家業が農機を扱っているので、稲作農家の薄利事情をよく知っている。それだけに労力にあわない田圃を継ぎ、守ろうと決心した父への敬愛を思った。今年も田圃にあったはずの父の姿は遺影となって一緒に田植えをしている。「おやじ、これでいいのか」と語りかけながら・・・。お父様のお米の味の再現が成せるといいですね。(博子)
いたずらに抜いて、十薬の臭気に責め立てられるような「百のこゑ」という表現に、凄まじい繁殖力や、湿った土が纏わりつく歩き難さまで感じられるようだ。私にとっては、祖母が煎じて飲むためのどくだみ取りを手伝った思い出のニオイ。(博子)
子供達が独立し、夫婦だけのゆったりした暮しの、朝の一場面。別々という個々を尊重しながら、知りつくし、知られ尽くした夫婦の年月に今年も豆の飯が湯気を立てている。それはまた、それぞれの母の焚いてくれた豆の飯の思い出にも繋がっていく。共有できないこともあるけれど、夫の好きな豆御飯を夫の為だけに作る今が楽しそうだ。(博子)
妙齢の女性が思われ、確かな映像として天真爛漫な姿が見えてくる上五中七のフレーズから、遠野の姥捨て伝説のでんでら野への驚きの着地。強い切れで時間を飛んで、現在と過去を言っているようで、やがて確実にやってくる老いをも思わせてくるが、「姥捨て」の対象になった60歳という年齢は、現在80歳を越す平均寿命や、百歳以上が六万人を越えた事などから考えれば、日傘を回しているのは必ずしも若い女性ではないのかもしれない。それこそ60歳代の元気な女性たちと思えば、「捨てられる」事は、きっぱりと切り離されて太陽のしたに明るいのだ。「60歳」をキーワードとして今が詠まれた作品かも知れない。(博子)
田植を終えてまもない田圃は、苗が動かないように田水が満々と張られ、光を集め、風をすべらせ、青い空を映している。「平野」と記したことで、視線が少し高い所にあることを窺わせる。その広大な田圃の風景は「海原」と表現されなんと美しい水鏡であることか。夕焼け時も見てみたいですね。(博子)