旅限無(りょげむ)

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山川静夫著『私のNHK物語』 其の参

2005-06-07 12:30:03 | 書想(マスメディア)
■とかく低俗番組の代表にされるワイド・ショーですが、昼時の視聴率を争うには、NHKでも似たような趣向の番組を作る必要に迫られたようです。それが山川さんが担当した週5日の帯番組「ひるのプレゼント」でした。昭和45年に始まったこの目玉商品は、何と企画段階で民放から構成作家を招聘(しょうへい)したという驚くべき事実をこの本で知りました。白羽の矢が立ったのは、大橋巨泉さんと前田武彦さんが司会を務めて大人気となった「ゲバゲバ90分」という番組だったのですから、驚きですなあ。
因みに、大橋巨泉さんと前田武彦さんの御二人は、小さな事件が運命の分かれ道となって、本来の立場が入れ替わってしまったのでした。私見ながら、時が満ちて国会議員に立候補すべきだったのは巨泉さんではなくて前田さんであるべきでした。

■小さな事件というのは、「トイレで弁当を食べようと思った」と御本人が証言しているほどの売れっ子だった前田武彦さんが、得意の生放送番組に出演していた時に起こりました。放送時間と衆議院選挙の開票速報がぶつかって、或る共産党候補の当選確実が出たので、鎌倉アカデミー出身の前田さんは、その速報を読み上げると同時に当選を祝って「万歳」をしてしまったのでした。これに対して、与党政府や公安関係、保守的な視聴者などから猛烈な抗議と圧力が加えられて前田武彦さんは一夜にして全てのレギュラー番組から下ろされたのでした。その後、ほとぼりが冷めた頃に、天気予報コーナーに顔を出したり、映画のチョイ役をしたりして過ごしてから、森本毅朗さんのワイド・ショーに出るようにもなったのですが長いブランクを克服するまでには至りませんでしたなあ。

■この本にも、アナウンサーと国会議員との関係が出て来ます。NHKの名物アナウンサー出身の国会議員は二人しかいませんから、お分かりでしょうが、宮田輝さんの話です。


地方では、テレビやテレビタレントは手のとどかない雲の上の存在だと思い込んでいたとき、宮田輝さんは、「ふるさとの歌まつり」とともに農村に分け入り、「おばんです」を合言葉として、自分の手で、自分の足で、根気よく取材し、その土地の風土や人の気質を、おどろくほどのエネルギーで消化吸収し、番組にのせた。
「ふるさとの歌まつり」の舞台となるその土地にとって、テルさんはカリスマ的な存在となり、それまでは片田舎の一地方人だと諦観していた寡黙な善男善女は、テルさんにふれたとたん、誰もが超人的な力をもったスーパースターのごとく、舞台でよくしゃべり、華麗に舞い、踊った。……宮田輝黄金時代だったのである。「ミヤタ・アキラ」という正式の呼び方など、誰も知らないだろう。


■小生も知りませんでした。確かに、ミヤタ・アキラさんは、日本の地方文化を大きく変えました。そして、この貴重な遺産を民放もNHKも食い潰してしまったように見えます。地方に残っていた貴重な風習や味わい深い方言に対して、ミヤタ・アキラさんは正真正銘の敬意と愛情を持っていることが画面を通して伝わりましたが、その後のテレビは、地方蔑視(軽視)の姿勢に転じて、方言や風習を笑いのネタにしてしまいました。取材の浅さと自らの教養の無さを曝(さら)け出して、「東京=日本」という歪んだ国家像を全国にばら撒いて、それに洗脳された若者がテレビ業界に就職する悪循環が始まったのです。その証拠に、ミタタ・アキラさんが参議院全国区に出馬した時の得票数は化け物じみていました。その勢いは新党結成だって夢ではなかったくらいに驚異的でしたなあ。


……この人気に目をつけたのが自民党であった。……しかし、あれほどの人気を維持しつづけた「ふるさとの歌まつり」も、時代の変化とともに多少のかげりを見せはじめ、テルさん自身も次ぎの対応を考えざるを得なかった。そして、やっと重い腰をあげ、出馬を決意した。
こうして政界入りしたテルさんだったが、ストレスの多い日々が続いた。たとえ前身がアナウンサーでも、議員となれば特殊あつかいはされたくない。勉強家のテルさんは、自らにきびしく鞭うって永田町の水になじもうと努力したにちがいない。
ところが、こと志とちがって、自民党幹部は“司会者・宮田輝”として利用することばかり考えたふしがある。選挙の応援、パーティの司会……いくらなんでもそりゃちがうよと心の中で叫ぶ輝さんを知ってか知らずか。テルさんは次第に鬱積(うっせき)していく。その揚句の比例代表制の名簿順位であった。ここに至ってテルさんの怒りは頂点に達した。そして、おそらく政界入りを心底から悔やんだにちがいない。
テルさんが逝って今、テルさんが生命をかけてやりとげたかったのは、やっぱり放送の仕事ではなかったかという気がしてならないのである。……大先輩の宮田輝さんから、アナウンス技術について「ああしなさい」「こうしなさい」と指導をうけたことはほとんどなかったことに私は気がつく。たった一度だけ、「ひるのプレゼント」の司会で私がさかんに駄ジャレをとばしてナンセンスだとひとり面白がっていた頃、テルさんが私に近づいてきて、もそりとこんなことを言った。
「山川君、ナンセンスというのはセンスがないということじゃないよ。むしろセンスを一番必要とするものなんだ」それだけ言って、消えてしまった。宮田輝さんという人はそんな人だった。


■全盛期の紅白歌合戦の白組司会を直接継承した山川さん、偉大な先輩に対する畏敬の念が噴出すような文章ですなあ。最後の助言などは、全国のテレビ放送局に大書して貼り出して頂きたいような名言ですぞ!これは、「親しみ易さ」を「馴れ馴れしさ」と取り違えたり、「身近な情報提供」がやたらに物を喰ら醜悪な映像の垂れ流しや、演技過剰の押し売り仕事に流れてしまうテレビの現状に対する警鐘ともなりますなあ。この本には、現場の生々しい歴史的証言だけでなく、NHK特有の苦悩も書き込まれているので、今のNHKに受信料を払うべきか払わざるべきかを考えるヒントも得られます。最後の方にまとめて書かれているNHKに対する抗議や指摘の羅列は、笑いながらもNHKの立場を理解するのに役立ちます。

■最後に、後進の者達に対するグサリと突き刺さる苦言を紹介しておきましょう。


だが、はっきり言って、今のアナウンサーの感覚や教育は、手順を間違えている。マイクになれ切った現代の若者は、マイクを持ちさえすれば、もう一人前だという思いあがった人間が多い。知識や経験が少なすぎる。礼節も欠いている。更に、一つのものに時間をかける耐久力も不足している。それなのに、目標はジャーナリストでありキャスターである。


■山川さんは本の最後で、アナウンサーは「個」なのだ、「職人」なのだ、と断言しています。自分の眼で、自分の手で、自分の足で、美しいものやレベルの高いものを見聞し、コツコツとセンスや個性を磨いていけるかどうかが勝負なのだ、とかつての名人達を思い出しながら結んでいます。

そんなわけで、お勧めの一冊、長々とお読み下さって、有難う御座いました。
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山川静夫著『私のNHK物語』 其の弐

2005-06-07 12:30:01 | 書想(マスメディア)
■昭和一桁世代の山川さんにして見れば、二桁世代、更には昭和50年代生まれの集団は別世界の住人ではないでしょうか?山川さんの視野には明治と大正が生々しく納まっていますが、それらを別世界と感じる者、ひどいのになると知らない国にしてしまっていますからなあ。

アナウンサーの養成の第一歩は、正しい発音発声からはじまる。
「アエイウエオアオ、カケキクケコカコ」と、口の開閉が極端になるように工夫された五十音を、大声でくりかえしくりかえし練習させられる。それと同時に、「ア」という音がひんぱんに出てくるような文章も読まされる。
「あごのあばたのあと、ああ似たり、あの子の兄も、姉も、あの子も」こんな文章を、大学を出た若者が、まるで小学生のように口を大きく開けて読むのだ。


■こうした訓練方法は、NHKも民放も基本的には同じなのでしょうが、どれだけ身を入れているかに違いが有るのかも知れません。最近のNHKにも、余り身を入れなかった疑いのあるアナウンサーがいたりします。山川さんのエッセイは気の利いた小話風の傑作が多いのですが、この本は極力その要素を抑制しています。それでも、時々抑えきれずに名調子が楽しめるのです。御自身が子供時代に一番のチビで、大好きな野球部に入ったけれど、いつもベンチなので、校庭の木に登って実況放送のマネをしていたそうですが……


アナウンサーの新人養成で神宮球場へ連れてゆかれて東京六大学野球をネット裏から放送する研修をやると聴かされたときは、待ってました、という感じだった。……同期生の中には、野球のルールさえわからない者もいて、いざ実況をはじめていると……
「打った、大きい、センターバック、センターバック」……「おっと、キャッチャーがつかみました」


■志村正順というアナウンサーは実況の神様で、二つの秘訣を教えてくれたそうです。「ボールが上にあがったら下(選手)を見る」「得点をくりかえす」この二つを守れば、何とか野球らしく聴こえるのだそうです。そんなこんなで新人アナウンサー研修は三ヶ月で終了します。先輩たちがしつこく注意してくれたのが、


“アクセントが狂っている”“語尾が消える”“ポーズがない”“切り方がわるい”“鼻濁音が出ていない”“母音の無声化が不完全だ”


というものだったそうですが、こういう研修を現在でも本当にやっているのでしょうか?しかし、「鼻濁音の氾濫」の実情を考えると、こういう研修をやり過ぎている可能性も有りますなあ。因(ちな)みに、鼻濁音というのは「ガギグゲゴ」を鼻から息を抜いて発声する音です。「そうりだいじんが」「ちゅうがっこう」と言う時の「が」は鼻濁音にしないと耳障りに聴こえるのです。しかし、最近は「がっこうきょういく」などの頭の濁音が鼻濁音化しているのにお気づきでしょうか?「天然ガス」の「ガ」は頭の音ではないですが、鼻濁音にすると不自然に聴こえるように思うのですが……

■テレビの出現と急速な普及がNHKにどんな影響を及ぼしたのか、現場にいた山川さんの回想と指摘は重要です。これを読むだけのためにこの本を買っても、ぜんぜん損はしませんぞ!


……災害事故や事件が起こるたびに、テレビに速報性を求める声は急激に高まっていく。しかも、テレビが現場をうつし出す映像の迫力は圧倒的だった。……ラジオにどっぷりとつかり、舌先三寸であやつってきたアナウンサーの音声表現理論というものが、テレビの映像の前に、存在が危うくなりはじめたのである。
今まで見えなかったものが、家庭で居ながらにして見えるということは、放送のあらゆる分野で一種の「頭の切り換え」が必要だった。……もっときびしく言えば、この時点で、新しい時代にあるべきテレビアナウンサーの理想の姿を求める根本的な大改革が必要だったのかもしれない。しかし、当時のアナウンサー室行政には、それまでのやり方を少し修正するだけで対応できるといういささか甘い考えがあったことは否めない。それにまた、当時のアナウンサーは名人ぞろいで、音声中心のラジオの手法から、画面の出るテレビへとみとごに転換できるだけの不易流行のセンスと実力を持っていたから、ことは厄介だ。ニュース分野では今福、スポーツでは志村、野瀬、岡田、芸能では藤倉、高橋(圭三)、宮田(輝)、そうしたラジオ時代からの名アナウンサーたちが、さほどの違和感なくすんなりとテレビ画面でも活躍してしまった。


■最後の「活躍してしまった」に、山川さんの万感が込められています。この時のアナウンス室の油断と躊躇(ちゅうちょ)が、それまで取材と原稿書きを専門にしていた「発声の素人」でしかない放送記者達の中から「キャスター」という奇妙な人たちが出現するのを許してしまったのでした。欧米の名物キャスターやアンカーマン達の発声と発音に比べて、ドシロウトとしか言いようの無い自称キャスターが増えると、視聴者側には怒りよりも、「自分だって出来そうだ」という勘違いが広まってしまいました。今では衛星放送で、海外の本物キャスターを観られるので、日本のテレビの甘さがくっきりと浮き彫りになりますが、日本製ニュース・ショーばかり観ている若者は、現場からの実況生中継のカメラ・フレームの隅っこに侵入してピース・サインを出している馬鹿者と同じ感覚で「キャスターになりたい」「レポーターになりたい」と気楽に夢想するのですなあ。素人が素人に媚びて、素人を増長させてしまう悪循環を断ち切る妙案は、山川さんにも無いようです。

其の参に続く

山川静夫著『私のNHK物語』其の壱

2005-06-07 12:30:00 | 書想(マスメディア)
私のNHK物語―アナウンサー38年

文藝春秋

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■副題が「アナウンサー38年」というエッセイです。歌舞伎が大好きな山川アナウンサーは昭和8(1933)年生まれで、昭和31(1956)年にNHK入社。アナウンサー養成所を出て、青森放送局を振り出しに仙台、大阪を経て東京の名物アナウンサーになった人です。
戦後の高度成長期に起こった懐かしい事件が、NHKアナウンサーの体験として語られますから、歴史的な回顧としても楽しめます。但し、歌舞伎に関連する記述が多過ぎる傾向が有るので、嫌いな方は飛ばして読めば良いでしょう。

■「おたのしみグランドホール」「ひるのプレゼント」「歌謡グランドショー」「歌のゴールデンステージ」「お国自慢にしひがし」「紅白歌合戦」「ウルトラアイ」と、今での印象に残る名物番組を次々と担当した山川さんですから、それぞれの番組の裏話が満載です。NHKの枠に苦悩しながら、民放の高視聴率番組を気にする立場の不快感を正直に吐露している箇所も有ります。温厚な外見と歌舞伎や落語をこよなく愛した滑らかな口調が印象深い山川さんですが、若い頃は随分羽目を外して石原慎太郎さん『太陽の季節』が流行っていたので、その型破りぶりから「太陽」というニックネームを頂戴するほど元気が良かったそうです。

■興味深い話が満載なのですが、山川さんの硬派な発言を引用してみようと思います。


第一次の音声予備試験では、句読点のない文章や早口言葉などが入りまじった文章をマイクの前で読まされ、声の質やアクセントや読解力がためされる。今でも忘れられないのはフランス料理の長たらしい名前だった。
「コットレットドゥラーニョーオーゾマールトゥリュッフェマロンシャンティーテ」(仔羊のカツレツに海老のトリュフとマロンのそぼろ菓子にお茶)これには受験生は閉口した。……アナウンサー志望者は200人近くにまでしぼりこまれる……二次の筆記試験……第三次の音声試験。スタジオの前に呼び出された私に三枚の写真が係員から渡された。一枚は当時の防衛庁長官だった砂田重政が自衛隊を観閲しているもの、二枚目はアメリカの空軍のある砂川基地近くの小学校の上空を飛行機が飛んでいるもの、……三枚目は鏡里が土俵上で優勝賜杯を受け取っている写真だった。
「この三枚のうち、どれでも一枚えらんでいただいて、それをスタジオに持ち込んで、三分間しゃべって下さい。」


こうした難関を突破した16人の中に山川静夫さんがいたというわけです。時代はテレビの黎明期(れいめいき)でしたから、山川さんはラジオからテレビにNHKが軸足を移す激動期に入社してしまったのでした。その流れを御本人が要領よくまとめています。


日本でのアナウンサーという職業は、まず明治生まれの人々によってはじめられた。大正14(1925)年3月22日、芝の仮放送所から京田武男が間延びした調子で「ジェーイ・オーウ・エーイ・ケーイ、こちらは東京放送局であります」と呱呱の声をあげた……明治の人は気骨があり、古武士のように志が高く、頑固でもあった。しかも強烈な指導力があった。……それらがすべて後につづくアナウンスメントという建物の骨格となった。
骨格が出来たところに、どっと大正生まれが入局してきた。大正生まれは、明治の人たちが苦心して建てた荒々しい建物を見回し、その中にそれぞれの部屋をつくり、装飾をほどこした。……
つづく昭和生まれが問題だった。明治も大正も勤勉にはちがいなかったが、昭和世代はそれ以上に勤勉であった。太平洋戦争を中心とす戦中・戦後の激烈な世の中の変化をものともせず、柔軟に対応し、使用不能になりそうな建物のこわれた個所を補った。ところが、この昭和生まれアナウンサーに、二つの陥(おと)し穴が待っていた。……昭和生まれ独自の戦略を忘れ、先見性とか創造性を欠いていた……もう一つは、ラジオ時代からテレビ時代に移行するにあたって、アナウンスメントという建物がもはや古くなり建て替えの時期をむかえていたにもかかわらず、持ち前の柔軟性を発揮して、そのまま住み続けようとしたのである。

其の弐に続く

チベット語になった『坊っちゃん』―中国・青海省 草原に播かれた日本語の種

山と溪谷社

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