「廃業の煙突」は銭湯の煙突かと、幼い頃は何処にでもあったことと、無くなってしまったことが同時に思われました。「煙突」という言葉と「家郷」という言葉の間に桜が散っている。「散る」にある時間空間に作者を育んだ土地と家族の物語があるのでしょう。見上げる煙突も、桜も、その上の空も潤んでくるような、読み手それぞれに人生物語を思わせるような句だと思いました。私は家付き娘で望郷することはないし、否応なく継がされた稼業が好きになれず、「私にだってなりたいものがあったのよ」と、ずっと思って生きたけれど、その生きて来た時間は、愚息二人の家郷として今あるのだなあと思わせられる句だとも思いました。煙突に象徴された作者の幼い頃に戦争の思い出も淡くあるのかもしれない。両親が遮二無二生きてきた日々に愛情いっぱいに育ったからこその句と・・・。そこまで読み取る必要はないのだけれど、思ってしまう句でした。(博子)
紅梅が活けられて、壺が思わず、知らず、ほっとつく息。擬人化の句だからこそ、紅梅の美しさが存分に伝わってきますし、「手捏ね」は自分でこねて作ることですから、「我ながらいい出来だ」も代弁しているのでしょう。擬人法は意外性のある句を作れる魅力的な手法ですが安易に使うと、陳腐な句が生まれやすいと言われます。いい意味で、常識から外れた発想が必要かと思いますが「壺」には「口」あり、吐息をつかせてみる発想は梅の枝に和んでいる空気感が存分だと思いました。(博子)
今年4月、東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県気仙沼市の離島・大島と本土を結ぶ「気仙沼大島大橋」(356メートル)が開通した。本土と島の行き来は航路しかなかった大島は震災時、津波と火災が起きたが孤立状態になった。やっと救助の手が差し伸べられたテレビ映像に拍手しながら泣いたことを思い出した。 掲げた2句から被災を乗り越え、念願の橋の開通を寿ぐ気持ちが存分に伝わってきます。(博子)
東日本大震災の巨大津波にのみこまれ、赤い鉄骨だけになった南三陸町の防災庁舎。地震の直後、繰り返し「高台へ非難してください」と防災無線で呼びかけ続けていた3階建(高さ13m)の庁舎屋上を2mも上回る津波が襲い、職員43人が犠牲になった。この町は、チリ地震による津波被害、海外の地震による津波被害も発生しており、数十年に一度は津波による影響を受けてきた地域で、それゆえ、津波に対する防災意識も非常に高かったそうだが、そのような意識をもっていた町でも、東日本大震災では、想定をはるかに超えた自然の猛威に、死者・行方不明者は計832人。当時の人口4.6%が犠牲になった。いま、あたりは嵩上げ工事がされ、この防災庁舎は窪地の中にポツンと佇んでいる。「蟻地獄」と描写され、見ずとも分かる気がしますし、地獄の語感は起こったことが私たちのイメージの地獄に直接つながって惨事を伝えて来る。胸が押しつぶされるような思いがする句だ。震災遺構として保存が決まり、私も手を合わせに行きたいと思っている。防災庁舎の犠牲者だけでなく、防災庁舎を通して、東日本大震災で被災者されたすべての人に向けて・・・。
~「滝」は、3.11を忘れません~ (博子)
※18日午後10時22分ごろ、新潟県村上市で震度6強の地震がありました。
心よりお見舞い申しあげます。
まだ余震が続き、不安な気持ちでお過ごしかと思いますが、どうか気をしっかり持って、お体に気をつけて、頑張ってください。
~「滝」は、3.11を忘れません~ (博子)
※18日午後10時22分ごろ、新潟県村上市で震度6強の地震がありました。
心よりお見舞い申しあげます。
まだ余震が続き、不安な気持ちでお過ごしかと思いますが、どうか気をしっかり持って、お体に気をつけて、頑張ってください。
たんぽぽは何処にでも咲いて、春を実感できる明るい花だ。しかし身近にありすぎて、詠むのは案外難しい。人の暮らしの背景に咲いていてこその花だが、鮮やかな黄色が案外存在を主張して合わせるフレーズに難儀する。掲げる句は大きい物と取り合わせたことで、すわりの良い句になったかと思う。壁は「塗る」ではなく「作る」なので塗壁ではなさそうだ。家の完成に向けてせっせと働く人の実景に、見えないけれど、建て主さん家族の笑顔が見えるような作品だと思った。たんぽぽ効果でしょうね。(博子)