「滝」の俳句~私の心に見えたもの

220728 佐々木博子(「滝」瀬音集・渓流集・瀑声集 推薦作品より)

新樹光土偶の女神唄ひ出す 佐藤憲一 「滝」7月号<滝集>

2015-07-29 03:12:32 | 日記
 滝吟行句会5月の山形県立博物館での吟行句である。この
土偶の姿を見て唄を歌っている姿と表現したことが面白い。
土偶の形体の口、お尻、胸、目鼻、背中等の体を詠んだ句は
多かったが、一歩進めて土偶の活動状態まで詠んだ句に新鮮
さとユーモラスな面も感じる。
 国内で縄文の土器で国宝に指定されているのは、函館市の
中空土偶、八戸市の合掌土偶、茅野市の縄文のビーナス、そ
れにこの山形県舟形町の縄文の女神の4体だけであるが、こ
の女神は現代アート作品かと思うほど、素人の私から見ても
異質に感じられる。我々は国宝と言うレッテルが貼られて初
めてその価値を認めることになるが、国宝と判定するまでの
関係者の識見と判断能力には頭が下がる思いだ。(梅森 翔)

小面の口元うごく夏の月 庄子紀子 「滝」7月号<滝集>

2015-07-28 05:17:54 | 日記
女系の能面に小面、深井、増髪、若女等の種類があり、そ
の中で小面は12歳から15歳位までのあどけなさを内に潜
めたかれんな若い能面である。能面は見る角度により表情が
変わり人間の喜怒哀楽をも微妙に顕すことができるから不思
議である。さて作者はこの能面が煌々と輝く夏の月光に照ら
されて、どのような言葉を発していたのを感じたのか判らな
いが、作者の深層心理に結びついていることには違いない。
 たまたまこの原稿を書いている時、NHKのBSプレミア
ムの映画で「河内山宗俊」を見た。1936年、山中貞雄監
督のメガホンによる白黒の映画である。なんとあの伝説の女
優、原節子の16歳のデビュー作品でもある。キャッチフレ
ーズが「すべての無頼の男たちが死んでもよいという」清純
で可憐な役である。小面と原節子がだぶって脳裏からはなれ
ない。(梅森 翔)

子は嫁してきれいな日傘残りけり 浅野 稜 「滝」7月号<滝集>

2015-07-27 04:27:50 | 日記
 娘を嫁がせた男親の安堵感と寂寥感がこの句から読み取れ
る。一年前に私も経験したからその感慨にふけることができ
る。俳句では「きれいな」などの形容詞の使い方が難しい。
でもこの句の「きれいな日傘が残りけり」となると、寂寥感
を強調して私には言葉として生きていると思う。
 最近の若者の晩婚化進んでおり同年輩の親達は頭を悩まし
ている方が多い。テレビ等の映像の影響でお互いに選ぶ相手
の理想が高いのか、男女同一賃金等で女性の経済力の自立化
が進んでいるのか、男女間の距離が縮まり過ぎてお互いにベ
ールが無くなりお互いの魅力を感じられなくなったのか、私
には分からない。(梅森 翔)

学帽の白線二本青あらし 鈴木三山 「滝」7月号<滝集>

2015-07-26 05:39:53 | 日記
 この句を詠んで60年前の高校時代が蘇ってきた。当時の
仙台市内高校生は当然共学でなく、男子学生は通学以外にも
どこに行くにも学生帽を被っていた。蛇腹の入った帽子に蛇
の校章のS商業、白線に警察署まがいの校章のN高、白線は
ないが竹に雀の校章のS高校など一番町で逢っても直ぐに在
籍の学校が分かった。高校入試合格者の発表の新聞の広告に
「被れば分かるI店の帽子」が必ず掲載されていた。現在共
学になり制服はあるものの、学帽を見かけることはほとんど
ない。帽子屋さんも学帽の売り上げが期待できず商売が出来
ないことであろう。作者の出身のK高校はどんな校章だった
のか知らないが、「青あらし」の季語で青春の一ページを回
顧しているのに違いない。(梅森 翔)

裂帛の面の相打ち卒業す 加川則雄 「滝」7月号<滝集>

2015-07-25 04:19:54 | 日記
 面の相打ちとなれば、すぐに剣道を思うが、長刀にも面を
打つ技はある。裂帛というのも辞書によれば「帛(きぬ)を
引き裂く音。また、そのように鋭い声」とあるから、どちら
を思い描いても、絵になる場面である。きょうの立ち合いを
最後に、お互い卒業するという。学生であればこれからの社
会生活に思いを馳せ、武道家であれば、長かった一筋の人生
への感懐と、充実感だろうか。
 礼に始まり、礼に終わる、と言われる武道を身に着けた人
には、背筋の伸びた、清廉な日々が待っていることを念じ、
拍手を送りたい。(小林邦子)