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オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

【小ネタ】GOAL KICK(SEGA, 1974)

2020年11月08日 15時53分58秒 | ビデオゲーム
最低限、毎週日曜更新を目指している拙ブログですが、今週末は福岡の親せきの家に来ており、今は博多駅の喫茶店で慌てて今週分の原稿を書いているところです。今夜9時ころの飛行機で東京に戻ります。

というわけで、今週はセガのビデオゲーム「GOAL KICK (1974)」についての小ネタを取り上げてお茶を濁しておこうと思います。




GOAL KICK (SEGA, 1974)のフライヤーの表と裏。

「GOAL KICK (SEGA, 1974)」は、2Pで対戦する「パドル&ボール」ゲームですが、一つしかないゴールを目指して攻守が変わるという、当時としては非常に珍しいルールを導入したゲームです。裏面に書いてある[遊び方]によると、

(1)シューター(攻)はパドルでボールをキャッチし、シュートボタンでゴールめがけてボールを放つ(放ったボールは必ずゴールに向かう)。

(2)キーパー(守)は、パドルを操作してシューターの放つシュートを防ぐ。防げなければ1点を失う。

(3)攻守どちらのプレイヤーの操作によらない「ディフェンス」が常時左右に動いており、シューターが放ったボールを弾き返す。

(4)シューターは、キーパーまたはディフェンスに弾かれたボールをキャッチできなければ1点を失い、攻守が交代する。

という内容になっています。面白いかどうかは別として、攻守の区別があるという点で、「パドル&ボール」の先駆であるATARIの「PONG」及びその類似ゲームとはひと味違うゲーム性にはなっていると思います。

実はワタシはこのゲームの記憶が殆どありません。それでも今回このゲームを取り上げたのは、フライヤーおもて面のこの文句にジワるものがあったからです。

●いままでのTVゲーム機に比べ、I.C.数が30%アップ(当社比)したため、攻防に一段と迫力が増し、ゲームが面白くなりました。(原文ママ)

ビデオゲームにCPUが使われたのは1977年(関連記事:CPUを初めて使った? CRASH COURSE(SEGA, 1977))のことらしいので、ここでいう「I.C.」とはおそらくTTLのことでしょう。論理回路が増えればより複雑なことをしやすくなるであろうことは、今であれば見当がつかないこともありません。しかし、まだパソコンブームと言うものが起きる前で、コンピューターの知識を持つ一般人などほとんどいなかった1974年当時、「I.C.が30%アップ(当社比)」が何を意味するものなのか、多少なりとも理解する人がどれだけいたことでしょうか。

いや、しかし、ジワるポイントはそこではなくて、「30%アップ(当社比)」という、まるで食料品や消耗品の購買意欲促進用惹句のような記述がワタシにはグッと来たのでした。

「I.C.30%アップ(当社比)」の意味が分からなくても、「お値段は据え置き!」とでも言うのであれば、「おお、それは買わなければ損だ!」と勘違いする人もいたかもしれませんが、あいにく「GOAL KICK」は他と比較してもお高い部類でした。GOAL KICKの発売から3年後の1977年のセガの値段表を見ても、他のパドル&ボールゲームは高いものでも40万円のところ、GOAL KICKはそれより15%もお高く46万円、おそらく発売直後はもっと高かった可能性もあります。


セガが1977年に頒布した値段表から、GOAL KICKが掲載されている部分。

部品取り用の基板であれば、「15%値上げ、でもICは30%増量」はおトクと言えるのかもしれませんが、しかしこれはオペレーションに使う前提で販売されるものです。ひょっとして、TTLの使用数に糸目をつけなかった結果値段が高くなってしまったので、これに対する弁解をする必要が生じた上での「30%アップ(当社比)だったのではないでしょうか。いや、あてずっぽうの想像ですけど。


食料品や消耗品の増量パッケージの例。

CPUを初めて使った? CRASH COURSE(SEGA, 1977)

2020年05月31日 18時29分41秒 | ビデオゲーム
ブログネタを探すつもりで過去の資料をひっくり返していたら、セガの「CRASH COURSE」(1977)のフライヤーに目が留まりました。



セガ「CRASH COURSE」(1977)フライヤーの表(上)と裏(下)。

「CRASH COURSE」は2P対戦で、1PでもCPUを相手に遊ぶことができました。0.5秒程度置きに1ブロック分進行する矢印の進行方向を、上下左右の4つのボタンで操作して画面上にブロックを置いていき、相手の矢印の進行を妨げ、または閉じ込めるというゲームで、このゲーム性は後に「初のコンピュータグラフィックス映画」と謳われた「トロン(TRON)」という映画でも採り入れられています。

しかしこの「CRASH COURSE」は、その前年に米国のグレムリン(Gremlin)社が、同社にとって初のビデオゲームとして発表した「Blockade」と同じものに見えます。


Gremlinの「Blockade」 (1976)のフライヤー。

グレムリン社は1971年に創立され、「Blockade」以前は一般に「ウォール・ゲーム」と呼ばれる電光点灯式のゲーム機を主に作っていた会社です。そのグレムリン社は、1978年にセガに買収されて子会社になっています。

さて、なぜ「CRASH COURSE」のフライヤーに目が留まったかというと、そこに書かれている「初のCPU・TVゲーム」という文言に気づいたからです。

それ以前のビデオゲーム、例えばピンポンゲームやブロック崩しゲームなどは、コンピュータープログラムに相当する部分を、「TTL(Transistor-transistor-logic)」というIC部品を組み合わせて作っていました。それは、「電子ブロック」という玩具みたいなものだったと言えるかもしれません。

TTLでロジックを組むためには多くのICを要するため、基板が大きくなりがちです。従って、CPUを導入し、ロジックはプログラムROMに格納されているプログラムに置き換えるという新技術は、基板上の部品数を減らすことになり、将来的にはコンパクトなシステム基板への発展に繋がっていきます。

というわけで、CPUの登場はビデオゲームにおいては大きな技術革新の一つであり、だからこそセガもフライヤーで謳ったのだと思います。しかし、まだデジタル技術が一般に浸透しているとは言えなかったその当時、どれだけのオペレーターがその意味を理解していたものでしょうか。いや、理解どころか、「CPU? うまいもんずらか?」と首をかしげるか、良くて「なんだかわからんがすごい(らしい)」と思うのがせいぜいだったのではないかと想像します。ちなみにグレムリンは、「グレムリンの技術力によるイノベーション」程度のアピールしかしていません。セガがグレムリンを傘下に収めたのも、このグレムリンの技術力を取り入れるためだったと聞いています。

しかし、1975年に発表された米国ミッドウェイ社の「Gun Fight」は、すでにCPUを積んでいたという情報を何かで読んだこともあり、セガのハッタリが本当に事実なのかどうか、よくわからないところもあります。この辺、情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、何卒ご教示いただけますようお願い申し上げます。


Midwayの「Gun Fight」(1975)のフライヤー。

オマケ情報。TAITOもセガと同様、「Blockade」に類似するゲーム「BARRICADE II」と「HUSTLE」の二つを1977年に出しています。



TAITOの「BARRICADE II」(1977・上)と「HUSTLE」(1977・下)のフライヤー。

それにしても、以前にも拙ブログのどこかでも言いましたが、70年代は、同じ内容のゲームが異なるメーカーから名前を変えて発売される例がたくさんあるだけでなく、筐体やフライヤーにライセンス関係を示していないことも珍しくないため、どれが元祖でどれが正規許諾品でどれが無断コピーあるいは海賊版なのか、なかなか判別がつかない、厄介な時期です。

サブロック-3D(Sega, 1982)と他の3Dビデオゲームの記憶

2020年05月17日 17時56分35秒 | ビデオゲーム
平面からものが飛び出して見える「立体視」は、ずいぶん古くからさまざまな手法で試みられて来ており、ことほど左様に「立体視」は多くの人の興味をそそる視覚効果であることが窺えます。映画の世界でも、古くは赤と青のフィルターメガネを通して見る手法から始まり、その後もときどき思い出したかのように出てきたものでした。

従って、「見るゲーム」を意味するビデオゲーム(「ビデオ(video)」の語源「videre」は、ラテン語で「見る」の意味)においても立体視を試みようとするのは自然なことと言えましょう。それを世界で初めて実現したのは、「サブロック-3D (SUBROC-3D)」(Sega, 1982)でした。




「SUBROC-3D」のフライヤー。1枚を三つに折った6ページ構成で、上が表紙側、下が中身側。表紙には円形の穴が開いており、そこを通して裏表紙側右のイラストの宇宙船が見えるように折りたたまれていた。この画像は、保存状態が良くなかったフライヤーをページごとにスキャンしており、一部尺が切れているところがあるものを無理やり実際の状態に近い状態に復元してある。

原理としては、一つの画面に左目用と右目用の二つの画像を交互に高速に切り替えて表示し、これに同期してシャッターが開閉する左目用レンズと右目用レンズを通して画面を見ることで立体視が得られる、というものでした。このシステムは、セガが松下電器産業と共同開発したとフライヤーには書かれています。

ワタシが「サブロック-3D」を初めて見たのは、明治通りの宮益坂近くにあり現在も営業が続いている「渋谷ボウル」のビル内にあったゲームコーナーでした。「ゲームコーナー」と言っても、この当時はまるまるワンフロアがゲーム場となっていたように記憶しています。セガの機械がやたらと多かったのは、そこがおそらくセガによるオペレーションだったからでしょう。

当時のワタシはミーハーでしたから、さっそく試してみたところ、確かにエネミーがこちらに向かって画面を飛び出て迫ってくるように見え、その効果には相当に驚き感心したことを覚えています。

ビデオゲーム業界では、サブロック-3Dの後、他社からも似た原理による立体視を売りにするゲーム機が断続的に売り出されました。

◆1985年 「バトルバード(Battle Bird)」(Irem)

バトルバードのフライヤーの表(左)と裏(右)。

◆1986年 「3-DサンダーセプターII(3-D Thunder Ceptor II)」(namco)

サンダーセプターのフライヤーの表(左)と裏(右)。このフライヤーは3D機能のない普通タイプで、3Dバージョンはこの半年後くらいに発売された。

◆1989年 「コンチネンタルサーカス(Continental Circus)」(TAITO)



コンチネンタルサーカスのフライヤー。二つ折りの4ページ構成。表紙側(上)と中側(下)

だがしかし。これらのゲーム機は、いずれもヒットと呼べるほど普及した印象がありません。ワタシの記憶では、最も良く見かけたのはコンチネンタルサーカス、次いでサンダーセプターで、バトルバードはほんの2、3か所でしか見た記憶がありません。

その原因として、一つには筐体が高価だったこともあろうかと想像しますが、それ以上に、いずれも専用のフィルターを通して画面を見ないと意味のある映像が見えないという欠点があったことも挙げられるのではないかと思います。バトルバードなどは、プレイヤー以外はゲーム画面を見ることができない造りになっていました。

現在は裸眼で立体映像が見られる技術も発達し、カジノのスロットマシンでも導入する機種が増えています。それらも、出始めのころから比べるとグラフィックの質は向上しているように思えますが、しかしまだ「ノベルティ・マシン(変わり種ゲーム機)」の域を完全に脱し切れていないように思えます。

立体視と言えば、数年前には家庭用のテレビモニターに3D機能が搭載され、各社が懸命に売り込んでいたこともありましたが、現在は全く見かけなくなりました。今のTVモニター業界の力の入れ所は、4Kとか8Kと言った高精細画像に完全にシフトしています。

多くの人が興味を示すくせに、いざ実現してもたいして売れない「立体視」は、実はそれほど強い需要がある技術ではなさそうです。ワタシの経験でも、なるほどファーストインパクトは大きいのですが、それはゲーム(テレビの場合は放映コンテンツ)を楽しむというよりも、視覚効果を楽しんでいるのでした。そしてその効果の刺激に慣れてくると、3Dはむしろゲームを楽しむ邪魔になっているように思ったものでした。

3Dという技術は、成功すれば多大な富が得られるという妄想を産む点で錬金術に似ていますが、錬金術と違ってなまじ実現できてしまうのでなお性質が悪いと言えるかもしれません。今のワタシは、3D技術は、視覚効果を見せることを主とするコンテンツであれば効果的ではあるが、視覚効果は従に過ぎないビデオゲーム分野では報われることのない技術だと考えています。これを裏切るタイトルが将来出て来てくれる方がうれしいとは思うのですが。

【小ネタ】トラックボールを使ったビデオゲーム二題

2020年01月12日 20時42分13秒 | ビデオゲーム

コンピューターの操作装置に「トラックボール」というものがあります。操作系にトラックボールを備えた最も古い商用ビデオゲーム機が何であるのかははっきりしないのですが、ワタシの記憶ではSEGA1977年1978年に発売した「WORLD CUP」になります。



WORLD CUP (SEGA, 1977 1978)フライヤーの裏表。英語表記であるところを見ると、海外向けのものらしい。

フライヤー裏面に書かれている操作説明では、この操作系を「ball type control」と呼んでいます。このころはまだ「トラックボール」という言葉が一般的ではなかったのでしょうか。こんなことを言い出すとトラックボールの歴史まで調べなければならなくなってしまいそうですが、これはワタシにとってはあまり興味を惹かれる話でもないので、すっとぼけることにします

ワタシがこの「WORLD CUP」を見たのは、渋谷センター街にかつてあった「新宿スポーツランド」というゲームセンターの地下で、たぶん1978か79年のことでした。このロケは、1980年頃に「扇屋」という牛丼屋になった後、またゲーセンに戻ったと思ったらまた何かの飲食店になったと思ったらまたゲーセンに戻る、なんてことを繰り返していたように記憶しており、現在は「三平酒家」という居酒屋になっています。この店のオーナーは新宿の繁華街で古くから手広く商売をしており、ゲームセンターもセガと共同でいくつもオペレートしていたので、この店もその一つだったのでしょう。

WORLD CUPは6人制のサッカーゲームでした。プレイヤーの移動はトラックボールを転がして行うところまでは簡単に想像がつきますが、意外なのはボールを蹴る操作で、なんとトラックボールを押すことで、パス、またはシュートを行っています。ワタシは、トラックボールに転がす以外の操作を加えているゲームの例を他に知りません。

ワタシの記憶で次に古い、トラックボールを使用したゲーム機は、翌1978年に米国ATARI社が発売した「FOOTBALL」です。1個のトラックボールと1個のボタンだけで操作する、アメリカン・フットボールをモチーフとするゲームでした。セガのトラックボールは、ポケットビリヤードのボール程度の大きさでしたが、こちらは大きめのグレープフルーツくらいの大きさがありました。



FOOTBALL (ATARI, 1978)フライヤーの表裏。

攻撃側(〇で表示)、守備側(×で表示)とも、4種類のフォーメーションから次に採用するものを選んで、ボールがスナップされた後は〇×で描かれた選手をトラックボールで操作します。この時、懸命になってトラックボールを回す余り、ボールとテーブルの隙間に掌の皮膚を挟んでしまい痛い思いをする人が続出したものでした。

このゲームが発売されたころ、日本ではなぜかアメリカン・フットボールというスポーツが少しだけブームになりかけていたこともあってか、ゲームセンターによっては順番待ちもできるくらいのヒットとなり、国内ではコピーを製造販売するメーカーも現れました。このころから既にスポーツ観戦オタクの気があったワタシ(関連記事:RIO五輪に因んだ(こじつけた)スロットマシンの話)はアメリカン・フットボールも好きだったので、かなり入れ込んだゲームとなりました。

今回は、ワタシが認識するところの、トラックボールを使用した最も古いと思われる業務用ビデオゲーム2機種を取り上げましたが、「これより古いものを俺様は知っている」という方がいらっしゃいましたら、ぜひともご教示いただけますようお願い申し上げます。


【小ネタ】本日のナツゲー:CHOPLIFTER (SEGA, 1985) + ブログ更新お休みのお知らせ

2019年10月06日 20時02分27秒 | ビデオゲーム
まず、お知らせです。来週12日(土)から20日(日)までラスベガスに行って参ります。目的は毎年恒例となっている「Global Gaming Expo (G2E)」の見物です。

と、いうわけで、最低でも毎週日曜更新を極力目指している拙ブログですが、来週13日の更新はお休みとさせていただきます。さらに次の日曜日となる20日にはなにがしかの更新ができればと思っていますが、こちらは帰国日なので状況次第です。なにとぞご了承ください。

で、これだけではなんかちょっとアレですので、小ネタを一つ。

その昔、米国Apple社がまだパソコンメーカーだったころ。「Apple II」というパソコンが、なんだかやたらとパソコンファンの間でもてはやされていました。しかし、日本のベストセラー機だったNECの「PC-8001」が16万8千円、「PC-6001」が6万9千800円だった時代に、Appleのパソコンは50万円ほどもしたように記憶しています。

そのApple IIのゲームソフトを、「マイコンBASICマガジン」は、しょっちゅう取り上げて、巻頭カラーで紹介していたのですが、当時(1982年頃)の50万円は今にも増して大金でしたから、誰でもそうおいそれと買えるものではなく、多くのパソコンファンにとって垂涎の機種でした。

「マイコンBASICマガジン」で紹介されていたApple IIのゲームソフトでは、「ブローダーバンド(Broaderbund)社」の「チョップリフター (Choplifter, 1982)」と「ロードランナー (Lode Runner, 1983)」が印象に残っています。どちらもアーケードに移植され、特に「Lode Runner」は一時アイレム社の看板タイトルであったように思います。

一方の「Choplifter」は、1985年にセガがアーケードに移植しました。ワタシはPCやコンシューマ系のゲームには詳しくは無いのですが、当時、ハードの性能はアーケードの方が圧倒的に高く、アーケードのタイトルを無理やりコンシューマに移植した例はあっても、コンシューマタイトルをアーケードに移植した例は殆ど無かったように思います(この辺、ワタシに認識違いがありましたらご指摘頂ければ幸甚です)。



1982年にSEGAが頒布した英語版の「Choplifter」フライヤーの表裏。裏には「ブローダーバンド社からライセンスを受けている」と明記されている。

ゲーセンで見る「チョップリフター」は、「マイコンBASICマガジン」の写真で見る「Choplifter」など比較にならないくらいグラフィックが美しく、ラインスクロールによって遠くのものほど遅く進むことで感じる遠近感には大変なスピード感を感じた物でした。

操作は比較的難しいゲームでしたが、敵の攻撃が激しくて捕虜を積み残して行かざるを得ない時などは、心の中で「許してくれ」とつぶやくくらい感情移入して遊んでいたものでした。

今ではアーケードもコンシューマもハードの差はなくなり、アーケードのアドバンテージは無くなってしまいました。これも、ゲームファンのゲーセン離れが進んだ一因だと思います。