「滝」の俳句~私の心に見えたもの

220728 佐々木博子(「滝」瀬音集・渓流集・瀑声集 推薦作品より)

風鈴に一つの嘘もなかりけり 堀籠政彦

2018-08-27 05:16:29 | 日記
 風鈴の音を言葉として捉えた詩的な句。嘘は事実とは異なる言葉。「嘘」は心が言わせる。風鈴は律儀に風を伝えて鳴る。その涼やかな美しい音色に心の美しさを感じての「けり」の詠嘆。しかし、「なかりけり」である。少し怒ったようなニュアンスを感じないだろうか。「嘘も方便」ということも思い浮かぶ。風を余さず音にする風鈴が、布団の中で、暗さの中で、鬱陶しい時もある。風鈴にも強弱操作や消音をするリモコンがあったら良いなと思ったりするが、そこまで思うと「風鈴」の季語を損なってしまうだろうか・・・。(博子)

緑陰に人類学の講義かな 中井由美子

2018-08-24 05:38:22 | 日記
 講義というのだから、決して少なくない人数が思われる大きな緑陰だ。人類学とは何と難しげな講義であることか、自分が「生物としてのヒト」であることを先ずは意識しないと、この句は見えてこないのか?。人類学は、人間自身について科学的な根拠に基づいた認識を得ることが人類学研究の最終的な目的だそうだ。「分からないけれど一応人類学者の講義に頷いておくか」そんな感じだろうか。いや、そうなると緑陰というホッとする涼しさが感じられなくなってしまう。対比の句なのだろうか。私的には二人に丁度いい小さな緑陰に、「人類は発達した文化を持つ生物種だというけれど、自然に生かされているんだね」「そうね」などと、結果として「ヒトとして」ということを話した時間だと思いたい。そんな人に魅かれ、尊敬の表現としての「人類学の講義かな」であって欲しいと思う。そんな人に魅かれた人間の心を読み取っても良いのかなと思った。(博子)

トマト鈴なり昼下がりの無音 谷口加代

2018-08-22 03:56:25 | 日記
むせ返るような真夏の昼のしんとした空気が詠まれている。昼下がりには、一仕事終えてちょっとくつろぐ時間帯というイメージがあり、ほっとした中にトマトの赤が鮮やかだが心は別のところにあるのだろう。トマトは夏の季感として使われているが、望郷が思われる。「無音」という止まったような時間にすっと風が吹いて神楽鈴のように実ったミニトマトが涼やかな音をたてそうだ。それを機に、作者は身じろぎ、又、今とい時間が動き出すのだ。(博子)

老鶯に励まされつつ展望台 鈴木清子

2018-08-20 05:03:44 | 日記
 展望台までの高さは思ったよりも距離があったのか、作者のへこたれ感に老鶯が「ガンバレ ガンバレ アトスコシ」と、励ますように鳴いているというのだ。俳人でなければ、そんなふうには決して聞こえないだろう。夏の山の中で鳴く老鶯が、展望台から見える景色まで想像させる。(博子)

雷近き大きくゆるる南天竹 庄子紀子

2018-08-17 05:03:42 | 日記
 家の中にいて、雷が近づいている事を風で表現された句。もちろん、あたりは暗く、ラジオに「ザ、ザッ!」という雑音が時々入ってくる。南天の木は花南天とせず、葉が重視されており、季重ねを回避する目的以上に、株立ちが竹に似ていることから南天竹と呼ばれる「竹」の文字に、大きな風の揺れと音を託したのだろう。「窓を閉めなければ」と立ち上がり、いよいよ雷が近づいて来ている時の冷たい風を感じている作者が思われた。(博子)