■大本営が真珠湾攻撃の戦果を発表したのは8日の夜だったので、他紙はそれを翌日の朝刊に掲載したのだそうです。
…戦争の始まった翌日、ニューヨークの状況、特に日本人の状況はどうなっているかハッと気になって、森島守人総領事に電話をかけた。すぐ出たね。「戦争が始まったが、日本人は一体どうしているか?」「いや、非常に静かだ。これからどうなるか分からんが、今のところは日本人は誰も引っ張られていない。これから引っ張られるだろう」といった話をしていたら、アメリカの交換手が「ちょと待って下さい」と言うんだ。「何だ」と聞くと、「日本は敵国だから、敵国の言葉で通話する事は許されない。話すなら電話を切る。英語でならば話してもよろしい」と。それで直ぐに英語に切り替えて森島氏と話した。……
■友好国だったアルゼンチンに足掛け3年、米国から入る情報を日本に送り続けていた細川さんとスペイン人学校に通って、どんどんスペイン語が上達していた娘さんに電報が届きます。昭和18(1943)年の秋だったそうです。、
「…第二回の日米交換船で帰国を許されることになった。東京から親子で帰国しても良いという電報が来た。当時、日本の利益代表国はスペインだったが、スペイン大使館に行ったら、アメリカの方からあなた達二人を交換船に乗せても良いという承認が来ているという。娘の教育問題ということで、プレスである私の帰国を承認したんだね。私はスウェーデンのグリップスフォルム号だったが、食い物は何でも有る。ビーフステーキはあるし、ウィスキーはジョニ黒でもジョニ赤でも飲み放題。ミルク、バター、砂糖も無制限にもらえる。日用品も豊富で、本当に極楽みたいなんだ。その船でアフリカの南の喜望峰をまわって、インド洋に出て、インド西海岸にあるポルトガル領のゴアに着いた。そこで日本から来た交換船帝亜丸に乗り換えた。」
■細川さんが乗船した第二次交換船は、ポルトガル領の東アフリカには立ち寄らずにインドに向っていたのが分かる証言です。第一次交換船では、白十字を幾つも船体に書いた日本の浅間丸が活躍したそうですが、細川さんが乗ったのは帝亜丸でした。
「この帝亜丸は日本がドイツから分捕った船なんだが、この船に乗り移ってみるとまるで別世界なんだ。食事の粗悪なのはまだ我慢出来るとしても、便所用の紙が全然無いのには、乗客一同ほとほと困ってしまった。……南米からの引き揚げ者は紙を持参しているが、北米からの者はノートをはじめ紙類は一切持ち込みを禁止されていたので、帝亜丸の紙不足は北米引き揚げ者の頭痛のタネだった。また、泡の立たない石鹸、水気のとれないスフの手拭いを当てがわれて、北米からの引き揚げ者は異口同音に『これじゃ、北米キャンプの方がずっと上等ですよ。日本がこんなに困っているとは想像もしなかった。これじゃ、ちょっと勝ち目はありませんね』といっていた。
■讀賣新聞に載った加藤教授の文章で紹介されている鶴見俊輔さんの体験は「上等」の部類のようです。
当時19歳の鶴見俊輔は、日米開戦後、当初の取調べで、この戦争の当事国、日米両国を無政府主義者として支持しないと回答し、その後逮捕される。収容所でトイレの蓋を机に卒業論文を書き、収容所での口述審査を経てハーバード大学を卒業するが、この時、この戦争に日本が負けるのは明らかだが、負ける時には負ける側にいたいと思い、帰国を決めた。……
ハーバード大学だけではないでしょうが、学問を政治や戦争と切り離して留学生を遇する態度は立派ですぞ!戦争中に『カサブランカ』やらディズニーの『ファンタジア』を製作していた米国は、確かに豊かな民主国家だったのですなあ。鶴見俊輔さんも卒業証書は貰ったかも知れませんが、トイレの紙には不自由していたはずです。メモや書籍など、利敵行為に当たる情報が書かれている物を探し出すより、紙という紙を全部没収した方が防諜には便利ですからなあ。
■細川さんがアルゼンチンを出発する直前に、朝日新聞本社から「魔法瓶を大小5個持参せよ」という電報が入ったそうです。既に燃料不足に陥っていた日本国内では、朝沸かしたお湯を一日使わねばならなかったという理由を知ったのは帰国後だったそうです。さすがは細川さんの娘さんだけあって、出発前に石鹸を買い溜めしようと言い出したのに、細川さんは「日本にだって石鹸ぐらいは有るだろう」と暢気な事を言って止めさせてしまったそうで、交換船に乗ってから「どうして買って来なかった?」とバカにされてしまったとのことです。やっぱり、こういう場合、男はダメなのですなあ。
■帰国した後の細川さんは、『敵国アメリカの実相』という講演をして全国を巡るのですが、憲兵の言論統制は一層厳しくなっていて面倒な事も多かったそうです。しかし、陸軍の参謀本部では「本当の話」を聞きたがっていて細川さんは本当の話をして上げたそうです。ところが、朝日新聞社内に神がかり記事を本気で書いている愚か者が居たのに一番驚いたのだそうです。嗚呼
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…戦争の始まった翌日、ニューヨークの状況、特に日本人の状況はどうなっているかハッと気になって、森島守人総領事に電話をかけた。すぐ出たね。「戦争が始まったが、日本人は一体どうしているか?」「いや、非常に静かだ。これからどうなるか分からんが、今のところは日本人は誰も引っ張られていない。これから引っ張られるだろう」といった話をしていたら、アメリカの交換手が「ちょと待って下さい」と言うんだ。「何だ」と聞くと、「日本は敵国だから、敵国の言葉で通話する事は許されない。話すなら電話を切る。英語でならば話してもよろしい」と。それで直ぐに英語に切り替えて森島氏と話した。……
■友好国だったアルゼンチンに足掛け3年、米国から入る情報を日本に送り続けていた細川さんとスペイン人学校に通って、どんどんスペイン語が上達していた娘さんに電報が届きます。昭和18(1943)年の秋だったそうです。、
「…第二回の日米交換船で帰国を許されることになった。東京から親子で帰国しても良いという電報が来た。当時、日本の利益代表国はスペインだったが、スペイン大使館に行ったら、アメリカの方からあなた達二人を交換船に乗せても良いという承認が来ているという。娘の教育問題ということで、プレスである私の帰国を承認したんだね。私はスウェーデンのグリップスフォルム号だったが、食い物は何でも有る。ビーフステーキはあるし、ウィスキーはジョニ黒でもジョニ赤でも飲み放題。ミルク、バター、砂糖も無制限にもらえる。日用品も豊富で、本当に極楽みたいなんだ。その船でアフリカの南の喜望峰をまわって、インド洋に出て、インド西海岸にあるポルトガル領のゴアに着いた。そこで日本から来た交換船帝亜丸に乗り換えた。」
■細川さんが乗船した第二次交換船は、ポルトガル領の東アフリカには立ち寄らずにインドに向っていたのが分かる証言です。第一次交換船では、白十字を幾つも船体に書いた日本の浅間丸が活躍したそうですが、細川さんが乗ったのは帝亜丸でした。
「この帝亜丸は日本がドイツから分捕った船なんだが、この船に乗り移ってみるとまるで別世界なんだ。食事の粗悪なのはまだ我慢出来るとしても、便所用の紙が全然無いのには、乗客一同ほとほと困ってしまった。……南米からの引き揚げ者は紙を持参しているが、北米からの者はノートをはじめ紙類は一切持ち込みを禁止されていたので、帝亜丸の紙不足は北米引き揚げ者の頭痛のタネだった。また、泡の立たない石鹸、水気のとれないスフの手拭いを当てがわれて、北米からの引き揚げ者は異口同音に『これじゃ、北米キャンプの方がずっと上等ですよ。日本がこんなに困っているとは想像もしなかった。これじゃ、ちょっと勝ち目はありませんね』といっていた。
■讀賣新聞に載った加藤教授の文章で紹介されている鶴見俊輔さんの体験は「上等」の部類のようです。
当時19歳の鶴見俊輔は、日米開戦後、当初の取調べで、この戦争の当事国、日米両国を無政府主義者として支持しないと回答し、その後逮捕される。収容所でトイレの蓋を机に卒業論文を書き、収容所での口述審査を経てハーバード大学を卒業するが、この時、この戦争に日本が負けるのは明らかだが、負ける時には負ける側にいたいと思い、帰国を決めた。……
ハーバード大学だけではないでしょうが、学問を政治や戦争と切り離して留学生を遇する態度は立派ですぞ!戦争中に『カサブランカ』やらディズニーの『ファンタジア』を製作していた米国は、確かに豊かな民主国家だったのですなあ。鶴見俊輔さんも卒業証書は貰ったかも知れませんが、トイレの紙には不自由していたはずです。メモや書籍など、利敵行為に当たる情報が書かれている物を探し出すより、紙という紙を全部没収した方が防諜には便利ですからなあ。
■細川さんがアルゼンチンを出発する直前に、朝日新聞本社から「魔法瓶を大小5個持参せよ」という電報が入ったそうです。既に燃料不足に陥っていた日本国内では、朝沸かしたお湯を一日使わねばならなかったという理由を知ったのは帰国後だったそうです。さすがは細川さんの娘さんだけあって、出発前に石鹸を買い溜めしようと言い出したのに、細川さんは「日本にだって石鹸ぐらいは有るだろう」と暢気な事を言って止めさせてしまったそうで、交換船に乗ってから「どうして買って来なかった?」とバカにされてしまったとのことです。やっぱり、こういう場合、男はダメなのですなあ。
■帰国した後の細川さんは、『敵国アメリカの実相』という講演をして全国を巡るのですが、憲兵の言論統制は一層厳しくなっていて面倒な事も多かったそうです。しかし、陸軍の参謀本部では「本当の話」を聞きたがっていて細川さんは本当の話をして上げたそうです。ところが、朝日新聞社内に神がかり記事を本気で書いている愚か者が居たのに一番驚いたのだそうです。嗚呼
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