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李登輝さん靖国参拝! 其の四

2007-06-07 22:35:44 | 靖国神社

来日している台湾の李登輝前総統(84)は7日午前10時ごろ、東京・九段の靖国神社に参拝した。関係者の話によると、本殿に上がり黙祷(もくとう)したという。李氏の兄は第2次大戦中、日本が植民地統治していた台湾から日本軍兵士として出征、戦死して、靖国神社にまつられている。李氏は「62年前に別れた兄に頭を下げる個人的行為だ」と説明した。

■「東京・九段」と戦争時代を思い出す枕詞を忘れないのは毎日新聞と同じです。「植民地統治」という重要な歴史用語を忘れないのは朝日新聞の特徴でしょう。李登輝さん御自身は、後藤新平を筆頭に大日本帝国による台湾杜内を絶賛し、感謝の意も表していることを、朝日新聞は書きませんなあ。


靖国神社には、李氏の実兄、故李登欽氏が「岩里武則」の日本名でまつられている。登欽氏は海軍兵士としてフィリピンで戦死したとされる。参拝時間は約40分。参拝形式について、神社側は「個人の参拝なので説明は控えたい」という。李氏はキリスト教徒。神社訪問直前、記者団に「政治的、歴史的(行為)と考えないでほしい」「父が兄の戦死を信じていなかったため、実家には位牌(いはい)もなく、(追悼も)何もしてこなかった」と語った。

■さすがは天下の大新聞朝日です。李登輝さんがキリスト教徒だとバラして?しまいましたなあ。旧社会党の委員長を務めたパチンコ文化人の土井たか子さんもキリスト教徒ですね。それはともかく、「~の日本名でまつられている」という一説は泣かせますなあ。漢字撲滅運動の先頭を走っている矜持(きょうじ)が輝いていますし、「台湾人は怒っているぞ!」というメッセージが香り立つ絶妙の名人芸!惚れ惚れしまうぞ。朝日新聞はくでなくて行けません。参拝時間もしっかり計っていますが、拍手を打ったかどうかは、残念ながら靖国神社が口を割らないので分からなかったようです。でも、「李氏はキリスト教徒」の一言で、神道式の参拝ではなかった可能性を極限まで追求しているかのようです。でも、肉親の死を悼む心情はちゃんと書いていますね。


李氏は副総統時代の85年に東京を訪問。今回の来日に際して「22年前は(兄がまつられていることを)知らなかった。今回行かないのは人情として忍びない」と述べていた。中国の反応については「問題ない」との認識を示していた。 「台湾は中国の一部」とする中国は、「日本植民地経験を持つ台湾は中国とは違う」という李氏の主張を「独立派の証し」と警戒。総統退任後の来日自体も「台湾独立をにらんだ動き」と一貫して批判してきた。

■限られた字数に、複雑な歴史を畳み込んでいるので並の読者には理解不能ではないでしょうか?朝日新聞が最も気に掛けている「中国の反応」について「問題ない」の言質を取っておけば、後で北京が激怒した時に、「ほら見たことか」と言えそうですなあ。「独立」が2回も出て来る段落は、なかなか濃い!


李氏は5月30日に「私人としての学術文化交流」を目的として来日。6日まで「日本文化を深く知るため」、東北地方の「奥の細道」ゆかりの地を回っていた。総統退任後は01年4月と04年12月に来日している。
2007年 朝日com

■日本政府が許可した入国の目的は「私人」と「学術文化交流」だと念を押すのは、北京政府向けのメッセージかも知れませんが、日本の読者に向かってのちょっとした工夫でしょう。「総統退任」と書けば、李登輝さんが過去の人という印象が強まりますし、6年も前に1回だけ訪問しただけだから、大した交流は無いというイメージに落ち着きそうです。最後は東京新聞です。


来日中の李登輝・台湾前総統(84)は七日午前、日本軍人として第二次世界大戦で戦没した実兄が祭られている靖国神社(東京都千代田区)を参拝した。A級戦犯も祭られる靖国神社について中国は、大陸侵略を正当化するものとして批判してきており、中国が「台湾独立派の代表」とみなす李氏の参拝は、日中間の新たな火種になる可能性をはらんでいる。

■「祀」を避けて意味の上でも間違っている「祭」を使って見せているのは強烈なメッセージを感じますなあ。東京新聞は漢字撲滅運動には同調しかけれど、「常用漢字」の範囲内で紙面を作っているという主張が聞こえて来ます。靖国神社が戊辰戦争後に創建された事を知っているのに、「A級戦犯」「大陸侵略」の歴史用語を後に続けて「独立派の代表」と書かねば落ち着かないようです。「新たな火種」という見慣れた表現も、東京新聞だけが使っているようです。


李氏は午前十時すぎに靖国神社に到着、本殿に昇殿し参拝した。境内には報道陣や日台の関係者ら計百人以上が集まったが、李氏は参拝後の質問などには答えなかった。参拝に先立って都内のホテルで記者会見した李氏は「兄に会いに来ることは私にとって当然であり個人的なこと。政治的なものではない」と涙ながらに心情を語った。李氏の実兄、李登欽氏は日本海軍の軍人として大戦中の一九四五年、フィリピン戦線で没し「岩里武則」の日本名で靖国神社に祭られている。李氏は靖国参拝を希望、一方、靖国側も昨年訪台した南部利昭宮司が、李氏に面会し参拝を直接要請したという経緯がある。

■もしかすると、昨年訪台した南部宮司が李登輝さんの兄上の件を伝えたのかも知れません。東京新聞は「参拝」について臨場感溢れる書き方をしてくれています。そして、「~の日本名で靖国神社に祭られている」と、朝日新聞と同じ書き方ですが、どこまでも常用漢字での表記に拘る姿勢が光ります!靖国神社で毎日「お祭り」をしいてるわけではないので、うっかり東京見物に来た人ががっかりしては行けませんから、御注意申し上げます。靖国神社は英霊を「祀」る宗教施設です。


先月三十日、李氏は日本に向かう機中で「最後の日本訪問になるかもしれない。六十年以上も兄貴に会いに行かないのは人情として弟として忍びない」と話していた。関係者によると当初、李氏を招いた国際教養大学の中嶋嶺雄学長が参拝に難色を示したが、最終的には了承したという。
2007年6月7日 東京新聞

■中嶋嶺雄さんまでが反対した!というのはスクープかも知れませんが、中嶋氏のスタンスから言って「難色」という表現は不穏当だ!とクレームが来るかも知れませんなあ。東京新聞の書き方では、中嶋氏が「北京が怒ると困るから…」と言ったかのような印象を受けますぞ。日本の大学、文科省から補助金を貰っている立場上、政府の外務省が困るような「参拝」を後押しするわけにも行かないし、かと言って断固として反対する理由も無いからこそ、「難色」を示したはずです。それも「関係者」からの伝聞記事ですから、これから何事かが起こるかも知れませんなあ。

■こうして並べてみると、李登輝さんの動きに託(かこつ)けて、奥歯に物が挟まったような表現で本音を隠しているのが分かります。国論が二分されている上に、憲法改正問題でその境界線上の大多数が動揺している時期でもありますから、読者に逃げられる事が何よりも心配な新聞社としては、「李登輝のバカ野郎!」とも書けませんし、「李登輝殿ありがとう」とういのもワザとらしい上に情けないでしょうから、客観報道の安全圏に逃げ込んで報道している姿勢がよく分かったような次第です。旅限無として一言、「李登輝さん、良かったですね。立派なお姿でしたよ」オシマイ

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李登輝さん靖国参拝! 其の参

2007-06-07 22:35:10 | 靖国神社

来日中の台湾の李登輝前総統(84)は7日、東京・九段の靖国神社を参拝した。靖国神社には旧日本軍人としてフィリピンで戦死した2歳上の兄・李登欽氏が祭られており、李氏は以前から参拝を希望していた。中国は李氏を「台湾独立分子」と非難し、総統退任後初の東京訪問に抗議していた。8日にドイツで安倍晋三首相と胡錦濤国家主席による日中首脳会談が予定されており、その直前の靖国参拝によって中国は日本への反発姿勢を強めるとみられる。

■サミット会場での「日中首脳会談」を、すかさずリンクさせ、李登欽氏の日本名を出さないのは毎日新聞らしさなのでしょう。それに引き換え、「台湾独立分子」という北京政府の専門用語をしっかりと書いているところも、流石(さすが)ですなあ。


参拝前、李氏は「62年前に(台湾南部の)高雄で兄と別れて以来、私の家には遺髪も遺骨も位牌(いはい)もない。家族の一人として兄への尊敬の気持ちから参拝しなければならない」と説明。「(参拝は)全く個人的な事情であり、政治的にも歴史的にも何も考えないでほしい」と強調した。参拝後、「62年ぶりに兄に会えて涙が出ます」と報道陣に語った。

■「個人的な事情」と「強調した」と、しつこく丁寧に書いているのも毎日新聞らしさかも知れません。


高齢な李氏は周囲に「最後の訪日となるかもしれない」と漏らしていた。また、「中国が靖国問題での批判の矛先を私に向けるのはおかしい」などとも述べていた。李氏は小泉純一郎首相(当時)の靖国神社参拝について雑誌のインタビューに「多くの若者たちが国のために命をささげたにもかかわらず、この国のトップがそれに目を向けないのは大きな問題だ」などと述べ、参拝を支持する姿勢を明確にしていた。

■「最後の訪日」という発言を、そのままの意味に取ろうとしているようですが、『奥の細道』ツアーはまだ終わらない!と李登輝さんが言っているのですから、これは「もう来るな!」という意図を感じる書き方でしょうなあ。


今年4月に訪日した中国の温家宝首相は「台湾」と「靖国」の二つの問題で、日本政府にクギを刺していた。李氏が訪日した5月30日、中国国務院台湾事務弁公室の李維一報道官は「台湾独立分子に活動の舞台を提供しないことを希望する」と日本をけん制していた。靖国神社へは05年4月、李氏を精神的指導者とする台湾政党「台湾団結連盟」の蘇進強主席(当時)が所属議員とともに参拝している。
6月7日 毎日新聞

■一体、何しに来たんだ?と訪日の意味自体を疑う論評が出されて、「氷を溶かす旅」の感動もあっと言う間に消えたというのに、毎日新聞は温家宝さんの訪日が、非常に大きなイベントだったことにしたいようです。「クギを刺していた」などと、朝貢国みたいな書きぶりです。こんな表現を続けると読者はますます減るのではないでしょうか?文面から「失礼だ!」という独立国として、当然、持つべき感覚が読み取れないのですから、これは北京の御威光を怖れる筆です。日本国内での販売競争で苦戦しているのなら、中国語版の販売に力を入れた方が良いではないでしょうか?少しは売れるかも?でも、発行部数が激減している『人民日報』との抱き合わせ商売はお奨めできません。


中国政府は台湾の李登輝前総統が7日、靖国参拝をしたことで、日本政府に反発するとみられる。だが、中国にとって李氏の靖国参拝は日本の政治家の参拝とは意味合いが異なる。むしろ、温首相の4月の訪日で改善ムードの日中関係を維持したいのが本音。中国側は感情は刺激されるものの、具体的な措置は取らないとみられる。
6月7日 毎日新聞

■北京政府は大人の判断をしてくれるから安心だ、という意味にも取れますが、今の中国共産党に毎日新聞が言う「具体的な措置」とは何でしょう?一党独裁体制がひっくり返る危険を覚悟して、若者を動員して「反日暴動」を再現させるとでも言うのでしょうか?この天安門事件の記念日の直後に?「中国側の感情」などという正体不明の枯れ尾花を実体のように書いていては、とても国際面の編集は出来ないでしょう。では、次に大御所の登場です。

李登輝さん靖国参拝! 其の弐

2007-06-07 22:34:42 | 靖国神社

来日中の台湾の李登輝前総統は、7日午前、亡兄、李登欽氏が「岩里武則」の日本名で祭られる靖国神社を初参拝する。日本当局も6日午後、確認した。参拝は政治を排した「肉親との再会を果たす」ための私人としての訪問で、境内で宗教行為に当たる柏手(かしわで)は打たず、国際的な慣例に沿って黙祷(もくとう)をささげるとみられる。李氏は訪日する機中で、「22年前の訪日で(靖国に祭られる)兄のことを知らなかった。東京に来て会いに行かないのは、人情としても、弟としても、忍びない」と話していた。

■読売新聞では丸カッコに入れた日本名を産経新聞はかぎカッコで表記しています。どちらも李登輝さんの日本名「岩里武則」は紹介していませんから、何も知らない日本人がテレビやラジオのニュースで、初めて李登輝さんの流暢な日本語を聴いたらびっくりするのではないでしょうか?「22年前の訪日で兄のことを知らなかった」のに、どうして今は知っているのか?靖国神社に祀られている事を誰が調べて伝えたのか?その経緯が不明のままです。


一方、李氏は6日、秋田市内の国際教養大学(中嶋嶺雄学長)で、「日本の教育と台湾-私が歩んだ道」をテーマに日本国内では2度目となる講演を行った。原稿は、昨年9月に計画していた訪日に向けて用意されたもので、李氏は「高い精神と美を尊ぶ心の混合体こそが日本人の生活であり、日本文化そのものである」と述べ、会場を埋め尽くした400人近い学生らに自国文化に誇りを持つよう呼びかけた。

■「2度目となる講演」というのも奇妙な表現のように思えます。2001年12月に、「日本李登輝友の会」の設立総会が東京のホテルオークラで開かれた際に、李登輝さんは講演をしていますが、インターネットを通じてのものでした。その後、2003年12月にも中央大学の学生が主催したインターネット講演会で講演しています。登壇して肉声で語ったことは無いはずですから、インターネット講演を含めて数えているのなら3回目になるのではないでしょうか?更に、李登輝さんの講演会と言えば、2002年10月の大事件に触れないのは如何なものか?

■当時、慶應義塾大学の学術サークル「経済新人会」からの招待を受けていた李登輝さんは、慶應大の学園祭の「三田祭」で講演する予定とされました。ところが、11月に日本政府は李登輝さんに対するビザの発給を拒んだのです。予定されていた講演の原稿は11月19日付けの産経新聞に掲載されたのでした。題名は『日本人の精神』ビザ発給拒否の本当の理由は闇の中ですが、北京政府からの圧力に日本政府が屈した構図は誰の目からも明らかでしょうなあ。


一方、李氏は今月2日から、東北4県で松尾芭蕉の足跡をたどる旅を続けてきたが、6日は最後の訪問地となる秋田県にかほ市内の蚶満(かんまん)寺を訪問した。李氏は夕方の記者会見で5日間の探訪を振り返り、「回ったのは新幹線や自動車で、ごく限られた場所。道なき道を歩いた芭蕉の苦労をもっと知りたかった」と話した。李氏はこれまで、探訪後に本を書く考えを示してきたが、「『奥の細道』はまだ半分ぐらい残されている。旅は終わりません。まだ何も書く資格はありません」と将来の再訪に意欲を示した。

■産経新聞は訪日の目的だった芭蕉の『奥の細道』を辿る旅について、他のメディアよりも詳しくトレースしています。警備の問題もあるでしょうが、風景の良さそう所を歩いて欲しかったですなあ。


李氏は同日夕、空路で東京に戻り、9日までの滞在中、東アジアにおける国際政治情勢を学術的見地から分析する講演のほか、日本外国特派員協会(東京・有楽町)での記者会見などを予定している。6月7日 産経新聞

■夕方のニュースによりますと、講演の中で「中国に対抗できる日本になれ!」と日本を激励して下さったそうです。どちら側の配慮かは分かりませんが、わざわざ安倍首相の外遊中に来なくても良さそうなものです。まあ、安倍総理が日本に居たら、李登輝さんと会うのか会わないのかで騒動になり、靖国神社に案内するのかしないのか、これも問題になったでしょうなあ。あいまい外交戦術というのは、何とも面倒臭いものです。大部分のマスメディアは褒めているほうですが、そんな事で誤魔化せるほど外交は甘くはありませんぞ!靖国参拝と経済交流を天秤に掛けているのは北京政府ではなく、日本の政府ですからなあ。次は毎日新聞の記事です。

李登輝さん靖国参拝! 其の壱

2007-06-07 22:34:09 | 靖国神社
■本来、犯罪者でもない人物が日本を訪れて、何処に行こうが何の問題も無いのですが、その人物が台湾の李登輝さんで、行き先が靖国神社だと、何故か日本のメディアは大きく取り上げます。その理由は簡単で、北京政府が怒るからです。従って、多くのメディアが注目しているのは北京政府の態度だという事になります。更に、それは何故かと考えると、さっぱりわけが分かりません。この騒ぎ方は異常です。何でも横並び、たまに目立とうとすると高校生ゴルファーを試合中に盗聴しようとしたり、大会会場のゴルフ場の上空をヘリコプターで飛び回るくらいの事では、とてもジャーナリズムなどとは言えないでしょうなあ。
 
■折角の機会なので、一体、日本のメディアは何を伝えたがっているのかを検証する意味で、新聞各紙を並べて読み比べてみようと思います。


台湾メディアなどによると、台湾の李登輝前総統は7日午前、東京都千代田区の靖国神社を参拝した。中国3大ポータルサイトの「新浪網」では掲示板を開設したところ、午後1時30分の時点で708本の書き込みが寄せられた。大半が参拝に批判的な意見を表明している。中には「李氏は漢奸(民族の裏切り者)だ」「李氏は必ず地獄に落ちる」「李氏は日本人にへつらっている」など強い非難もみられる。また「王毅駐日大使を召還すべきだ」「中国政府は李氏を国家反逆罪で指名手配したらどうか」など中国政府に強い対応を求める声もある。
6月7日 サーチナ・中国情報局

■本当に個人的な意見を書き込んでいるのかどうか、判断が難しいのがチャイナのややこしさですが、科学的社会主義を半世紀も教え込んで来たのに「地獄に落ちる」と怒りを表現する声があるのは面白い。先日も、非科学的なトンデモ話を信じている人民が非常に多いとの発表があったところですから、民度は知れたものと言えそうです。その点は、予言だの霊視だの、奇怪なテレビ番組が無くならない日本も似たようなものかも知れませんが……。「国家反逆罪」という恐ろしげな極刑を意味する言葉が飛び出して来ることの方がお国柄を表わしているでしょう。


来日中の李登輝・前台湾総統(84)が7日午前10時過ぎ、東京・九段の靖国神社を参拝した。同神社には第二次大戦中、日本軍人としてフィリピンで戦死した実兄、李登欽(日本名・岩里武則)氏がまつられており、参拝を終えた李氏は記者団に感想を聞かれ、「62年ぶりに兄に会えて、涙が出ます」と話した。中国政府は李氏を「台湾独立派の代表」とみなしており、反発を強めるものとみられる。参拝には、曽文恵夫人と作家の三浦朱門、曽野綾子夫妻らが同行した。参拝前に都内のホテルで記者会見した李氏は、「(兄と私は)二人兄弟で仲が良かったが、62年前、(台湾南部の)高雄で別れたままとなった。うちには遺髪も遺骨も位牌(いはい)すらない。いまは靖国に(魂が)残されているだけとなっている」などと説明、政治的な意図がないことを強調していた。
6月7日 読売新聞

■「遺髪も遺骨も」無いのは多くの日本の遺族と同じですが、どうして位牌も無いのかは理由が分かりません。李登輝さんの信仰生活の詳細を知らないので、高校時代からのマルクス主義への傾倒や米国留学中に受けたキリスト教の影響などから推測すると、仏教や道教には親しみを持っていないのかも知れません。でも、ダライ・ラマ14世猊下が台湾を訪問した際は、ちゃんと敬意を払って謁見しています。そう言えば、2001年4月6日だった2度目の台湾訪問では大歓迎を受けたそうで、10日間の滞在中に李登輝さんとの会見も実現したのですが、北京政府からの反発は陳総統との会見に対するものが強烈だったようですが、李登輝さんとの会見も喜びはしませんでした。北京政府が言う「分裂主義者」のチャンピオンみたいな人達が集まったことになりますから、有らん限りの悪口雑言が投げ付けられたようです。誰が何処に行こうと、それも中国人民解放軍に対する戦争の相談をしに行ったわけでもないのですから、放っておいて貰いたいですなあ。

■記事中の「二人兄弟」というのは、李炳男という貿易業に従事していた弟の存在を無視するような発言です。「私達二人は仲が良かった」というのを誤解したのでしょうか?読売新聞社の次は産経新聞です。

靖国参拝問題が急浮上 其の壱拾弐

2006-07-23 17:09:49 | 靖国神社
■全土が飢える天変地異や、殺戮目的の他民族による侵略を受けずに暮らして来た日本の民は、幸か不幸か民族絶滅の危機を知りませんから、疫病や旱魃などの比較的小さな不幸を怖れる心を培って来たようです。そんな国が都市を焼き尽くされ、一家の大黒柱が死傷するという未曾有の大戦争に踏み込んだのですから、その後始末が短い間に片付くはずはないのです。靖国参拝の問題は、国際問題でも国内の政局を決定する鍵でもない、もっとレベルの高いところで議論されない限りは、実の有る結論には到達できないのではないでしょうか?

A級戦犯については、自民党の古賀誠元幹事長、山崎拓前副総裁らが神社からの分祀論を提起している。かねて中曽根康弘元首相は「天皇陛下もお参りできるためには分祀が一番いい」と主張しており、今回の資料発見で天皇参拝の復活を求める観点からの分祀論が勢いを得る可能性はある。ただ、政界が分祀論議を提起することは政教分離原則に抵触するとの批判があるうえ、靖国神社側は分祀を強く否定しており、状況は複雑だ。【中川佳昭】
毎日新聞 - 7月20日

■靖国が政治家の占有物になって玩具にされている間は、参拝問題は深まらないでしょう。8月15日公式参拝を「公約」にして出現した小泉首相によって、日本のマスコミも選挙民も、いよいよ次の政権ではもう少し考えて責任の有る選択をしなければならないと学習したのではないでしょうか?断固参拝賛成、という人も、小泉総理でさえ一度も8月15日には参拝しなかったという事実は認めねばなりませんし、絶対に反対だ!と言う人は小泉政権を支持した6割の選挙民に真摯に語り掛けねばならないでしょう。それは容易い仕事では有りません。もしも本当に「分祀」が実行された場合でも、それが可能だとなったら、A級戦犯以外にも、合祀に疑問のある霊魂が見つけられたらどうするのでしょう?その大問題が次に控えている事を指摘する声がまだ出て来ていないのが不思議です。


<ジェラルド・カーティス米コロンビア大学教授(政治学)の話>
昭和天皇が、靖国神社のA級戦犯の合祀に強い不快感を示していたことが明らかになったことの意味は大きい。靖国神社参拝問題が、外国にいわれて問題になったのではなく、もともと日本国内の政治問題であることが明らかになった。
A級戦犯を合祀することは戦争を肯定する象徴的な意味がある。外国から見てもおかしいし、日本の天皇から見てもおかしいということだ。天皇陛下も参拝しない靖国に総理大臣が行くべきだというのは矛盾している。天皇の発言が明るみに出たことによって、国内問題としての靖国神社参拝問題がもっと議論されるのではないか。
戦中戦後を通じて天皇だった昭和天皇が「天皇陛下万歳」を叫んでなくなった兵士がまつられている靖国神社の参拝をやめるほど、A級戦犯合祀にこだわっていた。天皇の言葉を次の総理候補も真剣に考えて、靖国神社問題の新しい解決のあり方を考えるべきだ。
朝日新聞2006年07月20日

■これは米国の知日派の代表的な意見だと思われます。彼らの多くは東京裁判時代に疑義を証明しませんから、米国が主導した勝者が敗者を裁く不当な裁判だと非難する日本人には、こうした解説は納得できません。裁判の形を取った虐殺だ!とまで言う人が居ますからなあ。靖国神社は勝利を前提にした犠牲者の鎮魂施設だという観点に立てば、「2度と戦争をしないことを祈念」するのは辻褄が合いませんし、政治家にとって最も大切な仕事は次の選挙で当選する事だという世知辛い現実を前提とすれば、遺族会や少々感情的になった人々のナショナリズムを利用した選挙運動の一環のようにしか見えなくなりなります。「みんなで靖国神社に参拝する会」などという(赤信号皆で渡れば…)本家のビートたけしが苦笑するような名前を持った集団が国会内に存在するという異常な事態から是正しないと、靖国問題は常に迷走状態が続くのではないでしょうか?

■政治家が選挙運動から離れて参拝するのは、信教の自由からしても問題は無いはずです。政治記者やテレビ局が手ぐすね引いてキリシタン狩の代官気取りでわいわい騒ぐのを止めれば、案外、テレビを頼りにしている議員の中には馬鹿馬鹿しくなって参拝しなくなる人も出て来るかも知れませんぞ!天皇陛下が国民を代表して鎮魂の儀式が行えないのも異常ですし、政治家(屋)が選挙運動に利用しているというのも変なのです。ましてマスコミが訳も分からず騒ぎ立てるのはもっともっと可笑しな事だと思いますなあ。


■富田氏メモ靖国部分の全文■
 私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
 松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
 だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ(原文のまま)
 
■7月21日、靖国参拝に反対するリーダーに祭り上げられそうだった福田康夫議員が、総裁選には立候補しないと発表したそうです。報道によると「年齢」が理由との事ですが、どうも靖国問題が当落を決定するような異常事態になっている事が本当の理由のようです。今のところ、内政でも外交でも靖国問題を上手に扱える人材には恵まれていないのが日本の政界の現状だと思われます。今年の8月15日に小泉さんが最後のサプライズをやるのではないか?と囃し立てているのはマスコミの政治部の人達だけのようです。「旅限無」としましては、今年より来年からの8月15日に現れる小泉純一郎という日本人の「心の問題」の方に興味は移っております。靖国神社を商売にしては行けません。

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靖国参拝問題が急浮上 其の壱拾壱

2006-07-23 17:09:29 | 靖国神社
■思い込みの激しさと自信過剰の傾向が強かった松岡さんは、後に三国同盟締結を男泣きして悔やんだと言われていますが、軍人以上に戦闘的だったようで、駐独大使だった大島浩と駐伊大使の白鳥敏夫との3人が文官側で三国同盟を進め、ドイツ軍の電撃作戦に魅了さた陸軍の後押しで締結に到った経緯が有ります。大島大使はヒトラーから対ソ開戦を直接知らされ絶句したという話も有り、親分だった松岡外相のソ連も加えて「四カ国同盟」構想は潰れたのでした。これは非常に奇妙な事で、対米戦争の直接の原因となった満洲国の建国は対ソ戦争を想定していたはずなのに、外務省の幹部はソ連と結ぼうとしていたわけです。陸軍が三国同盟を支持したのはソ連を東西から挟み撃ちに出来るからだったのですが……。このように分裂した戦略が天皇に裁可を求めて報告され続けたのですから、松岡・白鳥に対する臣下としての評価が厳しいも無理は無いのでしょう。因みに大島大使も1946年に極東軍事裁判でA級戦犯として終身刑を言い渡されています。1955年に減刑されて出獄し、1975年6月6日に死去していますから、合祀の対象にはなっていません。

また、合祀されているA級戦犯14人の多くは陸海軍幹部で、2人は元々からの外務官僚。軍人でもなく、戦死でもなく、靖国神社にまつられることに違和感を語る向きもあった。昭和天皇が何を問題と感じ、それを今後我々がどうとらえていくか。内容について全文を精査し、冷静に分析していくことが必要だろう。【大久保和夫、竹中拓実】毎日新聞 - 7月20日

■こうして見て来ますと、合祀を推し進めたグループは「東京裁判」を根こそぎにして否定してしまおうと考えている事は明らかでしょう。出来れば国民の総意として東京裁判を超克してから、靖国神社の地位を改めて考え、その結果として合祀が行われるのが理想的なのでしょうが、それを絶対に許さないと頑張っている勢力も小さくなったとは言え残存していますし、明確に合祀に反対とは言わないまでも、積極的に靖国神社に足を向けようとは思わない世代も増えていますから、事を急いだのでしょうなあ。何となく、手出し口出しの出来ない完全な象徴に祭り上げられた天皇を蔑(ないがし)ろにしている節も有りますぞ。こういう甘えや思い込みで天皇の真意を取り違えてしまうのは、2・26事件の決起将校達にも似ているような気もします。


……間接的なメモとはいえ、昭和天皇の合祀についての考えが公になったことで、今後のA級戦犯分祀論議や首相の靖国参拝問題などに影響を与えそうだ。遺族らによると、富田氏は、75年に宮内庁次長に就任し、88年6月に長官を退任するまでの間、昭和天皇との会話などを日記や手帳に残していた。靖国神社についての発言メモは88年4月で手帳に張り付けてあった。メモはまず、「私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取(原文のまま)までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記している。……昭和天皇は45~75年に8回靖国神社を参拝した。富田氏は警察官僚出身で、72年の浅間山荘事件を警察庁警備局長として指揮し、74年に宮内庁次長、78~88年まで同長官を務めた。その間の87年には昭和天皇が天皇として初めて開腹手術を受けることを決断した。退任後は国家公安委員を務め、03年11月、83歳で死去した。

■富田さんは、歴史上初めて天皇の龍体にメスを入れるという難しい決断をした人で、陛下の信任が厚い事でも有名な方だったそうです。

 
遺族によると、富田氏は昭和天皇とよく御所などで会話し、それらをメモなどに書きとめ本棚に保管していた。靖国神社をめぐる今回の発言については、富田氏が長官を務めていた当時、直接聞いたことがあるという。昭和天皇の不快感について、靖国神社広報課は「コメントは差し控えたい」と短く談話を公表した。

■あやふやだった靖国神社の立場がこれから急速にはっきりし始めるのではないでしょうか?天皇家と和解するかどうかを決めるのは靖国神社側の問題です。天皇家に対しても、靖国神社にも政治家は一切の影響力を持ち得ませんから、靖国神社の対応が注目を集めることでしょう。昭和天皇の御心の中には、いつの日か靖国神社が再び国の鎮魂施設となるという希望が有ったかも知れませんが、その真意は誰にも分かりません。


…「昭和天皇独白録」の出版に携わった作家の半藤一利さんの話 あり合わせのメモが張り付けられていて、昭和天皇の言葉をその場で何かに書き付けた臨場感が感じられた。内容はかなり信頼できると思う。昭和天皇は人のことをあまり言わないが、メモでは案外に自分の考えを話していた。A級戦犯合祀を昭和天皇が疑問視していたことがはっきり示されている。小泉純一郎首相は、参拝するかどうかについて、昭和天皇の判断を気にしないのではないか。あくまで首相の心の問題で、最終的には首相が判断するだろう。

■既に、日本人にとって靖国は単一の概念やイメージを持っていないという事のです。小泉首相も「行っても良いし、行かなくても良い」などと発言しているくらいですからなあ。しかし、どれほど科学が進歩しようと、人間の心には死後の世界を想像する能力と傾向が残ります。自分が仏教徒なのかキリスト教徒なのか、毎日の生活の中では判然としない人達も、お盆やお彼岸には墓参りに集まるし、先祖伝来の田畑を失って「家」を継ぐという仕来りも実質を失っている多くの人々も、「墓守」という役割には気を遣います。生きている人間も蚕棚のような「カプセル・ホテル」に潜り込むほど、地価が高騰した都会では、死者の魂はコインロッカーのような高層墓地に収められる風習も生まれているくらいです。

■仏教の功徳や回向という言葉も、原意は遠い昔に忘れられて、祖先の霊に守護を願い、怨霊を怖れる感覚だけは生き残っているようです。占いだの前世だの、昔ながらの「商売」は盛んで、巨大な利益を上げている人気占い師や霊能者を自称する人達も、最終的には先祖供養の大切さを説いて墓地と墓石の販売が目的となっているという話も有ります。一家一族の安寧を祈る人間の心が求める形が、墓地や寺には凝縮されているわけで、これを邪魔したり破壊したりすると大変な悪人になります。一家の代わりに国家全体の安寧を祈る施設として、怨霊封じの効用が期待できる神社仏閣が必要とされるのは、時代の変遷を経た今でも事情は変わらないのでしょう。






靖国参拝問題が急浮上 其の壱拾

2006-07-23 17:09:14 | 靖国神社


 ◇靖国神社とA級戦犯合祀を巡る動き◇
1945年 8月 終戦の玉音放送
46年 4月 国際検察局がA級戦犯容疑者28人を起訴
  6月 松岡洋右被告が病死
 48年11月 極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯のうち7人      に絞首刑判決
 51年9月 サンフランシスコ講和条約調印
 56年4月 厚生省(当時)が「祭神名票」送付による合祀事務に 対する協力を都道府県に通知
 66年   A級戦犯の「祭神名票」を靖国神社に送付
 75年 8月 三木武夫首相が現職首相で初めて終戦記念日に参拝。 私人としての「参拝4原則」を強調
   11月 昭和天皇が最後の参拝
 78年10月 靖国神社がA級戦犯14人を合祀
 85年 8月 中曽根康弘首相が公式参拝。「宗教色を薄めた形式な ら公式参拝は合憲」との官房長官談話を受けて
 86年 8月 近隣諸国に配慮して中曽根首相が参拝断念
 01年 8月 小泉純一郎首相が13日に参拝。以降、毎年参拝
 05年 6月 小泉首相が衆院予算委員会でA級戦犯について「戦争 犯罪人であると認識している」と答弁
 
■こうした政治的な一連の流れの裏側に、日本遺族会という自民党の大票田が存在し、米国と気脈を通じた旧軍部の生き残りなども絡まって、靖国神社の問題は国民的議論には適さない一種のタブー扱いを受け続けていたと思われます。この年表の中で、三木首相の8月15日参拝と中曽根首相の参拝断念までの10年間が問題で、天皇周辺と政府と靖国神社がてんでばらばらに動いていたのが分かりますなあ。「参拝4原則」から「合憲談話」までの努力が、「近隣諸国」と言う名の北京政府からの圧力によって水泡に帰しているわけです。中曽根首相が腰砕けになったのが最大の間違いだ!と糾弾する声も有りますが、当時としては靖国よりも日中友好を優先しなければならない事情が有ったのでしょう。その事情の内容がはっきりしていないのが問題をややこしくしていて、まだ元気な中曽根さんは、自分を引退に追い込んだ恨み辛みをない交ぜにして小泉首相の靖国参拝に文句を付けているようですが、中曽根さんの「北京に気を遣え」という主張と、小泉さんの「心の問題」では議論が噛み合いません。


…天皇の靖国神社参拝は1975年11月21日に昭和天皇が行って以来、今の天皇陛下も含め行われていない。同神社や遺族側は、その後も「天皇参拝」を求めているが、30年以上途絶えたままだ。これまでいくつかの理由が推測で語られていたが、今回の「富田元長官メモ」は、このうちの一つを大きくクローズアップした。宮内庁によると昭和天皇は、終戦に際し45年11月に同神社を参拝。その後も数年おきに訪れ、75年までに戦後計8回参拝した。また、今の天皇陛下は皇太子時代、69年までに戦後計4回参拝している。途絶えた理由に挙げられるのは(1)78年のA級戦犯合祀(2)対外関係の考慮(3)公人私人問題――など。

■(2)は中曽根政権時代の遺産で、(3)は三木政権の遺産ということになりますが、政教分離の原則から考えても、靖国参拝が宗教儀礼である限りは、何の問題にもならないはずです。政治家の行動に天皇が調子を合わせる義務が有るのなら、政教分離の原則が破綻してしまいますし、逆に天皇の行動や意向に合わせて政治家が動くのも同じ結果になります。政治ショーや総裁選挙に靖国神社を利用しようとするのが基本的に間違っているのでしょうなあ。本当に「心の問題」ならば、総裁選挙の公約や論争の材料になどしては行けないのです。それが総裁候補として有権者に自分を知って貰う目的ならば、「オペラが大好き」「プレスリーは最高」と同列になる「趣味は神社仏閣の参拝」の類に靖国問題を嵌め込んだことになります


靖国参拝推進派はこのうち(3)を取り上げることが多い。75年8月、三木武夫首相は「私人」の立場を強調して参拝。同年11月の天皇参拝では、政府は「天皇の私人としての行為」と国会答弁した。この点につき、「公人中の公人」の立場を昭和天皇が熟慮して、その後の参拝を取りやめたとの考えだ。

■うまい言い逃れだと誰かが思ったのでしょうが、天皇の行為を「私人」と「公人」とに区分する事など無理だったのではないでしょうか?政府としては「皇室典範」や憲法に規定のある公務以外は「私人」としての行動だと割り切れると思ったのでしょうが、戊辰戦争以来の軍と天皇との関係を考えれば、この答弁は迂闊だったと思われますなあ。今にして思えば、三木首相が「私的参拝」と口走った時に、よってたかって訂正させておくべきだったのではないでしょうか?


だが、今回のメモは(1)が大きな理由だったと読める。天皇参拝を求める以上、遺族側でもこの発言を理由に、A級戦犯分祀論が強まる可能性がある。一方で、メモで取り上げられている松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐伊大使への昭和天皇の思いを考慮する必要もある。「昭和天皇独白録」で、松岡元外相について「恐らくは『ヒトラー』に買収でもされたのではないかと思はれる」と辛らつに評価。白鳥氏が担当した日独伊三国同盟にも不満を述べている。信任していたとされる東条英機首相や木戸幸一内大臣らと比べ、冷ややかに見つめていたのは明らかで、それが発言に反映している可能性も否定できない。

靖国参拝問題が急浮上 其の九

2006-07-23 02:15:19 | 靖国神社
■いろいろ面白い事を言ったりやった三木総理が残した政治的遺産の中に「私的参拝」という奇妙な国会用語が有ります。総理大臣と靖国神社が「私的」に結び付くのかどうか、三木総理は単純に考えていたようですが、その後は「玉串料」を私費で出したかどうかなど瑣末な形式論が新聞に出るようになりました。そんな報道をしていたから靖国問題はどんどんややこしくなったのでしょうなあ。そんな先輩記者の指導を受けた若い記者も「私的ですか、公的ですか?」などと九官鳥か鸚鵡のように質問を繰り返して石原慎太郎さんに怒鳴られたりするのです。

同様にA級戦犯として合祀される東条英機元首相の二男輝雄氏(91)=元三菱自動車工業社長=は「そんな話、いまだかつてどこからも聞いたことがない」と繰り返した。「信ぴょう性が分からない以上、言いようがない。個々の動きでいちいち大騒ぎしても仕方ないよ」とコメントを避けた。

■遺族の感想を聞きだして、どんな意味が有るのかは分かりませんが、どこまで行っても靖国問題は「東京裁判」の問題に行き着くようです。


……昭和史に詳しいノンフィクション作家の保阪正康さんは「昭和天皇は東京裁判の結果を容認し、A級戦犯合祀はおかしいと判断していたから、想像できる範囲ではある」とし、影響について「参拝に反対の立場の人たちからは『昭和天皇でさえも否定的』という声が強まるのではないか。小泉純一郎首相と昭和天皇は靖国について考えが違うことがはっきりした。首相は参拝するのであれば、昭和天皇の判断に、政治の最高責任者として戦争について見解を改めて述べる必要があるのではないか」と語った。

保坂さんの期待に反して、小泉さんは「心の問題」一辺倒ですから、何も新しい「見解」など出しません。小泉人気の発火点に、総裁選挙で唐突に「8月15日に公式参拝するぞ!」とのサプライズ公約を掲げた事が有るのですから、派閥も閣僚経験も頼りに出来ない変人総理としては、支持率と選挙運動中の「見物人」の多さだけが頼りなのです。靖国公式参拝と郵政民営化が総裁選挙の公約だったのですから、小泉さんが動じる事は有り得ません。


一方、一橋大大学院社会学研究科の吉田裕教授は「徳川義寛侍従長の回想で示唆されていたことが確実に裏付けられ、松岡洋右元外相への厳しい評価も確認された。今後は分祀論にはずみがつく。小泉首相も、少なくとも(終戦の日の)8月15日に参拝をしない理由になるのではないか。首相の参拝には多少の影響はあると思う」と話した。

■何だかんだと分かったような分からないような屁理屈をつけて、8月15日に参拝した事のない小泉さんが、今回のメモを理由に利用するとは到底思えませんなあ。


日本近現代史に詳しい小田部雄次・静岡福祉大教授は「昭和天皇の気持ちが分かって面白い」と驚き、「東京裁判を否定することは昭和天皇にとって自己否定につながる。国民との一体感を保つためにも、合祀を批判して戦後社会に適応するスタンスを示す必要もあったのではないか」と冷ややかな見方を示した。その上で「A級戦犯が合祀されると、A級戦犯が国のために戦ったことになり、国家元首だった昭和天皇の責任問題も出てくる。その意味では、天皇の発言は『責任回避だ』という面もあるが、東京裁判を容認する戦後天皇家の基盤を否定することもできなかったのではないか」と話した。

■東京裁判は今風の言い方をすれば、日独伊の「悪の枢軸」を連合国軍が包囲殲滅した正義の戦いというストーリーの上に成り立っています。連合国側が欧州や日本列島で実施した無差別空爆や原爆投下、その他もろもろの犯罪行為は全て封印されて、ファシズム国家対民主国家という、相当に無理の有る構図が想定されていました。連合国陣営の仲間割れとも言える東西冷戦時代に雪崩れ込むと、戦後日本は自動的に米国側に組み込まれる仕組みになっています。これは東京裁判に続いて締結された「サンフランシスコ講和条約」と、その裏面を構成する「日米安全保障条約」と一緒になって鉄壁の3点セットを作り上げており、その結晶が憲法9条という事になります。つまり、日本は邪悪な戦争をした事を反省して二度と戦争はしない事を誓う代わりに、日本の国土防衛は米軍が全面的に肩代わりするという巨大な積み木細工です。

■この内の一つでも抜き取るとなれば、戦後60数年の全面的な再構築が必要となるわけです。かつて中曽根政権が「戦後政治の総決算」などと壮大な看板を掲げましたが、「戦後」はそんなに簡単に総決算など出来ません。中曽根政権がウソを言わなかったとしたら、戦後の日本が積み上げた官民合わせての資産をバブル騒ぎに突っ込んで、見事に米国に献上しただけという事になりますぞ。

靖国参拝問題が急浮上 其の八

2006-07-23 02:14:58 | 靖国神社
■ところが、同じ筑波常治が残した文章には、「在任中、昭和45年(1970)6月30日、靖國神社總代會で、青木一男元大東亞相の強硬な主張によつて極東軍事裁判A級戰犯を靖國神社に合祀する方針が決められた。ただし、合祀の時期は宮司に任せる、とされた。極東軍事裁判A級戰犯を『戰爭責任者として合祀しないとなると神社の責任は重いぞ』といふ青木一男による脅迫まがいの主張に對して、筑波藤麿宮司は、『ご方針に従う。時期は慎重に考慮したい』と答へ、實施を延ばし、結局、在任中には極東軍事裁判A級戰犯合祀を行はなかつた」という証言が残されているそうです。

■世間では大阪万国博覧会の開催で、すっかり戦争を忘れた経済成長に浮かれた気分が満ちていましたが、このように戦争をずっと引き摺っていた人々が居たのですなあ。昭和天皇の発言メモに有った「筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」という御言葉は、こうした筑波宮司の抵抗を指しているものと考えられます。125代目の天皇であられた昭和天皇にとって、誠に日本の歴史は長いものだったに違いなく、遠い未来にはどんな変化が起こるかは軽々に予想など出来ないものの、少なくとも開戦と敗戦を経験した御自身の在位中には、A級戦犯の合祀は無い、とお考えになっておられたのではないでしょうか?合祀せよ!という声が上がるのは、言論の自由を保障した新憲法下では認められる事ですから、そうした運動に関しては論評は控えておられたのでしょう。

■1978年3月に在任のままで死去した筑波宮司の跡を継いだのが、松平永芳氏で、幕末の坂本竜馬を可愛がった、あの春岳さんの孫に当たる方だそうです。その松平宮司が就任して間の無い、昭和53年(1978)11月(一説には10月)に、秘密裏にA級戦犯の合祀が実施されています。新聞報道されたのは翌年4月ですから、正しく「極秘裏」でした。この時の昭和天皇が何をお考えになったかは記録が公表されていないので分かりませんが、侍從長を勤めていた徳川義寛氏は、「筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」との発言を残しているそうですから、陛下と何がしかの会話が有ったのかも知れません。

■松平永芳宮司にも、合祀に踏み切った理由が有って、「すべて日本が悪いという東京裁判史観を否定しない限り日本の精神復興はできない」とのあの戦争に関する歴史認識と、「日本とアメリカが完全に戦闘状態を止めたのは(サンフランシスコ条約が発効した)昭和27(1952)年4月28日。サンフランシスコ平和条約前の戦闘状態で行われた東京裁判は軍事裁判であり、そこで処刑された人々は戦場で亡くなった方と同じ」との国際法上の解釈が有るのだそうです。


遺族によると、富田氏は昭和天皇との会話を日記や手帳に詳細に記していた。このうち88年4月28日付の手帳に「A級が合祀され その上 松岡、白取までもが」「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」などの記述がある。
読売新聞 - 7月20日

■「松平の子」の松平は、最後の宮内大臣を務めた松平慶民氏を指しているのは明らかです。松平慶民氏は1882年生まれで、1948に没しています。越前福井藩14代藩主の松平慶永を父に持ち、越前藩分家当主で1906年に子爵を賜り、侍従兼式部官、式部次長兼宗秩寮宗親課長、式部長官を歴任して、敗戦後の1946年には宗秩寮総裁を務めて翌1947年には最後の宮内大臣に就任しています。1906年と言えば、日露戦争の後ポーツマス条約が結ばれた年です。1910年の日韓併合から大正時代を天皇の身近で過ごしているわけで、1926年に始まる昭和の激動を昭和天皇と共に歩んだ事になりますなあ。昭和天皇の『独白録』をまとめた側近五人組の一人としても有名なのだそうです。

■「松平の子」の松平永芳氏は、1915年生まれで2005年に没しています。終戦時には海軍少佐だったそうで、何でも天皇を守る気概で自衛隊一等陸佐に任官したというのですから、海軍から陸軍に移り階級が一つ上がっています。1978年に靖国神社第6代宮司に就任して、問題のA級戦犯合祀を決行し、1992年に宮司を辞めて1995年からは死去するまで福井市立郷土歴史博物館長を務められたそうです。経歴を見た印象では、生粋の帝国軍人ですなあ。軍関係者から神社の宮司になるというのは異例なのではないでしょうか?それはともかく、軍人としての長い経験が培った人脈を想像しますと、靖国神社の宮司に就任する時点で、棚上げになっているA級戦犯合祀を行う事が既に決まっていたのでしょうなあ。


「だからあれ以来参拝していない。それが私の心だ」。富田朝彦・元宮内庁長官が残していた靖国神社A級戦犯合祀(ごうし)への昭和天皇の不快感。さらに、合祀した靖国神社宮司へ「親の心子知らず」と批判を投げかけた。昭和天皇が亡くなる1年前に記されたメモには強い意思が示され、遺族らは戸惑い、昭和史研究者は驚きを隠さない。……「信じられない。陛下(昭和天皇)のお気持ちを信じています」――A級戦犯として処刑され、靖国神社に合祀される板垣征四郎元陸軍大将の二男の正・日本遺族会顧問(82)=元参院議員=は驚きながらも、そう言い切った。正氏は昭和天皇が参拝を中止したのは、A級戦犯合祀とは無関係だとの立場を崩さない。「三木(武夫)総理(当時)が昭和50(75)年に現職首相として初めて参拝し、その秋の国会で論議になったため、陛下はその後参拝できなくなったのだと私は思うし、さまざまな史料からも明らかだ。A級戦犯合祀は、陛下の参拝が止まった後のことだ」と話す。その上で「(富田元長官が)何を残され、言われたかは関知しない」と言った。

靖国参拝問題が急浮上 其の七

2006-07-23 02:14:28 | 靖国神社
■戦争の記憶が生々しく残っている時代ですから、戦犯の中には多くの「人違い」「事実誤認」が含まれている事を日本国民はよく知っていました。今でも未解決の「100人斬り報道」のようなマスコミが偽造した戦犯まで居たのですからなあ。同じ戦場に立っていたのに、戦犯にされた人とされなかった人の違いは運不運の違いだった場合も多かったでしょうし、戦犯になるはずだった人が訴追を免れていたような例も有ったでしょう。戦後の苦しい生活を送っているのは誰も同じだったので、「早期釈放」の署名運動が盛り上がるのは当然の事だったわけです。東京裁判自体を丸ごと否定してしまう事は講和条約に反する事になるので不可能でしたが、刑期短縮や刑の減免は独立国家の主権として可能だったわけです。

(3)この国民世論を背景にして、国会で昭和28年8月から「戦傷病者戦没者遺族等援護法」および「恩給法」の改正が重ねられ、「戦犯」の遺族も戦没者の遺族と同様に遺族年金・弔意金・扶助料などが支給され、さらに受刑者本人に対する恩給も支給されるようになる。そこにはA級とB・C級の区別はなく、また、国内法の犯罪者とはみなさず、恩給権の消滅や選挙権・被選挙権の剥奪もない。(刑死者は「法務死」と呼称)

■この辺りからは専門的な法律論になって行くので、素人考えで乱暴な事は言えないのですが、生活の困窮を国家が救済する必要性を誰もが認めていたのは事実でしょう。戦争中に起こった異常事態に付随する問題をいつまでも引き摺っていたら戦後の新しい生活が始まらない、というのが一般的な生活感覚だったのでしょうなあ。


(4)こうして「戦犯」関係にも「戦傷病者戦没者遺族等援護法」と「恩給法」が適用されたことで、靖国神社の祭神選考の対象となり、昭和34年3月10日付「日本国との平和条約第11条関係合祀者祭神名票送付について」(引揚援護局長通知)によって送付された祭神名票に基づいて最初の「戦犯」合祀がなされた。

■敗戦からの14年間は、合祀が中断していたわけです。独立を回復した証として、連合軍が訴追した戦犯を罪状によって区別せずに法律を適応したのは、戦傷病者戦没者の遺族や家族を経済的に援助する目的でしたが、同時に精神的な拠り所として靖国神社への合祀が再開されたということでしょう。明治時代に成立した国家神道は廃止されましたが、死者を祀って鎮魂する伝統は残り、特に戦争が原因で死亡した魂は怨霊となって国全体に災いを為すという「怖れの信仰」は消えなかったのでした。古代には莫大な支出を必要とする「遷都」の理由として怨霊の存在が認められていましたし、近代国家として明治政府が成立した直後に、明治天皇が最初に行った事業が四国の讃岐で憤死した崇徳の霊を京都へ戻して白峯神宮を創建する事だったのは有名な史実です。敗戦という史上初の出来事に際して、戦没者の慰霊という霊的な行事の意味を再検証する作業は行われず、宗教法人となった靖国神社は仕来り通りの手続きを執ったというわけです。


「A級戦犯」14人については、昭和41年2月8日付「靖国神社未合祀戦争裁判関係死没者に関する祭神名票について」(引揚援護局調査課長通知)によって祭神名票が送付され、昭和46年の崇敬者総代会で了承、昭和53年秋季例大祭前日の霊璽奉安祭で合祀される。
一般に知られたのは翌54年4月19日の新聞報道

■以上が大原康男教授がまとめた靖国合祀の要点です。ここで問題となるのが昭和46年から53年までの動きです。終戦直後の昭和21(1946)年から1978年まで靖国神社の宮司を務められたのは、旧皇族のの故・筑波藤麿氏でしたが、A級戦犯合祀に関しては東條英機元首相らの死刑が執行された1948年当時でも、各方面から意見具申や要望が寄せられていたようです。しかし、筑波宮司は「宮内庁の関係も有る。合祀は自分が生きている間は恐らく無理だろう」との理由でA級戦犯の合祀には踏み切らなかったそうです。「宮内庁の関係」というのは昭和天皇の御意向が、何らかの形で筑波宮司の耳に達していた事を伺わせる表現です。東京裁判には数々の問題が有るのは当然なのですが、何年間も戦況の内実を知らされずに放置されていた国民にとっては、裁判の中で次々と明らかになった事実は、驚きと怒りの感情を呼び覚ます抜群の効果を発揮したようです。

■言論の検閲や封殺を続けた占領軍の宣伝工作も凄まじいものだったようですが、庶民にとっては「勝算無き開戦」と「幕引きの先延ばし」の実態が分かっただけで怒り心頭に発するのには充分だったでしょう。戦争責任の象徴とされたのが東條さんで、戦時中の報道管制によって作られた幻影が消え去った後には一身に国民の憎悪の的なったのでした。今でも、大手新聞社の親分が、「東條とヒトラーは同じだ」などと言うのですから、「東條憎し」の感情は強烈なものだったのでしょうなあ。筑波藤麿宮司の長男で元早稲田大教授の筑波常治(ひさはる)氏の証言によりますと、「BC級戦犯は一般兵士と同じ犠牲者だが、級戦犯は責任者だとの考えから、合祀への慎重姿勢を終生変えなかった」のだそうです。

靖国参拝問題が急浮上 其の六

2006-07-22 22:30:14 | 靖国神社
■大日本帝国が消滅する時に、陛下が単身でマッカーサーと交渉した事は国家の存続と生き残った者達の救済だったでしょう。それに加えて天皇家の存続と言う歴史的な使命を陛下は一身に担っておられたはずです。マッカーサーとの頂上会談で天皇家の存続が約束されたと思われますから、それ故に昭和天皇には「退位」という選択肢は無くなっていたのではないでしょうか?秘されているマッカーサーとの約束事を、いざとなったら持ち出せるのは自分自身しか居ないからです。新しい「日本国憲法」が発布されてから、記紀万葉の時代どころか、明治大帝の時代でも考えられなかった破天荒な全国「巡幸」を実行されたのも、信頼できる側近が居なかったからとも考えられます。ウソばかりついている軍官も文官も信じられなくなっていた陛下は、「天皇と臣民」という枠が壊れたのを幸いに、田圃のあぜ道、畑の小道、漁師さんの船、何と炭鉱の切り端にまで立って、新生日本を担う人々に「文学的」ではないリアルな激励をして回ったのでしょうなあ。それは後に恒例となった園遊会などにも垣間見える「頑張ってね」の素敵な一言に凝縮され昭和の伝統となりましたなあ。

■陛下の御心の中では「勘弁ならん!」リストよりもずっと小さな東京裁判の訴追者リストには、当然、陛下の秘密のリストと重なる者が居たはずですし、漏れている名前がごっそりと有ったでしょう。話を付けた相手の米国(連合国)が糾弾して処刑したA級戦犯は、昭和天皇の御尊顔を拝した事のある人物ばかりです。その中には陛下だけが御存知の大きな過ちを犯した人物が含まれているわけです。合祀するなら、少しは未来を考えて「人選」するべきでしたなあ。内密に、陛下に「参考意見」を打診してみても罰(ばち)は当たらなかったでしょうに!生き残りにの役人の中には、戦時中に陛下を騙した事をぜんぜん反省していない者が生き残って加わっていた可能性が高いのです。新憲法では、陛下に「御下問」の権利は無いので、黙って御名を認(したた)め、黄金の御璽を捺していたのでしょうが、戦後のどさくさで天皇家と法的に疎遠になった靖国神社が独自の判断で合祀を行った時には、全国民の耳に馴染んだ「あっ、そう」とは仰らなかったようですなあ。

■合祀の経緯について、大原康男(国学院大学教授)が手際良くまとめておられますので、靖国神社参拝と“A級戦犯”の合祀より引用させて頂きます。


いわゆる「A級戦犯」合祀の経緯

(1)占領終了後、靖国神社合祀の迅速化を求める戦没者の遺族の要望に応えるために、昭和31年4月19日、遺族援護行政を所管する厚生省引揚援護局長は「靖国神社合祀事務に関する協力について」と題する通知を発し、都道府県に対して合祀事務に協力するよう指示。…祭神の選考は厚生省・都道府県が行ない、祭神の合祀は靖国神社が行なうという官民一体の共同作業で、祭神選考は「戦傷病者戦没者遺族等援護法」と「恩給法」に原則的に依拠している。そして、先の大戦が総力戦であったことで法の適用対象が拡大し、それによって祭神の範囲も拡大。例えば、徴用された船舶の乗組員・警防団員・国民義勇隊員など。

■すったもんだの末に靖国神社は爆破も焼却もされずに講和条約発効まで生き残ったわけですが、その条件として国家事業から切り離されて民間の宗教法人になっていたわけです。徴兵から動員配置、作戦命令、戦況把握、戦病死の確認まで、全ての情報処理は軍部が行っていた時代が終わって、戦後処理に当たっていた「復員局」の仕事が厚生省に移管される中で、靖国神社の合祀作業は厚生省引揚援護局との連携が不可欠となります。家族の大黒柱を失った遺族も深い傷を負って生きて帰った兵の家族も、戦後の狂乱インフレの中で非常に苦しい生活を送っていた事実が有ります。それに加えて、連合国が一方的に決めた「戦争犯罪人」という身分が、講和条約発効の前も後も、日本国内の法律上は一般的な罪人ではなかったという不自然な事態も起きていました。巣鴨プリズンに収監中だった人々も戦後初の選挙に際してしっかり投票していたそうです。

■国家が独立を回復すれば司法権も回復するので、連合軍の占領政策の終了後は日本独自の法律に則(のっと)った対応が可能となります。但し、講和条約の中に東京裁判の「諸判決」を尊重する旨が記されていたのでした。


(2)一方、昭和27年4月28日に発効した対日講和条約第11条(資料④)によって、それ以後も引き続いて服役しなければならない1224名の「戦犯」に国民の同情が集まり、その早期釈放を求める一大国民運動が同年7月から起こる。(最終的には約4000万人の署名が集まる。)

靖国参拝問題が急浮上 其の伍

2006-07-22 22:29:42 | 靖国神社
■事が戦争であろうとサッカー大会であろうと、「必勝」「気力」「願い」「祈り」などの活字が飛び交っていれば、それは報道ではなくて出来の悪い「文学」です。同じように「平和」「反戦」も扱いようによっては幻想文学に近いものになりますなあ。勿論、「地上の楽園」「労働者の天国」「解放された社会」「税金の無い国」などなど、麻薬幻想小説のような「文学」が流行した事を忘れては行けませんなあ。天皇と言う絶対の地位は、文学的な「揺れ」を楽しむ事を許されない激務を運命付けられたものです。古代に於いては呪術力を競いました。それはオウムの詐欺商売ほど気楽な物ではなかったのは当然で、占術に関しても常に最先端の「知識」を導入し吟味し独占する努力をするのが天皇家でした。

■原始神道に仏教・道教の教養を取り込み、古代国家の主権者の地位を固めてからは、豪族や貴族との権力闘争を勝ち抜き、恐るべきリアリストの武家が出現すれば徹底的に争い事を避け、文化と宗教の象徴的な存在になりきる事で生き残りました。世の中が「御維新」となれば、衣冠束帯を脱ぎ捨ててドイツ皇帝風のファッションに身を包み、日英同盟が成立すれば英国の王族文化を貪欲に吸収して海洋国家の元首としての地位を固めようと努力なさりました。昭和天皇は、丁度その時期に皇太子として欧州と深く結び付いた日本の帝王学を学んだのです。有名な御前会議で、明治大帝の「よのも海…」の御製をお読みになったのも、極東の海洋国家としての生存条件を傷つけるなよ、との御心だったと推察いたします。

■数ある昭和天皇の名言集の中でも、対米開戦の必要性を説明された時のものは白眉と申せましょう。満州の権益を守ると言いながら、万里の長城を越えて陸軍がどんどん南下して行く時に、穏やかに質問し続けていた問答データを正確に御記憶だった陛下は、対米戦争の「終わり方」をずばりと御下問になります。運命的な御前会議の前、陛下は杉山参謀長に御聞きになります。それは日本国民全員が聞きたかった重大な質問でした。「どのくらいで(日本が勝って)決着をつけるつもりか」勿論、大元帥の地位にある陛下が「敗戦処理」について御下問になるはずはありませんなあ。

■杉山参謀長の答えは「3ヶ月くらいで決着をつけます」というトンデモない無責任発言でしたから、陛下は「シナ事変(日中戦争)は1月で決着をつけると言ったが、もう4年も経っているではないか?太平洋はもっと広いぞ!」と最も痛い所をぐさりとお突きになったそうです。杉山参謀長は、うっと唸って脂汗を流して返答に窮したと言われています。しかし、この段階では軍部も政府も対米開戦を決意した後でしたから、憲法に規定されている手順で「御裁可」が下るのです。その前の「日独伊三国軍事同盟」締結の時にも、皇太子時代から洋装とハムエッグと紅茶の朝食をお採りになっていた英国好みの陛下には仰りたい事が山ほど有ったと推察されますし、更にその前の226事件の際には「朕自ら軍を率いて反乱部隊を鎮圧せん」と絶叫されたのですから、「一体、軍部は日本を何処に持って行くつもりなのか?」と御心配になりつつ、運命のミッドウェー海戦の頃までは国中が「行け行け、ドンドン」と盛り上がっている様子を御覧になっていたのでしょうなあ。

■軍部はマスコミに強烈な圧力を掛けて真実を報道する事を厳禁しますが、それまでにもマスコミは軍部も赤面するようなヨイショ記事を書き散らしていたので、後で文句を言うのは少々筋違いです。しかし、統帥権を独占して最高指揮官の大元帥の天皇にまで、軍部はウソを言い続けます。心配を掛けないように…などという甘ったれた屁理屈で弁解しようとした困った人もいるくらいですからなあ。戦艦大和の特攻などという前代未聞のトンデモ作戦が発動される時にも、「海軍にはもう船が無いのか?」という歴史に残る名言を残しておりますが、陛下の御心は「海洋国家として生まれた近代日本に船が無いのなら、もう終わりだよ」というものだったはずですが、この名言を某軍令部参謀が「一隻も残すな!」と曲解して3332名の命を載せて、絶対に辿り着けない沖縄に向けて出発させたのです。正に出来の悪い「文学」的な断末魔ですなあ。

■いつ、誰が、何と言ったのかを全て正確に御記憶だった陛下にとって、敗戦後に爆発的に暴露された「真相」は、科学者としての怒りも加わって、想像も出来ないほどの激怒だったことでありましょう。世俗的な表現ならば「あのバカ野郎が!」と指折り数えて、ぶん殴りたいヤツのリストを作るところです。今回発表されたメモに有る「A級が合祀され、その上…」という部分は、昭和史研究家からも指摘されているように、仮に日本側が独自に「A級戦犯」をリスト・アップしたら、優に3000人は下らないのではなかったか?と言われるくらいに、トンデモない指導者がうようよしていました。陛下の記憶力ならば、それくらいのリストなら2日もあれば口述筆記させられたかも知れません。

■おそらく、226事件の真相を再調査して、その頃から軍を私物化して自分の出世と保身を優先させたテスト秀才達が軒並み名指しされたでしょうし、文官やマスコミや大学などの教育機関からも、「お呼び出し」の対象になる人間がぼろぼろと出た事でしょうなあ。ですから、東京裁判にはどれほどの国際法上の大問題が有ろうとも、当時の日本としては「犠牲者」を最低限度に抑えられる僥倖だったと思われます。GHQから呼び出された時、取調べの最中、巣鴨プリズンに収監された時、戦時中には偉そうな顔をしてトンデモない発言や命令を出していた有名な人物が、哀れなくらいに無様な延命策を弄した事実は、数々の証言や文書で明らかです。

靖国参拝問題が急浮上 其の四

2006-07-22 22:29:11 | 靖国神社
■外務大臣でもなく、勿論首相の代理でもない古賀さんが、どうして「国内問題」の靖国分祀論を北京くんだりまで出掛けて説明しなければならないのでしょう?中国ばかりでなく、何処かの国が日本を訪問して国内問題について報告したり説明したりしに来た事が有ったのでしょか?日本と中国だけは特殊な関係が有るということなのでしょうなあ。そういう変な思い込みを持っている人が、間違っても政府の外交政策に口出しなどしては行けませんぞ!

二階俊博経済産業相は15日、静岡県小山町で開かれた自民党二階派研修会後の記者会見で、9月総裁選に向け8月に取りまとめる派閥の政策提言に関し「靖国神社参拝の問題にいちいち意見を差し挟む必要はない」と述べ、首相の靖国神社参拝の是非に触れない考えを明らかにした。……これに先立つ研修会で、二階氏は総裁選について「ポスト小泉候補の人物や識見は承知しているが、何をなそうとしているかを十分見極めたい」と述べ、各候補の政策に基づいて支持を決める考えを強調した。
共同通信 - 7月15日

■親中派と言えば、この人が筆頭と言われるほどの中国フリークぶりを発揮している二階さんですから、靖国問題の解決方法は北京政府の教えを頑(かたく)なに守れば良い!という単純明快なものです。でも、自分の地位と利権が無くなっては、元も子も無くなってしまいますから、「是非に触れない」ことにしているのでしょうなあ。次の内閣でも閣僚になりたいでしょうから…。そんな打算で靖国問題を扱われたら英霊は怒るでしょうなあ。


中国・北京を訪問中の自民党の古賀誠元幹事長は19日、曽慶紅国家副主席、王家瑞共産党対外連絡部長らと相次ぎ会談。王部長は、小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題を受け、古賀氏が提唱するA級戦犯分祀(ぶんし)論について「注目している。(日本)国内で受け入れられるのであればいい方向だ」と述べ、靖国問題の解決策として期待感を示した。時事通信 - 7月20日

■ブッシュさんに褒めて貰うと見も世も無いほど有頂天になる小泉プレスリー首相もどうかしているのですが、共産党対外連絡部長クラスに褒めて貰って喜んでいるようでは、古賀さんの影響力は低下の一途という事なのでしょうなあ。


……古賀氏は、王部長との会談後、曽慶紅国家副主席(共産党序列5位)や武大偉外務次官とも会談した。会談で、王部長は「戦争で亡くなった戦没者と、戦争を引き起こした戦犯を混同すべきではない」と述べ、A級戦犯を祭った靖国神社への参拝に反対する考えをあらためて強調した上で、分祀論を評価した。これに対し、古賀氏は「他国から言われるのではなく、自らが国内問題として解決しなければならない」と語り、靖国神社が1978年に合祀(ごうし)した東京裁判のA級戦犯14人を分祀すべきとの持論を展開した。分祀について、靖国神社は「神社祭祀(さいし)の本義からあり得ない」などと反発している。西日本新聞 - 7月20日

■大躍進運動での膨大な餓死者、文化大革命中の大量虐殺、そんな大災厄の「指導」をした要人達も、率先して犠牲者を増やす仕事をした幹部達も、アホな指導をしたという理由で差別されたり糾弾されたりしていないのは、共産党の独裁体制を維持するためです。どんなに愚かしい政策を行っても、チベット・米国・ソ連・ヴェトナムを相手にして次々と無駄な戦争をして犠牲者を出しても、国として敗戦を経験していない限り指導部は絶対に糾弾などされません。古賀さんが「他国から言われるのではなく、自らが…」と発言した真意に、中国共産党に対する大いなる皮肉が含まれていたとしてら、古賀さんは優秀な外交家です。しかし、中国を悪役にしないで日本が独自に靖国問題を、他国(北京政府)が納得し気に入る方法で解決すると空手形を切って見せただけなのでしょうなあ。

■こうした奇妙に符合するお膳立てが有って、いよいよ問題のメモが発見されるのです。


昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に関し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」などと語ったとするメモを、当時の富田朝彦宮内庁長官(故人)が残していたことが20日、明らかになった。昭和天皇はA級戦犯の合祀に不快感を示し、自身の参拝中止の理由を述べたものとみられる。参拝中止に関する昭和天皇の発言を書き留めた文書が見つかったのは初めて。

昭和天皇は何度か面白い記者会見(懇話会)を開かれまして、その度に質の悪い記者が畏れ入るような含蓄に富んだ鋭い発言をなさったり、正確無比の記憶力の一端をちらりと御披露になったのでした。「戦争責任」などという乱雑で意味不明の業界用語を迂闊に使って質問したアホな記者が出た時にも、「そのような文学的な問題に答える素養が無い」とのアホには真意がさっぱり分からない素敵な御返答をなさったと漏れ聞いております。

靖国参拝問題が急浮上 其の参

2006-07-21 20:20:00 | 靖国神社
■一見飄々としているような印象の有る古賀さんですが、政局になると急に迫力が出て来て、暗躍や謀略のイメージを帯びる傾向が有りますなあ。宗教の原理上「分祀」は不可能なのだと言われているのに、総代の古賀さんは分祀論を掲げています。長い間、崇敬者総代を務めておられたのですから、「合祀」後も数え切れないほど靖国参拝を続けておられたことでしょう。古賀さんの「分祀論」がいつから主張され始めたのか分かりませんが、竹下さんの子分になっていた頃にはそんな事を言っていなかったのではないでしょうか?

日本遺族会会長を務める自民党の古賀誠元幹事長は7日、福岡市の講演で、小泉純一郎首相の靖国神社参拝に関連し「靖国神社がナショナリズムの象徴として議論されることに戦没者遺族として心から悲しみを感じる」と述べ、暗に批判した。同時に「国民すべてが、わだかまりなく参拝するには靖国神社がどうあるべきかを考えるべきだ」と述べ、A級戦犯の分祀(ぶんし)などの議論を深めるべきだとの考えを示した。共同通信 - 7月7日

■敗北を想定していない宗教施設という靖国神社の特性が、こういう場面で議論を複雑にしてしまいます。飽くまでも勝利に貢献した犠牲者を祀(まつ)る場所なので、勝利した者が感謝の念で参拝し、次の戦いを引き継ぐ決意をする場所だった靖国神社に、戦争被害者としての戦没者が合祀されたのですから、それは歴史的な大変化だったはずです。大陸での小競り合いから泥沼の大量動員まで続出した戦死者が、戦闘が終結する度に合祀されている間、誰も敗戦の犠牲者を祀る事になろうとは想像もしていなかったでしょう。まして、邪悪な侵略戦争に参加した犠牲者を祀っているとも考えなかったはずです。ここにA級戦犯の問題の難しさが有ると思います。


安倍晋三官房長官あてに靖国神社への参拝中止を求める脅迫文とカッターナイフの刃が届いた事件で、新たに警視庁神田署(東京都千代田区)にも同内容の封書が郵送されていたことが10日、分かった。差出人名などは、これまでに内閣府や産経新聞東京本社などに届けられた4通と同じで、警視庁は、同一人物による犯行とみて脅迫容疑で捜査している。調べでは、神田署に届いた脅迫文は、日本語で「将来の安倍晋三総理に伝える 靖国参拝するな!参拝すれば天罰下れ!天誅(てんちゅう)!!」と書かれ、カッターナイフの刃がテープで張り付けられていた。産経新聞 - 7月11日

■日本経済新聞に点火せずに火炎瓶を投げつけた犯人も、安倍官房長官に「天誅」予告した犯人も、自らの顔も正体も隠しています。右翼だの左翼だのというイデオロギー上の分類が意味を為さなくなった時代ですから、日経新聞を「襲撃」したかった者が右翼で、安倍さんにカッターナイフ(最近は日本刀が高い?)を送りつけた者が左翼とは単純に分類できませんが、個人名であろうと団体名であろうと、自らの素性を公にして主張すべき意見の持ち合わせが無い者である点は共通しています。靖国問題は、議論の域に収まらず、感情的な暴発行為でしか表現できない困ったテーマになってしまっていますなあ。


台湾の最大野党、国民党の馬英九主席(台北市長)は11日、都内の日本外国特派員協会で「台湾海峡の戦争と平和」をテーマに講演し、東アジアの平和と繁栄のため中台関係を改善する重要性を強調した。小泉純一郎首相の靖国神社参拝に関する記者の質問に対しては「日本はアジアのリーダーとしてより誠実に歴史に対応し、周辺諸国に配慮してほしい」と述べ、A級戦犯を祭った靖国神社への参拝に反対する立場をあらためて明確にした。一方、日台関係全般については「経済だけでなく安全保障分野でも協力関係を深めたい」と期待を表明した。共同通信 - 7月11日

■馬英九さんは稀代の論客で、小泉プレスリー首相とはまったく違う言葉を豊富に持っている政治家です。子供みたいに怒ったり膨れたりふて腐れたりしない政治家です。国民党主席として、「中華民国」の正統性を常に言外にしっかりと立てて語るので、主張はブレませんし、「一つの中国」の解釈の仕方も強(したた)かで見事なものですぞ。その中華民国を建国した国民党の主席ですから、当然、極東軍事裁判の正当性を微塵も疑わない歴史認識を堅持している人でもあります。東京裁判に参加もしていなかった今の北京政府とは格が違うのですなあ。この東京裁判が靖国問題、引いては今回の天皇発言メモに直結する大問題であります。


自民党の古賀誠元幹事長が16日から中国を訪問し、19日に北京で中国外務省幹部らと会談する。中国との太いパイプを持つ「親中派」として、小泉純一郎首相の靖国神社参拝で冷え込んだ対中関係改善の重要性をアピール、9月の総裁選で対立軸をより明確化させる狙いがありそうだ。北京では、王家瑞中国共産党対外連絡部長のほか、武大偉外務次官ら中国外務省幹部と会談する方向で調整している。日本遺族会会長でもある古賀氏は講演などでA級戦犯の分祀(ぶんし)や、靖国神社の宗教法人格を見直して国が管理に関与する「国家護持」の検討に繰り返し言及。中国側との会談では、こうした自身の考えも説明し日中外交の立て直しに強い意欲を示すとみられる。
共同通信 - 7月12日

■こういう報道を眼にした時に、違和感を持たねばなりませんぞ。

靖国参拝問題が急浮上 其の弐

2006-07-21 20:19:34 | 靖国神社
■戦争と言う壮大な非日常のドラマの中で、自分が何処でどんな役を演じたかによって、戦争の記憶は千差万別の語られ方をするものです。戦争で大儲けして楽しい思いをする人が必ず居るはずなのですが、そういう興味深い証言はなかなか表には出ず、敗戦国となった祖国を恨む者の声は怒りと悲しみの言葉で記録されますし、日本は「1億総懺悔」という内容不明のスローガンを編み出し、一夜にして言説を翻すことで戦後の生活を始めました。そこに生まれたのが、犠牲者に対する生き残った者の後ろめたさの感覚でした。親族を失った人も、戦友を失った人も、靖国神社という施設に参拝する事で精神のバランスを取ったのです。司馬遼太郎さんが再発見した「統帥権と言う化け物」を独占しているという恐るべき憲法上の齟齬(そご)に最も苦しめられた天皇御自身も、一度も発した覚えのない「統帥権」の犠牲になった兵の魂を鎮めるために靖国神社に8回も参拝したのでした。

■靖国神社の歴史を考える時に、忘れてはならないのが「勝てば官軍」という歴史法則です。近代日本を生み出すために同胞が殺し合った戊辰戦争、その「官軍」の犠牲者を祭るために創設されたのが皇居近くの靖国神社です。官軍は常に勝つ事を前提とした施設だった事が重要だと思います。勝利のための尊い犠牲という神々となった魂が祭られる場所が靖国神社で、戊辰戦争以来、日清、日露、第一次大戦、シベリア出兵と続く勝者の歴史が、大東亜戦争から太平洋戦争という未曾有の敗北にうまく接続出来ないのです。「武運長久」「七生報国」「悠久の大義」から、「必勝の信念」「一人十殺」「竹槍精神」が生み出され、「一億特攻」「本土決戦」へと勝利からどんどん遠ざかり、「一億玉砕」などという勝利を度外視するオカルトめいた話が「神風伝説」とない交ぜになって日本人を導いて行った時代に命を散らして人々が、「靖国で会おう」と約束を交わした言葉は、現世での敗北を超越して、あの世での勝利を願う意味を持っていたのではないでしょうか?

■特攻隊の若き隊員が残した遺書を始め、日本の滅亡を防ぐために旧弊を打破して新しい国に脱皮する「捨て石」になるという冷徹な覚悟の言葉がたくさん残されました。勿論、その中には戦争指導部の愚劣さや無能ぶりを弾劾する血を吐くような怒りの言葉も含まれて居ます。


米国務省は18日、米中央情報局(CIA)が1958年から10年間にわたり自民党や旧社会党右派の有力政治家への秘密資金提供などを通じ、親米・保守政権の安定化と左派勢力の抑え込みに向けた工作を実施していたとの記述を盛り込んだ外交資料集(1964~68年)を刊行した。国務省が編さんしたもので、資料によると、CIAの秘密工作には<1>自民党主要政治家への財政支援と選挙アドバイス
<2>親米で「責任ある」野党育成に向けた野党穏健派の分断工作<3>極左勢力の影響力排除のための広報宣伝活動
<4>同様の目的による社会各層の有力者に対する「社会活動」――の4種類があった。読売新聞 - 7月19日

■この記事を掲載した讀賣新聞を戦後に急成長させて野球とテレビとも融合させた一大メディア帝国に育て上げた正力松太郎さんという人がCIAからコード・ネームを頂いていた事が知られていますし、戦後の3大ミステリーとされる「三鷹事件」という列車暴走事故?が起こった時には、讀賣新聞だけが証拠品となるワイヤーの写真を第一面でスクープするという椿事も起こったのでした。CIA工作が本格的に始まるまでは、GHQが日本の支配者として君臨していました。その司令部が皇居を真正面に「見下ろす」第一生命ビルに置かれたのは有名な話です。最近、白洲次郎さんに注目が集まっていますが、彼が戦後の日本で放った強烈な光は、多くの生き残り達には眩し過ぎるものだったらしく、最近までは奥さんの方が有名だったくらいです。

■GHQに媚び諂(へつら)い、CIAに気に入られる必死の努力をして認められた者が、戦後日本で力を持ったという暗い歴史が有るのですが、この分野の歴史学者やジャーナリストの解明作業はなかなか進みません。それは当事者が各界の最上層で生き残っていたからでしょうなあ。GHQは靖国神社の「爆破」を決定していました。しかし、吉田茂さんなどの進言によって爆破も焼却も免れた経緯が有り、その前後には天皇御自身がGHQ本部に足を運んでマッカーサーと談判する大事件も起きます。この時に交わされた言葉は今でも完全に復元されてはいないようで、マッカーサーの自伝や証言記録には、作為的な箇所が有るとされ、日本側にも正確な記録は残されていないと言われています。しかし、軍部が完全に崩壊し、権力が巨大な真空状態になっていた時期に、天皇とマッカーサーが直接会談を行ったという事実は重大な意味を持ちます。


中国外務省は20日、昭和天皇が靖国神社へのA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示していたとする報道について、「中日関係の発展に対する我々の態度は明確であり、一貫している。できるだけ早く関係発展の障害を取り除くことを望む」とする報道官談話を発表し、小泉首相の靖国参拝を中止するよう改めて求めた。中国は、A級戦犯合祀を理由に、首相の靖国参拝に強く反発している。
読売新聞 - 7月20日

■「泣いて馬謖を斬る」というほどではありませんが、反小泉陣営の仲間を見棄てて寝返った古賀誠という人が、小泉さんがサミットに出掛けている留守中に、ちゃかり訪中して「南京虐殺記念館」に献花したりしていましたなあ。靖国問題の一人のキー・パーソンだった古賀さんが、ポスト小泉の「仁義なき戦い」が始まっている時期に訪中し、それに合わせるように天皇の発言メモが発表される、どうも出来過ぎの感が有りますなあ。


自民党の古賀誠元幹事長(日本遺族会会長)が、自らが務めていた靖国神社の「崇敬者総代」の辞表を提出し先月12日に受理されていたことが4日、分かった。古賀氏は首相の靖国参拝問題の解決策として、A級戦犯の分祀(ぶんし)論を提唱しており、総代辞任でけじめを付けた形だ。産経新聞 - 7月5日