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オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

それはポンから始まったのだけれども(3) スペースインベーダー(1978)以前のヒットゲーム

2017年08月06日 18時24分07秒 | ビデオゲーム

前回の記事から若干前後しますが、1976年に発売された「BREAK OUT」(ATARI・1976)(フライヤーはこちら)は、PONGを凌ぐ大ヒットとなりました。熱中してやり込む中毒者が発生する、初めてのビデオゲームと言えるかもしれません。多くのコピー品が生まれたためか、日本ではオリジナルのタイトルで呼ばれるよりも、「ブロック崩し」と呼ばれるのが一般的でした。

BREAK OUTも、PONGのような「パドル&ボール」のゲームではありましたが、従来のこの種のゲームがたいてい2人で対戦するものだったのに対し、一人でも遊べるゲームだったことと、何層にも並ぶブロックの後方のスペースにボールを打ち込むと、勝手に大量のブロックを消してくれるという爽快感があり、またゲームの進行に従ってボールのスピードが増し、パドルはボールと同じくらいの大きさにまで縮小するので、スピード感とスキルアップが感じられるゲームだったことが、ヒットの要因だったのだろうと思います。

1977年頃になると、ブロック崩しのバリエーションである「CIRCUS」(Exidy・1977)が流行りました。ボールの代わりの人間を、パドルの代わりであるシーソーの空いている方で受けることでシーソーのもう片方にいる人間をジャンプさせ、上空で横3列に並んで互い違いに左右に移動する風船を割るというコミカルな世界観は秀逸で、これも多数のメーカーがコピーし、一般には「風船割りゲーム」と呼ばれてヒットしました。




数ある風船割りゲームのコピー品の一つ、セガの「SEESAW JUMP」(1977-8?)のフライヤーと画面部分の拡大。

風船割りゲームは、ゲームスタート時と、横一列の風船を全て割った時、それに人間を受け損なって死ぬ時にメロディが流れました。ワタシの記憶では、これ以前のビデオゲームでメロディが流れるビデオゲームが思い浮かばず、もしかするとこれが初のゲームミュージックを搭載したゲームではないかと考えています。これ以前のゲームでメロディが流れるビデオゲームをご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひともご教示ください。

PONG以降、スペースインベーダー以前のビデオゲームで、ブームになったと言って良いのは、ブロック崩しとこの風船割りぐらいのように思います。当時の他のゲームは、反射神経ゲームを時間制で遊ぶタイプが多く、戦略性が希薄なため、一時のてなぐさみにはなっても徹底的にやり込もうという意欲を掻き立てるものではありませんでした。しかし、メーカーも徐々にそのあたりに気づいてきたようで、米国Meadows社が1978年に開発し、日本ではタイトーが発売した「GYPSY JUGGLER」のフライヤーにはこんな文章が見られるようになります。


反射神経をかなり使いますが、なれるにしたがって技術が向上し、得点があがりますので、得点アップによって満足感が得られ、何度でもチャレンジしたくなる面白味があります

 
GYPSY JUGGLER(Meadows/タイトー・1978)のフライヤーの表裏。

GYPSY JUGGLERもパドル&ボールゲームで、ジャグラーを操作して卵でジャグリングをするという内容のゲームでした。ゲームスタート時には、一般ではサーカスの定番テーマミュージックとされているフチークの「剣士の入場」と言う曲の一節が流れたところから、ExidyのCIRCUSに多少なりともあやかろうとしたか、少なくとも何らかの着想のヒントを得ている部分があると思われます。GYPSY JUGGLERはまた、ゲーム中に卵を落してしまうと、割れた卵からヒヨコが現れ、ピヨピヨと鳴きながら画面の端に去っていくという演出がありました。このような、ゲームとは直接関係しない部分にわざわざ手間をかけるようになったのも、このころからだったように思います。

タイトー自身も、サーカステーマからインスパイアされたと思しき「TRAMPOLINE」(1978)というゲームも出しています。シーソーをトランポリンに変え、人間をジャンプさせて上空の星を消し、更に空中ブランコに掴まらせてうまく別のブランコに飛び移らせるとボーナス得点が入るという内容でした。

 
TRAMPOLINE(タイトー・1798)のフライヤー。渋谷センター街のゲームセンターでこれに硬貨を投入したところ、基板が壊れているらしく、動作が全く滅茶苦茶でゲームにならなかったことがあった。来るべきコンピューター社会でコンピューターが暴走することの恐ろしさを漠然と感じた。

GYPSY JUGGLERもTRAMPOLINEも、さほどのヒットとはなりませんでした。しかしこの辺りから、タイトーはビデオゲームのヒットの要素を掴んだように見えます。そして同じ1978年、タイトーは、日本の風俗史に残るブームを起こすこととなる「スペースインベーダー」を発売します。

(もう少し続けられそうなのでつづく)


それはポンから始まったのだけれども(2) 初期の国産ビデオゲーム

2017年07月30日 22時40分47秒 | ビデオゲーム

1972年にリリースされたATARI社の「PONG」以降、アメリカだけでなく、日本のゲームメーカーもビデオゲームの開発に取り組みました。とは言っても、このウェイブにすぐに対応できたのは当時の最大手であるセガとタイトーのみでした。

当初の国産のビデオゲームは、ワタシの記憶では、パドルでボールを打ち返すという、「PONG」が規定したゲーム性の延長線上にあるゲームがほとんどでしたが、中にはオリジナリティを感じさせるゲームもありました。

例えばタイトーは、パドルを人間の形にして2 ON 2のバスケットボールをモチーフとした「BASKETBALL(1974・フライヤーはこちら)」を独自に開発しています。

また、「SPEED RACE(1974・フライヤーはこちら)」は、ひょっとすると初のビデオによるカーレースゲームではないかと思います。

更に、1975年にリリースした「WESTERN GUN(フライヤーはこちら)」は、2種類のジョイスティックを持ち、当時としては先進的な操作系でした。

セガは、1974年に「BALOON GUN」というビデオガンゲームを発売しています。同年には、ATARI社が「QWAK!」というダックハントをテーマとするガンゲームを出してきており、私の知る限りでは、初の業務用ビデオガンゲームはこのどちらかになります。

また、「LAST INNING(製造年不詳・1974~5)」は、二人のプレイヤーが守備側と攻撃側に別れて対戦する野球ゲームでした。


「LAST INNING」(左)と「BALOON GUN」(右)。共に1975年に頒布された総合カタログより。

セガとタイトー以外の日本のゲーム機メーカーがビデオゲームに進出したのは何年頃であったか、定かな記憶がありません。ただ、「ブロック崩し」の名で広く知られているゲームの元祖であるATARI社の「BREAK OUT」(1976)が発売された以降であるように思います。

コインマシンのフライヤーを集めているサイト「The Arcade Flyers Archive」によれば、1976年に、ナムコが「BREAK OUT」を日本国内で売り出していますが、これは、当時のナムコがATARI社の日本法人である「アタリジャパン」社と協力関係にあり、ATARI製品の日本国内での販売をナムコが請け負っていたためで、ナムコが開発したゲームというわけではありませんでした。

The Arcade Flyers Archiveに頼ってさらに調べると、ユニバーサルが1977に頒布した「総合カタログ」には、BREAK OUTの類似品である「SCRATCH!」の名が掲載されています。


スクラッチの名前が見える、ユニバーサルの総合カタログ1977年版。「The Arcade Flyers Archive」では、ワタシのコレクションにはなぜか無い、「スクラッチ」の画像のページも掲載されている。

翌1978年になると、アイレムの「PT BLOCK」の名前が出てきます(フライヤーはこちら)。

また、同年には、三共というゲーム機メーカーがビデオゲームに参入し、「PYRAMID」というゲームを発売しています(フライヤーはこちら)。PYRAMIDは、パドルでボールを打ち返すという点ではブロック崩しの延長線上にあるゲームではありますが、ボールが当たったブロックは、消えるのではなく色が変わって、特定の全てのブロックの色が変わるとボーナス得点となるという、オリジナリティの高いゲームでした。

この三共というメーカーは、以前から比較的チープなメカを伴うコインマシンを開発していたメーカーでしたが、いきなりこれだけの、しかもカラーのビデオゲームを作ってしまったのは驚きでした。三共は、この後に「CASTLE TAKE」という、PYRAMIDと似たゲーム性のビデオゲームも発売しています。

三共が業界誌「アミューズメント産業」の1976年3月号に掲載した広告。この時点ではビデオゲームとは全く無縁なメーカーに見える。

「The Arcade Flyers Archive」は、全てのゲーム機のフライヤーを網羅しているわけではないので、ユニバーサルや三共以外にもビデオゲームを開発していた国内のメーカーがあってもおかしくはありません。実際、発売年は定かではないのですが、メダルゲームの盟主であったsigmaは、大画面で遊ばせるブロック崩しゲーム「Golden Nugget」を、自社店舗に大量に設置していました。もともとカジノ志向の強かった同社の事ですから、ラスベガスの老舗カジノの名前から命名したであろうことは想像に難くないこの機種は、BREAK OUTが大ヒットしてからほどなくして市場に出てきています。
(もう一回くらいつづく)


それはポンから始まったのだけれども(1) 業務用ビデオゲームの黎明期の記憶

2017年07月24日 21時30分44秒 | ビデオゲーム

拙ブログを始めて1年半くらいになります。もともとコインマシンに関する古い話を記録しておこうと思い立って始めた拙ブログは、これまでに約70の記事をアップしてきました。しかし、このうち、メダルゲームやギャンブルゲームでない、純粋なビデオゲームをテーマとした記事は、「デス・レース 社会から非難を浴びた殺人ゲーム」 と、「任天堂@ゲームセンター」 の2件だけです。

ワタシも以前は熱心なビデオゲームプレイヤーでしたので、語ろうと思えば語れるゲームはたくさんあるはずなのですが、いざビデオゲームについて何か述べようとすると、すぐに筆が止まってしまうのです。

その最も大きな理由は、いかに自己満足のための泡沫ブログと言えども、公開する以上はそのゲームができた当時の社会情勢や業界事情など、なにがしかの歴史資料的価値を多少なりとも含ませておきたいという欲が働くところにあります。しかし、ためしに書いては見るものの、結局は無名の一個人が過去に遊んだゲームのルールと感想を記録しただけのものとなってしまうため、これでは意味がないと没にすることを繰り返しておりました。しかし、現状ではあまりにもバランスが悪いので、ここでひとつビデオゲームの黎明期の記憶を記録しておいてみようと思います。

ワタシが初めて目にしたビデオゲームは米国ATARI社の「PONG」で、おそらくは1973年ころ、東横線都立大学駅近くにあったボウリング場「柿の木坂トーヨーボール」(関連記事:柿の木坂トーヨーボール&キャメル)でのことだったと思います。テレビのブラウン管と思しき画面に、プレイヤーの操作によって動く記号が表示されるゲーム機を見て、「これはいわゆる一つのコンピューターというやつに違いない」と興奮したものでした。何しろ当時はまだ、コンピューターというものはたいへん高価な最先端技術で、限られた場所でしか使われないモノだった時代です。それを自分で触って操作するなんて大変に未来的なことのように思えた時代でした。




PONGの筐体(上・画像出典/wikipedia)と、PONGのゲーム画面(下)。

実は、「PONG」以前に、「コンピュータースペース」(Syzygy Engineering / Nutting Associates 1971)というビデオゲーム機が、史上初のコインマシンビデオゲームとして世に出ていますが、日本には輸入されていないとのことで、ワタシもリアルタイムには見た覚えがありません。


コンピュータースペースの筐体(画像出典・wikipedia)。曲線と曲面を多用したFRPの筐体は、当時の未来的なイメージの典型のように見える。食糧難となる近未来を描いたSF映画「ソイレント・グリーン」にも登場した。

「コンピュータースペース」は、二人のプレイヤーが、それぞれが操る宇宙船でドッグファイトを行うというゲーム性だったそうですが、画面中央の太陽(ブラックホール?)の引力の影響を受けるなど操作が難しすぎたために人気の方はさっぱりだったとのことです。このゲームは、1977年頃に、米国シネマトロニクス社など2、3のメーカーが「SPACE WARS」などのタイトルでリメイクしており、これらは日本でも見ることができましたが、確かに操作が難しく、少なくとも私にとってはそれほど熱中できるゲームではありませんでした。

「PONG」を開発したのは、コンピュータースペースを開発したノーラン・ブッシュネルという人物です。彼はコンピュータースペース開発の後、自らATARI社を設立して、より簡単なゲーム性の「PONG」というビデオゲームを1972年に世に送り出し、これが世界的な大ヒットとなりました。そのため、PONGが事実上の市場初のアーケード用ビデオゲームと目されています。

二人のプレイヤーが画面上で行うピンポンのようなゲームはたいへん流行し、翌1973年には多くのゲーム機メーカーが類似品を作り、日本でも、セガやタイトーが参入しました。


セガによる「PONG」の類似品(画像は1975年に頒布されたセガの総合カタログより。発行年と掲載されているゲーム機の製造年とは必ずしも一致しない)。タイトーも1973年には「エレポン(フライヤーはこちらで)」「デビスカップ(フライヤーはこちら)」他の類似品を出している。

ところで、今回の記事のタイトルは、アーケードゲーム業界紙の元編集長であった赤木真澄氏が著した「それはポンから始まった」という本から頂いています。同書は、日本語で書かれているという点でも稀有な、ビデオゲームとその業界の発展史であり、ゲームファンなら一度は読んでおきたい名著として、この機会に強くお勧めしておきたいと思います。お求めはAMAZON、または公式サイトからどうぞ。
(つづく)


【小ネタ】デス・レース 社会から非難を浴びた殺人ゲーム

2017年01月04日 14時47分02秒 | ビデオゲーム

「世にも恐ろしいゲームマシン・・・ (中略)ここに紹介するのは、身の毛もよだつ恐ろしさである。その名は『デス・レース』」

これは、AM業界紙「ゲームマシン」の、1977年1月15日号に掲載された記事の冒頭部です。「デス・レース(Death Race)とは、1976年に米国Exidy社が販売していた、一種のドライブビデオゲームです。「デスレース2000」という映画に想を得て開発され、500台以上が生産されたそうです。


デス・レースの筐体(上)。ハンドルが二つ付いており、二人で競う形になっている。バックグラスでは二人の死神が車を駆って墓場を疾走している(下)。ラスベガスの「Pinball Hall of Fame」にて2025年3月に撮影。

ゲーム内容は、自分の車を操作して、画面上を逃げ惑う歩行者を轢き殺すというものです。轢き殺された場所には十字架がたち、車にとって障害物となります。二人で同時プレイが可能で、どちらがより多くの人を轢き殺せるかを競うこともできます。

このようなテーマですから、「刑事コロンボ」でさえ暴力的で子供には見せたくない番組としてしまうアメリカでは社会問題となり、このことは日本の新聞でも報道されました。

「Pinball Hall of Fame」が筐体に貼付していた説明。「車の暴力を教えるとして世界中のメディアで激しく叩かれた」とある。

私はこのゲームを、1978年前後に、おそらく銀座のゲームセンターで、数回遊んでいます。確かに、ゲームの説明を聞く限りは反社会的なゲームのように思えます。

しかし、何しろ時代は1977年、ビデオゲームはまだ簡単な記号を白黒で表示することしかできない時代だったので、簡単な棒線で描かれた「歩行者」が数パターンのアニメーションでちょこまかと動き回るだけの極めてお粗末なグラフィックでした。轢き殺した時に響き渡る効果音が人の叫び声のように聞こえないこともありませんでしたが、まだ世界初の喋るビデオゲーム(スピーク&レスキュー、サン電子、1980)も出ていない時代ですから、Beep音をうまくいじってそれっぽく聞こえるように(当時はそれも広義のプログラミング技術だった)なっている程度のものでした。

「デス・レース」は日本でも問題視され、抗議団体からゲーム業者や警察にまで抗議があったと、これも一般の新聞の記事になりました。これに対して行政側は、「電取法(電気用品取締法、現電気用品安全法)」を根拠に日本国内では使用できなくするという「別件逮捕」で事態の収拾を図りました。

Exidy社は、デス・レースとゲーム内容は全く変わらないものの、ぶつける対象を車にした「デストラクション・ダービー(Destruction Derby)」というゲーム機も開発しており、こちらの方は特にお咎めがあったと聞いたことはありません。ワタシはこのゲームを、ダイエー碑文谷店で遊んだ覚えがあります。ただ、Chicago Coins社が「デモリション・ダービー(Demolition Derby)」というタイトルで全く同じゲームをリリースしており、もしかするとこちらの方だったかもしれません。70年代は、表面上は同じゲームが、違うタイトルで、異なるメーカーから発売されるということがしょっちゅうあった時代でした。