塩釜在住の作者が、社塩竈神社の境内のある「鹽竈神社博物館」を詠んだ句。捕鯨の基地でもあった塩釜の町を表すように、館の入口前に捕鯨砲や銛、鯨の頭骨などが飾られている。「錆び」という時の流れに立止った作者が切り取った景は、「ねぢばなや」と、野ざらしであることを言いながら、この愛らしい花と、大きな、しかも、錆の顕著な捕鯨砲の対比。そして、天を目指すように咲き上る捩花と海を恋う捕鯨砲の相容れない視線(?)が、それぞれひっそりと自己主張している。読後に残る寂しさの漂いもまた秋の季感であるように思う。(博子)
梅雨の頃に咲く梔子。純白の花びらも甘い香りもいっときの安らぎをくれる花と思うが「こめかみの痛み」という肉体的変調が合わされて、「闇」が俄かに心の重苦しさを語っているように読める句だと思った。恋の句だろうか、朽ちる頃の花びらの色や、やがて生る実の赤さを思えば・・・。(博子)
主婦の夕暮時は忙しいが、山間の宿にでもいるのだろか、今日は、群青の空に目があり、星の煌めきはじめるのをゆっくり待っているようである。河鹿も美しい声で泣いていて、川音や涼やかな風も感じられる。意図なく五感が澄んでいくような感覚が何だかとっても好きな句だった。(博子)
どことなく秋めいた感じのする夜。しみじみとご自分の心と語り合うそんな時間。低く虫の声が聞こえているのだろう。羨ましいと思った。もう90歳になろうとする両親と家業を抱え忙しいばかりの私には、くたくたな夜があるばかりだ。(博子)
「師」としか記されていないが、世間から離れて山の中で鳴く老鶯という季語が、亡くなられた菅原鬨也先生を思わせるべく配されている。「ぼっこんふとき」と整えたリズムに、師の教えと、作者の修練と、師に対する尊敬を思った。尊敬してやまないのは私も同じだ。昨年の文化祭には、持っているありったけの師の色紙を飾った。詩情あふれる美しい句をたくさんの方に読んでもらいたかった。もっと長生きして頂きたかったですね。(博子)