「滝」の俳句~私の心に見えたもの

220728 佐々木博子(「滝」瀬音集・渓流集・瀑声集 推薦作品より)

木犀に働く髪をほどきをり 成田一子

2017-10-31 05:59:15 | 日記
 自分が自分に戻る。そんな瞬間が詠まれている。目を閉じて木犀の香を胸いっぱいに吸い込みながら、手は仕事の邪魔にならないように結わえていた髪のゴムを外す。この解放感は私も髪が長いので良くわかる。朝の化粧も、きっちり髪を結わえることも、否応なく家業を継がされた私の日々の戦闘準備のようなものだ。働くための武装に心も従ってくる。
 木犀に犀の字が当てられたのは幹の模様が犀の皮に似ているためだそうだ。「犀の角」を思った。季語はこれでなくてはならなかったのだ。自分は自分をやめることはできない。ただ独りの存在として「働く」のだ。それは「滝」の主宰として、という事なのかもしれない。角はただ一つだけ。しかし、決して一つだけでは有り得ない。自己と他己が一つの如く・・・、そんな感じがした。(博子)

太陽に焼かれのうぜんかづら落つ 加藤英子

2017-10-28 12:36:26 | 日記
 「太陽と凌霄花」の組合せに「紫陽花と書いたら雨も一緒見えるから雨は書かなくていい」と言っていた師の言葉を思いだし、少々の?を抱きながらも、地に散り敷く凌霄花から、視線は咲き昇る花を見上げ、苦しいような眩しさの太陽に目をそらす。そして、またポロリと落ちる花に「焼き切られた」と、太陽の仕業とした感受は褒められて良い。ミニ句会で一緒に勉強している作者の、言葉を使う力はいつも意表をついて楽しい。(博子)

巻き上ぐる有平棒や新走 及川源作

2017-10-25 04:54:24 | 日記
かつてお酒は自家製で収穫後の米をすぐ醸造した。これを「新走」と言う。その年のブドウで造られた出来立ての新酒であるボージョレ・ヌーヴォに似たかんじだろうか。今、酒造は免許制で、無免許で製造すると罪に問われる。そんなこともあり、あまり使われなくなった季語だが、馴染みの床屋さんとの昔語りだろうか。酔いという体感を有平棒に例えてあるようにも思えて面白い。(博子)

飛石の二手に分かれ秋の風 中井由美子

2017-10-20 05:19:52 | 日記
 晩翠草堂と題された五句の中の句。仙台市の青葉通りにあり、何度もその前を通りながら、入口にある「天地有情」と刻まれた自然石に足を止めることはあっても中に入ったことがなく実景と思われる飛石を知らないが、二手に分かれていた事で立ち止まり、感じた「秋の風。」古来より幾多の名歌・名句でうたわれ、肌に馴染みの感覚。それは、土井晩翠への馴染ともとれるかと思った。たぶん知らない人のいない「荒城の月」もさることながら、たくさんの校歌を作詞している。私の小学校も「大崎耕土東南の隅に位し万頃のゆたかの実見るところわが松山のうましさと里は学舎あるところ」と、意味も分からず丸暗記して歌ってきた校歌が今も歌われている。「馴染む」というよりは、晩翠を敬い、大切にする思いが織り込まれている「親しさ」を感じる句でありました。(博子)