旅限無(りょげむ)

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『日米交換船』 其の四

2006-04-18 23:12:47 | 書想(歴史)
■大本営が真珠湾攻撃の戦果を発表したのは8日の夜だったので、他紙はそれを翌日の朝刊に掲載したのだそうです。

…戦争の始まった翌日、ニューヨークの状況、特に日本人の状況はどうなっているかハッと気になって、森島守人総領事に電話をかけた。すぐ出たね。「戦争が始まったが、日本人は一体どうしているか?」「いや、非常に静かだ。これからどうなるか分からんが、今のところは日本人は誰も引っ張られていない。これから引っ張られるだろう」といった話をしていたら、アメリカの交換手が「ちょと待って下さい」と言うんだ。「何だ」と聞くと、「日本は敵国だから、敵国の言葉で通話する事は許されない。話すなら電話を切る。英語でならば話してもよろしい」と。それで直ぐに英語に切り替えて森島氏と話した。……

■友好国だったアルゼンチンに足掛け3年、米国から入る情報を日本に送り続けていた細川さんとスペイン人学校に通って、どんどんスペイン語が上達していた娘さんに電報が届きます。昭和18(1943)年の秋だったそうです。、


「…第二回の日米交換船で帰国を許されることになった。東京から親子で帰国しても良いという電報が来た。当時、日本の利益代表国はスペインだったが、スペイン大使館に行ったら、アメリカの方からあなた達二人を交換船に乗せても良いという承認が来ているという。娘の教育問題ということで、プレスである私の帰国を承認したんだね。私はスウェーデンのグリップスフォルム号だったが、食い物は何でも有る。ビーフステーキはあるし、ウィスキーはジョニ黒でもジョニ赤でも飲み放題。ミルク、バター、砂糖も無制限にもらえる。日用品も豊富で、本当に極楽みたいなんだ。その船でアフリカの南の喜望峰をまわって、インド洋に出て、インド西海岸にあるポルトガル領のゴアに着いた。そこで日本から来た交換船帝亜丸に乗り換えた。」

■細川さんが乗船した第二次交換船は、ポルトガル領の東アフリカには立ち寄らずにインドに向っていたのが分かる証言です。第一次交換船では、白十字を幾つも船体に書いた日本の浅間丸が活躍したそうですが、細川さんが乗ったのは帝亜丸でした。


「この帝亜丸は日本がドイツから分捕った船なんだが、この船に乗り移ってみるとまるで別世界なんだ。食事の粗悪なのはまだ我慢出来るとしても、便所用の紙が全然無いのには、乗客一同ほとほと困ってしまった。……南米からの引き揚げ者は紙を持参しているが、北米からの者はノートをはじめ紙類は一切持ち込みを禁止されていたので、帝亜丸の紙不足は北米引き揚げ者の頭痛のタネだった。また、泡の立たない石鹸、水気のとれないスフの手拭いを当てがわれて、北米からの引き揚げ者は異口同音に『これじゃ、北米キャンプの方がずっと上等ですよ。日本がこんなに困っているとは想像もしなかった。これじゃ、ちょっと勝ち目はありませんね』といっていた。

■讀賣新聞に載った加藤教授の文章で紹介されている鶴見俊輔さんの体験は「上等」の部類のようです。


当時19歳の鶴見俊輔は、日米開戦後、当初の取調べで、この戦争の当事国、日米両国を無政府主義者として支持しないと回答し、その後逮捕される。収容所でトイレの蓋を机に卒業論文を書き、収容所での口述審査を経てハーバード大学を卒業するが、この時、この戦争に日本が負けるのは明らかだが、負ける時には負ける側にいたいと思い、帰国を決めた。……

ハーバード大学だけではないでしょうが、学問を政治や戦争と切り離して留学生を遇する態度は立派ですぞ!戦争中に『カサブランカ』やらディズニーの『ファンタジア』を製作していた米国は、確かに豊かな民主国家だったのですなあ。鶴見俊輔さんも卒業証書は貰ったかも知れませんが、トイレの紙には不自由していたはずです。メモや書籍など、利敵行為に当たる情報が書かれている物を探し出すより、紙という紙を全部没収した方が防諜には便利ですからなあ。

■細川さんがアルゼンチンを出発する直前に、朝日新聞本社から「魔法瓶を大小5個持参せよ」という電報が入ったそうです。既に燃料不足に陥っていた日本国内では、朝沸かしたお湯を一日使わねばならなかったという理由を知ったのは帰国後だったそうです。さすがは細川さんの娘さんだけあって、出発前に石鹸を買い溜めしようと言い出したのに、細川さんは「日本にだって石鹸ぐらいは有るだろう」と暢気な事を言って止めさせてしまったそうで、交換船に乗ってから「どうして買って来なかった?」とバカにされてしまったとのことです。やっぱり、こういう場合、男はダメなのですなあ。

■帰国した後の細川さんは、『敵国アメリカの実相』という講演をして全国を巡るのですが、憲兵の言論統制は一層厳しくなっていて面倒な事も多かったそうです。しかし、陸軍の参謀本部では「本当の話」を聞きたがっていて細川さんは本当の話をして上げたそうです。ところが、朝日新聞社内に神がかり記事を本気で書いている愚か者が居たのに一番驚いたのだそうです。嗚呼

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日米交換船』 其の参

2006-04-18 23:10:54 | 書想(歴史)
■朝日新聞のニューヨーク支局では日米開戦の可能性を先読みして、アルゼンチンのブエノスアイレスに支局を急いで作っていたのだそうです。そして、日本軍の仏印進駐に対して米国は1941年7月25日に「在米日本資産の凍結」をします。今の北朝鮮がマカオの偽札洗濯銀行に溜め込んだ将軍様の「お小遣い」が凍結されたどころの騒ぎではない事態が起こったわけで、この日こそが日米開戦日だ!という人が居るくらいです。こうした状況下で、朝日新聞ニューヨーク支店内で日米衝突の可能性について情勢分析したのだそうです。

「……ともかくも日米両方とも引っ込みがつかなくなって、日米衝突は免れまい、……ところがそういう情報を東京に送っても、東京の方じゃ非常に言論を統制しているもんだから、切迫感が無い。…」「米国から太平洋を眺めていると…時間の問題、場所は東南アジアの洋上になるだろう、ということになった」

■これが1941年の8月頃だそうですが、同じ朝日新聞社内には尾崎秀実(ほつみ)というゾルゲのお友達がいまして、「年内に日本の対ソ攻撃無し」との極秘情報をプレゼントしていた時期だそうです。


「尾崎は朝日新聞ではぼくの2年下で入社し、ぼくら若い連中で読書会というのをやっておったんです。彼はどちらかというと左がかっておったが、日本を革命しようというマルキシズムの信念からゾルゲと接触したわけではない。彼がゾルゲと仲良くなったのは、上海でだろうが、女遊びの金が欲しかったためだ。……私はテレビで2度、彼は金欲しさにゾルゲとくっついたと言ったが、彼を尊敬している弟さんからも、何の抗議もない。」

■こういう体験談の出来る人が毎週日曜の朝に『時事放談』をしていた時代は良かったような気がしますなあ。さて、日米開戦近し、と読んだ細川さんは、万一を考えてニューヨーク以外にもブエノスアイレス、リオ、メキシコにも支局を置いて報道活動を維持できる体制を取る意見を本社に具申した結果、細川さん本人はブエノスアイレスに着任することになったそうです。9月にブエノスアイレスに落ち着いたと思ったら、11月末に本社から急な電報が届きます。


「浅間丸が米国からの邦人の最後の引き揚げ者を乗せるために、ロサンゼルスに向かい、帰途パナマに寄港することになっているから、至急パナマに赴いて浅間丸で帰国せよ」

■奥様を亡くされたばかりで一人娘を連れて赴任していたそうで、この娘さんが帰国を嫌がるのを説得したりパナマ行きの飛行機チケットを手配していたりしている内に12月7日(日本時間では8日)になってしまいます。アルゼンチンの日本人クラブの会員は好天のゴルフ大会を楽しんでいた日曜日、細川さんは参加せずに帰国準備をしていたそうです。そこへ助手として雇っている米国二世のジョージ君が血相を変えて飛び込んで来て、町の新聞社の速報版で開戦を知らせていると告げます。


「戦争が始まりました」
「何処と何処の戦争が始まったんだ?」
「日本がパール・ハーバーを攻撃して戦争になりました」
「ニュースの出所はどこだ?」
「ホワイトハウスの公表です」

■世界中が戦争に巻き込まれて行った時代ですが、「何処と何処の戦争?」と聞いた日本人は、本国でも多かったそうですなあ。細川さんは直ぐに在アルゼンチン日本大使に連絡してから、本社に入手した情報を片っ端から打電したそうです。その証拠が朝日新聞の縮刷版に残っているそうです。


昭和16年12月8日(月曜)発行の夕刊。「帝国、米英に宣戦布告す。…帝国陸海軍は今8日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」……「ブエノスアイレス特電7日発…米国艦船2隻撃沈され、オアフ島の陸軍飛行場が攻撃され350人以上の死者……日本空軍がマニラの陸海軍吉に第二回の空襲……日本空軍がグアム島を攻撃……未確認ながら日本軍がシンガポールを攻撃」

■陸軍と海軍しか持っていなかった大日本帝国の「空軍」という所はご愛嬌ですが、それだけ切迫感も有ります。

『日米交換船』 其の弐

2006-04-18 23:10:33 | 書想(歴史)
■加藤教授は、この人数に注目して、200~500人規模の「遣唐使増船」や、総勢107人だった明治の岩倉使節団の外遊に匹敵する「日本人の精神史的な出来事」だと考えているそうです。その全貌に迫ろうと、乗船していた鶴見俊輔さんの証言に黒川創さんが外務省外交資料館の1万頁の文献から発掘した情報を利用したのだそうです。証言と資料の中で、帰国すべきか否かをそれぞれの日本人が考えて行動した様子が再現されているようです。

私たちの知る戦後の精神は、1942年、このあたりを起点にし、すでに「国と国のあいだ」で生まれようとしているのではないだろうか。

これが加藤教授にとっての一応の結論のようです。似たような事を考えるのには、野口悠紀雄さんの『1940年体制 さらば「戦時経済」』(東洋経済新報社)という名著が有りますぞ。「40年体制」という言葉は、1993年に自民党一党支配が崩れた時に、野口さんが日経新聞のコラムに書いた、


「55年体制は崩壊したが40年体制は残っている」

という一節が最初だそうです。対米英戦争を考え始めていた大日本帝国が作り上げた統治システムが、何とずっと生き延びている!という大変に面白く、また恐ろしい話が満載の本です。『超勉強法』などという変な本で有名になってしまった野口さんですが、本当は大蔵省官僚から東大の経済学部の教授になった人ですから、こっちの本の方がずっと重要なのですが、評判になった割には『超…』しか呼んでいない人が圧倒的に多いようですなあ。今将に、自民党と民主党の違いがさっぱり分からなくなっているのですから、それを予見した最終章を含めて、小泉改革の成否を検証する為にも一度は読んでおくべき本だと思いますなあ。

■さて、「日米交換船」を知っていますか?と新聞に問いかけられて、「知ってますよ」と答えた事を書きます。何かとお騒がせの続くTBSというテレビ局が、『時事放談』という番組を日曜の朝に放送しています。しかし、オリジナルの『時事放談』は昭和32(1957)年7月28日の朝10時35分に始まって、その後もっと早い時間に移ってから1980年代まで続いた恐ろしく長寿の対談番組でした。相手を変えながら、ずっと放談していたのが細川隆元さんという人でした。藤原弘達さんという、少々下品な政治学者との掛け合いが一番長かったと思いますが、最近の面白くも可笑しくもなく、毒にも薬にもならないトーク番組などとは比べ物にならない政治性の強い番組でしたなあ。

■今をときめく?細木数子さんが強引に結婚を仕掛けた?とも噂される陽明学者の安岡正篤さんという人もオリジナル『時事放談』の熱心なファンだったそうですぞ。今のように録画装置などの無い時代でしたから、日曜日の朝は必ずテレビ画面を見ていなければならないわけです。政治家やマスコミ関係者も注目していたスゴイ番組だったのですが、今の『時事放談』は羊頭狗肉の詐欺同然の暢気な茶飲み話になっているようですなあ。その細川隆元さんが「日米交換船」に乗っていて、その体験を昭和57(1982)年の『日本よ これが21世紀への道だ』(高木書房)という本で語っているのです。随分前に読んだのを思い出して本棚から見つけ出して確かめて見ますと、記憶に間違いは有りませんでした。

■細川さんは1900年生まれの肥後モッコスです。世が世ならば大名家の一族らしいのですが、大正12年に東京帝国大学政治学科を卒業して朝日新聞に入社、政治部長からニューヨーク支局長になった時に日米戦争が始まったという経歴と体験を持った人でした。戦後の朝日新聞社でも編集局長を務めて評論家、懐かしい言葉でいうと「言論人」として頑張った人です。自分が19世紀最後の年に生まれた事を意識して、「20世紀」や「21世紀」を語る事が多い人でも有りましたなあ。

■細川さんが米国のニューヨーク支局長として渡米したのが1940年の秋だったそうです。


10月といえば、ヒトラーはフランスをすでに降し、大陸ヨーロッパの大部分を手中におさめていたころであるが、米国では三選を狙うルーズベルト大統領と、これを阻止しようとするウェンデル・ウィルキー候補との間で、激しい選挙戦が展開されていた。ウィルイー候補は、米国が欧州での対戦に巻き込まれないことを公約していた。ルーズベルト大統領も米軍を「どんな外国戦争にも決して送らない」と誓っていたものの、1940年秋には、ニューファウンドランド、英領西インド諸島、英領ギアナに米海空軍の基地租借権を入手することと引き換えに、米国は英国に対して50隻の「老朽駆逐艦」を譲った。

1940年体制―「さらば戦時経済」

東洋経済新報社

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『日米交換船』 其の壱

2006-04-18 23:10:05 | 書想(歴史)
■4月11日の讀賣新聞に、早稲田大学の加藤憲洋教授が新潮社から出版された自著『日米交換船』について書いています。
…私がこの航海に関心をもったきっかけは、雑誌『思想の科学』の創刊同人7人中4人までがこの船で帰って来ていることを知ったことだが、調べるにつれ、この航海のスケールが予想したより遥かに大きい事が分かってきた。

■『思想の科学』のリーダーだった鶴見俊輔さんが「封印を解いた」と銘打っての出版なのですが、既にこの雑誌の賞味期限が切れてしまっているので、それこそ団塊の世代の人たちが懐かしんで買うぐらいではないでしょうか?加藤教授が発掘した歴史的な資料としては価値が有りますが、更に重要なのは、この航海について65年間も何故か封印されていたという事実の方です。先の大戦の記録や記憶が戦後の占領政策の影響で、大きく歪んでしまった原因は、日本側が重要書類を大量に焼却してしまった事と、米国側が「勝者の歴史」を強要したからでした。そこにマルクス主義の解放が重なりましたから、体験していない世代には何が何やらさっぱり分からない事になってしまいまして、「自虐史観」だの「戦争讃美」だのと、言論は真っ二つに割れたまま、とうとう靖国神社に参拝するかしないか?などという小さな話に矮小化されて、二進(にっち)も三進(さっち)も行かない空疎な精力の浪費が続いているようです。

■『日米交換船』に関しての新刊が出るという話は、新聞の広告で知っていましたが、「鶴見俊輔さんが初めて語る!」という点が重要なのかと思ったら、今回の讀賣新聞に掲載された文章の題名は、『「日米交換船」知っていますか?」だったのには違和感を覚えました。思えば、日系米国人が開戦直後から強制収容所に入れられたり、一切の通信を傍受監視された事が米国の戦後世代から人権問題として大きく取り上げられたのは1980年代でした。日本でも山崎豊子さんが書いた『二つの祖国』を原作として、NHK大河ドラマ『大河燃ゆ』が放送されたのも1984年の事でした。これは大河ドラマが現代劇を扱った最初の作品だったのですが、今の松本幸四郎さんが熱演したのに資料率は最悪だったそうですなあ。日本人はこの種の、「在外同胞」に関しては恐ろしく無関心なのでしょう。

■日米交換船の概略について、加藤教授の文章から引用しておきます。


第二次世界大戦勃発後、1942年から43年にかけ、日米間と日英間で、敵国籍をもつ居住民同士の船による交換が行なわれた。第一次の日米間の交換船では総数およそ3000名の双方の外交官、居住民がほぼ同時期に双方から出航し、途中、ポルトガル領東アフリカのロレンソ・マルケスで互いの乗客を交換している。……この船には「ハルノート」の手交で名高い野村吉三郎駐米大使をはじめとする外交官から、会社員、女優、学者、留学生とその家族……実に雑多な人々が乗り合わせている。合わせて第二次、日英間の居住民交換まで入れれば、総数は優に1万人に迫る。
日米交換船

新潮社

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『日本書紀はなにを隠してきたか』其の弐

2005-06-24 06:41:00 | 書想(歴史)
其の壱の続き。

■この本を読んで、「正しい歴史認識」のカラクリと、天皇位継承問題を考えるヒントを同時に得られるのが、第二章の「大化の改新は本当にあったのか?」の論考です。謎解きが無類の面白さなので、サワリを紹介しても営業妨害にはならないと思いますので、有名なクーデター事件に関して、

要するに、『日本書紀』が描く6月14日の一連の出来事は、古人大兄の出家を実際にそれが起きた日時から移動させることによって、始めて成り立つものなのである。この作為は、皇極女帝から軽皇子への計画的な譲位の実行という、クーデターの真の目的を巧みに隠蔽(いんぺい)するために考え出されたものである。

中学生の教科書にも出て来る中大兄皇子と中臣鎌足とが大活躍したとされるクーデター事件の真相は、天皇位継承問題の解決に有ったという説です。蘇我氏の専横を絶って天皇家の権威を復活させるという大義名分は、蘇我氏を悪役にして利用しているだけの作り話ということになるのですなあ。蘇我氏と天皇家との関係を再評価するために、飛鳥寺建立にまつわる記録を丹念に読み解いているところも大変に面白いですぞ。

■日本古代史のクライマックスに起こった「壬申の乱」に関しても、『日本書紀』に詳説されている戦況よりも、乱後の「吉野盟約」に注目して、


通説的にな立場から見れば、壬申の乱後の天武朝においては、天智系の皇子など王位継承から完全に疎外されて当然なのに、「吉野盟約」を通じ、河嶋・芝基の両皇子は、もちろん第一位・第二位ではないが王位継承資格をきちんとみとめられている。


結論として導き出されるのは、当時の天皇位継承には天皇家という特殊な血縁集団の中にさえ属していれば、血統上の制限は無く、まだ若い国だった大和朝廷を統治可能な資格が問題とされていたということで、その資格の第一が年齢であったということが明らかにされます。「壬申の乱」も血統の争いではなく、世代間の対立を背景として起きるべくして起きた事件だったことになります。この調整がうまく行かない時に、継承候補者を担いで権力を狙う勢力が派閥抗争を始めると、出来たばかりの大和朝廷が瓦解する危険が有ったのです。つまり、この時期に現れる「女帝=女性天皇」は、天皇位継承候補者が統治者としての適齢期を迎えるまでの、時間稼ぎ役として即位していた事も指摘されます。

称徳女帝の死後、この白壁王が即位して光仁天皇となる。彼は、草壁直系の聖武の女子を妻とする皇族という資格で王位を継承したといえる。だから、称徳から光仁への「代替わり」を天武系から天智系への大転換のようにいうのは正確ではない。むしろ、天智系と天武系とを対立的にとらえ、天智系の皇統確立を意図的に宣伝・強調したのは、光仁の後を継いだ桓武天皇だった。

■第四章の「知られざる古代女帝の時代」では、女帝存立の理由とカラクリを詳細に述べています。崇俊天皇の暗殺事件、推古女帝の即位、そして再び血生臭い事件が続くと、皇極女帝が即位。その統治期に「大化の改新」と呼ばれる騒動が起こり、孝徳天皇の死後には、斉明女帝の即位となります。こうして女帝が出現するタイミングに注目して古代史を見直すと、まったく新しい古代の国づくりの姿が現れてきます。

第五章の「古代史の通説を疑う」では、これまでに発表されている様々な主張を名指しで再検討してくれるので、古代史ファンとしては一区切りの整理としても便利かと思います。特に、白村江の戦いに関する解釈は、個人的に待ち侘びていた新説なのでちょっと興奮させて貰いました。

■天皇家が長期間に亘って存続する仕組みの基盤を作り上げた時代を考えてみると、明治維新の「突貫工事」に付き合って大変身した明治天皇の御苦労や、マッカーサーに直談判に出向いた昭和天皇の御苦心も少しは分かり易くなるのではないでしょうか?それと同時に、天皇家の周りで動き回る有象無象(うぞうむぞう)が繰り返すドラマには、時代を超えた共通性が見えたりするのも大いに参考とすべきでしょうなあ。今では、毎朝『日本書紀』の断片になりそうな新聞記事が配達され、テレビでもそれぞれの思惑に沿った取材を続けているので、うっかり騙されてしまいそうです。明治に生まれた日本のマス・メディアが、長い戦前も、同じように長い戦後も、天皇をオモチャにしていることに変わりが無い事を、古代史の道楽読書が教えてくれますぞ。

おしまい。

「日本書紀」はなにを隠してきたか?

洋泉社

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『日本書紀はなにを隠してきたか』其の壱

2005-06-24 06:40:00 | 書想(歴史)
『日本書紀はなにを隠してきたか』遠山美都男著 新書Y 洋泉社刊 2003年第4刷

■古代史ファンの方であれば、既にお持ちかも知れませんが、特に古代日本の歴史がどうであろうと、今の自分の生活には関係ない!とお考えの皆さんにもお勧めの一冊です。それは何故か、「正しい歴史認識」などというヤヤコシイものを御近所から突きつけられてオタオタしている人が多いような気がすることが一つ。もう一つは、天皇の皇位継承に関する議論が大混乱状態であることが理由です。

■『日本書紀』は、日本人が作った最初の歴史書です。『古事記』の方が古いという説も有りますが、「多朝臣人長が9世紀に書いた」という岡田英弘氏の説に惹かれるので、『日本書紀』を最古の歴史書としておきます。これは、国内用に天皇家の権威を宣伝する目的と、海の向こうの大唐帝国に対する独立宣言の意味を持って編纂された歴史書です。日本の歴史には、三つの大きな切れ目が刻み込まれている事は、別の記事でも論じましたが、対米戦争の敗戦時・明治維新政府の成立・大和朝廷の成立の三つです。歴史の切れ目には必ず「正しい歴史」が登場します。これを熱心に言い立てるのは、新政権を担う側ですから、前の政治と時代がどれほど腐敗し、民を苦しめ、間違いばかり犯していたのかを、くどくどしく説明します。その上、前の政権に属していた生き残りの口を塞ぐことに必死になるものです。

■敗戦後に占領軍として来日した米国が、徹底的な言論弾圧をした事は長らく秘密にされていました。この事実を糾弾すべき新聞社自体が、厳しい監視下に置かれていたのですから、日本国民は真相を知ることなく長い戦後を過ごしたのでした。明治維新の時にも、幕府軍を破った朝廷軍の残虐な悪行は一切歴史から排除され、江戸時代がいかに酷い時代だったかの宣伝と教育に力が注がれました。その影響が、今でも残っているのをご存知でしょうか?


「越後屋。商いの向きはいかがじゃ?」
「ははあ。お代官のお蔭さまをもちまして、万事順調にございます。これは、些少ですが、どうか、お納め置きを……」
「ふむ。何じゃ?饅頭か?」
「はい、はい。白い饅頭の下には、山吹色の切り餅が……」
「何?むふふふふ。越後屋、そちもワルよのう」


■映画やテレビの時代劇では定番になっている。悪代官と悪徳商人の贈収賄場面です。キンキラ金の緞子(どんす)を着込んだ代官が、茶屋の座敷でふんぞくかえって大杯で酒を飲んで笑っています。しかし、代官というのは徳川家の直轄地(天領)を統治する役目を負った高級官僚でした。天領は年貢も安くして、領民から絶対に不平不満が起こらないように慎重に管理されていたのですから、馬鹿代官などには勤まらない役職だったのです。幕府と武士の威信を示しながら、善政を敷いて反乱を起こさせない任務は、華美な生活など許されるものではなく、越後屋さんと仲良しになって賄賂を貪(むさぼ)るはずがないのです。こんな馬鹿代官のイメージが定着したのは、明治以来の芝居や物語によって江戸幕府に関して広められた悪口教育の成果です。戦後のマルクス主義の大流行で「封建主義反対」気分の歴史学が盛んな期間が長く続いたので、江戸時代の見直し作業が随分と遅れています。

■戦後の日本人が、米国大好き!米国の真似をしたい!と言い出したり、その子孫が、米国人になりたい!金髪・青い目にデッカイおっぱいになりたい!と暴走している原因も、占領軍の監視と宣伝の影響下で作られた「歴史」ではないかと思われます。同時期に起こった反米運動には、ソ連・チャイナ帰りの洗脳教育を受けた社会主義革命大好き!の人々の影響も大きかったようですので、北京政府に教科書問題を言い立てられると、今でも右往左往してしまうのはその名残でしょう。敗戦直後から「正しい歴史」が、海外から持ち帰られたのでした。その歴史的な置き土産が、新聞や学校の教科書にシブトク残っているようですなあ。明治以来の長い歴史を「戦前=軍国主義」という単純で分かり易い枠の中に放り込んでしまえば、戦後の米国流の民主主義万歳!気分に浸れたのでしょうが、本家の米国が自家中毒を起こしてしまっては、米国万歳!とも言っていられなくなりました。

■歴史を考える時には、資料・テキストとして使う「歴史書」が誰の手によって書かれたのか、その編纂を命じたのは誰か、最も美化されているのは誰か、などに気を付けないと、あっという間に騙されてしまいます。日米安全保障条約と日本国憲法が残っている現段階で、米国が占領軍としてしたことや、百年間に太平洋上で展開している戦略を洗いざらい告発するのは無理でしょう。そして、日本国内では、まだ、明治伝説が売れる世相のようですから、明治政府の罪をアゲツラウのも難しいでしょう。しかし、『日本書紀』が書かれた1500年前の事ならば、割と自由に研究できるようになったようです。勿論、明治政府の国家神道政策の影響で、今でも少しばかりの邪魔が入るような場合も有るようですが、とうとう古墳の考古学調査を実施しようかと宮内庁も言い出す時代になりましたから、古代史研究がとても面白くなっているのです。

其の弐に続く

「日本書紀」はなにを隠してきたか?

洋泉社

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天皇家はなぜ続いたのか―「日本書紀」に隠された王権成立の謎 (ベスト新書)
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天皇家はなぜ続いたのか (ワニ文庫)
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書想 『昭和外交五十年』

2005-05-30 22:25:37 | 書想(歴史)
書想 『昭和外交五十年』 戸川猪佐武 角川文庫

■戸川さんの『小説吉田学校』シリーズは、映画化されたり、さいとうたかおさんが長編劇画にしたりしているので、本よりも映像で楽しんでいる方も多いと思いますが、『素顔の昭和 戦前・戦後』などの作品も、教科書では分からない時代の空気を知るのに便利です。御本人は大正生まれで、敗戦後の昭和22年に読売新聞の記者として首相官邸や外務省を担当した方で、個人的に田中角栄さんに対する思い入れが強かったので、ロッキード事件後には随分嫌う人が多かったようです。最近は、その反動なのか、やっぱり田中角栄は偉かったんじゃないか?というような本もチラホラと出されているので、戸川さんの本を読み直すのも良いかも知れませんぞ。

■何を隠そう、「箱根会議」という重大な時代の節目に行われた交渉を知ったのは、この文庫本でした。それも学生時代を終って随分経ってからのことで、我ながら勉強不足をしみじみと感じた思い出がございます。ちょっとして年表や昭和史を扱った本には出て来ないようなので、単なる勉強不足というよりは戦後の日本が組み立てた「歴史」に問題があったのではないでしょうか?「毛沢東は偉い人」という命題から逆算される歴史は、チャイナもアジアもわけの分からない混乱の中に投げ込んでしまうようですなあ。勿論、日本国内でも「陸軍は悪くて、海軍は正しかった」などという思い込みも、歴史を歪めてしまいますから、この一冊だけ読めば真実が分かる!などという便利な本は無いと考えた方が良いでしょう。

■カバーの見返しに書かれている文章が要領を得ているので、紹介しましょう。


 外交、それは国益を賭して行なわれる英知による戦争にほかならない。軍部の拙劣で独善的な国際情報の収集と分析は、太平洋戦争への突入の日を早め、かつ終結を遅らせる結果となった。
 昭和初頭の幣原(しではら)外交は、国際協調を提唱しながらも国内の賛同を得られず、戦争への序曲となり、戦後の対米追随外交は、ニクソンの頭越し中国承認の衝撃的結末を迎えた。
 昭和の外交政策の変遷をテーマにしながら今日なお、外交音痴といわれる国民性の脆弱(ぜいじゃく)さを行間に語る異色の昭和史


というわけです。目次を見ると、「幣原外交」「影の外相・森恪」……「米中間に立つ佐藤外交」「険悪化した日中関係」「田中内閣の新外交」という風に、外交史の要所要所を押さえた面白い読み物になっているのですが、どうしても田中角栄さんに肩入れしてしまうので、最後の日中国交正常化は手放しで称賛しておられまして、あとは北方領土だけだ!という目出度い?終り方をしております。まあ、昭和48(1973)年の作品ですから、仕方が無いでしょうなあ。ロッキード事件も起こっていないし、前年の11月にはパンダが上野動物園にやって来て、初日に5万人以上が押しかける中国ブームがタケナワでしたからなあ。


p.28 それがいわゆる東方会議である。森外務政務次官の運営によるものであった。東方会議はすでに大正10年5月、原敬内閣の時に一度開かれたことがあったのを、森は復活させようというのだった。形式的には、在外大使と政府との間の意見調整と、政府と政党との方針調整と、二つの目的をもっていたが、実質上のねらいは、この機関によって対支強硬外交の具体案をこしらえ、それを強力に推進していこうというところにあった。

東方会議と山東出兵

 ところが、この東方会議の招集は思いがけない事件のために、およそ二か月ほどおくれることになった。事件というのは大陸の動乱激化であった。
 田中内閣が誕生して間もない頃――江南一帯をおさめた蒋介石の国民政府が、北支に向かって北伐の軍を起こしはじめた。これに対して、蒋と仲たがいした張作霖は、北京と天津のあいだに軍を集結して、蒋をむかえ撃つ態勢をととのえた。そのうえ華南では、前年、張に追われて、モスクワに亡命した馮玉祥(ひょうぎょくしょう)が帰国し、旧部下を再編成するとともに、山西省の閻錫山(えんしゃくざん)とたずさえ、張の守備する北京、天津をうかがう様子を示していた。一大決戦は避けがたいという不穏な空気に、大陸はおおわれることになったのである。
 北京の列国外交団も、公使会議を開いて増兵を準備しなければならなかった。……
 田中首相は閣議にはかり、天皇の裁可を得て、旅順にいた姫路第10師団管下の部隊二千名を、大連から海路でチンタオへと出動させたのである。これがいわゆる“第一次”の山東出兵であった。5月28日のことである。もちろん、張の北京政府も、蒋の南京政府も、これを主権の侵害であるといって非難した。
 しかし、列国もまた、日本の出兵につづいて、イギリスは千七百名を上海から天津、威海衛に移動させ、アメリカは三千名を上海から天津に向け、フランスは千名と一個大隊を天津に派遣する……。
 東方会議は、その年昭和二年の六月末から七月はじめまで五日間にわたって開かれた。森恪が議長であった。……
さきの幣原外交が、「満洲、蒙古は中国主権の一部である」とし、「不干渉」と「武力行使の回避」を原則としていたのとは打って変わって、「満洲、蒙古は日本の経済、軍事上の特殊権益地域である」「その擁護のための自衛措置、不逞分子の鎮圧をはかる」というアクティブな原則にのっとるものであった。……
さらに人事面でも、政友会幹事長の山本条太郎を満鉄社長、総領事の松岡洋右を副社長に起用するなど、対支強硬外交展開への布陣を、着々とかためていったのである。


■戦後の日本では、森恪という人物に関して語ること事態を忌避するような傾向が強く、似たように歴史の重要な現場から引き抜かれて隠されてしまった人物が多いのが気になります。まだ湯気が出ているような歴史上の人物を、善人と悪人に選別するような「歴史書」は、一定の「正しい歴史認識」を前提としているので、可能な限り多くの人物に関する記録を読まないと、時代の全体像は組み立てられません。歴史を書いた本には、「○○は嫌いです」「△△は大好きです」というような感情的な歴史観が埋め込まれている場合が多いように思えますなあ。それが人情というものでしょうが、後世の人々にとっては余り役に立たない、一種の騒音でしかない歴史モノが増えるのは迷惑なことであります。


p.34 蒋介石が、下野宣言を発したのは、昭和二(1927)年八月のことであった。ほどなく、九月五日、汪兆銘(汪精衛)を首班とする新しい統一政権――南京政府が誕生することになった。……
 田中内閣は、九月五日、汪の新・南京政府が出来上がる前後――八月三十日に撤兵声明を発し、九月八日に全師団の撤兵を終った。……下野したあとの蒋介石が、その年の九月末、日本に亡命してきたことを見逃してはならない。
 蒋が日本をおとずれた目的は、日本の有力者たちに、国民革命の意義を認識させ、革命政府を大陸の正統政権として承認させよう、ということにあった。……田中首相にしても、森恪にしても、また軍部にしても、財閥にしても、親日派の張作霖をバック・アップすることによって、満洲や北支の権益を擁護する……だから、日本としては、蒋の運動に対して、敵意と警戒の気持とをいだかざるを得なかったのである。……
 彼は、東京に入る前に、同行の張群をさきに入京させて、松井石根や鈴木貞一など陸軍の首脳部に会わせた。……
 こうして蒋が、箱根で田中首相と森恪外務政務次官に会ったのは、その十月のことであった。この箱根会議では、
「日本は、国民党がソ連との関係を断ち、共産党と分離するならば、国民党が行なう革命――支那の統一を承認する」
「ただし国民政府は、満洲に対する日本の特殊地位と権益とを承認する」ということで、意見の一致をみた。……すでに南京統一政府のなかでは、都内の派閥の抗争と、武力行使による混乱とがはじまっていた。このため、どうにもできなくなった汪精衛が、やがて蒋介石の帰国をうながすこととなった。それは実に、蒋の思うツボだったというほかはない。……
彼は閻錫山、馮玉祥tの三巨頭会議を開いて、たがいに提携を約束するとともに、張作霖を最大の目標として、ふたたび北伐を開始した。蒋軍は、翌三年四月一日、徐州に入り、山東に進出した。馮軍の一部も済寧(さいねい)を占めた。そこで南京政府側の北伐軍は、ぐるりと済南を半月形に包囲する形になった。……済南の附近には約二千人、山東鉄道沿線と青島附近には一万七、八千人の日本人がいた。これらの日本人の声明と財産の安否が、北伐軍と張作霖の東北軍との決戦によって、危険におちいるであろうことが眼にみえてきた。


■どちらがどちらを手玉に取っているのか、さっぱり分からない権謀術数の場面ですが、この後、第二次山東出兵を巡って田中首相と森恪は対立して、議会も二分して大議論が起こるわけですが、困ったことに軍部の意見が最終的にものを言って、さすがの森恪さんも「混乱の防止と邦人の保護とだけを目的に、兵員を小部隊にとどめる」つもりだったのが、「餅は餅屋だ!統帥権だ!」とばかりに、天津からの一個中隊に加えて、内地から第六師団を派遣するハメになるのでした。済南を守っていた張作霖軍はさっさと逃げて蒋介石の北伐軍は戦わずして無血入城、目出度し目出度し、と思ったら「国民軍は誓って治安の責任を負う。すみやかに日本軍の撤退を要望する」という蒋介石の通告を信じて兵を引いたら、しっかり国民軍が略奪・暴行を始めて十数名の日本人が殺害されてしまったのでした。これから先は、眼も当てられない疑心暗鬼と意地の張り合いが始まって、ずるずるとチャイナの内戦の中心地に引きずり込まれれうように、日本軍は当てど無い進軍を続けるのです。

■大喜びしたのは、シベリアから日本軍が遠ざかる後姿を眺めていたスターリンと、日本軍に痛めつけられて弱体化する国民党軍の姿を見てニンマリしていた毛沢東だったのですが、何故か日本の兵隊さんは一生懸命に蒋介石を追い回して、「謝れ!」と言い続けたのでした。一言でも謝ったら親分をやってられない御国柄を、誰も考えなかったのでしょうかねえ。
 肩肘はらずに、読み物として楽しめる本だと思います。勿論、最後の田中角栄さんを持ち上げる数頁だけはお勧めしませんが、案外、新しい歴史の発見が有るかも知れない一冊です。

昭和外交五十年

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昭和の防人⑥―書想『回想のルバング』

2005-05-28 10:32:18 | 書想(歴史)
昭和の防人⑤・書想『回想のルバング』の続きです。

■この父は高齢を心配されながらも、小野田さんの級友20余名や中野学校の同期生20余名と共に第三次捜索隊に参加している。ルバング島のジャングルを歩き、我が子を大声で呼び続けたが小野田さんは姿を見せなかった。共にジャングルに潜んでいた戦友二人が射殺されて小野田さん一人となった直後の大規模な捜索であった。


アノ親爺、泣かなんだ、淡々として島を去った。いつも微笑を浮かべていた。報道陣は私が取り乱すと思って居られたと、こんな批評だったと聞いた。振り返って考えると、お前とは30年前に綺麗に分かれた。冬日の差し込む畳に坐っての話であった。お前は日露戦争前に横川省三、沖禎介の二人の軍事探偵がシベリヤ鉄道の鉄道爆破に失敗して銃殺された話をした。日本軍人に目隠しは不用と目を開いたまま処刑された勇壮な話。そして、「こんな風に事実も判っている人は仕合せだ、僕等はどこでいつ死んだか、死んだと言って生きているやら、生きていると言ってとうの昔に死んでいるやら判らないのが僕等の仕事だ」と言ったネ。母は「それじゃ仏祀りも出来んじゃ」というと、「発った日が命日です」と朗らかに笑った。私も「まあ卑怯な真似だけはしないように」と言ったのが別れであった。あとで聞いたのだが中野の二俣分校を出るとき、命はここ限りとそこへ置いて来たのだったネ。近所の義嗣さんが戦死した。謹ちゃんも広一ちゃんも木下君も無言の凱旋をした。片山君は神風飛行機で敵艦に体当りをした。若い人等は桜の花のように美しく散って行く。お前もその一片だ。どこかで死んでいるのだとよそ事のように思っていた。そして、30年、お前は生きたり死んだり、別れの時に言った通りだった。


■こういう言説を長々と引用すると、「戦争賛美だ!」と青筋立てて怒る方もおられる。しかし、軍部と政治家が起こしてしまった戦争と、国民が戦った戦争とは別物である。その間を繋ぐのが学者やジャーナリストの仕事なのだが、乱暴に二つを結び付けると、好みに合わせて切り張りした「戦争」が組み立てられてしまう。民が戦う戦争は、平時の暮らしの延長線上に出現する事件である。そして、戦時であろうと平時であろうと、卑怯者や泥棒や性犯罪者は存在し、同時に人間の尊厳を守る者も存在しているのが世間というものであろう。そうした民の戦争と、権力を持った者の戦争とはまったく違ったもので、無能な指導者を持った戦時の民は惨めな存在である。大陸政策を誤り、対米政策の失敗に連動して国を滅ぼすような敗戦を招いた責任は、多くの文官・武官・学者・マスコミ人の中に居たし、身近な学校の教師や町会長さんの中にも居たのである。しかし、戦時の熱と緊張感が消え去った後になって、どこまで各自の主体性を認めるのかは、非常に難しい問題なのである。

■しかし、敗戦を挟んで露骨に豹変して見せた人々の中には、人間としての品性を疑わねばならない人物が沢山居る。米国による占領政策とソ連・中国からの革命工作とが交錯した時代に、戦中の自分と戦後の自分に一貫性を持たせるのは至難の技であるが、それに成功した人を探し出してその言葉を聞く必要が有る。余り多くは見つけられないのがとても残念である。平時には憎悪の対象として語られ、戦時には賛美されるのが戦争というものである。それは古代から変わらないのである。王も将軍も皇帝も、平和を求めて戦争を始めているのが歴史である。

■冒険野郎の鈴木紀夫さんは、小野田さんの次にはヒマラヤの雪男を発見するのだ、と張り切って世界最高峰の山脈に入って雪崩に呑み込まれてしまう。確か、小野田さんはテレビ局の企画で、鈴木さんが遭難した現場近くまで登って、慰霊式をしていたと記憶するが、定かではない。

■この本の前書きに、一つの歴史的エピソードが紹介されている。


過般、我が国からフィリピン国の厚意を謝するために鈴木善幸特使が行った。謝礼として贈った三億円を辞退したマルコス大統領は、「金銭を以って律すべき問題ではない。小野田が見せた忠誠心と勇気。だからこそわれわれは彼を名誉あるフィリピン兵士と同様に待遇した。日本国民が彼を温かく迎え家族に仕合せが訪れたことを知って、われわれの努力も十分に報われたわけだ。」と述べられたという。何と尊いお心、美しいお言葉であろうか。


■後に、米国に見捨てられ、マラカニアン宮殿から命からがら逃げ出した姿と、死後に発覚した莫大な隠し遺産などですっかり評判が悪くなったマルコス大統領だが、こうした面を持っていたのか、と少々驚いた。ただの権力好きの守銭奴では、一国の主を長年務められはしないだろうし、権力を維持するためには教養と威厳を保たねばならないのも当然なのだろう。日本のゼネコンからたっぷりと裏リベートを貰っていたから、三億円ぐらいのハシタガネなど欲しくもなかったから、ちょっとばかり恰好を付けたのだろう、などと意地悪く解釈しないで、ここはマルコスの言葉に素直に感動しておきたい。

■齋藤昭彦さんが、奇跡的に無事帰国してくれることを切に願い、その23年間の経験と考え続けた事を語って欲しいと切望している。このままでは、「戦争オタク」がイスラム原理主義の「テロリスト」に拉致されただけの「砂漠の事件」となって、すぐに忘れ去られてしまうだろう。最悪の結果となった場合には、語りたくない事を語らずに済んだと、多くのマスコミ人や学者達は胸を撫で下ろしのではなかろうか?それでは、何事かを深刻に悩んで自分の命を賭して実践的に答を求めたはずの齋藤さんの人生が無意味になってしまう。彼が見た日本を誰かが聞き出して書き留めておく必要が有るのに、それを避けようとする気分が満ちているような現状を危惧しているのだが…。

昭和の防人シリーズ・完

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昭和の防人⑤―書想『回想のルバング』

2005-05-28 10:28:00 | 書想(歴史)
昭和の防人④の続き。今回は1974年に日本に帰国した小野田さんに焦点を当ててみたいと思います。

『回想のルバング』小野田凡二著 浪漫社刊 1974年

■最近でも、月刊正論の2005年1月号に『私が見た「従軍慰安婦」の正体』という文章を寄稿している小野田寛郎さんは82歳の今も御元気だが、マスコミに姿を見せることが無くなって久しいので、既に、国民の半分ほどは「小野田少尉」や「ルバング島」と聞いても、何のことやらさっぱり分からなくなったのではなかろうか?それも時代の流れだと言うのは容易いけれど、そんな状態で憲法改正だのイラク派兵だのと、軽々しく議論などしても良いのだろうか、と疑問が浮かぶ。日本との縁を切ったかのような傭兵生活を続ける内に、イラクで拉致された齋藤さんと大正11(1922)年生まれの小野田さんとは、およそ40年の歳の差が有る。しかし、祖国日本との距離の取り方や日本のマスコミの急速な引き方を考えている内に、二人が重なって見るようになった。

■小野田さん御自身が『わがルバング島の30年戦争』『たった一人の30年間』『わが回想のルバング島』などの自叙伝を書かれているのだが、齋藤さんとの共通点を想像する時には、家族との関係が重要と思われたので、敢えて父上が書残されたこの本を読み直してみた。三男の弟さんがマスコミ対応を引き受けて、齋藤さんの父上は一切表に出ては来ない。そのお気持ちを勝手に察する時、小野田さんの父上の本が想像を膨らませてくれた。小野田さんの事を御存知ない読者のために、簡単に履歴を再確認しておこう。


大正11(1922)年3月19日 和歌山県で生まれる。

昭和8(1934)年 進学を勧められたが田島漆店に就職し、シナの漢口の支店で実務を学ぶ。大手商社が仕事振りを見て引き抜こうとするが「私は月給を貰いに来たのでなく勉強に来ているので……」とあっさり断る。

昭和19(1944)年 久留米第一予備士官学校に入学。陸軍中野学校二俣分校に入り「離島残置諜者」となる徹底した教育を受ける、12月にはフィリピンの遊撃戦要員として派遣され、ルバング島に潜入。

昭和20(1945)年 赤津一等兵が脱落下山して帰国し小野田少尉・島田伍長・小塚一等兵の残存を証言。
昭和29(1954)年5月7日 島田伍長が射殺される。

昭和34(1959)年 衆議院でルバング島残存兵救出を全会一致で決議。山田五十鈴主演で映画『母の叫び』が制作される。一方では、シベリア抑留者遺族などから特別待遇を非難する声も出る。

昭和47(1972)年10月20日 小塚一等兵射殺。第二次捜索実施。
昭和48(1973)年2月 大規模な第三次捜索実施し父凡二さん参加
昭和49(1974)年2月26日 鈴木青年と邂逅して説得され、3月に30年ぶりの帰国。

昭和50(1975)年 「こんな日本に棲みたくない」の一言を残して、兄の格郎さんが住むブラジルに永住することを決意して入植。牧場経営を始める。

昭和59(1984)年 福島県の山林を提供されて「小野田自然塾」を開講し、毎年夏に来日して、子供たちとキャンプ生活を通しての自然(サバイバル)教育を実践中。


■鈴木紀夫さんも、小野田さんとの奇跡的な邂逅を書残しておられて、今でも文春文庫版『文藝春秋にみる昭和史』第三巻に『小野田少尉発見の旅』が収められている。戦後の若者と諜報任務を続行中の小野田さんとの掛け合い漫才のような交流が実に面白い。鈴木さんが気を利かせて『葉隠』を贈ると、「今更、葉隠読んでも仕方ない」と突っ返され、迷いながらも白人女性ヌードの週刊誌グラビアを贈ろうとすれば、「僕は、こういうの、どうもねえ」と言って手も出さない。後日談として、帰国後、早々に良縁を得て小野田さんはきちんと結婚して、夫婦揃ってブラジルに行ってしまった。鈴木さんは一躍有名になって、マスコミは大騒ぎをした。


……救出後の記者会見で、「若い、一番意気盛んな時期を、全身うちこんでやれたことは幸福だったと思います」とくいを残さぬ発言をする一方、獣のように危険に反応するジャングルの習性から、平和時の生活への意外に速やかな順応ぶりでも驚かせた。出征前に海南中学校を卒業後しばらく中国商社員をした生活経験があって職業軍人ではないこと、また島内でトランジスタラジオによって敗戦の事実を知っていたことなどにもかかわらず、天皇制軍隊のタテマエに凍結されつづけた人の典型といえるが、その誠実で不屈の実行力は、逆上陸して変転極まりない世相を撃つこととなった。(中薗栄助)


と、1977年に発刊された朝日新聞社の『現代人物事典』でも、旧帝国軍人として切り捨てられない中途半端な印象の解説を載せている。
「天皇制軍隊」という最近めっきり使われなくなった学術用語を出しても、生身の小野田少尉とは勝負にならないように思う。

■当時の日本人を驚嘆させた小野田さんの帰国を、ごく自然に出迎えた88歳の御両親の姿もまた、多くの日本人に感慨を与えた。


……騒然たる家の内外である。刻々にテレビが状況を映してくれる。28日の午後鈴木さんが写した寛郎の写真ががテレビに出た瞬間、私は危うく声を出す所であった。私は憔悴した哀れな男の映ることを恐れていた。恐ろしいものを今に見せられる危惧にあった。が映った男は一人前の男だった。22歳の青年が30年間山に隠れていた姿でなくて、寺で禅を組んでいたという年輪を感じた。その姿が忽(たちま)ち、新聞社が大写しをして駅頭や繁華街の街角に掲示された。私はこの上なき満足を感じた。

と書く88歳の父親が、当時の日本に存在したのである。そして、この父に育てられた小野田さんが、昭和元禄・高度成長に呑み込まれずに、当時の日本人が封印していた微妙な問題に遠慮会釈もせずに、率直な発言をする姿勢を変えないと判ると、マスコミは小野田さんから目を背けるようになった。今も国論を二分して収拾が付かない「靖国問題」に関しても、厳しい「英霊の声」を代弁する発言をしている。

■祖国の軍隊に所属せずに外人部隊に入った齋藤昭彦さんには、永久に「名誉」や「凱旋」は無いし、民間軍事会社の社員となってもそれは同じである。しかし、齋藤さんは1970年代の自衛隊の中にもそれを見つけられなかったのも事実ではないのか?小野田さんは三島由紀夫が割腹自殺したほぼ3年後に帰国し、小野田さんが日本を捨てるようにブラジルに去ってから2年後に、齋藤さんは高校を中退して自衛隊に入っている。この三人が、それぞれの声で「こんな日本に棲みたくない」と言っているような気がするのだが……。
但し、三島が愛した「日本」に多くの日本人が住みたいと思ったかどうかは分からない。市ヶ谷での演説を野次り倒したのは現役の自衛官達だった。小野田さんが30年間守っていると信じていた「日本」は、戦後教育の中で唾棄(だき)すべき暗黒の時代として取り扱われるのが普通となった。齋藤さんの言葉は聞こえないから、彼が何を捜し続けていたのかは、今のところまったく分からない。

■どんな日本であろうと、相手の思想や見解を一方的に圧殺するような国では困る。互いの言説を等価値に置いてから、冷静な議論が出来る言葉を持っている国であって欲しいのだが、敗戦が「言葉」に与えた傷は深くて、60年経っても議論が成立しない問題が幾つも残されたままである。

昭和の防人⑥に続く

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昭和の防人④―書想『いびつな日本人』

2005-05-28 09:13:34 | 書想(歴史)
昭和の防人③,書想『いびつな日本人』の続き。

■ソ連に絶望した若者の中から熱烈な中国ファンが登場したり、米国を崇拝する者も増えた。その子孫達が、日中友好を願い、髪の毛を金髪にしたりしているのだから、日本は変わってはいないのだろう。齋藤さんが日本に戻らず、家族とも音信不通の状態でフランス外人部隊に身を置いていた21年間、日本は何も変わっていないとしたら、齋藤さんには望郷の念は湧かなかったのかも知れない。栗栖さんが退官直後に書き残したこの本には、今の日本人が驚くような事は一つも書かれていない。目次を紹介すると、

〈プロローグ〉 お伽の国――ニッポン
    日本人の大いなる甘え
    世界に通用しない日本人の発想
    自分で自分を守らない唯一の国
    外を知って内を知れ
    諸悪の根源、日本人のあいまいさ
    敵に尻を向けて逃げろというのか
    神風は吹かない
第一章 世界を読めない日本人
  ――米中ソの谷間で揺れ動く脅威の現実
    日本は決して大国ではない
    ソ連に再燃した戦争不可避論
    極東情勢の急変は日中条約が火をつけた
    中国のミサイルは日本全土を覆っている
    ここまできたソ連の対日作戦
    第三次大戦は起こるか
第二章 国防を他人まかせの日本人
  ――この現状では国を失う
    侵略を防ぐ四つの力
    日米安保は事があっても正常に発動しない
    NATOと日米安保は性格が違う
    国益のない条約は空文に等しい
    巻き込まれることが日本の取るべき道
    核の傘はミステリー
    先を読まない日本の防衛計画
    すべての戦争は奇襲で始まった
    仮想敵国のない軍隊はない
    世界に例のない不思議な『シビリアン・コントロール』
第三章 軍隊アレルギーの日本人 
  ――自衛隊を飾り物にするのか
    隊員の質は世界最高の水準 
    これが陸・海・空の実態だ
    自衛隊は二十年前の兵器を使っている
    ままならぬ訓練
    奇襲への対応策は一片もない
    企業より劣る情報収集力
    自衛隊は飾り物なのか
〈エピローグ〉現(うつつ)の国――日本へ
    降伏か、抵抗か
    日本人の守るべきもの
    侵略を防ぐ最新の抑止力
    世界の孤児となるな

■今から考えれば、至極尤もな事ばかりが書き並べられているのだが、この本が出版された時には、恐るべきタカ派の意見だと思われて、買い求める者は戦争好きで、平和を愛する者は絶対に買わないし読まない!などと言われてものである。週刊誌に始まり、テレビでもラジオでも取り上げられ、革新系の政治家は立会演説会の絶好のネタにして「危険な軍人の発言」を気持ち良さそうに糾弾していたのが懐かしい。栗栖さんの「超法規発言」は、どんどん曲解されて、かつての関東軍のように謀略事件を起こして戦争を画策するヤツだと問答無用の吊るし上げが始まって、聴く耳を持たない相手に反論するのも馬鹿馬鹿しいので、さっさと退官しただけのことだった。論破されたのでも、自説を曲げたのでもなかった。


その後、私の発言は「有事論争」という事態になり、論議をまきおこしたが、これは私の意図したことではない。「有事立法」――正しくは「戦時立法」のことと思うが、私はこれには反対(当分は研究の段階であって、立法化を考えるには慎重を要する)であり、こんなことを発言した覚えは無い。


余り研究をした印象も無いままに「有事立法」だけは形にしてしまったけれど、自衛隊の位置づけは不明のままである。


防衛出動下命前に侵略を受けた場合、行政機関としての法に従えば、何も抵抗しないで、ただ逃げろと命令するしかないのである。この議論も進み、ついには、侵略されても自衛隊は戦ってはいけない。国土には住民もたくさんおり、わが国の国防の最大の目的は国民の生命・財産を守ることにあるから、自衛隊が勝手なことをしては大変なことになる。あげくの果てが、現地にいる自衛官は射たれて犠牲になれ、そうすれば住民が避難する時間がかせげる。という無茶苦茶な意見までも出て来た。


■齋藤さんは、こういう阿呆の戯言(たわごと)を、最も厳しい任務を下命される習志野空挺団の一員として、唇を噛み締めながら聞いていたのではないのか?空挺団員は、敵国軍が日本に上陸して侵攻する場合に、敵の後に決死の降下作戦を決行して後方攪乱を任務とする。孤立無援で十字砲火を浴びて殲滅される危険性が高い任務である。続けて、栗栖さんは現在の日本人が蒼褪める事を書き残してくれた。


昭和53(1978)年の4月に尖閣諸島に中国の漁船団が入ってきた時……領海内に侵入した漁船団の最初の写真は自衛隊の航空機が上空から撮った。……しかし、現実には自国の領海内に侵入されながら、武力による威嚇どころか、自衛隊機が撮った写真そのものが大問題になってしまった。中国の漁船団がいて、その上空を自衛隊機が飛ぶような事があれば、それは戦争になるかもしれない。だから、そっとしておいて触れてはいけない。ということになった。つまり、領海を侵されても、それに対して何らの反応も示してはいけない、というのがわが国の方針だということを内外に実証したことになる。


■そして今、尖閣諸島周辺の海底資源の大半を中国にプレゼントする相談が進んでいたり、竹島には立派な韓国の軍事施設が鎮座ましましている。何より、栗栖さんが職を賭して警告したまさにその時に、横田めぐみさんは新潟県の海岸から消えたのである。

昭和の防人⑤に続く。

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昭和の防人③―書想『いびつな日本人』

2005-05-28 09:09:49 | 書想(歴史)
昭和の防人②の続き。

『いびつな日本人』栗栖弘臣著 二見書房刊 1979年

■昭和53(1978)年7月、統幕議長として週刊誌上で述べた「自衛隊の超法規的行動」に関する発言が問題とされ、政治的責任を取って退官。と聞いて、「ああ、あの騒動か。」とすぐに合点の行く日本人がだんだん少なくなって、何故かイラクに自衛隊が派遣されている。栗栖さんが指摘した「法制上の不備」はぜんぜん解決されていないから、我が自衛隊は「非戦闘地域」というテロと暗殺が大流行中の激戦地イラクでも非常に稀な場所を選んで派遣され、丸腰同然の貧弱な武器を抱いて宿営地の中で、「死傷者無し」という絶対命令を守って帰国の日を待っている。

■彼らの任務は「祖国防衛」でもなく、イラクの平定でもない。馬鹿高い金で雇った民間軍事会社のプロに守られ、その外側にオランダ軍に変わったオーストラリア軍が展開する場所で、「復興支援」作業が任務として与えられている。万一、死傷した場合には、勤務中の事故として扱われるから、兵士としての名誉も感謝の声も与えられない。


防衛出動ひとつをとっても、行政機関としての枠に大きく縛られている。……古来から戦争とうものは、正々堂々と宣戦布告して行なわれてきた例はまことに少ない。第二次大戦後の経緯を考えても、百回を上回る国境紛争なり戦争があったが、その中で宣戦布告をして始まったものはまずなかった。軍隊はそれぞれ秘密裡に行動し、いきなり国境線を突破する、というのが常道である。……その場合、内閣総理大臣の防衛出動下命が間に合わない場合も出てくる。その時、自衛隊はどのような行動を取ったらいいのか。そこに現行態勢上の大きな不備がある。私が統幕議長を退官するきっかけとなった「不測事態には超法規的行動をとることもあり得る」という発言は、この不備をついたに過ぎない。
侵略に対してとりあえず抵抗(これが現行法規で認められていないのだ)をしなければ、アッという間にわが国土の一角は占領され、その後、政府の自由な判断は不可能になるのである。p.34


■当時、日本の自衛隊が備えていた仮想敵国は、ソ連だった。この発言が問題となった時に、本屋には「ソ連軍北海道に侵攻」を扱った仮想戦記ものが沢山並んだ。今と大きく違っていたのは、東西冷戦状態に関して、東側社会主義陣営は「平和勢力」で、西側自由主義陣営は「邪悪な帝国主義」だと本気で信じている日本人がビックリするほど多かったことだった。「平和勢力」代表のソ連軍に牙を向く自衛隊など、「憲法違反の無駄飯喰いだ!」と平気で叫ぶ人達が元気だった。単純な人の中には、自衛官の姿を見ると、悪口雑言を浴びせたり、素朴に暴力に訴える者までいたらしい。

■日本の領海と領空はソ連軍の艦艇や飛行機に、日夜徴発されていて、迎撃戦闘機は休む間も無くスクランブル発進していたし、北海道の漁民が拿捕される事件も頻発していた。海面下では米ソの潜水艦がカクレンボと鬼ごっこに熱心だった。津軽海峡は原潜銀座の異名を取っていた。スパイ天国の日本から軍事機密や工業技術は持ち出し放題だったらしい。そんな1979年に「平和勢力」の二大国が突如として軍事行動に出た。幸いなことに、侵攻目標は日本ではなかった。ソ連はアフガニスタンに戦車部隊を投入して、絵に描いたような傀儡政権を作り、泥沼のゲリラ戦に引きずり込まれて行ったし、中国は隣国ヴェトナムに対する懲罰戦争を仕掛けた。

■御健在だった向坂逸郎先生は、文芸春秋が行なったソ連侵攻に関する緊急アンケートに対して、「無条件に賛成」と答えたのだった。向坂先生は、マルクス主義の研究では日本一の権威とされ、全盛期の社会党左派が作っていた秘密結社「社会主義協会」の教組的存在であった。中国の奇襲攻撃は、「平和勢力」内部の同士討ちであったから、社会主義ファンの人々も賛否を決め兼ねていた。大量のソ連製武器を持ち、対米戦争を戦い抜いたばかりのヴェトナム軍は、時代遅れの中国人民解放軍に大損害を与えて押し返して見せた。驚倒した小平さんは、近代化と開放経済に踏み切った。

■米国のカーター大統領政権は末期症状を呈して、次ぎのレーガンの出現を待つだけだったし、バチカンのヨハネ・パウロ二世は祖国ポーランドで始まった民主化運動を指示して、ソ連と東欧を動揺させ始めていた。しかし、1979年の日本は奇妙な内向きの幸福感に浸っていた。試みに、この年のテレビと流行を列挙してみよう。3月に『ズームイン!朝!』が始まる。日本各地の朝の風景とプロ野球ネタで人気。4月『クイズ100人に聞きました』始まる。どちらの番組も日本国内に情報源を限定している!同月『機動戦士ガンダム』始まる。宇宙空間での大戦争物語。7月にソニーのウォークマン発売。10月『西部警察』始まる。警察が街中で戦争?するような番組。同月『三年B組金八先生』始まる。同月『花王名人劇場』始まり、マンザイ・ブームの口火を切る。サントリーを先頭に北京ロケのCMが大流行する。外食産業が10兆円産業となった。翌年に『シルクロード』と『ドラえもん』が始まる。

■現在の日本に直接流れ込んでいる文化と商品が生まれた年であった。この年に高校を中退して自衛隊に身を投じた齋藤昭彦さんがいて、今でも解決不能の大問題に言及して職を失った栗栖さんがいた事は重大な意味を持っているような気がしてならない。齋藤さんと栗栖さんは擦れ違いで、同時期に自衛官であったことはなかったが、齋藤さんは高校の仲間、もしかすると家族とも別れて自衛隊に入ったのかも知れない。


あるテレビ番組で対談した時に、一青年が「日本の国ほど自由のない国はない」ということを言った。では、どこの国が自由であるかと問うと、ソ連だという。それは、ソ連には失業が無い、だからこんなに自由な国はないのだという答だった。……理由にならない理由までつけて、わが国を卑下しようという風潮がまだ残っていることを感じる。……特に島国で、言語的障害もあるわが国は、直接外国の情報を得る国民は少ない。欧米人は、外国のテレビ、ラジオを見、外国の新聞、雑誌を読む機会が多い。政府も積極的に情報を流している。各種の情報から客観的な情報が自然とわかるようになる。
日本の周辺でソ連の動きが激しくなったのはずいぶん前からである。ところが、その事実は最近になるまで国民にはほとんど知らされなかった。政府が国民に知らせたがらなかったと言うのが当たっていると思う。P.29


昭和の防人④に続く。

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