレイヤーである「検非違使」が落とし穴を掘って捕え、そのまま生き埋めにすることで駆除するという戦略に重点が置かれたゲームは、従来の反射神経を要するビデオゲームとは異なり、非常に斬新で、大ヒットしました。「平安京」と「検非違使」という歴史的な概念を、このゲームで認識したという中高生も多かったのではないでしょうか。

メーカーである電気音響社は、ワタシが知る限り、これ以外のビデオゲームを発表していません。数年後には大手電子部品メーカーである「村田製作所」の傘下に収まり、そのまま吸収合併されました。生涯成績が1打席1打数1安打4打点(満塁ホームラン)で引退してしまった野球選手に例えたいメーカーです。

◆「パックマン(PAC-MAN)」(namco・1980)(フライヤーはこちら
スペースインベーダー以降現在に至るまでのビデオゲーム中、最大のヒット作は何かと言えば、ワタシはパックマンだと思います。日本でのヒットの度合いとしてはヘッドオンと同等か少し上回る程度でしたが、米国では「80年代のミッキーマウス」とまで形容されるほどの大ヒットとなりました。今も多くの人の記憶に強く残っているタイトルで、デビューから37年を経たつい先ごろには、カジノ向けのスロットマシンのテーマにも採用されました(実は10年くらい前にも一度、スロットマシンのテーマに採用されかけましたが、ネバダ州の当局が「子供が興味を持つキャラクターをテーマとするギャンブル機は認可しない」として、その時はお蔵入りとなりました。同じ時期に、米国のアニメ「サウスパーク」をテーマとしたスロットマシンも同様に認可されなかったことがあります。


アインスワース社の「PAC-MAN(2017)」。キャラクターだけでなく、サウンドも当時の効果音が随所に使われている。

なお、パックマンの英文表記は、当初は「PUCK MAN」でしたが、「P」を「F」に書き換えるというイタズラが発生したため、「PAC-MAN」に変更されたといういきさつがあります。

namcoはこの後も、ラリーX(RALLY X・1980)、ギャラガ(GALAGA・1981)、マッピー(MAPPY・1981)、ディグダグ(DIG DUG・1982)、ゼビウス(XEVIOUS・1983)、リブルラブル(Libble Rabble・1983)、ドルアーガの塔(The Tower of DRUAGA・1984)、ドラゴンバスター(DRAGON BUSTER・1985)など、独創的で完成度の高いビデオゲームを立て続けに世に送り出しました。そしてナムコはまた、当時はまだ添え物扱いだったゲーム中のサウンドさえも丁寧に作り込んで、現在に続く「ゲームミュージック」というジャンルの先駆けとなった点も注目しておくべきです。YMOの細野一臣氏がこれに注目し、史上初のゲームミュージックを収録したレコード(当時はまだCDは出始めたばかりで、普及していなかった)が発売されたのは1984年の事でした。

1980年代は、ゲーム製作者が面白いと思うあらゆる発想がビデオゲームになり得た時代であったように思います。その結果、当然ハズレも多かったことでしょうが、長く人の記憶に残る、良い意味で「異形」のゲームも数多く開発されました。

現在は、ゲームの原案を考えるにもマーケティングなどと言うものを気にしなければならず、さらに現在は、通信対戦やトレーディングカード、あるいはパソコンやモバイルデバイスとの連携など新たな要素が必須となっており、昔とは異なる遊びに進化しています。

変わったのはプレイヤーも同様で、90年代以降あれだけ隆盛を誇った対戦格闘ゲームでさえ、今はほとんど顧みられることもありません。しかし、メーカーがどんなに頑張っても、二度と80年代のような状況に戻ることはないでしょう。そしてそれが時代の流れというものであることも理解しますが、古いおやじゲーマーとしては寂しさを禁じ得ません。どこか、ラスベガスにある「Pinball Hall of Fame」みたいな、オールドファンの聖地となるような場所を作ってくれないかなあ。

(このシリーズ終わり)

それはポンから始まったのだけれども(4) Space Invaders invaded Japan in 1988-1989

2017年08月15日 22時50分15秒 | ビデオゲーム
タイトーが1978年に発売したスペースインベーダーは、後世の語り草となる一大ブームを巻き起こしました。


スペースインベーダーのフライヤー。当時、アップライト筐体は、タイトー製とバーリー・ミッドウェイ社製の2種類が出回っており、ビーム砲の操作系が、バーリー・ミッドウェイ筐体では二つのボタンで行い、タイトー筐体ではジョイスティックで行っていたように記憶しているが、このフライヤーはボタン仕様になっている。慣れの問題もあるとは思うが、素早い操作をするにはジョイスティックの方が圧倒的に優れていた。

年少者にとっては、それまでコインオペレーションのゲームと言えば遊園地や商業施設の屋上、もしくは繁華街にでも行かなければできない、一種のハレの日の特別なイベントであったのですが、このブームで客が激減したパチンコ店ばかりか、私鉄沿線の小さな商店街でも、にわかゲームセンター(そのような店舗は「インベーダーハウス」などと呼ばれました)に転業する一般商店が雨後の竹の子のように現れ、ビデオゲームはすっかり日常のものとなりました。

ワタシも、当時行きつけの喫茶店にテーブル筐体のスペースインベーダーが設置されたこともあって、もちろん熱中しました。そのうち、文庫本を読むと文字の並びがインベーダーの列に見えるようになって、「こりゃ、いかんなあ」などと自省することもありました。

このブームが社会に与えた影響がいかに大きかったかを表す逸話として、ネット上では100円硬貨を66億円も増産したという言説が見られます。また、日本中の100円硬貨が不足したという新聞報道を実際に読んだ覚えがワタシにもあります。その真偽についてはこちらで検証しているので参照していただければと思いますが、簡単にまとめると、その新聞記事はゴシップ的であると評価するものの、ブームのさなかに国内の100円硬貨の流通量にいくらかの異変が見られたこと自体は事実のようです。

スペースインベーダーは、従来の「パドル&ボール」ゲームのボールを弾に置き換えた、大胆なアレンジであったと思います。しかし、それだけではミスの要素がないため、消すべきブロックに相当するインベーダーキャラにも弾を発射させて、これを受けることでミスとするという、コペルニクス的と言うかコロンブスの卵的転回の発想により、シューティングゲームという新しいジャンルが登場したと、ワタシは考えています。

スペースインベーダーの大ヒットにより、自分のところだけでは需要に応じきれないタイトーは、いくつかの同業者にライセンス生産を許しましたが、類似品やデッドコピー品も大量に世に出回りました。当時のもう一つの大手メーカーであったセガも、「スペースアタック」(1979)を始めいくつかの類似品を発売していますが、当時としては珍しいカラー画像であったにもかかわらず、ヒットはしませんでした。のちにセガの人に聞いた話では、スペースアタックは、キャラクターの造形と、ヒットしなかったことに対する自嘲の意味も込めて、社内では「豚殺し」と呼ばれていたそうです。

 
セガ製のスペースインベーダーの類似品で、スペースアタックの続編となる「トリプルアタック」(1979)のフライヤー。これもヒットしなかった。

スペースインベーダーのブームは、1979年の夏ころより沈静化し始め、以降、ゲーム機メーカーは、ポストインベーダーの開発に迫られることになります。

(次回、たぶん最終回)