旅限無(りょげむ)

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猥褻(わいせつ)を考える 其の弐

2005-06-30 00:09:48 | 社会問題・事件
其の壱の続き。

■高等裁判所が、懲役刑を罰金刑に変えたのは、これ以上の審議を継続したくはないという意志の表れでしょう。再び最高裁判所が「猥褻の定義」を示さなければならなくなったりすると、非常に困るのではないでしょうか?半世紀以上前の定義を再提示するのか、時代の変化に迎合してハードルを下げるのか?下げるとしたら何処まで下げるのか?もしも、1951年度の定義に普遍性が有ると言い張るのならば、現在出版中の週刊誌はほとんどが猥褻物に指定可能になります。東京都が音頭を取って、コンビニ店に並ぶ「有害図書」には立ち読み防止のセロテープが付けられるようになりましたが、これも奇妙な話です。バブル時代に一世を風靡(ふうび)したビニ本という透明な袋詰めの写真集と同じ「効果」を狙っているのならば分かりますが、青少年の目から猥褻物を隠すのが目的ならば、「売らんかな」の表紙が放置されているのも奇妙なら、セロテープが付いていない雑誌の水着写真や裸写真は猥褻物ではないというのも奇妙です。

■先ほどの三つの定義を厳格に適用すれば、話題のIT長者さん達のほとんどが御白州に引き出されて、何人かは懲役刑に処せられてしまうでしょうし、多くの雑誌や幾つかのテレビ番組も怪しくなって来ますぞ!振り返ってみれば、日本中がテレビ受像機を争って購入したのは「美智子さまブーム」と「東京オリンピック」のお祭騒ぎに参加したいという国民感情が爆発したからでした。白黒テレビがカラー・テレビになり、大画面になる頃には家庭用ビデオ機器が追い付いて来ました。ベータかVHSかの業界喧嘩に決着がつくと、ビデオ・デッキは急速に普及し始めましたが、何を目的にして購入したのかは、公然の秘密だったようです。新商品の販売促進用に利用されたビデオ・ソフトの中に必ずアダルト・ビデオが混ぜてあったのは誰でも知っていることでしょう。何人かのビデオ長者が誕生したのは1980年代後半でした。

■ビデオ・ソフトから映像情報だけを抜き取って配信するのがインターネットですから、インターネットの急速な普及とIT長者の誕生は、ビデオ・デッキの普及時代とそっくりな現象だとすれば、利用者が何を求めているのかは明らかですなあ。口の悪い人は、IT長者はエロと金貸しで儲けているだけ、と断言しているようですが、確かに猥褻映像を「情報」と呼び、金貸しを「ファイナンス」と言い換えると、別の印象を受ける利用者がたくさんいるのでしょう。これは陰毛写真を「ヘア・ヌード」と和製英語に言い換えたのと同じ手法です。法律は文言を厳密に規定して運用するものですから、素早く名称を変えられると対応が遅れる欠点が有ります。条文に書かれていない名称ならば、しばらくは罪を問えないのです。その限界を知らずに、安閑としていると今回のような半世紀前の骨董品を引っ張り出して笑われるようなハメになりますなあ。

■ビデオの普及と「何でも買える」コンビニ店の展開で、社会は大きく変化したのです。猥褻物は商品である限り、小さな突破口を求めて何処へでも侵入しようとしていますから、司法が立ち遅れると混乱が深まります。今回の猥褻論争が、半世紀前ほどの盛り上がりを見せないのは日本の司法が物分りの良い体質に変化したのではありません。最初の猥褻論争が間違っていたことを反省せずに、事態を放置したことが原因でしょう。問題だったのは、猥褻か芸術かではなく、他の商品との扱い方の区別をどう付けるか、だったのです。芸術として認められたとなれば、これもあれも芸術だ!と強弁する輩(やから)が登場して、「芸術」が分からない子供達にも押し付けられることになります。

■セロテープで中途半端に封印されている裸写真の雑誌が平然と並べられているコンビニ店を、幼い子供を連れた親はどんな顔して歩いているのか、アルバイト店員は誰が何を買うのかには無関心ですから、酒や煙草を小中学生が買うことも出来そうです。どうやら、猥褻物を社会から抹殺でもしようとするかのような無茶な裁判に熱中している間に、猥褻物が持っていた特殊性が忘れられてしまったようです。これらは常に特殊な場所と時間を持っていたのです。それは、トイレに似ている存在なのです。人が生きるには程度の差こそ有っても必要な物であるけれど、茶の間や台所とは区別された場所に置かれて、一定の使用方法が有るものなのです。こうした区別を取り払うような誤りを犯したのが、かつての猥褻論争だったような気がしますなあ。

■このままの状態で、裁判員制度が導入されると、個人的な猥褻感覚を告白させられることになりますぞ!いくつかの世代を跨(また)いで男女が集まり、摘発された作品を鑑賞して、猥褻かどうかの判定を下す作業は大混乱になりそうです。「社会通念」だの「普通の感覚」などという曖昧な基準で判定することなど不可能です。いつの間にか漫画雑誌の表紙に乳房の大きな娘さんが掲載されるようになり、テレビCMで女性下着が登場して、水泳にはまったく適さない「水着姿」という名の裸同然の女性が意味も無く歩き回る世の中で、猥褻裁判は行なわれるのです。一つの作品を猥褻だと判断すれば、あれもこれも猥褻になってしまいますし、同様に猥褻ではないと判定すれば、何でも有りになってしまいます。

■問われているのは、猥褻作品の扱い方なのであって、猥褻物の存在を許すかどうかではないのです。その扱い方が、まだ日本人には分からないことが問題なのです。猥褻物だけに取り囲まれた生活をしている内に、世の中のすべての物が猥褻物に見えて来て、トンデモナイ犯罪に走ってしまう夢見がちな若者や、いい年をしたオジさんが続出するのが現在の日本です。海外の性的異常者とは全く違う趣味の持ち主ですから、外国の対応を真似ても混乱が深まるばかりです。江戸時代あたりからも猥褻物の取り扱い方法を勉強し直さないと、とても対応は無理でしょうなあ。困ったことです。今回問題となった『密室』とかいう漫画も、書いた人や売った人の罪を問う前に、何処で誰に対して書いて売っていたのかの方が重大な問題だと考えることから始めるべきではないでしょうか?そのあたりから始めないと、教育現場で「まぐわい方」を教えるかどうかなどという奇怪な議論も続きますし、子供の売春や痴漢電車の問題も解決しないでしょうなあ。

猥褻(わいせつ)を考える 其の壱

2005-06-29 12:10:00 | 日記・雑学
■またまた「裁判員制度」の導入を考えてしまう判決が出ました。「猥褻図画頒布(わいせつずがはんぷ)」という新聞記事では平仮名混じりで書かなければならないヤヤコシイ名前の有罪・無罪を争いが続いています。東京地方裁判所では執行猶予付きの懲役刑が言い渡されて、今回は高等裁判所での判決だったようです。昔は「ポルノ映画」の表現手法をめぐって興味深い騒動が起こったものでした。当時は、学生運動花盛りの頃でもありましたから、「猥褻だ!」と弾圧する体制側に対抗して、「表現の自由だ!」というのが反体制側で、小説・映画・写真の裁判が続いて起きたのでした。「猥褻じゃない!」という主張は少なかったようで、反撃する側が摘発逃れや権力側を挑発する工夫を凝らした作品を発表したりして、なかなか面白かったようです。

■長く続いている小沢昭一さんのラジオ番組『小沢昭一的こころ』で社会勉強をさせて貰った世代としては、小沢さんが猥褻裁判を話題にした時の興奮気味の口調が懐かしく思い出されます。今も語り続けておられる小沢さんですが、最近では猥褻について熱く語る機会もぐんと減ったのではないでしょうか?以前、こんな話を小沢さんが紹介していたのを覚えています。


アパートの一室で語り合う若い男女。ふと言葉が途切れる。見詰め合う二人、カメラはぐぐっと寄ってカット。次のカットは、女性の潤んだ瞳のアップと思い詰めたような男の表情が交互に繋がって、再び画面は見詰め合う部屋の二人になって、音楽が盛り上がる。ひっしと抱き合った二人が、ワザとらしく画面の下に写り込んでいるテーブルの蔭に消えて、カメラは動かずに、二人の姿が消えて現れる窓辺に置いた小さな花瓶にズーム。そこで、一輪挿しの花びらが一枚、風も無いのに落ちると……。

「猥褻だア!裁判だア!有罪だア!」ということになったのだそうです。どこからが猥褻なのかは明らかではないのですが、最後の花びらは確実に「猥褻」なのだそうです。何だか、風情の有る話ですなあ。

■日本製の作品は裁判が圧力になりましたが、海外作品となると敗戦国としては対応が難しく、「映倫」という小さな小さなお役所が鋏(はさみ)を振り回して、「猥褻」箇所を切り捨ててしまったので、何が何だか分からない映画が封切られたりしたそうです。それでは客が怒るだろうという事で、次に考えたのが「黒いちょうちょ」と「極端なピンボケ加工」、猥褻箇所というのは性器や陰毛が見える所という判定が決ってからは「モザイク処理」が登場したという歴史があるようです。伏字(ふせじ)やら一部黒塗りなどは、逆に観客の注意を引いて逆効果なのですが、お役所は律儀にこれを行なわねばなりません。こうした仕事をしているお役人を主人公にした喜劇映画を松竹が作ったことがあったらしいのですが、未見です。主演はフランキー堺さんだったようですなあ。何でも、映倫のお役人さんが、来る日も来る日も、猥褻作品の検閲作業に追われている内に、自分の夫婦関係に不具合が発生して悩んでしまうというテーマだったようです。

■今回、東京高等裁判所まで縺(もつ)れ込んだ猥褻物は、『密室』という漫画らしいのですが、これも見ていないので、「どれほど猥褻なのか」の判定は出来ませんが、田尾健二郎裁判長さんの目には、罰金150万を支払わねばならないほどの「猥褻」さだったようです。東京地方裁判所では、「懲役1年執行猶予3年」との判決だったそうですから、今回の控訴審の結果は減刑ということになります。こういう裁判が報道されると、商品の宣伝効果が生じて、ネット・オークションあたりでは高値を呼んでいるのではないでしょうか?儲けた人は、裁判様様でしょうなあ。買った人はどうだったのでしょう。

■興味深いのは、弁護側の主張です。要するに、様々の映像作品が氾濫していて、この作品だけが取り立てて猥褻とは誰も思わない、という時代と世相を味方に付けた主張で闘った模様です。ところが、裁判所側では、1951年に最高裁判所が示した定義を墨守(ぼくしゅ)して世の中の変化を一切視野に入れない姿勢を崩さなかったことが判明しました。この定義が無形文化財に指定したいほどの輝きを持っているのですなあ。


①いたずらに性欲を刺激し②普通人の正常な性的羞恥心を害し③善良な性的道義観念に反するもの

この定義に照らすと、今回の猥褻容疑を受けた作品は、


大半が性描写に費やされており、平均的読者がこの漫画から一定の思想を読み取ることは困難……性的刺激を緩和する思想的、芸術的要素もない


これが有罪の理由です。

■思想や芸術が問題になるのは、『チャタレー夫人の恋人』や『四畳半襖(ふすま)の下張り』という小説が猥褻裁判に持ち込まれた時に、弁護側に芸術家や知識人が集まって論陣を張ったことから、裁判所もその論争に負けないように採用した用語です。こうして話は泥沼化して、裁判所の外では「ヘア解禁」だの「ヘア・ヌード」だのと、女性の陰毛を言い換えた商品が出回って、何が猥褻なのかさっぱり分からなくなり、ビデオという恐ろしく手軽な機械が普及してしまえば、個人用か商売用かの区別も付かなくなりましたから、猥褻裁判は消滅してしまったとばかり思っていたのですが、ドッコイ猥褻罪は生きていたのでした。

其の弐に続く。

裁判員制度を考えてしまう話

2005-06-29 07:01:00 | 社会問題・事件
■重大事件の刑事裁判に民間人を強制的に関わらせようと、一体どこの誰が言い出したのか判らないまま、しばらくすると実施の運びとなるようです。この乱暴な裁判改革の元には、奇妙な判決が続出しているという大問題が隠されているらしいのですが、一般国民を巻き込む前に、変な裁判官を排除する仕組みを作ったり、マトモな裁判官を養成する制度改正が先だと思うのですが、明治以来の伝統を変えるより、目先を変えて国民の「常識」を注入して外堀から埋めて行こうという作戦のようにも思えます。

■基本的には、こういう逃避的で後ろ向きの「丸投げ」政策には反対なのですが、裁判官を裁判する制度が無い限り、こうした手法も止むを得ないのかも知れない、と考えさせられる判決が出る事がありますなあ。福島地方裁判所でも、トンデモない判決が出たのですが、読者の皆様はどんな感想を持つでしょう?旅限無は怒っております。


2000年
8月30日 女性が会津署に目黒哲郎さん(65)から「わいせつな行為をされた」と虚偽の告訴
9月 4日 会津若松署が目黒さんを強制わいせつ容疑で逮捕
9月22日 地検会津若松支部が嫌疑不十分で釈放
10月   目黒さんが女性に300万円の損害賠償を求めて地裁会津若松支部に提訴

2001年
9月  目黒さんが経営する建材会社が廃業
11月 地裁会津若松支部が女性に150万円支払い命令

2002年
9月  目黒さんが虚偽告訴容疑で女性を会津若松署に逆告訴

2003年
8月4日  虚偽告訴事件の初公判。女性は起訴事実を認め「夫の気をひくためにやった」と証言
8月25日 女性に懲役1年の判決。女性は量刑が重いと控訴
9月3日  目黒さんが国と県を相手に損害賠償求めて提訴

2004年
1月29日 虚偽告訴事件の控訴審で仙台高裁が女性の控訴を棄却。
5月   最高裁も上告を棄却して刑が確定


■要するに、24年間も地道に建材会社を経営していた目黒さんという地方の紳士が、一度会っただけの取引相手の奥さんに「強制わいせつ」で告訴されて、逮捕拘留19日間の内に噂が噂を生んで会社の取引が不調になり、とうとう倒産に追い込まれてしまったという事件です。事実は、「強制わいせつ」はトンダ濡れ衣の冤罪(えんざい)で、夫婦の不仲を解消しようと、女の浅知恵(女性蔑視ですが、この場合は他の表現を知りません)で、旦那にヤキモチを焼かそうと仕事上の接触で一度だけ会った目黒さんを生贄(いけにえ)にしてしまったというわけです。

■他人の夫婦喧嘩のトバッチリで、24年間!の信用が吹き飛ばされてしまった後始末をどうするのか?県=県警、国=検察庁・裁判所のミスではないのか?と問うた訴訟に対する福島地方裁判所の判決が6月14日に出たのですが、「同じ穴の狢(むじな)」の会見互いの庇(かば)い合いとしか思えない驚嘆すべき判決内容に、地元ばかりでなく冤罪で苦労している全国の被害者からも「断固闘うべし!」の激励が集まり始まっているそうです。裁判所は、県と国の言い分を全面的に支持して、目黒さんには「運が悪かったね。うふっ」ぐらいの気持ちしか表わしておりません。

■県警は、


「女性の供述は多少の変遷(へんせん)はあるが一貫性があった。性犯罪は通常強制捜査で臨む。逃走と証拠隠滅(いんめつ)を防ぐために逮捕は必要だった」

と主張して、これを地裁は全面的に支持しました。まるでカフカや安部公房の不条理小説のように、突然現れた警察官に「お前は○○さんにイヤラシイことをしただろう。」と言われて、「えっ、それは誰ですか?」「しらばっくれるな!ちょっと来い!」「ちょちょっと待って下さいよ。仕事の途中ですから……」「うるさい!シラを切ろうってのか?トンデモナイ野郎だ。」というお決まりの遣り取りが有って、しょっ引かれたらお仕舞いです。

■女性が空想で組み立てた作り話を信じた警察が、どんなイヤラシイ物語を組み上げたのか、興味津々ですなあ。警察の皆さんが、どんなイヤラシイ小説やテレビやビデオを鑑賞しておられるのか、判定するのも一興でしょう。双方の供述が取れて、裏付け捜査も終了しているので、後は裁判を待つばかり、弁護士に付いて貰って被害者の「作り話」のアヤフヤな点を突いて、矛盾点を崩して行けば無罪になる可能性が有りますが、「逮捕・拘留」となれば、世間の噂は化け物じみた成長をしてしまうのは常識です。「19日間」というのは、噂に水と栄養をたっぷり与えるのに十分な時間ですから、後からこの化け物を根絶やしにすることなど絶対に不可能です。熱心に化け物を配達して歩いた「気の良い噂好き」の人々は、絶対に後始末などしないものですし、尻尾を捕まえて追求しても「善意の第三者」か、他の人から嘘を教えられた「被害者」になってしまいます。

■ところが、検察側にはこの世間の常識は通じないようなのです。


「性犯罪は被害者の供述が唯一の直接証拠となるのが通常。女性が初対面の原告を虚偽告訴する理由はなく、直ちに虚偽と判断できなかったため、拘留請求は必要だった。両者の供述は真っ向から対立しており延長請求も不可欠だった」

と主張して、これも裁判で全面的に認められてしまいました。つまり、どんなに辻褄(つじつま)の合わない訴えでも、女性側が「やられた」と言い張れば、名差しされた男は「やった」ことになってしまうのですなあ。性暴力は許されない犯罪ですが、告訴には常に「虚偽」や「狂言」の可能性が有るものですから、か弱い女性の訴えであっても、この可能性を最初から捨てて捜査したら大変なことになります。

■もっと恐ろしいのは、この狂言わいせつ事件にすっかり乗せられた裁判所が、「逮捕状請求・拘留決定」の権限を行使したことも裁判所の責任では無いという判断が下されたことです。


「賠償責任が生じるのは、裁判官が違法または不法な目的をもって権限を行使したと認められるような場合。」

つまり、裁判官はどんなに無能で非常識で気紛れでも、一切の責任を追及されないのですぞ!日本の法律は、被告人に個人的な恨みを持ってトンデモナイ判決を下す可能性を考慮している!そんな恐ろしい裁判官が出現する心配など誰がしているのでしょう?そんな滅茶苦茶な心配をしながら社会生活をしていたら、家から一歩も出られやしませんぞ!擦れ違っただけ、電車で隣り合っただけの女性から訴えられたら最後ですなあ。

■この判決を下したのは森高重久という裁判官です。目黒さんは、県と国に対して1000万円の損害賠償を求めて認められなかったわけですが、仮に認められたとしても、半額が良いところでしょうから、虚偽告訴した女性からの150万と合わせて650万円。この金額で、会社を再建して馬鹿げた噂を消し去って、元通りの社会生活を取り戻せるはずは有りません。悪い噂というものは、広まる時には嫌になるくらいに多くの耳が集まって来るのもですが、訂正しようとすると、面白いように聞いてくれる人が集まらないものです。「あれは嘘だったんだってさ」というメッセージが永久に届かない人は長期間生き残るもので、「えっそうだったの?あれは嘘だったの?」と気が付いた時には何十年も経っていたなんていう事も有ります。

■目黒さんはテレビ・カメラの前で、とても冷静に「まあ、これからも戦い続けますがね……」と語っていたようです。まともな裁判官に巡り合えるかどうかが運命の分かれ道なのだと、目黒さんは達観しているかのようです。森高裁判長の頭の中には、「警察は正しい、検察庁も正しい、裁判所も正しい、だって、僕が正しいんだから」という、どうしようもない堂々巡りのリングが嵌(は)め込まれているのでしょうなあ。今の制度では、「アンタは正しくないよ」と言われる心配が無いのですから、やはり、この一言を裁判官に向って言える「裁判員制度」は必要なのかも知れません。頑張れ!目黒さん!そして、全国の男性の皆さんは、福島県に来る時には、余り女性と気軽に接触しては行けませんよ。その女性が、夫や恋人の気を引こうとして、あなたもダシに使われるかも知れないし、その作り話に騙されても平気な警察と検察が待ち構えているのですぞ!ご用心、ご用心。

グウルモン著『沙上の足跡』

2005-06-28 06:50:00 | 書想(その他)
『沙上の足跡』グウルモン著 堀口大学訳 第一書房刊

■この本は、私の宝物です。拙ブログを開設しました時に、「書想」というジャンルを置きましたが、最初に扱いたかったのがこの一冊でした。しかし、とても残念なことに、現在では入手不可能な本なのです。堀口大学さんの著作集の中には入っているのかも知れませんが、最近では堀口大学を読む人はほとんど居ないと思いますので、この本を読みたいと思うと大変な苦労が必要だと思います。武田鉄也さんという変わった歌い方をする歌手が『贈る言葉』というヒット曲を作りましたが、何でも堀口大学さんの一変をパクッタのだ、と白状しているのを聞いた覚えがありますが、今時、堀口大学の名前を聞く機会もめっきり減りましたなあ。とても残念なことです。

■手元に有る一冊は、大学時代に東京の神保町(古本屋街)を歩き回って数年掛かりの苦労の末にやっと見つけた本ですが、どこかの文庫で復刻して下さればなあ、と念願している一冊です。戦前の旧制高校生はこぞって読んだという話を、歴史学者の奈良本辰也さんのエッセイで読んでから、ずっと捜し続けた思い出が有ります。

■著者のルミ・ド・グールモンは、熱烈な恋愛詩で有名なフランスの詩人です。本の奥付には、こんなことが印刷されています。(以下引用文は旧字体を新字体に変えてあります)


昭和五年五月十五日初版千三百部発効
昭和十四年五月五日第二刷千五百部発効
定価一円三十銭
満洲・朝鮮・台湾・樺太等の外地定価一円四十三銭


広大だった大日本帝国の支配領域の中で、たった1500部だけ再版された内の一冊が、戦後40年経った神保町の古本屋に一冊だけ出たのです。発見した時、決して豪華な装丁でもない茶色く変色した本なのに、保存状態がとても良い上に、丁寧にパラフィン紙に包まれているのを見て、大切にされた本であることが分かりました。

■この本は、詩集ではなくアフォリズム(警句)集ですから、時々手に取って読み直す楽しみがあります。苦学生にはちょっと贅沢な価格が付いていたのでしたが、生意気な哲学書を買うつもりで持っていた有り金全部を叩いて買った記憶が有ります。こうした本との出会いというものは、その時の感動を忘れないものです。さて、前置きはこれくらいで、早速中身を紹介しましょう。フランス人が書いた本なのに、何と「チベット」から始まるのです。


序詞

西蔵(チベット)の奥に 一本の不思議な大樹があって その葉の一枚一枚には 梵字で佛教の経典が記されてあると云ふ。この寓話の作者は これによって 哲人の姿を示し且つは 一本の樹木が多数の葉を持つてゐるやうに 一人の哲人にも多くの意見があることを諷喩したものだらうと私は思ふ。

然るに 秋が来ると木は葉を落とす そしてまた春が来ると 同じやうな形をした若葉の上に新しい文字が記される。

この木の秘密を知らうと思つたら この木が枯れて死ぬ日まで 毎年おとす葉を一々拾つて読まねばならないのである。

ルミ・ド・グウルモン


■最初から、読みようによっては絶望させられるロマンティックな一撃ですが、19世紀の欧州にはチベット・ブームが起こっていたので、こうした書き方が好まれたのでしょう。青海省の西寧市郊外のタール寺はチベット名をクンブム(十万仏寺)と言いまして、そこには有名な一本の木が生えています。伝説では、その木に付いていた葉の一枚一枚に仏の像が浮き上がってその数が十万だったそうです。そんな伝説が他の話と混ぜ合わされてフランスに伝わったのかも知れませんなあ。

■以下に警句を引用しますが、原著にはもっと意義深い作品が沢山あるのに、小生のセンスの悪さで漏れることになるでしょう。全文を書き写すのが一番良いのでしょうが、そうも行きませんので悪しからず。


魚に川が見えないより より以上に 人間には世界が見えない。

文明とは基督教が呼んで不徳 軽薄 淫逸 遊楽 俗事その他浮世の些事となす処の凡てを助長する事である。

王の如く また強者の如く 神もまた追従物を持つて居るのだ。

政治の政治家にかかはるは おほよそ 天気の天文学者にかかはるが如し。

預言者に二途あり。一途は過去に従って未来を預言すること 他の一途は誤ること。

馬鹿者は決して退屈しない 彼は自分をながめて感心して居る。

人間が互いに了解し合ふことの出来るのは 絶対な真理がないからである。もしもこの世の中に絶対な真理があるならば 恋人と話し合ふには先ず微分積分学を修めた後にしなければならないであらう。

女を悪く云う男の大部分は 或る一人の女の悪口を云って居るのである。

宗教は夢中になって性欲問題を論ずる。

道徳的な或いは不道徳な忠告は それが無用な人によつてのみ聞き入れられるものである。「貞節なれ」と云う忠告は常に貞節な人のみが解する。「淫逸なれ」と云う忠告は淫逸な人のみが解するのである。言葉の価値を世間では過大視して居る。由来言葉は同音階の上にの作用するものである。

或る人の持論がその人の確信である時にのみ それは他人の気にさはる。

人が真理を追究するに際し最も恐べ可きは それが見つかる事である。

偶然が人間に知識を与えたのだ。人間はそれを利用して「馬鹿げたこと」を発明したのだ。

或る政党に属せざる政客の不幸は あらゆる政党から嫌はれること 又 自分自身では まるで狂人と盗賊の中に交つて生活しているやうな気がすることである。

革命的社会主義は、「おいこのピアノは調子が狂ってゐるから 打ち壊して薪木にしてしまつて その代わりにオルガンを造らうぢやないか。」と云つている人たちを思はせる。

平和主義者等は 一つの天秤の下に跪坐して その天秤が重力の法則とは全く関係無しに 唯彼等の希望通りに傾かんことを天に祈願してゐるお人よしである。

所有権は必要だ。然し夫れが何時も同じ手の中にある必要はない。

真の哲学者は 自分の思想が実行せられることを望まないものである。何故なら 彼は彼の思想が変形され且つ俗化されてのみ実行されることを知つてゐるからである。必要な場合には 彼は自分の 思想の実行されることに反対することさへあらう。このことは既にあつたことだ。

病人は常に楽観家である。ともすると楽観それ自身が既に 一つの病気なのかも知れぬ。

われ等の上に流れ行く 現在を 今日を 今秒をそのままに楽しむことを学べ。

一政見を判断する場合に その政見を唱導する人の 人格によりてするより外に 方法の無い場合がよくある。

民衆は騒乱を起こす事は出来る。けれども革命を起こす事は出来ないのである。革命は常に上から来るものである。

法律は個人の生理状態にまで注意する事は出来ない。されば裁判の一半の場合にあつては法律が有罪 他の一半は 法律が白痴。

富のやうに 幸福も亦寄生虫を持つてゐる。

人は家の中に住む者にあらず 人は自らの中に住む。

豚を宮殿に置け 豚は宮殿を豚小屋になさん。

自分は臓物屋の俎板の上にあるあの羊の脳味噌を思ふことを愛する。我々も頭の中に あれによく似た薄桃色の海綿をもつているのである。その海綿が考へるのである。

これ等の面白い女の手紙は 女が未だ文字を知らなかった時代のものである。

小学教師等に兵役免除の特典があつた時代には 彼等は熱心なる愛国者であつた。然るに彼等が一度この特典を失ふや たちまちにして彼等は 非愛国者になつてしまつた。これ程人間らしい事がほかにあるであらうか?如何に正直な鍛冶屋だとても 自分を縛る為に用ふると知つて 鎖をいい気で打ちはしません。


■これが106番目の警句です。大学生時代、「平和学」という新しい学問が流行する兆しが有りました。ちょっと高い本や雑誌を何冊も買い集めて、哲学書と併せ読んだものです。しかし、それに関連した卒業論文を書いていた時期に、この本を手に入れてしまいました。そして、この第106番目の警句まで読み進んで、数日間呆然として過ごしたものです。気を取り直して書き上げた卒業論文は、この警句の響きを抱え込んだ物になり、お読み下さった大学の先生方には何故か好評でありましたなあ。

■300頁の内、71頁分からの抜き書きです。もっとお読みになりたいという声が有りましたら、続編を書きましょう。誠に恐ろしいものは、卓越した詩人の発する「言葉」でございますよ。


チベット語になった『坊っちゃん』―中国・青海省 草原に播かれた日本語の種

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運転免許の書き換えで考えた

2005-06-27 06:56:56 | 日記・雑学
■免許の書き換えに行って来ました。旅限無は、無事故・無違反なので所轄の警察署で手続きするだけです。ゴールド免許とかいう区分になるのですが、別段の特典が有るわけではないのですなあ。どうしても何か欲しい!と思う人は、最寄の警察署や交番で申請用紙を貰って自動車安全運転センターに申請して「無事故・無違反証明書」を取りまして、この証明書に運転免許証を添えて、警察署内の「交通安全協会」に申請すると、目出度く「優良運転者証」を貰える上に、何と!都道府県の交通安全シンボルマーク入りのカーバッチを自動車に付けて走れます。無事故・無違反が5年なら「銅賞」、7年なら「銀賞」、10年なら輝く「金賞」のバッチです。さあ、皆で金賞バッチを目指して安全運転をしましょう!という掛け声に応じる日本人が何人いるのでしょう?

■5年間に警察の皆さんのお世話にならなかったというだけのゴールド免許には、実際には何の意味も有りません。日本中に無数に存在する「ペーパードライバー」の皆さんの中には、金賞候補が何万人もいるでしょう。こうした表彰制度を、「交通安全のために」という名目で予算化して維持継続するのに必要な資金が何処から出て、裏金にもならず流用もされずに適正に使われているかどうかを、誰が審査しているのやら。カードやバッチの企画とデザイン、その制作に当たった企業は警察組織とどんな関係が有るのか、それも分かりません。第一、この制度が予算に見合うだけの効果を上げているのか?と追求する政治家がいません。国会の議論でも警察関連の質問はとても少ないような気がするのは、「選挙違反」の摘発の匙(さじ)加減とは無関係であることを熱望します。

■正体不明のゴールド運転手を濫造するよりも、悪質な運転者に、グレイとかブラック、悪趣味な髑髏(どくろ)マークなどの証明書や表示マークを与えた方が、遥かに交通安全に寄与するのではないでしょうか?失礼ながら、故障が続出した某自動車メーカーのトラックに不安を感じた人たちは、自分の車の周辺に有名なシンボル・マークを見付けると減速したり加速したりして、距離を取ろうとしたのではないでしょうか?ですから、危険運転や大事故を起こした経験の有る人が乗っていることを知らせるマークがあれば、巻き込まれないように皆が注意をして避けるので、自損事故は減らないにしても大きな事故は随分と減るような気がしますなあ。違反者の中には結構リピーターがいるようですから、初心者マークや高齢者マークよりも「注意車マーク」を制定すべきではなかろうか?などと、優良者制度を写真入りで説明して下さる頁を見ながら考えてしまいます。

■5年前の書き換えの時に、受付カウンターの婦人警官が大変に丁寧で最低限度の愛想の良さを示したことに感心したことが有りました。実は、その直前に応対の悪さに激怒した人達が抗議運動を起こして、ちょっとした騒ぎになり体質改善の努力をせざるを得ない状況に追い込まれた結果だそうです。明治維新政府以来の「オイコラ!」体質は根深いもので、「地域に密着した愛される警察」などは何度目指したか判らないほどなのに、やはり「オイコラ!」の伝統を消すのは難しいようです。この時の薬が余程効いたのか、或いはやってみれば愛想の良い応対の方が自分達の気分も良いという事に気が付いたのか、態度が悪くなったという話は出ていないようです。

■それでも、免許書き換えに伴って義務化している安全運転講習会の日時を通知する「講習指定票」なる紙片を問答無用で渡すのはイカガなものか?何処かに「講習会の日時はこうなっておりますが、御都合の良い日をお選び下さい。」「はあ、では○日の午後にして下さい。」「承知しました。では、予約リストに入れておきますので、遅れないように願います。」などという丁寧な応対をしてくれる警察署を御存知の方はお知らせ下さい。お役所というところは、「忙しい」という庶民の感覚が分からないようで、それは自分達がいつも「暇だから」ではないかと勘ぐりたくなる場合が多々有りますなあ。まあ、「交通安全協会」の指導員の皆さんが、日夜交通安全のために走り回っていて、一週間に一度しか講習会を開けないのだと、信じてはおりますが……。いざという時には、警察と住民が協力して動かねばならないのですから、日頃から親しみと信頼できる態度を示していて欲しいものですなあ。

■物を捨てない、捨てるような物は極力買わない、要するにケチ臭い貧乏性の旅限無は、昔懐かしい教習所時代の教材を全部保存してあります。そんな変人は極少数なのでしょうか、免許の書き換えの度に印刷物を渡されます。今回も『交通の教則』『人にやさしい安全運転』『安全運転のために』という本と『ひとりでも簡単にできる安全運転自己診断』という小冊子を、何の説明も無いままに2800円の領収書と一緒に渡されました。「教習所時代の教則本を全部持っていますから要りません」と言ってはいけないようです。これも折角ですから無駄にしないようにと思いまして、中身よりも背表紙に印刷されている団体名を確認してみました。

■「警察庁交通局」、やはりここが一番偉いのでしょうなあ。財団法人・全日本交通安全協会、社団法人・全国指定自動車教習所協会連合会、福島県本部交通部、社団法人・福島県交通安全協会。警察官もお役人なのですが、警察官僚の「天下り」がまったく問題にされないのは奇妙な話です。三権分立がタテマエなのですから、立法府は司法を監視しなければなりません。数年前に少女監禁事件が発覚した時に、新潟県の雪山温泉郷で、「絶対にカネを懸けていない」麻雀をしていた警視庁の偉い人と県警のい偉い人が叱られたり、北海道警にロシアのマフィアよりも怖い刑事さんがいる事が判ったりした時にしか、「警察の闇」が報道されませんから、素人からは何がどうなっているのか、さっぱり分かりません。

■全国に張り巡らされている「交通安全協会」という組織の機能も内実もぜんぜん分かりませんが、某県で自動車免許を取得した際に、合格発表を確認してから免許書を受け取り、やれやれと思って歩く通路に「受付」が有って、「当然、入会するもの」という雰囲気を醸し出しているのに引かれて、協会推奨の初心者マークの購入と合わせて会費を払ってしまった記憶が有ります。一度「協力金」を払ってしまうと、免許の更新の度に「継続」の圧力を受けるようになるとはツユ知らず、長年協力して来たのでした。そして、今回は……。

■北海道警で発覚して全国に広まった「裏金」騒動の後、関連記事が週刊誌に掲載され、暴露本が何冊も出版されました。以前にも内幕ものを何冊か読んでいたので、外務省の次は警察か?と裏金話に興味を持って何冊か読んだ経験が有ります。ワイロが横行するのは貧しい後進国だとばかり信じ込んでいた者にとっては、驚くような話が沢山紹介されていて、腹が立つよりも悲しくなり、やがて恐ろしくもなったものです。最後の頼りになるはずの警察が、大きく歪んで深いところから腐ってしまったら、とても安心して生活も出来ませんし、可愛い子供を産んで育てようという気も失せてしまいます。まあ、警察や交通事故に関しては、別の機会に書くことになるでしょうが、単なる免許の書き換えでも、結構考え事のタネは見つかるものです。

チベット語になった『坊っちゃん』―中国・青海省 草原に播かれた日本語の種

山と溪谷社

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チベット語になった『坊っちゃん』書評や関連記事


花粉症の具合はいかがですか? 其の四

2005-06-25 07:07:31 | 社会問題・事件
其の参の続き

■もしも、間伐材が商品価値の高い資源となれば、日本中の真っ黒なスギ林はどんどん消えて行く可能性が高まります。更に、日本の研究によってリグニンという木の硬質繊維を作っている成分の抽出技術も完成していますから、これまでは売り物にならない雑木も資源となって、プラスチック製品のように木製なのに自由自在に好きな形を作り出せます。そればかりか、石油資源の枯渇が心配されている中で、木材チップを乳酸発酵させて「ポリ乳酸」という素敵な物質を作り出す技術も完成しました。これはプラスチック製品の原材料の代替品として利用され始めています。

■世界のトヨタ自動車は部品の多くをこのバイオ・プラスチックに切り替え始めていて、何と、この木質プラスチック事業を分離独立させる動きも見せているそうです。しかも、この木質プラスチックは再利用する時のコストが石油製品よりも遥かに安いという利点まで有るようですし、不心得物がポイ捨てしても、半永久的に残ってしまう石油プラスチックとは違って、放って置けば水と二酸化炭素に分解してしまうのですぞ!バカを減らす環境教育よりも、バカが使っても安心な技術が大切ですなあ。

■スギ林が健康になれば、病的な花粉の飛散は激減しますし、花粉症の本当の原因とされるPM粒子も消えてなくなれば、花粉症患者の数も減るに決っていますから、これはとても良いニュースです。問題は、こうした技術を熱心に勉強する政治家がどれ程現れるかという事だけです。俳優でもあった中村敦夫さんは前回の選挙で落選してしまいましたから、環境問題を専門的に扱える政治家はいなくなってしまいました。しかし、公共事業の利権と聞けば地の果てからでも駆けつける政治家先生方ですから、間伐材を利用した事業が動き出せば、俄か勉強の環境政治家が増えるでしょう。

■更に更に、石油の争奪戦争が起こりそうな国際情勢の変化に対応する選択肢も増えるという意味も有ります。中国とインドが経済成長を続ければ、石油価格はウナギ昇りが続くのは明らかですし、原油高で潤っているロシアにしたところで、シベリアを舞台にした世界一の乱開発をした後始末をせずには済まされません。これら三大国の未来に必要なのは「植林技術」とバイオ技術ですから、日本列島の改良に成功するば、大きな顔をして指導・援助が出来ますし、その後の商売も出来るようになるでしょう。原油ほどのボロ儲けは望めないにしても、息の長い産業として考えるべき技術です。

■ですから、究極の選択として、「花粉症が消えるか?日本が消えるか?」という問題になって来ますなあ。花粉症は個人の問題だとか、自己責任で対応しろ!などと言っている政治家や企業家は生き残っていけないでしょう。日本は資源が無い国で……などと言っているヤツは駄目なヤツです。20世紀は、文字通りの「石油の時代」でした。大日本帝国も、石油革命に対応できずに自滅戦争の入って行ったのですから、石油の次を考えるのは、日本の歴史を冷静に見直す機会でもあります。花粉症からでも日本が見えるし、地球の未来が見えるという御話でした。米国ではハイブリッド自動車が大流行で、日本では偽物ディーゼル装置を売る事件が起こるようでは、環境産業が欧州に勝てる日はまだ遠いようですが、一度動き始めれば一気に動くのが日本ですから、希望は有ります。もう少しの辛抱です。どうぞ、お大事に。

おしまい。

花粉症の具合はいかがですか? 其の参

2005-06-25 07:05:30 | 社会問題・事件
其の弐の続き

■バイオマス・エネルギーという名前は随分と浸透して、欧州ではいろいろな新技術が開発されて政府の資金援助も手厚いので、脱石油文明への変身に成功する可能性が出ています。日本のスギ林の場合は、林業資源として利用できる可能性がまだ残っているので、最初は「間伐材」の扱い方が最初の難問です。植林する時には、どのスギが元気に育つか分からないので、多めに密植するのが常識で、20年か30年は下草刈りや害獣の駆除などの手間をかけて育てて、根気の要る枝打ち仕事もしながら成長を見守ります。

■木の育ち具合と日射状況を判断して選別、そして間伐作業が始まってスギ林をすっきりさせて更に20年か30年してから出荷という段取りです。しかし、経済成長と円高で外国から買った方が安いという見通しが立ってしまえば、全ての作業は大赤字を積み上げるだけのことですから、誰も山の世話などしなくなるわけです。広大な国有林でさえも、財政の負担が大きいという理由で放置されているのですから、小規模の私有林ならば尚更のこと、放り出して置くしかありません。昔は、山菜やキノコが採れた山をスギの密林にしてしまったと同時に、山の生き物達が大好きだった木の実も消えたのですから、熊さん達が怒るのも当然ですなあ。

■間伐材は板にもならないので、薪(たきぎ)にするしか無いのですが、ガスと電気の生活には不要です。そこで、切り倒して腐敗させて肥料にすることになっていますが、害虫の住処(すみか)になると言って反対する人もいます。日本中に眠っている間伐材候補のスギに光が当たる可能性が出て来ました!これは良いニュースですぞ。


住友商事が、林業の不振や森林の荒廃に悩む地方自治体などを対象とする間伐材の利用促進事業に乗り出した。間伐材を燃料とするバイオマス(生物資源)ボイラーの販売のほか、間伐材などの抽出油でディーゼル車の排ガスから生じる粒子物質(PM)を減らす技術の実用化も図る。「ゼロ・ウェイスト(ごみゼロ)宣言」で知られる徳島県上勝町の町営宿泊施設で5月上旬、給湯用の木質バイオマスボイラー(250キロワット)の火入れ式があった。石油を燃やすより二酸化炭素の排出量が年約1000トン少ないという。住商が納入したボイラーはバイオマス発電が盛んなオーストリアのポリテクニック社製。樹皮や水分を含んだ木材も燃やせるのが強みだ。産業廃棄物として捨てるしかない間伐材の処理に悩む自治体に売り込み……高知や山形、島根などの各県で導入される見通しだ。……間伐材から木質油も抽出できる。これをディーゼル車の排ガスに吹き付けると、油がPMを包み込んで除去フィルターに付着し易くなる。実験で約4割のPM排出削減効果が確認された。商船三井や油製造会社ジュオン(広島)、林野庁などと、間伐国産材を使った油製造の研究会を立ち上げることを検討中。住商の山本隆三・地球環境部長は「油を絞った後のチップはボイラー燃料になる。原油高もあり、木質バイオマスはコスト競争力もついてきた」という。


其の四につづく

花粉症の具合はいかがですか?其の弐

2005-06-25 07:03:50 | 社会問題・事件
其の壱のつづき

■こんな話が有ります。日本海側の古い町を旅行すると、あちこちに「鰊御殿(にしんごてん)」が残っていますが、これらは江戸時代から続いた鰊漁の富を象徴する遺物です。毎年海岸近くの海草に産卵しようと押し寄せる鰊の大群を水揚げして、そのまま焼き魚にしたり保存食料に加工して全国に出荷していたわけです。京都名物「鰊そば」などが有りますなあ。京都の人々も鰊が大好きだったわけです。京都にも海と港が有ることを知らない日本人が案外多いのだ、と京都の人が怒っておりますが、昔は京都でも鰊が獲れたんですぞ!

■では、鰊御殿がどうして遺跡になってしまったのか?鰊が突然北上したという説が有りました。そして、日本海岸を北上して最後の北海道が全国の鰊需要に応えたのですから、明治末期は鰊バブルで大変だったようです。しかし、とうとう北海道沿岸からも鰊は消えて、樺太が漁場となったのも束の間、とうとう日本海全体から鰊の大群が消えてしまったのです。この大変化を漁業関係者はずっと不思議に思っておりまして、最期にはロシア人が間宮海峡を埋めてしまったから海流に乗って南下した鰊が消えたんだ!などという乱暴な濡れ衣を言い立てた人もいたようですが、間宮海峡は今でもしっかり開いているのです。

■この日本海のミステリーを解く鍵は、何と森林研究者から提出されました。江戸幕府の遺産を当てにしていた倒幕征東軍が江戸城の御金蔵を開いたら、何とカラッポ!慌てた明治政府は増税を先送りして賊軍とされた地域の収奪を始めます。目ぼしい林業資源を乱伐・乱獲して現金化したのです。これは米国人の原住民イジメより規模はずっと小さいのですが、その結果は同じく自然からの報復でした。「山は海の恋人」などとツユ知らず、宗教的なタブーで守られていた大木を遠慮なしに切り倒したのですから、山は荒れて渓流も伏流水もただの水になって海岸で栄養を待っている海草類を餓死させてしまいました。この乱行が北上するのと同機して、鰊が北上して行ったらしいのでございます。

■資金不足と需給関係の変化で、残念ながら伐採を断念したのが、「白神山地」のブナ林なのですから、どのツラ下げて世界遺産登録なのかさっぱり分かりませんなあ。白神山地よりも伐採し易い北海道に目を付けた政府はアイヌの人たちの抗議など一切聞かずに伐り続けた結果が、鰊の消滅だったという御話です。西欧流の林業をやるのなら、伐ったら植えるという鉄則を守らねばなりません。これを怠れば砂漠か密林かのどちらかが残るだけです。皮肉なことに海洋国家の日本は、荒れ果てた杉林の密林と、海面下に広がる「磯ヤケ」の砂漠を作り出してしまっています。今の杉林から流れ出す水には豊かな海の幸を支えるだけの栄養は無いのです。

■では、対応策は簡単です。放置されている杉林を伐採して各地の風土に合わせた森林を復元すれば良いのです。問題は伐採資金だと長らく言われ続けたのですが、事態はそれ以上に悪化してしまっています。仮に資金と腕の良いボランティア、或いは職種を変えた土建業の皆さんが現れても、既に無人状態になった山村では、森林の境界線が分からなくなっていて、所有権問題が発生する危険がいっぱいなのです。公有林と私有林の境界さえも分からない場所が無数に有るようです。本当は、この方が重大な問題なのですが、取り合えず、資金と技術の問題を解決しなければ、話は始まりません。

其の参に続く

花粉症の具合はいかがですか? 其の壱

2005-06-25 07:02:12 | 社会問題・事件
■田植えが終って燕も巣立ちの準備、衣替えの後には梅雨になり、世間はすっかり夏模様でございますが、これからの時候の挨拶には「すっかりマスク姿の人も減りまして……」と付け加えなければならなくなりそうでございます。すっかり商業主義の食い物にされている全国1300万人の花粉症に苦しむ皆様は、花粉症の終わりと夏風邪に始まりの区別を付けるのが大変ではないでしょうか?野生の猿や熊さん達が、日本の山が最終段階の荒れようなのだと、命懸けで知らせてくれているのですが、日本の行政は知らんぷりのようですなあ。

■戦中と戦後に滅茶苦茶な「杉の子キャンペーン」を煽って、日本中の山を杉林に変えておいて、「外材の方が安いから」の一言で見棄てられた日本の山は、想像も出来ないほどの長期復讐作戦を発動しているのでございます。秋になっても色づかないし、初夏の日差しに透けて薄緑色に輝く葉っぱも無いドス黒い杉山は、一年中日も差さないじめじめジュクジュクの地面を抱え込んで苦しんでおります。話は幕末の戊辰戦争から始まる歴史の産物なのですが、明治政府と天皇家の貴重な財産として「国有林」にされてしまった東日本の広大な山々は、帝都東京を遠巻きにしながら薄い毒ガスのような花粉爆弾を毎年吹き付けているのでございます。これに対抗する人間側の力は、実に頼りなく、本当に自然は偉大でございますよ。


群馬県林業試験場は花粉を飛散させる雄花を99%削減したスギの種子育成に成功した。この秋から苗木の生産者に対し、種子を無料で配り始める。生育の良いスギから花粉御少ない種を選んで交配を重ねた。着手から10年近く。「今ごろできたのかと言われると、つらい」と担当者。同県内のスギ植林面積は約8万1千ヘクタール。花粉症の原因との汚名返上とともに、林業復興の一石二鳥をもくろむが、現在の年40ヘクタールのペースで植え替えた場合、ざっと2000年かかる計算という。 2005年6月8日 朝日新聞 青鉛筆より

■花粉症に苦しむ人たちの中に、花粉を噴き上げる日本の杉林が「自然林」だと思い込んでいる方が多いのではないでしょうか?国策で大植林運動を起こして全国を杉林に変えた内務省は戦後に解体されているので、責任者はいなくなってしまったようですなあ。縄文時代以来の山との付き合いが急速に少なくなって、昭和30年代に完全に日本人は山と切れてしまったのでした。バブルの時代には『日本百名山』ブームが起きて、更に日本人は山から離れました。山は神々の住む神聖な場所で、さまざまなタブーに守られた聖域でしたが、西欧好みの「征服レジャー」の場所になってからは、団体行動大好きの日本人好みの観光地になって巨大な「野糞場」になるのに時間は掛かりませんでした。

■天下の霊峰富士を世界一の新幹線から眺めるのは日本人の誇りを感じる瞬間ですが、実際の富士山は自動車用の道路が通り、「六根清浄」も唱えないルール無用の登山客が押し寄せていたのに、実は貧弱なトイレ施設しか持たない不衛生極まりないトンデモない場所になっております。神々の御住まいに対して申し訳ない!と怒ってトレイを増設させたのは、アイヌ人初の参議院議員になった萱野茂(かやの・しげる)さんでした。萱野さんはアイヌ文化の保存と伝承に努力しておられる有名人ですが、山との付き合い方を日本国民に教えて下さったのです。水戸黄門のように全国の山を巡って頂いて、日本国民を叱って頂きたいものです。萱野さんの山歩きと山遊びと、山との交流方法には、精霊との交信を感じさせるものがあります。本当にコロボックルと遭ったことがあるような……。

■山は四季の変化に合わせて、いろいろま資源を人間に与え、人間は年に何回かのお祭で感謝と自戒の気持ちを伝承したのですが、遊びと商売の場所になると、こうしたサイクルは簡単に壊されてしまいます。花粉症の原因は、大規模な大気汚染から個人のストレス問題まで複雑にからまり合っているので、特効薬などは無く、抗アレルギー薬品を流用して対応するしかないようです。しかし、目薬や鼻薬、飲み薬に高性能マスク、空気清浄機やイオン発生器と毎年あれこれ新発売が続きますが、


……花粉症患者が入った部屋にスギ花粉を人工的にまき、花粉症の薬や対策グッズの効き目を正確に調べる実験施設が7月、和歌山県吉備町で稼動する。日本赤十字社和歌山医療センター耳鼻咽喉科部長を務める榎本雅夫さんらが設置、運営する。欧米には同様の施設があるが、国内では初という。……約3000万円かけて造った。一番高い部分が高さ4メートル、床面は正八角形で、広さ約30平方メートル。有償で試験に参加する花粉症患者25人が一度に入ることができる。……これまで国内の花粉症治療薬の試験は時期や天候が限られ、一定の条件下で効果を調べてたり、比べたりすることは難しかったという。2005年6月12日 朝日新聞より


■花粉症に苦しんでいる人たちは、ずっと見捨てられていたような怒りを感じる記事ではないでしょうか?効き目も分からない怪しげな予防法や治療法は、まったく検査もされずに噂と雰囲気に流されていただけなのですなあ。法隆寺さんの夢殿みたいなカプセルを作って実験をするようですが、これで「効き目は無い」と判定された薬や商品に大金を支払っていた人はどうするのでしょう?詐欺罪で訴えるのでしょうか?そんな面倒臭いことに巻き込まれたら、ストレスが溜まって花粉症が悪化するに違い有りません。2000年待つか?裁判沙汰に挑戦するか?でも、本当の問題から目を背(そむ)けているだけのような気がするのですが、それは「其の弐」での御話でございます。

其の弐につづく

『日本書紀はなにを隠してきたか』其の弐

2005-06-24 06:41:00 | 書想(歴史)
其の壱の続き。

■この本を読んで、「正しい歴史認識」のカラクリと、天皇位継承問題を考えるヒントを同時に得られるのが、第二章の「大化の改新は本当にあったのか?」の論考です。謎解きが無類の面白さなので、サワリを紹介しても営業妨害にはならないと思いますので、有名なクーデター事件に関して、

要するに、『日本書紀』が描く6月14日の一連の出来事は、古人大兄の出家を実際にそれが起きた日時から移動させることによって、始めて成り立つものなのである。この作為は、皇極女帝から軽皇子への計画的な譲位の実行という、クーデターの真の目的を巧みに隠蔽(いんぺい)するために考え出されたものである。

中学生の教科書にも出て来る中大兄皇子と中臣鎌足とが大活躍したとされるクーデター事件の真相は、天皇位継承問題の解決に有ったという説です。蘇我氏の専横を絶って天皇家の権威を復活させるという大義名分は、蘇我氏を悪役にして利用しているだけの作り話ということになるのですなあ。蘇我氏と天皇家との関係を再評価するために、飛鳥寺建立にまつわる記録を丹念に読み解いているところも大変に面白いですぞ。

■日本古代史のクライマックスに起こった「壬申の乱」に関しても、『日本書紀』に詳説されている戦況よりも、乱後の「吉野盟約」に注目して、


通説的にな立場から見れば、壬申の乱後の天武朝においては、天智系の皇子など王位継承から完全に疎外されて当然なのに、「吉野盟約」を通じ、河嶋・芝基の両皇子は、もちろん第一位・第二位ではないが王位継承資格をきちんとみとめられている。


結論として導き出されるのは、当時の天皇位継承には天皇家という特殊な血縁集団の中にさえ属していれば、血統上の制限は無く、まだ若い国だった大和朝廷を統治可能な資格が問題とされていたということで、その資格の第一が年齢であったということが明らかにされます。「壬申の乱」も血統の争いではなく、世代間の対立を背景として起きるべくして起きた事件だったことになります。この調整がうまく行かない時に、継承候補者を担いで権力を狙う勢力が派閥抗争を始めると、出来たばかりの大和朝廷が瓦解する危険が有ったのです。つまり、この時期に現れる「女帝=女性天皇」は、天皇位継承候補者が統治者としての適齢期を迎えるまでの、時間稼ぎ役として即位していた事も指摘されます。

称徳女帝の死後、この白壁王が即位して光仁天皇となる。彼は、草壁直系の聖武の女子を妻とする皇族という資格で王位を継承したといえる。だから、称徳から光仁への「代替わり」を天武系から天智系への大転換のようにいうのは正確ではない。むしろ、天智系と天武系とを対立的にとらえ、天智系の皇統確立を意図的に宣伝・強調したのは、光仁の後を継いだ桓武天皇だった。

■第四章の「知られざる古代女帝の時代」では、女帝存立の理由とカラクリを詳細に述べています。崇俊天皇の暗殺事件、推古女帝の即位、そして再び血生臭い事件が続くと、皇極女帝が即位。その統治期に「大化の改新」と呼ばれる騒動が起こり、孝徳天皇の死後には、斉明女帝の即位となります。こうして女帝が出現するタイミングに注目して古代史を見直すと、まったく新しい古代の国づくりの姿が現れてきます。

第五章の「古代史の通説を疑う」では、これまでに発表されている様々な主張を名指しで再検討してくれるので、古代史ファンとしては一区切りの整理としても便利かと思います。特に、白村江の戦いに関する解釈は、個人的に待ち侘びていた新説なのでちょっと興奮させて貰いました。

■天皇家が長期間に亘って存続する仕組みの基盤を作り上げた時代を考えてみると、明治維新の「突貫工事」に付き合って大変身した明治天皇の御苦労や、マッカーサーに直談判に出向いた昭和天皇の御苦心も少しは分かり易くなるのではないでしょうか?それと同時に、天皇家の周りで動き回る有象無象(うぞうむぞう)が繰り返すドラマには、時代を超えた共通性が見えたりするのも大いに参考とすべきでしょうなあ。今では、毎朝『日本書紀』の断片になりそうな新聞記事が配達され、テレビでもそれぞれの思惑に沿った取材を続けているので、うっかり騙されてしまいそうです。明治に生まれた日本のマス・メディアが、長い戦前も、同じように長い戦後も、天皇をオモチャにしていることに変わりが無い事を、古代史の道楽読書が教えてくれますぞ。

おしまい。

「日本書紀」はなにを隠してきたか?

洋泉社

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『日本書紀はなにを隠してきたか』其の壱

2005-06-24 06:40:00 | 書想(歴史)
『日本書紀はなにを隠してきたか』遠山美都男著 新書Y 洋泉社刊 2003年第4刷

■古代史ファンの方であれば、既にお持ちかも知れませんが、特に古代日本の歴史がどうであろうと、今の自分の生活には関係ない!とお考えの皆さんにもお勧めの一冊です。それは何故か、「正しい歴史認識」などというヤヤコシイものを御近所から突きつけられてオタオタしている人が多いような気がすることが一つ。もう一つは、天皇の皇位継承に関する議論が大混乱状態であることが理由です。

■『日本書紀』は、日本人が作った最初の歴史書です。『古事記』の方が古いという説も有りますが、「多朝臣人長が9世紀に書いた」という岡田英弘氏の説に惹かれるので、『日本書紀』を最古の歴史書としておきます。これは、国内用に天皇家の権威を宣伝する目的と、海の向こうの大唐帝国に対する独立宣言の意味を持って編纂された歴史書です。日本の歴史には、三つの大きな切れ目が刻み込まれている事は、別の記事でも論じましたが、対米戦争の敗戦時・明治維新政府の成立・大和朝廷の成立の三つです。歴史の切れ目には必ず「正しい歴史」が登場します。これを熱心に言い立てるのは、新政権を担う側ですから、前の政治と時代がどれほど腐敗し、民を苦しめ、間違いばかり犯していたのかを、くどくどしく説明します。その上、前の政権に属していた生き残りの口を塞ぐことに必死になるものです。

■敗戦後に占領軍として来日した米国が、徹底的な言論弾圧をした事は長らく秘密にされていました。この事実を糾弾すべき新聞社自体が、厳しい監視下に置かれていたのですから、日本国民は真相を知ることなく長い戦後を過ごしたのでした。明治維新の時にも、幕府軍を破った朝廷軍の残虐な悪行は一切歴史から排除され、江戸時代がいかに酷い時代だったかの宣伝と教育に力が注がれました。その影響が、今でも残っているのをご存知でしょうか?


「越後屋。商いの向きはいかがじゃ?」
「ははあ。お代官のお蔭さまをもちまして、万事順調にございます。これは、些少ですが、どうか、お納め置きを……」
「ふむ。何じゃ?饅頭か?」
「はい、はい。白い饅頭の下には、山吹色の切り餅が……」
「何?むふふふふ。越後屋、そちもワルよのう」


■映画やテレビの時代劇では定番になっている。悪代官と悪徳商人の贈収賄場面です。キンキラ金の緞子(どんす)を着込んだ代官が、茶屋の座敷でふんぞくかえって大杯で酒を飲んで笑っています。しかし、代官というのは徳川家の直轄地(天領)を統治する役目を負った高級官僚でした。天領は年貢も安くして、領民から絶対に不平不満が起こらないように慎重に管理されていたのですから、馬鹿代官などには勤まらない役職だったのです。幕府と武士の威信を示しながら、善政を敷いて反乱を起こさせない任務は、華美な生活など許されるものではなく、越後屋さんと仲良しになって賄賂を貪(むさぼ)るはずがないのです。こんな馬鹿代官のイメージが定着したのは、明治以来の芝居や物語によって江戸幕府に関して広められた悪口教育の成果です。戦後のマルクス主義の大流行で「封建主義反対」気分の歴史学が盛んな期間が長く続いたので、江戸時代の見直し作業が随分と遅れています。

■戦後の日本人が、米国大好き!米国の真似をしたい!と言い出したり、その子孫が、米国人になりたい!金髪・青い目にデッカイおっぱいになりたい!と暴走している原因も、占領軍の監視と宣伝の影響下で作られた「歴史」ではないかと思われます。同時期に起こった反米運動には、ソ連・チャイナ帰りの洗脳教育を受けた社会主義革命大好き!の人々の影響も大きかったようですので、北京政府に教科書問題を言い立てられると、今でも右往左往してしまうのはその名残でしょう。敗戦直後から「正しい歴史」が、海外から持ち帰られたのでした。その歴史的な置き土産が、新聞や学校の教科書にシブトク残っているようですなあ。明治以来の長い歴史を「戦前=軍国主義」という単純で分かり易い枠の中に放り込んでしまえば、戦後の米国流の民主主義万歳!気分に浸れたのでしょうが、本家の米国が自家中毒を起こしてしまっては、米国万歳!とも言っていられなくなりました。

■歴史を考える時には、資料・テキストとして使う「歴史書」が誰の手によって書かれたのか、その編纂を命じたのは誰か、最も美化されているのは誰か、などに気を付けないと、あっという間に騙されてしまいます。日米安全保障条約と日本国憲法が残っている現段階で、米国が占領軍としてしたことや、百年間に太平洋上で展開している戦略を洗いざらい告発するのは無理でしょう。そして、日本国内では、まだ、明治伝説が売れる世相のようですから、明治政府の罪をアゲツラウのも難しいでしょう。しかし、『日本書紀』が書かれた1500年前の事ならば、割と自由に研究できるようになったようです。勿論、明治政府の国家神道政策の影響で、今でも少しばかりの邪魔が入るような場合も有るようですが、とうとう古墳の考古学調査を実施しようかと宮内庁も言い出す時代になりましたから、古代史研究がとても面白くなっているのです。

其の弐に続く

「日本書紀」はなにを隠してきたか?

洋泉社

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天皇家はなぜ続いたのか―「日本書紀」に隠された王権成立の謎 (ベスト新書)
梅沢 恵美子
ベストセラーズ

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天皇家はなぜ続いたのか (ワニ文庫)
梅沢 恵美子
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有りもしない日本 其の五

2005-06-23 22:15:24 | 社会問題・事件
其の四の続き

■高度成長期に政策的に起こされた巨大な人口移動は全国的なものでした。そして、それに続いて、田中角栄さんが提唱した『列島改造論』は、地方の中核都市への人口移動を誘発したのですから、過疎地と中途半端な過密と異常な過密という三色に日本は分けられてしまったわけです。中途半端な過密都市を新幹線で結ぶと、どんなご利益が有るかと言うと、農山村から地方都市へと若者はとんどん引き寄せられ、その中から更に大きな地方都市を経由して東京を目指す人口移動が止まらなくなるのです。その東京自体は、皇居と官公庁街を中心に抱え込んで成長した都市ですから、人口密度の高低差は世界一激しい都市になってしまいました。何度目かの再開発によって出現した超高層ビルの中に用意された住宅とは呼べない価格の空間が、全国から注目されているのは、人が住めないはずの場所に住んでいる人間に対する興味が生まれているからでしょう。

■東京の中心地は、生活人口で見れば、恐ろしいほどの過疎地域です。全国から押しかけた人々は、何故か東京の外へと外へと押し遣られ続けて、居住空間の同心円は際限も無く外へ押し広げられているのが東京という場所でしょう。この同心円が近隣の千葉・埼玉・神奈川を飲み込んで、境界線がまったく見えないノッペラボウの都市とは呼べないモノを作り出しました。欧州の都市のように、芸術家が集まって風景画を描いている場所も無く、劇場を持っていても海外からの観劇者はほとんど見当たらず、海外からの観光客が集まる文化施設や宗教関連の名所も無いのが東京ではないでしょうか?もしも、海外からの客人を案内しなければならなくなったら、と想像してみれば東京という場所の特殊性が分かるでしょう。

■「東京に出れば幸せになれる」と皆が信じた日本は、もう有りませんし、東京に膨大な人口を供給した地方には、将来の東京を支える人材を育てて送り出す余力が無くなっているのです。日本は、地方から壊れ始めているような気がしてならないのです。


働き盛りの男性を中心に自殺者が増え、7年連続で3万人台が続く状況を受けて、厚生労働省は鬱(うつ)病による自殺を減らすための大規模研究に着手する。……厚労省の04年の人口動態統計では、自殺者は三万227人……警察庁のまとめでは98年以降3万人超が続いている。……厚労省の研究班(主任研究者=樋口輝彦・国立精神・神経センター武蔵病院長)は……「地域特性に応じた自殺予防地域介入研究」「鬱による自殺未遂者の再発防止研究」の二つの研究計画を提案した。……自殺者が多い秋田、岩手、青森、鹿児島各県などの地域介入では自殺予防効果も出ているという。
2005年6月12日 朝日新聞一面より


■飲酒による疾病や運転事故が多いのも、同じ地域です。「均衡有る発展」や「地方の活性化」がすべて嘘であることは、もう隠しようも無い事実になってしまいました。この日本の歪(いびつ)さは、明治新政府が成立する前後の歴史的事情を原因としているのは明らかでしょう。「戊辰戦争」と「西南戦争」以来の、中央政府からの蔑視政策が解消されないまま、列島改造とバブル経済を通過した歴史の残骸が、こうした数値になっているのです。その間の三度の対外戦争でも、激戦地に送られる兵の出身地には見事な差別構造が埋め込まれていたという事実も有りますし、最近の「イラク派遣」に際しても、派遣先が酷暑の砂漠地帯だというのに、寒い北海道・東北の部隊から送られてのは何故でしょう?

■新聞もテレビも、東京に拠点を定めて情報発信を続けている異常な状態がまったく是正されずに、ますます酷くなっています。報道番組で、「町の声を聞いてみました」という枕言葉の後に続くのは、東京都下の新橋駅周辺で歩いている酔っ払いのサラリーマンか、銀座を歩いている女性達ばかりが目に付きます。これは「町の声」ではなく、新橋駅前の声、銀座をほっつき歩いている人の声、それ以上のものではありません。地方から集まったスタッフによって作られる情報が、全て「東京製」になってしまうことに、何の危機感も不自然さも感じないようなジャーナリストなど百害あって一利なしですなあ。「東京人」である事自体に、何らかの価値が有るという幻想を振りまく限り、東京の治安と福祉制度は悪化し続けるに違いありません。それを、また「東京の危機」として報道する愚か者が出て来るのでしょうが、それは「日本の危機」ですぞ!

其の六に続く

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有りもしない日本 其の四

2005-06-23 06:51:00 | 社会問題・事件
其の参の続き

■地方に残る伝統工芸の技術を受け継ぐ若者が都会からやって来る。師匠の子供達は都市部に去っている。農業にも同じ動きが目立っています。これは一体どうしたことでしょう?特に、思春期から青年期の貴重な時間と精力の大部分を注いで入学した大学で学んだ学問とはまったく関係の無い、伝統的な手工業や農業に天職を得るのならば、莫大な税金と家族の犠牲は、「自分探しの旅」だけに費やされたことになります。それならば、幼い時から社会常識を逸脱した「校則」の枠に嵌める努力などせずに、「可愛い子には旅をさせる」だけで十分ではないでしょうか?親の言うことも教師の指導も一切受け付けないガキンチョが、サッカー選手やら芸能人になれそうだと思い込んだら、どんな理不尽な隷属状態にも嬉々として耐えています。もっと伝統的な現象としては、ヤクザを頂点とする犯罪社会に入り込めば、古臭い仁義だの掟に従順になって悪事に励んでいるのは昔から変わらないわけです。

■「不登校」を問題にする社会には、「登校は善である」という前提が有ります。子供達が楽しんでいるテレビやCD、あるいはテレビ・ゲームの業界には、大学に行かなかったゆえに成功した人達が存在していて、特に、芸能人(歌手やお笑い芸人)に対する一切の差別が消失してしまった現代で、小学校から大学まで貫いている学校文化の権威は、その実質的な有用性と共に崩壊しているように見えます。「学士様」などという言葉が死語となってから久しく、「末は博士か大臣か」などと言ったら、笑われるような時代を招いてしまった日本は、「忍耐」や「努力」を忘れてしまったのではないのです。その対象となる物が見えなくなっているのです。

■牧伸治さん(ウクレレ漫談の巨匠)の小さなネタにこんな傑作が有ります。


「伸治!ごろごろしてないで、勉強しなさい。勉強を!」
「なんで勉強しなきゃいけないの?」
「勉強すれば成績が上がるんです。」
「へえ、成績が上がるとどうなんの?」
「良い学校に入れるんです。」
「フーン、良い学校に入るとどうなんの?」
「良い会社に入れるでしょう!」
「へえ、それからどうなんの?」
「生活が安定するんですよ!」
「フーン、生活が安定するとどうなんの?」
「寝て暮らせるようになるんです。」
「だから、俺は最初から寝てんだよ」


■これほど露骨でなくても、実際の教育現場で、ほとんど同じ趣旨の指導をしている教師が存在しいます。中には、運良く合格した大学で、「サークル活動」と「アルバイト」に励んだ楽しい思い出を中学や高校の生徒に語って聞かせて、「だから、大学は楽しいんだ。皆も成績が上がると、大学で遊べるぞ!」と自己正当化と生徒指導を混同している教師が実在します。しかし、御本人は自分に教養や知識が欠けている事や、それが教育には必要である事を肌身で知った経験が無いのですから、誰にも責める資格は無いのです。少なくとも戦後の一時期には、「学校を出ていないと、世間で馬鹿にされる」という大いなる恐怖が就学の動機になっていたのですが、「愚かさ」を売り物にして大金を得ているように見える(御本人の演技なのかどうかは不明)人たちが、日夜テレビで「笑われている」のを見ている子供達が、「恥ずかしい」と思う対象が違ってしまっているのです。

■この「世間様」に対する羞恥心や、屈辱感が無くなると、「世間様」自体が消滅してしまうのです。これは社会における共同幻想(吉本隆明)ですから、疑惑を持たれたり伝承の努力が弱まれば、あっと言う間に消えてしまうものなのです。何も知らない幼子の頃から、親の厳しい言葉や表情で「事の重大性」を感知する経験を重ねることで、「恥ずかしさ」が抑止力となって友好に機能するのです。誰かが、この約束事を破ってしまうと、収拾が付かなくなってしまうのです。過激な社会主義革命の大流行時代に、革命を目的とする犯罪は許されるという、(実は旧日本軍の海軍将校が仕出かした5.15事件や、陸軍の2.26事件の理屈と同じ)放火や狼藉も楽しい思い出となっている世代が問題です。その次には、バレない犯罪で金と権力を得た人々が世に憚(はば)り、それを糾弾するどころか、称賛するようなマスコミがいた時代も有りました。

■「本音」という浅はかな「開き直り」が流行したことも有りました。「非常識」が商品化されてしまえば、常識は崩壊するのは当然で、どこの先進国にも公共放送や一般向けの出版物には、倫理上の規制(コード)が設定されています。多くはキリスト教文化を基盤にしているのですが、チベットや東南アジアの仏教国やイスラム諸国にも動揺の枠が存在しています。日本にだけは、この区別が無くなってしまっているようです。昔から浮世絵文化が有ったなどと言ってはいけません。子供が持ったり買ったりする物ではなかったのですから。浮世絵や黄表紙本を売っていたのは、コンビニ店とは似ても似つかない限定的な大人向けの店だったようです。

■従って、最近までは「子供のくせに!」という社会倫理のバリアの存在を示す言葉が生きていたということです。「有りもしない日本」の代表は、子供らしい子供や子供の居場所のことかも知れませんなあ。親の愛情と無関心は、促成栽培と放任というそれぞれの経路を通って、結局は子供らしい子供を消し去ってしまうという同じ結果を産んでいるのでしょうなあ。「お受験」と「ゆとり教育」は、二つの経路の断面に付けた名前でしょう。

■子供を大人扱いすると、責任感が育って頼もしく成長するものだが、圧倒的な経験不足の存在である事を忘れてはならない。子供らしい子供と大人らしい大人が、社会規範を守って地域社会の中で暮らしているという前提は、遥か昔に崩壊してしまっている。既に、大人と子供の消費活動は区別が無いし、衣服や化粧まで大人と変わらぬ物を子供に与えて得意になっている馬鹿親まで出現している。現実の学歴社会で味わった後悔や屈辱を、年端も行かない子供に押し付けることから、進学競争は始まるのだから、これも根は同じであろう。小学生の頃から高学歴の価値を実感している子供ばかりになったら、どんな社会が現出するのかを、誰も想像しないまま、進学熱を煽り立てているのではなかろうか?

其の五に続く。

有りもしない日本 其の参

2005-06-22 06:21:00 | 社会問題・事件
其の弐のつづき

■一学年の生徒数が40人に満たない小学校が止め処も無く増えて、本校だか分校だか区別も付かない時代に、現実の日本は入っているのです。中学校の統廃合も進んで、とても歩いて通えない中学生も同時に増えています。高校生になったら実家を離れて暮らす生徒も必然的に増えて、父親は単身赴任という世界でも珍しい「奇習」が罷り通っている緊急事態はそのままですから、今度は中学生になると家庭から子供が消えて、高校生時代からは一家離散状態になってしまう危険性が高いようです。長々と、旧通産省を筆頭にモデル家族として設定していた「夫婦に子供二人の標準家庭」などは、見付けるのが大変な状態になって久しいのです。

■継ぐべき稼業が無い者が新しい時代に適応できる「自由民」で、特に学歴も要らない家業が有る者は「封建制度に縛られた者」という乱暴な通説が広まっていた時代が長く続きました。多くの兄弟姉妹の中で特権と重責の両方を受け取る「長男」という存在が、実質的にも消えてしまっているのに、「墓守」だの「先祖伝来の土地」だのという名前ばかりの約束事だけが、突然大手を振って現れて混乱を生むのですが、庶民のちまちました悩み事などには誰も目をくれませんので、まるで昔通りの「日本」が続いていると思わせる陰湿なキャンペーンが展開しているようです。

■確かに、「ジバン・カンバン・カバン」を受け継ぐ二世・三世、そろそろ四世議員があちこちに出現し始めたり、有名企業の経営者から芸能人まで、「世襲」を前提に報道する慣習が固まってしまっていますなあ。そんな頭の固いマスコミが、相撲界の仲良し家族と最高の兄弟が骨肉の争いを始めるとビックリ仰天して、謎解きを商売にして稼ぎ始めたのが6月上旬の風物詩のようです。政治の世界では、鳩山兄弟の大喧嘩が有ったのに、政治記者とスポーツ・芸能記者は役所顔負けの「縦割り行政」システムになっているのでしょうか?一国一城の主となるべき男兄弟が、同じ業種に入れば、大喧嘩になるのは当たり前でしょうに!まして、長男が逃げてしまったら、業界全体から一家に対する厳しい目と圧力がかかって来ますから、放って置けば何でも有りのバトルロイヤルになるのも必定です。何を物珍しそうに報道合戦をしているのやら、奇妙な話です。

■「稼業と学歴」という大問題は、最近の日本を解く貴重な鍵となっています。使えない学歴と誰にでも出来る稼業を足すと、「フリーター」という答が出ます。有名大学という場所には、生徒に学識や教養を身に付けさせる能力など始めから期待もされていませんし、有りもしないのです。必要なのは卒業証書と学閥人脈とのコネだけでしょう。戦後の「駅弁大学」時代に始まった団塊の世代の受験競争という凄惨なサバイバル戦争で、学歴は非常に強力な武器となりました。何せ人数が多いので、誰が誰やら区別を付ける道具が必要だったのですから、新しい村社会を形成した財界や政界の学閥参加切符は、とても便利な物になりました。

■しかし、この巨大な集団が、社会の新陳代謝を完全に窒息状態に陥れる障害物になってしまったのが今の日本です。ですから、50年前からまともな人口学者であれば、今日の惨状を予見可能だったのです。団塊の世代の皆さんが、幼い時に敗戦の焼け跡から立ち上がり、凄まじいパワーで復興した時代の空気を吸って、見事な企業戦士になって築き上げた社会主義国家の日本は、有り余る余剰労働人口と禁断の赤字国債の乱発によって、潤沢な労働力と資金を得たのですから、世界中が驚くような経済成長を達成したのは当然でもあったのです。勿論、突然のドル政策の変更や二度の石油危機を乗り切った手腕と努力には頭が下がります。その時代の伝説をNHKが「プロジェクトX劇場」に仕立て上げたから、そろそろ退職間近の皆様は熱心に録画したり書籍化された物を購入したりしているのでしょう。

■まさか、あの伝説物語を社会科教材にしているような中学や高校の教師はいないでしょうな?戦国時代の大名から最新の経営術を学ぼうとするより酷い時代錯誤ですから、そんな授業を受けさせられた純情な生徒達はますます困ってしまうでしょう。そもそも、学校に並んでいる教師の皆さんは、企業に対する就職活動の経験も無く、設計開発や製造販売の実体験など無いのですから、実社会の経済活動に関して生々しい伝達者にはなれないのです。特に、IT技術を強化する政策を学校の教育現場にまで投げ下ろすような暴挙に遭遇すると、教師よりも優秀な技術者が生徒の中に続々と生まれてしまいますから、ますます先生の権威は痩せ細ってしまいます。英語だのコンピュータだの、政治家先生や文部官僚も不得手なものを子供達に強制するのは止めた方が良いのです。だからと言って、罪に問われても最後まで嘘を貫く姿勢とか、派閥や党利党略でころころ意見を変える逞(たくま)しさなどを教材に盛り込んでは行けませんよ。

其の四に続く。

ジェンキンスさん一家?「曽我さん一家」でしょう?

2005-06-21 12:05:00 | 外交・情勢(アジア)
■日本のマスコミは、いつの間にか「ジェンキンス一家」と言い始めて、すっかりこれが通り名になっているようです。多くの心配の種が有るジェンキンスさんの里帰りを、米国旅行の希望話からパスポート発給の報道が新聞に載り、佐渡の家からの出発風景にはテレビ・カメラが集まり始めて、心配していたら、やっぱり日本のマスコミがノース・カロライナの田舎町に押し寄せてしまったようです。「良かった、良かった」とファミリー・ドラマの一場面を撮影しようと思っているのでしょうが、この外交感覚の欠片もない行動には言葉も有りません。ワイド・ショーの悪趣味企画はテレビが滅びるまで治らない病気ですが、少しは足しになる情報を知りたいと思って見る「ニュース番組」にまで映像を流してどうするのでしょう?

■曽我ひとみさんが結婚した相手のが米兵のジェンキンスさんですから、曽我さん一家の姓はジェンキンスであることは確かです。しかし、「ジェンキンスさん一家」という報道の仕方には違和感が有りますなあ。そもそもどうして曽我さんがジェンキンスさんと結婚したのか?何故、曽我さんが北朝鮮でジェンキンスさんと出会ったのか?全ての原因は「拉致事件」です。この大事件の真相も全貌も、解決の糸口さえも不明のままで、マスコミは露骨に「飽きた」ような姿勢を示しています。日本政府が見通しを完全に誤った日朝国交正常化交渉は、暗礁に乗り上げて放り出されたままです。思い込みが激しい割には、ひどく飽きっぽい小泉総理大臣を二度も平壌に引っ張って行った連中は、保身のための責任逃れでオオワラワでしょう。失敗の原因は何処に有ったのかを追求するのがマスコミの使命です。

■何の情報も持たず、シミュレーションもしないままに突っ込んだ出たとこ勝負の無謀な交渉をしてみたら、相手は被害者リストにも載っていなかった曽我さんを連れ出して日本側の度肝を抜きました。この段階で、外交交渉の敗北が決定したのです。ところが、「四人要求したら五人出て来た」とまるで安売りセールで得したような話になって、日本の世論をミスリードする報道が始まったことを反省するべきですぞ!マスコミ報道は、そのまま人情話に流れてしまって、危うく「一件落着」に雪崩れ込みそうな勢いでした。日本が勝手に進めた北朝鮮との外交交渉を不快に思っていた米国に対する「武器(道具)」として曽我さんは翻弄され始めます。明らかに、北朝鮮は本当の交渉相手を米国に定めている事が分かって、日本はただの御用聞き役にされてしまったのです。それは曽我さんの責任ではなく、無能な日本外務省と怠惰なマスコミの責任です。

■帰国直後の曽我さんは、二組の夫婦の後で、痛々しいほどに硬い表情を見せていたのが可哀想でした。この点を日本国民は常に気に掛けてあげなければならないのに、乱暴なマスコミは帰国者全員を同質に扱ってしまったツケを払い切れないまま、ジェンキンスさんの平壌出発の実況中継させるという北朝鮮の毒を喜んで喰いましたなあ。まるで「来日」や「帰国」を思わせるような舞台設定に、まんまと載せられた形でした。テレビ朝日が独占状態で放送したと記憶していますが、テレビ局のスタジオは大ハシャギしていませんでしたかな?「お帰りなさい」などという暴言を吐いた輩(やから)もいたかも知れませんなあ。

■イラク戦争で神経がピリピリしている米国に、自国の存在をアピールする最大の効果を狙った北朝鮮の外交戦術は見事でしたが、身も心もこの謀略に利用された日本は阿呆でした。自衛隊のイラク派兵のご褒美に、極刑も有り得る「脱走罪」を不名誉除隊の大甘判決で済ましてくれた米国に感謝しなければならなくなった日本政府の立場を憂える声は上がらず、大きな外交戦略の道具にされている我が身の辛さに悩む曽我さんの気持ちを斟酌(しんしゃく)する優しさも無く、その立場の難しさを心配する知恵も無いマスコミ報道ばかりでした。

■ジェンキンスさん一家の「感動的な再会」場面の取材攻勢は、阿呆さ加減の極を示す暴挙でしたし、まるで英雄の凱旋騒動のようにしか見えない風景を、イラクで毎日若者が「犬死」している米国の人々はどう思うか、と誰も考えなかったのでしょうか?日本のマスコミがハシャグほどに、曽我さんが可哀想なことになってしまいました。彼女は、どこまで行っても「脱走兵の妻」なのですから、静かに暮らせるように、他の帰国者達以上の慎重な扱いをしなければならない人です。イラクの戦場で、闘う意義を見失って精神を病み、自殺する米兵がいるという時期に、「脱走兵」の帰郷は刺激が強過ぎるイベントですぞ!まして、母親が高齢ではあっても、基地の町を少しでも離れた場所に再開場所を設けるべきなのに、日常生活を送っている一般家庭を報道陣が取り囲むような騒動を起こせば、不測の事態さえ起こる可能性も有ります。万一のことが起これば、それは日本から押し寄せたマスコミが起こした事件に他なりません。

■映画『ディア・ハンター』で、幼馴染み達が盛大なパーティを準備している故郷の町に帰ったロバート・デ・ニーロ演ずるヴェトナムの英雄?がどんな行動を取ったかを思い出してみれば良いでしょう。友を救えなかった兵は、とても胸を張って凱旋パーティには出られなかったのでした。とても悲しくも美しいシーンでしたなあ。ジェンキンスさんを追いかけて渡米したテレビ・カメラは、苦悩する「脱走兵」の表情を求めていたのでしょうか?それとも、無神経に大喜びするジェンキンスさんの阿呆面を撮影したかったのでしょうか?どちらも残酷で愚かしい無い物ねだりでしょう。

■この馬鹿げた報道騒ぎは、決してジェンキンスさんや曽我さんが頼んだものではないでしょうし、得意になってマスコミを引き連れて行ったわけでもないでしょう。しかし、米国の田舎町で静かに暮らしている人々から見れば、「何様だと思っているんだ!」という反感が湧く危険性が高過ぎます!何処か静かなホテルを用意して、孫達との再会を喜ぶ「写真一枚」をマスコミの代表者が撮影して発表すれば済むだけなのに、どのテレビ局もスタッフを派遣して争って独占映像を求めていたようですし、米国在住の特派員をノース・カロライナの田舎町に行かせた放送局も有ったようです。朝鮮外交問題に関連した取材をするなら、向う場所も取材対象も間違っていますなあ。海外事情を報道するニュースならば、米国の人々が「朝鮮戦争」や「拉致事件」をどう考えているのかを詳しく調べて知らせるべきでしょう。田舎町に似つかわしくない大袈裟な陣容で押し寄せておいて、町の住人にマイクを向ければ、固い表情で「祝福」するか、正直に不快な顔をして「非難」するに決っているでしょうに、そうやって曽我さんが心苦しく思う原因を増やしているのがマスコミです。

■六カ国会議の行方が、ますます心配になる時に、米国市民の朝鮮半島情勢に関する考え方を調査するのが、日本の報道陣の使命です。当初は、三対三で討議が進むはずだったのが、韓国が向こう側に付き、中国とロシアは強(したた)かに高く外交カードを売ろうと虎視眈々です。そんな時に米国のブッシュ大統領は、振り上げたコブシの降ろし方を苦慮しているところに追い込まれています。つまり、一対四対一になりつつあるのです。イラクで続く大混乱を「戦争」とは絶対に呼びたくないブッシュ大統領は、「戦争は短期間に大勝利した」と言い張らなければなりませんから、新たな戦争を起こすわけには行きません。強引に攻め込んだりすると、「世界を民主化する」というファンタジーが、完全に崩壊してしまうでしょう。

■バクダッド侵攻の戦闘が終れば平和になる。―― 自爆テロ増加。
フセイン政権が崩壊すれば平和になる。―― 民族間の戦闘開始。
民主的な政権を作れば平和になる。―― 宗派間の戦闘激化。
民主的な選挙を実施すれば平和になる。―― 暗殺テロ頻発。
甘い計画が次々に破綻しているブッシュ大統領は、イラクで増え続ける自国の犠牲者数を静かに数えているでしょう。ヴェトナム戦争末期の反政府運動のような雰囲気が盛り上がる気配が無いかと全国の動向を見詰めているでしょう。こんな時に、朝鮮半島で新たな「戦争」をしたらどうなるか?情報戦と謀略で内部崩壊を予測可能だったフセイン政権と、謎に包まれた要塞国家の朝鮮民主主義人民共和国とは比較さえできません。

■まして、既に中古品同然の武器しか持っていないことを、元売り主だった米国は知り尽くしていて仕掛けたのがイラク戦争でした。石油で稼いだ資金で衝動買いをしてくれるフセインさんは、世界から押し寄せる戦争セールスマンの上客でしたが、北朝鮮は強力な武器を自国で製造して売り廻っている国です。そして、米国にそそのかされてイランとの小競り合いを始めて、だらだらと10年も殺し合った揚げ句に、勝てなかったイラクは、父ブッシュの時代にはクウェートに手を出してあっと言う間に追い出されてしまう程度の軍隊でしたが、北朝鮮は半島南端の海岸線まで占領した経験を持つ国です。残念ながら第一回戦は「引き分け」でしたが、この経験を徹底的に研究して第二回戦に備えている国です。

■中国とロシアを後に背負っている北朝鮮は、長距離の飛び道具の的(まと)には出来ない相手ですから、大量の若者を朝鮮半島の海岸と空に展開しなければならない米国は、再び『史上最大の作戦』を決意しなければなりませんが、今の状況では米国の選挙民達がそれを許すはずが有りません。映画の『プライベート・ライアン』が再現した強行上陸の悲惨さは、イラクでの楽勝神話を吹き飛ばしてしまいます。

■曽我さん個人としては、自分の家族だけの事情で目立った動きなどしたくないのに、年齢による理由で敢えて急いだ渡米だったのでしょう。こんな可哀想なだけの無意味な米国取材などに資金とエネルギーを浪費しているよりも、独自の調査を進めて政府に圧力を掛け続ける努力をするべきでしょう。もともと、拉致問題を告発したのは新聞だったのですから、政府に期待できない事は日本国民の全員が知っているのです。僅かな期待をかけられているマスコミの中の心ある人々の中には、今回の「ジェンキンスさん一家」の御里帰り騒動を苦々しく思っている人がいるはずです。ジェンキンス一家の平穏な生活は静かに祈るべきことで、報道の対象ではないのです。報道すべきは「曽我さん」の拉致問題であり、「曽我さん」の母親の行方なのです。「ジェンキンスさん一家」という言い方に違和感を覚えるのは、未解決の拉致問題を解決済みにしてしまいそうな悪意を感じるからなのでしょうなあ。
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