「滝」の俳句~私の心に見えたもの

220728 佐々木博子(「滝」瀬音集・渓流集・瀑声集 推薦作品より)

勝鬨をあげてちりぢり稲雀 渡辺民子<瀑声集>

2016-11-30 04:47:52 | 日記
 秋晴れの風になびく黄金色の稲穂が美しいが、ここに生じる人と雀の戦い。最近は騒音になる雀脅しは使われず、昔ながらの案山子や、反射テープ、巨大な目玉のボールなどを見るばかりである。見回りに来た農夫であるが多勢に無勢。思えば雀の石高のなんと膨大なことか。空に散る雀の鳴き声を勝鬨とした柔軟な連想の妙を思った。
 亡くなられた鬨也先生の「鬨」の字が使われたことが大いに嬉しくもあった。(博子)


竜淵に潜み乱るる心電図 渡辺登美子<瀑声集>

2016-11-29 05:17:13 | 日記
中国後漢時代の字典に「竜は春分にして天に昇り、秋分にして淵に潜む」とあるのを典拠に生まれた季語「竜天に昇る」「竜淵に潜む」。この想像上の季語を病気の兆候を読み取ろうとする心電図検査という現実の景に引き寄せて詠まれている。病気発見の手がかりとしてよく用いられているが、何やら、潜む恋心が心電図に現われているように読めるのは私だけだろうか。(博子)

三井寺の晩鐘蛇は穴に入る 鈴木幸子<渓流集>

2016-11-27 04:34:26 | 日記
三井寺の晩鐘には下記のような物語が存在する。
<昔、近江の滋賀の里にすむ一人の若者が魚を売って暮らしていた。いつ頃からか美しい娘が漁に出る若者を見送るようになり、やがて二人は夫婦になる。ところが、子供まで生まれたある日、女は自分が琵琶湖の竜神の化身であり、もう湖にもどらねばならないことを告げ、男が止めるのにもかかわらず湖へ沈んでしまった。男は昼間はもらい乳をして子を育て、夜は浜へ出て呼び、現われた妻が乳を飲ませて去ってゆくという毎日であったが、ある時、妻は自分の右の目玉をくり抜いて乳の代わりにと渡す。子供は目玉をなめると泣きやんだが、しばらくしてなめつくしたので、浜に出て今度は左の目玉をもらってやる。その時妻は、両目が無くなって方角もわからないから、毎晩三井寺の釣鐘をついてくれ、それで二人の無事も確かめられるので──と頼む。それから毎晩、三井寺では晩鐘をつくようになったという。(『近江むかし話』)>
 盲目の竜神のように、真っ暗な地中に冬眠する蛇も、晩鐘に日を数えて、春を待っているのかもしれない。(博子)

父に似る羅漢かりがね渡るなり 庄子紀子<渓流集>

2016-11-26 04:43:34 | 日記
五百羅漢には、会いたい人の面影や顔が必ず見つかると言われています。お父様にそっくりの羅漢様が笑っていらっしゃる気がするのは、笑顔を絶やさない作者のお顔が浮かんでくるからに他ならないのですが、もう雁が渡って来ています。野外にある羅漢様のこれからの寒さに心が置かれているようです。去りがたく空に目をやる作者が思われました。(博子)

梨食べて遠くの音がよく聞こえ 遠藤玲子<渓流集>

2016-11-25 04:34:03 | 日記
食べたからと言って耳の聞こえが途端に良くなるはずはないが、シャリシャリ梨を食べて秋を感じる。秋澄みの感じを梨に託したのだろう。大陸上空の乾燥した冷たい空気が流れ込み、遠くまで澄みわたる。水も澄み、目に映るものだけでなく、ものの音も澄んで響くように感じられる。すっと納得させられる句。(博子)