旅限無(りょげむ)

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欲しいけど要らないノーベル平和賞 其の壱拾弐

2008-11-06 00:51:35 | チベットもの
昨年(88年)私は、ストラスブールの欧州議会でこのプランを詳細にわたり説明しました。その際に私が表明した考え方はあまりにも妥協的だとして一部のチベット人から批判されてきました。しかし私は、この考え方が現実的で妥当なものであると信じております。残念ながら中国の指導者たちは、かなりの譲歩を含むこの提案を積極的に受けとめていません。もしこのような状況が続くならば、私たちの方もやむなく立場を再考せざるをえなくなるでしょう。……

■こうして予告されていた「立場の再考」がいよいよ現実味を帯びて来ているのが非常に気になります。本当に貴重な20年間が無駄に流れてしまいました。その間に、パンチェン・ラマの転生候補者が北京政府の管理と指示の下に決定されるという事件も起こっておりまして、どうやら北京政府がダライ・ラマの代替わりにも強引に介入して二人の精神指導者を取り込んで愛国者に仕立て上げる時間稼ぎをしているという説が現実味を帯びて来ているようです。先代のパンチェン・ラマは即位の時から中華民国と共産党との内戦に巻き込まれたり、青年期には北京に拉致軟禁されて言葉に尽くせぬご苦労をした揚句に、謎の死を遂げたのですが、海外メディアと接触する機会が得らなかったために、その生涯に関してあまり知られていません。

■その轍を踏まないようにインドに亡命したダライ・ラマ14世は機会が有れば何処へでも出向いて積極的に行動し、マスコミを通して精力的に発言し続けることで、身の安全を守って来たようなものです。余りにも有名になった人物が謎の事故に遭ったりすると、真偽は兎も角として犯人探しが盛んに行われますからなあ。お元気な姿で来日して記者会見など過密気味のスケジュールをこなして九州の学校にも出向いて法話をしておられるようなので、ひとまずは安心。一時は体調を崩されて胆石の摘出手術を受けられたとの報道があったので、何処ぞの国がメラニンとか言う特色有る添加物を盛ったのか?などと恐ろしい憶測が流れたとか流れなかったとか……。

■時々、ダライ・ラマ制度自体を否定するような発言もされておりましたが、世界が求めている北京政府との交渉を継続して少しでもチベット問題の解決に向かって進むには、今のダライ・ラマ14世の存在は欠かせないでしょう。既に「話し合い路線」も賞味期限が切れ掛けていると法王御自身が危惧しているのですから、北京政府は有利に時間稼ぎをしていると過信していると、トンデモないことになるかも知れませんぞ。


……チベットと中国の関係が、いかなるものでも、平等、尊敬、信頼、互恵の原則に立つものでなければなりません。ということは、チベットと中国の賢明なる指導者たちが、西暦823年の昔に締結した条約の原則に立ち戻ることにもなります。その条件は、ラサにあるチベットで最も神聖な寺院であるチョカン寺院の正面に、今なお立っている石柱(唐藩会盟碑)に刻まれております。その中には、「チベット人はチベットの大地で幸福に暮すように。中国人は中国の大地で幸福に暮すように…」と記されているのです。

■821年(長慶元年)に始まって締結された「長慶会盟」の証拠となっているのが『唐蕃会盟碑』と呼ばれる物です。記事の「唐藩会盟」は字が不正確のようです。それはさておき、この歴史的な友好条約が結ばれたのはチベット王国内部が動揺し始めた頃のことでした。それ以前、チベット王国の全盛期にも外交交渉がありまして、時は783年(建中4年)で、『建中会盟』と呼ばれておりまして、外交文書のやり取りの中で、唐側がうっかりチベットを「臣下」扱いしたと言うので危うく決裂し掛けたのだそうです。チベット側としては、唐王朝から2人の公主を嫁にしているのだから対等な親戚関係だ!と外交文書の訂正を要求して筋を通したという事になっております。

■何せ、この「建中会盟」の丁度20年前には安史の乱で唐は皇帝が四川省に逃げ込む騒ぎで滅亡の危機に追い込まれ、チベット軍が空き家になった都の長安に乗り込んで、自前の新皇帝を即位させるわ、文武百官の任命式を催すわ、改元までしてしまったのでした。ウイグルが助っ人に動いてくれたので事なきを得ましたが、たったの一週間ですが大唐帝国は断絶していたのですなあ。その後、大きな借りを作ってしまったウイグルにたかられて唐は衰退して行くのでありました。シルクロード観光で有名なオアシス都市の敦煌もチベット領だった頃のお話です。きっと、当時の思い出話を持ち出されるのは北京政府としては不愉快でしょうなあ。