六文銭は安土桃山時代の武将真田幸村の旗印。幸村は関が
原の戦、冬の陣、夏の陣で豊臣方に加勢、卓越した指揮官と
して武威をあげた。籠城して徳川の大軍を退けた戦はつとに
有名であるが、作者は幸村の居城長野の上田城址を訪れたの
だろうか。以前私は善光寺の御開帳に合わせて観光。小布施
や軽井沢を巡って上田へも行った。千曲川右岸の断崖の上に
築かれた城は桜の名所城址公園となって東の櫓門には六文銭
の旗が幾本も掲げられていたが、今も旗めいているのだろう。
西軍の幸村は関が原の戦後34歳から15年間も高野山に蟄居さ
せられていたと聞く。この句の揚羽蝶は、遂に戻れず夏の陣
で戦死した男盛りの幸村の化身のように思えてならない。
「蔵王は幸村の郷」という風聞を耳にしたのでネットで検索。
はたして<仙台真田家>が存在していた。幸村の嫡子は父と
共に討ち死にしたが、二男守信は姉阿梅の夫である仙台藩白
石城主片倉重長に匿われるという幸運があった。守信は長じ
て伊達家の家臣となり、現在の宮城県刈田郡蔵王町東部一帯
に300石の領地を与えられた。以降真田幸村の血筋を継承。
<仙台真田家>として血脈を今に伝えている。現在は11代目
というが、詳細は蔵王町が把握しているはずである。(あいざわ静子)
原の戦、冬の陣、夏の陣で豊臣方に加勢、卓越した指揮官と
して武威をあげた。籠城して徳川の大軍を退けた戦はつとに
有名であるが、作者は幸村の居城長野の上田城址を訪れたの
だろうか。以前私は善光寺の御開帳に合わせて観光。小布施
や軽井沢を巡って上田へも行った。千曲川右岸の断崖の上に
築かれた城は桜の名所城址公園となって東の櫓門には六文銭
の旗が幾本も掲げられていたが、今も旗めいているのだろう。
西軍の幸村は関が原の戦後34歳から15年間も高野山に蟄居さ
せられていたと聞く。この句の揚羽蝶は、遂に戻れず夏の陣
で戦死した男盛りの幸村の化身のように思えてならない。
「蔵王は幸村の郷」という風聞を耳にしたのでネットで検索。
はたして<仙台真田家>が存在していた。幸村の嫡子は父と
共に討ち死にしたが、二男守信は姉阿梅の夫である仙台藩白
石城主片倉重長に匿われるという幸運があった。守信は長じ
て伊達家の家臣となり、現在の宮城県刈田郡蔵王町東部一帯
に300石の領地を与えられた。以降真田幸村の血筋を継承。
<仙台真田家>として血脈を今に伝えている。現在は11代目
というが、詳細は蔵王町が把握しているはずである。(あいざわ静子)