「滝」の俳句~私の心に見えたもの

220728 佐々木博子(「滝」瀬音集・渓流集・瀑声集 推薦作品より)

書割の城運ばるる芸術祭 長岡ゆう 「滝」1月号<滝集>

2015-01-26 04:08:21 | 日記
 高校の学園祭が思い浮かぶ。作者はご自分の青春時代に思
いを馳せ、またこの句を読む私たちも、物語の作者兼監督と
のやりとり、主役、その他大勢の配役、馬の足に至るまで、
議論と怒号が行き交う若かった昔を思い、楽しんでいる。女
子高校へ女優さんを捜しに行く役目を決めるのも一仕事だっ
た。(木下あきら)

三太郎の小径素風のプラタナス 長岡ゆう 「滝」1月号<滝集>

2015-01-25 05:45:41 | 日記
 三太郎の小径とは、東北大学名誉教授で哲学者の阿部次郎
の代表作「三太郎の日記」にちなんで名付けられた、仙台市
博物館から始まる青葉山への小径である。私事ながら故兄白
石が私の中学校入学祝いに送ってくれたのが「三太郎の日記」
である。真剣に読んだが暗い話のような記憶しかない。今思
えば人生という哀切が綴られていたのかもしれない。さて、
句意としては「三太郎の小径」は秋風の中のプラタナスの葉
のようですねとでも訳せばいいのでしょうか。秋風に吹かれ、
高い木からプラタナスの葉が揺れる様は哀愁が漂うものであ
る。更にその奥には晩秋へ向かいながらその葉は枯葉に染ま
り舞い散る事をも思いださせる。俳句ならではの切れ字を使
い、人生の哀愁がひしひしと伝わる秀句である。(赤間学)

稲架襖木綿のやうな少女来る 栗田昌子 「滝」1月号<滝集>

2015-01-24 05:32:49 | 日記
 実りの秋の象徴として昭和四十年代迄は稲架襖が農道や畔
の東西の方向に向かって掛かっていたが、その稲架棒を仕舞
って置く小屋が各農家の道路側等に建っていたものである。
子供の頃はかくれんぼの格好の隠れ場所でもあった。句の風
景はその時代のものであろうが、「木綿のやうな少女」とい
う痺れる表現で一変した風景が広がった。純真さ、清潔感、
露草色、小菊、おかっぱではない、ヨーロッパ的、色々想像
してみたが、シューズの紐が解けてこけたとき、その紐を結
んでくれるような少女というイメージが浮かんでは消える。
この惑わしさこそが栗田女史の真骨頂である。(赤間学)

逝きてより手が淋しがる十三夜 栗田昌子 「滝」1月号<滝集>

2015-01-23 05:35:37 | 日記
 十三夜とは八月十五日の月を見て後の月(十三夜)を見な
いのは「片見月」といって忌む、とある。この死者は十三夜
を見ないで亡くなったのでしょうか。
 納棺の祈りに指を胸に組ませ、私たちの習慣ではロザリオ
を持たせます。仏教徒は数珠を持たせるのでしょうか。
さて、無宗教の方の死は?(木下あきら)

冬銀河巨体を反らすセロ奏者 遠藤玲子 「滝」1月号<滝集>

2015-01-22 04:25:18 | 日記
 巨体を反らすセロ奏者とは誰かと思っただけで楽しくなる。
学生時代チェロ弾であったので、色々巨匠の奏法を真似した
ものである。間違いなくカザルスやフルニエでなく、ロスト
ロポーヴィチの演奏スタイルである。俗に腹にチェロをおき、
床には長い曲がったエンドピンを差して、佳境になると反り
返り天を仰いでの演奏である。ロシアからの亡命を経てアメ
リカへ渡り、阪神大震災では小澤征二氏と追悼演奏をした人
へ「冬銀河」の賛辞は今も色あせない。(赤間学)