「滝」の俳句~私の心に見えたもの

220728 佐々木博子(「滝」瀬音集・渓流集・瀑声集 推薦作品より)

初鰹今日も目指すは一万歩 田口令子 (7月号瀑声集) 

2010-07-31 20:07:28 | 日記
 鰹は黒潮に乗って遠州灘を越えて伊豆半島を回るころにな
ると、脂がのって美味しい初鰹として食される。脂が求めら
れる鰹と、脂肪燃焼のために歩く毎日の一万歩の取り合わせ
に思わず笑ってしまいました。
 作者は「滝」のミニ句会「蔵の会」の指導者で、歳時記の
存在さえ知らなかった私を俳句の虜にした恩人です。痩身で
すので、元気でいるための一万歩でしょう。
 「初鰹」の句は、いつもと違う顔をして「瀑声集」に載って
いました。
 「滝集」には、
       はつなつや母にもどりし阿佐緒の目
       いかり草相聞の歌風に乗る
       音持たぬ子の打つ大鼓深き春
       鎌倉の改札口の春ショール
整然とした俳句が、大きな字で載っています。(H)

真夏てう大球体と飼育員  石母田星人 (7月号渓流集) 

2010-07-30 19:20:30 | 日記
 「真夏という大球体」とは、いったいなんだろう。
 仮に真夏の開放感を大きな球体と据えたとすると、飼育員
はその球体の外にいる。開放感を味わうことのない所に飼育
員はいて、忙しく働いている。夏休みはあるのだろうか。
飼育員は動物園の生き物達にとっては「おかあさん」である。
無償の愛を注ぐお母さんに休みはない。
「真夏という大球体」と「飼育員」を並べ置くと、むしろ大
球体よりも、飼育員の存在の方が大きく見える気がした。(H)

彼は誰そ湘子の沖へ泳ぎゆく  菅原鬨也 (7月号飛沫抄) 

2010-07-29 13:29:37 | 日記
 私の師の俳句である。そして、
愛されずして沖遠く泳ぐなり 藤田湘子
は、師の師の俳句である。
 先生は、湘子先生の俳句の海へ向かって泳いでいく。
 「彼は誰そ」という、わずかな紅色を残す空の美しさは淋
しくもあり。先生は俳人として、結社の主宰として、孤独を
感じることもあるのだろうか。求められる物、求める物が大
きければ大きいほど、時としてそんな想いに至るのかもしれ
ない。湘子先生のいる沖へ泳ぐということは、目標でもあり、
大きな懐に休みたいという事でもあるのだろうか。(H)