こんな景がまだあったのかとほっこりする。季語を信じて託した景の切取が、空気感や、子供の動きや声、夢中になって遊んでいる時間までも想像させる。実は私にもあった。そのままランドセルを忘れて、宿題を書く夕方にやっと気が付いて、ワーッと大泣きして父が探しに行ってくれた事が・・・。我が家は小学校の近くにあるが低学年は舗道を「子ども見守り隊」のジャンパーを着た大人が付き添って帰って行く。その光景も又話しながら楽しそうではあるが「背負っていたランドセルをとうとう降ろして」という道草には成り得ない。だからこそ魅かれた句なのかもしれない。(博子)
暦の上ではこの日から春になるが気温はまだまだ低い。そんな中に春の兆しを感受して詠むのだが、「児の歩き出す」と言う始動は、直球かと思わせて、軌道は変化し「地球かな」とミットに収まる。まるで地球外生命の目線で詠まれたかのような作品で大いに楽しかった。(博子)
「竜天に登る」は中国の古代伝説からの季語で春分の頃に天に登り雲を起こし雨を降らせる。好きな季語だが詠むのは難しい。「登る」と、「降らせる」という、上下の縦の線が強く私を支配して、物を入れる余地を阻む感じがするのであるが、掲句は洗った筆を干す為に使用される筆架で、「書」の起源もまた中国であることに呼応させ、地軸の傾きが季節の移り変わりをもたらしていることを含みながら、地軸という斜めの線を敢えて干された筆の斜線として見せてくる。それは竜が天に登るときに起きる風に吹かれて若干なびいた瞬間をとらえているようにも読めて、竜の可視化に繋がってくるように思った。(博子)
さっきまで支配されていた想いから解き離してくれたのは、ふと目をやった山。冬晴れの空に遠い冠雪の山が美しい。躓いていた答えは、考えれば考えるほど出なくなる。「流れに任せよう」と、リセットさせてくれた遠雪嶺。私もそんな事が多くなってきている。事の結果を予測して動きが取れなかったり言葉に出来なかったりという躊躇は生きてきた経験が無意識に働くからだろうか。しばし、本気で自分を振り返った。(博子)
「蜷の道」への讃頌句。浅く陽光の届く水底にたくさんの蜷の這い跡がグニャグニャと現代アートのようである。蜷は生きる為に餌を獲っているだけなのだが、前衛芸術家である草間彌生の画を観た感動と同等に置かれている。草間彌生は、ファッションデザインや小説執筆など多才な活動を行っている。代表される水玉模様の作品を背景に、赤いおかっぱ頭で撮られた写真は作品のビジュアルに負けない強い印象で私の中にある。蜷の道にこれほど感動できる作者こそ素晴らしい。(博子)