旅限無(りょげむ)

歴史・外交・政治・書評・日記・映画

常用漢字をぶっとばせ!其の弐

2005-02-27 21:04:55 | 日本語
(「常用漢字をぶっとばせ!其の壱」のつづき)

■何はともあれ、昔は奴隷がやっていた仕事を機械にやらせるようになる事を「歴史の進歩」と呼ぶようです。日本の武士の時代に祐筆(ゆうひつ)という口述筆記専門の役目を命じられていた侍が、必ず殿様の近くに待機していました。一番有名な祐筆は信長に仕えた太田牛一さんでしょう。『信長公記』という岩波文庫にも入っている伝記を残している人です。昔は特権階級しか持てなかった祐筆が、今はワープロという機械となって誰でも手に入れられるようになったという訳です。
 キーボードが嫌い、ローマ字が分からない、という人の為に、音声入力機能という実に便利な技術が開発されまして、随分賢くなりました。米国で開発が始まった頃は、「蠅が飛ぶ」という文が壁になっているという噂が流れてきまして、商品化は不可能だろうというのが大方の意見だったようです。A fly flies. つまり、名詞の「蠅」と動詞の「飛ぶ」は両方とも fly なので、馬鹿なコンピュータは混乱してしまうんだという話です。
 しかし、技術は勝利しまして、名詞と動詞の区別も出来るようになったコンピュータは、とうとう人間様の方が多少言い間違えても、正しい文章を作ってくれる段階に到達しました。ですから、どんなに簡単な漢字が書けなくても、読めさえすれば機械が見事な漢字仮名混じり文にしてくれるのです。
 それは丁度、昔の殿様が、「祐筆の○○をこれへ。」と呼びつけて、「ははあ、○○ただ今参上仕(つかまつ)りまして御座います。」「ふむ、△△に書状じゃ、文面はこうじゃ。……出来たか?」「ははあ、これに」という場面が、机の上で再現されるという事です。

■ですから、御主人様が読めない漢字だけは、どれ程優れたコンピュータでも書けないのです。「入力」→「演算」→「出力」という段取りだけは守らないと駄目なのです。膨大な漢字の読みを記憶するのを助けるのが「振り仮名」です。これを撲滅しようとした戦後の一勢力は、ワープロの出現で息の根を止められたのですが、御役人達は、過去の決定と通達を変更するのが大嫌いなので、「あれは間違いでした。これから振り仮名を大いに活用するようにしましょう。」とは言いません。阿辻先生は続けてこう書いていますよ。


どれほどコンピューターが進歩しても、文章の読み書きが国語力の基本であることは絶対にかわらないし、そのための基本教育がおろそかにされることは決して許されない。
 ただ、手書きの時代には大きな労力を必要とした複雑な漢字が、今は機械によって簡単に書け、きれいに印刷までできるようになったことに対しても、客観的事実としてはっきりと目をむける必要があろう。


■この提案は朝日新聞の一般読者に向けて述べられているのではありません。地方代表を三人にしろ、いや二人で充分だろう、などと馬鹿馬鹿しい内輪揉めを続けている中央教育審議会の30人、それに中山文部科学大臣様、その下に従っている文部官僚の皆様方に対して注文しているのです。特に、中央教育審議会の「初等中等教育分科会」の「教育課程部会」と「教員養成部会」に所属する皆様は、こうした意見を真面目に聞かないと、またしても半世紀の大間違いを仕出かしてしまいますよ。「阿辻先生の提案には続きが有ります。

かならず手書きで書けなければならない一群の基本的な漢字群と、正しい読み方と使い方を把握さえできていれば必ずしも手で正確に書けなくてもよい漢字群、というように、漢字全体を二層の構造にわけてもいいのではないだろうか。

 日常的にワープロと手書きのメモを併用している人ならば、何を今更、と腹が立つほど当たり前の提案です。況(ま)して、携帯電話を辞書代わりに使いこなしている若者達を見れば、ワープロ技術が出現した段階で、この意見が出て来なかった事の方が不思議なのです。そして、総ての「当用漢字」1850字を正確に読めて書けるように指導せよ、と昭和21年11月16日の内閣告示が出た瞬間から今まで、この字数が最高値と勘違いされてしまい、人情として五割か六割も書ければ穏当だろう、という空気が全国の学校に充満したのです。昨年も、「ゆとり教育」が吊るし上げられた際に、文部省が示す指導要領は「最低限」を示すのだ、という学校関係者にとっては寝耳に水、驚天動地の裏切り発言が有りました。

■思い出して頂きたい!小学校時代、漢字テストで満点を取れずに悔し涙を流した思い出がお有りか?泣いていた同級生が居たか?上限を定めると平均点付近に人数が塊(かたま)って、下限は際限も無く下降して行くのです。ですから、仮に1981年に「常用漢字」を定める時に5000文字としておけば、半分覚えても2500文字となったはずなのです。これだけの負荷を掛けられた生徒は、最近の調査で明らかなように、「家庭学習時間無し 四割」などという事態にもならず、週に四時間の国語授業などいう先進国中で最低の言語教育しかしていない状況も生まれなかったに違いないのです。
 小学生が最も努力しなければならないのは、「総合的な学習」でも「生きる力を身に付ける」ことでもありません。只管(ひたすら)文字を覚えることです。数字を含めて、社会を支えている知の基本要素である文字の扱い方に習熟すること、この一事に尽きます。そこで必要となるのが、『声に出して読みたい日本語』などという不埒な駄本ではなく、分厚くて振り仮名だらけの教科書なのです。 声を揃えた音読と、授業で扱い切れない「名文」の自主的な黙読、これが漢字の読み能力を養います。書く能力にこそ授業と宿題は重点を置いて、筆記用具の吟味と習字の復活が必要となるのです。
マスコミが「学力低下」と書き散らしていますが、「日本語劣化」と書くべきなのです。それは戦後六十年の負債です。間も無く1000兆円になる国債残高よりも、もしかすると、こちらの負債の方が将来の日本に重く圧(の)し掛かる可能性が有ります。阿辻先生の文章の最後を全文引用しましょう。


コンピューターで文章を書くのが普通の行為になった時代に、二十数年前に定められた漢字の規格が示す「常用漢字」が、大きくゆらぎはじめてきたのは当然である。そして文化審議会国語分科会が常用漢字に対する見直しを提起した背景にも、もちろん漢字をめぐるそんな時代の変化があったのはまちがいない。
 文字は文化の根幹に位置するものである。文化審議会の提起をきっかけに、私たちを取り巻く文字環境がより便利で合理的なものになるように、各方面の積極的な努力を期待したいものだ。〈完〉


■ここに出て来る「文化審議会国語分科会」が提起した報告書の内容は、以下の通りです。
 常用漢字は「生活における漢字使用の目安」として1981年に制定された1945字(大日本帝国の降伏年号と同じ数というのが気になります)、印刷用の活字を想定した字体と音訓を規定したものです。
法令や公式文書は総てこの規定に従って印刷され、何よりも学校教育の現場では単なる「目安」という範囲を越えて権威となって行きました。ところが、ワープロの出現で通産省が管轄する日本工業規格(JIS)の方では、独自に第一水準漢字と第二水準漢字とを定めてしまいまして、これが6355文字で文部省管轄の「常用漢字」を陳腐化してしまいます。
 漢字の数ばかりか、使用法まで規定したはずの「常用漢字」の枠外に置かれたはずの「育(はぐく)む」「応(こた)える」「関わ(かか)る」などの伝統的な用法が復活し、元々その範囲に入れていなかった人名・地名の漢字もワープロは楽々と表示する能力を持ってしまいましたから、追放したはずの「國(国)」「澤(沢)」「邊(辺)」なども続々と復活して来ました。
 米国が持ち込んだタイプライターをイメージして突き進んで来た漢字政策ですから、人名は英米流に直筆「サイン」で処理しようと誰かが考えて辻褄(つじつま)を合わせたのでしょう。しかし、その英米でも既に、電気タイプライターさえも姿を消してしまっていたのですから、その大前提が完全に崩壊していたのです。
 『2001年宇宙の旅』で有名なアーサー・C・クラークのエッセイの中にも「物置の何処かに放り込んである、あの忌々(いまいま)しい電気タイプライターをもう一度使うような時代になったら、私は作家を辞めるか自殺する」と書いていました。
 それなのに、昔の法律を墨守(ぼくしゅ)する姿勢を変えない人々が日本の政府内と教育界にいたのです。佐藤栄作総理大臣が、自分の名前の「藤」が除外されて激怒した話は有名ですが、大阪の「阪」も岡山の「岡」も含めない「常用漢字」というのは何だったのか、後代の歴史研究家が解明してくれるでしょう。

■漢字という文字は、実に扱い難い文字であるのは間違いないのですが、文化の蓄積が千年以上も続いている以上、これを受け継いで行くしかないのです。ところが、千年以上も付き合っているこの漢字に関して、日本人は熟知しているとはとても思えない現実が有ります。まあ、本家?の中国でも、日本の真似をして「簡体字」を考案して一時は日本側も度肝を抜かれたのですが、実はこれが大失敗で、字体の簡略化は途中で取り止めとなっているのです。
 世界に冠たる書道文化が壊滅する、古典との言語上の継続性が断絶する、反対理由は様々ですが、要は、識字率が低いのは漢字の画数が多いからだ、という判断が間違っていたという事なのです。
 チャイナの識字率が低いのは、三年と空けずに暴動と戦乱が繰り返されて庶民が生き残るので精一杯だった歴史と、科挙制度と門閥(もんばつ)が結び付いて知識の独占体制が長く続いた事が原因です。従って、国内が長期間安定して、初等教育に税金が投入されれば、識字率は急速に上がって行くだけの話なのです。
 まあ、地方に還流される教育予算が、砂漠の川の水のように、途中で消えて無くなってなかなか初等教育のインフラが整わないのは、変わらぬ御国柄なのでしょうが、識字率を上げる為の簡体字政策は、二度と採用されることはないのです。

■実は、日本も同じ間違いを犯しているのです。更に悪いことには、その間違いに気付いている人が非常に少ないのです。その間違いというのは、「画数の少ない漢字は覚え易く、多いのは覚え難い」という思い込みです。ソニーを創建した井深大という人が、晩年は幼児教育に熱心に取り組みまして、『幼稚園では遅すぎる』という本を書いてベスト・セラーになったことがあります。
 そして、『機械が先生に勝った』という本も書きました。これは、自分が考案した学習機械を幼稚園に持ち込んで、外人教師と英語教育を競い合う話が中心なのですが、勿論、結果は機械が勝って目出度し目出度しという自慢話と宣伝が目的の本でした。
 絵付きの磁気カードをスリットに通すとスピーカーから英単語の正しい発音が聴こえて来るという単純な機械です。米国で英語を学んでいた頃に、ベトナム難民の学友達が図書館に設置されていたこの機械を奪い合って利用していた風景を思い出しますなあ。でも、日本の市場では定着せず、機械より生の外人(質を問わず)が大好きな日本人は「駅前留学」の方を好みますようで、井深さんは草葉の陰で泣いているでしょう。
  そんな本なのですが、『機械が先生に勝った』に注目すべきエピソードが紹介されていました。井深さんのお孫さんが、漢字に興味を持ったので、お爺さんの井深さんが面白がって研究者らしく、孫の認識能力を検査するのです。すると、「九」という字と「鳩」という字では、幼児は「鳩」を先に覚えるという体験をしたそうです。井深さんの解釈では、「鳩」は画数が多くて一見すると覚え難そうに思えるが、幼児の目には安定性の高い絵のように見えるらしい。一方の二画の「九」は、バランスが取り難くて覚えるが大変らしいのです。考えて見れば、たった二本の線ですが、何処で曲がって何処で止まるのかを見極めるのは大変で、大人でも形の良い「九」を書くのに苦労しているのではないでしょうか。
 画数と覚え易さは関係無いという結論になりそうです。しかし、今でも小学校一年生から六年生までに習う漢字の学年別一覧表を見ると、見事に画数が順に増えて行くように並んでいます。もっと恐ろしいのは、一年生でカタカナの書き取りに重点が置かれていないのです。カタカナは漢字の部品ですから、カタカナを書くという事は、既に漢字の一部を書いている事になるのです。付言すれば、平仮名というのは、書道の中でも最も高度な草書体から生まれたのです。「楷書は何とか筆で書けるけれど、行書や草書となると、勘弁して貰いたいなあ。」と戦後教育を受けた我々の圧倒多数は言いますが、実は、平仮名は万葉仮名から選ばれた漢字の草書体です。
 ということは、小学校一年生で「漢字の草書体」をいきなり習い、漢字の部品は扱わないまま、画数の少ない漢字を順に覚えて行く事になります。こうして見ると、何だかめちゃくちゃな教え方をしているのが分かるでしょう。

■漢字、漢字と何度も書いていますが、今「漢字」と読んでいるのは総て新字体に変えられた漢字の成れの果ての文字です。この新字体決定が、前述の中国簡体字運動に直結しているのです。既に絶版になって久しい、藤堂明保先生の『漢語と日本語』(秀英出版)という本が有ります。その第三章が「日本の漢字問題」です。そしてその第十一節は、「漢字教育の問題点」となっています。重要な所を抜粋します。(本当は捨てる箇所が無いんですが)


昭和二十四年四月二十八日官報の『当用漢字字体表・使用上の注意事項』に、次のように書いてある。
 この表の字体は、これを筆写(かい書)の標準とするさいには、点画の長短・方向・曲直・つけるかはなすか、とめるかはねる又ははらう等について、必ずしも拘束しないものがある。そのおもな例は、次のとおりである。……
 つまり、これらの細かい点については、べつに教科書活字の形を墨守する必要はないはずであった。ところが、教科書の力というものはおそろしい。いつのまにか、その字体が絶対の権威であるような錯覚を与えて、少しでもそれに合わないものは、×をつける風潮を生じてしまった。
 昭和二十四年に公布された新字体が、もう少し旧来の慣習に気を配っていたなら、今日のような混乱を起こさずにすんだはずである。ところが、不幸にして、新旧死体は次のようなズレを含んでいた。
「木」のタテ棒は旧字体でははねていたのに、信じたいではとめている。「言」の上部は旧字体ではヽ印で示したのに、新事態では短い横線で示すようになった。「分」の上部は、旧字体でくっつけていた所を、信じたいではハと離して書くようになった。「雨」や「風」においても、こまかい違いがある。とくに「歩」「毎」などの新字体はまことにコッケイですらある。〉


学校での漢字の指導という営みの奥深さと恐ろしさがお分かりになると思いますが、いかがでしょうか。子供の頃に、重箱の隅を突(つつ)き回すようにして赤ペンで添削されたり、バツを付けられた経験の無い人はいないでしょう。しかし、その裏側では、こうした碩学(せきがく)から鋭い批判が浴びせられていたのでした。この本は昭和43年に初版が出て、昭和53年までに8回も版を重ねた本です。「甲骨文字」から膨大な漢籍の変遷、日本の万葉仮名から仮名文化の歴史、書道の基本的な心得、漢字を指導したり何らかの基準を定める者ならば、当然通じていなければならない課題ばかりです。文字の教育は生徒の年齢が下がるほど、重要度は上がって行く性質を持っています。小学校の低学年で、低劣な素質しか持ち合わせない教師にぶつかったら最後です。

■都内の某有名私立高校での話ですが、毎年教員用に用意している図書費が余って余って困っているそうです。年々薄くなる教科書ですが、その教科書と「赤本」と呼ばれる指導書(アンチョコ)以外は読まない教師が、命を削るような努力をしてやっと合格出来る難関校で教鞭を取っているのです。遥か上から降って来る「お上の声」に従って、読書週間だの朝の読書指導だのをしたり顔でしながら、自分では碌(ろく)な読書のしていない教師の群の中で、日本語はますます傷(いた)んで行くのでしょうなあ。
 蛇足ですが、最近の朝日新聞紙上で、社会面では正しく「水を差す」と「冷水」を使っているのに、経済面や政治面では平気で「冷や水を浴びせる」と書いているのはいかがなものでしょうか?

常用漢字をぶっとばせ! 其の壱

2005-02-27 21:03:18 | 日本語
「機械で書く漢字」認めよう 阿辻哲次(朝日新聞2005.2.11文化欄より)
昭和四十年代には、機械で書けない「遅れた」文字など一日も早く廃止し、日本語もローマ字か、あるいはカタカナかひらがなで書くべきだ、という主張が、いたるところで唱えられていた。タイプライターで美しい文書を迅速に作成できる欧米社会とは互角にわたりあえず、したがって近代的な社会の達成などとうてい不可能である、だから漢字など廃止してしまえという議論が、ビジネス界を中心に真剣におこなわれていたものだった。

■自分達の母語が、一体どんな扱い方をされたのかを知らない日本人が余りにも多い、多過ぎる。「ゆとり教育」だの「学力低下」だの、「幼児英語教育」だのと騒いでいないで、少しばかりの投資と労力を惜しまずに、国家ならぬ日本語百年の計を考えるのは国民の義務でありましょう。阿辻先生の思い出話の背景をまったく知らない国民が大半を占めるようになってしまうと、問題の所在も意味も分からない選挙民が、官僚を指導する役目を持っている議員を選ぶことになってしまいますぞ。
 丸谷才一編著『国語改革を批判する』中公文庫に収められている「国語改革の歴史(戦前)」大野晋、「国語改革の歴史(戦後)」杉森久英、ここに詳細が書かれているので、是非とも読んで頂きたい。この本は1000円の投資金額に対して数万倍の価値を持っている本であります。一家に一冊、学生は二冊(本棚用と鞄用)常備して頂きたい。
 明治維新以来、日本語をどうするか、この大問題を皆が悩み、残念ながら政治的決着の常で、大きな失敗を重ねてしまった歴史が有るのです。特に建国以来初の敗戦で、日本が受けた衝撃は未曾有のものだったものでしたから、当然、「日本語」も動揺しました。
 米国の物量神話が蔓延して、占領軍が大量に持ち込んだごついタイプライターはその象徴となったらしうございますな。毛筆がタイプライターに負けたのだ、と信じ込んだのも敗戦の衝撃と空腹が生んだ幻想であったのでした。数千の煩雑な漢字に比べて、米国は26文字で総ての文書を処理しているのだから、日本は文字で負けたのだ、と多くの自信喪失状態だった日本人が信じ込んだのでした。
 しかし、漢字は表意文字なのですから、英語の単語に対応するのでありますよ。日本の学生が漢字の記憶に苦労するのと、英米の学生がスペリングに苦労するのと、何の変わりも無いのでありまして、日本の学校で漢字指導が骨抜きになっている時にも、欧米の学校では盛んに「スペリング・コンテスト」を催しているのですぞ!
 
■これまた一家に一冊、学生は二冊常備して欲しい福田恒存さんの『私の國語室』新潮文庫という本が有って、その275頁に、

「常用漢字」などといふものを顧慮することなしに私たちが平生もちゐてゐる漢字の數が大體三千字、すなはち三千語ださうですが、アメリカのカーネギー財團で調査した基本語彙が、英語、フランス語、スペイン語、いづれも三千語で、これは偶然一致してをります。また戰前と戰後とを問はず、日本の小學校で行つた讀み書き共に出來る漢字は五百字、五百語ですが、アメリカでも小學校を卒業したもので綴字を間違はずに書ける語といふのはやはり五百語で、これも不思議に同じだといふことであります。いや、偶然といふより、文字が表音的と表意的とにかかわらず、主要語彙は三千、派生語を含めて七千といふのが、比較言語學上、大體相場の決つた數ださうです。

と書かれています。福田恒存氏は新仮名遣い断固反対!新字体にも絶対反対を貫いた頑固者でした。自分の著作の定価表示にも「圓」と印刷させていたような人でした。阿辻先生の文章に戻りませう。

技術者たちの努力によってコンピュータで大量の漢字が使えるようになり、それとともに漢字廃止論の前提はあっさりくずれさった。漢字を制限する目的で終戦直後に制定された「当用漢字」に替わるものとして、「常用漢字」が定められたのは1981年のことで、その時にはすでに、六千字以上の漢字が使える日本語ワープロが発売されていた。しかしそれは高価な機械であり、個人が使う漢字とコンピューターで扱う漢字の問題は、ほとんどすりあわされることはなかった。

■これは日本発のワード・プロセッサーの話です。1978年の9月、東京芝浦電気が、仮名漢字自動変換機能を持った「日本語ワードプロセッサJW-10」を翌年に発売すると発表しました。記録用のフロッピー・ディスク装置と印刷用プリンターを含む基本セットが当時の価格で630万円でした。この開発物語は、既にNHKのプロジェクトXで放送済みです。そして、翌年にはNECが「パーソナルコンピュータ・PC-8001」を16万8000円という破格の値段で発売するのです。これに日本語ワープロ・ソフトが載って、コンピュータは理系と文系の壁を軽々と越えて日本中に広まって行ったのです。
 ですから、阿辻先生の御指摘通り、1981年の段階で「常用漢字」を制定した政府の時代感覚は噴飯ものなのでしたが、国中から轟々と非難の声が上がったとは聞いておりませんなあ。


もともと漢字は覚えにくく、書きにくい文字だった。それが今では、憂鬱(ゆううつ)だって顰蹙(ひんしゅく)だって蹂躙(じゅうりん)だって、キーをいくつか押すだけで簡単に画面に表示でき、ボタン一つできれいに印刷までできる。そこでは漢字の書き取り能力も、書写能力の美醜もまったく問われない。こうして人々は漢字に対する敷居の高さを克服し、さらにいつのまにか、自分は非常にたくさんの漢字が書けるという自信までもつようになった。

■これは少し問題のある発言ですな。こうした恩恵を受けられる人は、最初に膨大な数の漢字が「読め」なければなりませんね。小学校時代に日本語を知らない質の低い教師に出遭ってしまった人は、この恩恵が受けられません。そして、日本人の漢字音読能力を支えていた「振り仮名」の息の根を止めようと頑張っている馬鹿者達に同調しているような教師に出遭ったら、もう人生の半分は失ったも同然です。
 因みに、振り仮名を「ルビ」とも呼びますね。2月17日のNHK午後4時45分からの番組で画面に「ルビ」と大書して表示しながら毎度変わらぬ愚にも付かない「日本語教室」を放送しておりましたぞ。時々見るのですが、感動したことも勉強になったことも殆(ほとん)ど御座いません。但し、いちいち感心して見せる男女のアナウンサーが如何に日本語に対して無知で無責任なのかは、実に良く分かる番組なので、受信料支払いを拒否している皆さんも一度は観て下さいね。腹も立ちますが、時々笑えますから。
 その放送を一緒に観ていた我が両親が、「ルビって何だろうね?」と相談を始めたので、画面を見ながら大笑いしてしまいました。「今日のお話は振り仮名についてです。」の一言が、皆様のNHKが何故言えないのか!?

■大体、日本語の現状を知らない人々が放送業界には多いのです。「少子高齢化」と「学力低下」を二つ並べて考える想像力が無いのでしょう。今の65歳以上の大人口の中で、ローマ字やアルファベットが正確に音読出来る人の数を確認した事など無いでしょう。例えば、プロ野球やサッカーの選手が着ているユニ・フォームの胸に書かれている文字を、色やデザインに含めた一種の模様として識別している人が案外多いのですよ。家電業界は逸早くこの事態に気が付いて、操作ボタン類を漢字とカタカナ表示に切り替えていますでしょう?
「ルビ」は宝石のルビーのことです。欧州の活版印刷業界で使われていた、5.5ポイントの活字を指す業界用語ですから、突然「ルビ」と言われて、「ああ、振り仮名用の小さな活字の事だな」と分かる日本人は少ないのは当然なのです。業界用語ですから、素人が知らないのはまったく恥ずかしい事ではありません。御寿司屋さんに行って、「アガリ」=お茶、「ガリ」=紅生姜、「ムラサキ」=醤油を知ったかぶりして使うのは無粋ですし、料理屋の板前さんに対して「この筍(たけのこ)はアニキじゃない?」などと生意気に言わずに、「ちょっと古いんじゃない?」と言う方が可愛げがありますよ。更に「御銚子、ゲタでお願いね」などと注文してもぜんぜんカッコ良くありません。素直に「御銚子を三本お願いします。」と言いましょう。
 そういう種類の業界用語を画面上に出して、一度も「日本語の振り仮名」と言わなかったあの日本語研究者は許せない奴です。我が母も「振り仮名なら分かるねえ」と、ちょっと恥ずかしそうでした。NHKは、こうして未だに皆様のNHKにはなっていない正体を晒(さら)したのでした。御喋りが多くなりました。再び阿辻先生の文章です。ここからが佳境(かきょう)です。


コンピューターを使いだしてから、漢字をど忘れするようになった、と多くの人はいう。しかしそれは文字記録環境が昔にもどっただけで、漢字が書けるか書けないかは、もとをただせば漢字に関する個人それぞれの知識量と習得達成度によるのである。コンピューターを使っているすべての人が、かつての手書き時代に「憂鬱」や「顰蹙」をすらすらと書いていたとは、私にはとうてい思えない。

この一節がこの文章の胆(きも)であり臍(へそ)ですぞ。ちょっと大袈裟な比喩を使いますと、人類は古代国家を造った時からとても長い間「奴隷」という言葉を理解する機械を使役し続けました。勿論、日本も例外ではなく、『魏志倭人伝』にも卑弥呼さんが魏の皇帝に生口(せいこう)と呼ばれる奴隷を献上しているくらいですから。
 近しいところでは、米国が国を二つに割って殺し合った南北戦争の主要な原因は、奴隷が人か機械かの論争でしたね。最近の話題では、どうも日本人はフィリピンあたりから女性を性の奴隷にしようと不法に輸入しているんじゃないの?と疑われて、調べてみたら現地の日本大使館が女衒(ぜげん)の元締めみたいな役目を果たしていた事が発覚しましたなあ。
 肌の色や人種で差別してはいけません。という崇高(すうこう)な人権思想が生まれたのは、実は産業革命という大きな機械が次々に発明される時代の後なんです。つまり、余っちゃった奴隷を人間扱いして税金を払う国民に加えようとしたとも解釈できるタイミングでした。(「其の弐へつづく」)

そりゃないよ、カメちゃん!2月23日はがっかり。

2005-02-26 22:04:25 | マスメディア
■この日の夕方5時半から、都内のホテルで緊急記者会見が開かれました。ライブドアのIT長者・ホリエモン君の株乗っ取りにに対抗してフジサンケイ・グループ(カタカナだらけだなあ…)が、体裁付けてもいられず掟破りの「増資」を発表したのです。
 お若い世代や「ラジオの深夜放送は不良が聴くもの」と思って青春を過ごした方々は、フジテレビの会長さんと社長さんの素人棒読みトークに挟まれた時間に、文書を読み上げたニッポン放送社長の亀淵さんの滑舌(かつぜつ)の良さに驚いたのではないでしょうか?
 しかし、永遠に不滅のあのテーマ曲の後で、「やあ、今夜も聴いてくれて有難うね。毎晩、孤独な受験勉強をしながらイヤーホンで放送を聴いている君!本当にイヤーホンで耳の穴がデッカクなったなあ……」と始まった、カメちゃんのオールナイト・ニッポンの黄金時代を知っている人達は、あの会見で、「カメも老いたら駄馬になるか?三回もトチッテいるぞ。」と思ったはずです。
 経済の暗黒面を代表するどろどろの株取引を解説しても仕方ないけれど、簡単に言ってしまえば百点満点のテストを公開しておいて、恐るべき点取り虫が出現したのに驚いて、テスト中にもかかわらず急遽、テストは二百点満点になりましたと発表したようなものです。試験会場を大混乱に陥(おとしい)れて、試験自体を無効にしてしまい、二度と試験をしないことも決めてしまったのです。
 1970年代半ばに、カメちゃんは、「ちょっと偉くなったので。」という理由でマイクの前から退きました。オールナイト・ニッポンの黄金時代が終ったかと、ファンは不安(駄洒落ではなく)になりました。ところが、カメちゃんの後のオールナイトはもの凄(すご)いことになったのでした。

■先に蛇足を書きますが、この夢をもう一度と悪知恵を働かせた奴が同じフジサンケイ・グループにいて、バブル時代に素人女子大生をテレビ局に集めて馬鹿騒ぎをすれば、もっと馬鹿な連中が朝まで付き合うだろうと考えました。それがフジテレビの「オールナイト・フジ」という番組です。あの番組を懐かしむ世代もいるのでしょうが、そろそろ人の親になるのですから、胸に手を当てて良く反省した方が良いですよ。余った電力と、暇な女子大生が結び付いただけの番組で、その深夜のゲリラ性が惰性化して意外に大化けしたのでした。
 今は芸術家ぶっている片岡鶴太郎の聞くに堪えない猥談と、妙に器用なトンネルズが暴走気味に続けた悪フザケが、後のテレビ文化を大きく曲げたのですから……。フジ・テレビはこの犯罪的な企画で大きく成長してしまって、戻るに戻れないことになってしまったのではないでしょうか。「面白くなければテレビではない」と開き直ったコピーを堂々と使っていた時代の話です。

■本題に戻りましょう。カメちゃんが読み上げた文書の中に、ライブドアが行った株の買い付けに「違法性の疑いが有る」との一節が有りましたね。そのカメちゃんが、ニッポン放送の責任ある立場に移動してからのオールナイト・ニッポンは果敢に違法性に挑戦した事をファンは覚えていますぞ!
 オマケの方が大きいお菓子商品が売れていて、その中にオマケCDというのが有るようですが、その中に当時のオールナイト・ニッポンの録音版が含まれていると新聞で読みました。その時に、オマケ屋さんの着眼点と企画力に脱帽すると同時に、絶対に収録されていないはずの番組内容を回想しました。
 例えば、アルコール中毒状態の吉田拓郎が担当していた番組で、今なら変態ロリコン趣味だと叩かれるに違いない「俺さあ、キャンディースが大好きでさあ。本当に好きなんだよなあ……」と夢心地に喋り続ける電波を流していたのです。大丈夫か?と思っていると、「あとさあ、○○とか、△△とか、浅田美代子とかさあ、浅田美代子だよ!浅田美代子、良いよなあ。」と脳味噌が溶けたような声を出していたのでした。すると、何と、翌週の拓郎担当枠の最初から、素っ頓狂な声を出してはしゃいでいる本人の声が入って来ました。「今晩は皆さん。今夜のゲストは、ゲストは、あははは(後の田原俊彦風でした)、何と、何と皆さん、浅田アア美代子さんでえええす。」
 おいおい、あなたが世に出た『結婚しようよ』という曲を捧げたあの女性はどうするの?と要らぬ心配をしていると、あれよあれよと言う間に結婚・離婚、結局失敗するレコード会社設立、テレビには出ないと言っていたのに、武田鉄也の口車に乗って、幕末青春ドラマ?に出演してカーリー・ヘアの高杉晋作を演じたりした一連の大混乱の始まりが、あのオールナイト・ニッポンの一夜だったのでした。

■同じ時期に大人気だった、泉谷しげるの番組は過激でしたなあ。「青春セックス電話相談」なんて、本人が犯罪になるのではないかと心配しながら聴取者の発言にビクビクしていましたし、猥褻罪に問われるに違いないような内容が無数に含まれていましたぞ。もっと凄かったのが「深夜のロック・コンテスト」でした。何せ、深夜の二時三時に、受話器の前で大音響のロックンロール生演奏をさせるというのですから、実際に、演奏途中でパトカーのサイレンが聞こえ始めるほど生々しい「迷惑条例違反」でした。
 泉谷は、「ロックは反抗で叛乱なのだから、このくらいのことが出来なきゃ駄目だ。」と最初は言っていたくせに、見事に大音響演奏をされると、演奏中に電話の音量を絞って「絶対にこれはカセット録音だな。絶対にそうだ。皆んな待ってろよ、もうすぐ、スイッチがカチッていうからな。」。すると突然演奏が止んで、ドタドタと足音、「オイ、泉谷!ちゃんと演奏してんだから余計な事言うんじゃねえよ。音絞んなよなあ。」と高校生に叱られて、泉谷は平謝りでしたっけ。
 鶴光(つるこう)という最近、東日本ではすっかり見なくなった関西芸人の番組も負けていませんでした。聴取者に電話を掛けては強引に猥談をさせる企画で人気を呼んだようですが、ある時、ラジオ放送に関する法律書をスタジオに持ち込んで、「一分間の音の空白」が生じたら放送責任者は罰金刑に処せられるという条文を読み終えると同時に、一分間の無音状態を作り出したのです。「ハイ、これでディレクターの○○は××円の罰金でおまっせえ。」と笑っていましたなあ。

■アナウンサー仲間のカメちゃんがスタジオを去った後も頑張っていた「春日部のテツ」の方を、個人的に贔屓(ひいき)にしておりましたが、「春日部は誰も知らないから、自分が宣伝するのだ。」と言い張っていたテッちゃんは、マイクの前から消えて随分経ったと思ったら、小娘に手を出したの出さないのと、下らないことで世間からも消えてしまったようですね。もう、春日部と言ったら誰でも「野原シンノスケ」君を思い出しますから、今更「春日部のテツ」はお呼びでないのでしょうが、シンちゃん一家が春日部名誉市民になった頃、春日部のテツは世間から忘れ去られていまして、元ファンとしては実に残念でした。

■団塊の世代が一斉に大学受験に臨んだ時に市民権を得たラジオの深夜放送は、1970年代が全盛期でした。その生き残りが、今回、若造りのメガネを掛けてテレビに出て来た亀淵社長というわけです。 まだ、社会主義革命幻想が生々しく日本を覆っていた頃の深夜放送は、常に攻撃的でありながら市民派・人権派の「ことば」を持っていました。そこに米国渡来の「性の解放」が乗っかったのですから、どこの放送局も毎晩スリリングな「ことば」の冒険をしていました。
 TBSラジオでは愛川欣也さんが、「テトラちゃん」「ポールくん」の隠語を使って熱心にSEXを語っていましたし、文化放送では毎回「ミイーノ、ミイーノオ、モンタ、ミノモンタ、パッ」と自分の名前を意地になって連呼しながら登場するみのもんたさんが、並み居るツワモノ達の中に割って入ろうと涙ぐましい努力をしていました。どうも、無理があるなあ、と思っていたら深夜放送ブームに翳(かげ)りが出始めると同時に放送界から消えて、何でも実家の水道屋さんに就職したらしいと風の噂に聞きました。
 その内、系列の違うフジ・テレビがプロ野球を笑いものにする『珍プレー・好プレー』という年間試合を細切れにして繋(つな)ぎ直して、事実と異なるアフ・レコをコジ付ける不真面目な番組を放送し始めると、どこかで聞いた声だなあ、と思っていたらみのさんでした。あの「ミイーノ、ミイーノ……」を使わないから、最初は誰だか分かりませんでした。それから、あれよあれよと言う間に、久米宏さんから「出てりゃ良いってもんじゃない」とまで言われるほど、テレビ欄のあちこちに名前が載るようになりました。
 噂によれば、昼時に彼が「○○は体に良い」と一言発すると、その日の夕刻には町のスーパーマーケットからその商品が消えるほどの影響力を持っているそうです。何だか、ヒトラーの演説に涙を流して感動していた昔のドイツ人を思い出すような話ではないですか。大橋巨泉さんのように、大きな勘違いをして国会議員になるなんて事にはならないでしょうが、引き時を考えないと、昨日のファンが今日の敵になる芸能界ですから、エライ事になるかも知れませんなあ。日本国民の民度を計るには、みのさんの動きは実に便利な尺度になっていることだけは確かです。

■かつては青春の悩みを語っていたカメちゃんが、株の買占めなどという最も生臭い話に巻き込まれて、企業防衛の最前線に立とうとは、本当に驚いてしまいます。
 カメカメ合唱団というユニットを結成して、ラジオ・ドラマ仕立ての曲を作った頃のカメちゃんが本当に懐かしうございます。その曲は、「信じ合うことは、素敵なことなのに」というフレーズを只管(ひたすら)繰り返すだけなのですが、進路と受験に悩む青年とその親との確執(確執)が音だけのドラマで展開する作品でした。
 対話を拒否して強圧的になっている親に反抗する青年は、苦悩の末に駅のホームから……。たった三分間の曲なのですが、あれが流れている間は、皆、勉強の手を休めて聞き入ったのではないでしょうか。あの凶暴な泉谷しげるも、自分の番組で放送してしんみりしていましたっけ。曲の後に、「どうしても、この『信じ合うこと』ってのが『死んじゃうこと』に聴こえて仕方がないんだな。いかんな俺は。」と言っていた泉谷でした。

 互いに腹の底、言葉の裏を探りあいながらの掛け引きをしなければならない「株」の世界に、あのカメちゃんが登場する。時の流れと時代の変化を象徴しています。


外来語について

2005-02-24 23:26:23 | 日本語
読売新聞のコラムに『ことばのファイル』という毎回勉強になる隔週連載物が有ります。2月の連載分の中に「生物は規制 言葉はどうする?」という記事が有りました。

環境省の専門家会合は、国内の生態系を外来種から守るため、37種類の動植物を第一次の規制対象に選定した。釣り客に人気のあるオオクチバスについては、結論を半年先送りするはずだったが、小池環境相の強い指示でリストに追加された。
  同省は2003年1月、この対策を中央環境審議会に諮問する際、「移入種」と呼んでいたが、生物学者らから「『外来種』の方が適切」と指摘された。答申は、明治以降に入ってきた生物に対して法制度の整備を求めた。野外で見つかった数は約2000種に上る。
 「外来語」は、日本語と同様に使われるようになった外国語。漢語も本来は外来語だが、主に西欧語を指し、片仮名で表記される。鎖国政策下の江戸時代でも、コンパス、メスなど近代科学関係のオランダ語が流入した。明治維新後は英語が各分野に広まり、独語、仏語も入ってきた。戦後は米国との関係があらゆる面で密接になり、英語があふれ返っているという現状は言うまでもない。
 「言葉は生きもの」と言われるが、現代の日本では外来の動植物を規制するような訳にもいかない。カタカナ語の氾濫によって、日本語という“文化の生態系”はどうなるのか。嘆くばかりでは何も始まらないが……。


■どの言語も外来語の侵入を受けることによって、語彙を増やして表現力を豊かにした歴史を持っている。文法の分野にまで影響を受ける場合さえ有った。
 凄(すさ)まじい例はアフリカ東部で共通語として用いられている「スワヒリ語」である。具体的には、ソマリア、ケニア、ウガンダ、ザイール、ルワンダ、ブルンジ、ザンビア、マラウィ、モザンビーク、ジンバブエの国々で通じるのだから、東アフリカ地域を旅するには実に便利な言語である。しかし、スワヒリ語を母語として使っているのは多くて200万人というのが面白い。
 スワヒリというのは特定の地名ではなくて、アラビア語の「海岸」を意味するサーヒルの複数形、スワーヒルから発した名前なので、海辺の浦々で通じる言葉ぐらいの意味であろう。世界地図を広げると「インド洋」と大きく書いてある北の方に、インド亜大陸を挟んで東側が「ベンガル湾」で、西側に「アラビア海」という名前が書かれている。しかし、アラビア勢力にして見れば、断固として全インド洋はアラビアの海でなければならない筈である。呼ばれもしないバスコ・ダ・ガマをインドの地に案内した親切な船乗りはアラビア人であったし、東南アジアにイスラム教を広めたのもアラビア人達である。
 アラビア半島から狭いバべル・マンデブ海峡を渡れば、そこはアフリカの角で、ソマリアから海岸伝いに南下して貿易で稼いだのはアラビア商人であったから、アフリカの東海岸は宛(さなが)ら、アラビア海岸と呼ばれても良い場所であった。ペルシア商人の活躍も書き添えて置かないと、またイラン・イラク戦争が始まってしまいそうである。
 交易活動の中で、交換される品物と一緒に言語も交流した。ペルシア語やインド系の言語も交わされたろうが、言語上の影響力という点では、アラビア語が断然優位だったらしい。現地のバントゥー系諸語は文法的な骨格だけを残して、語彙のほとんどをアラビア語に浸食されてしまったらしい。つまり、スワヒリ語はまったく文法構造が異なる二つの言語の間に生まれた「ピジン語」から発達したのである。

■「ピジン語」というのは、ビジネスの訛(なまり)で、商売用の簡単な言語という意味である。慣れない土地で辞書を片手に、必要不可欠な名詞を連呼して用を足す経験を思い出せば分かり易かろう。 文法構造を守った側と、大量の名詞や動詞を注入した側、どちらが文化的主導権を握っているか、と言えば語彙を支配する側が圧倒的に優位に立つ。大東亜共栄圏の夢が破れていなかった頃も、その後の成金海外旅行が流行した頃も、外地で日本人が不遜な態度で押し通す時の言語活動を考えて見れば良い。
「おい、お茶!」「おい、メシ」「酒だ、酒持って来い!」「女、女、女だよお」等々の聞くに堪えない野蛮な日本語が使用される。相手は、こうした単語の意味を知っているから話が通じるのである。不遜な日本人側は、多少の現金さえ持っていれば、小さな旅行者用辞書さえ必要無いのである。しかし、これは政治的には勝っていても、真の意味の文化という点では負けていると思う。

■アラビア人が広めたのがスワヒリ語だったのならば、現在もスーダンで起こっている宗教対立の理由が分からなくなる。スーダンの政府はイスラム教を国教化しようとして内戦状態に陥ったのである。スーダンの南に広がっているスワヒリ語圏がイスラム教徒の世界であるならば、万事丸く収まるのだが、アラビア人が海岸から内陸へと商業圏を拡大した後で、莫大な交易利権を横取りしたのが欧州のキリスト教徒達であったから事態が複雑になってしまったのである。 余りにも広範囲で通じるようになっていたスワヒリ語を利用してキリスト教を広めてしまったからアフリカは分裂したのである。アフリカ人がアフリカ人を奴隷として駆り集める商売をし、ついでに象牙も乱獲したのである。勿論、最終的な利益は全て西欧のキリスト教徒が吸い上げて肥え太ったのである。日本が明治維新を向かえる少し前の頃の話である。

■スワヒリ語の誕生の歴史は、古代日本語の成立にも重なるように思える。列島各地に散らばっていた百万人にも満たない人々が、部族社会を営んでいた時期に、万葉集が編纂され、貧弱な語彙しかない和語に膨大な語彙が漢文から流入する。歴史書のような高度に政治的な書物は、外来語ではなく外国語で書かねばならなかった。
 膨大な数の漢語を、日本人は必死で「てにをは」構造に載せたのである。この時に最も活躍したのが、連体修飾語を時代に作り出す格助詞の「の」と連用修飾語を生み出す「に」、そして動詞を作る助動詞「す」であったと考えられる。この強靭な道具は今でも健在で、英語の動詞、例えば play stop access install を動詞として使う場合に決してそのままでは使わずに「プレイする」「ストップする」「アクセスする」「インストールする」のように言う。
 形容詞・副詞の類になると、hard soft high を「ハードな仕事」「ソフトな色合い」「ハイな気分」などのように「の」から派生した形容動詞の活用語尾「な」を必ず添えて連体修飾語にするか、「ハードに叩く」「ソフトになる」「ハイになる」のように、「に」を添えて連用修飾語を作る。これらの道具が活きている限り、日本語は貪欲に外来語を飲み込み続けてしまうのである。

■では、「日本語の生態系」を守るにはどうすれば良いのか?思い付く方法は二つしかない。一つは、手書きの毛筆文化を再興することである。カタカナの行書や草書は芸術の域には達しない内に削除される。二つ目には「五七」や「五七五」の和歌のリズムを死守することである。お子様用に大量消費されている現代の流行歌、ポップスとも呼ばれる音楽文化は、英語圏の音律に日本語を強引に押し込んで作られている代物であるから、聴き難くて覚え難いのである。試みに、中高生にお願いして、一年前の大ヒット曲や愛唱歌を歌ってもらって見れば良い。
 数十年前に覚えた詩歌や唱歌、民謡、演歌の類を直ぐに口ずさめる年齢の日本人の目には、外国人としか思えないような状態である事実を確認出来るであろう。彼らが、成人病で早死にせずに目出度く老いて認知症(俗に言うボケ)の兆候を見せ始める頃の音楽療法にどんな曲が選ばれるのか、今から楽しみである。
 金田一春彦さんの研究によれば、明治から昭和にかけて作曲された唱歌の中には、語のアクセントを考慮して一番と二番の歌詞に合わせて音階を変えている曲が存在するらしい。単に「七五調」だから覚え易いという訳ではないという事である。今の作詞家と唱歌の歌詞を書いた詩人との格の違いが分かる話ではなかろうか。

痴漢電車を考える

2005-02-24 00:56:26 | 社会問題・事件
■2月8日に、「痴漢ワースト1は埼京線」という困った報道がありました。駅と駅との距離が長いとか、各駅舎の作りが同じなので、開くドアが片側に集中しているから標的にされた女性が逃げられないとか、見当違いの原因分析も記事になったようですが、こうした考え方からは、「女性専用車輌」の導入という同じように見当違いの対症療法しか出て来ません。痴漢行為は犯罪には違いありませんが、他の国には見られない日本的な文化のような気がします。性的な妄想が生み出す文化には、それぞれ御国柄(おくにがら)が有るようで、窮屈な満員電車の中で女性の体に触って何が面白いのか、さっぱり分からない男達が世界中にいるでしょうし、同じ日本人でも共感でき兼ねる所業でありますなあ。

■今は状況の改善が見られているのかも知れませんが、かつてのニューヨークでは地下鉄にスカート姿で乗車していて、強姦被害を受けても裁判で負ける、などという恐ろしい報道が有りました。1988年に製作されたジョディ・フォスター主演の『告発の行方』という映画作品も有りますし、70年代には文豪ヘミングウェイの孫に当たるマーゴ・ヘミングウェイが体当たり演技で注目された『リップ・スティック』などという強姦告発作品も有りました。これらは「痴漢」などと呼べるような内容ではなくて、目を背けたくなるような正に暴行殺人物でしたが、情緒に欠けた余りに直截な内容で途中から付いて行けなくなるような作品でした。後者は、公開当時の米国で大反響を巻き起こして、泣き寝入りしていた女性達を大いに元気付けたようです。日本でも、『ダイヤモンドは傷つかない』という作品が出来ましたが、一度も見た事が有りませんので、コメントは控えますが、見比べると日米間の相違が発見できるかも知れません。米国の獣に比べれば、日本の電車内の助兵衛は可愛いものだ、などと言って和風の「痴漢」行為の卑劣さが正当化されるわけではありません。
 昨年も、田原総一郎さんの口車に乗って、「強姦するぐらいの元気が有った方が良い」などと公衆の前で口を滑らせて落選した国会議員もいましたなあ。あれは早稲田・慶応・東大のブランドを悪用した強姦輪姦サークルの事件に関連した発言でしたが、後に週刊誌が発掘した酔い乱れた宴の写真などを見ると、被害者の女性を発見するのは困難ではないか、と思わせる共犯関係の成立を証明しているような気がしたものです。
 大した覚悟も無く、男達に混じって酒に酔っていられる女性の心情には聊(いささ)か理解に苦しむものが有ります。人格を無視した扱いをされて喜ぶ女性が居るような誤解を与えてはいけませんよ。江戸期に結晶した性愛に関する日本の情緒や文化が、何処かで切れてしまっているようにも思えます。古典落語の花魁(おいらん)物や、吉原を舞台にした悲喜こもごもの話を楽しむような大学生はもう居ないのでしょうなあ。恋愛は、じれったくて歯がゆくて、苛苛するところに味があるわけで、感情の擦れ違いや勘違いに泣き笑いする人間観察が、江戸期の傑作の中に無数に存在するのに、何処の学校でも教えないし、テレビや映画も扱わないので、実に勿体無い状態が続いています。
 何だか、直接『聖書』も『仏典』も読まずに、奇妙な新興宗教に取り込まれていく若者と似た短絡性を感じるのは私だけではないでしょう。

■最近は昼間のワイドショーに移って社会物を扱っている「映画を撮らない映画監督」山本晋也さんが、一体何本の「痴漢電車」映画を残しているのやら、熱烈なファンの中には全作品を鑑賞したという猛者もいるようですが、不適当なコメンテイターが目に付く最近のワイドショーの復権の為にも、山本カントクにこの問題に関するルポをしてもらって、テレビ朝日は是非とも放送するべきでしょう。まあ、御本人は、自分の業績が全て今の電車内の惨状の原因だったとは認めないでしょうが、映画やビデオ作品と現実の間に有る区別については語ってくれるような気がします.
 ビデオ・カメラの普及で、ド素人が映像作品を市場に流せる時代となって、嘘か真か分からないような代物が氾濫している世の中ですから、作り物・商売物・嘘・冗談なのだと、無粋な断りを入れないと大変なことになってしまいます。ですから、専門家からのコメントが是非必要なのです。観光地で矢鱈(やたら)と人が殺されるサスペンス劇場の放送の後で「この物語はフィクションです。」などと無粋極まりない断り書きのテロップを流しているのですから、妄想を掻き立てる目的で作られる映像作品や出版物には、画面や紙面いっぱいに「これは全部、嘘です。」の断り書きをしないのは不合理です。
 不埒な犯罪を犯した者が家宅捜索を受けると、物欲しそうなマスコミ関係者が押しかけて血眼(ちまなこ)で探すのが、犯人が執着していた偏執的なコレクションの山です。そして、特殊な性癖を正常なものと誤解させるような文言が並べられた品々が映し出されても、誰も怒りません。ひどいのになると、「本当に有った○○」だの「実録!○○」などと無責任な嘘が印刷されていたりします。だいたい、「実録!」は飯干光一さんが『仁義なき戦い』シリーズ等のノンフィクションの労作に使ったのが始まりでしょうから、飯干さんが商標登録でもして置いて下されば、嘘に決まっている「実録」作品は摘発の対象になっていたでしょうに、残念なことです。 そうは言っても、新聞のテレビ欄を眺めて見れば、「本当にあった怖い話」だの「衝撃の真実」だのの宣伝文句が並んでいますし、ユリ・ゲラーやオウム事件でも懲りずに「超能力」だの「予言」だの「占い」を平然と放送しているテレビに、嘘と本当の区別を付ける仕事を頼むのは間違っているのかも知れませんなあ。

■以前は「ポルノ」だの「ピンク」だのと、分かり易く看板を掲げている映画館に足を運んで、その種の作品を堪能していたものですが、映画館という特殊な場所の暗闇から見詰める画面と、日常生活を送っている部屋のテレビ画面との違いが無くなった時代には、この区別を改めて強調して上げないと、冗談を真に受ける輩(やから)がどんどん増えてしまいます。
 今も恥ずかしい裁判を続けている某大学教授が小娘のスカート(最近は少し下がった腹巻と区別が付きません)の中を覗いたの覗かないのという事件が有りましたが、この先生が金に飽(あ)かして集めた趣味の映像ソフトまで公に知られてしまい、すっかり藪蛇(やぶへび)の被害に遭っているようです。
 人様の趣味を覗くのは「悪趣味」ですし、御本人がそのコレクションに関して「通常の男性と同じ嗜好(しこう)」だと言っているのですから、他人がとやかく言う必要は無いでしょう。世の中には、別の場所でやったら犯罪だけれど、特定の場所で金銭を払えば合法的に何事かが出来るような仕組みが有るものです。
 「遊戯場」という名で呼ばれるパチンコ屋さんは、決して賭博場ではないそうですから、あそこで大金を「スッタ」り儲けたりしても、賭博罪にはなりませんが、店先の路上で丁半博打を始めると逮捕されてしまいます。
 同じように、ちょっとした金銭を支払うと、御丁寧に電車のセットが用意されている場所で、係りのお姉さんの体に好きなだけ触れるという商売が有る、とコンビニに並んでいる週刊誌が教えてくれます。でも、恐らく懲りない面々は、作り物でない電車の中でないと納得しないのでしょうなあ。

■困り果てた鉄道会社が、苦し紛れに考え出したのが「女性専用列車」というシェルターでした。このアイデアには原型が有ります。それは実に不愉快で理不尽な「シルバー・シート」です。「シルバー・シート」の窓には洩(も)れなく大きなステッカーが貼って有ります。そこには、お年寄りや体の不自由な人の優先席だと書いてあります。この屈辱的な設備が考案された時には、日本のモラルは消滅していたのです。国際標準の図柄表示になっても、老人や身体障害者、更に妊婦さんも含めて青いシンボル画で描かれているあのステッカーをじっと見ていると、三者が社会の邪魔者扱いされているような気分になりませんか?
 意地悪く解釈すれば、「シルバー・シート」以外の座席は、弱者の優先席ではないという意味にも取れるのです。そして、この心配は決して杞憂(きゆう)ではなくて、優先席が満席になっている時に、立っているのが辛そうな人が乗っていても、席を譲らずに平然と座っている若者が大勢いるようになってしまいました。彼らは、「シルバー・シート」を不当に占拠しているわけではないのだから、無罪なのだと信じ込んでいるはずです。ですから、この設備はモラルの崩壊を決定的に固定してしまったという事になります。うっかりすると、「シルバー・シート」自体が健康過ぎる肥満児に占領されている場面に出っくわす事も有りますなあ。

■因(ちな)みに、この設備が出来たばかりの頃、ですから随分昔の話ですが、名画座のオールナイト興行を堪能して帰る始発電車の中でのこと、車内はがらがらでしたから、当然「シルバー・シート」も無人でした。冬の午前五時半はまだ朝日には早い時間です。どこからともなく、「オイ」と声を掛けられました。
 二回目の声のした方に目を向けると、さっきまで酒を飲んでいたと直ぐに分かる顔色の中年のオジサンが手招きしています。「僕ですか?」と寝惚けた声で答えると、車輌には他に二人ほどの乗客しか居ませんでしたので、「そうだ。お前以外に誰が居る?お前は学生だろう。」と言うので、「はい」と答えると、「じゃあ、こっちに座れ。」と優先席を指で差しています。
 「いえ、僕は学生ですので、ここで結構です。」と変な断り方をすると、「お前は字が読めんのか?ここに『体の不自由な方の優先席』と書いてある。学生は体が不自由なんだから、お前はここに座らなきゃ駄目なんだ。」と断定的に命令されて、そんなものかいなあ、とうっかり腰を浮かせてしまったので、そのまま歩いて「では、失礼します。」と一礼して優先席に座ったのでした。
 「うん。それで良いんだ。それで」と満足した酔っ払いのオジサンは、嬉しそうな顔をして無人の長椅子にごろりと横になると鼾(いびき)をかき始めたのでした。きっと、一生懸命に勉強しなさいよ、という遠回しの激励だったのだろう、と今でも思っているのですが、「シルバー・シート」を見る度に思い出す奇妙な思い出です。

■モラルの低下に歯止めを掛けようとするならば、全部の席の窓に例のステッカーを並べて貼るべきではないでしょうか。人間は、誰でも弱者に優しくしなければ社会が成り立たないのですから、人を労(いた)わる必要の無い免罪符と誤解されるような仕組みを作るべきではないのです。
「女性専用車輌」が「シルバー・シート」のような精神の麻痺を引き起こすような事になったならば大変です。専用車輌に逃げ込めずに一般車輌に飛び乗った女性の危険が高まることになります。ですから、実に迷惑な電車内の痴漢行為を一瞬にして撲滅する方法は、唯一つということになります。それは、現在試行されてる「女性専用車輌」の逆、つまり「痴漢専用車輌」を連結するのです。被害に遭った女性が、怖くて声も出せないのは、咄嗟(とっさ)のことなので、何と言えば良いのか分からず、黙って震えているしかないからです。でも、この専用車輌が連結されていれば、万一の時のために「車輌を間違えてますよ」の一言を準備しておけば良いし、周囲からの、「そうだ。そうだ。ここで触るなんて、トンでもねえ野郎だ!あっちの車輌に行け。」の応援も得られるでしょう。馬鹿者も、「あっ、車輌を間違えました。どうもスイマセン」てな訳には行かないかなあ。勿論、これは悪い冗談にしかなりませんが、こんな解決策しか無いのが今の日本なのです。

■昭和33年に、「売春防止法」という法律が出来て、日本の国土から売春が許される「場所」が消えました。日付は3月31日です。『週刊新潮』平成16年11月4日号の46頁にこんな印象的な記事が載っていたので、この日付を覚え直した次第です。


…引用…「大学時代は筑紫と僕、それともう1人の3人でよく一緒に旅行しました。筑紫は家庭教師をしていましたが、1万円貯まると周遊券を買って旅行したのです。とにかくお金がないのでキセルもしましたね。売春防止法施行前夜の昭和33年3月31日、ちょうど別府にいたのですが、売春街の灯が消える瞬間を3人で眺めていたのを覚えています」……

この筑紫と呼ばれている学生は、今の筑紫哲也さんです。『売春防止法』の施行前年には、しっかりと法案成立阻止を目的とした業者からの収賄事件が起こって、自民党の真鍋儀十、椎名隆、首藤新八(この人は無罪)が逮捕されています。全国的な組織を作って政治運動を盛り上げれば法案は潰れたのかも知れませんが、日陰の商売でしたから、意地汚い陣笠議員にこっそり賄賂を渡す程度の事しか出来なかったのでしょう。今となっては、この法律が本当に必要だったのかどうか、疑問が湧きます。一体何を禁止しようとした法律だったのか、或いは初めから実効性を誰も信じていなかったのか、調べてみる必要が有るテーマのような気もします。
 その後、米国渡来の「性の解放」が大きく誤解され、「ウーマン・リブ」運動も曲解されて、あれよあれよと思う間に、素人売春が珍しくもなくなって、高校生から中学生、そして小学生の売春にも世間が驚かなくなったこの頃です。
 面白いことに、この法律の施行には別の効用が有ったようです。この世から「売春」行為が無くなったと素朴に前提する人々の中から、昭和33年以前の売春行為を断罪する運動が起こったり、「援助交際」だの「買春」だのという奇妙な日本語が作られたりしているのは、この法律の影響に違いありません。人類最古の商売とも言われる売春は、一本の法律でこの世から消えて無くなる筈は有りませんし、家族を養うための売春が唯一の職業だという場所は世界中から無くなる事はないでしょう。出来れば、未成年者には別の可能性を提供する援助活動は必要でしょうし、職業病の予防と治療も必要でしょう。それは、売春防止の法律を作って事を済ませる思想とは逆の発想による対応策です。

■本当か嘘か、実地調査はしていませんが、噂によると、イスラム教を信仰している地域には「売春」が存在しないそうです。これは、佐々木良昭さんの『日本人が知らなかったイスラム教』という本に書いてある話です。
 場所は革命前のイランの売春街……「汝は、かの女を妻とするか」「します。します。します。」と言って、相手にマハル(日本の結納金)と称して料金を払い、用事が済んで帰る時に、「我は汝と離婚する」と三回唱える。コーランには、男が三回離婚を宣言すれば自動的に離婚が成立すると定めてあるので、この男は売春の客ではなく、一夜の内に結婚し離婚した夫という解釈が成り立つという話。今は、イスラム原理主義者の親玉になっているビン・ラーディンも若い頃には随分と酒と女に金を掛けたと言われていますが、そのカラクリはこんなものだったのかも知れません。

■何はともあれ、男と女が体を密着させて長時間電車内に密閉されている事が最大の原因なのです。中国の北京の市バスも相当な混雑ですが、「夫婦別姓の文化」で鍛え上げられているチャイナの女性は、和風の痴漢行為などに遭遇しようものなら、逞しくもけたたましい反応をすることでしょう。夫婦別姓という事は、女性は外部から単なる家事の労働力と子孫を得る為の道具として持って来たものとして扱われるという事です。妻は家に入れず、生まれた子供は家に入れるというわけです。この辺の事情は、岡田英弘さんの『妻も敵なり』という本に詳しく載っています。
 時差通勤をいくら呼び掛けても、夜更かし文化とサービス残業が盛んな我が国では、早朝出勤など不可能です。ですから、痴漢問題の根本には労働環境を含めた、都市政策と土地政策の大失敗が横たわっているのです。そして、戦後の高度成長期を支える為に、日本各地の田舎から安い労働力として都市に呼び集められた過剰人口が生まれ、何故かどの企業も同じような横並びの出勤時間を設定しているので、必然的に地獄のラッシュ・アワーが現出したのです。始業時間を一時間だけでも前後にズラして、終業時間もそれに合わせてズラすような工夫もせず、同じ時刻表に従って大集団が動くのですから、満員電車は無くならず、混雑を苦痛とは思わず、逆に楽しみに感ずる変わった趣味の持ち主も紛れ込んで来ます。

■そして、こうした趣味の持ち主の中に、かつての山本晋也監督を追うようにして、暴走した連中が、痴漢行為を題材にして発表し続ける作品を本気になって収集している者達が居るわけです。監督の言によりますと、彼が作り続けた「痴漢電車」シリーズのテーマは男同士の友情であり、恋愛の一つの形であったとの事ですから、それを映画館の外に持ち出した者が、本物の電車に乗り込んでいることになります。一種の擬似恋愛のつもりで、見ず知らずの女性に勝手に興味を持って手を伸ばして来るのですから、彼らには映像の「ヤラセ」という約束事が有る事を教育しない限り、解決は付きそうにもありません。ほとんどの女性が見れば怒り狂うような妄想と御都合主義の塊のような作品群に、何事かの真実を読み取ってしまうような人には、現実を教える方法が必要となります。
 数々の性犯罪の被害を受ける女性の中に、それを喜ぶ者が存在するというような幻想が、犯人達の頭脳に植え付けられる現象が多発しているとしか考えられない事態です。
 犯行が露見して摘発され、大騒動になってから、被害に遭った女性が本当は不快に思っているという馬鹿馬鹿しくも単純な事実に気が付くわけですが、こうした妄想と現実の区別こそが、文化教育の主題にならなければならない時代になったという事でしょう。

■森鴎外に『ヰタ・セクスアリス』という名作が有ります。とても読み易く、思春期の課題図書に最適の本だと思うのですが、文部科学省の推薦図書にはならないようです。大々的に読書感想文を募集する団体も見当たりません。勿論、問題の昭和33年以前の作品ですから、青少年の目から遠ざけて置くように熱心に運動している方がいらっしゃる可能性も有ります。
 しかし、幼女の顔に似合わない巨大な乳房を付けた奇怪な絵柄の陵辱妄想を掻き立てる漫画に熱中する前に、若者達にとっては是非一度は読んでおいた方が良い作品ではなかろうか、と思うのですが、いかがでしょう。鴎外自身は、この作品を「性教育」の教材として書いているので、男子学生ばかりでなく若き女性も、「男とはこんなもんかいなあ」と勉強になる作品ではないでしょうか。

一つの懸賞論文

2005-02-22 23:50:36 | 日記・雑学
 ■財団法人・公共政策調査会と警察大学校警察政策研究センターが募集した「“21世紀においてあるべきわが国のかたち”をいかに考えるか」という懸賞論文の入選作が発表されました。(読売新聞1月14日付け紙面)
 選考期間を考えると、単なる偶然なのでしょうが、この発表前日に「教育基本法改正原案」を政府が発表しているのです。先に、この政府案の方を確認しておきましょう。
 学校教育では、「規律を守り、真摯(しんし)に学習する態度を重視する」という表現で、学力低下に歯止めを掛けるのだそうです。愛国心については、教育の目標を「伝統文化を尊重し、郷土と国を愛する態度を養う」ことと明記します。更に、「家庭教育」に関する条文を新設して「親は、子の健全な育成に努める」と子供の躾(しつけ)の重要性を強調します。これが三本柱になっているようです。

■こうした作文を書くのはさぞかし気持ちの良いものなのでしょうが、「現行の教育基本法は1947年にGHQの干渉を受けて制定され、『個人の尊厳』を強調し過ぎた結果、個人と国家の結び付きが曖昧(あいまい)になり、教育の荒廃を招いた」と自民党の誰かさんが怒っていて、早く書き直せと文部科学省のお役人に命令したのでしょうから、これを書いたのは「ゆとり教育」の作文をした一群に混ざっていた人物に違いありません。人間が或る特定の時代背景に影響されて制定するのが法律ですから、憲法を含めて大いに議論して改定するのは誠に結構な事です。憲法草案の一本も書けない様な恥ずかしい候補を担ぎ出して国会に送り続けた結果が、現在の日本の荒廃を招いた事だけは確かですから。
 しかし、教育が荒廃した原因は『教育基本法』ではありません。明・大正・昭和と続く歴史の中に刻まれた幾つかの節目をまったく総括しないで、走り続けた結果なのです。GHQの占領政策のほとぼりが冷めたからとばかりに、明治維新を徒(いたずら)に美化して神話化するような低俗な歴史観しか持っていない人物が、国家の理想像を気楽に描くと、明治と昭和を混ぜ合わせた奇妙な団子(だんご)が作られてしまいます。

■三本柱の最後、「家庭教育」一つ取って見ても、家庭が崩壊している深刻さを、この作文を書いた人はまったく理解していません。昨年10月末日のNHK教育テレビ・ETVスペシャルが取り上げて、何冊かの著作が現在も書店に平積みになっている水口修さんの孤独な戦いが、最も明確な答えになっているように思えます。彼は、麻薬で三人の教え子を死なせてしまった事を悔いて、「夜回り先生」になってしまいました。電話やメールを使って薬物禍の中から若者を救い出そうと戦っていて、「教育を家庭に期待してはいけない」と叫び続けています。病弱な母と二人きりの母子家庭の子供や、借金苦にのたうち回る親の保護下にいる子供、勿論親がやくざ者という困った子供も生きています。
 暴力やネグレクト(育児放棄)の被害者として育って、人の親になってしまった人の子として生まれた子供は、親に倍する被害を受けて深夜の町を彷徨(さまよ)います。売春と麻薬がトグロを巻いているジャングルのような街に、心に傷を負った子供達が押し出されて、肉体と生命を傷つけることになります。「教育は家庭の責任」などと政治家や官僚が言い出したら、その国家はお仕舞いです。 リストラだのアメリカ式経営だのと無責任な「改革」を進めている間に、日本中の自治体に「給食費が払えない」家庭が増えてしまいました。パチンコ屋さんの隣やお向かいに、金貸し屋さんが何軒も並び、どちらも賑々(にぎにぎ)しくテレビ広告を垂れ流しているような国にしておいて、家庭に教育を押し付けるのは間違っています。
 貧しくとも借金苦に喘(あえ)ごうとも、片親であろうとも、立派に子育てをしている親が存在する。こんな念仏を唱えても、子供の犠牲者は減りませんし、これは権力を握る者が言うべき事ではありません。
 一時期、経済問題に関してのみ、「セーフティ・ネット」という言葉が濫用されましたが、この言葉は本来、生命と教育に関して用いられるべき政治用語の筈です。阿呆な経営者が欲をかいて会社を借金だらけにしたら、さっさと馘首(くび)にして建て直しに掛かれば宜しいし、背任や横領の犯罪を犯しているのならば、逮捕すれば良いだけの話で、金融関係だの「潰すには大き過ぎるだの」と十年以上ももたついたのは政治の責任です。
 何やらうやむやの内に、景気が上向いて来たから、今度は教育をいじくろうというのでは、乱雑な議論しか出てきそうにありません。

■教育基本法改正案の最初の二本柱に戻ります。第一の鍵は「規律」です。毎年のように汚職事件を起こす政治家の皆さんにこそ「規律」と「真摯な態度」を要求したいところですし、第二の「郷土を愛する心」も要注意です。
 1988年に完成した瀬戸大橋は島国日本が世界に誇る技術の勝利でしたが、これが架かった場所は淡路島を経由する工事であるから最適地が選ばれたのだとばかり思っていると、目出度く兵庫県と結ばれた徳島県は、三木武夫元首相の地元でした。1998年に完成した明石大橋は3910メートルの世界一長い吊橋なのですが、岡山県と結ばれた香川県は大平正芳元首相の地元です。いくらんでも瀬戸内海に三本も橋は要らないだろうと言われつつも完成した第三の橋は、愛媛県と宮沢喜一元首相の地元である広島が結ばれたのでした。
 最近になってバレた社会保険庁が造り続けた「グリーンピア」の残骸が風雨に晒されている場所のほとんどが、歴代厚生大臣の選挙区に並んでいるという事実も有ります。間も無く、国と地方が積み上げた借金が1000兆円になろうとしています。社会資本の充実やら、景気対策の公共事業やらの名目の裏には、郷土という名の選挙区を愛する心が働いているのではないでしょうか。つまり、「郷土を愛する心」と「国を愛する心」とは結び付かないどころか、反発し合う関係にあるのです。
 熊しか歩かない過疎地に立派な道路が完成すると、その勘定書きは国家予算の借金に加算され、瀬戸内海に三本も架かっている吊橋の借金も同じ勘定になっています。

■こうして何気無く『教育基本法改定案』に盛り込まれた三本柱には問題が隠されています。特に第二と第三の柱には厳重な注意が必要なのです。そして、何故かこの二本の柱にぴたりと合う文言が、件(くだん)の懸賞論文で優秀賞を取った『脱米論~ある米国帰りの帰国子女の意見~』に満載されているのです。米国で13年間を過ごした現在25歳の杉山大輔君が受賞者です。冒頭から注目すべき箇所を抜書きします。

本当の国際的なものの考え方とは、母国を理解し、その文化を他の国々と比べることから始まる。
 今日、日本は従来の価値観が崩壊し、精神的な混乱期に陥っている。日本人は、モノの存在が当たり前になってしまい、もっと大切な精神的なことを忘れている。日本人の心を本来の日本人の魂に戻さなければ、いくら国が表面的な政策を行ったとしても、その改革も長期的には維持できないだろう。
 小学三年生の時にニューヨークで剣道を始め、海外にいながら日本の文化や礼儀作法を学ぶ事ができた。ドイツの親善試合で、ドイツ人の多くは、刀・武道・お茶・芝居について熱心にきいてきた。だが、私には彼らに語れる知識はなかった。
 英語という世界共通語を話せることや海外での体験は、日本という帰属意識の置き方があればこそ生きるのだ。
 帰国後、高校二年の時に古文の授業を通して日本の文化を知り、今まで勉強してきた「外から見た日本」の教育と、「内から見た日本」の描かれ方が違うことを知った。日本から米国を見て、いかに米国が自己中心的な立場で国際社会に対して誤ったことを行っているかに気づいたのである。
 国家は他国の真似(原文平仮名)をして成り立つものではない。歴史や民族性、心が違う。過ごしてきた時間と背景が違うのだ。それは幸せの尺度も違うことを意味する。
 今後の日本に有用な人物は、①社会の変化についていける、自発的で自立した「自分でものを考えられる」人間②すべての幸せのために、自分で問題点を発見してその解決に至る方法やプロセスを自ら判断して動ける、自発的、意欲的な人間となる。
 このような「人間」の育成に最も必要なことは、「自分を知ること」「自分の背景を考えること」すなわち「自己確立」「自我同一性の確立」である。これはまた「日本国」の育成にも当てはまる。
 アメリカ型の唯物主義的なリーダーではなく、人としての心のあり方や、世界人類の心の基盤のありかを示す、目指す、そういう目に見えないものの価値を大切にする人々のリーダーとして、未来の日本のあるべきかたちは既(原文平仮名)にはっきりしていると私は考える。……


■「ゆとり教育」を最初に言い出した中曽根さんが大喜びしそうな文言が並んでいます。杉山君は、帰国後に慶応大学に入学して、在学中に教育コンサルティング会社を起こして副社長をしているMBA取得者だそうですから、毎日、この文章に書かれたような「日本人」を育て上げようと働いているのでしょう。お客さんは喜ぶだろうと思いますが、いささか心配な点が多くはないでしょうかな?彼が米国に滞在していたのは、1983年から1996年の間という事になります。レーガン大統領からブッシュ父、そしてクリントン大統領に至る時期と重なります。日本を離れている間に、中曽根内閣から橋本内閣までのドタバタ政治が繰り広げられていましたが、この期間に起きた最大の事件は85年のプラザ合意から90年のバブル崩壊までの一連の騒動でしょう。MBA取得者なのですから、バブル崩壊の仔細を知っているものと想像しますが、それが日本に刻み付けた傷跡の深刻さを杉山君はまったく御存知ないかのようです。

■そして、「剣道」と「古文の授業」しか具体的な日本体験の実例が示されていないので、杉山君が追い求める「日本本来の自我同一性」の中身が不明なのですが、日本の文化は、杉山君が大嫌いな「他国の真似」の集積物なのではないでしょうか?文字に始まり、箸に食器、お茶に絵画、宗教も舶来です。そして、日本の歴史を見ていると、「日本人」は「日本」が大嫌いなのではないか、とさえ思えて来るのですが、杉山君は違うようですね。
 宮脇昭という植物学者がいます。この人は、日本中の野山を歩き回って『日本植生誌』という空前絶後の業績を残していて、日本の風景と思われている樹木は、全て人工的な植樹の結果である事を証明してしまいました。元々生い茂っていた木々を日本人は何千年も掛けて全部切り倒して植え替えてしまったのです。
 同時に、自然の中に宿っていた神々を根こそぎ外来の神や仏と入れ替えてしまいましたし、南方の植物だった稲を導入すると、何と関東、東北どころか北海道にまで植えてしまいました。昔ながらの、それこそ「本来の日本」の暮らしをしていた山や海の民を差別し、「目に見えない」神を崇拝していた人々に対して、嫌でも目に入る巨大な仏像を拝ませたのも日本でした。

■杉山君が大好きな「国家」にしても、大陸で作られた『史記』という書物をお手本にして『日本書紀』という外国語で書かれた歴史書を編纂したのが、日本の国家の始まりです。近畿地方の豪族が中核となった大和朝廷が、唐を真似た京の都に建てたのが次の日本で、杉山君が好きな剣道の元となった武士文化が栄えてから、明治維新の欧米化が始まります。
 杉山君がドイツ人に問い詰められて困った「日本の文化」は、ほとんどが戦国乱世の室町時代に生まれたものですが、杉山君の日本は室町に根を持っているのでしょうか。そうであれば、明治の日本を打破して江戸の停滞期も越えて、随分不便な時代に逆戻りしなければなりません。

■杉山君が感動した「古文」の具体的な作品名が分からないので、平安や鎌倉の文化をどう受け止めているのかが分かりませんが、文化の中核となる言語自体が、融通無碍(ゆうづうむげ)に変化し続けた日本文化というものを、もう少し落ち着いて勉強してみるのが良いと思います。そして、米国滞在中に「目に見えない」精神的な価値を大切にする人々とは接触出来なかったようですが、今回の大統領選挙で最も影響力を発揮したキリスト教集団の事も視野に入れて米国理解を深めて欲しいところです。
米国は決して「唯物主義」(この単語の使い方が乱暴ですよ)の国ではないと思いますよ。大統領の就任式から聖書が消える事はないでしょうし、東西冷戦時代も社会主義陣営が「無神論者」であったからこそ、キューバやヴェトナムに牙を剥いたのですから、彼等は常に「目に見えない」ものを追い求めています。

■最後に、個人と国家を同一物として扱う教育論は、非常に危険である点と、杉山君が求める人材も国家像も常に「リーダー」という米国人好みの型を持っているようです。我も我もと、皆がリーダーになりたがる社会は実に喧しくて落ち着きませんし、手段を選ばずに強引にリーダーになってしまった人物が、東京都の地下鉄に毒ガスを撒き散らしたのは、杉山君が帰国する一年前のことでした。
 日本に根付いていた謙譲の美徳、遠慮とデシャバラナイ文化は、例え満場の推薦を受けても、一旦は固辞することを慣わしとしているのですが、杉山君がコンサルティングしているお客さん達は、頼まれもしないのにしゃしゃり出て来るような変わった日本人ばかりなのでしょうか?

読売新聞の連載『科学立国の危機』終了

2005-02-22 23:40:12 | 日記・雑学
 2月12日の第9回を以って、『科学立国の危機』の連載が終わりました。「国家戦略を考える」という大き特集の一環として企画された連載ですが、毎回背筋が薄ら寒くなる話が続きました。連載の冒頭に、「自主創新」走る中国(2月1日)と題して、北京の中関村を1月下旬に文部科学省の視察団が訪れた話をぶつけていました。

■東京23区半分の面積に北京大や中国科学院など300以上の大学・研究機関、1万5000社のハイテク企業が集まる「中国のシリコンバレー」。中関村の技術、工業、貿易収入は2兆6000億円(2001年度)で、北京市の産業発展への寄与率は6割。……

 中国科学院の李志剛秘書長は「日本はどんどんノーベル賞を取っている。『元始的創新』が非常にうらやましい。」と語ったと記事は報じていますが、これは大いなる皮肉ではないでしょうか?
 1949年のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹は、京都大学で「中間子理論」の基礎を完成していますが、同じく物理学賞を1965年に取った朝永振一郎は、ドイツのライプチッヒ大学での研究が決定的な意味を持っていました。二人とも仁科芳雄という巨人の指導を受けているので、日本の受賞と言っても良いのでしょうが、1973年受賞の江崎玲於奈はニューヨークのIBM研究所での活動が物を言いましたし、1987年に生理学・医学賞を取った利根川進などは研究活動拠点は米国ですから、「日本人が受賞」していても「日本が受賞」しているわけではないようです。
 2002年に物理学賞を取った小柴昌俊は、飛騨の山奥地下で頑張りましたが、この連載の第七回「頭脳流出 いかに防ぐか」の中に、スーパーカミオカンデにセンサー大量破損事故が起こった時に、当時の尾身科学技術相のもとに、5人のノーベル賞受賞者から日本政府の復旧支援を要請する手紙が送られて来て、予算の無駄遣いを止める出鼻をくじかれて実験が続行された話が有ります。

■2003年10月、中国は有人宇宙飛行船「神舟5号」の打ち上げに成功しました。当時、石原慎太郎さんは、テレビで「ぜんぜん驚かない。日本だってやろうと思えば直ぐにあんなものは出来る。」と笑っていましたが、時を経ずして日本のH2Aロケットが、貴重な衛星を二つも抱いたまま打ち上げに大失敗してしまいました。その時の慎太郎さんは、激怒しておりましたなあ。別に責任を取らされて強制収容所送りになどする必要な無いでしょうが。責任者が辞任するとか、国民に詫びる文書を発表するとか、何らかの反省と決意の表明ぐらい有っても良かったのですが、所詮は御役人の「お仕事」ですから、平然と次の打ち上げ計画に着手しています。今度も失敗したらどうなるのでしょうねえ。
 勿論、国家戦略と予算を編成するのは内閣という行政機関ですし、
それを緻密な議論で練り上げるのが国会という立法機関です。随分古い話ですが、昭和48年(1973)の第一次石油ショックの最中に大流行した小松左京さんの『日本沈没』の一節を思い出します。同じ年に『ノストラダムスの大予言』という妄想小説の第一弾が発表されて、翌年にはユリ・ゲラーが来日して、大橋巨泉さんが懐かしい11PMで、おおはしゃぎしていたり、世はオカルト・ブームで後のオウム事件までマスコミと出版業界は国民を愚かにし続ける発端になった年でした。
『日本沈没』も余りにも売れ過ぎてしまって、作品が訴えたかったテーマが忘れられて、単なる恐怖パニック物として流行してしまいましたから、次のような重要な一節が書かれていた事を誰も覚えていないのではないでしょうか。


 「……この変動の全貌と、その起こる時期は、つい最近明らかになってきたものであります。調査機関の予測によりますと、この変動は、ここ一年以内の間に起こり、その変動の結果、地震その他によって国土全域が破壊されるばかりでなく、日本はそのほぼ全域が、海中に没し去ることになる、ということであります……」
「一国の首相の国会演説が、地学をテーマにしてなされるなんてことは歴史的に見て、前代未聞だろうな……」と幸長はつぶやいた。「日本という国は、その意味できわめて特殊だな」
「その意味で、日本の場合、もっと早くから、政治に、自然科学的な観点がはいってもよかったんだ」と中田はいった。「これから世界中が、しだいにそうなっていくだろう。――環境問題、公害問題、地球管理問題といったものが、しだいに大きくなるにつれてね……。政治の政治主義時代……人間集団対人間集団の間の取引やかけひきに焦点のあたったマキャヴェリズム時代は終焉にむかいつつある。……これからの政治家は、人間社会と自然環境に対する、科学的知識が必須の基礎教養となっていくんじゃないか?」……


 この小説で苦悩しながらも大活躍するのが山本総理大臣で、映画化された時には、まだ神憑(がか)りする前の丹波哲郎が名演技を見せました。実際の総理大臣は田中角栄で、自然科学に興味を持ちそうには思えない人物でしたなあ。この小説を大ベスト・セラーにした国民が、その後に手に入れた総理大臣を列挙すると、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、宮沢喜一、細川護煕、村山富一、橋本龍太郎、小渕恵三、森義朗、小泉純一郎という具合です。
『日本沈没』に登場する山本総理大臣とイメージが重なるような人
物が政権を取ったことは無いようです。特に、村山さんの時には、阪神淡路大震災が起こって、総理大臣の情報源が皆様のNHKニュースだった事がバレてしまいましたし、頼りの自衛隊を違憲だの無用だのと一番苛(いじ)めていた前歴を持った総理大臣でしたから、五千人以上の犠牲者は自然災害だけによって生まれたのでもなさそうです。
 巡りあわせと申せましょうが、『日本沈没』を書いた小松左京さん御自身が神戸で震災に遭っています。その目で、高速道路の高架線が横倒しになっている風景を見て愕然となったそうでして、原作に描いた東京大震災の地獄図が「非科学的」だと専門家から随分と非難された体験を思い出してのだそうです。映画化された時にも、中野昭慶特撮監督が凝りに凝って撮影したシーンにも、高架道路が板チョコのようにポキポキと折れて、自動車がぽろぽろと零(こぼ)れ落ちるというのが有りましたが、これが道路の専門家には断固として許せない素人の妄言だと怒られたのでした。
 土木建築技術の専門家、つまり大学教授や政府の技官達は、日本の高架道路は関東大震災が来ても絶対に折れないし倒れない「仕事」をしているので、人騒がせな物を書くんじゃない!と頭ごなしに叱られたんだそうです。既に、どちらが非科学的だったのかの勝負は付いているのですが、責任を取って辞職した技官や頭を丸めた老教授などは現れませんでした。
 こんな国に科学を学びに留学する学生は、きっと居ないでしょう。
 
■第八回「頭脳呼べない「知の鎖国」」は決定的でした。


 遠藤誉・帝京大教授は最近、国立大学に勤める、50歳近い元中国人留学生から、こんな悩みを打ち明けられた。「博士の学位を取ったが、今も講師のまま。どうしても助教授、教授にしてくれない。中国では既に年下が学部長や学長になっている。今さら中国に戻れない。こんなことなら、日本に留学しなければ良かった。」遠藤氏は「中国では優秀な人材は欧米に留学する傾向が強まりつつある」と指摘する。……

 重大犯罪を起こすような不良外国人の入国は、厳しく徹底的に取り締まらなければなりませんが、東アジアに知のネットワークを構築するのに有用な人材を飼い殺しにして、最終的に日本が「知の田舎」になってしまう危険が高まっているようです。かつて、ジャパン・アズ・ナンバーワンの法螺話に浮かれた頃の幻想が本物ならば、今頃は、日本の有名大学にはハーバードやケンブリッジからの留学生が溢れ返っている筈です。

■第六回「ゲノム解読「6%の敗北」」の記事は更に衝撃的でした。

 「ネイチャー」は世界の科学誌の中で最も権威が有ると言われる。その1月13日号に、日本でしか出版されていない一般書の書評が掲載された。取り上げられた本は、経済ジャーナリストの岸宣仁氏の著書『ゲノム敗北』(ダイヤモンド社)。人間の全遺伝情報(ヒトゲノム)解読の国際プロジェクト「ヒトゲノム計画」を扱ったノンフィクションだ。書評は「日本はゲノム敗北から学ばなければならない」と題して、こう書く。「創造的な人間とその業績は、西洋で高く評価されてはじめて国内で認識され、評価の対象になるというのは過去何度も有った。」「日本は伝統的な保守主義を排し、寛容さを学び、個性的な精神を評価するようになるべきだ」……
 事件はこういう具合に起きたらしい。ゲノム解読の高速自動装置の構想を日本の和田昭允(あきよし)東大教授が1979年に世界で最初に考案したが、学界も官僚も理解せず、結局解読計画は米国主導で進められてしまい。2003年度に解析が終了してみれば、米国59%、英国31%に対して、日本は6%だった。その原因を黒川清・日本学術会議会長が解説しているが、「和田さんは物理学が専攻だった。だから、和田さんがゲノム解読の重要性を唱えた時、生物学界では『なぜ物理屋が口を出すんだ』と総スカンだった」……


 まあ、これが今の日本の大学の全てを言い尽くしているのでしょう。御当人の和田氏は、現在横浜こども科学館の館長さんをなさっているそうで、「研究の重点をどこに絞り込むか、戦略を練ることが大事になる。しかし、日本は今も、その『参謀本部』がない。これでは勝てるはずがない。」と仰っているとのことです。

 2000年6月、クリントン大統領は自ら全世界に向けて解読結果の概要版完成を発表した。大統領は「多くの病気の治療や予防、診断に革命をもたらすだろう。」と誇らし気に宣言した。ブレア英首相も衛星中継で参加した。だが、日本の森首相の姿はなかった。「ゲノム敗北」を象徴する後継だった。……

 ■2月12日の第9回を以って、『科学立国の危機』の連載が終わりました。「国家戦略を考える」という大き特集の一環として企画された連載ですが、毎回背筋が薄ら寒くなる話が続きました。連載の冒頭に、「自主創新」走る中国(2月1日)と題して、北京の中関村を1月下旬に文部科学省の視察団が訪れた話をぶつけていました。

東京23区半分の面積に北京大や中国科学院など300以上の大学・研究機関、1万5000社のハイテク企業が集まる「中国のシリコンバレー」。中関村の技術、工業、貿易収入は2兆6000億円(2001年度)で、北京市の産業発展への寄与率は6割。……

 中国科学院の李志剛秘書長は「日本はどんどんノーベル賞を取っている。『元始的創新』が非常にうらやましい。」と語ったと記事は報じていますが、これは大いなる皮肉ではないでしょうか?
 1949年のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹は、京都大学で「中間子理論」の基礎を完成していますが、同じく物理学賞を1965年に取った朝永振一郎は、ドイツのライプチッヒ大学での研究が決定的な意味を持っていました。二人とも仁科芳雄という巨人の指導を受けているので、日本の受賞と言っても良いのでしょうが、1973年受賞の江崎玲於奈はニューヨークのIBM研究所での活動が物を言いましたし、1987年に生理学・医学賞を取った利根川進などは研究活動拠点は米国ですから、「日本人が受賞」していても「日本が受賞」しているわけではないようです。
 2002年に物理学賞を取った小柴昌俊は、飛騨の山奥地下で頑張りましたが、この連載の第七回「頭脳流出 いかに防ぐか」の中に、スーパーカミオカンデにセンサー大量破損事故が起こった時に、当時の尾身科学技術相のもとに、5人のノーベル賞受賞者から日本政府の復旧支援を要請する手紙が送られて来て、予算の無駄遣いを止める出鼻をくじかれて実験が続行された話が有ります。

■2003年10月、中国は有人宇宙飛行船「神舟5号」の打ち上げに成功しました。当時、石原慎太郎さんは、テレビで「ぜんぜん驚かない。日本だってやろうと思えば直ぐにあんなものは出来る。」と笑っていましたが、時を経ずして日本のH2Aロケットが、貴重な衛星を二つも抱いたまま打ち上げに大失敗してしまいました。その時の慎太郎さんは、激怒しておりましたなあ。別に責任を取らされて強制収容所送りになどする必要な無いでしょうが。責任者が辞任するとか、国民に詫びる文書を発表するとか、何らかの反省と決意の表明ぐらい有っても良かったのですが、所詮は御役人の「お仕事」ですから、平然と次の打ち上げ計画に着手しています。今度も失敗したらどうなるのでしょうねえ。
 勿論、国家戦略と予算を編成するのは内閣という行政機関ですし、
それを緻密な議論で練り上げるのが国会という立法機関です。随分古い話ですが、昭和48年(1973)の第一次石油ショックの最中に大流行した小松左京さんの『日本沈没』の一節を思い出します。同じ年に『ノストラダムスの大予言』という妄想小説の第一弾が発表されて、翌年にはユリ・ゲラーが来日して、大橋巨泉さんが懐かしい11PMで、おおはしゃぎしていたり、世はオカルト・ブームで後のオウム事件までマスコミと出版業界は国民を愚かにし続ける発端になった年でした。
『日本沈没』も余りにも売れ過ぎてしまって、作品が訴えたかったテーマが忘れられて、単なる恐怖パニック物として流行してしまいましたから、次のような重要な一節が書かれていた事を誰も覚えていないのではないでしょうか。


 「……この変動の全貌と、その起こる時期は、つい最近明らかになってきたものであります。調査機関の予測によりますと、この変動は、ここ一年以内の間に起こり、その変動の結果、地震その他によって国土全域が破壊されるばかりでなく、日本はそのほぼ全域が、海中に没し去ることになる、ということであります……」
「一国の首相の国会演説が、地学をテーマにしてなされるなんてことは歴史的に見て、前代未聞だろうな……」と幸長はつぶやいた。「日本という国は、その意味できわめて特殊だな」
「その意味で、日本の場合、もっと早くから、政治に、自然科学的な観点がはいってもよかったんだ」と中田はいった。「これから世界中が、しだいにそうなっていくだろう。――環境問題、公害問題、地球管理問題といったものが、しだいに大きくなるにつれてね……。政治の政治主義時代……人間集団対人間集団の間の取引やかけひきに焦点のあたったマキャヴェリズム時代は終焉にむかいつつある。……これからの政治家は、人間社会と自然環境に対する、科学的知識が必須の基礎教養となっていくんじゃないか?」……


 この小説で苦悩しながらも大活躍するのが山本総理大臣で、映画化された時には、まだ神憑(がか)りする前の丹波哲郎が名演技を見せました。実際の総理大臣は田中角栄で、自然科学に興味を持ちそうには思えない人物でしたなあ。この小説を大ベスト・セラーにした国民が、その後に手に入れた総理大臣を列挙すると、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、宮沢喜一、細川護煕、村山富一、橋本龍太郎、小渕恵三、森義朗、小泉純一郎という具合です。
『日本沈没』に登場する山本総理大臣とイメージが重なるような人
物が政権を取ったことは無いようです。特に、村山さんの時には、阪神淡路大震災が起こって、総理大臣の情報源が皆様のNHKニュースだった事がバレてしまいましたし、頼りの自衛隊を違憲だの無用だのと一番苛(いじ)めていた前歴を持った総理大臣でしたから、五千人以上の犠牲者は自然災害だけによって生まれたのでもなさそうです。
 巡りあわせと申せましょうが、『日本沈没』を書いた小松左京さん御自身が神戸で震災に遭っています。その目で、高速道路の高架線が横倒しになっている風景を見て愕然となったそうでして、原作に描いた東京大震災の地獄図が「非科学的」だと専門家から随分と非難された体験を思い出してのだそうです。映画化された時にも、中野昭慶特撮監督が凝りに凝って撮影したシーンにも、高架道路が板チョコのようにポキポキと折れて、自動車がぽろぽろと零(こぼ)れ落ちるというのが有りましたが、これが道路の専門家には断固として許せない素人の妄言だと怒られたのでした。
 土木建築技術の専門家、つまり大学教授や政府の技官達は、日本の高架道路は関東大震災が来ても絶対に折れないし倒れない「仕事」をしているので、人騒がせな物を書くんじゃない!と頭ごなしに叱られたんだそうです。既に、どちらが非科学的だったのかの勝負は付いているのですが、責任を取って辞職した技官や頭を丸めた老教授などは現れませんでした。
 こんな国に科学を学びに留学する学生は、きっと居ないでしょう。
 
■第八回「頭脳呼べない「知の鎖国」」は決定的でした。


 遠藤誉・帝京大教授は最近、国立大学に勤める、50歳近い元中国人留学生から、こんな悩みを打ち明けられた。「博士の学位を取ったが、今も講師のまま。どうしても助教授、教授にしてくれない。中国では既に年下が学部長や学長になっている。今さら中国に戻れない。こんなことなら、日本に留学しなければ良かった。」遠藤氏は「中国では優秀な人材は欧米に留学する傾向が強まりつつある」と指摘する。……

 重大犯罪を起こすような不良外国人の入国は、厳しく徹底的に取り締まらなければなりませんが、東アジアに知のネットワークを構築するのに有用な人材を飼い殺しにして、最終的に日本が「知の田舎」になってしまう危険が高まっているようです。かつて、ジャパン・アズ・ナンバーワンの法螺話に浮かれた頃の幻想が本物ならば、今頃は、日本の有名大学にはハーバードやケンブリッジからの留学生が溢れ返っている筈です。

■第六回「ゲノム解読「6%の敗北」」の記事は更に衝撃的でした。

 「ネイチャー」は世界の科学誌の中で最も権威が有ると言われる。その1月13日号に、日本でしか出版されていない一般書の書評が掲載された。取り上げられた本は、経済ジャーナリストの岸宣仁氏の著書『ゲノム敗北』(ダイヤモンド社)。人間の全遺伝情報(ヒトゲノム)解読の国際プロジェクト「ヒトゲノム計画」を扱ったノンフィクションだ。書評は「日本はゲノム敗北から学ばなければならない」と題して、こう書く。「創造的な人間とその業績は、西洋で高く評価されてはじめて国内で認識され、評価の対象になるというのは過去何度も有った。」「日本は伝統的な保守主義を排し、寛容さを学び、個性的な精神を評価するようになるべきだ」……
 事件はこういう具合に起きたらしい。ゲノム解読の高速自動装置の構想を日本の和田昭允(あきよし)東大教授が1979年に世界で最初に考案したが、学界も官僚も理解せず、結局解読計画は米国主導で進められてしまい。2003年度に解析が終了してみれば、米国59%、英国31%に対して、日本は6%だった。その原因を黒川清・日本学術会議会長が解説しているが、「和田さんは物理学が専攻だった。だから、和田さんがゲノム解読の重要性を唱えた時、生物学界では『なぜ物理屋が口を出すんだ』と総スカンだった」……


 まあ、これが今の日本の大学の全てを言い尽くしているのでしょう。御当人の和田氏は、現在横浜こども科学館の館長さんをなさっているそうで、「研究の重点をどこに絞り込むか、戦略を練ることが大事になる。しかし、日本は今も、その『参謀本部』がない。これでは勝てるはずがない。」と仰っているとのことです。

 2000年6月、クリントン大統領は自ら全世界に向けて解読結果の概要版完成を発表した。大統領は「多くの病気の治療や予防、診断に革命をもたらすだろう。」と誇らし気に宣言した。ブレア英首相も衛星中継で参加した。だが、日本の森首相の姿はなかった。「ゲノム敗北」を象徴する後継だった。……

 つまり、日本という国は、ノーベル賞が欲しい日本人はさっさと出て行き、同じような外国人は決して入っては来ない国だということです。それなのに、若き国民は塾や予備校などの学校以外での受験勉強に追い立てられ、有名大学を目指して必死で努力する風習に漬かっているのはどうした訳でしょう。青春を懸けて合格した日本の大学の実態が、期待に応えられないような体(てい)たらくならば、特にやりたい事もないから大学受験に精力を傾けるしかなくなります。
 受験生本人やその家族が知らない大学の実態については、川成洋(かわなり・よう)さんが『大学崩壊!』(宝島社新書)という分かり易い本を書いてくれています。目次を見ただけで、受験生の揺れる心に止(とど)めを刺しそうな内容です。


Ⅰ 大学教授亡国論
 第一章 論文も書けず、入試問題もつくれない大学教授
 第二章 研究も教育もせずに、いったい何をしているのか?
 第三章 痴情の果ての殺人,心中,そしてやくざ顔負けの権力抗争
 第四章 大学教授の教え子に対するセクハラは「職業病」か?
 第五章 乱舞する「いびり」や「いじめ」の天才
Ⅱ 教授会亡国論
 第六章 「教授会」は人事などの権限はあるのに責任なし
 第七章 「大学教員の任期制」は助手と非常勤講師を痛撃する
 第八章 ますます強化されてゆく大学教員の管理体制
Ⅲ 大学生亡国論
 第九章 大学の新入生から「初々しさ」が消えた理由
 第十章 大学生の学力低下・その驚くべき現状
 第十一章 英語の入試問題を作成しながら考えたこと


○○に関する小話

2005-02-21 22:29:56 | 日記・雑学
○○に関する小話

 間も無く、○○の製造と販売方法に対して厳しい規制が実施される見通しです。とにかく、○○は発売以来、長らく全人類の健康と生命を常に危険に晒(さら)していたのに、政界に対する業界の圧力と、マスコミ各社にとっても莫大な広告収入を差し出す大切なお得意さまであったので、○○に対する規制は常に後手に回り、○○が撒き散らす害毒に対する決定的な法律規制は定められていなかったのです。
 特に、○○は近くにいる人々の気管を始めとする呼吸器系に致命的なダメージを与えて、癌を筆頭に様々な疾病(しっぺい)の原因だと、医学者のみならず、それが吐き出す煙を吸い込む度に、素人の住民も嫌な気分になっていたのです。
 ○○を使っている人達は、どうも周囲の迷惑顔が目に入らないようです。時々、歩道や公園にも侵入して来るので、とうとう各自治体では、「決められた場所」に○○を押し込めようと強制的な対応をし始めました。本当に、○○の御蔭で安心して散歩も出来ないし、のんびりベンチにも座っていられませんから、こうした運動は是非とも全国的に広まって欲しいものです。警察の皆様も、どしどし違反者を取り締まって、国民の健康と安全を確保して欲しいと思います。
 近々、○○の表面積全体の三割を占めるように、「健康に対する深刻な害が有る」事を表示しなければならなくなります。工業デザインを生業(なりわい)としている人たちには御苦労を掛けますが、一層の努力をして頂いて、○○自身が周囲に自分の害悪を認めている事をアッピールしている事が充分に伝わるようにして欲しいものです。これまで、○○の近くで暮らす危険を知らずに、或いはうすうすは気が付いていたのに、病的な心配性だとか、○○の必要性を理解しない奴だ、等と言われて口を封じられたまま、無念の思いで寿命を全(なっと)うせずにこの世を去った人々の恨みを、是非晴らして頂きたいと思います。

 という訳で、きっと数年後に発売される自動車のデザインが大幅に変わるはずなのです。きっと、恐るべき排気ガスを吐き散らしておいて、肺癌はタバコが原因で、花粉症は農林省が杉を植え過ぎたからだ、などとトンデモナイことを言う悪い奴が多かったのですが、これからは、「この排気ガスを大量に吸うと、自殺も出来ますが、日常的に吸っていると深刻な呼吸器系の病気になりますよ。」という表示を背負った後姿が、全国の道路上で見られるでしょうし、ボンネットが丁度表面積の三割ぐらいですから、フロント・グリルとのバランスを考えながら、「接触すると生命を失うことが有ります。運転者が正気とは限りませんよ。」などという表示が、斬新なデザインで町を飾ることでしょう。

 これで安心ですね。このへんで一服、フー。今日も元気でタバコが上手い。最近、この傑作コピーが聞けないのが不思議です。

 エッ、○○はタバコのことだと、思っていたって?冗談ではございません。WTOが発表している全世界でタバコが原因で死亡する人は、多めに見積もって460万人です。自動車に轢(ひ)き殺されたり、幹線道路の沿線で命がけで呼吸している人の数を知っていますか?排気ガスに振動、そして騒音に、うっかり売りつけられた新車のローン、心身ともに人類は自動車の危機に晒されているのです。

 何事も、プライオリティー(優先順位)を見極める事が大切です。世間は常に易きに流れて、方向違いの弱いもの苛めをするものです。気をつけましょうね。

鳩の話

2005-02-14 22:08:38 | 日記・雑学
 ■餅は餅屋とは言うけれど、鳩の事は鳩害駆除の業者さんに聞くのが一番です。先日、マンションのベランダを鳩から死守する為に、とうとう専門の業者の助けを求める事になりました。ホームセンターの鳩コーナー(鳩を飼う道具ではなく苛める道具売り場)に並ぶ様々なる商品を、高架抜群を競う宣伝文句を頼りに次々と購入しては、ピカピカ光る音の出ないCDをぶら下げたり、天敵の梟(ふくろう)をデザインした反射鏡付きの高額な鳩威嚇(いかく)商品を試したり、プラスチック製のトゲトゲでベランダの囲いを着地不能にしたり、随分お金と努力を重ねた結果、すべては徒労と浪費でしかなく、素人の手には負えないと言う結論に達しまして、鳩に対する憎悪は一挙に高まって留まる所を知らず、精神状態が悪化して日常生活も危ぶまれ、とうとう専門業者を呼ぶ事になったような次第です。

 NHKの情報番組で、マンション屋上の縁(へり)にピアノ線を張って、着地不能にすれば鳩は寄り付かないと言っていましたが、どっこい野生の鳩の方でも生活が掛かっているので、勇敢な奴が果敢にピアノ線越えの垂直着陸を成功させて突破口を開けば、我も我もと飛び越えてしまい、何の効果も無くなってしまうのだそうです。既に深刻な鳩被害を受けている場合は、完全に鳩に舐(な)められているので、全面に網を展開して防衛する以外に方法は無いそうです。業者さんは、鳩の執念深さを知り尽くしていて、5センチ以上の隙間を見逃しませんでした。猫は自分の頭骸骨が通れば、何処へでも侵入しますが、鳩はそれ以上の能力を持っているのです。

 更に鳩に舐められている御家庭の場合は、折角施工した網に向かって抗議と怒りの突進攻撃が加えられる場合が有るそうです。嘴(くちばし)と足の爪は相当の破壊力を持っているので、網が破られないとも限らないのだそうです。そんな凶暴な攻撃を予(あらかじ)め想定して、強固な素材で網を作ってアンカーで固定する業者も有るのですが、万一火災が起きた場合、消防隊員の皆さんが網を破れずに消化と救出の活動に支障を来たすのだそうです。鳩を防ぐ網で人間様が逃げられず、ベランダで焼き殺されるのは嫌ですから、いざと言う時には人の手の力で破れる網を使っている業者さんに頼みました。
 

 
 ■鳩の被害は、確実に関東中に拡大中で、川口、志木、朝霞等の地名が次々と出ました。急に駅前に高層マンションが建ち、駅のロータリー辺りで散歩や日向ぼっこをする動物愛護の心を持った方が、毎日パン屑(くず)でも撒いているような、実に長閑(のどか)な風景が見られる場所には、例外無く深刻な鳩糞被害に苦しむ御家庭が存在しているのだそうです。鳩の害ほど、家庭ごとの認識レベルが大きく違う問題も珍しいとのことで、「可愛い鳩チャン」と「ニックキ鳩メ」との間には深くて広い河が流れているようです。

 こんな悲劇を聴きました。或るマンションの住人が、鳩との戦いに疲れ果て、自分の家にはベランダは存在しない、と心に決めてサッシもカーテンも閉め切りにして暮らすこと数年。そして或る日突然、配水管の雨水が逆流して溢れ出し、隣や下の部屋から苦情が出るわ、自室のエアコンが沈黙するわで、どう考えても原因は「存在しない」ベランダに有りそうだ、と嫌な結論に達して恐る恐る数年ぶりにカーテンを開けてみると、そこは一面の銀世界……ではなく、鳩の糞が20センチ以上も堆積した白い世界が広がっていて、排水口など何処に有るのかさえ分からないし、エアコンの室外機の下側はすっかり埋もれて目詰まりを起こしていたそうです。勿論、各種病原菌の結晶のような鳩の糞ですから、すぐに全部撤去して、鳩除けの網を設置したのだそうです。
 鳩屋さん(こう呼んでいますが、正確には鳩の駆除屋さん)の言うには、鳩対策は最初が肝腎で、一羽でも侵入しようとしているのを目撃したら、徹底抗戦のメッセージを相手に知らせなければ、全ては手遅れになるのだそうです。家族全員参加で鳩を見たら小まめに追い払う。これを鳩が根負けして諦(あきら)めるまで続ける根性が何より必要なのだそうです。現実に、絶対の自信を持って各地に鳩防除網を取り付けている「鳩屋さん」自身は、自宅には網を付けていないとの事でした。「我が家の上の部屋ではエライことになっていますがね。」と勝ち誇っていましたぞ。ですから、最初の訪問者(鳩)に餌付けなどしようものなら、大変なことになりますよ。


 ■カラスが住宅地に増えたのは、ゴミの不始末が主な原因ですが、以前、週刊新潮に連載中の高山正之さんの辛口コラムに、東京都が炭酸カルシウムを混入した新しいゴミ袋を制定したのが直接の原因だ、と書いていました。その説によると、カラスは山での暮らしが長くて、黒くて丸っこい物を見ると熊を思い出すらしく、警戒して余り寄り付かないのだそうで、それを知ってか知らずか、東京都が指定したのは純白のゴミ袋でした。恐れなくなったカラス達は、バブル時機にすっかり残飯を増やした東京都でグルメ三昧の生活を楽しみながら、子作り巣作りに励んだというわけです。
 袋の色がカラスの異常繁殖の原因とは認めないお役人は、カラスも鳥目だろうからと、それまでは出勤前のお父さんや登校時の子供が出していたゴミ袋を、深夜に出させて収集するようになりました。まさか、それが原因で青少年の深夜の徘徊が増えたのでもないでしょうが、夜中のゴミ出しとは、何だか小さな夜逃げみたいで気持ちの良いものではないでしょう。
 恐るべき数に増えたカラスの数自体を減じようと、石原都知事の指令でカラス殲滅(せんめつ)作戦が実行されて数千羽のカラスが処理(殺害)されたようですが、渋々周辺の山に帰ったカラスも多いかも知れません。目出度い事に、カラスの数は目に見えて減ったようです。これで少しは生活環境が改善されたと喜ぶ人々も多いでしょう。
 しかし、汚水の中でも逞(たくま)しく泳ぐ鯉も住めなくなるほど水質が悪化してしまうと、人間は安全な水を得られなくなると言われるように、このままどんどんカラスが減り続けて、カラスさえも住めなくなった都市は、マトモな人間が住めない場所になってしまいはせぬかと、少々心配でもあります。今のところは、住みたがっているカラスを追い出しているようですから、その点は安心です。でも、或る日突然一羽のカラスも見えなくなったら、直下型の大地震が近いということでしょうか。


 ■ところが、鳩となると、いささか話が違ってきます。カラスの駆除が、鳩の天敵を減らす効果を生んでしまったとの説も有るようですが、今の四十代から上の世代の日本人ならば、鳩に餌を投げたり、わざわざ専門店から買って来て、鳩小屋を作って飼った経験が有るか、近しい人がそうしていた事を見聞きしているはずです。
 戦後の日本人は、強制的に鳩好きにさせられたのです。思えば1964年の東京オリンピック以来、何か大きな催し物の度に、
「平和の象徴、白い鳩たちが、晴れ渡った青い空に放たれました。」の決まり文句の実況中継とともに、用意された籠(かご)から白い鳩の大群が大空に飛び立って行ったのでした。あの頃の勇ましい光景をNHK辺りが再放送すると、鳩の害は人災であった事が衆知徹底されるでしょう。その頃は、鳩が何処で何を食べて暮らすのか、誰も心配も考えもしませんでしたなあ。
 そして、空間に余裕の有る公園や大きな御寺の境内に鳩が住み着くと、必ず「鳩のエサ」の看板が有って、豆を売っていたものです。我が子に豆を撒(ま)かせては、襲い掛かって来る鳩の群れに埋もれて泣き出す我が子の姿を嬉しそうに写真に撮るパパが、何処にでもいましたね。
 考えてみれば、数多い日本の民話や童話の中に、鳩が登場する話はほとんど有りません。里山には僅かな山鳩が住んでいましたが、案外山鳥料理になっていたようですし、元々、群れを成して住宅地を飛び回る今のようなドバトは居なかったのです。

 では、何故急に日本人が鳩好きになってしまったのか、と考えてみますと、『聖書』とオリンピックにぶつかります。欧州では第一次大戦まで、伝書鳩は重要な情報兵器でしたが、大日本帝国は第一次大戦の陸上戦には参加しませんでしたから、伝書鳩兵器も無く、かといって優秀な電子兵器も無いままに、真珠湾攻撃をしてしまいました。日本側が持っていないレーダーがハワイにはちゃんと設置されていて、群れを成して襲来する日本海軍の第一次攻撃隊の機影が見事に捉えられていましたが、丁度本土から爆撃機隊が飛来する予定だったのが幸いして、空襲警報が出されなかったという逸話が有ります。

 オリンピックと言えばオリーブの枝葉で編んだ栄冠、…月桂樹(ローリエの木)とオリーブの樹が混同されていますが、マラソン競技の勝者だけはアポロの神を象徴する「月桂冠」が与えらましたが、他の競技の勝者にはゼウス神を象徴するオリーブの冠が与えられたので、オリンピックと言えば断固オリーブです……。逆に言えば、オリーブの樹も生えていない場所とは何の関係も無いお祭りだったという事ですね。だから日本人が優勝などすると、すぐにイチャモンが付いて突然競技規則が改定されてしまうのです。

 何はともあれ、オリーブの枝と言えば『聖書』の創世記に出て来る「ノアの方舟」の物語です。
 神は自分が造った人の世を改めて点検すると、阿呆な人間ばかりが増えてしまった事に腹を立てました。神は絶対で、世界の創造者ですから所有者でもあり、管理者でもあります。ですから、自分の失敗だったとは絶対に反省はしません。まるで、何処かの国の官僚達のようです。
 神様は40日と40夜、少しも休まずとんでもない量の雨を降らせましたから、丁度地上は和式の水洗トイレの使用後のような状態になってしまいまして、全てが、何処かに流れ去ってしまいました。神が創造した全ての生き物を雌雄一匹ずつ載せたノアの方舟は、帆も舵(かじ)も無いので、神を只管(ひたすら)信じて漂流し続けたそうですが、船の内部は世界最大規模の動物園の数倍の飼育能力を持っていたのでしょうなあ。
 雨が止んで、神の気に入らない物は全部何処かに流れ去り、今のトルコとイランの国境線辺りの山岳地帯が最初に水面から現れたそうです。アララトの山と言われる山は現存していて、美しい双子山です。しかし、アララトは山岳地帯全体を指している名称ですから、あの山の頂上から変な物が発見されたり発掘されたりしても、それは悪質な詐欺です。時々、方舟の破片やら木片やらを「発見」する人が現れますから、注意しましょう。
 

 ■さて、アララト地方のどこかの頂(いただき)が現れてから徐々に水が引いて行って……その大量の水は何処へ行ったのか、それを質問してはいけませんよ。南極と北極、そしてチベットの山でも引き受け切れない量なんですから……ノアは方舟の窓の目張りを取って一羽の鳩を放ちます。きっと、青い空が見えたでしょう。
 その鳩君が大変なパワーの持ち主で、方舟からは四方に水平線しか見えないというのに、何処かからオリーブ……このオリーブの木も只者ではありません。どんな深い根を持って大洪水の濁流に耐えたのやら……の枝を咥(くわ)えて戻って来ます。それは神の怒りの終わりを示すもので、少々やり過ぎたと思った神様は、ちょとだけ反省したらしくて、二度とこんな大洪水は起こさないとノアに約束し、律儀にその証拠を残しました。それが雨の後に架かる七色(国によって色の数は違います)の虹なのだそうです。どんなに猛烈な豪雨でも、それは必ず神が止めてくれるので、ノアの方舟の用意は不要なのです。
 わざわざ神様が証拠を用意したくらいですから、ノア一族の誰かは、内心疑っていたのでしょうか。そして、その疑いはその子孫にも脈々と伝えられている事を良く御存知の神様は、毎回雨を降らせると、律儀に虹を架けて疑いを晴らそうとし続けているのでしょう。どちらも粘着質な精神を持っている事が分かります。
 
 こうして、鳩は平和の象徴として国連のシンボルになってしまいました。既に、人間が最も恐れるものは神の大洪水ではなくて、人間が降らす核弾頭の雨となった時代の到来です。そして、次に人間を根絶やしにする者がいるとすれば、それは間違いなく人間ですから、青い国連旗に描かれているオリーブの輪は、神への祈りと人間への自戒を示しているのです。確かに、花言葉などという花屋さん御用達のコジツケ文化によりますと、オリーブは「平和」と結び付いているようです。花のイメージを決定する「花言葉」はキリスト教文化の専売特許なのです。
 平和憲法を護持して、同胞が拉致されても救出目的の戦闘態勢に入れないほど深刻な平和中毒に陥っている日本ですが、残念ながらオリーブは自生していませんし、スパゲティを炒める時の油ぐらいにしか利用しないオリーブの花言葉が「平和」というのは納得行きません。しかし、バレンタインというチョコレートの御祭りとケーキ祭りのクリスマスを愛好する日本ですから、国連の旗を有り難がるのは仕方が無いのでしょう。
 平和憲法護持に人生を懸けておられる土井たかこさんは、立派なキリスト教徒です。別に隠す必要もないでしょうが、「平和」「オリーブ」「国連」、キリストの愛というように見事に繋がるのが非常に分かり易いと思います。蛇足ながら、憲法記念日にオリーブの門松を立てましょうなどと、素っ頓狂な事を誰も言わなかったのは幸いでした。否、戦後の混乱期には、それくらいの事を言い出した日本人の一人や二人はきっと居たでしょうなあ。
 

 ■戦争に敗れた日本は、国連に加盟して悲願のオリンピックを開催したのですから、日本人全員が、国連好き、五輪好きになり、その後遺症が鳩好きという事になります。数十年間に亘って、日本国中あちこちで、盛大に鳩を増やしては何かの開会式に放し続けたのですから、現在の数の少なさを考えれば、拍手と喝采の中で放たれた鳩達の多くは、次々と天敵に仕留められたのでしょう。「平和のシンボルの鳩を天敵から守ろう」運動をした人も居たかもしれませんが、余り目立たなかったのは幸いです。大きな市民運動にでもなっていたら、今頃ワイドショーで昔の映像をしつこく使いまわしされていた事でしょうからね。
 鳩の天敵を排除して、遠い祖先達が暮らした絶壁の途中に有る棚状の岩とそっくりの構造を沢山持っている高層住宅が、日本の都市ににょきにょきと生え出したのですから、天敵を恐れて逃げ込んだ鳩達は安心して子作りと巣作りに励(はげ)めるようになったという訳です。目出度し目出度し。
 というわけには行きません。日本人は、椅子やベッドを大急ぎで導入しましたが、布団を干さないと気分が悪いのです。ベッドのマットレスの上に、布団を載せないと寝付けない人が減りませんから、大切な布団干し場のベランダが鳩に占領されると、突然鳩嫌いに変身します。元々、鳩好きになる伝統的な理由は無いのですから、鳩を追い払う事には何の痛痒も感じません。ツバメとの付き合い方と比べると良く分かります。 

 つまり、オリンピックのお祭り気分で突然鳩好きになった日本人が、バブル期の土地高騰で土地付き住宅を諦めて、次々と高層住宅に移り住み、丁度天敵のカラスが駆除されたのが、今の鳩戦争の原因という訳です。外来文化、舶来好みは大昔からの日本人の習性ですが、そろそろ大人になって落ち着いて取捨選択をした方が良いでしょう。食いもしない凶暴な魚をあちこちの池に放して、キャッチ・アンド・リリースなどと変な発音のカタカナ語を流行らせる輩(やから)の御蔭で、伝統的な鮒(鮒)料理や鯉料理が危機的状況になってしまいました。一時、日本中の鯉が死滅するのではないかと大騒ぎになった奇病も、誰かが持ち込んだ外来種の水生生物から感染したのではないでしょうか。
 生物界の感染も恐ろしいのですが、一番恐ろしいのは、人間の精神に感染する文化的な病気です。縁も縁(ゆかり)も無い所から、舶来品だと言って得意げに妙な思想を運び込まないようにしたいものです。鳩は減っても平和憲法は残ります。鳩の糞で「戦争放棄」は揺るぎませんが、御近所から飛んで来る核弾頭には、日本得意の「万止むを得ず」の台詞が飛び出して、鳩の網ならぬイージス艦の迎撃網が張り巡らされることになりそうです。


チベット語になった『坊っちゃん』―中国・青海省 草原に播かれた日本語の種

山と溪谷社

このアイテムの詳細を見る

------------------------------------------
チベット語になった『坊っちゃん』書評や関連記事

鑑真和上が泣き笑い 2月13日の記

2005-02-14 22:07:11 | 日記・雑学
  ■貴重な休日、天候が定まらぬ以上に天気予報が,ここぞという決定的な場面で外れ続けている昨今、いろいろな意味で話題の映画『北の零年』を観ようか、これまた賛否両論の話題が多い「唐招提寺展」に行こうか、と迷いながらも本館の展示品も見て回りたくて国立博物館に足を向けました。
 駅から京成上野口の前を通過して、西郷さんの銅像下の階段を上ろうと歩いて行くと、石の階段の上り口に長机を出して、幟(のぼり)旗を立てた一団がいました。
 どことなく気分良さそうに、ちょっと汚れた白いセーターを着た女性が腰に手を当ててマイク片手に演説中で、横の長机では初老と呼ぶ年齢を越えた男性を真ん中に、三人が頭を下げたり通行人にビラを渡しながら何やら説明をしていました。

「…皆さんの家族の誰かが、突然拉致され、十年も二十年も行方が分からない、そんな立場になった時のことを考えてください!」と立て板に水の演説が、途切れることも無く続いています。
 上野駅周辺は、東北の方言が行き交う場所です。そして、その東北地方は幸いなことに、朝鮮民主主義人民共和国の「一部の冒険主義者」による拉致事件がほとんど起こっていない場所です。そんな所からテレビ(TBS系)放送の宣伝番組を、素直に日本の歴史に関する重大な特集番組だと信じて観た多くの人々が、鑑真和上さんの坐像や東山魁夷さんの御影堂障壁画の実物を見ようと遠路遥遥(はるばる)足を運んで来たのでしょう。偶(たま)の旅行でもあり、知人や親類を訪問するついでも有る楽しい時間になる、と思って上京した人達です。そのような人達の群れに向かって、まさか西郷さんの真下で詐欺集団が、すぐに見破られるような下手な「仕事」をしているとは、誰も思わないでしょう。
 
 ■詐欺という仕事は、ちょっとお人好しで、ちょっと欲張りな相手を「まさか」と思わせる罠に誘い込むことで成り立っています。欲張りというのは、自分だけが特殊な利益を簡単に得ようと思う気持ちを意味しますが、時には、世の中の為になる善行をして良い気分になろう、と思う事も含まれてしまいます。そして、この世の中には、本人に詐欺行為と思わせないで、信じ込み易い者を手足のように使って、詐欺犯罪を上手にさせてしまう実に賢い方々がいらっしゃいますから、油断は禁物です。
 怪しげな商品を売りつけたり、小学校の算数でも破綻が証明できる馬鹿馬鹿しい「絶対儲かる投資話」をしている本人が、裏で糸を引く悪人の巧みな洗脳を受けた被害者であるという救いようの無い悲喜劇が起こります。その多くは宗教を悪用して、社員なのか信者なのか、あるいは奴隷なのかの区別が付かないような集団によって「浜の真砂(まさご)が尽きんとも」次々と発生します。

 例えばこの集団です。活動家然とした女性が馴れた口調で次々と並べる切実な単語に対して、その口調が全然そぐわないのです。通常の神経を持っている日本人、或いは日本語を解する人間ならばつい足を止めざるを得ないような「拉致」「子供」「家族」「離れ離れ」「人道」「日本」などの単語を並べているのですが、突然日常生活から生き馬の目を抜くマスコミ業界の真っ只中に飛び込んで、政治屋さんや思想のプロ集団の間で翻弄(ほんろう)されながらも「お上」を相手に戦っている横田夫妻を始めとする家族会の皆さんが、テレビの細切れ時間の中でさえ醸(かも)し出す、あの抑え切れない必死さも、彼女の得意げな演説からは全然感じられません。意地悪く言ってしまえば、今となっては懐かしい学生運動盛んなりし時代の演説口調の迫力さえも無いのです。はっきり言うと、とても気楽で「楽しそう」なのです。
 うっかり立ち止まって、小額なりとも募金する人の姿を横目で見ながら、録音テープのように演説を続ける女性の「ご協力に感謝」している言動は、私の耳には「毎度有い」としか聞こえませんでした。しかし、もしかすると、そんな風に聞こえるのは、私自身に同胞を思う心が欠けているからなのかも知れませんので、「その金は某邪教集団が吹いている大法螺の『釜山トンネル』建設を目的として集めているに違いない。文鮮明の馬鹿野郎!」などと断定的な暴言は吐けません。

 しかし、これまで何度も、正体不明の募金集団の正体を追ったら常に同じ宗教団体に繋(つな)がっている事件が多発しました。販売する物も、花束から北海珍味、バブルの時期には天井知らずの値が付いている壷やら石になり、その後は超能力を使った占いと悪霊落としと、何でも扱う詐欺集団が時々マスコミに追及されました。ほぼ同時期に、「カンボジアの難民」や「アフリカの飢えた子供」を救う為の募金活動をする胡散臭い連中が、都内の駅前に出没していました。そして最近では、スマトラ沖で発生した未曾有の海底地震が起きたので、早速「スマトラの津波災害復興」の募金を呼びかける着たきり雀の若者が某私鉄駅前に、見覚えの有る箱を胸からぶら提げて立っています。人の不幸を利用して、他人の善意を悪用しても天国に行けるのならば、誰も苦労はしませんよ。

 地震学者も驚くほどの規模で海の底の地殻が割れ、島が消え、人が流され、家族が離散して町や村が瓦礫(がれき)となった現地では、早速孤児を売り飛ばして一儲けしようと暗躍する狂人がうろうろしているとの報道が有りますが、詐欺募金を呼びかける者も、人の身に降りかかった災難を金儲けに利用する根性は同じです。
 栄養不良の色が見える肌と、疲れきったその表情には不釣合いな妙に澄んだ目をした若者が、「スマトラの津波被害者に募金をお願いしまあす」とその人にだけ聞こえる声で言いながら、天候不順の寒空の下で、ちょっと気の弱そうな人に近寄って来ます。例のカンボジア難民を救う募金作戦の時には、残念ながらマスコミに嗅ぎ付けられて往生したらしく、その後は御丁寧にも各種ボランティア資格の証明書(認定・発行者自体が怪しい)やら、現地の人々が喜んでいるスナップ写真まで用意して、あちこちの駅前をうろついている若者がいましたが、今回も似たような物を携行していました。
 昔から、「一つの嘘をつくと、百の嘘が必要となる」と言い伝えられた通りの悪行の上塗りをしているのです。その内、菊の御紋入りの会員カードでも作りそうです。

 ■自分達だけの「天国」を約束されている人間ほど扱い難い者はいません。それが、宗派内のサークル活動に留まっていれば、誰も文句を言いません。信教の自由、結社の自由は大切な人権です。
 しかし、詐欺はヤクザがやろうと、自称救世主がやろうと、同じ詐欺ですから、被害に遭ったと気付いた時には、誰でも激怒します。況(ま)して、弱者救済の美辞麗句を信じる素敵な人道主義を悪用された後味の悪さは、一層根深く残って、次に本物の救済運動に対しても意地悪な態度を採ることになってしまいます。
 貧者の一灯の百円玉、或いは十円玉でも募金箱に入れる時は、徹底的に呼び掛け人と「言葉」を交わすべきです。少しばかり失礼な疑念を投げ付けても、それが協力したいと思う心の表れだと解釈する真の運動者は、集金の効率など考えず、偽者による被害が自分達の運動のせいで起こっている事に心を痛めているのですから、理屈に合わない謝罪までして、足を止めてくれた人の質問には懇切丁寧に答えてくれるものです。
 真の募金運動には、「達成目標金額」は絶対に設定されていませんし、その組織内には上意下達の圧力も、搾取構造も無いので、ビラを受け取って貰えるだけで丁寧にお辞儀をしますし、立ち止まって話を聴いて貰ったりすると感謝の言葉が素直に出ます。ビラを受け取った人にしつこく纏(まと)わり付いて募金を強要したりはしないものです。

 素人の詐欺は、その点稚拙で、立ち止まった瞬間に、聞かれもしない募金活動の正当性をまくし立てたり、相手に向かって一歩も二歩も近づきます。切羽詰まって、募金活動をする人が、あたかも獲物を見付けた様に一歩前に出るでしょうか?社会や国の理不尽さに対して立ち上がった人は、金銭よりも「理解」と「共感」を求めているのです。募金はその結果として集まるものですから、目標金額など有ろうはずが有りません。
 相手が「金銭」を求めているのか「理解」を求めているのかを短時間で見分ける技術が無いと、安心して歩けない国になってしまった日本です。因(ちな)みに、私が気になった集団は四人組でしたが、誰も拉致被害者の結束を示すブルーリボンを付けていませんでした。でも、これ見よがしに長机の真ん中に貼って垂らしたポスターには、青とも呼べる微妙な色合いのリボンのような物が輪を描いる絵が印刷されていましたなあ。
 胡散臭そうにねちねちと、見物していたかったのですが、閉館時間が気になります。ビラを貰って、ぐちゃぐちゃとあれこれ問い詰めようか、とも思いましたが、怒鳴り合いにでもなって、折角の鑑真さんに会える機会を嫌なものに変えられるのは癪(しゃく)に障ります。帰る時分にも「仕事」をしているようなら、是非御高説を伺おうと思って、ものの三分ほどでその場を後にしました。


 ■仏教の出家僧に正しい戒律を授けるために、当時の弱小国家の日本に命を懸けて唐から渡って来て下さった鑑真さんの坐像を拝見しようとやって来たのに、誰も頼みもしない似非「救世主」の押し売り詐欺募金の醜態を目にしてしまい、ひどく不愉快な気分になってしまいました。仏の前では、今風の国境も無ければ、打算も成立しない、と見切っていた鑑真さんに千年の時を越えて一目会いたいと集まる人々に、「同胞を救おう」の心を打つ台詞を平然と投げ付けて足を止めさせ、金銭を騙し取ろうとする「日本人」がいる時代です。きっと鑑真さんは、「無駄足だったかいなあ?」と思っておられるのではないでしょうか。

 肝腎の鑑真和上坐像ですが、予想よりは混雑が少なく、特に私が拝見したかった横顔が拝める場所は、展示場内を何度も行きつ戻りつしたのに、視界を遮る参観者はいませんでした。歴史の教科書や資料集に掲載される和上の坐像ですが、正面から拝見すると失礼ながら見事な「造り物」、正確に言えば貴重な美術品であります。順路に従って東山魁夷さんの作品を堪能して回り込むと、丁度坐像の右からの横顔が拝見できますが、何故かちっとも面白く有りません。それは単なる坐像の右側でした。

 正面は大盛況で、写真で見慣れた和上が結跏趺坐の姿勢で端整にお座りのご様子を、少しばかり遠目で拝見して、人影まばらな坐像の左側に移動してみると、これは何としたことか、和上がふっと笑われたような気がしたではありませんか。そして次の瞬間には、重大な教訓を垂れる前触れの息をお吸いになっているようにも見えます。見とれていると、静かに丹田呼吸を楽しんでおられるような御様子と拝察されて、遠慮がちにざわめく坐像周辺の雑音も消え去ってしまったようでした。坐像は入寂(逝去)の御姿を写したと伝えられますが、私の目には生きてるように映りました。和上は病を得て床に臥(ふ)せっておられた後、自分の生命の終わりを知って西の方角を向いて結跏趺坐の姿勢を取って、そのまま息を引き取ったそうです。しかし、その偉大な業績と徳を慕った者達の祈りが坐像には込められているのかも知れません。

 ほんの短い間のことなのに、今度は和上の頬が緩んで端座を解いて立ち上がる気配を感じました。幾つもの寺院建立事業に留まらず、治療院を開設し、橋を架け、生活の便を考えて道を整備したという伝記を読んだ記憶が、私の感覚に悪戯をしたのでしょうが、瞑想の後に待っている世俗の世話に勤(いそ)しもうとして、今にも立ち上がりそうな迫力と温情が伝わって来まして一人圧倒されました。
 今回の展示は、唐招提寺という建築物の改修工事に合わせた規格で、目玉は金堂の内部を再現して盧舎那佛と、それを守護する四天王、更に梵天と帝釈天を配置してしまうという商売上手なものでした。しかし、鑑真さんの没後に、やり手のお弟子さん達が活躍して飾り立てた遺産ですから、華厳経から密教経典へと進んで行く歴史の流れの中で、「天平文化」は古臭いと思われて捨て去られる乱暴さを感じてしまいます。絢爛豪華な仏達の世界が構想されましたが、奇妙なことに「戒律」に関連する仏様は有りません。鑑真さんはその戒律を伝えに渡来したのです。


 ■奈良の大仏として有名な巨大な仏像は御釈迦様でも阿弥陀様でもない、ということを案外日本人が知らないようです。盧舎那佛という宇宙の中心から光を放ち続けるこの金色の仏様は、『華厳経』で大活躍します。この御経のキー・ワードは「ネット・ワーク」です。その光のネット・ワークで日本の国土を結び付け、覆い尽くそうという壮大な計画が、東大寺を中心とした国分寺建立でした。
 その頃から、「戒律」が軽視され始めて、日本は奇妙な仏教の歴史を刻み続けています。膨大な数に膨れ上がった仏教の戒律ですが、基本的な決まり事の中に、「嘘をつくな」というものが有ります。特にお釈迦様は「自分に嘘をつくな。それを一瞬たりとも忘れず、動きやすい自分の心を油断せず監視せよ。」と言い続けた厳しい方だったのです。
 

 ■例の集団は、まだ「仕事」を続けているのか、と妙な好奇心を持って帰路に付きましたが、他の展示物も見て回って閉館時間まで館内にいたので、外に出た時には肌寒い風が吹く夕暮れ時で、彼らはすっかり「店仕舞い」した後でした。鑑真さんを拝んだ後の人々には「拉致被害者の救済」を訴える必要が無いのか、仏罰を恐れたのか、否、きっと本日分のノルマを達成したのでしょうね。合掌


チベット語になった『坊っちゃん』―中国・青海省 草原に播かれた日本語の種

山と溪谷社

このアイテムの詳細を見る

------------------------------------------
チベット語になった『坊っちゃん』書評や関連記事

冒頭雑談の裏ネタ2

2005-02-11 18:12:45 | 著書・講演会

冒頭の裏ネタ1のつづき…

■ネタ5「読売新聞「日本語の現場」職場で 123」

 「上司に対する敬語や電子メール、携帯電話のやりとりなどでどんな言葉が使われているのかを探ってきた今回の連載」は、この第123回を以って終了しました。最終回は「させていただく」の乱用についてのお話でした。
 助動詞の「せる・させる」に、「もらう」の謙譲語「いただく」が付いたこの表現は、
「営業活動などで丁寧に応対することによる差別化、個別化を図った結果、次第にビジネス界全体に広がり、一般に波及した…」と記事の中で推測されていますが、更に詮索しますと、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という危険な本が米国で出版されて日本語訳本がベスト・セラーになったた1979年から、狂気のバブル経済がピークを迎える89年までの十年間に、外食産業が急成長して接客マニュアルが日本語を絡め取った時代状況に思い当たります。
 米国が発明したマクドナルド方式の接客マニュアルが日本語に翻訳されると、リクルート社を中心として雨後の筍(たけのこ)のように日本語がマニュアル化されました。アルバイト店員も正社員も、規格が統一された日本語を使いました。客の目を見ないで反射的に発せられる「イラッシャイマセコンバンワ」に始まり、無闇矢鱈(むやみやたら)に「ノ・ホウ」を挟み込む機械言語が大流行した時機に、身近な機械自体が喋り始めたのでした。機械が人間のように喋るのは鉄腕アトム以来の人類の夢でしたが、人間の方が機械のように喋り始めるとは、手塚治虫さんも想像しなかったでしょう。 随分話題となった「○○円からお預かりします」も同様のマニュアルから発生しました。日本語の専門家や文法学者、国語学者でもない「翻訳家」達が、米国製のマニュアルを日本語に写し取ったのですから、奇妙な言い回しが氾濫するのは当然なのです。売り上げと実績のみに心を砕く仕事をする人々は、自分が日本語に対して重大な歴史的責任を負っているとは思いもしなかったでしょう。
 一般受けを狙(ねら)って視聴率稼ぎに命を懸けるマスコミやテレビ業界の人々も同様で、例えば、未成年者の売春が社会問題化した時に、「援助交際」という専門用語を茶の間に投げ込んだのは彼らです。「売春」という生々しい言葉を避けて、罪悪感から逃れようとして工夫された罪深い言葉なのに、報道に携(たずさ)わる人々までが、笑顔でも使えそうな響きを持ったこの用語を公共の電波や紙面に溢れさせてしまいました。
 敬語表現として日本語に刻み込まれた文化的な上下関係が、個人と自由を何よりも尊重する米国からの言語文化と激突したとも言えそうです。名前を呼び捨てにするのが、親愛の印(しるし)だと信じきっている文化を日本に導入するのに熱心の余り、或る日本の有名企業の社長さんが、「社員にファースト・ネームで呼ばれたい。」と放言したのも同じ時代の話です。企業の中で重大な責任を負っている役目の人に向かって、ゾンザイな言葉を発してしまえば、上下関係だけでなく、責任の所在も不明確になります。
 学校でも、教える責任を負っている教員と、謙虚に学ぶ義務を負っている生徒達との間でも似たような変化が生まれました。「師の影を踏まない」ほど遠く隔たる必要は無くなったにしても、学ぶべき知識と教養を蓄えている教師に対しての尊敬心が失われれば、学問に対する真摯な気風は消滅し、時には教師が暴力の対象となり、時には生徒が性欲の対象になったりするのは予想出来た事ではないでしょうか。
 加えて、経済の勝者となったと浮かれた日本社会は、子供の扱い方も大変化しました。「買い食い」は死語となって、親に同伴されていない小中学生が、生意気に顧客となってテーブルからあれこれと注文する姿が奇異に感じられなくなったのも、この頃の話です。自分で稼いだわけでもない金銭が、大の大人を傅(かしず)かせるのですから、体や下着を売ってでも、或いは麻薬を売りまくってでも、この最強の武器を手に入れようとするのは当然です。
 ファミリー・レストランという奇妙な日本語名を持つ飲食店に、放し飼いの動物のような子供を連れて母親達が集まったり、未成年者ばかりの集団が我が物顔で、行儀の悪い飲食行為をしている姿に、ファミリー(家族・家庭)の影は見られません。
 敬語表現が弱体化し、混乱を来たすという事は、私達自身が尊敬すべき対象を見定められないという事を示しています。自分を尊敬してくれる者の視線を感じなくなった者は、どんな破廉恥な行為をしても平然としていられるのではないでしょうか。


■ネタ6 読売新聞は1月25日から『教育ルネサンス』連載開始

--------------------------------------------------
変化の最前線①
 神奈川県の会社員前田さんは作春、群馬県太田市の中古マンションを700万円で購入した。長女(6歳)が今春、同市にできる私立ぐんま国際アカデミーに入り、妻と次女も引っ越す。
 相模原の自宅のローンも残るため、新たなローンは四つ目の銀行でやっと組めた。前田さん一人が相模原から勤め先に通う二重生活を始めることになる。
 アカデミーは、特区制度を利用して太田市が中心となって設立した小学校から高校まで12年間の一貫校。国語と社会、小学校1、2年の道徳以外はすべて英語で教えるイマージョン(言葉漬け)教育を掲げる。……「大学まで受験がないから、塾通いも英会話学校もいらない。損はないと思った」
 ビデオリサーチ社の昨年の調査では、首都圏の3-6歳約300人中、14.7%が英語教室に通っており、5年前から三倍増。
……福岡県太宰府市に昨年開校した私立リンデンホール小学校も、英語付け教育が県外から志願者を引き寄せる。
……親子短期留学ツアーには昨秋、JTBグループも参入した。ある業者は、扱うホームステイについて「十年前に高校生が増え始め、五年前に中学生に拡大、今は半分近くが小学生」という。
……横浜中華学院(横浜市)では、今春の小学部の新入生36人中、両親が日本人の子が9人になる。

--------------------------------------------------

<コメント>
 最後に出て来る「中華学院」ですが、現在北京政府は五輪を目指して国内に向かっては英語学習を熱心に勧めながら、国外には「孔子学院」という北京語教育施設を世界に100校開設して、今の中国語学習者3000万人を一挙に1億人に増やそうという計画を進めています。英国やドイツも自国語を世界に広めようと専門の施設を設けていますし、フランスは嘗(かつ)ての植民地地域に根付いたフランス語文化を死守しようと、臆面も無くフランス語国際会議を熱心に開催しています。彼らは、「先の大戦で多大な御迷惑をお掛けした」などとは一切考えずに、「○○語を教えてやったのだから、感謝しろ」と平然と言ってのける人々なのです。
 大日本帝国も、北は樺太・満洲から南は台湾・南洋諸島まで、広大な地域で不慣れな日本語教育に努力しました。今でも、シンガポールなどで、「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。おじいさんはやまに……」と吟遊詩人のように朗々と桃太郎を暗誦(あんしょう)する御老人に出っくわしたりしますし、旧満洲や朝鮮半島、或いは台湾には油断のならない日本語の使い手が潜在していて、「最近の日本語は乱れていますねえ。」などと指摘してくれます。
 南米に渡った日系人達や各国に赴任している日本人社員達、日本語は地球の半分以上を覆い尽くすネットワークを持っている言葉です。しかし、その活用方法を考える御役所を持たない言葉でもあります。英国のBBCと日本のNHKの最大の違いは、それぞれの政府と対決するか癒着するかの違いではありません。英国人は、海外に向かって「正しい英語を身に付ける為に、BBCを聴きなさい。御覧なさい。」と言えるのに対して、日本人はNHKの名を使って同様の忠告が出来ないという所が違うのです。
 NHKは80年代半ばに、公式声明として「標準的な日本語の規範を提供する任務を放棄する」旨、発表していますから、NHKを視聴しても正しい日本語は身に付かない上に、日本語を磨く役にも立たないのです。それでも四月だけ売れる各種語学教材に紛れ込ませるように日本語に関する語学番組テキストを書店に並べている神経が分かりません。権威主義的だと批判されようと、傲慢だと誹(そし)られようと、頑固な保守性を維持する機関や集団を持たない言語は容易く外国語に侵食され、やがて自滅して消え去ってしまいます。
 教育者でも文筆家でも言語に関わる職業人は、後世に文化を伝える役目を果たさなければなりません。後続の世代に、自分が授けられた文化を伝えねばならないのです。古典が読める能力を伝え、その古典が次世代にも残る努力が必要なのです。若い世代が「ダセエ」だの「ウザイ」だのと動物のような叫び声を上げても一切動ずる事無く、「諸君もやがて老いる。その時に、千年の時を越えて伝えられた文化遺産の中に自分がやって来た道と、帰るべき場所を見つけるだろう。」と威厳を持って応じれば良いのです。
 問題なのは、社会生活の中で喜怒哀楽に応じて、詩歌や物語の一節を思い出そうにも、まったくその素養を授かった経験が無い年長者が日本語を伝える立場に置かれてしまっている事なのです。現在週刊新潮に連載されている森繁久弥さんの『大遺言』という聞き書き記事には、森繁さんが幼い時から青春期までの間に覚え続けた美しい言葉が湧き出すように彼の口から零(こぼ)れ出す様子が書かれています。もしも自分が、幸運にも高齢になれたとしたら、一体どんな言葉を思い出すのだろう、と背筋が寒くなるような連載です。
 引用した新聞記事のように、日本人の親達の中に、我が子に日本語を伝える必要性を感じない人々が増えている様子が分かります。確かに米国の爆弾と砲弾で列島の主要都市は焼き尽くされましたが、英語で日本語を焼き尽くしてしまっても良いのでしょうか。もしも、公立の教育機関に、生徒達に伝えるべき「日本語」が無くなっているのならば、親達は学校以外の場所を血眼になって捜さなければなりません。それが、台湾や韓国であったらどうしましょうか。


■ネタ7 読売新聞1月12日の記事「難民申請6割虚偽か」

--------------------------------------------------
2004年に法務省に届け出られた約420件の「難民認定申請」のうち、約6割の約240件は、在留資格の期限が切れた外国人の申請だったことが11日、同省の調査でわかった。不法滞在外国人の間で、「難民認定申請中は入管当局や警察の摘発を受けない」という風聞が広まっている……
 東京入国管理局と警視庁は2004年5月、東京都板橋区の土木建築会社を入管難民法違反(不法就労助長)容疑で摘発した。この会社で不法就労していたトルコ人19人のうち11人が、「自分はクルド人であり、難民として日本に来た」と主張。いずれも難民認定申請中だったため、強制収容されなかった。……在留資格が切れた後の難民認定申請は、トルコ人、ミャンマー人、アフガニスタン人などの間で急増しているという。……摘発されたトルコ人男性は「自分はクルド人ではない。雇ってもらう際に会社から『クルド人として申請しなければならない』『申請中は摘発されない』と言われた」などと話したという……2002年7月から摘発までに雇用した139人のトルコ人のうち、実に96人が難民認定を申請していた。

--------------------------------------------------

<コメント>
 日本に始まってユーラシア大陸を貫いてボスポラス海峡を渡ってハンガリー平原まで続く「膠着語回廊」の西半分を占めるのが、1億1千万人が話していると言われる40種類のトルコ(チュルク)系の言語です。その最大勢力が、現在のトルコ共和国に住む5800万人のトルコ人です。西のトルコ共和国に発して東に向かって延びる「チュルク語回廊」は中華人民共和国の新疆ウイグル自治区に達しますし、さらに河西回廊を通って青海省や甘粛省に暮らすサラ族の言語に連なって、中国語地帯に細長い楔(くさび)のように広がっています。
 世界の三大料理を御存知でしょうか。人によって選び方は違うのでしょうが、大方の見方ではフランス料理、中華料理、トルコ料理の三種類に落ち着くようです。私見ながら、この三大料理が提供してくれる料理の多くが、パンにも御飯にも合うのです。我らの日本料理では、小鉢や美しい皿に盛り付けられた品々の前にパン籠(かご)が置かれたら、全てがぶち壊しになってしまう料理が圧倒的に多いのです。だから日本料理が劣っているなどという事はまったくありませんが、先の三大料理の間口の広さと奥深さにはちょっと適わないような気がします。
 世界の半分の富を集めたと称されるオスマン・トルコ帝国のスルタンが賞味していたのですから、まさに世界の山海の珍味が集められ、料理の腕自慢が続々と集まって作り上げられたのがトルコ料理です。イスラム教国なのに、各種のお酒も楽しめるという不思議な料理です。
 日本の歴史を考える時に、トルコの歴史とと対照すると、意外な発見をするものです。少し並べてみましょう。
-----------------------------------------------------------
1353年 オスマン・トルコの欧州進入開始。
1354年 日本の倭寇が高麗の全羅道を侵す。

1467―1479年 オスマン・トルコがヴェネチアと戦う
1467―1477年 応仁・文明の乱、戦国時代が始まる

1526年 オスマン・トルコがオーストリア侵攻開始
1523年 寧波(ニンポー)の乱、遣明使の同士討ち

1541年 オスマン・トルコがハンガリーの大半を占領
1543年 種子島にポルトガル人が来訪

1587年 オスマン・トルコがイラクを占領
1590年 豊臣秀吉が天下統一

1638年 オスマン・トルコがイラクを併合
1639年 江戸幕府が鎖国

1811年 ムハンマド・アリによりエジプト独立
1812年 高田屋嘉兵衛がロシア船に捕らえられる

1853年 クリミア戦争勃発
同年  ペリー艦隊浦賀に来襲

1859年 ルーマニア公国独立
1858年 日米修好通商条約締結

1867年 トルコ最高法院設立
1868年 明治維新

1876年 トルコ新憲法(ミドハト憲法)発布
1889年 大日本帝国憲法発布

1877年 露土戦争勃発
同年  西南戦争起こる

1890年の大事件
「明治23年9月14日(日曜日)午後一時横浜を出港し、一路母国イスタンブールに急ぐトルコ軍艦があった。サルタン・ムハメッド5世の勅命を受けて明治天皇に対し、トルコ最高の名誉勲章奉呈のため同年6月7日横浜港に到着し、3カ月間日本での歓待を受け、日土親交の大役を果たした後、栄えある帰途につく特派大使海軍少将オスマン・パジャ 一行の
エルトグロル号であった。……」
この話は、トルコの小学校で使われている教科書には必ず掲載されている事件だと聞いていますが、日本ではまったく知られていないのはどうしたことでしょうか。

1904年 日露戦争勃発
1908年 青年トルコ党が革命に成功

1921年 トルコ国民軍がギリシア軍を破る
同年  日英同盟廃棄される

1923年 トルコ共和国成立
同年  関東大震災

1928年 トルコがローマ字を採用
同年  張作霖爆殺事件発生

1933年 トルコが国際連盟に加盟
同年  大日本帝国が国際連盟を脱退

1937年 イラン・アフガン・トルコ・イラク不可侵条約締結
同年  日独伊防共協定締結

1941年 トルコがドイツと友好条約
同年  日ソ中立条約締結。太平洋戦争勃発

1945年 トルコが対日宣戦
同年  大日本帝国が降伏

------------------------------------------------------------

 特に、国家の近代化に苦労する時機とその内容は、面白いように類似していて兄弟のようです。しかし、第一次大戦が二つの国の運命を大きく変えてしまいました。大日本帝国は、勝ち組に加わって領土拡大に向かいましたが、オスマン・トルコは帝国を徹底的に解体しようとする欧州列強に食い荒らされてしまいます。
 名作映画『アラビアのロレンス』ではすっかり悪役扱いのトルコ帝国ですが、あちらにはあちらの事情が有ります。ロレンスと一緒になって楽しく駱駝に乗って活躍するような気分で観ていてはいけません。
 今、トルコはイスラム教国として初めてとなるEU加盟という驚天動地の申請をしている国です。対米偏重の外交を修正する為に欧州との新たな連携を考えねばならない日本にとって、トルコはもっと重要視されても良い国ではないでしょうか。
 随分遠くに行ってしまった「てにをは」仲間のトルコ人達ですが、遠い昔は、バイカル湖の辺りで頑張っていた高車や突厥などが彼らの御先祖様ですから、日本にとっても御近所だったのです。彼らが西へ西へと移動した後に、「膠着語回廊」が残されたのでした。トルコ系の民族の大旅行は、日本から見ると丁度チャイナの背後で繰り広げられた歴史の死角となってしまいまして、学校の歴史教育でも余り扱われていないようです。とても残念な事です。
 難しい対ロシア外交にしても、いよいよ大きな節目を迎える中東問題にしても、トルコはこれからちょくちょくと国際政治の檜(ひのき)舞台に顔を出す機会が増えるでしょう。凶悪犯罪は日本人であろうと外国人であろうと徹底的な処罰が必要ですが、難民問題や在留許可の問題は、日本側の法律内に残されている不備にも大きな原因が有るのですから、緩める所と締める所を間違わないで頂きたいものです。


2002年ノーベル文学賞 『運命ではなく』

2005-02-09 22:24:22 | 書想(その他)

ケルテース・イムレ『運命ではなく』岩崎悦子訳
 2002年にノーベル文学賞を受賞したユダヤ系ハンガリー人のイムレは、少年時代に「三日間のアウシュビッツ」を含むユダヤ人収容所生活を生き延びた人です。ノーベル賞の受賞理由は、「人間が社会的圧力にますます服従している時代にあって、個人として生き、考え続ける可能性を追求した」というものでした。
-----------------------------------------------
今日は学校に行かなかった。というか、担任の先生に、僕を家に帰してくれるようお願いしてくれるようお願いするためだけに行った。僕は〈家庭の事情〉を理由に僕の欠席を求める父さんの手紙も先生に手渡した。先生はどんな家庭の事情なのかと訊ねた。僕が、父さんが労働キャンプに召集されたのだと言うと、それ以上しつこく聞いてこなかった。
-------------------------------------------------
 自伝的物語はこうして始まり、1944年の春からの一年半に体験した出来事を、淡々と書いて行きます。読者である私達は、どんな過去の出来事でも、誰かが整理した因果関係の中に嵌(は)め込んで、歴史の外側から眺めているだけです。フランクルの『夜と霧』を始めとして、ナチスによるユダヤ人絶滅政策に関する体験記は何種類も発表されています。あの時代を実際に体験したユダヤ人も、米国等の比較的安全な場所で暮らしていた人と、欧州で直接ナチスの影響下に置かれていた人との立場は違っています.
 また、同じ欧州にいたユダヤ人でも、ドイツ国内や第二次大戦勃発前に占領された国々にいた人と、この物語に登場するハンガリーのように、開戦後にナチスが占領した場所にいた人とは、微妙に感じ方が違っているようです。最初に弾圧を受けた地域のユダヤ人達は、他の地域のユダヤ人が救いの手を差し伸べてくれなかった事に拘(こだわ)りを持っていて、連合国側の米国や英国の地に暮らしていたユダヤ人達は、戦後のニュルンベルグ裁判で実態が暴露されるまで、事態の深刻さを考えようとしなかった自責の念が消えません。
 当時、ソ連とドイツに挟まれていたハンガリーという特殊な場所にいたユダヤ人の立場は、それらともまったく違ったものであったようです。ドイツよりも先にユダヤ人弾圧を始めていたスターリンに比べれば、形式的であったにせよ選挙で民主的に権力を掌握したヒトラーが、あれ程徹底的な絶滅計画を実施するとは考えられず、ドイツの同胞から洩(も)れ伝わって来る噂も、きっと誇張されているに違いないと考えていました。そう考えなければ、ひたひたと押し寄せて来るドイツ軍の気配に耐えられなかったのでしょう。この本の18頁に、こんな一節が有ります。
-------------------------------------------------
ヴィリ小父(おじ)さんは、…〈確実な情報源〉から得た〈絶対に信頼できる〉興味深いニュース……〈ドイツと連合軍が中立国の仲介で〉我々に関する〈秘密の会談〉を始めたので、じきに〈我々の状況に大きな変化が期待できる〉と僕達に告げた。要するに、ヴィリ小父さんの説明では、ドイツ人たちは〈すでに自分たちさえ前線の絶望的な状況を認めている〉と言うのだ。小父さんの意見では、〈我々をだしにして連合軍から有利な条件を引っ張り出そう〉とドイツ人たちがやっきになっている今こそ、実際、僕たち〈ブダペシュトのユダヤ人にはちょうど絶好のチャンスが来た〉。連合軍はもちろん僕たちのためにできるだけのことはしてくれるだろう。そして、そこまで言うと、彼は新聞記者の経験から、〈国際世論〉と呼ばれる、〈重要な要因〉を挙げた。僕たちに起こっている出来事は、国際世論を〈震撼(しんかん)させた〉と言うのだった。
-------------------------------------------------
 歴史的な事実を知っている者から見れば、絶望から逃れるために造った法螺(ほら)話でしかないけれど、一縷の望みを求めて歴史の大逆転を信じる事で、ユダヤ人たちは蛇に睨(にら)まれた蛙のように、大規模な逃亡行動を取らずに、「強制労働キャンプ」へと送られて行ったのでした。
 戦時中の日本でも、敗色が濃くなった時代の新聞は「神国日本」「神風」「七生報国」等のオカルト記事を書き散らしましたし、終戦工作に苦心していた外務省でさえ、北方四島どころか北海道の占領を考えていたスターリンに対米和平交渉の仲介を頼みに行ったくらいですから、多くのユダヤ人同胞が暮らす米国や英国が、同胞の解放の為に努力しているに違いない、と彼らが信じる生き方は責められるべきではありません。
 全てが明らかになった後、ユダヤ人達は最終的な生命の安全を保障する祖国を持たなかった事が、全ての原因であると考えて、1948年にイスラエル共和国を建国します。オスマン・トルコ帝国が解体した後の中東地域に国家は存在せず、欧州列強の切り取り放題の場所でしたから、彼らの御墨付きを得られれば建国は国際法上、何の問題も有りませんでした。先住者や建国直前に出稼ぎ移住した人々に対する扱いに批判的なユダヤ人も多いのですが、ユダヤ人迫害の長い歴史を持つ欧米諸国やロシアは、正面からイスラエル建国を非難する事は出来ませんし、世界中のどこ国においても、ユダヤ人に対する迫害事件に目を光らせているイスラエル政府を心強く思わないユダヤ人はいません。
 私達は、未だに生命や財産を最終的に守ってくれる力を近代国家という装置の他には持ち合わせていません。何処かで、飛行機が乗っ取られてユダヤ人が人質となれば、イスラエル政府は即座に国際機関に対する行動を起こすと同時に、独自に救出作戦を発動します。日本海岸で拉致された同胞を四半世紀も放置している何処かの国とは違います。
 「反ナチス」で一枚岩となっているユダヤ人達は、文学や映画、或いは音楽に狂気の時代を刻み付け、熱心な歴史教育を続けていますが、この本を書いたケーテス・イムレは、多くのユダヤ人を敵に回してしまったのです。彼は、或るインタヴューで、次のような発言をしてるそうです。
-------------------------------------------------
「ホロコースト文学の大半が、体験時には分からなかったはずの事実まで、分かっていたように扱っているのに違和感を感じていた。」
-------------------------------------------------
 この異色の文学者が放った一言は重大です。本の「あとがき」に、この言葉を紹介して下さった翻訳者の岩崎悦子さんには、大いに感謝しなければなりません。
 「ホロコースト」は、燔祭と訳される、古代ユダヤ人が家畜や農作物を焼いて天の神に捧げた儀式のことです。神に捧げる子羊のように、ナチスに殺戮されたというパロディめいた名称として使われていますが、最近では虐殺を意味する「ショア」という表現が使われます。計画的な大量殺戮の間、世界中の何処の国も助けてはくれなかったという不信感はユダヤ人の中に根強く残っていて、ナチスに対する憎悪は決して消えるものではありません。先日も、ドイツの大統領が歴史的謝罪の為にイスラエルを訪問した際に、国会議事堂の中でドイツ語は聞きたくないと言って、何人もの議員が失礼を承知で演説の直前に退席していますし、ワーグナーの音楽は絶対に聴かないし演奏もさせない、という頑なな人が沢山います。
 ですから、ナチスに対する憎悪やホロコーストに対する感情は、世界中のユダヤ人に共有されている、と彼ら自身が信じているのです。「ユダヤ人が二人集まれば、政党が三つ出来る」とジョークの種にされる程、自己主張の強い彼らでも、この問題に関しては常に満場一致となる、と皆が信じているのです。しかし、イムレはその共感に対して疑念を持っているようなのです。彼が淡々と記述してみせる強制収容所の生活は、うっかりするとそれが収容所ではないような、一見長閑(のどか)な生活の記録であるかのような錯覚を生んでいますから、糾弾文学でなければならない作品が、単なる少年時代の思い出話になっている点に反発するユダヤ人は多いでしょう。日本語と同じ「てにをは」を持つ膠着(こうちゃく)語に含まれるハンガリー語が、重要な単語を後ろへ後ろへと先送りして、結論を先延ばしする性質を持っているからでしょうか、相反する感情が一つの文の中に並べて書かれているような箇所が目立ちます。翻訳者の岩崎さんは、日本語と似ているハンガリー語を多くの日本人に知って欲しい、といろいろな場所で語っています。イムレは、ドイツ語、ヘブライ語、ロシア語にも堪能らしいのですが、著作は膠着語のハンガリー語によって続けているそうです。憎悪の対象に向けて攻撃的な言葉の束を矢の様に放つような仕事には、膠着語は向いていないのかも知れません。
 実際に、ユダヤ人と話してみると、「この感情はユダヤ人以外の者には、絶対に理解出来ない。」と断言されるのですが、こうした発言は、徒(いたずら)にユダヤ人の新たな孤立を生んだり、将来に禍根(かこん)を残すような独善的な行動を正当化する危険が有ります。ユダヤ人に対する残虐行為は、人類全体が学ぶべき歴史的事実であり、ユダヤ人の独占物にすべきではない、とイムレは言っているのかも知れません。彼の一言は、ユダヤ人自身が、歴史の真実を知らずに、他の民族とは共有不能の、別の歴史像を勝手に作っている可能性が有り、それはユダヤ人にとっても不幸なことである。そんな風にも解釈出来る言葉です。「ユダヤ人にしか分からない」と言い張っているユダヤ人自身が、実は正確には分かっていない出来事を、イムレは万人に向かって書き上げ、文学作品として発表したのです。
 しかし、この本の原稿は十年間も印刷されずに作者の手元に置かれたそうです。何処の出版社も、ユダヤ人からの反発を恐れて出版を拒否したのです。ですから、やっと陽の目を見た原稿が認められ、全人類の文化的財産と認められてノーベル賞を受賞したのは、ユダヤ人にとっても喜ばしいことだと思います。ユダヤ人も学ばねばならない事が有る、という単純ですが大切な事を知る機会となったのですから。
 先の大戦をまったく総括せずに、朝鮮戦争や東西冷戦を利用して戦後復興を成し遂げた日本人の耳にも、このイムレの言葉は痛烈に響きます。「一億総懺悔(ざんげ)」と呼ばれる全員参加の責任放棄は、今でも日本の根底を動揺させ続けています。今もお元気な年長者の中から、「私は戦争を知っている。私は戦争を体験した。」という発言が時々聞かれます。
しかし、その多くが「無謀な戦争」「米国の物量」「大儀無き戦争」のような、GHQが占領政策で愛用した言葉を借用した解説であったり、無礼な表現ながら「飢餓」と「火事」に代表される自然災害に共通する体験談ばかりのような印象を受けます。大地震や大規模火災、或いはこれから起こる気候変動でも、同規模の火災や飢餓は発生します。
 一兵士として参加した者にとっての戦争と、高級参謀として指導した者にとっての戦争とはまったく違ったものでしょうし、増して、潤沢な軍事費を湯水のように使って戦争商売をして高収入を得た人にとっては、戦争ほど楽しいものは無かったのかも知れません。日本人全員が、あの戦争の全貌を詳細を極めて知り尽くした上で、「戦争責任」や「憲法改正」を語らない限り、議論は沸騰することもなく、子供の麻疹(はしか)のように経過して行くことでしょう。
 東京裁判を認めるか認めないか、この一点でも議論は収拾が付きませんから、その東京裁判が大日本海軍に対して異様に寛容だった理由も、原子爆弾使用の本当の理由も明らかになりません。対米政策や対中国外交に、外交的な原則がまったく見られないのも、あの戦争の全てを日本人が知り尽くしてるという思い込みが消えていないからではないでしょうか。
 戦後、多くの反戦文学作品が書かれましたが、イムレの言う「体験時には分からなかったはずの事実まで、分かっていたように扱っている」手法を用いていたようです。この書き方は、作品の筆者を純粋に不幸で不運な被害者の位置に安住させてくれます。それに加えて、弥生時代以来の「死者を鞭打たない」という日本人の鉄則が混入すると、作品は「やり場の無い怒りと悲しみ」で終わるしか無くなってしまいます。そんな本を何百冊読んでも、後世の者は戦争を理解する事など不可能です。
 『運命ではなく』の文学的価値を決定的なものにするのは、作品の最後に記される或る新聞記者との対話ではないかと思います。偶然に知り合った記者が、「収容所の地獄」を世の中に発表するように主人公の少年に勧めるのですが、この14歳の少年は拒否します。
-------------------------------------------------
「僕は収容所のことはいくらか知っていても、地獄は知らないから。
-------------------------------------------------
 この返事を理解出来ない記者は、重ねて地獄のような体験を発表するように求めます。すると、少年は地獄と収容所の違いを体験から明らかにします。
-------------------------------------------------
「だったら、地獄は退屈なんてできないところだと思います。」と答えた。それが、強制収用所では退屈できたんです。あのアウシュヴィッツでさえ。ある条件のもとにですけど、もちろん」と付け加えた。それを聞くと、彼はちょっと黙ってから、やがて何か気に入らないような口調で、「それで、君はそれを何で説明するつもりなんだい?」と聞いてきたので、僕はちょっと考えてから、「時間です」という答を見つけた。
-------------------------------------------------
 少年は、時間が全てを救済するという宗教的な真理に到達してしまっています。身近な人々が、いとも簡単に死んで行く時間の中で、彼は自分の時間が持続しているという一点に、自分が「今」と「未来」に生きる理由と意味を発見したのかも知れません。この本の『運命ではなく』という題名の後には「時間」という言葉が隠されているに違いない、と思えてなりません。少年は、この絶対的な時間を、強制収容所の中で発見した事を分かりやすく説明します。
-------------------------------------------------
「僕たちの目の前で、すべては時間の進むとおりに起こった。豪華とまでは言えないけど、全体的にまあまあの、清潔でこぎれいなある駅に着いてから、段階的に、じょじょにしか、目の前にあるすべてのことは明らかにならなかった。僕たちがある段階を終え、それを乗り越えると、すぐに次の段階がやってくる。そんなふうにして、最後の段階までいくと、それまでに起こったすべてのことを理解するようになる。
しかも、すべてが理解できるまで、人は何もしないでじっとしているわけでもなく、すぐに新しいことに取りかかり、生き、行動し、動き、新しい段階ごとに新しく要求されるあらゆることをやり遂げようとする。けれども、時間というものがもしなくて、あらゆる知識がすぐさまいっぺんにその場で僕たちに襲いかかったら、たぶん僕たちの頭も心も耐えられなかったかもしれない。……その一方で、時間がかぎりなくある中で、それでも時間をやり過ごさなければならないことは、苦痛だし、不都合なこととも言える。」

-------------------------------------------------
 少年は、自分が持ち合わせている知識を総動員して、自分が発見した「時間」を記者に説明しようとして、収容所で十二年間過ごした人間が体験する時間を計算してみせます。十二年掛ける三六五日掛ける二四時間掛ける六十分掛ける六十秒、という算数を使って「時間」の巨大さを表現します。そして、再びその「時間」が救いとなっているという真理に戻って来ます。
-------------------------------------------------
「…時間が一度に、ひと打ちで彼らの首に襲いかかっていたら、耐えられただろうか。きっと肉体的にも精神的にも耐えられなかっただろう。だから、まさに時間というものが彼らを救いもしたのだ。」
-------------------------------------------------
 遠い昔、エジプトの地で奴隷として苦しめられていたユダヤの民を率いて脱出したモーゼは、その使命を彼に与えた神にシナイの山で出遭ったと言われています。人々に神の命令を伝えても、神の名を告げなければ誰も信じないだろうと考えたモーゼは、顔を伏せたまま神に名のるように懇願します。すると神は「我は、在りて、在る者也」と答えたと『聖書』に記録されています。しかし、どうやらこの表現と日本語の翻訳は不正確なもののようです。
 神が自らを明かしたこの言葉は、人間の言語能力を超える意味を持っているようで、このままだと、「大昔から存在していて、これ以降も永久に存在する者」という意味になってしまいそうですが、実は、私達が「過去」と「未来」に分割してしまった時間には含まれない、純粋な意味での「現在」という永久に私達には実感も認識もされなる不思議な時間の一点に、涸(か)れることのない湧き水のように、常に現れ続ける者、というような意味らしいのです。この解釈は、鈴木大拙という日本の仏教研究者が、来日した米国のキリスト教神学の研究者との対談で聞かされて、大変に感動したというエピソードを、以前ラジオ放送で紹介された時に知ったものです。
 少年は、強制収容所で過ごした苛烈な「時間」が、一時にではなく、分断されることの無い「今」という粒が絶え間無く連続する人生を体験したのでしょう。過ぎ去った「時間」が「今」という一点に凝縮されて落下して来たら、誰も生きてはいられないのです。それが、何者かの裁量であるかのように、順序立てて配列されているから、人は「今」を生き延びて、少し先の未来へと生命を繋(つな)いで行けるというわけです。
彼が収容所で発見した「時間」は、シナイの山でモーゼが出遭った「神」と、実に良く似ているように思えませんか。

冒頭雑談の裏ネタ 1

2005-02-08 23:55:57 | 著書・講演会
■ネタ1 平成16年11月10日国家基本政策委合同審査会
--------------------------------------------------

 小泉首相が「非戦闘地域の定義を問われて、法律上の定義は文書を読めば分かるからと前置きして、
「自衛隊が活動している地域非戦闘地域なんです。」と発言。質問者の民主党の岡田代表は待ってましたとばかりに激高パフォーマンスを開始。怒号の中で、相手を小馬鹿にした表情の小泉首相は、
「特措法というのは、自衛隊が活動する地域非戦闘地域だと決めた法律なんです。」と答弁を繰り返す。審議会場は、抜き打ちテスト実施を宣告された落ちこぼれ学生が満ちる荒れた教室と化す。
 同年11月17日の党首討論会、眦(なまじり)を決した民主党の岡田代表は、先日の答弁の後に新聞記者の取材に対して「(我ながら)良い答弁だったでしょ?」と言い放った小泉首相に一矢報いようと、更なる墓穴を掘った。
 「自衛隊の活動する地域非戦闘地域」と答弁し、剰(あまつさえ)翌日には良い答弁だったと自画自賛した、と再び激高。「戦闘地域になれば、自衛隊は活動しないんです。」と、小泉首相は岡田代表が浴びせ掛ける太刀を受けようともしない。

--------------------------------------------------

<コメント>
 この御二人は「ハ」と「ガ」の違いが分からないまま子供の喧嘩をしているだけなのです。もしも、この違いを知っていたのなら、「私はハと言っているのに、貴方は含む所が有って、わざとガと言ってるんでしょ?」と鋭い小手撃ちを放てば、日本語も分からん野党第一党代表に政権は渡せない、と視聴者を誘導出来たのに、名人の一閃を放てぬまま、だんだん素人が振り回すダンビラから逃げ回るサンピンのような醜態を晒してしまいました。どうやら、この必殺の「ハ」は総理のオリジナルではなさそうです。そして、岡田代表の輝かしき学歴と職歴は、戦後の日本語が急速に弱体化した事を象徴的に暴露してしまったようです。
 止せば良いのに、今年2月2日の衆議院予算委員会に登場したのが、スピーチの中に動詞が出て来る度に「させて頂く」と言わないと気が済まないという、重い病気を持っている鳩山由紀夫議員でした。誰も止めなかったのか、民主党内部の「棒倒し」がいよいよ本格化したのか、鳩山さんはテレビ用教材を引っさげて恥の上塗り、一人相撲、テレビ・カメラばかり気にする棒読み質問をする為に登場しました。大きなパネル画面を色でニ分割して、片や「戦闘地域」でもう半分が「非戦闘地域」だそうです。そこに、大きなステッカーを貼ったり剥がしたりしながら、蜃気楼でしかない小泉首相答弁中の「ガ」を叩き続けました。確かに「ガ」であれば、鳩山さんが得意げにペタペタと張り場所を変えるステッカーが置かれた所は「非戦闘地域」なのですが、「ガ」と言っているのは、日本語が分からない民主党や、同胞が拉致されても四半世紀、朝鮮労働党の友党だった社民党の皆さんぐらいです。怒号と遠吠えしか聞こえてこない国会議事堂の中では、既に日本語は死んでいるのでしょう。それにしても、鳩山さんが汚い物でも持つように張り替えていたステッカーに描かれた迷彩服姿の自衛官三人は、鉄兜を目深に被って目の辺りが黒くなっているイラストでした。政権交代はまだまだ遠そうです。


■ネタ2 2005年1月14日 読売新聞の記事より
--------------------------------------------------

 国際交流基金(小倉和夫理事長)は、海外での日本語教育の重要性を訴える提案書を政府に提出した。水谷修・名古屋外国語大学学長を座長に、上野田鶴子・元東京女子大教授、鈴木孝夫・慶大名誉教授、作家の米原万里さんら9人の有識者を交えて意見交換を重ねてきた。
……日本語を学ぶ人は1970年代、全世界で10万人だったが、93年に150万人を超えた。一昨年には127の国・地域で236万人に膨らんでいる。最も多いのは、高校で履修する第二外国語に日本語が含まれる韓国の89万人。次いで中国(39万人)、オーストラリアでも初等・中等教育機関で日本語を学ぶケースが多い。……中国でも、52%が高等教育機関で習得しているほか、26%が学校教育以外で日本語教育を受けている。増え続ける各国の日本語学習者に対し、日本は有効な支援策を打てていない。情報発信も英語に頼りきりだ。辞書一つを取ってみても、市販の国語辞典は外国人にはなじめないという。例えば、「妻」「奥さん」「女房」「夫人」などをどんなふうに使い分けるのか、用例を挙げて簡潔に説いた辞書が少ない。助詞の「は」と「が」の使い分けも難しい。

--------------------------------------------------

<コメント>
この中国の統計数値は、まったく意味が不明です。党が管理するお手盛り調査でさえも、文盲率の高さに苦悩し、学籍簿に名前が載っている生徒が実質的な在校生とは限らない国です。国内を北京語で統一しようと必死なのに、それは永久に不可能だろうと誰もが思っている国です。北京や上海、或いは旧満州地域、特に大連辺りを歩き回っても中華人民共和国の教育実態は分かりませんし、日本語学習の現状は決して分かりません。歪(いびつ)な好景気の上澄みを掬(すく)って、一割の富裕層でも一億以上になるから有望な市場になる、と叫んでいる経済人と教育を考える人との視点は根本的に違っていなければなりません。


-記事引用-----------------------------------------

 増え続ける各国の日本語学習者に対し、日本は有効な支援策を打てていない。情報発信も英語に頼
りきりだ。辞書一つを取ってみても、市販の国語辞典は外国人にはなじめないという。例えば、「妻」「奥さん」「女房」「夫人」などをどんなふうに使い分けるのか、用例を挙げて簡潔に説い
た辞書が少ない。助詞の「は」と「が」の使い分けも難しい。

--------------------------------------------------

<コメント>
個人的には何の恨みも御座いませんが、この記事を書いた左山政樹記者を、便宜的に相手として質問してみましょう。「仮に、辞書が整った場合、その主要部分をカタカナ表記の外来語が占領しますが、それを善い事と認識しておられますか?」「仮に、左山さんが妻帯者であったら、公私に亘る日常の会話で、自分の伴侶を「妻」「奥さん」「女房」「夫人」等と呼び分けていませんか?貴方はその使い分けを日本人相手に説明し尽くせる自信をお持ちですか?税金を費やして見事な外来語カタカナ辞書を世界中にばら撒いたら、英米諸国への留学生の増加に寄与するだけではないですか?カタカナ英語は、日本の極限られた場所でしか通じない日本の一方言ではないですか?ネイティヴに執着する英語の幼児教育にとって、最大の障害は日本のマスコミと役所に溢れるカタカナ語ではないのですか?」
「前記の如き国会の現状に接して、小泉首相と岡田代表の間に入って「は」と「が」の使い分けを御当人達に納得させられますか?」


-記事引用-----------------------------------------

国際交流基金・日本語事業部の岡真理子部長は「バブル崩壊で日本人が自信を失っていた間にも、海外では日本文化が評価されて、日本語を学びたいという若者が増えている。日本文化、ひいては
日本の理解者を増やすためには、日本語を的確に学んでもらう必要がある」と話している。

--------------------------------------------------

<コメント>
 意地悪く岡部長のコメントを書き換えてみましょう。「バブル崩壊で、日本の政財界人が自信を失って銀行預金の利息を無くし、裏金や闇金、脱税と資金の海外避難に熱中し、国内では意味不明のリストラという外来語を振り回して、最小人数による既得権益の死守を目的に、残虐な馘首(クビ)を合法化している間に、日本の次世代を担う若者が言葉を失ってムカツキ・キレて短絡的な衝動犯罪に走り、若年層だけを狙った音楽CDは、とうとう日本語の片鱗さえも失って、目出度く義務教育の国語教科書から漱石や龍之介が駆逐され、日本語を的確に教えようという者も、それを学びたいと思う者もいなくなって、駅前留学の怪しげな英語塾は大繁盛です。日本文化、ひいては日本人の復活をそろそろ誰かが考えねばならないのではないでしょうかねえ」
 アニメ・ファンが増えたのを、日本文化の価値が広く認められたと勘違いするのは危険です。既にアニメーションのセル原画の書き手は東アジア地域に散在しています。そして、日本製アニメの原典が、欧州やチャイナである事は間も無く見抜かれてしまいます。


■ネタ3 「1月25日、読売新聞の紙面より」
--------------------------------------------------

常用漢字、抜本見直し 「手書き重要」強調 文化審報告書案
国語に関するさまざまな問題点を検討してきた文部科学相の諮問機関・文化審議会の国語分科会は24日、パソコンなどの急速な普及で、国民が目にする漢字が増えていることを受け、常用漢字表を含む漢字政策の抜本的な見直しが必要だとする報告書案をまとめた。

--------------------------------------------------

<コメント>
 御役人と医者の共通点は、絶対に過去の過失と責任を認めないという一点です。「国民が目にする漢字が増えている」などという一節には惚れ惚れしてしまいます。漢字が増えたのではなくて、馬鹿馬鹿しい漢字制限の罪深さが文化の歴史に断罪されているのです。時代の変化を象徴するパソコンに、全ての責任を被せるという思い付きは名人級です。日本が二千年掛けて導入した漢字は30万以上有るだろうと言われています。大陸でも熱心に海賊版を作って愛用している日本製の諸橋大漢和辞典は5万字を徹底的に解説しています。 伝説によると、諸橋一門が呼び集められてこの世紀の大編集作業を開始した時、漢字の「一」を担当した御弟子さんに、参考図書として提示されたのはスチール本棚三台分の書籍だったとか。敗戦後、軍事官僚が撫で斬りにされる中で、必死に生き残ろうと努力していた文官達の群れの中に文部官僚が居ました。漢字全廃、全文横書き(我が憲法も原文は英文横書き)、表音文字採用等々の理不尽な占領軍指令に対して、漢字制限と「新かな遣い」でお茶を濁した文部官僚と御用学者の皆様の努力が実って、現在の奇怪な日本語文化が出現しました。千年前に仮名遣いを体系化した天才藤原定家の業績を相対化して手直しする資格を持っている方がいらっしゃったのかどうか、後世に生を受けた我々には分かりません。ただ、漢字制限の騒動の最中に、その原案をリークした人が居て、当時の佐藤栄作首相に、「佐藤の藤の字が削除される」とう重大機密を告げたところ、怒気を含んだ「担当者を呼べ!」という首相の怒鳴り声が官邸に響いたという微笑ましいエピソードが残っています。首相や有力者に縁故の無かった日本人の多くは、自分の名前を書くのに、今も法務省の御機嫌を伺わねばなりません。一つの盲点を衝いておけば、全ての高学歴の日本人が「振り仮名文化」の優秀性をまったく理解していないという事実を指摘しませう。彼らは振り仮名は、幼児か愚者の道具と思っているのです。嘗ての日本では、どんな大文学者でも、幼少の頃は誰でも粗雑な印刷の振り仮名を頼りに「日本語」を覚えたのです。自分が苦しんだ強度の近眼は読み辛い「振り仮名」が原因だと信じ込んでいた山本有三さんは、名作『路傍の石』に盛り込んだヒューマニズムの衣を着けて、子供の目の健康を守るという論陣を張って、振り仮名撲滅に晩年の情熱を注ぎました。彼は、ジェット・プリンターも文字の大きさを自在に変えられる日本製ワード・プロセッサーも知らない時代の方です。21世紀の日本語に責任を負っている御役人の大切な備忘録には、山本先生の主張が今でも麗々しく書かれているのです。彼らは、「世界に冠たる便利な振り仮名を使うな。」と命じますし、漢字好きの子供を見つけると、「お上が折角制限したのだから、余計に覚えるな。」と命じます。文部省が気楽に発する「指導要領」が最低限度を示すのか、最高限度を示すのかが急に問題化したのも、日本語の文化的危機に対応した現象です。文部省は、一度も日本語に対する責任を負った事は有りません。筆文字を規範とする明朝体で教科書を印刷しながら、教室から筆を駆逐して裕福な家庭と物好きな親の子供だけが町の習字教室に通えば良いと決めたのは誰なのでしょう?今更、「手書き」を重視しようと言っても、その筆記具は何を指しているのか、さっぱり分かりません。衰退し切った筆職人の組合よりは、高級万年筆の輸入業者の方が、少しは政治献金や天下り先の点で魅力的かも知れません。それとも、薄利多売で頑張っているボールペン業界の方が頼りになりますかな?


■ネタ4 「1月25日の読売新聞記事より」
--------------------------------------------------

韓国「ソウル」中国語表記変更 漢城→首爾 中国は同調せず
従来の「漢城(中国語読みでハンチョン)」から、韓国語音に近い「首爾(同ショウアル)」に変更したところ、ずっと「漢城」を使用してきた中国がこれに応じる気配を見せず、中韓の足並みの乱れが露呈している。
……ロンドンやモスクワは中国語で、「倫敦(ルントゥン)」「莫斯科(モースーコー)」と現地音に沿って表記している。……「ソウル」は、韓国語では、ハングルのみで表記され、漢字はない。

--------------------------------------------------

<コメント>
中韓の間に亀裂が入った事を珍しいことのように書いていますが、「反日」以外では常に仲が悪いのが中韓です。満洲の女真族がチャイナを支配した清朝時代など、本家の中華は滅んで、我こそが中華の後継者だと、半島の論語読みや官僚は勇み立ちました。残念ながら、その結果が国内での汚職大流行と、大日本帝国による韓国併合でした。現在の朝鮮民主主義人民共和国(ロシア語からの直訳)の食糧不足は別として、半島に森林が見られない遠因は、フビライによる大規模日本遠征(元寇)計画に有ります。半島中の森林を伐採して輸送船団を急造したのです。チャイナの半分を草原にしようとしたフビライですから、半島が禿山と岩山になっても心が痛む筈は有りません。嗚呼!韓国政府が、本当は馴染んでいた筈の日本の「振り仮名文化」を独立後にも流用していたら、表記は「漢城」で読み仮名(ハングル)は「セオウル」なのだ、と涼しい顔をしていられたのです。反日の勢いで英語ブームに沸く韓国ですから、振り仮名に英語表記の「Seoul」を直接当ててしまえば良いでしょう。
 漢字として東アジアに広まったこの扱い難い表意文字体系は、現在の中華人民共和国の政府とも人民とも一切の関係は有りません。バグダッドで恥を晒したサダム・フセインさんがバビロニアの「楔形文字」とは何の縁も所縁(ゆかり)も無いように、我々が縄文時代の線形文様と無関係であるように、「漢字」と一括りにされる文字群は、嫌になる程の大変化を繰り返して来ました。中華四千年だの五千年だのと安売りしてますが、甲骨文字の正確な読み方を知っている学者は居ませんし、孔子様の御弟子達が書き残したオリジナルの文字を扱える人も居ません。秦の始皇帝以前は、同意異字が氾濫していて、放っておけば共食いして自滅した筈でしたが、偉大なる合理主義者(世界初の近代主義者かも知れません)の始皇帝が強引に文字を統一したばかりに、生き残る事が出来ました。「漢字」は生まれつき「絵画」なのです。ボディ・ランゲージ(ジェスチャー)が文化的障壁を破れないのと同様に、異なる習慣の者には意味が通じないのです。例えば、日本人は咄嗟に「自分」を表現しようとして自分の鼻を指差しますが、その動作は異文化の目には「鼻」の意味でしかないですし、「違います。違います。」と慌てて否定する時に鼻先で掌を左右に振れば、話し相手は自分の口臭を心配します。漢字が絵画的に表現する、動作と道具の組み合わせは、時と場所を変えた瞬間に「意味」を失うのです。ですから、大陸では只管(ひたすら)書き写し、暗記し続けたのです。日本は、こうした意味の密林から脱出する為に、仮名文字という素敵な贈り物を後世の我々に残してくれました。そして、二つを合体させたのが「振り仮名」文化でした。我々は今でも、漢字を書いて「振り仮名」で読み発音しているのではないですか?



板橋と云へばアイヌ

2005-02-07 19:12:02 | 歴史
2005年2月5日、板橋区立郷土資料館でアイヌ文化振興・研究推進機構が主催した講演会を聴きに行った。企画展「樺太アイヌ民族誌――工芸に見る技と匠」の開始に合わせて、国立民族博物館教授の大塚和義先生が貴重なスライドを上映しながら樺太アイヌ文化を紹介し、現在も解決していない問題まで、一時間半の持ち時間いっぱい語り尽くした。参加者の中には、先生が支援活動をしている樺太アイヌの方も数人いらっしゃり、皆で先生の熱弁に聴き入った。
 残念ながら、北シベリアに広まっていた諸言語は「抱合語」で、膠着語の日本語とは種類が違うから、「膠着語回廊」には含まれない。回廊の北に広まるアイヌ語を含む言葉は、最も近しい隣人である。しかし、文字を獲得する努力を重ねた日本語の先人達の業績を高く評価する余り、それが行き過ぎると、「無文字文化」に対する恥ずべき侮蔑心が産まれてしまうので、異文化理解の重要性が増している現在、日本近代史の汚点となった『土人保護法』を制定した事実を決して忘れてはならない。野蛮なアイヌに「文字=日本語」を教える事を善行だと独断した明治という時代の荒っぽさ、国境を画定しようと苦闘しながら、際限も無く領土を拡張した時代を、冷静に学ぶのは今でも難しいのである。
 講演の最後に、短いながら質疑応答の時間が持たれると、早速、ロシアの横暴さを言い立てる元気な御老人が熱弁を振るって、大塚先生を閉口させてしまった。先生の立場では、日本もロシアも米国も、貪欲に資源を収奪する目的で支配領域を拡大し続けただけの話で、近代国家というレバイアサン(化け物)同士の土地の奪い合いは、現地に暮らす人々にとってはどちらの旗が立とうと、迷惑なだけなのだが、御老人は、「間宮林蔵が海峡を見つけたんだから、樺太は絶対に日本の領土だ。」と譲らない。なかなかの勉強家らしく、「ロシアは、シベリアを侵略していた時代でも、地球儀も正確な世界地図さえ持っていなかった。」と、ロシアの侵略性を責め立てたのだった。
 奈良や京都を中心とした大和朝廷や、鎌倉・江戸を中心とした武家政権とは無関係に存在した北の交易ネットワーク。大塚先生は、そのネットワークの中で重要な位置を占めていた樺太アイヌの文化をこよなく愛し、彼らを尊敬する言葉を熱心に伝えようとしていた。そして、返す刀で現在日本も権益を求めて資金援助しているサハリンの天然ガス田開発事業が、大規模な自然破壊を続けている現状をスライドを使って話しておられた。タイガやツンドラの大地は豊かな生命の揺り籠、ガス田開発の為に地面を剥き出しにして道や建物を造ると、鮭や鱒が激減し野生動物も姿を消してしまう。自然と共存している原住民は、伝統的な生活の基盤を奪われて、貴重な文化を根こそぎにされてしまう。
 今も昔も、ロシアと日本は表面上は敵対したり友好関係を結んだりしつつも、実質的には北の自然と文化を奪い続けている事には何の変わりもないのである。間宮海峡の名前にしたところで、ロシアはしっかり別の歴史を編み上げて、自国の地図には別の名称を付けている。どちらも、樺太アイヌの人々には無縁の名称である。

■蝦夷錦(えぞにしき)の話

 驚くべき北方交易ネットワークの全貌が鮮やかに見えたのは、大塚先生が「蝦夷錦」の話をして下さった時だった。今も京都の町を練り歩く「山鉾巡行」の山車(だし)を美しく飾っている「蝦夷錦」は、そもそも長江流域の特産品である。それなのに、日本人が「蝦夷」の名を冠して珍重していたのは何故なのか?
 清朝を建てたのは、満洲の女真族だった。彼らは万里の長城の北に広がる自分達の故地を聖地として漢民族の移住を厳しく制限し、北京を拠点としてチャイナ全土を支配した後も、快適な避暑地として各種の伝染病が蔓延する不快な土地を離れて夏を過ごす習慣を守った。従って、全土から吸い上げられた全ての物産は一旦北京に集積された後に、続々と満洲の地に送られるという物流の経路が確立していた。上質の絹糸は山深い四川省で生産され、長江を下って織物地帯で金糸銀糸を織り込んだ最上級の錦が完成し、北京の皇帝に献上されてから、毎年官僚群に下賜されたと言う。
 大塚先生が引いた分かり易い例が、最近発覚した大阪府の職員に毎年ばら撒かれたスーツ仕立て費用の話だった。使い切れない分は横流しして小遣い稼ぎをしていたこの事件と同じで、清朝は更に大規模な横流しが大流行したらしい。毎年、最上級の錦織の衣服が下賜されると、不要な分を貴重な物資と交換しようと北へと送られた。満洲の森林地帯を故地とする女真族は、黒貂(クロテン)の毛皮を何よりも珍重し、最高級品は皇帝が愛用したから、その特産地としてアムール川流域から樺太は常に注目されていた。
 大塚先生の話では、元朝のフビライ汗が樺太を三回攻めた理由は、同じく黒貂の毛皮が欲しかったからだったらしい。
 アムール川を遡上する鮭と鱒はハルビンに集積されて北京に送られていたが、同じ魚が樺太アイヌにとっても貴重な食料であり、その魚皮は衣服や靴の材料となる。樺太アイヌから、冬季は歩いて渡れる間宮海峡の向かい側、沿海州のオロチ族、アムール川河口のウリチ族、アムール中流域のナナイ族までを結ぶ、海と河を利用した長大なネット・ワーク。彼らが一連の交易路を結び付けて、北京に集まる品々を北海道を経由して日本本土に送り込んだ事になる。特に、ナナイ族の木工工芸品は珍重され、その技術は樺太アイヌにまで伝わっていた。それは北海道アイヌの木工技術を遥かに凌駕していたと言う。ナナイ族と言えば、黒澤明監督が現地まで出掛けて完成してアカデミー賞を受賞した『デルス・ウザーラ』の主人公である。映画では、森に暮らす知恵と狩猟の腕前が強調されていたが、彼らの木工技術は特筆すべきセンスと繊細さを持っている。
 北海道沿岸から樺太で獲れるラッコの毛皮、海豹(アザラシ)の毛皮と脂、昆布、干し海鼠(ナマコ)、はアムール流域に送られ、黒貂の毛皮と共に北京へと送られた。昆布や海鼠は満漢全席には欠かせない食材となった。現在ロシア領のウラジオストックは、昔は『海鼠が丘』と呼ばれており、『デルス・ウザーラ』の原作を書き残した探検家で文化人類学のアルセーニエフも、「海鼠漁の絶好の漁場だ」と記録している。これらの産品と交換されたのが、鉄製品と錦織製品だった。北海道に送られた錦は、日本からの刀、タバコ、木綿製品等と交換され、日本各地の資産家が高値で買い取った。その一部が、今も京都の山鉾の山車を飾っているのである。

■日本に対する新たな視点

 長江流域の特産品が、北から到来したために、日本人は「蝦夷錦」と呼んだ。長崎貿易に目を奪われると、日本の周辺に広がっていた交易路の実態を見失うのである。西ばかりでなく、北へも開かれていた日本の経済的な位置、それが明治近代の最大の難問となった対露西亜政策の源でもあった。北海道から樺太、司馬遼太郎が「オホーツク街道」と呼んだ千島列島からカムチャツカへと到る広大な交易地域は、対ロシア戦略によって日露両政府間で分け合われて二国の国境地帯となって分割された。それは同地域の土着文化を根絶やしにして、ロシア文化と日本文化とに色分けすることを意味していた。
 全島を日本が領有した後、千島列島と交換された樺太島は、ニ分割されてから日本の敗戦に乗じたソ連によって占領される。1946年からの二年間、将来において日本政府が「アイヌの居留地=日本領」と主張するのを恐れたソ連は、樺太アイヌを強制送還する。北海道アイヌとは別系統の彼らは、札幌近郊に居留地を与えられて、海と密接に結びついた自分達の文化と切り離されて暮らさざるを得なくなった。こうして、樺太アイヌの文化は衰弱しその言語は絶滅したのである。
 現在、天然ガス田開発が進む樺太サハリンでは、全島人口70万人に対して僅か4000名の少数民族が、自然環境破壊に反対しているのだが、ロシア・日本・中国の権益を求める動きに対しては、無力である。大塚先生は言う。「ほんの十数年分の地下資源、環境に優しいと宣伝される天然ガスを得るために、やっと生き残っている彼らの文化を消滅させて良いのだろうか。」
 ロシアとの国境が未だに定まらないまま、今も日本の外交は右往左往している。島を二つ返して貰っても仕方が無い。四つ帰れば明治維新以来の懸案が解決されるのか?アイヌ文化を公教育の中でどう扱うべきか、日本語や日本文化とは何なのか?南の琉球語はどうすれば良いのか?少しは前科を悔いて「アイヌ文化振興法」を作った日本政府には、北海道の周辺に広がっているアイヌ文化圏を見通す視点が欠けている。
 NHKの語学教育番組の中に、やっと「日本語」の名を冠した講座が現れているのだが、未だに「アイヌ語」も「琉球語」も現れない。勿論、各地の方言は自然に滅亡するのに任されている。東に日本に散らばっているアイヌ語を語源とする地名、日本の伝統文化の深層に潜む精神文化の原型を伝えるアイヌの自然崇拝文化の重要性が再認識されるようになっても、肝腎のアイヌ人とアイヌ語が消滅してしまう。
 近畿に発した日本の政治権力が、東に向かって拡大し、蝦夷という地名が北へ北へと押し上げられ、北海道を呑み込んだ時点で死語となったが、名前が無くなっても歴史は消えない。輝かしい明治維新には戊辰戦争という陰の歴史が有る。朝敵とされた人々は、徹底的に弾圧され、逆賊となって靖国神社にも祭られてはいない。
「白河以北、一山百文」と言われて、問答無用で天皇の財産として収容された東日本の山々は、今でも広大な国有林となって盛んに杉の花粉を吹き上げている。戦後の植林運動の後始末が出来ない赤字国債に押し潰されている日本の姿がここに露となっている。決して消えない歴史の遺産を正負を区別せずに学ぶことが重要なのだと改めて考えた一日であった。