旅限無(りょげむ)

歴史・外交・政治・書評・日記・映画

誰か止めなきゃ、みのもんた!

2005-05-31 21:09:07 | マスメディア
■個人的に恨みが有るというわけではないのですが、メディアの大変革期に急成長したこの人物が気になって仕方がありません。余り上手な比喩ではないのですが、ちょっと昔に『積み木くずし』という箸にも棒にも掛からない馬鹿親子の半ドキュメント本が、理由も分からずに大流行して、テレビでドラマ化されたり映画化までされる騒動がありました。家庭を放り出して「役者馬鹿」の美名に隠れてクセの有る演技を売り物にしていた穂積某氏が、地獄図と化した自分の家庭を「赤裸々に」書き殴った文章を、多分、一流の編集者が丹念に手を入れて、有りもしない「家庭の復活劇」に仕立て上げたのでしょう。これを間に受けた人々が沢山いたのでしたなあ。

■黒澤明さんの『酔いどれ天使』という名作映画が引き起こした奇怪な現象を、監督自身が驚き呆れて見ていたという実話が有ります。主人公は貧民街で医療活動を続ける一人の医者で、彼が出会った救いようの無い人物の中に、エナメル靴に白いサマー・スーツを着た三船敏郎演じる馬鹿なヤクザ者が登場します。黒澤さんが狙ったのは、志村喬演じる無名の医師が放つブッキラボウなヒューマニズムだったのですが、映画が大ヒットすると、町中に馬鹿なヤクザを真似た兄ちゃんのコピーが大発生したのでした。

■『積み木くずし』という本も、親の自覚を呼び起こすどころか、テレビで再現された荒れ果てた家庭の風景と、そこで猛獣のように吼えては暴れる馬鹿娘の「ファッション」が大流行したのでした。奇妙な髪型に暴力的な化粧、一冊も教科書が入っていない学生鞄に、相手を区別しない「日本語」、そして親から毟(むし)り取った金で身を滅ぼしていく馬鹿娘を真似るタワケ者を大発生させました。「テレビで観た」というのが強力な免罪符になるのが、この国の大きな弱点で、今でもこの免罪符が親子代々、途切れる事無く伝えられているご家庭が沢山存在しているようでありますなあ。

■面白い演技をして楽しませてくれた穂積さんは、家庭よりもパチンコを愛するダメ親爺だったようですが、本の売れ行きに便乗して、「教育評論家」になってしまったのが大間違いで、話など聞かずに「話題の人の顔」を見たいだけの参加者を集めた講演会も大繁盛してしまい、大好きなパチンコの軍資金が溢れ返って、ますます現実の家庭の積み木は崩れるどころか、粉々になってしまいました。誰も、彼を止めてはくれなかったのです。それが世間と言うものだ、と割り切れば話は終わりですが、ブッコワレタ家庭の惨状をテレビ画面で学んだ人々が、現実の家庭を構築する努力を放棄した結果が、最近の奇怪な事件の続出に直結しているとしたら、過ぎ去った他人事だと放置してはおけなくなります。

■メディアを弄(もてあそ)ぶ者に対する警戒態勢が備わっていないのが、テレビ業界の弱点です。視聴率さえ取れれば、犯罪者であろうと、詐欺師であろうと、ご機嫌を取って使い切ってしまおうとする体質は恐るべきものがあります。作り手も受け手も、「所詮テレビではないか」と油断しているのですから、危険はますます増大します。テレビの人気者にさえなれば、現実社会の中でも万能の力を得たような錯覚に陥って人生を台無しにしてしまう人が後を絶ちません。萩本欽一さんが大活躍した『スター誕生!』という罪深い番組を怒ったことも有りましたが、芸能界を冷めた目で見詰める知恵を持っていた山口百恵さんという人材を発掘したという功績が有るので、やはり、自己責任の問題なのか、と見識を改めました。

■テレビにオモチャにされているのか、テレビをオモチャにしているのか区別が付かなくなるのは危険です。テレビ局と酒場を往復するような生活をしていれば、苦言も教訓も聞く必要は無くなります。2005年3月24日の朝日新聞に、決定的な記事を見つけてからは、テレビ蘭を注意して見るようになりました。


ラジオと私 <2> 音だけの世界 僕の原点
文化放送に入社して3年目、いきなり深夜放送「セイ・ヤング」を担当させられたんです。本名の御法川法男(にのりかわ・のりお)では分かりにくいから、「みのもんた」と野末陳平さんが名付けてくれた。……トークはめちゃくちゃ。ディクスジョッキーの訓練なんて受けてないし、音楽のことも分からない。お粗末なおしゃべりでしたよ。内容が無くて心配だから早口になっちゃう。


■当時を知っている方ならば、「本当にそうだった」と頷(うなづ)くはずです。妙にギーギー声の、一人でハシャイデいるだけで、聞いている方が居たたまれなくなるような放送だったと記憶しています。でも、こんなに的確な「自己批判」……懐かしいですか?……めいた台詞が吐けるというのは、余程の自信が手に入ったのでしょうか?「セイ・ヤング」時代を知っている者にとって、特に成長や上達は見当たらないのですがねえ。ところが、御本人には悟るところがあったらしいのです!それは「面白くなければテレビじゃない」フジ・テレビがヤケクソで作った『プロ野球、珍プレー好プレー』のアテレコ体験ではなくて、昼のワイド・ショーで「君のは無駄話だ。これはトーク・ショーなんだぞ。ゲストを4人も入れているんだ。ゲストに話をさえろ」と言われた時だったそうです。

■それで開発されたという今のスタイルは、単なるスタジオの「内輪話」でしかないような気がするんですが、当の番組をきちんと観た経験が無いので、もっと奥深い味わい方が有るのかも知れませんが、たまにチラリと覗く程度の視聴者としては、オバチャン(お嬢さんと言わねばなりません)達をスタジオに並べて、実物の有名人を見せて、少しだけテレビ画面に入れるというだけの仕掛けと、きわどい覗き趣味を利用して「人生相談」という名目で、電話という覆面性を利用した同情の名を借りた「アノ人よりはアタシは幸せ」感覚の満足を狙った企画と、どうでも良いような「食ったら健康」話を混ぜて、夕食の買い物を助けるだけの番組だったようにしか見えなかったのですがねえ。

■ここからが本題です。このオバチャンの喰いすぎた昼飯の腹ごなし用のワイド・ショーで悟ったみのもんたさんは、放送文化の頂点にまで舞い上がってしまいます。


しゃべりって、究極的にはイメージの広がる音が出るか、出ないか。言葉が巧みなのも大事かもしれないけれど、やっぱり音だと思う。技術じゃない。気持ちをそのまま音の波長に乗せられるか。
たとえば、徳川夢声さんの間と緩急。「そのとき」と言ってその後、放送事故と思われるギリギリまで沈黙して、「武蔵は」と続ける。先輩に言われて、ストプウォッチで間を計ったら6秒もあった。それをテレビでやったのは僕なんですよ。00年に始まった「クイズ$ミリオネア」。簡単よ。「ファイナル・アンサー?」と僕が尋ねるでしょ。そして、解答者が悩んだ末に「ファイナルアンサー!」と答える。僕はじーっとギリギリまで黙ってから、正解かどうかを告げる。その沈黙の時間に、解答者の色んな思いが画面を通じて伝わるんだよね。


■出来の悪いオカルト話です。こんなヨタ話を、「ご尤もです」と畏(かしこ)まって聞いている悪いヤツがいるのでしょうなあ。徳川夢声さんの『宮本武蔵』の朗読は、50年も経ってからCD化されるような日本の放送文化の至宝ですぞ!それが、どうしてあの不愉快な「ファイナルアンサー」なのでしょう?クイズというので、一度は観た覚えがありますが、今も続いているのは、ちょうど脂ぎった顔がアップになってからCMになるモッタイブッタ時間に、トイレに立ったり小さな用事を済ませているだけのことでしょう。あのクイズ番組で知識や教養を高めようなどと思っている者は皆無でしょうから、「色んな思い」ではなくて、大金欲しさに恥を晒しに出て来る馬鹿者をアザ笑うためだけに愛好者達は見ているに決っているじゃないですか。

■この不景気に、テレビ業界を弄んで、大金を稼ぎ捲くっている間に、自分ではどうにもならない所まで舞い上がってしまったようで、ご本人の墜落も心配ですが、暇つぶしの説教番組と健康情報番組で時間と知能を奪われる多くの人々の事も少し心配です。テレビという化け物の残酷さが、これから嫌というほど堪能できるでしょうから、みのもんたさんの行く末に注目しておくべきでしょうなあ。御本人は、朝から晩まで、放送時間いっぱい、自分が出ているテレビを夢想しているそうですから、誰か付き合ってあげて下さい。今のうちは「金持ち喧嘩せず」が効いていますが、増長慢からの墜落は悲惨なものになるでしょう。こんなことを考えている自分自身が、下らない暇つぶしをしているようにも思えますが、全国的な放送文化という物は、最も影響力を持っているので、徒(あだ)や疎(おろそ)かには出来ないのですよ。
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書想 『昭和外交五十年』

2005-05-30 22:25:37 | 書想(歴史)
書想 『昭和外交五十年』 戸川猪佐武 角川文庫

■戸川さんの『小説吉田学校』シリーズは、映画化されたり、さいとうたかおさんが長編劇画にしたりしているので、本よりも映像で楽しんでいる方も多いと思いますが、『素顔の昭和 戦前・戦後』などの作品も、教科書では分からない時代の空気を知るのに便利です。御本人は大正生まれで、敗戦後の昭和22年に読売新聞の記者として首相官邸や外務省を担当した方で、個人的に田中角栄さんに対する思い入れが強かったので、ロッキード事件後には随分嫌う人が多かったようです。最近は、その反動なのか、やっぱり田中角栄は偉かったんじゃないか?というような本もチラホラと出されているので、戸川さんの本を読み直すのも良いかも知れませんぞ。

■何を隠そう、「箱根会議」という重大な時代の節目に行われた交渉を知ったのは、この文庫本でした。それも学生時代を終って随分経ってからのことで、我ながら勉強不足をしみじみと感じた思い出がございます。ちょっとして年表や昭和史を扱った本には出て来ないようなので、単なる勉強不足というよりは戦後の日本が組み立てた「歴史」に問題があったのではないでしょうか?「毛沢東は偉い人」という命題から逆算される歴史は、チャイナもアジアもわけの分からない混乱の中に投げ込んでしまうようですなあ。勿論、日本国内でも「陸軍は悪くて、海軍は正しかった」などという思い込みも、歴史を歪めてしまいますから、この一冊だけ読めば真実が分かる!などという便利な本は無いと考えた方が良いでしょう。

■カバーの見返しに書かれている文章が要領を得ているので、紹介しましょう。


 外交、それは国益を賭して行なわれる英知による戦争にほかならない。軍部の拙劣で独善的な国際情報の収集と分析は、太平洋戦争への突入の日を早め、かつ終結を遅らせる結果となった。
 昭和初頭の幣原(しではら)外交は、国際協調を提唱しながらも国内の賛同を得られず、戦争への序曲となり、戦後の対米追随外交は、ニクソンの頭越し中国承認の衝撃的結末を迎えた。
 昭和の外交政策の変遷をテーマにしながら今日なお、外交音痴といわれる国民性の脆弱(ぜいじゃく)さを行間に語る異色の昭和史


というわけです。目次を見ると、「幣原外交」「影の外相・森恪」……「米中間に立つ佐藤外交」「険悪化した日中関係」「田中内閣の新外交」という風に、外交史の要所要所を押さえた面白い読み物になっているのですが、どうしても田中角栄さんに肩入れしてしまうので、最後の日中国交正常化は手放しで称賛しておられまして、あとは北方領土だけだ!という目出度い?終り方をしております。まあ、昭和48(1973)年の作品ですから、仕方が無いでしょうなあ。ロッキード事件も起こっていないし、前年の11月にはパンダが上野動物園にやって来て、初日に5万人以上が押しかける中国ブームがタケナワでしたからなあ。


p.28 それがいわゆる東方会議である。森外務政務次官の運営によるものであった。東方会議はすでに大正10年5月、原敬内閣の時に一度開かれたことがあったのを、森は復活させようというのだった。形式的には、在外大使と政府との間の意見調整と、政府と政党との方針調整と、二つの目的をもっていたが、実質上のねらいは、この機関によって対支強硬外交の具体案をこしらえ、それを強力に推進していこうというところにあった。

東方会議と山東出兵

 ところが、この東方会議の招集は思いがけない事件のために、およそ二か月ほどおくれることになった。事件というのは大陸の動乱激化であった。
 田中内閣が誕生して間もない頃――江南一帯をおさめた蒋介石の国民政府が、北支に向かって北伐の軍を起こしはじめた。これに対して、蒋と仲たがいした張作霖は、北京と天津のあいだに軍を集結して、蒋をむかえ撃つ態勢をととのえた。そのうえ華南では、前年、張に追われて、モスクワに亡命した馮玉祥(ひょうぎょくしょう)が帰国し、旧部下を再編成するとともに、山西省の閻錫山(えんしゃくざん)とたずさえ、張の守備する北京、天津をうかがう様子を示していた。一大決戦は避けがたいという不穏な空気に、大陸はおおわれることになったのである。
 北京の列国外交団も、公使会議を開いて増兵を準備しなければならなかった。……
 田中首相は閣議にはかり、天皇の裁可を得て、旅順にいた姫路第10師団管下の部隊二千名を、大連から海路でチンタオへと出動させたのである。これがいわゆる“第一次”の山東出兵であった。5月28日のことである。もちろん、張の北京政府も、蒋の南京政府も、これを主権の侵害であるといって非難した。
 しかし、列国もまた、日本の出兵につづいて、イギリスは千七百名を上海から天津、威海衛に移動させ、アメリカは三千名を上海から天津に向け、フランスは千名と一個大隊を天津に派遣する……。
 東方会議は、その年昭和二年の六月末から七月はじめまで五日間にわたって開かれた。森恪が議長であった。……
さきの幣原外交が、「満洲、蒙古は中国主権の一部である」とし、「不干渉」と「武力行使の回避」を原則としていたのとは打って変わって、「満洲、蒙古は日本の経済、軍事上の特殊権益地域である」「その擁護のための自衛措置、不逞分子の鎮圧をはかる」というアクティブな原則にのっとるものであった。……
さらに人事面でも、政友会幹事長の山本条太郎を満鉄社長、総領事の松岡洋右を副社長に起用するなど、対支強硬外交展開への布陣を、着々とかためていったのである。


■戦後の日本では、森恪という人物に関して語ること事態を忌避するような傾向が強く、似たように歴史の重要な現場から引き抜かれて隠されてしまった人物が多いのが気になります。まだ湯気が出ているような歴史上の人物を、善人と悪人に選別するような「歴史書」は、一定の「正しい歴史認識」を前提としているので、可能な限り多くの人物に関する記録を読まないと、時代の全体像は組み立てられません。歴史を書いた本には、「○○は嫌いです」「△△は大好きです」というような感情的な歴史観が埋め込まれている場合が多いように思えますなあ。それが人情というものでしょうが、後世の人々にとっては余り役に立たない、一種の騒音でしかない歴史モノが増えるのは迷惑なことであります。


p.34 蒋介石が、下野宣言を発したのは、昭和二(1927)年八月のことであった。ほどなく、九月五日、汪兆銘(汪精衛)を首班とする新しい統一政権――南京政府が誕生することになった。……
 田中内閣は、九月五日、汪の新・南京政府が出来上がる前後――八月三十日に撤兵声明を発し、九月八日に全師団の撤兵を終った。……下野したあとの蒋介石が、その年の九月末、日本に亡命してきたことを見逃してはならない。
 蒋が日本をおとずれた目的は、日本の有力者たちに、国民革命の意義を認識させ、革命政府を大陸の正統政権として承認させよう、ということにあった。……田中首相にしても、森恪にしても、また軍部にしても、財閥にしても、親日派の張作霖をバック・アップすることによって、満洲や北支の権益を擁護する……だから、日本としては、蒋の運動に対して、敵意と警戒の気持とをいだかざるを得なかったのである。……
 彼は、東京に入る前に、同行の張群をさきに入京させて、松井石根や鈴木貞一など陸軍の首脳部に会わせた。……
 こうして蒋が、箱根で田中首相と森恪外務政務次官に会ったのは、その十月のことであった。この箱根会議では、
「日本は、国民党がソ連との関係を断ち、共産党と分離するならば、国民党が行なう革命――支那の統一を承認する」
「ただし国民政府は、満洲に対する日本の特殊地位と権益とを承認する」ということで、意見の一致をみた。……すでに南京統一政府のなかでは、都内の派閥の抗争と、武力行使による混乱とがはじまっていた。このため、どうにもできなくなった汪精衛が、やがて蒋介石の帰国をうながすこととなった。それは実に、蒋の思うツボだったというほかはない。……
彼は閻錫山、馮玉祥tの三巨頭会議を開いて、たがいに提携を約束するとともに、張作霖を最大の目標として、ふたたび北伐を開始した。蒋軍は、翌三年四月一日、徐州に入り、山東に進出した。馮軍の一部も済寧(さいねい)を占めた。そこで南京政府側の北伐軍は、ぐるりと済南を半月形に包囲する形になった。……済南の附近には約二千人、山東鉄道沿線と青島附近には一万七、八千人の日本人がいた。これらの日本人の声明と財産の安否が、北伐軍と張作霖の東北軍との決戦によって、危険におちいるであろうことが眼にみえてきた。


■どちらがどちらを手玉に取っているのか、さっぱり分からない権謀術数の場面ですが、この後、第二次山東出兵を巡って田中首相と森恪は対立して、議会も二分して大議論が起こるわけですが、困ったことに軍部の意見が最終的にものを言って、さすがの森恪さんも「混乱の防止と邦人の保護とだけを目的に、兵員を小部隊にとどめる」つもりだったのが、「餅は餅屋だ!統帥権だ!」とばかりに、天津からの一個中隊に加えて、内地から第六師団を派遣するハメになるのでした。済南を守っていた張作霖軍はさっさと逃げて蒋介石の北伐軍は戦わずして無血入城、目出度し目出度し、と思ったら「国民軍は誓って治安の責任を負う。すみやかに日本軍の撤退を要望する」という蒋介石の通告を信じて兵を引いたら、しっかり国民軍が略奪・暴行を始めて十数名の日本人が殺害されてしまったのでした。これから先は、眼も当てられない疑心暗鬼と意地の張り合いが始まって、ずるずるとチャイナの内戦の中心地に引きずり込まれれうように、日本軍は当てど無い進軍を続けるのです。

■大喜びしたのは、シベリアから日本軍が遠ざかる後姿を眺めていたスターリンと、日本軍に痛めつけられて弱体化する国民党軍の姿を見てニンマリしていた毛沢東だったのですが、何故か日本の兵隊さんは一生懸命に蒋介石を追い回して、「謝れ!」と言い続けたのでした。一言でも謝ったら親分をやってられない御国柄を、誰も考えなかったのでしょうかねえ。
 肩肘はらずに、読み物として楽しめる本だと思います。勿論、最後の田中角栄さんを持ち上げる数頁だけはお勧めしませんが、案外、新しい歴史の発見が有るかも知れない一冊です。

昭和外交五十年

角川書店

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書想 『金正日 朝鮮統一の日』其の五

2005-05-29 09:54:18 | 書想(国際政治)
其の四の続き

■歴史上のトピックスを羅列しておきましょう。

1945年11月~49年9月の中国共産党と国民党の内戦で、米国の支援を受けた蒋介石軍に包囲された共産党軍が敗北の危機に直面した時、支援要請を受けた金日成は10万人の義勇兵を送って共産党の勝利に貢献。

1962年12月の朝鮮労働党中央委員会第四期五回全体会議で、経済建設と軍事建設を併進して国防を固める四項目の軍事政策を採択。①全国民武装化 ②全国要塞化 ③全軍幹部化 ④全軍近代化(②は1990年代初頭に完了して重要な軍事施設は地下トンネルに格納)

1968年1月23日プエブロ号拿捕(だほ)事件。米海軍の電子情報収集船プエブロ号が領海侵犯すると北朝鮮海軍はこれを拿捕。横須賀の第七艦隊の主力部隊を朝鮮海域に派遣。日本海に原子力空母エンタープライズ・空母レインジャー・対潜空母ヨークタウンを中心とした米軍艦艇が大挙集結。水爆搭載可能のB52戦略爆撃機・F4・F105戦闘機が数百機、韓国の空軍基地に飛来。ソ連と中国は傍観。しかし、米空軍司令部は空襲を強行すれば80%が撃墜されると試算して12月23日、領海侵犯を認めて謝罪するに至る。82名の米兵捕虜は236日間の拘留後に釈放される。
※ヴェトナム戦争中、北朝鮮の対空ミサイル要員が米軍機多数を撃墜。

1969年4月15日、EC121撃墜事件発生。金日成の誕生日に米軍電子偵察機EC121が北朝鮮の領空を侵犯し、迎撃に飛び立ったミグ21のミサイルで撃墜される。ニクソン大統領は、原子力空母エンタープライズ・空母タイコンデロガ・空母レインジャー・対潜空母ホーネット・戦艦ニュージャージーを朝鮮海峡に急派し、爆撃機・戦闘機が数百機、韓国に飛来。しかし、レアド国防長官とロジャーズ国務長官が米軍が甚大な被害を受けると言って攻撃に強く反対し、報復攻撃を断念。

1970年3月31日、「よど号」事件発生。平壌に到着した「よど号」が帰国する際に、日本の専門家は北朝鮮にはジェット旅客機のエンジン・スターターは無いから日本から急いで空輸しなければならない、と心配していたが、朝鮮人民軍の技術将校が簡単に「よど号」のジェット・エンジンを起動させてしまった。

1973年の第四次中東戦争で総勢1500人の軍事顧問団・パイロットをエジプトに派遣。カイロの防空網構築には北朝鮮要員300名が配置され、イスラエル軍のミラージュ戦闘機を撃墜。10月6日、劣勢を挽回するために第三次中東戦争時にイスラエルが採った電撃作戦を逆用するように北朝鮮顧問団は進言し、サダト大統領はこれを承認。北朝鮮パイロットに率いられたエジプト空軍特別攻撃隊数百機が、イスラエルの防空網を避けて北上して地中海に出てから、イスラエルの戦略拠点を奇襲空爆。これを切っ掛けにエジプト軍はイスラエル軍をシナイ半島から押し返した。イスラエルのダヤン国防大臣は「エジプト軍のパイロットが朝鮮語を話している」と発表したが、北朝鮮は即座に否定。

1976年、エジプトから返礼としてソ連製のスカッド・ミサイル数基を入手。ソ連に拒否されたミサイル技術供与を補って自主開発

1976年8月18日、ポプラ伐採事件発生。共同警備区域のポプラの木が監視の邪魔になると言って事前通告せずに将校二人が兵卒30名を引き連れて斧で切り倒すのを見た北朝鮮の警備兵4名は、激怒して素手で突入。驚いた米軍将校が斧を投げ付けると、北朝鮮兵士はこれを素手で受けて投げ返し、米軍将校は落命。多くの米兵も格闘術の餌食となって重軽傷を負う。一方的な勝負だったが、北朝鮮側は米軍の面子を立てて「我が軍にも負傷者二名」との嘘情報を発表して痛み分けを演出。

1984年4月に改良型スカッドBミサイル発射実験に成功し生産開始。

1987年末、イランにスカッド・ミサイルを供与。翌年、イランは数百発のミサイルをイラクに発射。

1990年代に入ると、38度戦沿いの前線地下サイロ陣地が完備され、13000門の長距離砲と多連装ロケット砲に加え、秘密兵器の前線敵陣地破壊用長距離砲の「自主砲」も配備。

1991年9月27日、ブッシュ(父)大統領は韓国から戦術核兵器の撤収を宣言。76年から毎年実施していた核攻撃想定軍事演習「チーム・スピリット」も中止。

1993年2月25日、IAEAは北朝鮮に対して前例の無い特別査察を要求。3月9日、クリントン大統領は「チーム・スピリット」を再開したが、その前日に朝鮮人民軍は準戦時体制に入る命令を受けて、在韓米軍を含む米軍兵力に対する攻撃準備を整えた。

1993年3月12日、北朝鮮は核拡散防止条約からの脱退を宣言。(60日後に有効となる)

1993年3月16日、米国の軍事偵察衛星が写真撮影可能な時間に軍事演習を実施。4日後、驚愕したクリントン大統領は直接交渉を提案。

1993年5月29日、米国に事前通告した上で、多段式ミサイル三発の試射に成功。一発は能登半島沖、二発は3000キロ離れたハワイ沖とグアム沖に着弾。

1993年6月2日~11日、ニューヨークで第一回米朝会談が開かれ、米国は北朝鮮の政治体制の尊重と、南北平和統一支持を表明せざるを得なかった。7月14日からジュネーブで第二回会談が開かれる。

1994年7月8日、ジュネーブで第3回米朝会談、その結果10月21日に「米朝核合意」が発表されて、軽水炉2基と必要な重油を手に入れられる事になったが、米国の政権交代で中断。

1994年12月、38度線を不法に越えた米軍ヘリコプターを独自開発した携帯用地対空ミサイル「火昇(ファスン)」が一発で撃墜。

1996年、大陸間弾道弾の開発に成功。

1998年4月6日、パキスタンが射程1500キロの中距離弾道ミサイル「ガウリ」発射実験に成功。中国の遅い技術援助を捨てて北朝鮮から供与されたミサイルのコピーと言われる。北朝鮮は、イラン・エジプト・シリア・リビアなどに数百発前後、合計一千発以上のミサイルを輸出している。

1998年7月22日、イランは中距離ミサイル「シェハブ3」の発射実験に成功。

1998年8月31日、多段式ロケット打ち上げに成功して人工衛星を軌道に乗せる。ロシアと米国は実験成功を確認。

■まあ、これくらいの歴史を知ってから、拉致事件の解決法や日本独自の外交方針をぼちぼちと考えるしかないのですが、民主党や自民党の若手の中から「対米従属の外交姿勢を克服して、日本独自の戦略を持って……」などという寝言が時々出て来ますが、本当に東アジアで独立を保って米国と対峙するには、断片的な北朝鮮情報をワイド・ショーでドラや太鼓で煽っているような段階を卒業しないとどうしようも無いのでしょうなあ。軍事的にも外交的にも、始めから日本は北朝鮮に対して位負けしているのです。「あれこれ言わずにさっさと1兆円の金を払って仲良くしようよ」と言っている人達は、案外、日本の立場を良く理解しているのかも知れませんなあ。

■しかし、日本の独立を研究するべき学者や国防と内政に最終的な責任を負っている政治家が、こんな発言をするのは許されないと思います。さっさと職を辞して、気楽なワイド・ショーのコメンテイターに転職した方が良いでしょう。いろいろと日本人にとっては耳の痛い話が満載の本だという事はお分かりになったと思います。全面的に著者の意見に同意する必要などありませんが、少しだけ大人になった気分になれる本だとは思います。ご参考までに。『金正日 朝鮮統一の日』シリーズ、オシマイ。

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書想 『金正日 朝鮮統一の日』其の四

2005-05-29 09:47:07 | 書想(国際政治)
其の参の続き

■朝鮮戦争でも、実質的に北朝鮮が勝ったのだ、と判定する著者は、日本の上空を我が物顔で飛びまわっていたB29が、朝鮮戦争中にはばたばたと撃墜された事実に続けて、米巡洋艦バルチモアを北の魚雷艇が撃沈、駆逐艦を大破させ、敷設した機雷によって多数の米艦船が撃沈されている事実を並べます。地上戦でも、砲撃戦・戦車戦・白兵戦において北朝鮮軍は一歩も引かずに米軍の消耗をじっと待っていられて事も付け加えます。一気に釜山を包囲してしまった北朝鮮が防戦に廻ったのは、米軍との直接対決を恐れたソ連が、軍事援助を減らして武器弾薬を供給しなくなったからでした。ですから、北はソ連を信用していませんし、義勇軍を送ってくれた中国の装備のお粗末さを見てからは、頼りにもしていないのです。金正日が到達した軍事思想は、


①戦争の帰趨(きすう)は、経済力・国土の大きさ・兵士の練度・武器や装備の優劣によって決るから、物量的・技術的優位が前提となり、敵兵力の10%~30%を戦闘不能とするか敵の兵站(へいたん)拠点を破壊すれば勝てる。
②外国の侵略者を撃退する戦争では、ヒーローとなる人物の存在が、国力・兵の練度・ハードウェアの格差を十分に補う。
③空軍力や海軍力だけでは、戦争の勝敗はかならずしも決定しない。(その証拠に地上部隊をケチッタ米軍は、朝鮮戦争・ヴェトナム戦争に敗れ、今もイラクで犬死している)
④一定のハイテク武器があれば、小国でも大国との戦争に負けない。(朝鮮戦争・ヴェトナム戦争・中東戦争・フォークランド戦争・アフガン戦争・湾岸戦争の教訓である)
⑤核兵器は無用の長物である。(広島と長崎の原爆投下は戦局とは無関係な実験だった。戦後の軍事衝突を核兵器が抑止した事は無かった)
⑥戦争は戦わずとも勝てる。核戦争および通常戦争に対する万全の準備をしていれば、あとは心理戦、外交戦だけで戦わずして勝てる。


■特に⑥に新しい証拠を与えているのが日本でしょう。日本からは在日朝鮮人の皆さんの寄付金に国家的な援助資金も上乗せして受け取り、ハイテク技術もたっぷりと導入してしまったのですから、今頃になって政府が「拉致問題」で右往左往しているのは滑稽千万な話なのです。被害者の皆さんは「日本人であること」を呪っているのではないでしょうか?お掛けする言葉も有りません。

■ヴェトナム戦争が拡大された時期に、米日韓が北朝鮮に攻め入る危険性が高まった。その状況をこんな風に描いています。


北朝鮮オオカミは、韓国に登場したオオカミのようなイヌが、日本サルと米国ライオンとの後押しで北の山に攻め入ることを恐れた。仕方なくモスクワでシベリア「クマ」と1961年7月6日に同盟を結び、7月11日には北京で中国ドラゴンと同盟を結んだ。こおに、米国ライオン・日本サル・韓国イヌ同盟に対抗して、朝鮮オオカミ・シベリア「ヒグマ」・中国ドラゴン同盟が結成されたのである。


六カ国協議の基本構造はここに有ります。ヒグマは瀕死の重傷を負って腹ペコですから、ただ椅子に座っているだけですから、協議の主役はライオンとドラゴンです。イヌとサルは両方の顔色を窺(うかが)っておろおろしているというわけですなあ。

其の五に続く。
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書想 『金正日 朝鮮統一の日』其の参

2005-05-29 09:46:07 | 書想(国際政治)
其の弐の続き

■『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を書いたCIAのアジア担当分析官上がりのエズラ・ボーゲルと著者が対談した時の話が紹介されていまして、ボーゲルさんが北朝鮮の立場を分かり易く説明してくれ、と所望したそうです。そこで、こんな比喩を使ったのでした。米国は巨大なら「ライオン」で朝鮮族はライオンに挑み続ける「オオカミ」、オオカミの一部が投降して山を下りて米国の「イヌ」になった。イヌは韓国だと言うのですなあ。


ぬくぬくと太っているがアメリカの首輪をつけ、ロープにつながれている「イヌ」と、腹をすかしてはいるが自由に走り回っている「オオカミ」とどちらがよいか?


今の韓国大統領は、オオカミの皮を被ったイヌになったのかも知れませんなあ。大統領の苦学生時代は美談になっていますが、密かに北朝鮮のエージェントが経済的な援助を与えながら洗脳していた、という噂もあるようですが、この比喩を使えば、「お前もオオカミなのだ」と言われ続けた結果が、危険な暴言放言外交に結実しているとも考えられます。

■朝鮮民族の「正統」を問題とする著者は、米国の支配下にある韓国には半島統一の正統性を認めません。苦難の歴史を知っていれば、確かに韓国には半島統一の大義名分は無いことは明らかで、日米の援助によって得た経済的な繁栄だけが唯一の財産ですが、97年の通貨危機が示したように、所詮は米国資本のオモチャでしかないのですから、手段を選ばず軍備に必要な資金と物資を着実に入手している北朝鮮の逞(たくま)しさの方が有効なようにも思えて来ますなあ。


……韓国はもともと「イヌ」である。イヌはオオカミになれない。オオカミ族の中にはイヌになりたいという者もいるのではないか、と指摘するかもしれない。北朝鮮の人口は2200万人だから、100万ぐらい山を降りてイヌになる者もいるかもしれない。しかし構わない。亡命を阻止する理由もない。食料がないからちょうどいい厄介払いである。アメリカのイヌになって丸々太ったら、後にオオカミの格好の獲物になるのである。


「イヌ」「イヌ」と言われると、それは日本のことではないのか?と思えて来ませんか?歯を食いしばってパチンコ業界を成長させながら、祖国に闇献金を続けた在日朝鮮人と、「パチンコ文化人」などという取って付けた様な称号をもらって喜んでいる野党第一党リーダーのいる日本では勝負になりません。与党は与党で、日本の土建屋さんが欲しがっている塩気の無い川砂の利権を求めて何度も訪朝してハシャイでいたのですからなあ。今頃になって「経済制裁だ!」などと言っても、絵に描いたような「想定済み」の話でしょう。

■この本の真骨頂は、「米国は北朝鮮を攻撃出来ない」ことを膨大なデータを使って論証しているところです。


ただし朝鮮人民軍が、在韓米軍を、朝鮮に隣接する海外米軍基地を、また米本土の一部都市を殲滅(せんめつ)できるだけの軍事能力を保有していることは、紛れもない事実である。かつての朝鮮戦争では北朝鮮は海外にある米軍の発進基地に対して報復攻撃を加える能力をもっていなかった。ところが、現在、朝鮮人民軍は地球上のいかなる場所にいる敵に対しても、壊滅的打撃を加える事が出来る。相手が先制攻撃を準備していると見れば、たとえばアメリカが朝鮮周辺で1991年の湾岸戦争の水準まで兵力増強するならば、それを座視することはなく、機先を制し「外科手術的攻撃」を相手に加えることは十分にあり得る。


正規の軍事教育を受けていない金親子ですが、抗日武装闘争と朝鮮戦争という激烈な体験を下敷きにして、戦後世界に起こった140回以上の軍事衝突と有史以来1400回以上起こった戦争を分析して得られた軍事思想は強靭(きょうじん)で狡猾(こうかつ)極まりないものになっていると著者は断言して、大日本帝国の稚拙な戦争と比較しています。

其の四に続く。
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書想 『金正日 朝鮮統一の日』其の弐

2005-05-29 09:45:18 | 書想(国際政治)
其の壱の続き。

■この本の著者は、米国で活動している軍事・外交評論家です。米国の有力紙にも一定の評価を受けているようですし、1995年に発表した論文はクリントン大統領が読んだという話も有ります。米国の軍事施設を実際に訪ねる一方で、北朝鮮を情報源とする太いパイプを持っているとも言われているようです。


金正日は、新羅統一説を、朝鮮民族第一主義・「恨(ハン)」の立場から否定し、高麗統一説を主張している。金正日は、新羅が唐の力を借りて高句麗と百済を滅ぼし、領土を拡大したのは反民族的行為であり、領有した版図は朝鮮の北部地域を含まない、と指摘。旧高句麗の地に渤海が成立し、渤海・新羅の南北朝時代が始まったに過ぎない、と強調している。(金正日が1960年10月29日に発表した論文『三国統一問題を再検討するについて』)
韓国の歴史学者の中には、高麗統一説を主張する者がいるのも事実である。これに対し、韓国の歴代独裁者は新羅統一説を唱えたが、それは外勢アメリカの保護国という立場を正当化するものであった。


■本屋で何気無く立ち読みしていて、この一節が目に飛び込んで来た瞬間に購入を決めました。こんな大切な話を、それまでに聞いたことも読んだこともなかったからです。世界中が否応も無く近代化の流れに乗って「国民国家」を建国しなければならない歴史状況の中で、古代の民族国家は最も重要な歴史的基盤となります。歴史の教養を持たない国民が増えると国家は間違いなく衰退して、維持しなければならない歴史的境界線を意識しないまま領土を侵蝕されて、やがて滅亡します。ここで問題となっている古代朝鮮民族国家の始まりは、日本にとっても他人事ではないのです。

■新羅(57~935)が最初の統一国家だとすると、それは668年のことになり、領土は平壌を流れる大同江から南となって、高句麗・満洲を含まないので、現在の北朝鮮のほとんども捨てられてしまいます。唐の支配を受けた新羅の統一事業は、白村江で大和朝廷の軍隊を大敗させたことで達成されたのです。もしも、高麗(918~1392)を最初の統一国家とすれば、新羅を降伏させた936年がその時ということになります。日本は平将門と藤原純友が暴れた承平・天慶の乱の頃です。京の都には920年に最後の渤海使が来ましたし、929年には新羅が使いをよこして、困ったことに「朝貢してくれ」と言ったそうです。素直に「助けて下さい」と言えば良かったのに、民族性なのでしょうなあ。勿論、日本の朝廷は拒否して追い返してしまいました。チャイナは五代十国の大動乱で、かつての唐のような力は無いので、孤立無援となった新羅は高麗に降りました。

■この二つの古代史の節目をよくよく考えると、今の東アジア情勢と重なって見えて来ませんか?

其の参に続く。
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書想 『金正日 朝鮮統一の日』其の壱

2005-05-29 09:44:42 | 書想(国際政治)

キム・ミョンチョル著 光人社NF文庫 『金正日 朝鮮統一の日』

■朝鮮問題関連の記事を書かねばならないなあ、と思いつつも、どこから書き始めれば良いのか、いろいろと逡巡(しゅんじゅん)している内に、とうとうプルトニウムを抽出して長崎型原爆を作るだの、いよいよ地下核実験だのと物騒な「宣伝」が始まってしまいました。書店に行けば、脱北者の証言を中心にして、悪口雑言を並べた(他人事ゆえに)ちょっと痛快な本が並んでいますし、小生の乏しい蔵書の中にもついつい増えてしまった朝鮮・韓国関連の本も増えてしまいました。折角、「旅限無」が紹介するのですから、ユニークな視点のものが良いだろう、と考えました。そこで最初に取り上げるのが、この一冊です。ちょっと「北」寄り過ぎないか?とも思えるのですが、多くの発見が有ります。「敵を知り己を知れば……」ということですな。

■この本を紹介するには、四半世紀も放っておかれた「拉致被害者」の皆様と共有する怒りと悲しみと、何より情け無い思いには触れないこととします。拉致問題は、「国際問題」としてあれこれ発言する以前に、選(すぐ)れて日本の「国内問題」だと考えます。相手はずっと戦争を続けている国なのです。こちらは勝手に平和憲法をお守り札にして、血生臭い国際情勢から目を背(そむ)け、耳を塞いで金稼ぎに勤(いそ)しんでいたのですから、対等の外国交渉などが出来るわけは無いのです。異常なほどの国連大好きになるような国民教育をしておいて、この一大事に何の役にも立たない事が判明しましたし、ちょっと前まで「地上の楽園」だの「社会主義礼賛」を新聞が書き散らしていたのですから、今度は「この世の地獄」だの「悪魔の国」だのと言われても、その両極端の間に正解を探さねばならない国民は大変です。

■かつての「地上の楽園」組は、相手の言い分も良く聞きましょう組になって平然としていますし、「悪魔の国」組は今にも戦争を仕掛けそうな勢いです。どちらも極端で、両者が前提としている情報と思想に信頼が置けません。強力な情報統制と相互監視制度が整った国の実情など、優秀なスパイを数百人単位で送り込まない限り何も分かりません。この本にこんな事が書いてあるのです。


「横田めぐみ事件」や「大韓航空機爆破事件」では北朝鮮が関与している証拠として挙げられているのが、「金正日政治・軍事大学」の存在である。ここでよく考えてほしい。北朝鮮には現在、金正日という名称をもった公共物は存在しない。金日成という名称を持つものは多い。また、政治・軍事大学という名称を持つ大学もない。つまり、この事件を創作者・演出家・監督や俳優も、この事実を知らない。もう少し勉強すればいいのに。欧米のマスコミはまともに相手をしないし、アメリカ政府でさえ言っている。「亡命者の言うことは信用できない」。日本の外務省高官も同じことを言っている。しかし、韓国という愛人の悪あがきをそのまま報道しているのが、日本のマスコミである。日本のマスコミは本質的に、江戸時代のカワラ版と変わらない。ある意味では、芸能番組、ワイドショー番組と同じレベルなのである。 p.231


■とてもじゃないけれど、正確な報道とは呼べないヨタ話をさんざん読まされて来た身としましては、こうした指摘をされると、どきりとします。確かに「拉致事件」は北朝鮮によって計画され、実行されたのでしょうが、その後のマスコミが示した狂乱の反動劇は目に余るものがありました。NHKを筆頭に、あれほど「北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国」と早口言葉を放送していたのに、見事に放送原稿を書き換えて、今ではどこの放送局も「北朝鮮」だけになりました。変更した理由をきちんと説明したのを聞いた事が有りません。そして、政治家や経済界の要人がぞろぞろと訪朝していたのに、どこのニュース番組でもインタヴューをしませんなあ。外務省らしい外務省も無く、有効なマスコミも無いとしたら、日本人は何を材料に物事を考えれば良いのでしょうか?

其の弐に続く。
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■関連記事
書想『昭和外交五十年』』
黒船と白船の話1-4

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昭和の防人⑥―書想『回想のルバング』

2005-05-28 10:32:18 | 書想(歴史)
昭和の防人⑤・書想『回想のルバング』の続きです。

■この父は高齢を心配されながらも、小野田さんの級友20余名や中野学校の同期生20余名と共に第三次捜索隊に参加している。ルバング島のジャングルを歩き、我が子を大声で呼び続けたが小野田さんは姿を見せなかった。共にジャングルに潜んでいた戦友二人が射殺されて小野田さん一人となった直後の大規模な捜索であった。


アノ親爺、泣かなんだ、淡々として島を去った。いつも微笑を浮かべていた。報道陣は私が取り乱すと思って居られたと、こんな批評だったと聞いた。振り返って考えると、お前とは30年前に綺麗に分かれた。冬日の差し込む畳に坐っての話であった。お前は日露戦争前に横川省三、沖禎介の二人の軍事探偵がシベリヤ鉄道の鉄道爆破に失敗して銃殺された話をした。日本軍人に目隠しは不用と目を開いたまま処刑された勇壮な話。そして、「こんな風に事実も判っている人は仕合せだ、僕等はどこでいつ死んだか、死んだと言って生きているやら、生きていると言ってとうの昔に死んでいるやら判らないのが僕等の仕事だ」と言ったネ。母は「それじゃ仏祀りも出来んじゃ」というと、「発った日が命日です」と朗らかに笑った。私も「まあ卑怯な真似だけはしないように」と言ったのが別れであった。あとで聞いたのだが中野の二俣分校を出るとき、命はここ限りとそこへ置いて来たのだったネ。近所の義嗣さんが戦死した。謹ちゃんも広一ちゃんも木下君も無言の凱旋をした。片山君は神風飛行機で敵艦に体当りをした。若い人等は桜の花のように美しく散って行く。お前もその一片だ。どこかで死んでいるのだとよそ事のように思っていた。そして、30年、お前は生きたり死んだり、別れの時に言った通りだった。


■こういう言説を長々と引用すると、「戦争賛美だ!」と青筋立てて怒る方もおられる。しかし、軍部と政治家が起こしてしまった戦争と、国民が戦った戦争とは別物である。その間を繋ぐのが学者やジャーナリストの仕事なのだが、乱暴に二つを結び付けると、好みに合わせて切り張りした「戦争」が組み立てられてしまう。民が戦う戦争は、平時の暮らしの延長線上に出現する事件である。そして、戦時であろうと平時であろうと、卑怯者や泥棒や性犯罪者は存在し、同時に人間の尊厳を守る者も存在しているのが世間というものであろう。そうした民の戦争と、権力を持った者の戦争とはまったく違ったもので、無能な指導者を持った戦時の民は惨めな存在である。大陸政策を誤り、対米政策の失敗に連動して国を滅ぼすような敗戦を招いた責任は、多くの文官・武官・学者・マスコミ人の中に居たし、身近な学校の教師や町会長さんの中にも居たのである。しかし、戦時の熱と緊張感が消え去った後になって、どこまで各自の主体性を認めるのかは、非常に難しい問題なのである。

■しかし、敗戦を挟んで露骨に豹変して見せた人々の中には、人間としての品性を疑わねばならない人物が沢山居る。米国による占領政策とソ連・中国からの革命工作とが交錯した時代に、戦中の自分と戦後の自分に一貫性を持たせるのは至難の技であるが、それに成功した人を探し出してその言葉を聞く必要が有る。余り多くは見つけられないのがとても残念である。平時には憎悪の対象として語られ、戦時には賛美されるのが戦争というものである。それは古代から変わらないのである。王も将軍も皇帝も、平和を求めて戦争を始めているのが歴史である。

■冒険野郎の鈴木紀夫さんは、小野田さんの次にはヒマラヤの雪男を発見するのだ、と張り切って世界最高峰の山脈に入って雪崩に呑み込まれてしまう。確か、小野田さんはテレビ局の企画で、鈴木さんが遭難した現場近くまで登って、慰霊式をしていたと記憶するが、定かではない。

■この本の前書きに、一つの歴史的エピソードが紹介されている。


過般、我が国からフィリピン国の厚意を謝するために鈴木善幸特使が行った。謝礼として贈った三億円を辞退したマルコス大統領は、「金銭を以って律すべき問題ではない。小野田が見せた忠誠心と勇気。だからこそわれわれは彼を名誉あるフィリピン兵士と同様に待遇した。日本国民が彼を温かく迎え家族に仕合せが訪れたことを知って、われわれの努力も十分に報われたわけだ。」と述べられたという。何と尊いお心、美しいお言葉であろうか。


■後に、米国に見捨てられ、マラカニアン宮殿から命からがら逃げ出した姿と、死後に発覚した莫大な隠し遺産などですっかり評判が悪くなったマルコス大統領だが、こうした面を持っていたのか、と少々驚いた。ただの権力好きの守銭奴では、一国の主を長年務められはしないだろうし、権力を維持するためには教養と威厳を保たねばならないのも当然なのだろう。日本のゼネコンからたっぷりと裏リベートを貰っていたから、三億円ぐらいのハシタガネなど欲しくもなかったから、ちょっとばかり恰好を付けたのだろう、などと意地悪く解釈しないで、ここはマルコスの言葉に素直に感動しておきたい。

■齋藤昭彦さんが、奇跡的に無事帰国してくれることを切に願い、その23年間の経験と考え続けた事を語って欲しいと切望している。このままでは、「戦争オタク」がイスラム原理主義の「テロリスト」に拉致されただけの「砂漠の事件」となって、すぐに忘れ去られてしまうだろう。最悪の結果となった場合には、語りたくない事を語らずに済んだと、多くのマスコミ人や学者達は胸を撫で下ろしのではなかろうか?それでは、何事かを深刻に悩んで自分の命を賭して実践的に答を求めたはずの齋藤さんの人生が無意味になってしまう。彼が見た日本を誰かが聞き出して書き留めておく必要が有るのに、それを避けようとする気分が満ちているような現状を危惧しているのだが…。

昭和の防人シリーズ・完

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チベット語になった『坊っちゃん』―中国・青海省 草原に播かれた日本語の種

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昭和の防人⑤―書想『回想のルバング』

2005-05-28 10:28:00 | 書想(歴史)
昭和の防人④の続き。今回は1974年に日本に帰国した小野田さんに焦点を当ててみたいと思います。

『回想のルバング』小野田凡二著 浪漫社刊 1974年

■最近でも、月刊正論の2005年1月号に『私が見た「従軍慰安婦」の正体』という文章を寄稿している小野田寛郎さんは82歳の今も御元気だが、マスコミに姿を見せることが無くなって久しいので、既に、国民の半分ほどは「小野田少尉」や「ルバング島」と聞いても、何のことやらさっぱり分からなくなったのではなかろうか?それも時代の流れだと言うのは容易いけれど、そんな状態で憲法改正だのイラク派兵だのと、軽々しく議論などしても良いのだろうか、と疑問が浮かぶ。日本との縁を切ったかのような傭兵生活を続ける内に、イラクで拉致された齋藤さんと大正11(1922)年生まれの小野田さんとは、およそ40年の歳の差が有る。しかし、祖国日本との距離の取り方や日本のマスコミの急速な引き方を考えている内に、二人が重なって見るようになった。

■小野田さん御自身が『わがルバング島の30年戦争』『たった一人の30年間』『わが回想のルバング島』などの自叙伝を書かれているのだが、齋藤さんとの共通点を想像する時には、家族との関係が重要と思われたので、敢えて父上が書残されたこの本を読み直してみた。三男の弟さんがマスコミ対応を引き受けて、齋藤さんの父上は一切表に出ては来ない。そのお気持ちを勝手に察する時、小野田さんの父上の本が想像を膨らませてくれた。小野田さんの事を御存知ない読者のために、簡単に履歴を再確認しておこう。


大正11(1922)年3月19日 和歌山県で生まれる。

昭和8(1934)年 進学を勧められたが田島漆店に就職し、シナの漢口の支店で実務を学ぶ。大手商社が仕事振りを見て引き抜こうとするが「私は月給を貰いに来たのでなく勉強に来ているので……」とあっさり断る。

昭和19(1944)年 久留米第一予備士官学校に入学。陸軍中野学校二俣分校に入り「離島残置諜者」となる徹底した教育を受ける、12月にはフィリピンの遊撃戦要員として派遣され、ルバング島に潜入。

昭和20(1945)年 赤津一等兵が脱落下山して帰国し小野田少尉・島田伍長・小塚一等兵の残存を証言。
昭和29(1954)年5月7日 島田伍長が射殺される。

昭和34(1959)年 衆議院でルバング島残存兵救出を全会一致で決議。山田五十鈴主演で映画『母の叫び』が制作される。一方では、シベリア抑留者遺族などから特別待遇を非難する声も出る。

昭和47(1972)年10月20日 小塚一等兵射殺。第二次捜索実施。
昭和48(1973)年2月 大規模な第三次捜索実施し父凡二さん参加
昭和49(1974)年2月26日 鈴木青年と邂逅して説得され、3月に30年ぶりの帰国。

昭和50(1975)年 「こんな日本に棲みたくない」の一言を残して、兄の格郎さんが住むブラジルに永住することを決意して入植。牧場経営を始める。

昭和59(1984)年 福島県の山林を提供されて「小野田自然塾」を開講し、毎年夏に来日して、子供たちとキャンプ生活を通しての自然(サバイバル)教育を実践中。


■鈴木紀夫さんも、小野田さんとの奇跡的な邂逅を書残しておられて、今でも文春文庫版『文藝春秋にみる昭和史』第三巻に『小野田少尉発見の旅』が収められている。戦後の若者と諜報任務を続行中の小野田さんとの掛け合い漫才のような交流が実に面白い。鈴木さんが気を利かせて『葉隠』を贈ると、「今更、葉隠読んでも仕方ない」と突っ返され、迷いながらも白人女性ヌードの週刊誌グラビアを贈ろうとすれば、「僕は、こういうの、どうもねえ」と言って手も出さない。後日談として、帰国後、早々に良縁を得て小野田さんはきちんと結婚して、夫婦揃ってブラジルに行ってしまった。鈴木さんは一躍有名になって、マスコミは大騒ぎをした。


……救出後の記者会見で、「若い、一番意気盛んな時期を、全身うちこんでやれたことは幸福だったと思います」とくいを残さぬ発言をする一方、獣のように危険に反応するジャングルの習性から、平和時の生活への意外に速やかな順応ぶりでも驚かせた。出征前に海南中学校を卒業後しばらく中国商社員をした生活経験があって職業軍人ではないこと、また島内でトランジスタラジオによって敗戦の事実を知っていたことなどにもかかわらず、天皇制軍隊のタテマエに凍結されつづけた人の典型といえるが、その誠実で不屈の実行力は、逆上陸して変転極まりない世相を撃つこととなった。(中薗栄助)


と、1977年に発刊された朝日新聞社の『現代人物事典』でも、旧帝国軍人として切り捨てられない中途半端な印象の解説を載せている。
「天皇制軍隊」という最近めっきり使われなくなった学術用語を出しても、生身の小野田少尉とは勝負にならないように思う。

■当時の日本人を驚嘆させた小野田さんの帰国を、ごく自然に出迎えた88歳の御両親の姿もまた、多くの日本人に感慨を与えた。


……騒然たる家の内外である。刻々にテレビが状況を映してくれる。28日の午後鈴木さんが写した寛郎の写真ががテレビに出た瞬間、私は危うく声を出す所であった。私は憔悴した哀れな男の映ることを恐れていた。恐ろしいものを今に見せられる危惧にあった。が映った男は一人前の男だった。22歳の青年が30年間山に隠れていた姿でなくて、寺で禅を組んでいたという年輪を感じた。その姿が忽(たちま)ち、新聞社が大写しをして駅頭や繁華街の街角に掲示された。私はこの上なき満足を感じた。

と書く88歳の父親が、当時の日本に存在したのである。そして、この父に育てられた小野田さんが、昭和元禄・高度成長に呑み込まれずに、当時の日本人が封印していた微妙な問題に遠慮会釈もせずに、率直な発言をする姿勢を変えないと判ると、マスコミは小野田さんから目を背けるようになった。今も国論を二分して収拾が付かない「靖国問題」に関しても、厳しい「英霊の声」を代弁する発言をしている。

■祖国の軍隊に所属せずに外人部隊に入った齋藤昭彦さんには、永久に「名誉」や「凱旋」は無いし、民間軍事会社の社員となってもそれは同じである。しかし、齋藤さんは1970年代の自衛隊の中にもそれを見つけられなかったのも事実ではないのか?小野田さんは三島由紀夫が割腹自殺したほぼ3年後に帰国し、小野田さんが日本を捨てるようにブラジルに去ってから2年後に、齋藤さんは高校を中退して自衛隊に入っている。この三人が、それぞれの声で「こんな日本に棲みたくない」と言っているような気がするのだが……。
但し、三島が愛した「日本」に多くの日本人が住みたいと思ったかどうかは分からない。市ヶ谷での演説を野次り倒したのは現役の自衛官達だった。小野田さんが30年間守っていると信じていた「日本」は、戦後教育の中で唾棄(だき)すべき暗黒の時代として取り扱われるのが普通となった。齋藤さんの言葉は聞こえないから、彼が何を捜し続けていたのかは、今のところまったく分からない。

■どんな日本であろうと、相手の思想や見解を一方的に圧殺するような国では困る。互いの言説を等価値に置いてから、冷静な議論が出来る言葉を持っている国であって欲しいのだが、敗戦が「言葉」に与えた傷は深くて、60年経っても議論が成立しない問題が幾つも残されたままである。

昭和の防人⑥に続く

チベット語になった『坊っちゃん』―中国・青海省 草原に播かれた日本語の種

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★旅限無よりお知らせ

2005-05-28 10:14:07 | お知らせ
いつもご愛読頂き有難うございます。山篭り中の主人・旅限無より、どっさり記事が届きましたので今日・明日は集中的に記事をUPすることにいたします。長い記事ですが気長に読んで頂けますと幸いです。なお、眼精疲労を感じたら、蒸しタオルで目と首の後ろを湿布することをお勧めします。

★蒸しタオルの作り方と使用法
1.タオルを水で濡らし、緩めに水を絞る。
2.電子レンジ暖める(500Wで1分30秒程度)。加熱後はかなり熱くなるのでご注意ください。
3.手で持てる程度の温度になったら、目や首の後ろを湿布する。

疲労が激しいときは、上記1~3を何度か繰り返すと良いでしょう。
お体を労わりつつお付き合い頂けます様お願いいたします。

旅限無の留守番係より。

昭和の防人④―書想『いびつな日本人』

2005-05-28 09:13:34 | 書想(歴史)
昭和の防人③,書想『いびつな日本人』の続き。

■ソ連に絶望した若者の中から熱烈な中国ファンが登場したり、米国を崇拝する者も増えた。その子孫達が、日中友好を願い、髪の毛を金髪にしたりしているのだから、日本は変わってはいないのだろう。齋藤さんが日本に戻らず、家族とも音信不通の状態でフランス外人部隊に身を置いていた21年間、日本は何も変わっていないとしたら、齋藤さんには望郷の念は湧かなかったのかも知れない。栗栖さんが退官直後に書き残したこの本には、今の日本人が驚くような事は一つも書かれていない。目次を紹介すると、

〈プロローグ〉 お伽の国――ニッポン
    日本人の大いなる甘え
    世界に通用しない日本人の発想
    自分で自分を守らない唯一の国
    外を知って内を知れ
    諸悪の根源、日本人のあいまいさ
    敵に尻を向けて逃げろというのか
    神風は吹かない
第一章 世界を読めない日本人
  ――米中ソの谷間で揺れ動く脅威の現実
    日本は決して大国ではない
    ソ連に再燃した戦争不可避論
    極東情勢の急変は日中条約が火をつけた
    中国のミサイルは日本全土を覆っている
    ここまできたソ連の対日作戦
    第三次大戦は起こるか
第二章 国防を他人まかせの日本人
  ――この現状では国を失う
    侵略を防ぐ四つの力
    日米安保は事があっても正常に発動しない
    NATOと日米安保は性格が違う
    国益のない条約は空文に等しい
    巻き込まれることが日本の取るべき道
    核の傘はミステリー
    先を読まない日本の防衛計画
    すべての戦争は奇襲で始まった
    仮想敵国のない軍隊はない
    世界に例のない不思議な『シビリアン・コントロール』
第三章 軍隊アレルギーの日本人 
  ――自衛隊を飾り物にするのか
    隊員の質は世界最高の水準 
    これが陸・海・空の実態だ
    自衛隊は二十年前の兵器を使っている
    ままならぬ訓練
    奇襲への対応策は一片もない
    企業より劣る情報収集力
    自衛隊は飾り物なのか
〈エピローグ〉現(うつつ)の国――日本へ
    降伏か、抵抗か
    日本人の守るべきもの
    侵略を防ぐ最新の抑止力
    世界の孤児となるな

■今から考えれば、至極尤もな事ばかりが書き並べられているのだが、この本が出版された時には、恐るべきタカ派の意見だと思われて、買い求める者は戦争好きで、平和を愛する者は絶対に買わないし読まない!などと言われてものである。週刊誌に始まり、テレビでもラジオでも取り上げられ、革新系の政治家は立会演説会の絶好のネタにして「危険な軍人の発言」を気持ち良さそうに糾弾していたのが懐かしい。栗栖さんの「超法規発言」は、どんどん曲解されて、かつての関東軍のように謀略事件を起こして戦争を画策するヤツだと問答無用の吊るし上げが始まって、聴く耳を持たない相手に反論するのも馬鹿馬鹿しいので、さっさと退官しただけのことだった。論破されたのでも、自説を曲げたのでもなかった。


その後、私の発言は「有事論争」という事態になり、論議をまきおこしたが、これは私の意図したことではない。「有事立法」――正しくは「戦時立法」のことと思うが、私はこれには反対(当分は研究の段階であって、立法化を考えるには慎重を要する)であり、こんなことを発言した覚えは無い。


余り研究をした印象も無いままに「有事立法」だけは形にしてしまったけれど、自衛隊の位置づけは不明のままである。


防衛出動下命前に侵略を受けた場合、行政機関としての法に従えば、何も抵抗しないで、ただ逃げろと命令するしかないのである。この議論も進み、ついには、侵略されても自衛隊は戦ってはいけない。国土には住民もたくさんおり、わが国の国防の最大の目的は国民の生命・財産を守ることにあるから、自衛隊が勝手なことをしては大変なことになる。あげくの果てが、現地にいる自衛官は射たれて犠牲になれ、そうすれば住民が避難する時間がかせげる。という無茶苦茶な意見までも出て来た。


■齋藤さんは、こういう阿呆の戯言(たわごと)を、最も厳しい任務を下命される習志野空挺団の一員として、唇を噛み締めながら聞いていたのではないのか?空挺団員は、敵国軍が日本に上陸して侵攻する場合に、敵の後に決死の降下作戦を決行して後方攪乱を任務とする。孤立無援で十字砲火を浴びて殲滅される危険性が高い任務である。続けて、栗栖さんは現在の日本人が蒼褪める事を書き残してくれた。


昭和53(1978)年の4月に尖閣諸島に中国の漁船団が入ってきた時……領海内に侵入した漁船団の最初の写真は自衛隊の航空機が上空から撮った。……しかし、現実には自国の領海内に侵入されながら、武力による威嚇どころか、自衛隊機が撮った写真そのものが大問題になってしまった。中国の漁船団がいて、その上空を自衛隊機が飛ぶような事があれば、それは戦争になるかもしれない。だから、そっとしておいて触れてはいけない。ということになった。つまり、領海を侵されても、それに対して何らの反応も示してはいけない、というのがわが国の方針だということを内外に実証したことになる。


■そして今、尖閣諸島周辺の海底資源の大半を中国にプレゼントする相談が進んでいたり、竹島には立派な韓国の軍事施設が鎮座ましましている。何より、栗栖さんが職を賭して警告したまさにその時に、横田めぐみさんは新潟県の海岸から消えたのである。

昭和の防人⑤に続く。

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昭和の防人③―書想『いびつな日本人』

2005-05-28 09:09:49 | 書想(歴史)
昭和の防人②の続き。

『いびつな日本人』栗栖弘臣著 二見書房刊 1979年

■昭和53(1978)年7月、統幕議長として週刊誌上で述べた「自衛隊の超法規的行動」に関する発言が問題とされ、政治的責任を取って退官。と聞いて、「ああ、あの騒動か。」とすぐに合点の行く日本人がだんだん少なくなって、何故かイラクに自衛隊が派遣されている。栗栖さんが指摘した「法制上の不備」はぜんぜん解決されていないから、我が自衛隊は「非戦闘地域」というテロと暗殺が大流行中の激戦地イラクでも非常に稀な場所を選んで派遣され、丸腰同然の貧弱な武器を抱いて宿営地の中で、「死傷者無し」という絶対命令を守って帰国の日を待っている。

■彼らの任務は「祖国防衛」でもなく、イラクの平定でもない。馬鹿高い金で雇った民間軍事会社のプロに守られ、その外側にオランダ軍に変わったオーストラリア軍が展開する場所で、「復興支援」作業が任務として与えられている。万一、死傷した場合には、勤務中の事故として扱われるから、兵士としての名誉も感謝の声も与えられない。


防衛出動ひとつをとっても、行政機関としての枠に大きく縛られている。……古来から戦争とうものは、正々堂々と宣戦布告して行なわれてきた例はまことに少ない。第二次大戦後の経緯を考えても、百回を上回る国境紛争なり戦争があったが、その中で宣戦布告をして始まったものはまずなかった。軍隊はそれぞれ秘密裡に行動し、いきなり国境線を突破する、というのが常道である。……その場合、内閣総理大臣の防衛出動下命が間に合わない場合も出てくる。その時、自衛隊はどのような行動を取ったらいいのか。そこに現行態勢上の大きな不備がある。私が統幕議長を退官するきっかけとなった「不測事態には超法規的行動をとることもあり得る」という発言は、この不備をついたに過ぎない。
侵略に対してとりあえず抵抗(これが現行法規で認められていないのだ)をしなければ、アッという間にわが国土の一角は占領され、その後、政府の自由な判断は不可能になるのである。p.34


■当時、日本の自衛隊が備えていた仮想敵国は、ソ連だった。この発言が問題となった時に、本屋には「ソ連軍北海道に侵攻」を扱った仮想戦記ものが沢山並んだ。今と大きく違っていたのは、東西冷戦状態に関して、東側社会主義陣営は「平和勢力」で、西側自由主義陣営は「邪悪な帝国主義」だと本気で信じている日本人がビックリするほど多かったことだった。「平和勢力」代表のソ連軍に牙を向く自衛隊など、「憲法違反の無駄飯喰いだ!」と平気で叫ぶ人達が元気だった。単純な人の中には、自衛官の姿を見ると、悪口雑言を浴びせたり、素朴に暴力に訴える者までいたらしい。

■日本の領海と領空はソ連軍の艦艇や飛行機に、日夜徴発されていて、迎撃戦闘機は休む間も無くスクランブル発進していたし、北海道の漁民が拿捕される事件も頻発していた。海面下では米ソの潜水艦がカクレンボと鬼ごっこに熱心だった。津軽海峡は原潜銀座の異名を取っていた。スパイ天国の日本から軍事機密や工業技術は持ち出し放題だったらしい。そんな1979年に「平和勢力」の二大国が突如として軍事行動に出た。幸いなことに、侵攻目標は日本ではなかった。ソ連はアフガニスタンに戦車部隊を投入して、絵に描いたような傀儡政権を作り、泥沼のゲリラ戦に引きずり込まれて行ったし、中国は隣国ヴェトナムに対する懲罰戦争を仕掛けた。

■御健在だった向坂逸郎先生は、文芸春秋が行なったソ連侵攻に関する緊急アンケートに対して、「無条件に賛成」と答えたのだった。向坂先生は、マルクス主義の研究では日本一の権威とされ、全盛期の社会党左派が作っていた秘密結社「社会主義協会」の教組的存在であった。中国の奇襲攻撃は、「平和勢力」内部の同士討ちであったから、社会主義ファンの人々も賛否を決め兼ねていた。大量のソ連製武器を持ち、対米戦争を戦い抜いたばかりのヴェトナム軍は、時代遅れの中国人民解放軍に大損害を与えて押し返して見せた。驚倒した小平さんは、近代化と開放経済に踏み切った。

■米国のカーター大統領政権は末期症状を呈して、次ぎのレーガンの出現を待つだけだったし、バチカンのヨハネ・パウロ二世は祖国ポーランドで始まった民主化運動を指示して、ソ連と東欧を動揺させ始めていた。しかし、1979年の日本は奇妙な内向きの幸福感に浸っていた。試みに、この年のテレビと流行を列挙してみよう。3月に『ズームイン!朝!』が始まる。日本各地の朝の風景とプロ野球ネタで人気。4月『クイズ100人に聞きました』始まる。どちらの番組も日本国内に情報源を限定している!同月『機動戦士ガンダム』始まる。宇宙空間での大戦争物語。7月にソニーのウォークマン発売。10月『西部警察』始まる。警察が街中で戦争?するような番組。同月『三年B組金八先生』始まる。同月『花王名人劇場』始まり、マンザイ・ブームの口火を切る。サントリーを先頭に北京ロケのCMが大流行する。外食産業が10兆円産業となった。翌年に『シルクロード』と『ドラえもん』が始まる。

■現在の日本に直接流れ込んでいる文化と商品が生まれた年であった。この年に高校を中退して自衛隊に身を投じた齋藤昭彦さんがいて、今でも解決不能の大問題に言及して職を失った栗栖さんがいた事は重大な意味を持っているような気がしてならない。齋藤さんと栗栖さんは擦れ違いで、同時期に自衛官であったことはなかったが、齋藤さんは高校の仲間、もしかすると家族とも別れて自衛隊に入ったのかも知れない。


あるテレビ番組で対談した時に、一青年が「日本の国ほど自由のない国はない」ということを言った。では、どこの国が自由であるかと問うと、ソ連だという。それは、ソ連には失業が無い、だからこんなに自由な国はないのだという答だった。……理由にならない理由までつけて、わが国を卑下しようという風潮がまだ残っていることを感じる。……特に島国で、言語的障害もあるわが国は、直接外国の情報を得る国民は少ない。欧米人は、外国のテレビ、ラジオを見、外国の新聞、雑誌を読む機会が多い。政府も積極的に情報を流している。各種の情報から客観的な情報が自然とわかるようになる。
日本の周辺でソ連の動きが激しくなったのはずいぶん前からである。ところが、その事実は最近になるまで国民にはほとんど知らされなかった。政府が国民に知らせたがらなかったと言うのが当たっていると思う。P.29


昭和の防人④に続く。

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昭和の防人②―斎藤昭彦さんに関連する書想『ゴルゴ13』シリーズ

2005-05-28 02:19:06 | 書想(国際政治)
「昭和の防人①」の続き。

■齋藤昭彦さんの経歴


1976年、千葉市内県立高校に入学。
1977年6月末、一身上の都合により退学。
1979年1月、陸上自衛隊に入隊し、北海道の第6普通科連隊に配属。
1980年、千葉県習志野の第1空挺団普通科群第2中隊に配属。
1981年1月、任期満了で除隊。
(5月11日の朝日新聞より)


これ以外の情報としては、油絵を描き原稿用紙に文章を書き溜めていたこと。20歳の時に外国に渡ったこと。10年前に一時帰国した時から家族とは音信普通状態であったこと。2003年11月に母親が急死したが、その三ヶ月前にワインやチョコレートが手紙も住所記載も無く届いたこと。などが新聞に載っているだけである。

■フランスに急行したテレビ局のカメラは、外人部隊の元同僚やアパートの大家さんのコメントを集めて放送したけれど、特に人物像がくっきりと浮かび上がるような内容ではなかった。外人部隊時代に撮影された訓練中の表情が何度もニュースに使われたが、そこからも目付きの鋭さと鍛えられた肉体という、傭兵としては当然の情報しか得られなかった。彼が何を考え、「日本を捨てたのか?」という大問題に、敢えて触れようとしたマスコミは今のところ見当たらないようだ。記者会見に引き出された三人兄弟の末っ子、博信さんは言葉少なに「外務省、国民の方にご心配、ご迷惑をおかけして大変申し訳ありません。……」と語るだけで、兄の内面を語る言葉は持ち合わせていないようであった。72歳という父親の正蔵さんは、一切取材に応じないのか、マスコミ側が自粛しているのかは分からないが、父子関係も不明のままである。

■「傭兵(ようへい)」「フランス外人部隊」「民間軍事会社」などの耳慣れない言葉に、日本のマスコミは明らかに拒絶反応を示した。しかし、『ゴルゴ13』を愛読している人達の目には、マスコミ界の平和ボケの深刻さばかりが印象に残ったのではなかろうか?


第235話 「ワイルドギース」SPコミック第74巻(1986年度作品)冒頭に、「中世の英国では、王侯貴族が私兵を蓄えた。雇われ兵は求めに応じて王侯らの間を渡り歩いたところから、“渡り鳥の雁(がん)”=ワイルド・ギースと呼ばれた。転じて、傭兵をワイルド・ギースと呼ぶようになった……」

ニュージーランドのオークランド港で、フランスが準備していたムルロア環礁での核実験に反対する環境保護団体グリーンピース(作中ではグリーンベルト)の船が爆破されたが、それは傭兵業者のホートン大佐が請け負った仕事だった。現場で逮捕されたスイス人パスポートを所持していた男女は、DGSE(フランス対外治安総局)の連絡員で、傭兵部隊の仕事ぶりを監視していたのを怪しまれただけである。毎年、米国のラスベガスで開催されるスタッド・ポーカー大会の常連でもあるホートン大佐が、現地に入って賭博仲間とホテルのプールサイドで会話する。


「私の組織は、国際的な名声を博しており、そのサービスはきわめて幅広い範囲にわたっている……」
「たとえば、どんな?」
「情報、破戒工作、反乱鎮圧、敵性地域からの個人救出、または逮捕……」
「反乱を鎮圧する目的で、敵性地域へ侵入し、指導者を倒すとする、その場合はいくらになる……?」
「それは派遣部隊の人員と稼動日数によって違うぜ……週400ドルの給料で、250人の兵を4週間なら……」


■週に400ドル=8万円(当時の為替相場)ならば、日給は12000円弱になる。齋藤昭彦さんが所属していた英国のハート社では、日給2万円~6万円などという金額が報道されているから、米国はこの業界にとっては福の神に違いない。御丁寧にも、副大統領のチェイニーさんが経営参加している会社も受注しているらしい。イラクを壊して軍需産業が大儲けし、再建事業でも石油業でも大儲け、正規の陸軍を削減した穴を埋める傭兵請負業でも儲ける人たちがホワイト・ハウスに集まっている。勘定書きの多くが日本に回される。

■ホートン大佐が経営する派遣会社の見積もりは、8000万円になるが、ゴルゴ13ならば単独で同じ任務をこなしてほぼ同額を受け取っている。最近では米ドルが安くなっているので、円換算で1億ドルを越える仕事も増えているようだが、イラクで受注している傭兵会社の方が稼いでいることになる。今の世界情勢を予見する台詞が、作中に出て来る。


「ゴルゴ13は、われわれの最大の“商売仇”だ!……彼がいなくなれば傭兵の仕事は、飛躍的にふえる!」


賭博仲間の一人が、ホートン大佐の傭兵部隊よりも、ゴルゴ13一人の方が強いと言い張って、10万ドルの賭けをすることになる。ホートン大佐は知り合いのCIA(米中央情報局)職員に、ウガンダの軍事評議会議長の暗殺依頼をさせる一方で、現地の新軍事政権に雇われながらゴルゴ13を殺害する計画を立てる。上手く行けば、軍事政権からの正規の報酬と掛け金の10万ドル、そして商売敵も抹殺するという一石三鳥の作戦。

■米国南部のアラバマ州に置かれている、ワイルドギース・センターで訓練している精鋭部隊をウガンダに投入して、反政府軍の制圧をしながらゴルゴ13を待っていると……。後は読んでのお楽しみ。
尚、フランス外人部隊が登場する作品として、第60話『砂漠の逆光』SPコミック第14巻。除隊した軍人が特殊技術を活かして他国の指導教官になる話は、第250話『バトル・オブ・サンズ』SP第75巻、第274話『北の暗殺教官』SPコミック第94巻などが有る。

昭和の防人③に続く。

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昭和の防人①―斎藤昭彦さんの衝撃

2005-05-28 02:08:54 | 社会問題・事件
フィリピンに旧日本兵―「よく生きていた」親族や知人、驚きと喜び「戦死していたと聞いていたのに、まさか生きていたなんて」--。戦後60年の歳月を経て、旧日本兵を名乗る2人がフィリピン南部ミンダナオ島で見つかった。大阪市出身の山川吉雄さん(87)と高知県出身の中内続喜(つづき)さん(85)の可能性が高く、親族や知人らの間に驚きが広がった。(2005年5月27日 毎日新聞より)

■フィリピン・ミンダナオ島で旧日本軍の兵士が発見されました。先日イラクの激戦地で武装勢力に拉致された斎藤昭彦さん、1974年にフィリピン・ルバング島から日本に帰還した小野田寛郎さん、「栗栖発言」で有名な元防衛庁幕僚長・栗栖弘臣さん―「国を守る」という任務についていた三人が見た30年前の日本の姿を復習してみたいと思います。

<<斎藤昭彦さんについて>>
■5月10日に、イラクの激戦地で日本人が拘束されたとの速報で日本中が大騒ぎになった。しかし、それがちょっと独り善がりで素朴な若年のボランティアでもなく、「一旗組」などと陰口を叩かれながらも戦場の映像を撮ろうとするジャーナリストの仲間でもなく、恐いもの観たさとしか思えない自分探しの延長の海外旅行者でもないと分かり始めると、マスコミも扱いに迷いが目立ち始めた。半可通のゲストを並べて、決まり文句で「次ぎのコーナー」に渡す毎度お馴染みの空騒ぎネタにするには、事態は深刻で語られずに隠され続けた闇に通じる事件らしいと分かってからは、4月25日に発生したJR西日本の脱線事故の続報に視線を移してしまった。

■事件の真相に迫るよりも、関わりになるのを避けるように新聞もテレビもこの人物を扱うのを止めてしまった。独裁政権が崩壊して、宗教と民族の憎悪が噴出しているイラクに自衛隊を派遣した日本には、正確にこの国家的決断の意味を分析出来る人材は少な過ぎた。平和憲法を免罪符にして、軍事上の問題を一切考る必要がなくなった政治家の中でも、学生運動の総括も出来ずに郷愁を引き摺っている高齢のジャーナリストの中でも、的外(まとはず)れな議論しか聞かれなかった。「イラク攻撃は無い!」と断言した自称・国際ジャーナリストや「米軍の楽勝」を予言した軍事専門家が、素人は黙っていろ!と鼻息も荒かったが、その後はすっかり大人しくなってしまった。昔懐かしい「反戦デモ」を煽ったテレビ・キャスターの吹く笛に踊る者はほとんど居なかったし、中東専門家という人達も、余り有効な情報を披露する場面は無かった印象が強い。

■最終的に、「米国の要請」という絶対条件に抗する手段も理屈も持ち合わせない日本の政府は、「非戦争地域」に「復興事業の支援」のために国際平和に貢献する目的で自衛隊を送り込む決断をするしかなかった。まして、情報も分析力も持たない野党勢力から卓越した見識が示されるとは、誰も期待していなかった。そして、灼熱の砂漠に先陣を切って送られたのは、北海道駐屯地の部隊であったし、その後続となったのは東北地方の部隊で、戊辰戦争以来の歴史を再現しているようにも思えた。

■既に、第10次派遣部隊まで編成されたが、何故か死者も犠牲者も一人も出さないで済んでいる。一般の旅行者は勿論、テレビも新聞も、自社の記者を送れないほど危険な「非戦闘地域」なのに、これは不思議だ、と思うのが自然だろうに、碌な情報が提供されない国民は、阿呆面して「イラクは案外安全なのかいなあ?」とか「自衛隊は運が良いのだろう」とか、「イラクの人は親日家が多いらしい」とか、何の根拠も無い素人予想に安心するしか無い状態が続いていた。しかし、日本軍(自衛隊)は最初はオランダ軍、次ぎはオーストラリア軍に守って貰っていただけでなく、高額な民間軍事会社のサービスを受けていた事実が暴露されてしまった。

■チャイナの地で起こった「反日暴動」を、強引に靖国問題に結び付けて外交圧力にしている北京政府の手前、万一、名誉の「戦死」が出れば、その扱いに窮することは明らかなのに、何の決着も見ないまま派遣された自衛官の心の中を誰も問題にしない。職務中の「事故死」扱いするのか、戦死者として靖国に祀って遺族には軍人恩給が支給されるのか、全ては棚上げ状態である。派遣部隊には明確な軍事目標も作戦目的も無く、「全員生還」を絶対の使命として最低限度の武装で「非戦闘地域」という名の戦地に派遣される奇妙な軍隊が、何の報道もされない活動を続けていたのである。

■JR西日本の脱線事故は106人の犠牲者を出し、心身の傷が癒えない多くの人がまだ苦しんでいる。これは歪(いびつ)な企業体質が起こした残虐な人災であるから、軽視されてはならない事故であるけれど、朝から晩まで、犠牲者の家族を各種カメラが追い廻して集中豪雨型の過剰報道をしている間にも、イラクの「非戦闘地域」では、爆弾テロや掃討作戦で、毎日、数十人の犠牲者が出ていて、新聞紙面に掲載される死傷者の数に心を動かす日本人はいないだろう。その数は決して減る事は無く、強気な見通しを発表し続けた米国さえも進駐軍の犠牲者が増え続ける中で、名誉有る撤退時期を模索し始めている。

■「民間警備会社」「外人部隊」「傭兵(ようへい)」「第1空挺部隊」、ぞろぞろと出て来た日本のマスコミでは耳慣れない硝煙(しょうえん)臭い言葉に、明らかに日本人はたじろいだ!日本の領海を一歩外に出たら珍しくも無いこうした言葉を、日本のマスコミはどう対処して良いのか分からなかった。1945年8月15日で、人類史の重要な部分を占める戦争の歴史から解放されたと信じ込んでいる日本人には、「インドネシア独立戦争」「朝鮮戦争」「ヴェトナム戦争」に参加していた同胞の姿の記憶は無い。だから、「歴史問題」で動揺する。

■「傭兵(ようへい)」という欧州では馴染み深い職業の存在に驚くような国際感覚で、外交問題は考えられるはずも無い。「非戦闘地域」で高価な土木工事に勤しんでいる日本国自衛隊の周囲を、「激戦地」ゆえに高額で雇われた傭兵が守り、更にその外側にオーストラリア(オランダ)軍が進駐しているという奇怪な派遣状態を受け入れていた日本人も、自衛隊を直接護衛している傭兵部隊に「元自衛隊員」がいる可能性を知って、長年放置していた「自衛隊問題」に気が付き始めているのではなかろうか?

昭和の防人②に続く
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日本語を苛めないでおくれ 其の弐

2005-05-27 15:12:24 | 日本語
其の壱の続き。

■テレビやラジオのアナウンサーが平気で使う恥ずかしい日本語の代表例は、「なんですが」の連打に尽きます。


「はい、というわけで、次ぎの話題ナンデスガ、先週もお伝えしたンデスガ、昨日の夜ナンデスガ、また放火事件が起こったンデスガ、犯人の手掛かりナンデスガ、警察が必死で探しているンデスガ……」


少しばかり誇張はしていますが、こんな滅茶苦茶な日本語を天下に向って喋っている社員に給料を払ってはいけませんぞ!原稿を正確に読み上げられないような素人に、気の聞いたフリー・トークをさせようとしても、無理に決っているでしょうに!これから続々と新人アナウンサーが出て来ますから、御用とお急ぎでない方は、一分間に何回「ナンデスガ」を使うか、ちょっと注意して数えてみて下さい。その多さに腹が立ったら、あなたは立派な日本語使いです。

■ちょっとした歴史や科学に関連する話題になると、「ぜんぜん知らないんですが……」などと気楽に白状するような人も画面に出してはいけませんなあ。入社時には「教養テスト」を実施しているはずなのですが、教養の厚みがまったく感じられない人が随分と増えました。それが正直さと親しみを醸し出しているのならば、視聴者はますます馬鹿になってしまいます。幅広い教養と知識を持っていないという事は、意味も分からずに報道原稿を読み上げているという事ですから、必要な情報がまったく得られない薄っぺらな報道番組しか作れないわけですなあ。

■苦し紛れと余った時間の埋め草用に、宣伝番組としか思えない「情報提供コーナー」があちこちに挿入される悪癖(あくへき)がテレビ界に蔓延してるようですが、何を食っても「おいしい!」。小物や衣類を見れば「かわいい!」。何も言わずに、宣伝費を貰っている商品を時間枠いっぱいに大写ししておけば良いものを、若い娘さんが大口開けて物を喰らっている姿と、貧弱な言語表現を垂れ流すのはいい加減にして貰いたいものです。大きな事件や事故が起これば、嫌でも実況放送を見る必要が有る場合、見たくもない画像と聞きたくも無い暇つぶしの「タメグチ」お喋りを聞かされるのは、大変な苦痛です。問題は、この苦痛に多くの人々がすっかり慣れてしまっていることなのですが……。

■話言葉も絶望的ですが、書き言葉の基礎となる漢字の扱いに関しても呆(あき)れたニュースを見つけました。


「人名漢字表」間違いだらけ
国のホームページ「電子政府の総合窓口」から見ることができる人名用漢字の一覧表に、誤字や字体の違いが多数あったことがわかった。……一覧表の字を使って名前をつけたところ、名前には使えない字だったため出生届が受理されなかった例もあり、HPを管理する総務省は正しい字に直す作業を進めている。……規則改正で大幅に増えた新しい人名用漢字に総務省のパソコンが対応していなかったことや、パソコンの操作ミスが原因とみられる。


なつかしい森総理大臣の時代に「IT化政策」を推進したのではなかったでしょうか?お上がコンピュータの基本ソフトを扱えないような国が、どんなデジタル技術を開発するのでしょう?漢字の扱いに関しては、戦後の「当用漢字」と「常用漢字」を決める時にも、専門家の意見を一切聞かずに、二流・三流の御用学者を呼び集めて強引に決定した負債がありますし、人名漢字の制限と追加の決定も素人仕事でした。お役人は、高度な知識を持つ専門家が嫌いです。パソコンの扱いにしても、専門家を入れないから、こんな恥をかくのです。

■テレビ局が視聴率を追い回している間に日本語口語が傷つき、お役人の縄張り根性が優先される間に表記文字がボロボロにされてしまいます。そして、最も弁舌と文章に敏感でなければならない国会議員が奇怪な言語を吐き散らしているのなら、将来を担う幼い日本人は誰を手本にして日本語を身に付ければ良いのでしょう?苦労してやって来る留学生は、どうやって「使える日本語」を身に付ければ良いのでしょう?

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