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★『チベット語になった坊っちゃん』書評

2012-12-31 12:15:32 | 著書・講演会
地味?な出版社から出した拙著『チベット語になった『坊っちゃん』』が、地味に話題になりつつあるようです。著者としては嬉しいやら、少々歯がゆいやら、なかなか複雑な心境ですが、とうとう日本経済新聞が1月8日の書評に拙著を取り上げて下さりました。ネット上にも有り難い書評が散見されるようにもなりまして、まだまだ日本も捨てたものではないなあ、とちょっと好い気分で新年を迎えた次第です。以下に書評・新聞記事のリンクを掲載します。著者本人が感心する読み方をして下さる読者の存在は、誠に嬉しい限りであります。

■書評・新聞記事
中国新聞 2005年12月25日書評
いわき民報 2005年12月28日記事
日本経済新聞 2006年1月8日書評
愛媛新聞 2006年1月8日書評
朝日新聞 2006年2月5日書評
『望星』  2006年2月号
産経新聞 2006年2月26日
朝日新聞 夕刊 2面「ぴーぷる」2006年3月25日
月刊 山と渓谷 2006年4月号
朝日新聞be 2006年4月8日
Web言論誌 論泉 2006年4月11日
朝日新聞 天声人語2007年2月11日
産経新聞 愛媛県版2007年3月10日
読売新聞 愛媛県版2007年3月11日
朝日新聞 愛媛県版2007年3月11日
愛媛大学公式サイト


■ネット上での書評
Amazon
bk1
niftyBOOKS
楽天
地平線通信 NEWS内に掲載
NACレビュー
ブログ『計算外記録票』
ブログ『旅の途中』2005年12月9日
ブログ『中華 状元への道』2005年12月30日
ブログ『福禄太郎の時事評論』2006年2月6日
ブログ『珈琲ブレイク』2006年2月21日
ブログ『路傍の花』2006年3月28日
ブログ『舞茸ぐるかん読書日記』3月21日
ブログ『知れば誰でも激怒する、これが中国だ!』2006年3月5日
ブログ『資格豆の人生閉店準備室』
ブログ『珈琲ブレイク』「チベット語になった坊っちゃんを読んで」2006年10月24日
ブログ『徒然なるままに』「チベット語になった「坊ちゃん」」という本2007年1月05日
ブログ『登攀工作員日記』「チベット語になった「坊ちゃん」」2007年1月24日
ブログ『みじんこぶろぐ』松山シンポジウム報告2007年3月10日


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松山上陸作戦 其の壱拾四

2007-03-18 23:49:35 | 著書・講演会
■長いようで短かった、楽しい松山翻訳合宿ツアーもいよいよ終盤となりまして、車に分乗して港に向かいます。何せ出港時刻が午後10時40分なので見送る方は大変です。後で調べて分かったのですが、午後9時10分に港行きのリムジン・バスが有ったのですから駅前で放り出して下さっても良かったようなものです。安酒でも買い込んで港に向かえば、好き勝手に飲んだり唄ったり……それも迷惑な話かも知れませんなあ。最後まで責任を持って熱烈に見送ろうというわけで、先生方がしっかりと港のターミナル・ビルまで一行を送り届けて下さったのですが、大人しく2階部分の乗船通路に上っていくような連中ではありません。

■手馴れたもので混雑している受付カウンターに巧みに割り込んで?さっさと乗船手続きを済ませた生徒たちに、「おい、ちゃんと学生証を見せて割引料金で切符を買ったんだろうな?」と問えば、「アッ忘れた」と、いつも通りのチベット式ウソ・ジョークが返って来ます。馬鹿馬鹿しいので本気では付き合わずに、勝手に言っておれ!と突き放すと、今度は真面目な顔になって、この時のために用意していた特別製のカタ(儀礼用スカーフ)を取り出す生徒達でした。最初から最後まで、いろいろとお世話になった総責任者の佐藤先生を代表としまして、松山の皆様に感謝を込めて長いカタを厳かに進呈です。「どうやって受け取るの?」とどぎまぎしていた佐藤先生でしたが、生徒たちの助けを借りて首に掛けると嬉しそうでした。

■嫌な予感が当たりまして、「先生!」と呼ばれて取り囲まれて身動きが取れなくなったところに、まったく愚かなことにラサから取り寄せたという絹製の馬鹿長いカタが持ち出されました。「馬鹿野郎!こんな高いものを買って来るんじゃない!」と言っているのに、ほとんど羽交い絞め状態で首に掛けられてしまいましたなあ。ラサの名刹「大招寺」の刻印付きで、有り難い経文が織り込まれている純白のカタです。徳の高いお坊様じゃあるまいし、こんな立派なカタが受け取れるか!と騒いで見せましたが、強引に肩を抱きすくめられて横に並んで記念撮影へと雪崩れ込んだのが、この記事に添付した写真です。

■写真撮影の後は握手だの抱擁だの、一目もはばからずにチベット式の別れの儀式となりまして、さすがに他の乗客や見送りの人も多かったのでチベット式の歌や踊りは有りませんでしたが、居合わせた日本人の眼を驚かせに充分な演出だったでしょうなあ。「早く船に乗って風呂に入って、皆でビールを飲みなさい」「ハーイ」というわけで、元気に乗船通路に続く階段を上って行った生徒達でした。小生よりも共に見送って下さった松山の先生方の方がじーんと来たらしく、名残惜しそうに手を振って連中の姿がすっかり見えなくなるまで見送っておられましたなあ。

■一緒に帰りの船には乗りませんでしたが、船室に荷物を置いたらすぐに風呂に走り、わいわいと楽しく入浴した後は深夜のデッキに上って隠し持った?酒を酌み交わして唄って踊ったことでしょう。翌朝には大阪南港に上陸して、それぞれの大学に無事に帰ったとのメールが届きました。事情が有って帰るのを1日伸ばした小生は、そのメールを松山で受け取ったのでした。従いまして、生徒の乗船を確かめてからは、大学の先生方と一緒に松山市内の某所に移動して、生徒抜きの「反省会」を2時間ほど楽しんで?あれこれと話し込んだのでした。大学入試の間隙を縫って実行されたチベット人学生の訪問イベントが終了して、翌日からは再び入学試験の監督や運営に当たらねばならないのに、深夜までお付き合い頂きまして、本当に有難うございました。

■大学の来客用宿舎に一泊しまして、もう1日だけ松山を密かに堪能してから、生徒と同じ船に1日遅れで乗って大阪に戻ったような次第ですが、そのたった1日のずれが、別のブログ記事にも書いた通りに、高知県でのカナダ製航空機の「胴体着陸」と、同じ愛媛県南部で起こった『白鯨』事件を非常に身近に感じる巡り会わせとなったわけです。実感としまして怒涛の3日間、前後の移動を含めればほぼ1週間、事前の打ち合わせや準備を含めますと1箇月余の時間を要した大イベントが、こうして終わりました。残念ながら「歴史的瞬間」に立ち会う機会を逸した松山の学生諸君や市民の皆さんが、後知恵とはなりますが微かにでも残った噂を頼りに、拙著を読んでチベットと松山との不思議な縁を考えて下されば幸いです。本当にチベット人が『坊っちゃん』を読んで翻訳までしたのかいなあ?と思われる方は、是非とも拙著を手にとってじっくりと読んで欲しいものでございます。下手な文章ですが、ウソ偽りは一切ございませんので、安心してお読み下さいませ。オシマイ

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チベット語になった『坊っちゃん』書評や関連記事

松山上陸作戦 其の壱拾四

2007-03-18 22:02:18 | 著書・講演会
※写真は全てのスケジュールが終わって港に向かう直前に「最後の説教」をしている時のものです。

■前回の記事に、チベット人が家畜を呼び分ける方法を紹介しましたが、それは人間にも応用されます、拙著『チベ坊』をお読みの方はご存知のように、体のサイズによって、例えば「太郎・大」「太郎・小」などと便利に区別しています。チベット式の乾杯が席を経巡る中で、そんな思い出話も飛び出して、小生が担当した教室で同名の生徒の「大」が叱られて「小」が褒められた事やら、怒ると非常に怖かったこと、「お前達はそれでもチベット人か!?」と痛い所をグリグリと突き回す、嫌な先生だったなどと思い出話に花が咲きました。

■その話が余程面白かったらしく、日本側の先生方から、生徒間に必ず存在したはずの小生に対する「悪口」を披露するように、との御注文が出まして、エッと言いつつ小生の顔色を伺う生徒達でした。聞こえない振りをしていると、おずおずと、髭が目立っていたから「山羊先生」と呼んでいた者も居たような話を初めて聞きましたが、そもそも、チベット人が楽しむ「渾名」というのは、彼ら独特のジョークの文化なので、決して陰湿な陰口や悪口には使われないのだ、という注目すべき文化論が飛び出しました。太っているから「豚」、前歯の間に隙間が有るから「ウサギ」、ちょっとワイルドな顔付きだから「猿」など、もっと露骨な肉体的な特徴や過去の失敗をモチーフにした多種多様の、日本人の耳には聞くに堪えない厳しい意味の渾名が飛び交うのです。しかし、ここに暗黙の鉄則が存在している!というオチが付きまして、日本の先生方は感心して唸りましたなあ。

■酒が入る楽しい座で、しかも本人が同席しているという前提の下で、話の流れに沿ったタイミングで衆知の渾名を上質な「肴」に出来る時に用いること!この規則を外して悪口や陰口に渾名を使うと、人格を疑われて大変なことになるのです。何だか、最近の悪質なイジメ問題を反省させられるような話なので、日本勢は腕組みして考え込んでしまいましたなあ。ちょっと座が重くなったので、チベット人の強烈なジョークは見渡す限りの草原という地理的条件から生まれたのではないか、という体験的な仮説を披露しました。これは中東の砂漠地帯で、ベドウィン一家と共に過ごした経験から導き出したものです。彼らは砂の上に座ったり横になったりしながら、日の出から日の入りまで、たまに紅茶を入れる以外はずっと喋っていました。一切のマスメディアも通信機器も無い砂漠の真ん中で、友人や知人の話を時空を超えて記憶を唯一の頼りに話しているらしく、砂の上を転がって大笑いしたかと思うと、次の悲しい話には涙を流していたりします。それを膝を抱えてじっと見ていた経験から、風の音しかしない草原で、笑いを導き出すには強烈な冗談が必要でしょうし、喜怒哀楽を演出するにはウソも混ぜ込んで話を作らないと役に立たないはずです。

■そんなわけで、チベット人にとってはジョークなのに、暢気で善良な?日本人にとっては悪質な「ウソ」としか思えない話術が表れます。愛媛大学の生徒たちも、打ち解けてからはチベット流のジョークに、何度も騙されて鍛えられたようです。これこそ異文化交流というものでしょうなあ。テレビもラジオも、残念ながら識字率の低さが際立つチベット地域で、文学作品などはどうなっているのか?とシンポジウムで質問が出たのでした。短い時間で答えたものの、甚(はなは)だ説明が不足してしまっていたので、酒も入ったことなので、チベットに伝わる「世界最長の物語」を取り上げることにしました。それは『ケサル王伝奇』と呼ばれる呆れるほど長い物語です。これが世界で最も長い物語であることは間違いが無いはずです。何故かと言うと、現在でも「未完」だからです。

■「知的所有権」だの「版権」だのと、近代社会は喧しいことを言いますが、『ケサル王伝奇』には著者も版権も存在しません。突如として神憑りになったチベット人が、奇妙な物語を喋り出しまして、よくよく聞いて見ると「未発見」の章だと分かって嵌め込まれるような具合で、ジグソー・パズルを組み立てるように年年歳歳、『ケサル王伝奇』は充実し続けているのです。ケサル文化には、日本の『平家物語』を広めた琵琶法師のように、プロの講釈師もたくさん存在しますし、学術的に調査収集している研究家も居ます。それとは別に神憑り状態になって長大な物語を朗々と語り出す人も居れば、新たな章を加える語り部も出現するという具合なのです。読み書きを知らないチベット人も、随分前に講釈師の巡業で聞いたり親から聞かされた『ケサル王伝奇』の一節を、子や孫に聞かせる習慣が有るので、誰でもこの物語を知っているのに、誰も全貌を知らない。つまり、書物にしようとしても「目次」を付けられないし、最終章も無いのですなあ。

■どうせ「ネヴァー・エンディング・ストーリー」なのですから、気に入った部分を何度でも子や孫に聞かせて楽しんでいれば良いわけです。数年前に日本で流行った「あらすじ本」などという文学を冒涜するような愚かなことはしないというわけで、名作や名人の芸を何度でも楽しむ高尚な趣味と同じ流儀で、「毎度お馴染みの話」を繰り返し楽しんでいるのです。この不思議な物語を「肴」にしたところ、日本の先生方は大いに興奮して熱心に質問をしておられましたなあ。でも、「皆さんがその物語を知っているのですか?」などと問われましても、誰も全貌を知らない物語なのですから、答えようも有りません。では、物語を知らないのか?と問われれば、チベット人生徒は口を揃えて「勿論、知っています」と答えます。父母から聞いた、祖父母から聞いた、とそれぞれの体験を語りますし、小生が水を向けて、神憑りになって長大な物語を語る「有名人」の名前を挙げさせると、遭った事もないのに各自が1人2人のビッグ・ネームを次々と挙げまして、それを聞いている他の生徒はその名前に頷くのです。

■そんな高尚な話だけでチベット式の宴会が済むわけもなく、馬鹿馬鹿しい冗談も交えながら、中生ビールのお替りとチベット式の焼酎乾杯が繰り返されたのでした。チベット軍団としては、ほんの序の口だったのですが、日本軍にとっては相当のダメージとなった宴会が終了しまして、フェリーの出港時間に遅れないように荷物を預けてある大学に向かったのでした。ちょっと?は酔ったチベット軍は、小生のリクエストに応じてチベット民謡を松山の夜道に響かせながら行進です。あまり近所迷惑にならないように、ボリュームを絞って唄うのは苦労なのですが、結構楽しんでいましたなあ。

■先生方の自動車とタクシーに分乗して港に向かう直前、「最後の説教」とて、これから本格的に始まる松山との交流と『坊っちゃん』翻訳の完成、その過程でさまざまな誤解・摩擦・衝突が必ず起こる!それは恋愛と結婚の違いのようなもので、美しき誤解の夢が覚めた後、互いに嫌な面や違いが際立って見えるのが当たり前なのだから、覚悟せよ!などと偉そうな話をしたのでした。車を待たせている短い話でしたが、「分かったか?!」と問うと、生徒達は「はい!」と力強く返事をしたのでした。遠巻きに見ていた人達も、ちょっと感動したようでした。

松山上陸作戦 其の壱拾参

2007-03-17 17:37:16 | 著書・講演会
■今回の連載では、言語や翻訳についての記述は冗長になるので、極力避けて来ましたが、3日間の中には相当に込み入った内輪の討論が展開されたのでした。『坊っちゃん』の舞台を歩き回った体験は、翻訳をする上で最良の資料となるのは間違いのないところですが、それは空間的な勘を養うのに役立つという限定が付きます。各種の文庫版や全集に収蔵されている『坊っちゃん』は、100年前の小説でありますから、さり気無く登場する品物の名前や地名、風俗習慣に関連する単語が、現代の日本人にとっても理解が難しい場合が多いわけで、手元に有る帰国後に入手した講談社版『少年少女日本文学館第2巻 坊っちゃん』は、極力、原典に忠実な表記で編集されています。子供用なので楽しい挿絵が入っているばかりか、「四つ目垣」「袷(あわせ)」「人力車」「西洋館」「鬼瓦」「硯の眼」……と懇切丁寧に図解してくれています。さて、そんな古典文学をまったく歴史と文化が異なるチベットの言葉に写し返るのか?という大問題は残っているのであります。

■その対応策を相談しながら、翻訳の大方針を何度も何度も確認する討論が必要だったのでした。インターネットを駆使しても、定期的に一堂に会して翻訳演習が出来ない状態で、どのように翻訳を進めて完成に持ち込むのか?あれこれ大小の方策が提案されては、皆で検討して実現実行の可能性を吟味したのです。詳しい事は割愛するとして、生徒たちの日本語能力が向上するにつれて、日本語との文法対応を強調する従来の翻訳法では、「日本語みたいなチベット語になってしまう」ので、多くのチベット人に『坊っちゃん』の面白さを伝えるにはどうするか?そして、分担作業で完成させるにはどうすべきか?などなど、技術的な問題から心構えまで、重層的に込み入った問題を、全部日本語で!討論を繰り返したというわけでした。それを眼前に見てしまった松山の関係者は、実に貴重な体験をしたということになりますなあ。

■拙著『チベ坊』の書名を初めて知った人は、誰しも「どうして漱石とチベットなんだ?」と怪訝な思いに駆られるものです。チベットには世界の知的遺産と言うべき膨大な仏典と文学作品が残っている事が、不思議なくらいに世の人々は知りません。それらのほとんどが、言語的にまったく異質のサンスクリットと漢籍からの翻訳を基盤としているという驚くべき事実も、余り知られていませんなあ。「あいうえお」と「テニヲハ」が気味が悪いほど似ている日本語から、有名な小説を翻訳するくらいなら、専門が理系の生徒達にとっても、多少の助力を得られればそれほど難しいことではないのです。この理屈を理解して貰うのが大変なのです。拙著の読者の皆様なら、それが御理解いただけるのですが……。今回、日本語でチベット人翻訳者!と交流した松山の有志の皆さんは、この道理を身を以って理解したでしょう。

■さてさて、すっかり暗くなった大学構内を出まして、愛媛大学の学生御用達の居酒屋に繰り出した我々一行でしたが、今回のイベントの興奮からか、道々交わしたお喋りも、妙に言語学的な話題に流れたのでした。面白かったものをご紹介しますと……チベットの家畜に名前が有るのか無いのか?チベット人が飼っている犬や羊が複数である場合、色や体型を示す一種の記号のような名称を用います。しかし、日常的な会話で「チベット人は家畜に名前を付けますか?」と問われた場合に何と答えるべきなのだろう?日本人がペットの犬や猫に「クロ」「シロ」「ショコラ」などと毛色を表わす名前を付けるのと、それは同じなのだろうか?決定的なのは、チベット人は「顔黒の羊」「大角の山羊」などの名称を付けても、絶対にその生き物をその名前では呼ばないという事実です。従って、チベット人は家畜(犬を含む)の個体を区別するために「記号」としての名前は付けますが、日本人のような家族扱いの名前は使わない、という結論になりました。

■歩きながら納得した一同の中、片上先生から、「以前、勤めていた高校で、同じ苗字の教員が4人も居ました。同僚教員は、それぞれを1号、2号、3号、4号と呼び分けていましたが、米国から研修に来た教師から、英語にしたらNo.1~No.4になるのに、どうして1番、2番…と言わないのか?と問い詰められて、大いに困りました」とのお話が出ましたなあ。日本語の「1号」と「1番」はどう違うのだろう?と、チベット人と日本人が考えながら居酒屋に向かって歩いている図は、なかなか面白いでしょう?旅限無としましては、面目に懸けて気の利いた答えを見つけようと、ちょっと頑張ってみました。仮説として、「1号」には機能性や生命反応、つまり動態的なイメージが有りますが、「1番」には単なる順序を示すだけで静態的なイメージが有るのではないでしょうか?と精一杯の思い付きを披露したところ、皆さんが納得してくれたのでした。そうこうしている間に、目的地の居酒屋に到着です。

■学生向きに良心的な値段で酒と肴を提供しているお店なので、皆で注文をまとめる前に、こちらは一計を案じまして店員のお兄さんに、安めの焼酎を1本と「小さめのぐい飲み3箇」を注文してしまいまして、細工は隆々、仕上げをごろうじろで御座います。松山名物と学生向き料理、チベット人向きに肉料理などの品定めが決まりまして、お決まりの中生ビールも人数分です。予定通りに中生ビールと同時に、御銚子も注文していない座敷席に空っぽのぐい飲みが3箇と料理が載っていない空の平皿が焼酎の瓶と一緒に運ばれて来まして、所在無げに卓上に置かれます。事情が分からない日本人勢は「何事か?」と心配顔なのですが、我らチベット軍団は目配せもせずに、はいはい、それそれ、と皿の上にぐい飲みを正三角形にセッティング、1人の生徒はさっさと焼酎の瓶を手にとって封を切り、小生からの「おい、日本人用に半分だぞ」の指令に従って、3箇の小さな器に焼酎を注いで準備完了!

■総責任者の大任を果たした佐藤教授に皿を捧げながら、チベット人学生代表がお礼と慰労の言葉を述べます。眼を白黒させながらも、厳粛に礼を受けようとする佐藤先生に、「皿ごと受け取って下さい。右手の薬指を器の一つずつに浸して指を天に向かって弾いて下さい」と矢継ぎ早に御教授しまして、ちょっとぎこちなくチベット式の乾杯を強制されてしまったのでした。日本でも「駆けつけ三杯」と申しますが、チベット式の乾杯は、指を使った儀式が終わったら、ぱっぱと3杯の酒を嚥下(えんか)しなければなりません。まあ、健康上の理由や体調の問題が有る場合は、「指で天に弾くだけでも良いですよ」と生徒達が助言した通りなのですが、大任を果たした安心感からか、感動のあまりか、佐藤先生はチベット人も惚れ惚れするような飲みっぷりを示したのでした。

■多数のチベット人にたった一人招き入れられたような場合は、集中攻撃を受けて「潰される」運命に追い込まれるのですが、今回は主賓が何人も居たのでその難は免れました。モンゴル文化が御専門の矢澤先生は、「モンゴルに似てますね」と仰りながら、見よう見真似ながら、なかなか堂に入った飲みっぷりでした。写真はその時のワン・ショットであります。

松山上陸作戦 其の壱拾弐

2007-03-17 17:36:51 | 著書・講演会
※写真は愛媛大学職員会館ロビーでの生徒達の「別れ」の場面です。泣いているのは、撮影用のヤラセ演出なのか、それともヤラセにかこ付けて涙を誤魔化したのか、それは謎のままです。

■交流会の後片付けが終わったら、さすがにタフなチベット人生徒たちも草臥れて、思い思いに床を延べて横になり始めました。実は、講演会の度に使っている授業風景や翻訳演習の様子を撮影したビデオ映像を、彼らは一度も見た事が無かったのです。今回の講演会でも早送りをした上に途中で上映を止めて翻訳デモンストレーションに流れたので、彼らは是非とも全部を観たかったのでした。「ビデオを観ようか?」の一言に寝入ったばかりの生徒ももぞもぞと起き出します。部屋に有るビデオをお借りして上映会をと思ったのですが、いろいろな機械が複雑に接続されていて、30分ほど皆で格闘したものの、結局上映に成功せず落胆した思いで疲れが倍増しまして、皆でぐっすりと松山最後の夜を眠って過ごしたのでした。でも、神仏の御加護と人の親切によって翌日にしっかりとビデオ映像を堪能する事が出来ましたぞ。

■一夜が明けますと、松山最後の3月11日です。午前中は市内から少し離れた所にある「坊っちゃん劇場」でミュージカルを鑑賞し、午後は大学に戻って休息と懇親会を兼ねた反省会のような集まり、それから出発ぎりぎりまで『坊っちゃん』の翻訳を少しでも進める予定になっておりました。今回の交流イベントに協賛して下さった「坊っちゃん劇場」さんには、我々のために特別料金を設定して頂きました。小生は勝手ながら別行動を取らせて頂きましたので、ミュージカル鑑賞には参加しませんでしたが、生徒達は本当に楽しんで来ましたぞ。劇場の人達とも特別な交流が出来たようで、以下のサイトに記事が載っています。

松山「坊っちゃん劇場」のスタッフ・ブログ

■すっかり『坊っちゃん』のストーリーが頭に入っている生徒達は、ジェームス三木さんの脚本がオリジナルを思い切って再解釈した事がはっきり分かって、帰りの船に乗るまで待機することになっていた愛媛大学の職員会館に先に落ち着いていた両国の学生達は、昨日のシンポジウムを取り上げた当日の新聞を回し読みしたり、ミュージカルの話題で盛り上がっていました。ああでもない、こうでもないと一端(いっぱし)の『坊っちゃん』評論を繰り広げている風景は、頼もしいものでした。小生は、NHK教育テレビが放送した特集番組で、脚本のジェームス三木さんや主役を演じた役者さんのインタヴューを含めた舞台の中継録画を観ていたことも有りまして、個人的な都合を優先させて頂いたのですが、生徒達はのびのびと過ごす事が出来て良かったようですなあ。愛媛大学の学生諸君ともミュージカル『坊っちゃん』という共通の話題ですっかり打ち解けたようですし、支援して下さった皆さんが組んだ企画は、こうして滞り無く消化されまして、交流と『坊っちゃん』のチベット語翻訳実現に向けての一歩を踏み出せたと言えそうです。

■イベントの締め括りとして、両国の学生がレポートを書くことになったのですが、チベット人学生は日本人学生に負けない質と量の文章を書き上げたので、改めて面目を施すことが出来ました。翻訳と自由作文は違う能力が求められますからなあ。こうして、3日間ともに過ごした愛媛大学の学生諸君とのスケジュールは全て終了という事になりまして、出港までの時間をどう過ごすか?という分かり切った事が、チベット人生徒から蒸し返されたのでした。翻訳をやるに決まっておるではないか?と小生は応えたのですが、大阪で再会して以来、旧交を温める酒宴が足りない!というのが連中の主張で、「久し振りに会えたのですから、先生、飲みましょう!」の大合唱に押されまして、それも道理が有る話なので、「よーし、では多数決!」ということにして、決を採ったら圧倒多数が「酒!」に手を上げたのでした。

■急に決まった宴会なので、愛媛大学の両先生と、陰に陽にイベントの進行をサポートして下さった片上先生も個人として参加するとの申し出を受けまして、少々残った後片付けを済ませ次第に大学近くの居酒屋に向かう事となりました。さて、ここでビデオ上映が出来るか出来ないか、最後のチャンスとなったのです。残念ながら職員会館にはビデオ再生機器が備えられておらず、丁度、受験期間に当たっていた大学構内は、あちこちが出入り禁止の厳しい管制下に有って視聴覚機材を持ち出せないという不運が重なっているとの事で、諦めるしかないかなあ、と相談しているところに、会館の管理をしている御夫人が、個人的に宿直室で使っていた再生専用のビデオ・デッキのリモコンが故障したのでリサイクル業者に渡そうと仕舞い込んでいた一台が有ることが判明したのでした。早速、1階ホールに設置してある大型テレビに接続して手動スイッチを操作してみますと、見事に鮮明な画像が得られたのでした。

■6年前の各クラスで撮影した授業風景を講演会用に編集した30分ほどのビデオでしたが、偶然にも自分達のクラスが写っているとて、生徒達は大喜びでした。『坊っちゃん』翻訳演習の風景も、右も左も分からず、小生の指示と誘導に従ってもたもたと翻訳している初々しい自分達の姿を見た生徒達は、感無量の表情で画面を一心に見詰めていましたなあ。ビデオの再生が可能となったのを確認してから、先生方とちょっとした打ち合わせをしていた小生は、ビデオの最後に「極秘の映像」が収められていることをすっかり失念してその場を離れてしまったのは迂闊でした!

■用件が済んでホールに戻ると、まるで人気が失せたように静まり返ってビデオ映像の音声だけが響き渡っていたので、もしやと思って小走りにテレビが有る場所に来て見れば、既に秘密が秘密でなくなっていたのでした。それは、「我が師」が個人的に開いて下さった別れの席の映像なのです。拙著『チベ坊』に書いた通り、「我が師」は日本語会話にはまったく興味が無く、もっぱら文法に集中した変則的な日本語学習を数ヶ月間で終了し、狂言『附子(ブス)』、柳田國男のラジオ講演録『日本語成長の楽しみ』、そして、チベット学の権威である山口瑞鳳氏の難解なチベット文法に関する日本語論文を、立て続けにチベット語に訳したという事になっています。

■しかし、品詞名や助詞の種類などなど、「我が師」と小生との間で交わされた濃密な議論の中には、多くの日本語が混入していましたし、「我が師」の方でも個人的に教科書準拠の会話テープを入手して聴き始めていたので、「てにをは」が妙に強めの日本語会話が少しは出来るようになっていたのです。小さな内輪の宴会という気安さで、「我が師」は小生との思い出を日本語で楽しそうに語っている映像が、問題のビデオには収められていたというわけです。チベット語文法の鬼として有名だった「我が師」でしたから、生徒達は画面上で温和な表情で笑いながら「日本語」を話している「我が師」が、まったくの別人としか思えなかったようですなあ。「日本語が話せたのか?!」「こんな顔をしていたかなあ?」そんな声が上がっていました。

松山上陸作戦 其の壱拾壱

2007-03-17 17:36:19 | 著書・講演会
■写真は松山検番の千代鷺さんと八千代鷺さんを嬉しそうに囲んでいる生徒達です。まったく、芸者遊び?が出来る留学生などが居ても良いのでしょうか?元先生としましては、少々複雑な思いも致しますなあ。元先生がチャプチャの地で留学生だった時に、どんな生徒だったのか、よーく思い出して欲しいものであります!まあ、日本文化の精髄でもありますから、御姐さん方に感謝して今回は大目に見ましょうか?お忙しい中、御姐さん方が特別に駆けつけて下さったのは、自分達も松山道後温泉に伝わる伝統芸を必死に守っているのだから、皆さんも折角始めた『坊っちゃん』のチベット語翻訳を、しっかりと完成させなさいよ、と「活」を入れるためでした。今回の松山訪問が実現した裏には、いろいろな人達のご尽力が有ったと言うお話です。

松山上陸作戦 其の壱拾

2007-03-17 17:35:55 | 著書・講演会
■表のクライマックスが愛媛大学でのシンポジムなら、裏のクライマックスはこの日の夜に催された「智房庵」での交流会でしょうなあ。松山随一の綺麗どころの御姐さんが舞って下さるわ、それにチベット民謡で応えるわ、松山名物の鯛めしと五色素麺には麺片(ミェンペン)でお返しするわ、眼と耳と舌を総動員の一夜でした。でも、残念ながら?学生間の健全な交流という建前上、アルコール抜きだったのは残念でしたなあ。まあ、チベット式の酒盛りは翌日にしっかり実現しましたので、そのお話は乞うご期待!

■大衆芸能を切り口に日本とチベットを比較しますと、向こう三軒両隣、長屋文化の延長で生まれたワン・ルーム・マンションなどという翻訳不可能な小さな現代住居を生み出した日本には、細かく空間を仕切って細くて澄んだ声に乗せて唄う芸能が発達しました。江戸の木場に発展した「木やり」という恐ろしく遠くまで届く発声法も編み出されたようですが、草原で祭りや宴会を続けていたチベットには、この「木やり」とそっくりの発声法が根付いています。これを高い天井と贅沢な空間を持つ「智房庵」と言えども、まともにぶつけたらどうなるでしょう?芸者さんが披露して下さった艶やかな舞を口アングリ状態で堪能したチベット人生徒は、紙と木で仕切られた空間で唄われる日本の歌に驚いたに違い有りません。妙に最新の芸能情報に詳しい留学生になってしまった彼らは、携帯電話から小型音響機器まで自在に操って、徹底的に工業的に加工された歌声を日本で楽しんでいるようでしたが、本来の日本歌謡は小さな座敷で楽しむものだという事を体感したことでしょう。

■チベット服特有の長い長い袖を振り回して舞うには、贅沢な間取りの「智房庵」でも手狭なのでした。それでも良いから「唄って踊れ!」と小生が命じると、一見渋々、本心は嬉しくて仕方が無い生徒達はのそのそと前に出まして、ほんの数秒間の打ち合わせをしただけで、代表のフソンナム君を残して一旦下がりました。歌と踊りと料理が得意な彼は、ちょっと上気した顔で第一声を発したのです!草原対応の全身から吹き上げる発声法で日本家屋の中で唄うとどうなるか?歌のプロの芸者さんはともかく、愛媛大学の生徒も先生方もあまりの事に石のように固まってしまいました。マイクとアンプとコンピュータを駆使して増幅加工した歌声ではなく、さっきまで一緒に話していた生身の青年が目の前で唄い出したのですから、トリックが有るはずも有りません。でも、強固な壁を素通りして御近所に響き渡るような声量が、本当に1人の人間から発せられているのかどうか、初めての人は判断に苦しむでしょうなあ。

■余人ならず旅限無本人が10年近く前に仲良くなったチベット人達を自室に招いた時に、歓迎と御礼を兼ねて唄って貰った衝撃を、どうしても松山の人にも体験して欲しかったのでした。生徒達は、小声で「本当にここで唄って良いのですか?」と何度も念を押したのですが、「やれ!」と命じたので素直に喜んで唄ったのでした。きっと、その歌声で草原という場所を想像出来たのでないでしょうか?大成功だったと思います。ただ、残念ながら板の間でチベット舞踊をすると足が滑って顛倒の危険が有るので、少しは頑張ってくれましたが、残念ながら中断するしかなかったのは心残りだったでしょうなあ。はんなりと舞う細やかな日本舞踊の後で、勇壮そのもののチベット舞踊を披露するという旅限無の悪巧み?は、中途半端に終わってしまいましたが、衝撃度は申し分無かったようです。

■ちょっとした手違いで、折角御用意して頂いた羊肉が現場に届かず、煮た羊肉の味を紹介出来なかったのは残念でしたが、「麺片」という代表的な青海省料理を皆で楽しめたのは大正解でした。小麦粉を練って小半時熟成させた後、適当な大きさに切り分けてから細く伸ばし、左手首に巻き付けて先端を押し潰しながら繰り出し、それを右手の指で千切っては投げ、千切っては投げ、煮立っている鍋の中では肉と一緒に炒めた大根・人参・セロリが踊っております。チベット人学生は、ここぞとばかりに腕前を披露しようと、張り切って手際の良いところを誇示します。広いキッチンに集まった10人以上の人達は、彼らの指先から次々と飛び出して行く麺の断片に歓声を上げました。1人はその作業に専念しまして、他の生徒は手取り足取り日本人生徒にコツを伝授して、順番に鍋に麺を千切って投げ込んで楽しみました。

■煮上がった大鍋をテーブル上に運び込んで、「これはチベットのワンコ蕎麦だと思って下さいね」と一言断ってから、松山名物で一応お腹が落ち着いている皆さんに無理強いして食べて頂きました。黒酢をかけて食べる麺片は、予想以上に好評で、大きな鍋が見事に空になりました!香川の讃岐うどんに対抗して、松山名物「麺片」が有名になったりしたら面白いでしょうなあ。愛媛の山で羊を飼って貰うと本格的な味も出るというものですが……。

松山上陸作戦 其の九

2007-03-17 17:29:14 | 著書・講演会
■チベット人生徒と愛媛大学の生徒は皆リフトに乗って城に登りましたが、先生方と小生はロープーウェイのゴンドラを利用しました。リフト組の方が先発したのですが、ゴンドラの方がスピードが有りますので、途中で追い抜くことになりました。早咲きの桜などを愛でていた乗客が、リフトに乗った奇妙な服を着た一行に気が付いて、わいわいがやがやと取り沙汰が始まり、「モンゴル人じゃないか?」「ああ、そうだなあ」との声が聞こえて来ましたので、僭越ながら、「あれはチベット人です」と割り込みますと、ゴンドラ中で「ほおー」の歓声が上がります。「皆、日本語が上手なので、どうぞ、お気軽に声を掛けてやって下さいね」と付け加えておきましたので、あちこちで交流が持てたようです。

■城内を隈なく見学してリフト乗り場に戻る途中、土産物屋に入った生徒達はすっかり人気者になっていて、店員さんや観光客と楽しいお喋りを楽しんだのでした。初日からチベット服で市内を歩き回ってシンポジウムの宣伝ビラでも撒かせた方が良かったですねえ、と大学の先生方と話しましたが、後の祭りというものです。事前に地元の新聞でも予告記事を掲載して下さったものの、広報にあと一工夫が足りなかったのか、シンポジウムに集まって下さったのは50人ほどでした。中には昨年5月の講演会に引き続いて参加した方もいらっしゃいましたから、この機会にチベット人と交流しようと足を運んだ方は案外と少なかったようです。佐藤教授曰く、「歴史的瞬間を目撃する体験」となった貴重な機会でしたから、気軽に物見遊山で参加して頂けたら一生の思い出になったかも?以下が式次第でございます。立派なパンフレットまで作って頂きながら、肝腎の講演がどれほど面白かったか、不安でもあります。

■公開シンポジウム「チベット語になった『坊っちゃん』」

日時:2007年3月10日(土)13:00-16:00
場所:愛媛大学共通教育本館33教室

プログラム
司会 片上秋之(愛媛大学法文学部学生)
13:00-13:10 挨拶 福田安典(愛媛大学地域創成研究センター)
       メッセージ 愛媛県知事・加戸守行,
       愛媛大学長・小松正幸
13:10-13:50 講演 中村吉広氏(著述業。主著『チベット語にな った「坊っちゃん」』(山と渓谷社,2005年))
うち,15分はビデオ上映。
13:50-14:30 翻訳授業 中村氏とチベット人留学生6名による
『坊っちゃん』チベット語訳授業のデモンストレーシ ョン
14:30-14:40 休憩
14:40-15:25 コメント
佐藤栄作(愛媛大学教育学部教授)
難波多輝子(愛媛大学教育学部学生)
片上雅仁(歌人)
15:25-16:00 フリーディスカッション

主催:『坊っちゃん』チベット語訳の完成を支援する会
(代表:佐藤栄作)
共催:愛媛大学地域創成研究センター
後援:愛媛県,愛媛県教育委員会,松山市,松山市教育委員会
   朝日新聞社松山総局,愛媛新聞社,南海放送

■司会進行役を立派に務めてくれた片上秋之君は、地元のベテラン高校教師にして著名な歌人でもある片上雅仁先生の御長男で、堂々たる仕切り方が評判でした。ご苦労様でした。県知事と学長のメッセージも代読して恙無くシンポジムが開催されたのは、彼の活躍に大きく負っておりました。小生の講演も翻訳授業の再現も、拙著『チベ坊』に詳しく書いた内容を、論より証拠で実際に見て頂く目的で行ったものです。ですから、拙著をお読みになった皆さんには馴染み深い内容だったと思われます。しかし、最後に行われた「フリーディスカッション」での日本語による直接のやり取りには、参加して下さった皆さんが大きな衝撃を受けたようです。勿論、通訳などは一切無しで次々と様々な方面から投げ掛けられる質問に、即座に応答する生徒たちの様子には皆さんが本当に驚かれたのだそうです。出だしの20分ほど撮影してお帰りになったテレビ局の方は、貴重な記録を採り損なったのかも知れませんなあ。釣り落とした魚は大きい?

■すべての出し物が終了した後、小生は新聞社の取材に応じておりましたが、生徒達は事前に用意していたチベット書道の竹ペンを使って拙著にサインして販売に協力してくれていました。中にはシンポジウムに感動した!と仰って2冊もご購入した方が居られたとか……。有難う御座いました。地元新聞に掲載された記事も間も無くアップしますが、以下のサイトでも概略が分かると思います。
愛媛大学広報部公開サイド


松山上陸作戦 其の八

2007-03-17 13:20:36 | 著書・講演会
■一夜が明けて、いよいよシンポジウム当日なりました。松山訪問が正式に決定した時から、生徒たちには「チベット服持参」を厳命?しておきましたので、起床・洗顔の後は自慢の民族衣装の着付け時間となりました。1人だけはチベット服を持たずに来日していたので、友人から借りた上着だけでしたが、残りの4人はしっかり日本のドテラに似た布製のチベット服を着ました。しかし、考えてみれば海外に留学する日本人学生の中で、一体、何人が和服を持って行くでしょう?否、持って行く以前に男女共に和服を着られないという問題も有りそうですなあ。それに比べればチベットの伝統文化はまだまだ元気とも言えそうです。

■大学近くの喫茶レストランで朝食を頂きました。話は先回りになりますが、この喫茶店で翌日も個人的に昼食を採ることになったのですが、その時、松山という場所が本当に海の要衝で文化の交差点になっている体験をしましたぞ!問題はお味噌です。注文した定食に付いて来た汁物が、関東人の目には洋食の豆スープにしか見えないのですが、これは立派なお味噌汁!麦味噌なので関東では「金山寺味噌」で味わえるほのかな甘みによく似た味わいが有ります。お味噌の銘柄を尋ねようと、マスターに声を掛けましたところ、こちらの聞き方が悪かったのでしょう。応対がちょっと喧嘩腰?なので吃驚してしまいました。「不味いん言うんやろお!」と低い声で詰め寄られて、どぎまぎしながら「トーンでもございません」と急いで否定しましたが、「どっから来たんね?」と畳み掛けられたので素直に答えますと、「ここの大学の先生の中にも、松山の食べ物は美味しいけれど味噌だけは勘弁してくれえ言う者んがおるんよ」と事情を説明して下さいました。

■マスターが仰る「東の者」というのは、「伊勢」どまりなのですが、松山の味噌は甘い過ぎてとても飲めた物ではない、という感想が多いそうです。関東から見れば伊勢あたりも西の文化圏のような気がしますが、松山からは立派な東国と思われているようです。こちらは新鮮な味わいに感動している事を伝えますと、マスターの態度が一変しまして、キッチンから未開封の味噌樽をテーブルまで持って来て頂きまして、「うちは今治の自家製しか使わんのじゃがのお」とお味噌の薀蓄を聞かせて下さいましたぞ。まあ、食えんこともない松山で入手可能な銘柄を教えて貰いながら、封を切ったばかりのお味噌に爪楊枝を突っ込んで、味見をさせて頂いた次第です。まあ、昔から嫁と姑との感情的な対立の主要な原因とされていた料理の味、そのまた中核となっていた味噌汁の味は、和食文化が滅びない限りは永久に解けない大問題なのでしょうなあ。オマケに、大学の宿舎で供された食事には、管理人さんの出身地の九州の味噌が使われていると聞き及びまして、味覚の東西対立が松山の地には潜んでいる事を学んだのでした。因みに喫茶店のマスターは、ちょっとテレながら「持って行くか?」と言いながら味噌樽の包装紙を土産に下さったのでした。

■閑話休題。午後のシンポジウムに使う辞書類を大学の控え室に預けて、正門で愛媛大学の学生達と落ち合い、松山城に登るリフト・ケーブルカー乗り場に向かったのでした。見慣れないチベット服を着た一行が歩いているのですから、遠目にも目立つので通行人が足を止めては何事かは話していましたなあ。幟旗でも掲げて歩けば良かったかも知れません。昨年5月にお邪魔した時には、数十年ぶりの大改修工事の真っ最中で、お城は白い工事用シートで覆われてその美しい姿を拝めなかったのですが、今回は改修成ったばかりのお城を堪能することが出来ました。歴史を振り返りますと、幕末の動乱期に佐幕派に組した松山藩は、長州征伐にも率先して参加して瀬戸内海の島で随分と活躍したのだそうです。ところが、鳥羽伏見の戦いに錦の御旗が出現して形勢が一気に逆転してからは、長州藩による復讐を心配しなければならない立場になってしまいます。情報網が発達していたからか、松山藩は自らの不利を早くから悟って恭順の意を伝えたお蔭で、お城も城下の町も焼かれずに済んだというわけです。長岡藩や会津藩など城も町も焼き払われた所とは違う歴史を持つ町なのですなあ。

■『坂の上の雲』にも、近代日本の陸軍で最初の騎馬兵団を創設した兄好古さんと、バルチック艦隊撃滅の立役者となった参謀の真之さんの兄弟も、海の薩摩と陸の長州には常に遠慮せざるを得ず、気詰まりだった話が出ています。考えてみれば、佐幕派中の佐幕派だった江戸東京の出身の漱石(坊っちゃん)が、同じ佐幕派だった松山に来て、意地悪を言い続けるのは奇妙な話ではあります。


…少し町を散歩してやろうと思って、無闇に足の向くほうを歩き散らした。県庁も見た。古い前世紀の建築である。兵営も見た。麻布の連隊より立派ではない。大通りも見た。神楽坂を半分に狭くしたぐらいな道幅で町並みはあれより落ちる。二十五万石の城下だって高の知れたものだ。こんなところに住んで御城下だなどと威張っている人間は可哀想なものだと考えながら来ると、いつしか山城屋の前に出た。

■「無闇に」歩いたと言う割には、今の市役所が有る区域を時計回りに一周しただけだと分かります。そこからは城を間近に仰ぎ見ることになるので、何かと東京の地名を引き合いに出して松山を貶(けな)して見せるのには無理が有るような気がしますなあ。本丸に登って内部の巧妙に設計された構造を見るまでもなく、平地に屹立する難攻不落の山城の威風は相当なものでありますぞ。ところで、「25万石」とはどれ程の分量なのか?『坊っちゃん』を翻訳する時にチベット伝統の古い度量衡を調べ直して見事に換算して見せた生徒が、偶然にも今回の旅行に参加していました。でも、実際にお城に登ってビデオ資料を見ていたら、本当は「15万石」だったことが分かりました。すると漱石はあれこれとイチャモンを付けながらも、10万石を上乗せしてくれていた事になるわけです。『坊っちゃん』という作品には、いろいろな謎が潜んでいるようですなあ。

松山上陸作戦 其の七

2007-03-17 13:10:07 | 著書・講演会
■坂道を登って行ったのは、「萬翠荘」と「愚陀仏庵」を見学するためでしたが、フランスから資材を取り寄せて建てられたロココ調の「萬翠荘」の手前に、木造平屋の建物が有りまして、『坊っちゃん』が骨董攻めに遭う下宿のモデルとなった所と推定されていると聞いて、生徒と一緒にしみじみと眺めたのでした。「愚陀仏庵」は結核を発症した子規が漱石と同居した有名な建物で、1階を子規に明け渡した漱石は連日続く盛大な句会の話し声が邪魔で読書も思索も出来なくなってしまいます。子規との友情を優先した漱石は、子規一派を追い出すのではなく、自分も句会に参加することにしました。そこから作家・漱石が育って行くことになったのですから、『坊っちゃん』胚胎の地と言えるでしょうなあ。元々は、今の場所と松山中学と正三角形を作る位置に当たる市中の繁華街に有ったそうで、焼失後に再建しようという計画が持ち上がった時にその場所の選定で大いにもめたそうです。

■歴史的意義を考えたら元の場所が良いでしょうし、文化遺産とするのならビルに取り囲まれて見下ろされることになる場所は不都合です。熱い議論の末に四季の変化を感じられる樹木に囲まれた場所に再建される事に落ち着いたそうで、目出度し目出度し。では、再建計画から漏れた現地はどうなっているかと言うと、「愚陀仏庵」の名前を冠した駐車場になっております!その近くに『坊っちゃん』でウラナリ君の送別会が開かれた料理屋に比定される店も有ります。我らは同地区の「喫茶 坊っちゃん」で昼食を採りました。帰り際にママさんから岩波の漱石全集の装丁を模した店のマッチを人数分頂きました。

■路面電車でいよいよ「泳ぐべからず」の道後温泉に向かいました。なかなか大仕掛けのカラクリ時計を見物してから、温泉周辺を散策。完成したばかりの『坊っちゃん』記念の碑も拝見しました。漱石の生原稿を刻み、早坂暁氏が揮毫(きごう)した小さいけれど立派な物でした。アニメの『千と千尋の神隠し』に登場する湯屋に似ていると言われる温泉建物前で、半日かけて御案内下さった頼本会長とはお別れでした。一同で御礼を申し上げ、ぞろぞろと3階の座敷に上がったのですが、入り口で待ち構えていた産経新聞の記者に捕まり?小生だけはそれに応じて10分ほど送れて上がりました。慌てていたので下足箱の鍵を落としてお騒がせしてしまったのは汗顔の至りでありましたなあ。利用したのは2階の浴室なので、1階よりも小さめ浴槽なので泳げませんでしたが、座敷で美味しいお茶と「坊っちゃん団子」を楽しめましたぞ。翌日、産経新聞さんは写真入りの立派な記事を掲載して下さいました。

■ぬるめの湯なのに不思議に湯冷めしないのが道後温泉の特徴らしく、ぽかぽかしたまま坊っちゃん列車に乗って市内に向かいました。通常の路面電車に乗り換えて愛媛大学へ、先生方は翌日のシンポジウムの打ち合わせなどで一室に籠もってあれこれ細かい相談を始めたので、我々は5年のブランクで錆付いているかも知れない『坊っちゃん』翻訳の能力を互いに確認しようと、控え室に使わせて頂いた部屋のホワイト・ボードを使って中断していた箇所から、昔通りの翻訳演習を再現したのでした。拙著では「幻のバッタ事件」という章を立てておきました通り、当面の難所はバッタとイナゴの訳し分けと、漱石一流の江戸っ子の駄洒落!


…俺はバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、大きな図体をして、バッタを知らないた、なんのことだ」と言うと、一番左の方にいた顔の丸い奴が「そりゃ、イナゴぞなもし」と生意気に俺をやり込めた。「べら棒め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生をとらまえてナモシた何だ。菜飯(なめし)は田楽のときよりほかに食うもんじゃない」とあべこべにやり込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞなも、もし」と言った。いつまで言ってもナモシを使う奴だ。…

■この「菜飯」と「なもし」を掛けた江戸っ子の啖呵(たんか)をどうやってチベット語に写すか?これは大問題なのであります。一種の感嘆詞で文末に付く「なもし」はチベット語訳には反映されていませんし、「菜飯」を分かり易く説明したらますます「なもし」から離れて行きますからなあ。その解決策は後ほど書きましょう。さてさて、打ち合わせと相談が思いの外長くなってしまった先生方が部屋に入って来た時には、すっかりチャプチャの学校時代が蘇ってわいわいがやがや盛り上がっていたものですから、きっと暇を持て余して退屈しているに違いないと思っておられた先生方は目を丸くしていましたなあ。


学校には宿直があって、職員が代わる代わるこれを務める。但し、狸と赤シャツは例外である。何でこの両人が当然の義務を免れるのかと聞いてみたら、奏任待遇だからという。面白くもない。月給はたくさん取る。時間は少ない、それで宿直を逃れるなんて不公平が有るものか。勝手な規則をこしらえて、それが当たり前だというような顔をしている。よくまああんなにずうずうしく出来るものだ。これについてはだいぶ不平であるが、山嵐の説によると、いくら1人で不平を並べたって通るものじゃないそうだ。1人だって2人だって正しい事なら通りそうなものだ。山嵐は might is right という英語を引いて説諭を加えたが、何だか要領を得ないから、聞き返してみたら強者の権利という意味だそうだ。…

■小一時間でこの程度の翻訳が出来ましたぞ。「奏任待遇」などは今の日本人だって分からない単語も、簡単に説明したらあっさりとチベット語になりましたし、以前から気になっていた「山嵐」は棘棘の有るネズミに似たあの動物を指しているのか?などというややこしい話まで挟んでの翻訳ですから、生徒たちの腕は鈍っているどころか、ますます磨きがかかっている事が確認されたわけですなあ。大したものです。夕食を済ませて「智房庵」に落ち着いたのはすっかり夜の帷(とばり)も下りた午後9時頃でした。1日中歩き回り、道後温泉に浸かったと言うのに生徒達は元気で、薪ストーブの近くに思い思いに席を占めて各自が持参した『坊っちゃん』の文庫本を読み始めました。そこに宿舎の管理責任を負ってる矢澤先生が入って来たので、チベット人が日本語の文庫本を読んでいる風景にちょっとした衝撃を受けた模様でしたなあ。

■来日してから『坊っちゃん』を購入した生徒達は、所々は読み飛ばしつつも既に2回も3回も通読しているとのことで、今回は頭の中でおおまかな翻訳をしながらの下読みを始めたというわけです。小声で意味を確認し合いながら真剣に読んでいる姿は、なかなか迫力の有る緊張感を醸し出しておりましたなあ。

松山上陸作戦 其の六

2007-03-17 11:14:36 | 著書・講演会
※写真は旧松山藩主が明治期に建てた「萬翠荘」

…それから車を雇って、中学校へ来たら、もう放課後で誰もいない。宿直はちょっと用達しに出たと小使が教えた。ずいぶん気楽な宿直がいるものだ。校長でもたずねようかと思ったが、くたびれたのから、車に乗って宿屋へ連れてゆけと車夫に言いつけた。車夫は威勢よく山城屋といううちへ横付けにした。山城屋は質屋の堪太郎の屋号と同じだからちょっと面白く思った。……

■我らは伊予電に揺られて松山市駅に到着です。松山には、JR松山駅と伊予鉄道の松山市駅が有りますから、前者を「松山駅」、後者を「市駅」と呼び分けるのだそうです。ここで市内のバスと路面電車の1日乗り放題カードを購入して頂きました。スクラッチ式で、使用日の数をコインでごしごしと削り出して使用します。粗忽者は別の数字を削り出してカードを無効にしてしまう危険が有りますが、万一、うっかり日付を間違えて削ってしまったら、買った所に戻って交換して貰える事を、本人の名前を伏しつつ、生徒の1人が身を以って証明してくれた事を記録として書いて置きましょう。カードは路面電車の車内や各伊予電駅で買えますし、ちょっと複雑な路面電車の乗り換えは地元の市民の皆さんが懇切丁寧に教えて下さいますから、ご利用をお薦めいたします。因みに値段は300円なので2回利用したら元が取れます。

■閑話休題。松山市駅で我らを待っていたのは、松山『坊っちゃん』会の会長・頼本冨雄先生でした!坊っちゃんニュースのサイトで健筆を振るっておられます。同サイトに今回のイベントに関する文章を書いて下さっておりますが、ほんの少し事実誤認がございます。青海省で発見した『坊っちゃん』は大阪のボランティア団体が寄贈して下さった(日本語の)「少年少女世界文学全集」に収蔵された子供用に手を加えられたものであります。今回の交流の中で、『坊っちゃん』完訳本が話題になったので、下手くそな小生の講演内容と混同されたのかも知れません。

■そんな小さな事はともかく!頼本先生は県立松山東高校を振り出しに長年教育者として御尽力された方で、既に現役を退かれた年代の方なのですが、驚くべき健脚ぶりで足腰の強いチベット人達はともかく、付き合って下さった大学生諸君と小生は、翌日の筋肉痛を心配しながら貴重な実地解説を拝聴した次第でありました。昼食を挟んで3時間に及んだ「坊っちゃん歩行ツアー」を終えて、颯爽と右手を上げて歩み去る後姿には畏れ入りましたなあ。頼本先生は翌日のシンポジウムにも御参加下さいました。有難うございました。

■松山市駅から昔の繁華街を抜けて一路、旧松山中学跡に向かって歩き始めました。駅の北には立派なアーケード街が有りまして、ここの名前が「湊町銀天街」、頼本先生の御説明によりますと、かつては海から運河が入り込んでいて城の近くまで物資を運び込むのに利用されていた名残なのだそうです。「湊町」のすぐ北に接しているのが「千舟町」なのですから、舟が利用されていたのは間違いないでしょう。詳しい水路は分からなくなってしまったようですが、地名に歴史が刻まれている良い例でしょうなあ。簡単に地名を変更しては行けない理由がここに有りますぞ。この千舟町あたりに「山城屋」のモデルとなった旅館は、「城戸屋」という名で実在していました。戦時中の松山空襲によって消失したものの、ほぼ以前の姿で再建されて料亭として営業していたそうですが、今は普通の民家として使われているそうですから、用も無いのに入ろうとしては行けません。『チベ坊』に書いた通り、「茶代」の解釈で大いに苦労したのが「山城屋」旅館でしたなあ。実際に歩くと、別に人力車に乗らなくても良さそう距離です。

■さてさて、漱石が赴任し『坊っちゃん』の舞台とした旧松山中学は、本当に松山城の南に張り着いているような場所に有りました。そこは今、NTT四国支社の敷地になっております。何と、その目の前に横たわるお堀を渡った向こう側は、旧陸軍松山第22聯隊駐屯地だったのだそうです。練兵場も同じくお城の三の丸に付設されていたそうです。


祝勝会で学校はお休みだ。練兵場で式があるというので、狸は生徒を引率して参列しなくてはならない。俺も職員の1人として一緒にくっ付いて行くんだ。町へ出ると日の丸だらけで、まぼ(ぶ)しいくらいである。学校の生徒は800人もあるのだから、体操の教師が隊伍を整えて、1組1組の間を少しずつ明けて、それへ職員が1人か2人ずつ監督として割り込む仕掛けである。仕掛けだけはすこぶる巧妙なものだが、実際は不手際である。生徒は小供のうえに、生意気で、規律を破らなくっては生徒の体面にかかわると思ってる奴らだから、職員が幾人ついていたって何の役に立つもんか。命令も下さないのに勝手な軍歌を歌ったり、軍歌をやめるとワーとわけもないのに鬨(とき)の声も揚げないときはがやがや何か喋ってる。喋らないでも歩けそうなもんだが、日本人はみな口から先へ生まれるのだから、いくら小言をいったって聞きっこない。…

■『坊っちゃん』には、ぞっとするような文明批評や日本人論が投げ込まれているのですが、舞台が学校なので教育に関する辛辣な見解が残酷なまでに輝いていますなあ。規律を押し付けようとする教師側に対して、「規律を破らなくっては生徒の体面にかかわる」と生徒が考えているというのは、乱暴な切り分け方ながら、真理の一面を衝いているような気がします。子供独特の純粋で柔軟な精神も宿っているのでしょうが、善悪の判断よりも刹那的な面白さを優先させて集団生活の規律を破壊したり、仲間をイジメ殺してしまうような暗い面も有るというわけです。

■この「祝勝会」が赤シャツ一味の大陰謀に利用されて、物語は一気にカタストロフィ(破局点)に向かって転がって行くのですが、原作に従って道を辿ると中学校を出た行列は堀に沿って西にがやがやと進ん行き、大手町で右(北)に曲がって城の西側に回り込んで堀の内側の練兵場に入ろうとしているようです。我々は中学校跡のNTT四国支社から県庁前を通って東に進みました。ちょっと分かり辛い細めの道に入って城山の南斜面を登ることになりました。傾斜が強くなる手前に、総ガラス張りの建設中の建物が有ります。不規則な形をしているのは入手した土地の形に合わせた結果だそうですが、この新しい建物はNHKが大型ドラマを制作すると発表した、司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』を記念したミュージアムになるそうです。大長編の原作の冒頭から、しばらくは松山を舞台にした話が続きますし、松山出身の秋山好古(よしふる)・真之(さねゆき)兄弟が主人公でもあり、絶妙なタイミングで若き正岡子規と夏目金之助(漱石)も登場する小説ですから、どんな展示物が並ぶのか楽しみなところであります。

松山上陸作戦 其の伍

2007-03-17 07:17:08 | 著書・講演会
■大学から『坊っちゃん』が上陸した三津浜近くへと引き返しまして、今回、本当に立派な施設を我々の滞在用に「無償!」で提供して下さった中西龍仁氏が所有なさっている「智房庵」へ向かいました。明治初期に建てられたという塩蔵を、中西氏が私財を投じて移築したのが「智房庵」で、囲炉裏の有る1階の広い板の間はギャラリーとして解放しておられるそうです。見上げるほど高い天井には、驚くほど太い梁(はり)が昔のまま使われている一方で、建設業がご専門とのことで、台所・トイレ・洗面所・風呂などは最新式の設備が整っているのでした!しかも最新式の文明の利器に溶け込むように、瀟洒(しょうしゃ)な小物や粋な置物がさり気無く使われているのには脱帽いたしました。中西氏には、この場を借りまして厚く厚く御礼申し上げます。

■おそらく、漱石もこの建物が海辺に建っていたのを目撃しただろうと説明して頂いた室内で、見事な梁を皆で見上げながら、「これはスゴイなあ」と異口同音に感心しておりましたが、富山から参加しているアガンジェ君が、「こういう建物は見たことが有ります」と言い出したので、皆の耳が集まりました。何と、彼が言っているのは岐阜県の「白川郷」を訪ねた時に見た合掌造りの事だったのです!漱石研究を御専門にしておられる佐藤栄作教授が、「ここは世界文化遺産級って事だなあ」と嘆息ぎみに独り言を言ったものですから、同じ建物に泊まり込んで一切の管理責任を負うモンゴル学専門の矢澤助教授の表情は蒼白?ぎみでしたなあ。確かに、無償でお借りするには立派過ぎる建物ではありました。

■漱石は松山人を「野蛮人」扱いしましたが、秘境と言われるチベットからの来訪者とどっちが乱暴なのか?と誰かが心配したのかも?「全面禁煙」という恐ろしいアイデアも出たのですが、建物を焼かない、傷付けない、室内を汚さない事を約束して、何とか3人の喫煙権は確保されたのでした。何事も太っ腹で寛容な中西さんは、「お好きなように」などと仰るので、ますます両先生は気に病んでしまったようでしたなあ。我らが滞在を許された2階の部屋は、中西さん自慢?のAV機器が置かれた広い板の間で、何と!欧州風の薪ストーブが設置されているのでした!すっかり薪から遠ざかっている日本人は仰天してしまいますが、今でも薪を使っているチベット人達の方が平気な顔をしていたのが可笑しかったですなあ。

■それより何より、チベット仏教に大いなる興味を持っておられる中西さんが素敵な箪笥(たんす)の上に、さり気無く『ダライ・ラマが語る般若心経 DVD付き』が置かれていたのを、荷物を運び込んだ直後に目敏く見つけた生徒達は、あッと小さく叫んで何とも自然に鞄からカタ(礼儀用スカーフ)を取り出して全員が整列、一礼して厳かに箱の上に掛けたのでした。この瞬間に、彼らは「智房庵」にすっかり馴染んだのでしょう。尚、カタを捧げる行為には、一切の政治的な意味は無いので誤解のないように……。「智房庵」については、中西氏の祖父の代からのびっくりするような謂われが有るのですが、ここでは省略いたしましょう。松山市民でも知らない方が多いそうですから、建物の脇に有る「句碑庭園」を訪ねてお話を伺う機会を持つべきでしょうなあ。まあ、中西氏の私邸ですから、その点は充分にご注意を!

■さて、御挨拶と荷物の搬入が終わったので、すぐに伊予鉄道高浜線の三津駅まで現在の港を右に見ながらぞろぞろと歩いて行きました。『坊っちゃん』のイメージが強烈だったのか、海をしみじみと身近に眼にした生徒達は、沢山のプレジャー・ボートや小さな漁船が係留されている港の海面にゴミが浮いているのが不満のようでしたなあ。


…小僧はぼんやりして、知らんがの、と言った。気の利かぬ田舎ものだ。猫の額ほどな町内のくせに、中学校のありかも知らぬ奴があるものか。ところへ妙な筒っぽうを着た男が来て、こっちへ来いと言うから、尾いていったら、港屋とかいう宿屋へ連れて来た。やな女が声を揃えてお上がりなさいというので、上がるのが嫌になった。門口へ立ったなり中学校を教えろと言ったら、中学校はこれから汽車で二里ばかり行かなくっちゃいけないと聞いて、なお上がるのが嫌になった。

■「二里」(8キロ)というのは割と正確な数値なのに、すぐ後に続く書き方は随分と乱暴なものになっています。『坊っちゃん』に登場した駅舎ではないのですが、今の三津駅は木造でなかなかに年季が入った建物です。ここばかりではなく、松山市には歴史的な建物があちこちに残っているので、保存か撤去かでよくもめるのだそうです。我々が訪れる数週間前にも、道後温泉の旧「色町」に建っていた木造の遊郭が、文化か女性差別かの大議論の末に解体撤去されたばかりでした。これはなかなか難しい問題あります。


停車場はすぐ知れた。切符もわけなく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。……

■「そんな無茶な!」と松山っ子でなくても言いたくなる一節です。
新幹線でもあるまいし小型の蒸気機関車が「五分」で着く場所なら歩いて行けるでしょう。今のバスや自動車で三津浜から松山市内に出るのに20分以上は掛かりますし、日本鉄道史にも名高い(勿論電化された)伊予鉄道でも同じくらいの時間を要します。全国的に有名な話ですが、「マッチ箱のような汽車」は正確に復元されて松山市内の路面電車として走っています。乗務員さんも昔の制服を着て、本当はディーゼル・エンジンで走っているのに、蒸気機関車風のシューシュー音を発する芸の細かいところを見せながら頑張っております。でも、まったくの観光用ですから、我々に付き合って乗ってくれた大学生は、相当に恥ずかしい思いをしたとか……。

松山上陸作戦 其の四

2007-03-16 20:30:00 | 著書・講演会
※写真は松山城天守閣からの遠望で、三津浜方面と興居島の小富士の風景です。

■船を下りる室内の気配で目が覚めると、横で生徒達も荷物をまとめておりました。しかし、2名ほど顔が見えません。事情を聞いてみると、午前5時の段階で揃って「朝風呂」に行ったのだそうです。興奮で眠れなかったのか、船の風呂が気に入ったからなのか、理由は聞きませんでしたが、船旅を満喫したのは間違い無さそうです。まあ、日本文化に馴染んで風呂好きになってくれているのは、有名な道後温泉を訪ねるには都合が良い話ではあります。

ぷうといって汽船が止まると、艀(はしけ)が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしを締めている。野蛮なところだ。もっともこの熱さでは着物は着られまい。日が強いので水がやに光る。見つめていても眼が眩む。事務員に聞いてみると俺はここへ降りるのだそうだ。見るところでは大森ぐらいな漁村だ。人を馬鹿にしていらあ、こんなところに我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。……

■『坊っちゃん』では、不満たらたら、言いたい放題の悪口雑言を吐いて上陸するのですが、我々が乗った関西汽船のカー・フェリーは「文明」輝く松山観光港に無事に接岸したのでした。船は定刻よりも15分早く、午前6時10分に松山観光港に到着しました。「プウという擬音はチベット語には無い」「そもそも汽船という単語が無い」などなど、翻訳に苦労した思い出の多い一節でありますが、汽笛が「ぷう」と鳴ったか鳴らなかったか、気が付く間も無く、我らは下船の準備を整えて先を争って船を下りる乗客達に遅れまいと、船体に直結された艀(はしけ)不要の乗降通路にぞろぞろと足を踏み出したのでした。従いまして、「上陸」という実感は無く、「無事に到着」としか言いようがない松山への最初の一歩となりましたなあ。

■子規記念博物館には、正岡子規が上京した頃の三津浜(松山市北部の海岸)辺りの貴重な写真が、大きく引き伸ばされて展示されております。前年の5月に訪れて、博物館随一バリバリの学芸員W氏に懇切丁寧な特別解説を受けながら見学した際に、この写真の前で大いに感動したからか、今年になって館内のショップには同じ写真の絵葉書が売られるようになっていましたぞ!否、ずっと以前から商品化されていたのに、その時だけは売り切れていただけだったのかも知れません。絵葉書には小さな文字で「松山市立子規記念博物館『坊っちゃん』百周年展」と印刷されていますから、その可能性が高そうです。

■当時は、『坊っちゃん』に描かれた通りの小さな漁村だった事がはっきりと分かります。写真には砂浜に立つ7人ほどの着物姿の人影が写っておりまして、四十瀬戸を挟んで松山市の西に浮かぶ興居島の小富士(標高282メートル)をバックに、2隻の汽船が沖合いに浮かんでいまして、本当!に艀が汽船を取り囲むようにして3艘浮いているのが確認できるばかりか、それぞれの艀に3人ずつ人影がはっきりと写っていますぞ!それも1人は櫓(ろ)を操っている様子まで分かるのですから、驚いてしまいますなあ。『坊っちゃん』ファンにはお薦めの逸品!

■柑橘類でも有名な四国松山と言っても、異様な暖冬の後の寒の戻りは関東と変わらず、そんな寒い朝に市の北の外れに有るフェリー・ターミナルまで愛媛大学の佐藤・矢澤両先生と、学生諸君が4人も出迎えて下さいました。学生の1人のI君は、自慢のバイクで駆け付けたとの事で恐縮してしまいました。本来なら、チベット式にカタ(儀礼用スカーフ)を送って正式に御挨拶しなければならないので、生徒達は用意していたようですが、すべては出迎えて下さった皆さんの都合が優先ということで、御挨拶も早々に先生の車とタクシーに分乗して一路、名門愛媛大学に向かい、大学近くで朝食を済ませて校内の一室に落ち着きました。丁度、地理の教材の立体模型が有ったので生徒達に改めて船の航路を示して松山の位置を示しました。

■実は、教育の近代化がなかなか進まないチベット人地域では、地図という便利な道具を自在に使いこなす素養が無い人が案外と多いのです。まあ、北京市内のタクシーを利用した経験の有る方は、「それはチベット地域に限ったことではないだろう!」と仰るでしょうが……。とは言っても、かつては広大な領域を支配した吐蕃王朝を建てて大いに暴れ回った歴史の有るチベットですから、地図概念が皆無だったはずは有りません。但し、チベット式の地図というのは独特で、或る人が「モグラ型」などと命名しているようですが、本当に地中から地上を「下から」見上げた時の位置関係を、そのまま図面に「上から」描くので、東西や南北が逆転するのです。実際に、「我が師」がチベットの地理歴史を解説して下さった時のメモ書きでも、東西が逆転しているので、この「モグラ式」は本当のようです。とは言っても、凹凸を付けて正確に制作された瀬戸内地方の地図を感心して見ていた生徒達は、多分?ノーマルな地理感覚を持っていると思われます。東が右でも左でも、どっちでも良いようなものですが……。

松山上陸作戦 其の参

2007-03-15 13:11:05 | 著書・講演会
■魚介類を避けて肉と野菜の串揚げを肴にビールを痛飲して歓談は続きまして、午後8時になってしまいました。船に乗れなくなるのではないか?と生徒達は心配していましたが、そのくせ「ラーメンで〆たい!」と言い張る生徒も居て、「大阪に来たら饂飩(うどん)だろう」と駅ホームの立ち食い店に飛び込んで、電車が来る前に大急ぎで食べ終えて移動開始です。すっかり暗くなった大阪南港のフェリー・ターミナルに到着したのが出港10分前!結構長い通路を歩きながら、さんふらわあ号の白い船体を指差して示すと、「うおー、船だああ」と一斉に叫んだ生徒達は興奮状態で走り出します。発券窓口で予約番号を告げ、乗船名簿に名前を記入するのですが、カタカナ表記と音写漢字が並ぶ奇妙な物になりましたなあ。学生証を集めて窓口に提出し、有り難い割引料金で乗船しました。

■全長150メートルの巨大な船体は、一旦乗り込んでしまえば鉄製のビルのようなものなので、当たり前のことながら生徒達の緊張感と恐怖感?は、船室に荷物を置いた頃には吹き飛んでしまいました。冷たい海風が吹いている展望デッキに5人を引き連れて上がり、駅ビルで仕込んで来た「加茂の鶴」で改めて乾杯!直ぐに船は埠頭を離れて回頭を開始します。


「うわー!動いた!動いている!」

さっき飲んだビールの酔いがたっぷり残っているところに、紙コップの冷酒が入ったからなのか、生徒達は大興奮でした。こんな寒い夜に強風に吹かれてデッキに出て来る酔狂な乗客は居ませんから、広いデッキはすっかりチベット化してしまいました。しばらくデッキのあちこちに散って港の風景やら海面を見ていた生徒達は一箇所に集まって、額を寄せて何かをし始めました。すると突然大きな歌声が聞こえ、手拍子足拍子も加わって大騒ぎです。生徒の1人が代表して携帯電話で遠い青海省に居る母親に、IP回線を使って電話をしていたのだそうです。


「おっ母さん!俺は今、日本で船!船に乗っているんだぜ!」
「ええ!?船に乗ったのかい?お前は本当に幸せ者だねえ」

という感動的な?母と子の会話が交わされたとか……。その感動を盛り上げようと、小さな携帯電話に向かって全員でチベット伝統の「歓喜と祝いの歌」を唄ったというわけです。電話が終わっても歌は続いて、元先生の前に移動して来て並んで踊り付きで唄ってくれました。チベット民謡は草原の宴会向きに、アドリブを加えつつ好きなだけリフレインを続けられるので、放って置けばいつまでも唄っていたかも知れませんなあ。

■酒の力を借りても、さすがに海の強風は骨身に沁みるので、適当なところでお開きとしまして船室に下りました。生徒たちは荷物の整理や寝具のセッティングを始めましたが、元先生は素早く手拭を引っ張り出します。


「おい、風呂に行くぞ。風呂だ!」
「えっ!船にお風呂が有るんですか?本当ですか?」

驚いて素っ頓狂な声を上げている生徒たちを後に残して、元先生はさっさと浴室に向かってしまいました。元先生の鴉の行水が終わる頃、生徒達は脱衣所に入って来ましたが、本来は入浴の習慣の無いチベット人のくせに、恐ろしく長風呂なのには元先生もビックリ仰天でしたなあ。風呂で楽しんでいるのか、上がって船内を散策しているのか知りませんが、船室に帰って来るのを待ち切れずに元先生は眠りに落ちたのでした。ところが、旅の緊張からか、深夜1時近くに寝入ったのに早朝5時に目が覚めまして、隣を見ると5人分の寝床が蛻(もぬけ)の空!ぎょっとしましたが5人がまとまって行動しているのなら、狭い船内のこと落水さえしなければ心配は無かろうと、再び元先生は眠ったのでした。

松山上陸作戦 其の弐

2007-03-15 13:09:59 | 著書・講演会
■船の出港は夜の9時でしたが、迷う者が出ることを考慮して余裕を持って集まれるように、フェリー乗り場の切符売り場前での待ち合わせは午後6時と決めてありましたから、10時間も自由時間が有ります。以前から行きたかった大阪千里の民族学博物館に直行。70年の万博が開催された跡地を利用した広大な公園内に有るので、結構な距離を歩かねばなりません。自慢の梅林を徘徊して時間を調整した後、開館直後に入館しました。北海道から北陸にかけて豪雪をもたらした寒冷前線の影響で、大阪千里にも寒風が吹いていましたなあ。民族学博物館は春休みだと言うのに、閑散としておりました。鉄道を挟んだ遊園地の方は、中学生の団体客などで賑わっていましたが……。夕方までじっくりと見学しようと思っていたのですが、館内を2周してもまだ時刻は正午!確かに展示されている貴重な収集品の数は膨大なものです。しかし、「実物を見せる」ことに力点を置き過ぎた結果、説明と解説が乏しいのです。展示コーナーごとに用意されている小さなパンフレットは、子供用のイラスト集みたいな物なので展示物に関する情報量は圧倒的に少なく、文化の伝播や相互に影響を与え合った壮大な物語が見えて来ません。残念至極でありましたなあ。

■世界の「言語」を特集した特設コーナーも、子供でも分かるように企画されたようで様々な工夫をしている割には、ここも情報量が非常に少ないので粘って見る価値の有る展示が少ない印象でした。夕方までには随分と時間が余ってしまうので、館内の資料を借りて読み耽ることにしました。収蔵されているビデオ映像を観る視聴覚ブースがたくさん有りますが、メニューをぱらぱらと開いて見ても是非とも見たい物が乏しいのでした。しかし、チベット仏教関連の展示物は見事で、少しは予備知識が有るのでインド文化との関連を強調した並べ方には感心しましたぞ!残念ながら、説明不足は否めず、一般の人達には日本仏教との違いを深く理解するのは難しいでしょうなあ。

■辛抱堪らず博物館を出て、荷物を預けてあるJR大阪駅に向かいました。時々は日差しが有った天気がどんどん怪しくなって、駅周辺を歩いていた午後3時頃にはぽつぽつと雨が落ちて来ました!うろうろしながら御堂筋口に入ろうとした時、妙に高いところから「ナカムラセンセー」と呼ばれたような気がしました。空耳か同姓の別人が呼ばれているのだろうと無視して歩き続けると、声は更に大きくなって背後に近付いているような感じなので、人違いだったら少々恥をかく覚悟で振り返ると、早足で突進して来る見覚えのある顔が視界に入ったかと思う間も無く、でかい図体のチベット学生に抱き付かれてしまいました!

■生徒達は船に乗った経験が無いので、港のフェリー乗り場に集合する自信が無くJR大阪駅御堂筋口に集まって港への行き方を再確認しようという計画だったのでした。メールで電車の乗り換え方法、所要時間、料金などは伝えて置いたのですが、「船」と「海」に対する一種の恐怖感は想像以上に大きかったというわけです。小雨が降り始めたのに電波状態と見晴らしの良い歩道橋上で、周辺まで辿り着いている仲間を呼び集めている最中に、ふっと下を見たら見慣れた帽子と髭面の大男が歩いているのが見えたので、生徒の1人は反射的に声を張り上げて階段を駆け下りて来たのでした。

■キオスクの御姉さんにも協力して貰って迷っていた残りの生徒を拾い、そのまま駅ビル内の串揚げ屋さんに入って、早速、再会を祝して感動の酒盛りが始まりました。最初の乾杯をする前から、生徒達は涙ぐむほど感動してしみじみしているのを見ているのが辛いので、場を和ませようと元先生はいつも以上に饒舌でした。先生が煙草を吸おうとすると、隣の生徒がすかさずライターを近づけるので、「無礼講」の旅にする事を宣言しました。


「先生の前で失礼ですが、私も煙草を吸っても良いですか?」
「おお、気にしないで自由に吸って良いぞ」

こうして楽しい酒盛りから珍道中が始まったのでした。